声を探す君へ ── オーダーメイド小説サンプル

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私の小説制作サービスでは、
恋愛・再会・家族・感謝など、
あなたの心に残るエピソードやテーマをもとに、
一篇の小説として形にしています。

「誰かへの贈り物にしたい」
「自分の記憶を残したい」
「言葉では伝えられない想いを届けたい」

そんなとき、小説という形が“新しいあなたの声”になります。

いただく情報は下記のようなものでOKです!

①ジャンル
②登場人物の関係性
③結末のトーン(感動・希望・切なさ)

あとは私が、あなたの言葉の温度を物語に変えていきます。
もちろん具体的な情報も大歓迎です!


【今回のサンプル】
・文字数:7500文字程度
・読了時間目安:15~20分前後

実際のご依頼では、2000文字程度の作品やそれ以下のボリュームでもお見積りいたします。

このサンプル小説は、“声の記憶”をめぐるふたりの約束。
最後まで読んだとき、あなたの心にも「ただいま」が届きますように。
それではお楽しみください。

「君を探す声」

第1章 白い朝


目を開けると、天井は白く、音だけが生きていた。
一定の間隔で、小さな電子音――ピッ……ピッ……。
どこかで水の落ちる音もする。見慣れていないはずなのに、嫌いじゃない静けさだった。

俺は名前を名乗れる。優真。そこまでは確かだ。
けれど、それ以外の輪郭は、霧の中に置き忘れてきたみたいにぼやける。
“誰か”を探している気がして、胸の奥が空洞のように疼いた。

ベッド脇のテーブルにスマホが置かれている。ロック画面には時間だけ。
07:02。日付表示の欄が、なぜか空欄になっていた。
指が勝手にスワイプしようとして止まる。パスコードが思い出せない。
代わりに、ホームボタンを二度押すと、録音アプリが立ち上がった。
起動しっぱなしのように波形が揺れている。
再生を押すと、かすかな風の音のあと、女の声が優しく降りてきた。

「――おはよう。今日は、よく眠れた?」


きれいな声だった。澄んでいて、乾いた喉に水が触れるみたいにやわらかい。
胸の奥の空洞が、少しだけ形を変える。

「朝にこの録音を聴くと、体が“いつもの時間だ”って思い出すらしいよ。だから、無理に頑張らなくていい。吸って、吐いて。……そう、えらい」

思わず、言われたとおりに呼吸を合わせてしまう。
吸って、吐いて。
電子音と呼吸が重なって、部屋の空気がゆっくり温まる気がした。

「もし外に出られそうなら、例の公園まで行ってみて。ベンチに座って、目を閉じて、三十数える。そこで、待ってるから」

録音はそこで切れた。
“待ってる”。
胸の空洞が、はっきり誰かの形をとる直前で止まる。

カーテンを開けると、窓の外も白かった。薄曇りの朝。
建物の壁に取り付けられた案内板の文字が、ところどころ滲んで読めない。
—病—、—内科、リハ—。
目を凝らすほど、文字が水底に沈んでいく。

歩ける。足は言うことを聞く。
廊下を出ると、看護師らしい人とすれ違った。顔はマスクで隠れて、目元が柔らかく笑った。
「お散歩ですか?」と声をかけられて、思わず会釈だけ返す。
自分の声が、まだ喉の奥でうまく鳴らない。

エレベータを降りる。ロビーを抜ける。自動ドアの開閉音。
外気が思ったより冷たくて、肺の奥がきゅっと縮む。
歩道の先に小さな公園が見えた。
金属の柵、丸い街灯、滑り台。
すべてが、なぜか見覚えのある配置で並んでいた。

ベンチに腰を下ろす。
録音に言われたとおり、目を閉じて三十まで数える。
――一、二、三……
数字の途中で、また電子音が耳の奥で鳴った気がした。
ピッ……ピッ……。
ここは外だ。どこにも機械なんてない。風が梢を鳴らしているだけだ。
そう思い直したとき、声がした。

「おはよう」

目を開けると、誰もいない。
でも、確かにすぐ隣で、声がした。
耳の後ろから、頬の近くへふわっと移動して、言葉が形になる。

「起きられたね。えらい、えらい」

声は笑っていた。俺も、少し笑ってしまう。

「……君は、誰?」

「名前、今は言わないね。『誰か』の方が、思い出しやすいときがあるから」

少しの沈黙。遠くで車が走る音。信号の電子音。
でも、いま俺が聞きたいのは目の前の声の主だけだった。

「俺は、君を知ってる?」

「うん。とても。君の好きな匂いも、飲みものの温度も、全部」

「俺は、君を、思い出せる?」

「思い出せるよ。少しずつ。『いまの君』が『前の君』に追いつけば」

声は、どこかで文章を用意してきたみたいに整っていた。
でも、冷たさはない。
言葉の端を指先で温めてから渡してくれるような柔らかさだった。

「今日、何か覚えてることは?」

問われて、俺はベンチの木目を撫でた。
指の腹に、小さなささくれ。
さっき廊下で擦ったのか、皮が少しめくれていた。
その痛みが、どこか懐かしい。

「俺、誰かとここに来たことがある気がする。夕方で、ベンチが冷たくて」

「どんな話をしてた?」

「……それが、出てこない」

「じゃあ、ヒント。君は、約束をするとき、右手の親指で左の手首を押す癖があるよ。痛みを覚えておきたいから、って」

言われたとたん、指が勝手に動いた。
左手首に親指を当て、ぎゅっと押す。
じんわり痛みが広がって、息が勝手に深くなる。

「そう、それ。よく頑張ったね」

声の温度が上がった。胸の穴が、少し埋まる。

「君は、俺の何?」

「その質問は、まだ難しい。……でも、**『君を探す声』**でいさせて」

ベンチの上を、風が滑った。
目を閉じると、雨あがりの匂いがした。
季節は、春だろうか。いや、カレンダーを見ていない。
俺が知っているのは、朝の白さと、同じ時間に鳴る電子音と、この声だけ。

「明日も、七時二分にここに来て。もし来られなくても、私は話しかけるから」

「どうやって?」

「だって――」
声がすこし頬に近づく。
くすぐったい距離で、秘密をわかち合うみたいに囁いた。
「私は、君に届くようになってるから」

ベンチの端で、小さな影が揺れた気がした。
振り向く。誰もいない。
戻ってくる風だけが、確かにそこを通り過ぎていく。

「ねえ、最後にもう一つだけ。今日の君に、ちょっと難しいお願いをしてもいい?」

「うん」

「帰る前に、白い部屋の枕元で『ただいま』って言ってみて。
誰にも聞こえなくていい。君の声だけで、いいの」

喉が、ひゅっと細くなる。
“枕元”という言葉で、白い天井と電子音が一緒に戻ってくる。

「わかった。やってみるよ」

「ありがとう。じゃあ、また、明日――」

声は途切れた。
公園の音が元の大きさで戻ってきて、俺の呼吸が遅れて追いかける。
ベンチから立ち上がると、ポケットの中でスマホが震えた。
画面をつけると、録音アプリの波形が、丁度七分のところで止まっている。

病院へ戻る道、信号待ちのあいだに空を見上げる。
白い雲の縁が強く光って、目を細めた。
まぶしさの向こうに、誰かの笑い声の形だけが残る。

部屋へ入り、ドアを静かに閉める。
ベッドのそばに立って、言われたとおりに小さく口を開いた。

「……ただいま」

電子音が、ほんの一瞬だけ間隔を変えた気がした。
ピッ……ピ……ピッ。
空耳だろう。そう思いながら、胸の奥の空洞に手を当てる。
さっきより、少しだけ温かい。

その夜、眠る直前に録音アプリを開く。
“新規録音”のボタンが、赤く光っている。
親指を置いて、俺はたどたどしく話し始めた。

「明日も、七時二分に行く。
……君の声を、ちゃんと探す」

保存すると、ファイル名が自動でついた。
「voice_0007」。
数字を見て、なぜか胸がきゅっと鳴った。
七という数に、意味がある気がした。
でも今は、まだそこまでたどり着けない。

目を閉じる。
白い天井の代わりに、声の余韻が遠くで揺れた。
おやすみ、と誰かが言った気がして、俺はそれに小さく頷いた。

第2章 七時二分の会話


翌朝、電子音がひとつ飛んで鳴った。
ピッ……ピ……ピッ。
昨日よりも、わずかに速い気がする。気のせいかもしれない。

カーテンを開けると、朝の光が白く滲んでいた。
時計を見ると、七時一分。
昨日の録音を思い出して、反射的に廊下へ出た。
誰にも呼ばれていないのに、身体が覚えている。

外気に触れると、胸の奥がひやりとした。
病院の玄関を抜け、道を渡り、公園に着く。
時計の針が七時二分を指した瞬間、風が頬を撫でた。
同時に、声がした。

「おはよう、優真くん」

昨日より少し近い。
まるで耳元ではなく、胸の内側で響くような声だった。

「おはよう」
「来てくれてうれしい」
「昨日の夜、ちゃんと眠れた?」
「……たぶん。君の声、また聴きたくて録音を何度も再生してた」

「ふふ。ちょっと照れるね」
声が笑った。柔らかくて、ほんの少し震えていた。

「今日はね、ひとつだけ練習をしよう」
「練習?」
「うん、“思い出す練習”。」

風の音が一瞬だけ止んだ。
葉が揺れる音も、遠くの車の音も消える。
世界が、彼女の声を聴くために息を潜めるようだった。

「君は昔、私に何を約束したか、覚えてる?」
「……約束?」
「そう。約束。君がいつも左手首を押しながら言ってた言葉」

無意識に親指が動いた。
左手首を押す。昨日と同じ感覚。
でも今日は、痛みが少し強い。
皮膚の下に何か埋まっているような違和感。

「……思い出せない」
「大丈夫。焦らなくていいよ。
記憶って、無理に開けようとすると壊れるから」

「君は誰?」
「またそれ?」
「気になるんだ」
「じゃあ、ヒント。私はね、“君が一番名前を呼んだ人”。」

その瞬間、胸の奥がざわめいた。
言葉の端に、心が反応した。
呼んだことがある。何度も、名前を。
けれど音として出せない。
舌の先まで出かかった名前が、霧の向こうで消えていく。

「……ごめん」
「いいの。思い出せなくても、私はここにいる」
「なんで、そんなに優しいんだ」
「君がそうしてくれたから」

ふっと、世界が滲んだ。
視界が揺れて、ベンチの輪郭が霞む。
気づくと、膝の上に花びらが一枚落ちていた。
春の花だ。薄桃色。けれど、季節はまだ冬のはず。

「……花が」
「うん、咲いたね」
「でも、昨日はなかった」
「それが“思い出す”ってこと。
 君がひとつ取り戻したから、世界が少しだけ増えた」

理解が追いつかない。
でも、胸の奥で「そうだ」と言う声がする。
確かにこの場所は、昨日よりも温かい。

「ねえ、君は本当に、ここにいるの?」
「うん。私は君の“すぐ隣”にいる。
でも、触れたら消えちゃうかもしれないから……まだ、触れないでね」

声が少しだけ震えた。
彼女が泣いているのかもしれないと思った瞬間、電子音が遠くで鳴った。
ピッ……ピッ……。
まるで心臓の鼓動みたいに、静かに、でも確かに響く。

「明日はね、七時二分じゃなくて、七時三分に来て」
「なぜ?」
「世界が少し動くから。たぶん、君にもわかる」

そのまま、声は消えた。
公園の静けさが戻り、風がまた吹き抜ける。

立ち上がって、ベンチの背もたれに触れる。
指先に残った冷たさが、妙に現実的だった。
ポケットのスマホを見ると、録音アプリが開きっぱなしになっている。
画面の中央に表示された文字。

録音時間:07:02:00 – 07:03:00(1:00)

ぴったり、1分。
声の主が言った「七時三分」は、もうすでにそこにあった。

第3章 手首の痛み


朝、電子音がしばらく鳴りやまなかった。
ピッ……ピッ……ピッ……。
昨日より、少し速い。まるで俺の心拍に合わせて変わるようだ。

目を覚ますと、左手首に包帯が巻かれていた。
寝る前にはなかった。
ほどこうとしても、包帯の下で何かが脈を打っている。
痛い。けれど、どこか懐かしい。

枕元のスマホに、新しい録音ファイルが増えていた。
ファイル名は「voice_0008」。
いつ録ったか覚えていないが、再生ボタンを押す。

「――優真くん。今日はね、無理しなくていいよ」
「でも、できれば外に出て、右手で風を触ってみて。
それができたら、“痛みの記憶”が戻るから」

声の主は、昨日と同じ。
けれど、少しだけ遠い。
風の音が混じって、時々ノイズが走る。

「君は、誰かに呼ばれてる夢を見たことある?」
録音の中で、彼女がそう尋ねた。
俺は思わず、答えてしまった。

「……ある。呼ばれた。でも、顔が見えなかった」
「どんな声だった?」
「君に似てた。少し泣きそうで、でも笑ってた」

再生が止まる。
画面には“録音終了:07:03”と表示されていた。

外に出ると、まだ朝の光が白い。
昨日と同じ道を歩いて、公園のベンチへ向かう。
風が少し冷たく、指先がしびれる。
右手を空に伸ばしてみると、風の流れが肌を撫でた。

痛みが、手首から肩にかけて走った。
呼吸が詰まる。
その瞬間、声が聞こえた。

「無理しないで」
「……君?」
「そう。見えてる?」
「見えない。でも、近い」

足元に、白い影が揺れた。
ベンチの上に、うっすらとした人の形。
輪郭が光に溶けるようで、はっきりしない。

「君は……生きてるの?」
「どうだろうね。
でも、君がここに来てくれる間は、私も“ここにいられる”」

「昨日、包帯が巻かれてた。覚えてないけど」
「それは、“私”が巻いたの」
「君が?」
「うん。夜中に君が痛そうにしてたから」

「でも、君はいないじゃないか」
「いるよ。君の側に」

声が少し震えた。
風に紛れて、電子音がかすかに混じる。
ピッ……ピ……ピッ。

その音が鳴るたび、胸の奥が締め付けられる。
現実と夢の境が、曖昧になっていく。

「ねえ、優真くん」
「なに?」
「痛みってね、悪いことじゃないんだよ。
 心が“生きてる”って知らせる合図だから」

「じゃあ、俺はまだ生きてる?」
「もちろん。君が私を覚えている限り」

そう言うと、風がふっと止まった。
その瞬間、空気の中に“匂い”が生まれた。
石鹸と春の花の匂い。
どこかで嗅いだことのある香り。

喉が震えた。
名前が、口の中に浮かび上がる。
でも、声にはならない。

「……さ……」
彼女の名を言おうとした瞬間、
ピッ……ピピピッ……と、電子音が跳ねた。
痛みが走る。世界が白く弾けた。

気づくと、自分の部屋にいた。
ベッドの上、包帯の下が熱を持っている。
指で触れると、包帯の内側に何か固いものがあった。
小さな金属のプレート。
そこには、刻印があった。

Satsuki.

息が止まった。
頭の奥で、昨日の声が再生される。

「私はね、“君が一番名前を呼んだ人”。」

喉の奥から、言葉がこぼれた。
「紗月……」

電子音がまた鳴った。
ピッ……ピッ……ピッ……。
今度は、ほんの少しだけ遅れて。

第4章 目を閉じて、君の声を聴く


目を閉じると、白い光がまぶたの裏に広がる。
その向こうで、誰かが呼んでいる。
――優真。

その声が聞こえるたび、心臓が一拍遅れて跳ねる。
モニターの音が、静かなリズムで部屋を包んでいる。
ピッ……ピッ……ピッ……。
それは、彼の呼吸の代わりに残された音。

わたしは椅子に座ったまま、イヤホンのマイクを口元へ寄せる。
「おはよう、優真くん」

録音のボタンを押す。
マイクに向かって、昨日と同じように語りかける。
毎朝七時二分。
この声は、彼のためのセラピー。

“音声再構成法”。
失われた意識の海に、愛する人の声を落としていく。
その音が、かすかな電気信号を揺らし、
やがて眠る脳のどこかで小さな波を立てる。

「昨日ね、あなた、ちゃんと来てくれたんだよ」
マイクに語りかけながら笑う。
わたしの声が、ガラス越しの白い部屋へと流れ込む。
そこに横たわる人。
静かに眠る彼。
胸の上下が、ほとんどわからないほどゆっくり動く。

「手首、まだ痛いかな」
包帯の下に、小さな金属プレート。
それは、彼の名前が刻まれたタグ。
優真。
その隣に、わたしが書いた小さなイニシャル――S。

「ねえ、あの公園、覚えてる? 滑り台のそばのベンチ。あなたが“ここが家みたいだ”って笑ってた」

思い出すたび、涙が少しだけ滲む。
でも、泣いてはいけない。
この声は、彼に届くための橋。
震えたら、波が途切れてしまう。

「また明日も話しかけるね。七時三分に。……少しでも、あなたの世界が広がりますように」

録音を止める。
ファイル名をつける。
voice_0009。

パソコンのモニターには、彼の脳波グラフ。
波形がかすかに上がっていた。
ほんの、1ミリ。
でも、それだけで胸が熱くなる。

夜。
モニターの明かりが病室を照らす。
わたしはまた、彼の手を握る。
包帯越しに感じる微かな温度。
金属プレートが冷たくて、現実を思い出させる。

「優真。聞こえてる?」
返事はない。
でも、モニターのリズムが少しだけ変わる。
ピッ……ピッ……ピ……ピッ。

呼吸の音がない世界で、この電子音だけが、
彼とわたしをつなぐ唯一の“会話”だった。

その夜の夢の中で、わたしは公園にいた。
夕暮れ。薄桃色の空。
ベンチの上に、彼が座っている。
笑って、手を振っている。

「来てくれたんだ」
「もちろん」
「今日は、どっちの世界?」
「……わかんない。でも、君に会えたから、どっちでもいい」

彼がそう言って笑う。
涙がこぼれた。
夢の中なのに、確かに頬を伝っていく。

そのとき、彼が左手首を押さえた。
「もう痛くない。君がここを押してくれたから、ずっと繋がってる気がする」

その言葉に、息が詰まった。
彼が押しているその場所――それは現実の彼の心拍センサーの位置。
夢と現実が、ほんの一瞬、重なった。

「優真」
「ん?」
「ありがとう」
「なんで?」
「……生きててくれて」

彼は少しだけ首を傾けたあと、微笑んだ。
「君も、生きてるよ。ちゃんと」

その声が消えた瞬間、目が覚めた。
病室のモニターが、静かに波を打っていた。

第5章 ただいま


朝七時三分。
白い部屋のカーテンの隙間から、春の光が差し込んでいた。
紗月はマイクを握ったまま、静かに息を整える。
目の下には少しだけ疲れの影。
でも、口元は穏やかに緩んでいた。

今日は最後の録音。
voice_0010。
十日間続けたセラピーの、最終日。

「おはよう、優真くん」
マイクに向かって、いつもの調子で話しかける。
「今日はね、私からじゃなくて、あなたからの言葉で終わりにしたい」

わずかな沈黙。
モニターのリズムが変わる。
ピッ……ピ……ピッ……ピッ。
まるで、誰かが“聞いている”みたいに。

紗月は微笑んで続けた。
「たぶん、君はもうわかってるよね。ここは夢じゃなくて、あなたの中の世界。でも私は、ちゃんと現実であなたを見てる。だから、迷わなくていいよ」

言葉が静かに空気を震わせる。
その瞬間、ベッドの上の彼の指がわずかに動いた。
紗月は息を呑んだ。

医療モニターのグラフが波打ち、
ゆっくりと呼吸のようなリズムを刻み始める。

「優真……?」

名前を呼んだ瞬間、涙が零れた。
長い時間、押し殺してきた感情が一気にあふれる。
でも、泣いているのは悲しみじゃない。
心の奥から、春の光が差し込むような温かさだった。

そのころ、優真はまた“あの公園”にいた。
光が淡く降り注ぐベンチ。
花びらが一枚、肩に落ちた。

風の向こうから、声がした。
「おはよう」
振り向くと、紗月が立っていた。
白いワンピース。髪が光を受けて透けている。

「来てくれたんだ」
「うん。今日はどうしても、言いたいことがあって」

紗月が微笑む。
「ねえ、覚えてる? 昔、約束した言葉」
「約束?」
「“帰ってきたら、ただいまって言う”って」

優真は少しだけ考えて、笑った。
「言った気がする。手首を押しながら」

「そう。だから今、もう一度言って」

優真は左手首を押した。
暖かい痛みが、胸の奥に広がる。
そして、ゆっくりと言った。

「……ただいま」

その言葉と同時に、空気が光に満たされた。
風が優しく二人の間を抜けて、花びらを舞い上げた。
紗月が微笑みながら頷く。

「おかえり、優真」

彼の姿が淡く滲み、光の粒になって空へ溶けていく。
それは消えるというより、
彼の記憶が“正しい場所”へ帰っていくような静かな消失だった。

現実の病室。
モニターの音が一定のリズムを刻んでいる。
ピッ……ピッ……ピッ……。
紗月はベッドの横で、彼の手を握った。

彼の指が、ほんのわずかに動いた。
その手首を包む包帯の下から、微かな声が漏れた。

「……ただいま」

世界が止まったように感じた。
紗月は泣きながら笑った。
「……おかえり」

窓の外で、桜がひとひら舞った。
白い光が部屋に差し込み、
彼の胸の上でモニターの音が優しく鳴り続けた。

(完)

ここまでお読みいただき、ありがとうございます!

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