湿気を含んだ重い空気がじとりとまとわりつく。月も星も雲に隠され真っ暗な夜、敷きたての真っ黒なアスファルト。雨と埃のにおいが鼻につく。街灯はチカチカと点滅を繰り返し、ほとんど意味をなさない。
光の点滅が過去の思い出を照らしては消えていく。思い出すのも辛い、とても幸せな過去の思い出。君の笑顔、澄んだ声、下手な料理、歩く速さ、小さな思い出が集まって、真っ黒な塊になって俺を押し潰そうとする。こんなの、ただの過去だ。いつか君と結婚して、子供が出来て、子供達が成長したら二人で穏やかな老後を過ごす、なんて。漠然と思い描いていた幻想だ。
一昨日は眠れなかった。昨日は悪夢を見た。今日は。覚めなければ、そう思わずにはいられない。夢の中では鮮明に蘇る美しい君の姿。頭では、これは夢だと理解していても、傷つき、ぐずぐずとただれた心は、愛しい幻にすがる。
「いつかは、私のことも、その痛みも、忘れてしまうわ」
君は抱きしめる俺からするりと離れ、微かに笑う。戸惑い、何も言えないでいる俺に、
「さようなら、おはよう」
目が覚め、空を見た。月の光が冷たい。まだ夜だった。
俺達は石吐きの一族。体内に宝石を生み出し、吐く。食べた物は全て、体内で宝石に変わる。どういう仕組みになっているのか、俺でも分からない。
俺はダイヤモンド、君はトパーズ。
ほかの石吐きがどうなったかは分からない。きっともうほとんどはいなくなってしまっただろう。石吐きの宝石は人間達に高値で売り買いされる。大きさ、美しさ、硬度、全てにおいて最高水準のそれを目当てに狩人達は俺達を狩る。石を吐こうが吐くまいが俺達を追う。石吐きは寿命の数だけ石を吐けば跡形もなく消える。吐けば吐くほど記憶を失う。俺達は、一体何のために生きているのだろう。
ご先祖様は、人間達と共生出来ると信じていた。石吐きと普通の人間の大きな違いは、石を吐くかどうか。人間達の中でも生きられると考えた。とんだ大馬鹿野郎だ。奴らは石吐きを「金のなる木」としか見なかった。お花畑のご先祖様には奴らの図々しい欲望など理解出来なかった。その結果がこれだ。笑える。
俺と君は狩人の襲撃を受けた集落からずっと、二人で逃げてきた。長い間一緒にいたのに、君は約束を破って俺を置いていってしまった。
「いつか人間のいないところにたどり着くまで、石を吐かないでいよう」
吐き出す宝石は寿命の数。吐ききれば死ぬ。記憶も失う。だから平穏が訪れるまで、一緒にいようと約束したのに。
君が消えて、早十年。その間、何度も狩人に遭遇したが、何とか切り抜けた。一人でこの橋の上まで逃げてきた。
「俺一人じゃ、もう無理だ」
ある日君が怪我をしてから、君は呆けたようにしていることが増えた。今思えばずっと考えていたのだろう。君は自分の宝石を俺に飲み込ませた。最後の石が口から零れ、その瞬間、俺の目の前で君の身体は跡形もなく消えた。
怪我が何だ。歩けないなら俺が抱えていく。自分で食事が出来ないなら食べさせてやる。狩人からも守る。君は俺の生きる意味。君さえいてくれればそれで良かった。それなのに。勝手に俺の寿命を延ばして、俺だけを残して。
それからは狩人を避けつつ、目的もなく彷徨っていた。数日前に何となく、ずっと前に君と来たこの橋の上から綺麗な朝日が見たくなった。だからここを目指して歩いた。
周りは山と谷。橋の縁に座り込むと、この身体に溜まる二色の石と一緒に、重い想いがごろりと転がる。君には悪いが、全て吐き出すと決めた。俺に長く生きてほしいと思ったのだろう。自分が一緒だと足手まといになると思ったのだろう。
「ばーか。君の思うとおりになんてしてやんないよ」
俺は君が思うより寂しがり屋だから、一人では生きていけないんだ。
立ち上がり橋の下をのぞくと、谷底に真っ黒な闇が沈んでいた。その闇をのぞきながら、腹から胸、喉へと力を込めていく。口を覆った手のひらに、パラパラという感触がして、見ると十個の宝石が乗っていた。それを谷底へ放り投げる。街灯の光が反射して、きらきら光の粒が落ちていく。もう一度同じ動作を繰り返すと、さっきよりも大きな石がコロコロ転がり出てきた。一緒に出てきた小さい石と合わせると十四個。両手に一杯、二色の宝石。人間共が見ればよだれを垂らして欲しがるだろう。
「はは、人間になんてやるもんか」
吐く度に、記憶が消えて、俺の中が空になっていくのが分かる。俺はダイヤモンド、君は、何だったか。大切な君のこともほとんど思い出せない。転がり出てくる宝石も残りわずかのようだ。俺の記憶も、ほとんど残っていない。
街灯がチカチカと俺の影を地面に映す。吐き出した四十四個目の宝石。身体は冷えて、ガタガタ震えている。とても寒い。
夜はまだ明けない。
俺は何のために生きていたのだろう。谷底へ落ちていった、黄色い宝石に似た色の月は雲に隠れたまま。思考ももうままならない。風が吹いて、俺の身体から残りわずかな熱を奪っていく。
誰かに言いたかったことも、もう思い出せない。真っ暗な夜が明け、朝日が今日を照らしても、最早なぜこの朝日を見たかったのか思い出せない、大切だった誰かはどこに。
この谷底の闇が消えた時、俺はもういないだろう。何故か虚しくて、無性に叫びたくて、耳が誰かの叫声を聞いた頃には、すでに喉を震わせていた。誰もいないこの場所で何を叫んだって、自分以外の誰に届くわけでもない。それでもこの心を占める虚しさを消し去りたくて、何度も叫んだ。
口から零れ落ちる、四十五個目の黄色の石に伴われるように、声は朝日の底、未だ横たわる闇に吸い込まれて消えた。