―回復してきた子を、親が一歩下がって見守る時期―
木曜日の朝。
母親は、あえて声をかけなかった。
リビングの時計は9時20分を指している。
テーブルの上には、娘の小さなリュックが置いてある。
中には、水筒、ハンカチ、読みかけの文庫本。
そして、フリースクールのカード。
娘は、週に一度だけそこへ通っている。
最初から通えたわけではない。
見学の日は玄関で泣いた。
初日は20分で帰ってきた。
2回目は行けなかった。
3回目は行けたけれど、帰ってきてから夕方まで眠った。
母親は何度も思った。
「無理をさせているのではないか」
「でも、ここで止めたら戻ってしまうのではないか」
そのたびに、娘の表情を見た。
帰ってきたときは疲れている。
けれど、少しだけ誇らしそうでもあった。
「今日は、猫の絵を描いた」
「一人、話せる子がいた」
「先生が、無理しなくていいって言ってくれた」
言葉は短い。
でも、娘の世界は少しずつ家の外へ広がっていた。
その朝、娘は自分で起きてきた。
母親は、喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。
「ちゃんと行けそう?」
「遅れない?」
「今日は何時までいるの?」
どれも、言いたかった。
でも言わなかった。
娘は黙ってトーストをかじり、リュックを背負った。
玄関で靴を履く手が、少し止まった。
母親は、遠くから見ていた。
以前なら、すぐに近づいていた。
「大丈夫?」
「やっぱりやめる?」
「行った方がいいよ」
でも、今は違う。
娘は、自分で迷っている。
自分で決めようとしている。
その時間を奪ってはいけない。
しばらくして、娘は立ち上がった。
「行ってくる」
母親は、短く答えた。
「いってらっしゃい」
ドアが閉まったあと、母親は深く息を吐いた。
嬉しさと不安が同時に押し寄せた。
また疲れて帰ってくるかもしれない。
来週は行けないかもしれない。
急に「もうやめたい」と言うかもしれない。
でも、それでもいいと思った。
娘は今、自分の足で外へ出た。
それだけで十分だった。
昼過ぎ、娘からメッセージが届いた。
「今日は早めに帰る」
母親はすぐに返信した。
「わかった。待ってるね」
「どうして?」
「何かあった?」
とは聞かなかった。
帰ってきた娘は、疲れた顔で言った。
「ちょっと人が多かった」
母親はうなずいた。
「そっか。疲れたね」
娘はリビングのソファに座り、しばらく黙っていた。
そして、小さく言った。
「でも、来週も行く」
その言葉に、母親は大きく喜びすぎないようにした。
「うん」
ただ、それだけ言った。
回復してきた子どもを見ると、親はつい安心してしまう。
もう大丈夫。
もっと進める。
今なら取り戻せる。
そう思いたくなる。
でも、回復期の子どもは、まだ疲れやすい。
頑張りすぎれば、また戻ってしまうこともある。
この時期の親に必要なのは、引っ張る力ではなく、一歩下がって見守る力だ。
子どもが自分で家を出る。
自分で帰ってくる。
自分で「来週も行く」と言う。
その小さな自己決定を、親が信じて待つ。
週に一度の外出は、まだゴールではない。
でも、娘が自分の人生をもう一度歩き始めた、大切な一歩だった。