安全な場所から出られない
カウンセリングルームに入ってきたサキさんは、どこか緊張した面持ちだった。椅子に座ると、バッグを膝の上に置いたまま、小さな声で話し始めた。
「あの...今の仕事、別に嫌いじゃないんです。給料も悪くないし、人間関係も普通で...」
サキさんは言葉を選びながら、ゆっくりと話す。
「でも、なんというか...このままでいいのかなって。最近、毎晩そればっかり考えちゃって」
ダイキ「毎晩、ですか」
「はい。布団に入ると、頭の中でグルグル...朝起きると、また同じ一日が始まって。気づいたら32歳になってて...」
サキさんの声が少し震えた。
ダイキ「『このままでいいのか』って、具体的にはどんなことを考えているんですか?」
サキさんは少し考えてから、答えた。
「実は...興味のある仕事があるんです。でも、今の会社を辞めなきゃいけなくて...」
彼女は一呼吸おいた。
「失敗したら、どうしようって」
失うものを数え続ける日々
ダイキ「失敗したら、何を失うと思いますか?」
サキさんは即座に答えた。まるで、何度も何度も自問してきたかのように。
「安定した収入...社会保険...今の生活...全部失います」
彼女の声には確信があった。
ダイキ「全部、ですか」
「そうです。新しい仕事がうまくいかなかったら...もう戻れないじゃないですか。年齢も年齢だし。それに、周りからも『なんで辞めたの』って言われそうで」
サキさんは、失うもののリストを暗唱するように続けた。
ダイキ「サキさん、今、失うもののことばかり話していますね」
「え...?」
「得られるものについては、考えたことありますか?」
サキさんは黙り込んだ。そして、ゆっくりと首を横に振った。
「...考えたことないです。考えても、怖くて」
その瞬間、サキさんの目に涙が浮かんだ。彼女は慌ててハンカチを取り出した。
ダイキはしばらく沈黙を保った。サキさんが涙を拭き、少し落ち着くのを待った。
ダイキ「怖いんですね」
「はい...すごく」
不安の正体
数分の沈黙の後、ダイキは静かに尋ねた。
ダイキ「サキさん、何が一番怖いんですか?」
サキさんは天井を見上げた。そして、小さな声で答えた。
「...失敗することです。新しいことに挑戦して、ダメだったら...自分がダメな人間だって証明することになる気がして」
ダイキ「新しいことに挑戦しない今の状態は、どうですか?」
「...安全です。失敗することはないから」
ダイキ「失敗することはない、ということは?」
サキさんは少し考えた。
「...成功することもない、ってことですね」
彼女は自分で言った言葉に、はっとした表情を見せた。
ダイキ「実は、不安って悪いものじゃないんです」
「え?」
「適度な不安は、私たちに準備をさせてくれます。『うまくいくかな』って心配するから、しっかり計画を立てたり、努力したりする。不安がまったくない人は、準備不足で失敗することが多いんです」
サキさんは興味深そうに聞いていた。
ダイキ「サキさんが毎晩考えているのは、実は脳が『準備しなさい』って言ってるのかもしれません」
「準備...」
小さく試すという選択
ダイキ「ところで、新しい仕事って、今すぐ会社を辞めないとできないものなんですか?」
サキさんは考え込んだ。
「...そういえば、副業みたいな形で始められるかも」
「それなら?」
「失敗しても、今の仕事は残ります...」
サキさんの表情が少し明るくなった。
ダイキ「全部か、ゼロか、じゃなくて、中間の選択肢もあるかもしれませんね」
「そうですね...なんで、そう思い込んでたんだろう」
サキさんは不思議そうに自分の手を見つめた。
ダイキ「人って、大きな決断を前にすると、『やる』か『やらない』かの二択で考えがちなんです。でも実際は、もっといろんな選択肢がある」
「小さく試す、とか」
「そうです。小さく試してみて、手応えを確かめる。それから次のステップを考える」
サキさんは深く息を吐いた。肩の力が抜けたように見えた。
「なんか...急に現実的な気がしてきました」
なぜ、何を
ダイキ「サキさん、なぜ新しいことに挑戦したいんですか?」
サキさんは目を閉じて考えた。
「...たぶん、成長したいからです。今のままだと、5年後も10年後も同じことをやってる気がして」
「成長したい、ということは?」
「自分の可能性を試したい...かな。こんなこともできるんだ、って自分で確かめたい」
彼女の声に、少しだけ力が戻ってきた。
ダイキ「それが『なぜ』ですね。では、『何を』するか、具体的に考えたことは?」
「具体的...」
「たとえば、まず何から始めますか? 今日から1週間以内にできることは?」
サキさんは考え始めた。今度は、失うもののリストではなく、できることのリストを。
「...まず、その分野の勉強を始める。本を3冊読んでみる。あと、実際にその仕事をしている人の話を聞いてみる」
「それなら、今の生活を変えなくてもできますね」
「はい...できます」
サキさんの表情が、セッションの最初とはまったく違っていた。
失敗の想像
ダイキ「あと一つ、やってみてほしいことがあります」
「はい」
「最悪の失敗を、具体的に想像してみてください」
サキさんは少し戸惑った表情を見せた。
「想像...ですか?」
「はい。副業で始めてみて、うまくいかなかった場合、何が起きますか?」
サキさんは真剣な顔で考え始めた。
「...使った時間が無駄になる。少しお金も使うかも。周りに話してたら、恥ずかしい」
「それで?」
「...それで、終わりです」
彼女は自分で言って、少し笑った。
「なんか、想像したら大したことないですね」
ダイキ「失敗して失うものを、ちゃんと見てみると、意外と許容範囲だったりします」
「そうですね...命を取られるわけじゃないし」
「今度は、その失敗から何を学べるか考えてみてください」
サキさんは目を閉じた。
「...自分に合わないことがわかる。次はもっといい方法が見つかるかも。あと、挑戦したっていう経験は残ります」
「失敗しても、ゼロにはならないんですね」
「はい...むしろ、何もしないよりは」
偶然を必然に変える
ダイキ「実は、人生で起きるいい出来事の多くは、偶然じゃないんです」
サキさんは不思議そうな顔をした。
「偶然じゃない...?」
「好奇心を持って、実際に行動を起こして、新しいことに挑戦する人には、『偶然』が多く訪れます。でもそれは、その人が偶然を引き寄せる行動をしているから」
「ああ...」
サキさんは何かに気づいたような表情を見せた。
「友達で、すごくチャンスに恵まれてる子がいて。羨ましいなって思ってたんです」
「その人、いろんなことに挑戦してませんか?」
「してます...セミナー行ったり、人に会ったり、いつも何かやってる」
「偶然に見えることも、実は本人が動いているから起きているんです」
サキさんは大きくうなずいた。
「私、待ってるだけだったかも」
「待っていても、何も変わらないかもしれませんね」
「はい...動かないと」
今日から始める一歩
セッションの終わり近く、ダイキは尋ねた。
ダイキ「今日の対話で、何か気づいたことはありますか?」
サキさんはしばらく考えてから、ゆっくりと話し始めた。
「私、失敗することばかり考えて、怖がってました。でも、小さく始めればいいってわかって...なんか、気持ちが楽になりました」
「他には?」
「失敗しても、命を取られるわけじゃない。むしろ、何もしない方が後悔する気がします」
彼女の声には、確信があった。
ダイキ「これから、どうしますか?」
「まず、今週中に本を買います。あと、その分野で働いてる人を探して、話を聞いてみます」
「具体的ですね」
「はい。小さく、でも確実に」
サキさんは立ち上がると、今日初めて本当の笑顔を見せた。
「今日、来てよかったです。ありがとうございました」
ダイキ「これからが本当のスタートですね」
「はい...ちょっと怖いけど、楽しみです」
サキさんはカウンセリングルームを出ていった。彼女の背中は、来た時よりも少しだけまっすぐだった。
【振り返り】
リスクを取ることへの恐れ。それは多くの人が抱える感情だ。
サキさんは、失うものばかり数えていた。それは、防御的な思考パターンだ。確かに、失うものを意識することは行動を促すこともある。でも、それだけでは動けない。
大切なのは、バランスだ。
失うものと得られるもの。全部か、ゼロか、ではなく、中間の選択肢。大きな決断ではなく、小さな実験。
そして、不安は敵ではない。不安があるから、私たちは準備をする。完全に不安がなくなることを待っていたら、一生何も始められない。
偶然は、待っていても訪れない。好奇心を持ち、行動を起こし、新しいことに挑戦する人の元に、偶然は訪れる。それは偶然ではなく、必然だ。
サキさんが、小さな一歩を踏み出せますように。