自己啓発っぽいネタで軽くです。
考えたもの=読んだ、見た、聞いた、体験したものなどが大事
ある本を読んでいて終始そうだよなーと「激首肯」(大きく何度もうなづく様、造語)をしていたんですよ。
当たり前ですが、食べたものって自分の体を作る、んですよね。これ食に疎いとなんかわからないかもですが、そういうものですよねと。勝手に腹が膨れるとかは多分ないですよね。
読書だけではないものの、読書って本を読む=考えるのでそこが面白いというか、鍛えられるんですよね。別に映画とか、アートとかでもいいですし。
また、体験とかでもいいと。気づくとかもそうですよね。それが全てだというと大げさかもですが、多分その通りじゃないかと。つまり、それが全てなんですね。
普段考えてないと考えられない
友人が会議設計というかいい形で会議、つまり話をしたり、相互理解なり、または議論したりをやりたいと。そういうことを話していて、でもそれがある特定の会議(例えば1時間とか)でいきなりできるかというと、まあできないよねと。
これは何が言いたいかというと、普段から考えてこうかな、ああかな、こうすると話しやすいか、こうすると理解が深まるので資料を作っておくとか、自分が考えた分をまず「たたき台」にしてもらうか、事例だけ5分だけ前提を共有するためにインプット時間を作るかとか・・・そういうのって、会議をやるそこだけでうまくならないですよね?
または違う意味では、「これについてはどう思うか?」っていわれて瞬時に答えなくても、何も考えてなければ「いや、それはわからないですね」となる。ここで「わからない」のが駄目でなはなくて「関連していること」が多いことに関して無関心だとしんどいですよねってことになります。
考えないと死ぬとかはないんですが、僕は考えたいなと。考えるとは、ある種、問いを出したり、または課題解決でも課題発見でもなんでもいいのですが、そういう一連の行為です。考える=頭だけで哲学するみたいな感じを持つかもですが、それはなくて。もっと日常にあって、そこでインプットして、メモしてを繰り返して、そこで精査されて、ろ過ですね、そういうろ過されたものが出てくる(これがたまに出てくる図解とかです、外していることもありそうですが、考えてないと出てこないって意味だけは伝わるのかなと)わけです。
それが非日常だけ、つまり会議だけとか、何か出せるのではないと。日常の普段からのインプットなり、考えがないとできないって話ですね。
インスタントが悪いわけではないが、中長期かつ地味なものも大事
こういうと分かりやすいものとか、すぐ楽しめるとかを否定していると思われますが、それだけじゃないですよねってことですね。
極端なものもどうかというわけです。
例えば、インスタント食品を食べるなとは言わないですし、とはいえ毎日手作りごはんも大変ですよねと。そこでバランスを取っていくしかないので、ってなると、結局地道に学びつつ、そこにたまにだるいならインスタントを入れると。外食も人と飲むならそこで付き合いで食べればいいわけで、ここも調整ですよね。
というわけで、自分が見て聴いて得るものが全てなので、色々吟味するのもいいのかなという話でした。