ネット記事も含めて論壇上で時々古文や漢文の不要論(生徒全員に教える必要はないとか、受験の際試験問題として必須化するなとか、古文はいいが漢文はいらないとかパターンは色々である)が展開されることがある。それらは反対する声も大きくてさほど大きな波とはならないが、ここで不要論に反対する論者の一人として私見を披露しておきたい。
文系・理系の枠を超えた一般教養云々ということもさることながら、古典の授業には同じ文系の科目、具体的には歴史や倫理の内容を補う側面がある(現状では私の期待する通りにはなってはいないであろうが)。
例えば日本史の授業において、日本神話や神武天皇を始めとする今日の古代史学界では実在が疑問視されている天皇に関する知識が教えられることは殆どないであろう。天皇制アレルギーがない教師が余談として言及することはあるかもしれないが、大多数の日本史教科書には神話は載っていないはずである。
世界史の教科書の中国史の箇所も有史時代は殷から始まっていて、堯舜や夏王朝の伝承に触れているものは恐らく皆無であろう。副読本類についても同様だと思われる。
しかし、和漢共通して古人は神武天皇や堯舜を実在の人物と信じていたのであり、当然江戸時代の儒学者や国学者たちはそれら聖賢や神々の実在を前提に自らの学問の体系を打ち立てている。社会科の授業では無理だとしても、何らかの形で殷や邪馬台国以前の“歴史”についても生徒に向かって解説する必要がある。
日本史や倫理の授業において、偶々担当教員が江戸時代の儒学・国学における「信仰」の対象について触れることもあるかもしれないが、恐らく補足説明的なレベルに止まっているであろう。大多数は儒学者や国学者の名前を暗記させてそれらの学説の大雑把な特徴をついでに覚えさせている程度であろう。
尤も、高校までの授業ではこれ以上のことは望むべくもないのかもしれない。それでも、堯舜や高天原神話についてろくに教えずに、やれ仁斎・徂徠だの宣長だのといった人物名と彼らの思想に関するキーワード的術語だけを生徒に暗記させるというのもあまり感心しない。
古文や漢文の授業は、思想史や文献学史の理解度を深める上で役に立つ。教材がたとえ『古事記』や『源氏物語』や経書でなくとも、儒学者や国学者が考察の対象としたテキスト群と基本的に同じ文体のものを教わることができる。すなわち彼らが目に通したであろう文献を現代の学生も味わうことができる。そういった場で、歴史の教科書には載っていない「唐虞三代」や記紀神話に関わる説明を教師がすることは自然な流れである。
古代以来日本人の精神生活に大きな影響を与えてきた神話・伝承を国語の授業において教えることができれば、林羅山だとか荻生徂徠あるいは宣長・篤胤の名前は知っているがその思想的背景については全く無知という事態も多少は是正されるのではあるまいか。要するに国語の古典の授業と社会の歴史系の科目のそれとを有機的に展開する必要があるということである。
勿論、歴史や倫理の教科書には関連史料の一部が引用されていることがあるし、担当教員が自前の史料集を用意するケースもあるだろう。しかし前述のように、神話・伝説時代について記述された史料やそれらを踏まえた儒学者・国学者の著述が原文のまま載ることは必ずしも多くはあるまい。
古文・漢文の授業は、古の学者が解明しようと試みた“聖なる時代”の端緒に触れる、あるいは彼らの作業のおおもとを理解するものとして重要なものなのである。