世の中には「安心」を与える商品やサービスがあふれています。
それらは一見、私たちの味方のように見えます。
実は「持っていないと不安になる」ように設計されていることも多いのです。
それが、マーケティングの本質かもしれません。
保険、ブランド品、オーガニック食品、自己啓発、
スピリチュアル、宗教、引き寄せ、etc…
どれもよく考えないと“前向きな選択”に見えますが、
もしかすると私たちは、
その裏にある「不安」から逃れようとしているだけかもしれません。
不安を感じたとき、「安心」を手に入れようとするのは自然なことです。
けど、安心はいつの間にか依存に変わっていたとしたらどうでしょうか?
それはまるで、甘く優しいスイーツのように、
心にスッと染み込んで、やがて「それなしでは落ち着かない」状態を生み出します。
安心が癒し、それが習慣になり依存に変わっていきます。
この流れに気づかないと、よく言われる他人軸で生きることになっていきます。
たとえば──
・“救われる言葉”を求めて次々にセミナーを受ける
・未来を保証する誰かの言葉にすがりつく
・「これが正しい」と感じる教えを、他人にも強要してしまう
そうして安心の供給元を探すことは、誰にでも経験があると思います。
たしかに、安心が必要なときもあります。
人は誰しも、不安しかなければ、生きるのが辛すぎます。
でもずっと与えられる安心に寄りかかっていれば、
自分自身で現実を創る力が鈍っていきます。
なくならない安心は、「何があっても揺らがない自分自身の感覚」のこと。
外から与えられるものではなく、内側で育まれるものです。
とはいえ、いきなり「探すのをやめよう」と言われても難しいでしょう。
それほどまでに、安心は人の心に深く根ざした欲求だからです。
でも、ちょっと立ち止まってこう考えてみてください。
「私は何に安心を求めているんだろう?」
答えは一つではありません。
でも、あなたの内側から出てくる答えひとつひとつが、
スイーツのような安心から抜け出す第一歩になります。
人は、苦しむ誰かを助けたいと思うことがあります。
カウンセラーになりたいと考える人も、
誰かを支えたいという気持ちがきっかけかもしれません。
でもその奥には、「本当は自分自身が救われたかった」
という願いが潜んでいることもあります。
それは決して悪いことではありません。
むしろ、その気づきがあれば、
人との関わり方は誠実なものになっていくと思います。
「安心を売る人」「安心を求める人」という構造に無自覚なままだと、
いつの間にか、支配と従属の関係に巻き込まれてしまうこともあるのです。
そんなつもりがまったく無くても。
「安心を得ること」そのものが悪いわけではありません。
自分の深いところにある「なぜそれが必要なのか」を知らないとずっと終わることがありません。
未来を保証できる誰かはいません。
不安を煽る言葉や、確実な未来を語る人を見かけたとき、
「私はこの人に、どんな安心を求めているんだろう?」と考えてみてください。
安心を欲する気持ちは自然ですが、その欲求のあり方が、
誰かの安心を奪ってしまうこともある──その可能性に気づくだけで、
世界との関わり方は少しずつ変わっていくはずです。