命を懸けてもやりたいこと

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コラム
自己犠牲を考える
これまでよく書いてきたことのひとつに、
「やりたいこと、好きなことをやったほうがいい」という考えがあります。



社会的な立場や役割、責任や期待。
そうしたものに縛られて、本当はやりたくないことを続けている人は少なくありません。

人生の主人公は、他の誰でもなく自分です。
他人の期待は、あなたの人生の主役にはなれません。

自分の望まない生き方を、
「仕方ないから」と引き受け続ける必要はありません。



ただ、「自分を犠牲にして他人のために生きる」という話には、補足が必要だと感じています。
外から見ると自己犠牲に見える行為でも、

本人にとってはそうではない場合があるからです。



他にも選べる道があると分かっていて、それでもなお、その選択をした。

楽ではないことも、失うものがあることも承知の上で、
それでも「これが自分にとって一番だ」と引き受けた。



その場合、起きているのは自己犠牲というより、優先順位の選択です。

誰かのために動くことが、
その人自身の深い満足や納得につながっているなら、
それを外から「犠牲だ」と決めつけることには意味がありません。



ただ、問題があるとすれば、
人は「自分で選んだ」と思い込むことができる、ということです。



恐れから。
罪悪感から。
承認欲求から。
嫌われたくないから。
見捨てられたくないから。

そういう動機で、「納得」して選んだ顔ができてしまう。

自己犠牲のいちばん狡い形は、「自分で選んだ」という顔をすることです。
優しさで動いているつもりでも、恐れで動いていることがあります。

だから大事なのは、「納得しているか」よりも、
その選択がどこから出てきたのかを、自分で見抜けているかどうかです。



結果としての評価は、後から付けられるものです。

本人が本気で選び、代償も含めて引き受けたなら、
それはその人にとっての最善だった、というだけです。
むしろ、自分がどうありたいかを分かった上で、それを貫けた人とも言えます。

大事なのは、自分が一番望むものを理解しているかどうか。
そして、それを選べたかどうかです。

他人から見て正しいかどうか。
損か得か。
立派に見えるかどうか。

そうした基準よりも、
その選択が自分の内側から出てきたものかどうか。



そこが曖昧なままだと、
「やりたいこと」も「自己犠牲」も、どちらもただの言葉になってしまいます。

本当の意味で大切なのは、
自分にとって何が一番なのかを、自分で分かっていることです。



命を懸けてもやりたいこととは、過激な話ではありません。
誰でも、命の時間を使って、いまの行動を続けています。

ゴロゴロしている時間も、命の時間です。
であれば、一生懸命ゴロゴロしようという話です。
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