──「分からない世界」に耐えられない私たちがつくった安心の物語
科学がなかったら、今の生活は成り立っていないでしょう。
とはいえ、その科学はどこまで信じていいのでしょうか。
「科学=真実」と無意識に結びつけてしまっていないか、という点です。
科学がしているのは、世界そのものをそのまま掴むことではありません。
観測し、仮説を立て、検証を重ねながら、
測定できる範囲に限って、世界を説明するためのモデルを作っているにすぎません。
また、どんな研究が進むかは、
研究者の関心だけでなく、
資金や制度といった現実的な条件の影響も受けます。
すべてが自由に、同じ熱量で探究されているわけではありません。
エビデンスも同じです。
特定の条件のもとで得られたデータであり、
「これが絶対の真実だ」と証明するものではありません。
条件が少し変われば結果は変わりますし、
数値化できないものは、そもそも扱われません。
どこを切り取るか、何を指標にするかで、
結論はいくらでも変わってしまいます。
実際、歴史を振り返ると、
かつては正しいと信じられていたエビデンスが、
何度も更新され、否定されてきました。
それでも、エビデンスを「真実」のように扱ってしまうことは少なくありません。
本来は、「いまのところ、これが正しそうだ」
それくらいの距離感でいいはずです。
それでも断定したくなってしまうのは、
分からない世界に立ち続けることが、不安だからなのだと思います。
人は、「分からないまま」でいることに弱い。
多少あいまいでも、説明があったほうが安心します。
エビデンス信仰は、
真実を強く求めているというより、
不安を落ち着かせたい気持ちから生まれているのかもしれません。
この意味で、科学と宗教は少し似ています。
どちらも、不安を和らげる物語です。
違いがあるとすれば、科学は更新され続ける点でしょう。
問題は、エビデンスそのものではありません。
それを「世界そのものの説明」だと思い込んでしまうことです。
前提が間違っていれば、
その上にどれだけ理論を積み重ねても、
結論は簡単にひっくり返ってしまいます。
科学もエビデンスも、役に立ちます。
疑う必要はありません。
ただ、信じすぎる必要もない。
「いまのところ、こう考えるのが便利」
それくらいで扱っておけば十分です。
もし将来、
これまでのエビデンスがひっくり返ったとしても、
「へえ、そうだったんだ」で済ませられる。
そのくらいの距離感が、ちょうどいい。
専門家でもないのに、
正解か不正解かを決めたがるのは、
多くの場合、安心したいだけかもしれませんね。