価値判断という牢獄

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コラム
誰かではなく、「なに」が自分を縛っているのか
たとえば

朝、家族の支度に追われているとき、パートナーが何も言わずスマホを見ている。

その姿に、なんだかイラッとする。



職場では同僚が淡々と成果を出していて、自分はなぜか焦る。



SNSでは、誰かのキラキラした日常が目に入って、なぜか心が沈む。



こうした心の反応の奥には、「こうであるべき」とか「本当はこうじゃなきゃいけない」という、

無意識の価値判断がある。



けど、その基準って、

自分で決めたものじゃない場合が多い。



社会や誰かが当然のように語っていた正解を、

そのまま自分の内側に取り込んで、

いつの間にか、それが当たり前になっています。



この構造に気づかないまま、

「誰かのせいだ」と怒ったり、「自分がダメなんだ」と落ち込んでも、

人生のハンドルは自分の手に戻ってこない。



問題なのは、手伝わないパートナーや、輝いて見える誰かじゃない。

そう見える誰かを通して作動している「評価と比較の回路」そのものが、

自分を縛る見えない牢獄になっている。



自由は「正しさ」を降りた場所にある



多くの人が、「努力は美徳」「成功した人がすごい」っていう価値観を

何となく信じて育ってきたと思う。



「頑張らないと認められない」

「キラキラしてる人=勝ち組」



そんな信念に沿って動いていると、真面目に見えるし、ちゃんとしてる気もする。



でもその努力が、

自分の価値を条件付きでしか支えてくれないものだとしたら?



どれだけ頑張っても、「まだ足りない」っていう気持ちは消えない。



それって、ゴールのないレースを走らされているようなもの。



「成果が出たら自由になれる」という生き方は、

最初から、自由からは遠ざかっている。



じゃあどうするか。



もし誰にも評価されなくても、

「これが好き」「これをしてると楽しい」と言えるものがあるなら、

そこにもう自由はある。





自分の人生に、思想を持つということ



他人の評価で決まる人生には、

自分という軸がない。



そして、自分の軸がないまま生きていれば、

どれだけ自由を求めても、たどり着けない。



この世界には、無数の価値観や正解がある。



そのなかで、

「私はどう在りたいか」「何を心の基準にするか」を、

ちゃんと自分の感覚で選んでいく。



それが思想を持つということだと思う。



価値判断を手放すって、

「何も気にしない」とか「自由気ままに生きろ」って意味じゃなくて、

何を選び、何を選ばないか――その判断の根っこを、自分の内側に置き直すこと。





たった2つの問いで見えるもの



何かをやろうと思ったとき、自分に問いかけてみてほしいです。



これをしても誰にも褒められなくても、それでも私はやりたいか?

誰かに反対されても、否定されても、それでもやりたいか?



この2つの問いに「うん」と答えられるなら、

他人の目じゃなく、自分の意思に沿って動いていると言えませんか。



もしどちらかで引っかかるなら、

本音の部分では「誰かに認められたい」「否定されたくない」が先に来ているのかもしれない。



そしてそれは、

人生の決定権を、無意識に他人に明け渡しているということでもある。





喜びから動くとき、人は疲れない



純粋な喜びから動いていると、

認められなくても、人が寄ってこなくても、消耗しない。



だって、そこには無理がないから。



そして、そういう人のところには、

自然と本質を見抜く人が現れる。



見せかけの評価や、過剰な頑張りで惹きつける必要なんてない。

淡々と、ただ「好きだからやっている」

それだけで、十分に強い。





「自由に生きたい」

もしそう思うなら、

一度、正しさという重たい荷物をおろしてみてはどうだろう。



何が正しいかより、

何が自分にとって自然で心地いいかを選んで生きること。



それが、誰かの人生ではなく、

自分の人生を生きるということだと考えます。
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