「光(ひかり)って名前、いいでしょ。あなたがどんな暗闇にいても、自分で道を照らせるようにってつけたの。」
お母さんがそう言ったのは、光がまだ幼稚園の頃だった。
あれから七年。十二歳になった今も、ぼんやりだけど、その言葉だけは胸の奥に残っている。
夏の夕暮れ、公園の時計台の前。止まった針はもう何年も動かない。
それでも光は、今日もそこに立っていた。
お母さんが亡くなってから、もう二年。
あの日、病院に着くのがあと少し早ければ――
そんな後悔が、時間のように胸の中で止まっている。
カチリ。
音がした。風もないのに、時計の針が動いた。
一瞬で世界の音が消えた。蝉の声も、遠くの電車の音も。
気づくと、空の色が変わっていた。
オレンジの夕焼けが、淡い朝焼けに変わる。
見慣れたはずの公園が、どこか懐かしい。
そのベンチに、若い女の人が座っていた。
「……お母さん?」
思わず声が漏れる。
女の人は驚いたように笑った。
「え? わたしのこと知ってるの?」
その笑顔。間違いない。若い頃のお母さんだった。
名前を名乗ることもできず、光はベンチの端に腰を下ろす。
「暑いでしょ。これ、飲む?」
差し出されたペットボトル。ラベルのデザインが古い。
それを受け取る手が震えた。
「お母さんは……」と言いかけて、慌てて飲み込む。
もし未来を変えられるなら、何をすればいい?
けれど、彼女は何も知らない。
その時間は、まだ“これから”なのだ。
風が吹いた。小さな花びらが足もとを転がる。
お母さんがぽつりとつぶやいた。
「時間ってね、消えるものじゃないの。
誰かの心の中で、生き続けるんだよ。」
その言葉に、光は息を呑んだ。
胸の奥で何かがほどけていく。
「たとえ過去を変えられなくても、今を大切にできれば、
未来はきっと変わるのよ。」
眩しい光が広がった。視界が白く染まる。
次の瞬間、蝉の声が戻り、世界が動き出した。
気づけばまた、公園の時計台の前に立っていた。
針は止まっている。
けれど、胸の奥で確かに何かが動いた気がした。
ポケットの中に、見覚えのない小さなガラス片があった。
壊れた時計台のものだろうか、今では角がなく丸みがあってとても綺麗だ。
それは、朝焼けみたいに淡く光っている。
お母さんの声が、遠くでささやいた気がする。
「ほら、光。あなたの中の“光”が、未来を照らすのよ。」
少年は涙を拭い、空を見上げた。
沈みかけた夕陽が、街を金色に染めている。
「ありがとう、お母さん。僕、ちゃんと生きるよ。」
止まっていた時計の針が、静かに動き出した。
その針先が指す先には、確かに――未来が待っている。
(完)