世界恒久平和

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 昭和20(1945)年08月06日午前08時15分、広島に原爆が投下されました。その後、広島平和記念公園に設置された時計塔からは毎日、原爆が投下された08時15分にメロディーが流れます。私は2013年の夏にそのメロディーを聴くために広島平和公園を訪れました。
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 『平和の灯』というモニュメントもありました。平和の灯は反核と恒久平和の実現まで燃やし続けるとのコンセプトで昭和39(1964)年8月1日に建立されたそうです。火種は全国12宗派から寄せられた『宗教の火』、溶鉱炉などの全国の工場地帯から届けられた『産業の火』、それに加え世界遺産となった宮島弥山の『消えずの火』を合わせたものが、原爆が投下された日(昭和20(1945)年8月6日)に生れた7名の広島の乙女(当時18歳)によって点火されたそうです。『消えずの火』は広島平和公園からも見える(見えそうな?)宮島弥山で、お大師様(弘法大師空海)が護摩を修法されたときの火をもとにしているそうです。広島平和公園へ行って思ったことは、もっと早くここへ来ればよかったということです。
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私たち一人一人が世界恒久平和のためにできることがあるはずです。私の世界恒久平和への取り組みの一つが『玄米菜食主義』です。『玄米菜食主義』と世界恒久平和とどんな関係があるのかと怪訝に思う人もいるかと思います。菜食主義と平和主義の関係はすぐにご理解いただけると思います。菜食の反対は肉食です。肉食は食べられまいとして逃げる動物を捕まえて潰して食料にしてしまうという行為です。その行為の根底には、自分の欲望を満たすために、相手の生命を奪うという行為の是認が存在します。戦争と同じ原理です。肉食を是認する発想は戦争是認と相通ずるところがあるわけです。逆に相手の生命を尊重する発想が菜食主義となって現れるわけです。

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 『菜食主義』に『玄米』を付けています。『玄米菜食主義』について説明します。菜食主義を始めたばかりの頃でした、献血に行ったら、献血前の検査で「血液の比重が軽すぎるので、今回は献血することはできません」と言われました。何度も献血をしていますが「血液の比重が軽い」と言われたのは初めてでした。それまでそのような事は一度もなかったので、菜食主義を始めたために栄養素が足りなくなったのではないかと考えました。そこで対策として玄米を食べる事にしました。玄米を食べると、元気が出ます。なぜだろうと考えてみました。玄米は水分をやれば芽が出るそうです。白米と違って玄米は生きているのです。今にも芽が出るもの、生命力がはち切れそうになっているものを頂くわけですから、生命力を感じ、元気がでるのだと思います。その後、何度も献血をしましたが事前の検査で血液の比重が軽いと言われたことはありません。以来、12年以上経ちますが健康に問題はありません。 私の玄米の食べ方をご紹介します。玄米を4時間以上、水に付けておきます。そして炊くときは黒豆と小豆をいれます。そして白米を炊くときの倍の水(2倍弱の水)をいれて電気炊飯器で炊いています。黒豆と小豆を入れるのは肉、魚貝類、卵を食べないのでなるべく色んな植物から色んな栄養素を取りたいからです。そして炊きあがった玄米ご飯を食べるときは炒りゴマをかけて食べます。炒りゴマをかけて食べるのはナトリウム分を補うためです。玄米は体の中の不要物を排除してくれる反面、ナトリウムのようなミネラルも排除する傾向があると思います。あとは野菜炒め(海藻入り)とか温野菜(海藻入り)、納豆、豆腐、油揚げを食べて、牛乳を飲む。そしてビール酵母をとる。肉、魚、卵を食べないと栄養が偏る可能性が高いので工夫が必要です。いろんな方法があると思います。皆さんも試してみて下さい。工夫すれば残酷な感じのする肉食をしなくても生きていけるわけです。 
 上記のように言うと「植物も生きている。植物も食べるなというのか」という人が必ず現れます。しかし動物を食べる事と、植物を食べる事はいくつかの点で異なります。植物には痛覚神経がありません。動物の頭脳に相当する機能もないはずです。冷静に考えてみると植物には採って食べられることによって痛みや、苦しみや、悲しみを感じるということはないと考えてよいと思います。木の実は鳥に食べられることにより、その実の種子が遠くへ運ばれ、種として繁栄するように出来ています。人間に食べ物として食されている稲は種としては世界中で繁栄しています。共栄共存であると思います。ですから植物は天の恵みと考えて、ありがたく頂いてよいと思います。同じような理由で牛乳も頂いて良いと思います。乳牛は子を育てる以上の乳を出すそうです。乳牛は乳を提供することで、その見返りとして人間から食物を得て生きていると解釈して良いと思います。奪い合うのではなく与えあっているのです。卵は有精卵でなければ命を頂くことにはなりませんが、狭い籠のなかで、卵を産むためだけに飼育される鶏は可哀そうに思えてなりません。卵を食べる人がいるのでそのような飼育をされる鶏がいるのです。
 この文章によって菜食主義に興味を持った方はぜひ、少しでも、食生活を変えることを考えてみて下さい。菜食主義にしなくとも、残忍さの少ない方向へ食生活を変えることはすぐにできます。哺乳類よりも魚類、より痛覚神経の発達していないであろうと考えられる貝類へと食べるものを変えるとか、乳製品や大豆食品を増やし、その分、肉を減らすとか方法はいろいろ考えられると思います。ただしお子さんに関する食べ物の変更は保護者が十分に栄養状態を配慮してあげて下さい。子供は大人と違って、体の変化を理論的に、あるいは言葉にして、発信する能力が未発達であると考えられます。保護者がよく状況を見てあげなければなりません。
 肉食は自己を肥え太らすために他の命を頂くことです。他から奪うという悪しき行動様式です。しかも肉食は欲望を刺激し、人を新たなる蛮行に駆り立てるという悪循環を生むのです。肉食をしているときの意識状態と、菜食主義で生活しているときの意識状態を比べれば、食べ物が意識、精神に与える影響を感じ取ることができます。体験したことのないかたは体験して下さい。
 肉食に似ているものに学校教育があります。学校教育では『賞罰』を多用します。よくできたものを褒め、できないものを謗る。(強いものが弱いものを押し込めることを容認する競争原理。ひいては弱肉強食の容認)『賞罰』を多用する教育では、たとえ常に褒められる者にさえ良い影響を与えるわけではありません。先生に褒められるから行うという悪しき習慣を身に付けてしまうのです。『賞罰』を多用する教育もやめて欲しいですが、どこにも訴えて行くところがありません。他にもあまり感心しないことは、いくらでもありますがどうにもなりません。しかし菜食主義は今すぐ始めることができます。
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