私には絶対音感があるのみならず、耳にした音楽のほとんどは、メロディ、ベースライン、コードネーム等、はっきり聴き取れており、その気になればすべて楽譜に書き起こせるという特技があります。これはサヴァン症候群と言われる、自閉症の人がしばしば持っている「症状」であり、私の場合は極端な数学の能力と極端な音楽の能力に現れているわけです。
私は46歳の無職です。「できることとできないことの差が極端」で、「普通の仕事」は勤まらず、去る2022年2月28日に仕事を失ったのです。そんな私ですが、自分より(この意味で)耳のいい人に出会ったことはありません。それにかんするエピソードを2つほど書きたいと思います。私はずっとクラシック音楽畑でやってきました。スクリャービンという作曲家とラフマニノフという作曲家の和声(和音)が私にはどう聴こえているか、書きたいと思います。
いまから30年くらい前の話です。買ったCDのなかにスクリャービンの「法悦の詩(うた)」というオーケストラ曲が入っていました。(レオポルド・ストコフスキー指揮ヒューストン交響楽団。)そのCDはいまでも持っています。あの時代はインターネットがなく、携帯電話やメールアドレスといったものもほとんどの人は持っていませんでした。もちろんYouTubeもありません。音楽を聴くとしたら、CDを買うしかありませんでした。そして、どこで読んだのか忘れましたが、ある音楽評論家が書いている「スクリャービンは『法悦の詩』において、4度を多用している」という記事がありました。私は純粋にふしぎに思えました。なぜなら、高校生のころの私には、スクリャービンが多用しているのは「4度」ではなく「長3度」であるように聴こえていたからなのです。(「4度」とは「ド」と「ファ」のような関係の音程で、「長3度」とは「ド」と「ミ」のような関係の音程です。)なぜその音楽評論家は「スクリャービンの『法悦の詩』では4度が多用されている」と書いたのだろうか。しかし、私にはだんだんわかってきました。多くの人は、そう書かれても「(スクリャービンがほんとうに4度を多用しているのかは)わからない」のです。その評論家が、どのようにスコア(総譜)を読んで、そのように書いたのか、私にはわかりません。しかし、私の耳は確かです。
「法悦の詩」はスクリャービンの後期の作品でした。だんだん他のスクリャービンの作品も知るようになりました。たとえば、同じようにスクリャービンの後期の作品であるピアノ・ソナタ第9番「黒ミサ」でも、長3度が多用されているのが聴き取れます。スクリャービンの作品を大きく「前期」と「後期」にわけますと、前期の作品のほうが「常識的な」和音を用いています。多くの人は「若いころのスクリャービンはショパンの影響下にある」というふうにお書きになります。スクリャービンは後期の作品のほうが独特の響きがします。それは、スクリャービンは独特の和音を使うようになったからです。それは長3度の多用に象徴されます。
もうひとり、クラシック音楽の作曲家を挙げます。ラフマニノフです。ラフマニノフの作品も大きく「前期」と「後期」に分けましょう。ラフマニノフのよく好まれて聴かれている作品は、「ピアノ協奏曲第2、3番」「交響曲第2番」「ヴォカリーズ」といったところだと思います。これらを「前期」の作品と呼びましょう。それらの作品の多くは、和声の使いかたおよび和声進行は後期と比べてだいぶ「常識的」であると思います。しかし、ラフマニノフの最後の作品となった「交響的舞曲」とか、ラフマニノフの最後から2番目の作品である「交響曲第3番」といった作品は、かなり聴く人に複雑な印象を与えるようです。とくに「交響的舞曲」に顕著な傾向です。私にはそのラフマニノフの「秘密」が耳で聴き取れています。ラフマニノフは、決して変わった和音を使っているのではなく、「和声進行(コード進行)」が独特なのです。(ラフマニノフは変わった和音を使うこともありますが、おおざっぱにいって、ラフマニノフの最大の特徴は、和音そのものより和声進行が独特であることにあります。)
あるとき、私は弟から質問を受けました。私の弟はそのころバンドをやっており、そのころもYouTubeのようなものは存在しませんでした。彼は私にあるCDを聴かせました。それは、ある外国のバンドのCDであり、「独特の響き」のする音楽でした。彼は、「これはどういう和音を使っているのか」と私に聞いて来ました。私の耳がいいことを知っていて聞いてきたのです。私にはよくわかりました。そのバンドの曲は、使っている和音は普通のものでありましたけれども、和声進行(コード進行)が独特であることです。私は彼にそのように説明し、クラシック音楽での例として2つを挙げてCDを聴かせました。ひとつはドヴォルザークの「新世界交響曲」の第4楽章に出て来る、「使っている和音は普通だがコード進行が独特で、絶妙の効果を上げている場面(一瞬ですが)」と、もうひとつがラフマニノフの「交響的舞曲」の出だしでした。彼が納得したかどうかはわかりません。そのバンドがどういった曲であったかはもう思い出せませんが、それは雰囲気としてはドヴォルザークともラフマニノフともだいぶ異なったからです。しかし、「使っている和音は普通だがコード進行が独特」である点は共通していました。
私が学生時代であった30年前は、ラフマニノフの「交響的舞曲」を「ラフマニノフの駄作」と書く音楽評論家が複数いたものです。少なくとも東京でもいました。あるとき、シャルル・デュトワ指揮モントリオール交響楽団が来日し、ラフマニノフの「交響的舞曲」を演奏したとき、ある評論家が「デュトワ指揮モントリオール交響楽団は、このようなラフマニノフの駄作でも名演を成し遂げた」と書いていたことをよく覚えています。私ははじめてこの曲を聴いたとき(ウラディーミル・アシュケナージ指揮コンセルトヘボウ管弦楽団のカセットテープ)から、この曲は大変な傑作であると感じていました。そして、2022年現在では、もはやラフマニノフの「交響的舞曲」を「ラフマニノフの駄作」と呼ぶ評論家はいなくなり、これはラフマニノフの傑作であるという評価が定まっています。時代がラフマニノフに追いついてきたのですね。つまり、この曲を「ラフマニノフの駄作」と呼んだ30年前の評論家たちは、「前期」の作品のようなものをラフマニノフの傑作だと思っていたので、「後期ラフマニノフ」の晦渋さが理解できず、そのように言っていたということが、いまとなってはわかります。(ラフマニノフは、後期の作品でなくても、独特の和声進行を聴かせる作品もあります。ただ、晩年の作品に顕著です。)
そのようなわけで、私には耳でほとんどすべてが聴き取れております。そして、私はずっとクラシック畑でやってきたのでした。私は自分に向いている音楽のジャンルを間違ったのかもしれません。しかし、私にはクラシック音楽というジャンルはしばしば複雑な和音を使っているという実感があります。大学で厳しいオーケストラに入って以来、ひたすらクラシック音楽一辺倒となった私ですが、やはり私はクラシック音楽の道に進むべくして進んだという気がしています。
本日は、後期スクリャービンと後期ラフマニノフの和音について、私の耳ですぐに聴きとれることを書いてみました。以上です。お読みくださりありがとうございました。