良いことをしようとしている人が、いちばん人を傷つけることがあります。
悪意があるわけではありません。
むしろ逆だと思います。「これは良いことだ」と信じれば信じるほど、自分と同じ基準で他者を測り始めます。
なぜか。
善意の裏側
旅行から帰ってきた人が、職場にお土産を買ってくる。
そうしたかった場合も、そうすべきだと思った場合もあるでしょう。
でもいつの間にか「買ってこない人は気が利かない」という眼差しが生まれる。
自分が当たり前にしていることを、しない人が目につき始める。
ボランティアに参加し始めた人が、しばらくすると変わることがあります。
最初は純粋に「やりたいからやる」だったものが、
気づくと「なぜあの人はやらないのだろう」という眼差しに変わっている。
口には出さなくても、参加しない人が無関心に見え始める。
大きな善意でも、小さな善意でも、同じことです。
正しさを握ると起きること
「これは良いことだ」「こんな時はこうするべきだ」と握った瞬間に、その基準は自分の外にも適用され始めます。
良いことをしている自分と、していない他者。
するべきことをしている自分と、しない他者。
その構図ができると、善意は知らないうちに裁きの道具になります。
相手を変えようとする。
理解させようとする。
間違っているから。
それでも変わらないと、失望するか怒りになる。
でも、相手が変わらないのは当然です。
その人はあなたではありませんから。
押しつけが生まれるのは、相手がおかしいからではありません。
自分が「正しさ」を握っているからです。
押しつけたくなる気持ちが、それを教えてくれています。
純粋にしたいからする、それが動機。それだけでいい
ボランティアをしたいなら、すればいい。
お土産を買いたいなら、買えばいい。
ただ「したいからする」だけなら、他者がしないことは関係ありません。
他者の選択は他者のものです。
正しさを手放すとは、善意を捨てることではありません。
「良いことだからする」から「したいからする」へ、動機が自分に戻ることです。
そこに戻ると、押しつける必要がなくなります。
裁く相手もいなくなります。
そこに葛藤や悩みはありません。
したいことを、ただしている状態です。
自分の気分を他者に委ねない、ひとつの考え方です。