生成AIの普及により、英語の医療文献や診療記録を翻訳するハードルは、以前よりずっと低くなりました。
日本語の文章を入力すれば、数秒で英語訳が返ってきます。専門用語もそれらしく訳されるため、一見すると十分な品質に思えるかもしれません。
しかし、医療英語には、一般英語としての意味を知っているだけでは、正しく訳せない表現が数多くあります。その逆も然り。。。
今回は、医療英語の具体例を通して、なぜ医療翻訳には文脈を読み取る力が必要なのかを考えてみます。
1. 「walk-in」は「予約なし」? 医療現場では意味が変わる
先日、ハイフンのついた名詞を研究していた中で、
walk-in という単語に再会しました。
辞書では「予約のない」という意味が紹介されていました。
確かに、一般的な英語ではその理解で間違いではありません。
例えば、次の文章です。
We accept walk-ins.
(予約なしの方も受け付けています)
でも、救急医療の文脈では、walk-in patient は、救急車ではなく、自家用車や、徒歩、電車、バスなど救急車以外で来院した患者を指しています。
例えば、次のような分類です。
Ambulance:救急車で来院
Doctor car:ドクターカーで来院
Walk-in:救急車を利用せず、自力で来院
ここで注意したいのは、walk-in が必ずしも「徒歩」を意味するわけではないことです。家族の運転する車やタクシーなどで救急外来を受診した患者も、このカテゴリーに含まれる場合があります。
つまり、救急カルテの「来院方法」に walk-in と書かれていた場合、単純に「予約なし」と訳すと、記録が伝えようとしている情報を取り違えてしまいます。
そもそも救急外来では、予約の有無よりも、救急車で搬送されたのか、自力で来院したのかという区別が重要になる場面があります。
同じ英単語でも、何について説明しているのかによって、適切な日本語訳は変わるのです。
2. 医療英語には、一般英語とは異なる使われ方をする表現がある
walk-in 以外にも、医療現場では一般英語のイメージだけでは理解しにくい表現がたくさんあります。
例えば、次のような単語です。
Complaint:苦情ではなく「主訴」
一般英語の complaint は「苦情」という意味でよく使われます。
しかし、医療現場で chief complaint といえば「主訴」です。
Chief complaint: Chest pain
これは「胸痛が主訴」という意味です。
患者が病院に苦情を申し立てているわけではありません。
Discharge:退院? それとも分泌物?
discharge には「放出する」「排出する」などの意味があります。
医療現場では、文脈によって次のように使われます。
The patient was discharged home.
患者は自宅に退院した。
Purulent discharge
膿性分泌物
同じ単語でも、患者の退院について述べているのか、身体から出る分泌物について述べているのかで、訳語はまったく異なります。
Present:提示するのではなく「症状を呈する」
医療文献や診療記録では、present with ~ という表現も頻繁に登場します。
The patient presented with abdominal pain.
この場合、患者が何かを提示したという意味ではありません。
「患者は腹痛を呈して受診した」などと訳すのが自然です。
Impression:「印象」ではなく診断上の評価
画像診断レポートなどに記載される impression は、一般英語の「印象」とは異なります。
画像所見などを踏まえた総合的な評価や、診断上の見立てを示す見出しとして使われます。
例えば、放射線科レポートの Impression は、検査結果を踏まえた結論や診断的評価に相当することがあります。
このように、医療英語では単語の辞書的な意味を知っているだけでは、正確な翻訳ができないことがあります。
3. AI翻訳の精度が上がっても、人による確認が必要な理由
生成AIは、医療翻訳においても非常に便利なツールです。
専門用語の候補を調べたり、英文の構造を把握したり、翻訳のたたき台を作ったりする作業では、大きな助けになります。
一方で、AIが出力した文章が自然な単語のチョイスになっていることと、医学的に正確であることは、同じではありません。
例えば、先ほどの walk-in という単語。
一般的な文脈では「予約なし」という訳が適切でも、救急カルテの「来院方法」という項目に書かれていれば、別の意味で使われている可能性があります。
単語だけを切り取って翻訳するのではなく、次のような情報を確認する必要があります。
文書の種類:救急カルテ、退院サマリー、画像診断レポート、医学論文など
記載されている項目:来院方法、主訴、診断、検査結果など
前後の文脈:その単語が何を説明しているのか
医学的な整合性:訳文が医療現場の実際の運用や医学的知識と矛盾していないか
こうした確認を行わず、AIの出力をそのまま採用してしまうと、文章としては自然でも、原文の意図からずれた翻訳になるおそれがあります。
もちろん、人間の翻訳者も間違えることがあります。医療翻訳だからといって、AIより必ず正確だと言い切ることもできません。
大切なのは、AIか人間かという二者択一ではなく、AIの利便性を活用しながら、医学的な知識と文脈の理解に基づいて訳文を検証することだと考えています。
4. 医療翻訳で大切なのは、英語力だけではない
医療文書を翻訳する際には、英語の読解力に加え、医療の知識や、実際の医療現場でどのような表現が使われるのかを理解することも重要です。
例えば、救急カルテに記載された短い単語でも、記載欄によって意味が変わることがあります。
また、医学論文と診療記録では、同じ概念でも適切な訳し方が異なる場合があります。
原文の意味を正確に理解したうえで、文書の目的や読み手に合った単語を選択する。
そのためには、単語の置き換えだけではなく、「この文書は何を伝えるために書かれているのか」を考える姿勢が欠かせません。
AIを活用できる時代だからこそ、翻訳結果を精査し、必要な修正を加えられる専門性が重要と考えています。