誰かを見てイライラするとき。
それは相手が悪いというより、
自分の中に居座っている「他人のルール」が警報を鳴らしているだけかもしれません。
たとえば、仕事をのんびりやっている人を見て「早くしろ」と腹が立つ。
ここで、怒りの正体を切り分けてみます。
その人の遅さのせいで、あなたの作業や調整が増えている(実害がある)なら、
それは感情ではなく「コスト」の問題です。
淡々と境界線を引けばいい。負担の再配分を求めればいい。
一方で、実害がないのに、ただ腹が立つ。
その場合それは正義ではなく、
あなたの中に住み着いた「誰かの声」が反応しているだけです。
子どもの頃に「早くしなさい」「ぐずぐずするな」と急かされ続けると、
急ぐことは「必要な能力」になります。
それは同時に、「命令」の形で心に残る。
そして時間が経つほど、その命令は当たり前になり、
いつの間にか「自分の主義」へと擬態していきます。
だから、のんびりした人を見ると、のんびりだけでは済ませられない。
「時間がもったいない」
「やる気がない」
もっともらしい正論をまとわせて裁きたくなる。
相手が間違っているからではありません。
あなたの中で「ゆっくりしてはいけない」という禁止の声が、今も生きているからです。
ここで必要なのは、相手を諭すことでも、説教でもありません。
自分の中のルールに、確認を取ることです。
「これはコストか。 それとも禁止の声か。」
言葉を投げる前に。
振り上げたくなった手は、相手ではなく自分を縛る「構造」へ向け直す。
主権を取り戻すとは、そういうことです。
禁止の声に気づくのには、後悔も反省もいらない。
ただ気づいて回収していくだけです。