「もう少し頑張れば」が消えた日

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復職のための準備、のはずが

ダイキのカウンセリングルームに、彼女は少し緊張した面持ちで入ってきた。手には分厚い資格のテキストを抱えている。

「こんにちは。お疲れ様です」

ダイキが穏やかに声をかけると、彼女は小さく頷いて椅子に座った。

「あの...今日は、勉強が全然進まなくて困ってるんです」

彼女の声には焦りが滲んでいた。

「勉強が進まない、ですか」

ダイキは繰り返した。

「はい。休職して3ヶ月経つんですけど、このままじゃダメだと思って。復職するときに少しでも武器があった方がいいと思って、資格の勉強を始めたんです。でも...」

彼女は言葉を詰まらせた。

「でも?」

「全然、頭に入ってこなくて。午前中はぼーっとしてて、午後にやっと机に向かっても、気づいたらスマホ見てたり。夜は焦って勉強しようとするんですけど、もっと集中できなくて...」

そう言いながら、彼女の目には涙が浮かんでいた。

ダイキは少し間を置いてから、ゆっくりと尋ねた。

「今、何時間くらい寝てますか?」

「え...5時間くらい、ですかね。夜なかなか寝付けなくて」

「そうですか。ちなみに、休職する前はどんな生活でしたか?」

「頑張らなきゃ」の正体


彼女は少し考えてから話し始めた。

「朝7時に家を出て、夜は...早くて21時、遅いと23時過ぎでした。週末も付き合いがあったり。でも、みんなそうだし、私だけ弱音を吐くわけにはいかなくて」

「それを、どのくらい続けてたんですか?」

「入社してから...ずっと、ですね。数年間」

ダイキは静かに頷いた。

「倒れたのは、いつ頃でしたか?」

「数ヶ月前です。朝起きたら、体が動かなくて。涙が止まらなくて。それで...病院に行って、休職することになりました」

彼女は小さな声で言った。そして、また焦ったように付け加えた。

「でも、もう3ヶ月も休んでるんです。そろそろ復職しないと。だから、せめて資格の一つくらい取っておかないと」

ダイキはゆっくりと質問した。

「資格を取ろうと思ったのは、誰かに言われたんですか?」

「いえ...自分で、決めました。このままじゃダメだって」

「このままじゃダメ、というのは?」

彼女は少し戸惑った表情を見せた。

「...何もしてないじゃないですか。休んでるだけで」

エネルギーが回復しない理由


ダイキは少し前のめりになって、丁寧に言葉を選んだ。

「一つ、お聞きしてもいいですか。今、資格の勉強以外に、何かしてますか?」

「あ、はい。ジムにも通い始めました。体力つけないとって思って。あと、友達に誘われて旅行にも...でも、旅行から帰ってきたら、余計に疲れちゃって」

彼女は自嘲気味に笑った。

ダイキは静かに頷いて、こう切り出した。

「少し、例え話をしてもいいですか?」

「はい」

「スマホのバッテリーって、充電しながら使うと、なかなかたまらないですよね」

彼女は頷いた。

「今のあなたは、バッテリーがほぼゼロの状態なんです。でも、充電しながら、勉強したり、ジムに行ったり、旅行したり...つまり、同時に放電もしてる。だから、いつまで経っても充電が完了しない」

彼女の表情が、少しずつ変わっていった。

「メンタル不調の本質って、エネルギーの低下なんです。回復には、エネルギーの補給がエネルギーの消費を上回る状態を、しばらく維持する必要がある。でも...」

ダイキは言葉を選んだ。

「多くの人は、休んでる時間を『有効に使いたい』って思うんです。成長したい、充実させたい、って。でも実は、それが回復を遅らせてる」

彼女は黙ってダイキを見つめていた。

「楽しいことなら、いいんじゃないかって思いますよね」

ダイキが続けた。

「でも、楽しいことも、エネルギーは使うんです。その時はいい気持ちでも、後から疲れが遅れてやってくる。特に、メンタル不調のときは、いつもより疲れやすい状態になってる。だから...」

彼女の目に、また涙が浮かんでいた。でも、さっきとは違う涙だった。

「何もしない」という勇気


しばらく沈黙が流れた。

彼女が、小さな声で言った。

「じゃあ...私、何をすればいいんですか」

ダイキは優しく答えた。

「何もしない、です」

「...え?」

「正確には、刺激を減らして、ひたすらエネルギーを充電する。それだけ」

彼女は戸惑った表情を見せた。

「でも、それって...怠けてるのと同じじゃないですか」

「そう感じますか?」

「はい。だって、何も成長してないし、何も得るものがないし」

ダイキは静かに尋ねた。

「充電は、成長じゃないですか?」

彼女は言葉に詰まった。

「回復って、毎日目に見える変化があるわけじゃないんです。楽しくないかもしれない。成長感も感じられないかもしれない。でも、その状態を維持しないと、エネルギーは回復しない」

ダイキは続けた。

「これを、『時間を味方にする』って言うんです」

「時間を...味方に?」

「はい。時間が経てば経つほど、エネルギーが増えていく状態を作る。そのためには、エネルギーの補給が消費を上回る状態を、とにかく維持することなんです」

離れる、休む、そして工夫する


彼女は深くため息をついた。

「でも...どうやって?」

ダイキは穏やかに答えた。

「まず、三つの原則があります。一つ目は『離れる』」

「離れる?」

「はい。ストレスの原因から、時間的にも物理的にも心理的にも、距離を取る。あなたの場合、『復職しなきゃ』『資格取らなきゃ』『頑張らなきゃ』という考えから、まず離れることです」

彼女は少し苦しそうな表情を見せた。

「二つ目は『休む』。充電に専念する。刺激を減らして、ゆっくり湯船に浸かったり、深呼吸したり。ニュースやSNSも、しばらく見ない」

「三つ目は?」

「『工夫する』。でも、これは一番最後です。多くの人が、工夫することから始めてしまう。ヨガとか、呼吸法とか。それ自体は素晴らしいことなんですけど、離れることと休むことができてないと、効果は限定的なんです」

彼女は黙って聞いていた。

ダイキはゆっくりと続けた。

「この順番が、とても大事なんです」

本当の橋渡し


しばらくして、彼女が口を開いた。

「でも...何もしないって、怖いんです」

「怖い?」

「はい。このまま、何もできない人間になっちゃうんじゃないかって」

ダイキは優しく首を振った。

「充電してるんです。何もしてないわけじゃない」

「でも、会社の人とかに、どう思われるか...」

「それも、エネルギーを使う考えなんです。今は、他の人がどう思うかより、自分のエネルギーを回復させることが最優先」

彼女の目から、また涙がこぼれた。でも、今度は少しだけ、ほっとしたような表情だった。

「もう少し...頑張らなくていいんですか?」

ダイキは静かに答えた。

「頑張らなくていいんです。というか、今のあなたは、十分すぎるほど頑張ってきた。だから、今は休む番なんです」

彼女は両手で顔を覆って、しばらく泣いていた。

ダイキは何も言わず、ただ静かにそこにいた。

泣き止んだ彼女が、小さな声で言った。

「...ありがとうございます」

「いえ。じゃあ、今週は何か一つだけ、やめてみませんか?」

「やめる...?」

「はい。資格の勉強、ジム、SNS、ニュース...何でもいいです。一つだけ、やめてみる」

彼女は少し考えてから言った。

「...資格の勉強、やめてみます」

「いいですね。それで、その時間は何もしない。ただ、ぼーっとしたり、ゆっくりお茶を飲んだり」

「それだけ...ですか?」

「それだけです」

それから


彼女が帰った後、ダイキは窓の外を見ながら考えた。

社会復帰への橋渡し。それは、急いで向こう岸に渡らせることじゃない。

まずは、今いる岸で、しっかりと足元を固めること。

そして、その人のペースで、一歩ずつ歩き始める勇気を、一緒に見つけていくこと。

橋渡しをする存在とは、急かす人じゃない。

一緒に立ち止まって、「今はここにいていいんだ」と伝えられる人なのかもしれない。


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