無職中年のまぁくんです。今日も、求職活動をぼちぼちやりながら、それでも余りある時間を使って、自分の人生を振り返っています。
自分を知ることは大事だけど、あんまり「自分自分」てなるのも健全では無いよなー、と思いつつ、こういう境涯になるとつい、自分の過去を振り返ってしまうものですね・・・。
それはもう、30年近く前の思春期の話
僕は、たくさんの友人知人と交わってワイワイするタイプでは無いので、これまでの人生50年弱、どっちかというと1人黙々な時間が多めの人間です。
ただ、引きこもり期間の前と後は、外形的にはそれなりに人と交わってやってきました。どっちかというと、多数の輪の中でワイワイやるより、1on1な対話の方を好むタイプです。ただ、前々回・前回の記事で書いたように「さとり」だとかに興味を持つ人間なので、変わり者の部類には入る気がしてます。
さて、引きこもりになったのは、18歳・大学1年生の5月、GW明けでした。今思えば、典型的な「五月病」と言えるのかもしれません。
結論だけ先に言うと、11月に引きこもりをやめるきっかけを掴んで外に出ました。それまでずっと千葉で実家暮らしでしたが、住み込みのアルバイトを見つけて長野に行きました。なので、引きこもり期間としては、7ヶ月と言うことになります。
引きこもりコースへの歩み
大学1年生の5月に引きこもり生活を始めた、とはいえ、いきなり5月に引きこもりになったというより、その下地は前からありました。高校3年生の秋口から閉塞感が強まっていたし、さらにいえばそのもっと昔から引きこもりに向かうコースに乗っていた気がします。
私は、いわゆる教育ママな母親のもと、小学校高学年から受験勉強をし、母親の提示する指針のもとにガリ勉しておりました。小中学校までは、比較的「神童」寄りなイイ子でした。
雲行きが怪しくなったのは、中高一貫のエスカレーターで入った高校時代から。この頃から、徐々に自分の身の振り方を考えなければならない時期に入りました。私はそれまで、絶対的に依存する親や教師の示す指針に判断を頼り切っていたので、「自分の責任のもと、自分の判断で右か左か選びなさい」という状況に直面して、足がすくみました。
選択という恐怖
「君は何がしたいの?」と言う問いを突きつけられるのが、恐怖になりました。当時は無自覚でしたので、単にストレス・苦悩を深めるだけでしたが、今思い返せば、僕の心の声は下記のようなものだったと思います。
僕は、何をすべきか示してもらって、それを一生懸命やることだけやってきた。
そんな僕に、『何がしたいか?』なんて問われても困る・・
今よりもっと未熟だった僕は、自分が上記のような思いを持っていることを自覚できなかったし、ただただ、恐ろしい状況が次々現れて、追い込まれている感覚に苦悩するばかりでした。そして、未来に希望を抱いて歩む周りを見て、「どうも俺は周りと違って、変人らしい」という思いを募らせていきました。
そんな中、当時貪り読んでいた E・フロム『愛するということ』を小論文に書いたら合格したので、大学へ進学したのでした。学部は社会学・心理学系で、それら学問を勉強すれば、この変人の自分を「修理」できるんじゃないか、という思いでした。
しかし、大学1年生の4月1ヶ月を過ごす中で、サークル選び、授業選択など、己の意志での選択機会は爆発的に増えて、私の疲弊は一気に増大しました。
引きこもりになった直接的な「原因」を私の主観で言えば、「選択の恐怖から逃げた」ということになります。社会心理学者 E・フロムっぽく言うと「自由からの逃走」とでも言いましょうか。
自分は欠陥品だ、という思いの増長
大学1年生のGWに、4月の選択の嵐に疲れ切って、「もう僕に選択を迫らないでくれ」「選択機会のある場には怖くて出られない」となって、黙って実家の自室に引き篭もりました。
親は、当惑の後、なだめたり、脅したり様々して僕を引きずり出そうと試みましたが、僕は頑なに籠城しました。飯は、家人が寝静まった深夜に冷蔵庫を漁って食う状態。風呂に入らず髪も切らず、自室に持ち込んだテレビと、高校時代に大量にストックしていた積読本だけで時間を過ごしました。
思えば当時は、まだスマホどころか携帯も普及直前の時期。今の時代に比べて、存分に籠城ができる環境だったと言えるでしょう。心配した友人が何度か電話を実家にくれて、親がそれを取り継ごうとしてくれましたが、もちろん私はそれも無言で無視しました。その呼び出しは、ありがたいことなんですけど、当時は苦痛でした。「俺のことは放っといてくれ」と。
私は、焦っていました。周りは大学生活を謳歌するのに、俺は大学生活を恐怖している。皆、嬉々として自分の好みや意志で、様々な選択をして場を作っているのに、俺は選択が恐怖であり不可能。
自分は恥ずべき欠陥品だ。この欠陥を、自力でなんとか「修理」し、普通レベルになって恥ずかしくない状態にして、外に出られるようにせねば!そう思い、その答えを求めて、積読本を読み漁り、映画を見まくってました。
修理できない絶望
私が引きこもりを始めたのは、春の嵐が吹き荒れる頃でした。今でも思い出しますが、ちょうど引きこもり開始した頃に、プロ野球ではオリックスの野田浩司投手が、春風吹き荒れる千葉ロッテの本拠地(今のZOZOマリンスタジアム)で日本記録の1試合19奪三振の記録を作ってました。
それが、夏の甲子園が終わる頃になっても、僕の「修理」活動は、全く思うように進展しませんでした。徐々に、これは修理不能ではないか、との絶望感が高まっていきました。
当時、俳優の佐野史郎さんが演じる「冬彦さん」と、故・野際陽子さん演じる母親の病的な共依存関係を描いたドラマが有名でした。僕は、自分が冬彦さんと同じ生き方しかできない、という強迫観念を強めていきました。
その頃になると、深夜徘徊して食料を漁って生きる自分の有り様を、ゴキブリのように感じられて、さらに自己嫌悪がMAXになっていきました。「俺は、ムダ飯食いだ」「生きてるだけで迷惑千万、消え失せた方が世のため人のためだ」という思いばかり募るようになりました。
そして、秋のある日、自分で自分を手掛ける決心をしました。深夜に家を出て、近所の思い出の地(通った幼稚園とか小学校とか、幼少時に遊んだ公園)をサヨウナラしに巡礼し、明け方にそれを試みたのでした。迷惑にしかならない欠陥品の自分を、皆さんのいる世界から退出させる、というような心持ちでした。
退出もできない自分
朝日が登ろうという秋の早朝、この世から退出を試みたのですが、結果は失敗しました。あまりに痛すぎて、ことを果たすまで耐えきれずに脱出してしまったのです。半ば呆然としつつ、「俺は、迷惑千万な自分を退出させることすらも出来ないのか」と一層絶望しました。
ただその直後、僕は、それまでになかった不思議な体験をしました。それは、幽体離脱したような視点になり、その有り様を眺めたのです。
そこには、18歳の若者が、ぶざまを恐れて挑戦を避け、この世からの逃走を図ろうとしてそれも出来ずに打ちひしがれている様子でした。それを、僕自身のことというより、近所の可哀想なにいちゃん、みたいな感覚で見たのでした。
すると、私の腹の底から哀れみの感情が爆発的に沸き起こり、私はワンワンと大泣きしました。それまでずっと、自分で自分を恥入り責めることだけしていましたが、その時になって「俺はなんと哀れな子じゃないか、まだ何もしてないのに、自分で自分を縛って、何の挑戦も失敗もする前から退出しようとしている」と自分で自分が可哀想に感じたのでした。
その後は今度、激しい怒りが湧き上がってきました。「お前、勝手に自分は情けないだとか、自分は恥ずかしいだとか言って、バッターボックスにも立たずに試合放棄しようとしてる、本当は試合したいくせに、何もせずに『どうせダメなんだから』と放棄しようとしてるとは、何事だ!」と。
絶望の向こうに希望があると思ったら絶望があり、そして自分を哀れみ、自分に怒ったのでした。
良いとか、悪いとか知らん!と開き直る
結果的に、僕はその時に、自分で自分を縛り付けていた枠を手放したのでした。良いとか悪いとか、立派だとか恥ずかしいとか、もう知ったこっちゃねぇ、と。
そして、自分のその時の本心を知ったのでした。「俺はモテたい、女の子とHしたい、それもせずに死ねるか」と。冗談抜きで、引きこもりも、自分で自分をこの世から退出させるのも、やめた理由はそれでした。
良いとかダメとか、俺の知ったことか、という気になりました。本格的にダメなら、逮捕するとか処刑するとか、誰かが処分してくれるでしょう、というくらいに開き直ってました。
(結果的に、社会から処分させるようなことを起こさず、これまで来れたのは、実に幸いです)
そうなったら、爆発的に行動を始めました。まず風呂に入り、美容室へ行って「僕をカッコよくしてください」という恥ずかしいオーダーをし、身なりを整えたら家を出られるアルバイトを探しました。
今思い返しても、ボサボサ頭で「僕をカッコよくしてください」というコミュ障丸出しの僕に、顔色ひとつ変えずに「そこ座りな」とカット台に案内してくれた美容室のお兄さん(今はもう初老でしょうが)には、感謝してもしきれません。
正解/不正解とか、成功/失敗とか、立派/恥ずかしいとか
今、思い返せば、いい子まっしぐらで来ていた当時の僕は、自分で二元論の枠を作って自縛されていました。そして、正解・成功・立派でありたい、というよりは、不正解・失敗・恥ずかしいになることを恐れて回避しようとしていました。
つまり、「こうありたい」という希望・理想に向かっていく姿勢ではなくて、「こうなってはいけない」という恐怖・地獄を回避する姿勢でいました。恐怖と回避にドライブされて思考・行動しているので、踏み外せない平均台の上を恐る恐る足を出しているような状態だった、と思います。
それを、「踏み外して怪我しても死んでも知るか、そうなったらそうなった時のことよ。どうせ一度捨てた命なんだから。踏み出したい方に足を出して、その結果はその時分かるさ」という気構えにさせてくれたのが、一連のその時の出来事だった、と思うのです。
あれから30年近く
あれから30年近く経ちました。もちろん、その30年間も、死のうかと思うような悩みの時期もあったし、「これでよかったのか、あれで合ってたのか」とあとで思い悩むことも多々ありました。
ただ、バラエティに富む体験ができたのだけは、確かです。もしあのまま、自暴自棄の道を進んでいたり、試みた退出が成功してしまってたら、良いも悪いもない僕の物語は存在しなかった。
もう今では思い出せない人も含め、たくさんの人と行動を共にし、結果的に思い出もできた。その思い出は、お相手にとって、社会にとって、良いことだったのかどうかも分からないけど、ふと、「あんなやつ居たよなー」「あんなことあったなー」と思い返してもらえることは、多々あるでしょう。
「引きこもりコミュ障だって、ここまでは来れるぜ」って、いつか、後進の引きこもりコミュ障に言って背中を見せたい、と思って生きてた面もあります。残念ながら、まだまだ、誇らしげに背中を見せて「Follow me!」と言える状況ではないんですが・・・。
そう考えたら、まだまだまぁくんの旅路は続きが長そうです(笑)。