一度は耳にしたことのある言葉かもしれません。
【意味】「人間の吉凶・禍福は変転し、予測できないことのたとえ。また、だから安易に喜んだり悲しむべきではない」ということ。
駅に向かって歩いていると道端のアスファルトとコンクリートの隙間から、
どこからタネが飛んできたのか「ど根性猫じゃらし」が横一列に群生。
原っぱや花壇といった植物にとって良い環境ではなく・・・
なぜそこに?と思いますが、どっこい生きてる猫じゃらしです。
人間みたいに駅近物件が良かったのでしょうか?w
近くに保育園があり、仕事帰りで慌ただしいお母さんが小さな子供さんの手を引いて歩いていきます。なかなかの早歩き。
小さな子供さんはお母さんの時間の枠で生きてはいないので
「あ、猫じゃらし!」
と道端にしゃがみ込み「ど根性猫じゃらし」を興味に任せて引っこ抜いていました。するとそんな我が子の姿を見下ろし足を止めたお母さんも小さい子供さんの時間に歩み寄っていました。
その「ど根性猫じゃらし」駅近物件なので引っこ抜かれ
可哀想なのでしょうか?
それとも小さな子供にトキメキを与え、存在を見つけてもらい、ちょっとでもこの世界の片隅での存在感を得てラッキーな生涯だったのでしょうか?
花壇や原っぱで邪魔な雑草として刈り取られ処分される猫じゃらしもいるなかその「ど根性猫じゃらし」は幸せなんじゃないか。
そんな風に私には思えました。
私たち人間も生まれ育つ環境を選べないように見えます。
果たして本当にそうでしょうか?
昨今話題になり問題視された言葉「親ガチャ」
(親の立場からすれば「子ガチャ」もあるんじゃないか?)
私はスピリチュアル中立派(信じたい部分、信じない部分あるということ)ですが、スピリチュアルカウンセラー江原啓之さんがおっしゃるには・・・
生まれた時には忘れてしまっているけれど、天界から現世に降り立つ時に、神から与えられた「現世で学ぶテーマ」に合った環境を選んで生まれてくるそうです。
なので「偶然ではなく必然なのです」とおっしゃっておられる。
多くの方を四柱推命鑑定で「命式」(運命カルテ)を生年月日時から導き出しその方々の生まれ持った様々な宿命を拝見させて頂きますと
血縁、家族、身内というものを考慮されて生まれてきていない
ことがわかります。
人は皆、自分ひとりなんです。
しかし、ひとりでは生きていけないので生物学上、血縁ということで親だ子だ、身内だとカテゴライズして小さな集団を作り生きているのですね。
なので、ウマの合わない身内もいるわけです。
理想の親でも、理想の子でもないご縁もあるわけです。
ほとんどの場合、人を変えることはできません。
しかし、自分を変えることはできるのです。
話を元に戻します。
「ど根性猫じゃらし」はアスファルトとコンクリートの隙間の駅近物件だった為、原っぱで生えているような青々としたフサフサな姿ではありません。
どちらかといえば背も低く、茶色味がかって、スリムな感じ。
それでも小さい子供さんにトキメキを与え、親子の時間を作るキッカケに一役かっていた。
猫じゃらしにご機嫌の子供さんに向けるお母さんの眼差しが優しく変わっていった時、きっと「ど根性猫じゃらし」はこの世で一番幸せな猫じゃらしだったかもしれません。