気楽に読んでください、呼吸のおはなし ~その98~
このブログをお読みくださっている皆さま、いつもありがとうございます。本日もどうぞ宜しくお願い致します。もう直ぐ100回です。えらいもんで数字も100を数えると少し考えます、これを一区切りとして止めるか、ほんの少しモデルチェンジするか、飄々と同じ感じで続けるか。何れにしましても100回とは言え、このように狭い範囲での自己満足以外の何物でも無く、さして重要でもありませんが。昨日は改めて脊柱の伸びやかなエネルギー、その方向性の大切さに付いて書かせて頂きました。呼吸を修行のアイテムとして使用することがあるとして、その時に、修行=(イコール)我慢、のようになってしまって、息を長く止めるなどすることに加えて、エネルギーを健全に外へと流さず内側に鬱滞鬱積させることは非常に危険です。そのような世界観が異常なまでに度を越してしまうと、意識的にそのような、" 蓋をした状態・閉じた状態 " を作り出して、例えば見える筈の無いものが見えてしまうとか、人を思い通りに操ったりとか、本末転倒といった言葉では済まされないことも起こり得ます。マインドコントロールや暴走も、こんなところから徐々に始まることは史実として証明されてしまっています。肩肘張って頑張っていると、自分の足元が既に覚束無くなっていることに気付き難くなり、膝も緩ませずに踏ん張っていると、しっかりと地面に立っているようでいて中身は " 虚(きょ) " である、そんなことはよく起こるのです。そこでもしも疲弊し、ある一定の限界を感じて自分以外の何かに頼ることがあったとして、その頼った先の性質がどんなものであるか、それが重要になって来ます。本当に頼るべき
0