気楽に読んでください、呼吸のおはなし ~その98~

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このブログをお読みくださっている皆さま、いつもありがとうございます。
本日もどうぞ宜しくお願い致します。
もう直ぐ100回です。
えらいもんで数字も100を数えると少し考えます、これを一区切りとして止めるか、ほんの少しモデルチェンジするか、飄々と同じ感じで続けるか。
何れにしましても100回とは言え、このように狭い範囲での自己満足以外の何物でも無く、さして重要でもありませんが。
昨日は改めて脊柱の伸びやかなエネルギー、その方向性の大切さに付いて書かせて頂きました。
呼吸を修行のアイテムとして使用することがあるとして、その時に、修行=(イコール)我慢、のようになってしまって、息を長く止めるなどすることに加えて、エネルギーを健全に外へと流さず内側に鬱滞鬱積させることは非常に危険です。
そのような世界観が異常なまでに度を越してしまうと、意識的にそのような、" 蓋をした状態・閉じた状態 " を作り出して、例えば見える筈の無いものが見えてしまうとか、人を思い通りに操ったりとか、本末転倒といった言葉では済まされないことも起こり得ます。マインドコントロールや暴走も、こんなところから徐々に始まることは史実として証明されてしまっています。
肩肘張って頑張っていると、自分の足元が既に覚束無くなっていることに気付き難くなり、膝も緩ませずに踏ん張っていると、しっかりと地面に立っているようでいて中身は " 虚(きょ) " である、そんなことはよく起こるのです。
そこでもしも疲弊し、ある一定の限界を感じて自分以外の何かに頼ることがあったとして、その頼った先の性質がどんなものであるか、それが重要になって来ます。
本当に頼るべき先とは、頼りがいは勿論あるけれども、決して依存としての焦げ付きを起こさせないものです。
いつかは再び自分の足(脚)で立ち上がって歩み出すこと、その日をじっと待ってサポートしてくれる存在です。
もしもその本人の深淵なる課題が、根底からの本当の意味での一人立ちであるのだとしたら、場合によっては、例え最後は喧嘩別れのような演出になったとしても、それすら厭わず巣立ちさせてくれるような存在、それに辿り着けるかは非常に重要です。
そして、昨日お伝えしたように、この一人立ちの意味内容が、ガラリと変わっているかどうかもこれと同じかそれ以上に重要なこととなります。
元気が回復するまでサポートして、また以前と同じような頑張り方のままで送り出せば、次はもっと酷い状態で戻って来てしまうでしょう。
これでは依存の度を深めるばかりです。
これまでの " 自分 " の頑張りを全て脱して、デトックスのような積もりで手放して、その後に残る、こんなにもごっそりと何もかも捨てたのにそれでも残るもの、それでもそこに存在している不思議、立てている自分、そんな身として歩み出させてくれる存在、そういうのが、肝心な時に頼ってみるべき存在です。
これは、お医者さんでも、先生や師と呼べる方でも、先輩とか上司、親友とか、カウンセラーとか心理士、宗教家とか、占い師とか、近所のオッサンやオバハンでも、表面上の名義や関係性、呼び名や肩書は色々と違っても、本物はきっとその中身に共通の何かを持っているものです。
普段からほんの少しでも、自分の努力や頑張りとは違う、努力や頑張りがあるからこそそれが壁になって触れられない取り出せない真の自分、虚(きょ)では無い " 実(じつ) " の自分に予備的にでも知り合いになっておけば、肝心な時、人生の転機などで、出会うべき人との波長・周波数もきっと合い易くなるのではないでしょうか。
とにかく、呼気と共に伸びる脊柱、自身の中心軸を貫くエネルギー、この方向性や伸びやかさは、自分の中で可能な範囲でよく味わって大切に育んであげてもらいたいのです。
きっと出会うべくして出会う方とのご縁を繋ぐアンテナとか、狼煙のような役割もしてくれると思います。
今回も最後までお読みくださりありがとうございました。
次回もまた、どうぞ宜しくお願い致します。

つづく

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