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みのり|笑顔と癒しのほっとカフェ✿
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心を軽くするプロ♡心が晴れる時間♪
女性
  • 本人確認
  • 機密保持契約(NDA)
  • インボイス発行事業者 未登録
  • 販売実績 47
  • 評価 4.9
  • フォロワー 257
納品ごとの予算目安
  • 悩み相談・カウンセリング

    雑談から深い悩みまで幅広い共感が得意です

    ■認知症介護、病気介護、介護ストレス

    ■人間関係(家族、職場、地域、親戚)

    ■ 子育て、不登校、引きこもり

    ■不倫、恋愛

    ■夫婦、離婚、別居、

    ■吃音症、家族の病気

    ■将来の不安、悩み、焦り

    ■愚痴、不平不満、ストレスお悩み相談

    心を軽くする。元気サポート。習慣サポート

スケジュール

10/6 (火) 18:00 〜 待機再予定...

誰にも言えないモヤモヤまるっと受け止めます。一人で悩む夜はもう終わり。あなたの心に寄り添います✿

「こんなこと、誰にも言えない…」 そんな思いを一人で抱え込んでいませんか? 話がまとまっていなくても 泣いてしまっても大丈夫です。 あなたのペースでお話しくださいね✿ ✼•┈┈•✼ はじめまして! 日常に起こる困難を “フルコース”で経験してきた みのりです"(˶◜ᵕ◝˶)゜ ドラマのような波乱万丈な人生… ではないけれど 誰にでも起こりうる 「日常の中の苦労」を これでもかと経験してきました。 ✻夫の不倫からの離婚と  下の子が1歳の  ワンオペ3人の子育て ✻子どもの小児喘息や  不登校・引きこもりに  頭を悩ませた日々 ✻父親の重度認知症と  母親の大腸がんのダブル介護  そして二人との悲しい別れ ✻職場の人間関係の  ストレスから生じた吃音症… 一つ一つが辛く悲しく孤独で 「どうして私ばかり…」と どん底や絶望を感じた夜が 何度もありました。 ✼•┈┈•✼ そんな暗闇の中で 私を救ってくれたのは 私の弱音や愚痴、 不安を否定せず ただ黙って寄り添い 聴いてくれる人の存在でした。 「大丈夫だよ」 「そのままでいいんだよ」 そう言ってもらえたことで 心がふっと軽くなり 言葉を出した分だけ「心の余白」や 小さな安心感が生まれていったんです。 そこから一歩を踏み出す力が湧いてきました。 「話を聴いてもらうってすごい!」 身をもって実感したからこそ 今度は私が、あなたの どんな気持ちも安心して話せる “心のよりどころ”になりたいと 思っています。 暗闇にいる時って 何が悪かったんだろう… そればかり考えますよね。 どん底を抜けた私が 今度はあなたを暗闇から 出られるようにお手伝いします。 ✼•┈┈•✼ たとえば、こんなお話や 場面にそっと寄り添います。 ✿夫婦関係や離婚  誰にも言えない恋愛の悩み ✿子どもの不登校・引きこもり  病気に対する不安や焦り ✿介護の重圧や疲れ  大切な人を亡くした深い孤独 ✿職場や日常の人間関係の  ストレスや愚痴を吐き出したい ✿誰にも言えない後悔や罪悪感  なんとなく寂しい 「こんなこと話していいのかな?」 と思うようなお話も大丈夫です。 ✼•┈┈•✼ 【私からのお約束】 ✔無理に前向きにしたり  不要なアドバイスはしません ✔答えを急がないで  あなたのペースに寄り添います ✔話がまとまっていなくても  泣いてしまってもそばにいます あなたが「話してよかった」と思えるように どんなお話もそのまま受け止めます。 心の荷物をいったん脇に置いて ひと息つくために、まずは安心して お電話くださいね♪ ✿もちろん秘密は厳守します ✿批判や否定はしません ✿匿名でご利用いただけます あなたが少しでも心を軽くして 笑顔を取り戻せるよう 最後まで寄り添います♪

出品サービス(15件)

ポートフォリオ

職種・スキル

経験職種

ビジネス・クリエイティブツール

  • Google ドキュメント 経験年数 : 3年

  • Word 経験年数 : 2年

  • ChatGPT 経験年数 : 2年

  • Canva 経験年数 : 3年

  • ペライチ 経験年数 : 2年

その他ツール

  • 介護職で磨いた寄り添い力 経験年数:20年

得意分野

  • ・雑談から深い悩みまで幅広い共感が得意です

    ▶今日、こんなことがあったよ(嬉しいことも、嫌なことも) ▶ストレスMAX、イライラ爆発、おさまらない気持ち ▶将来のことを考えると眠れない ▶スキマ時間に、ちょっとだけ話したい ▶一人でちょっと寂しいから誰かと繋がりたい ▶他人だからこそ遠慮なく話せる話 ▶こんなこと、言ってもいいのかな… ▶クーポン利用もお気軽に なんでもお話しください。圧倒的包容力でスタンバイ中です(^o^)

    ・■認知症介護、病気介護、介護ストレス

    ▶軽度認知症から重度認知症まで悩みに寄り添います ▶つらく当たったり、力任せに介護して、後から後悔がでるとき ▶介護ストレス、誰にも話せない、理解してもらえない ▶罪悪感や孤独感、いつまで続くのかという不安 介護職20年(ケアマネ3年)両親の介護と看取りを経験しました。 家族目線とプロ目線でお話しお聞きします。 どんな気持ちもあなたの優しさが根っこにあるから。 安心しに来てください。

    ・■人間関係(家族、職場、地域、親戚)

    ミドル女性は母、娘、妻、嫁など 役割が多くて、その分人間関係が多岐に渡ります。 職場の人間関係につまずいて吃音症になったことや、 夫の不倫が原因で離婚したことで心が病んだ経験もあります。 でもそのおかげで、対人スキルが高くなりました(笑)。 人間関係に悩まれている方は繊細な方が多いです。 私の人生経験の全てを使って、あなたの心を軽くします。 心を軽くして人生も軽くしましょう♪

    ・■ 子育て、不登校、引きこもり

    3人の子供を育ててきました。 いじめられていることにに気づかなかった、 心配し過ぎて子どものつらさを長引かせた、 などいろんな失敗をしてきました(^_^;)。 でもその分、あなたのお役に立てると思っています。 心配のし過ぎは良くないものの 母親なら心配するのも仕方ないと思うんです。 母としての苦痛や葛藤、頭では分かっていてもできない苦しみ。 そんな感情や気分転換に寄り添います♥*゜

    ・■不倫、恋愛

    夫の不倫からの離婚を経験しました。 その後は秘密の恋愛も… 不倫してる側、された側の 両方の痛みを受け止めます。 どんな想いも否定しません。 否定されて自己肯定感が低いときは 優しくされると心が揺れますよね… 揺れた経験のある私が話を聴きます! 自分を責めてしまうあなたが 自分を肯定できるように 精一杯寄り添います♪ あなたはあなたのままでいいんです(´▽`*)゜

    ・■夫婦、離婚、別居、

    私自身は子供が小さいころに 離婚していますが、 日々悩み苦しんできたことを生かして あなたの悩みに寄り添います。 ▶結婚 数十年。会話がない ▶お互いの不満。言えないままチリが積もって心が限界 ▶今さら離婚しても…どうすればいい? 状況はお一人お一人違うもの。 あなたの応援団長になって100%味方になります。 どんな選択でも自信を持って人生を送れるようにエールを送ります!

    ・■吃音症、家族の病気

    一時的ではありましたが、人間関係につまずいて強いストレスから吃音症になった経験があります。また、母親の大腸がん。子どもの境界性パーソナリティー障害。家族の病気もまるで自分のことのように苦しんで、空回りしたことも。そんな辛さも失敗も私の人生の宝です。その経験であなたの今の苦しい気持ちに寄り添います。否定されない安心安全の居場所を用意して待っています(*´▽`*) 。まずは、ほっとしに来てくださいね♪

    ・■将来の不安、悩み、焦り

    将来のことは分からないからこそモヤモヤするんですよね。 言葉にして、吐き出すことで整理できます。 ▶何にモヤモヤしているか ▶何に取り組むか ▶何を手放すか 分かると安心できます。 一緒に探します。 ▶何かしたいけど、やりたいことが無い ▶やりたいことが分からない ▶気になっていることがあるけど誰にも言えない そんなあなたが生きやすくなるための 小さな一歩をお手伝いします

    ・■愚痴、不平不満、ストレスお悩み相談

    どんな感情もどんな思考も、宝物。 ダメだ、イヤだと否定しないで、 じっくり向き合ってみませんか? そのままにしないで ・言葉にすること、 ・吐き出すことで、 離れて 冷静に 見ることができるようになります。 そこから、 本当はどう感じていたのか、 どうしたいのかが見えてきます。 「納得」と「安心」が感じられたら それがあなたの答えです(^^♪ 一緒に見つけます

    ・心を軽くする。元気サポート。習慣サポート

    どんな悩みも一度言葉にすることで 軽く感じるようになるものです ここでは心の余白作りを大切にしています その余白に、安心や元気やパワーがやってくるんですよ 新しい発想も行動のヒントもやってきます 一緒に心の余白を作るお手伝いをします また、よく、話していると元気になると言われます あなたに元気のバトンを渡せるのを楽しみにしています♪ 習慣化したい方のご依頼も大歓迎!

    • 介護
    • 子育て
    • 人間関係
    • 離婚
    • 不倫
    • kindle出版
    • 電話相談
    • 浮気
    • 夫婦
    • 悩み相談

資格・検定

  • 介護福祉士 取得年:2015年

  • ケアマネジャー(介護支援専門員) 取得年:2015年

  • ホームヘルパー2級 取得年:2009年

経歴

職歴

  • みのり|笑顔と癒しのほっとカフェ 2008年6月 〜 2021年10月

    ・1.誕生から結婚するまでの独身時代 2008年6月 〜 2008年7月

    ※匿名・年齢非公開のため期間は変えて掲載しています(*´▽`*) ご理解いただけますと嬉しいです。 はじめまして、みのりです。 人生の試練や壁は、ほとんが離婚をしてからなんですが、 話し相手としての芽は色々な年代にありました。 ここでは、生まれた時からのことを思い出しながら書いていますので 昭和の景色や温度感をお楽しみいただけたら嬉しいです♪ そして、私の性格や人となりを知っていただけたらありがたいです、 更に、仲良くしていただけたらとてもとても嬉しいですヾ(≧▽≦)ノ ┄▸◂┄▹◃┄▸◂┄▹◃┄┄▸◂┄ 私は家族の中では記憶が少ないほうなんです。 兄妹から「そんなことも覚えていないの?」と笑われることもありますが、それでも思い返してみると、心に残っている風景がやっぱり出てくるものですね。 夕方、自転車の後ろに乗って保育園から帰った道。どこからともなく漂ってくる夕飯の匂い。冬の寒い日に買ってくれた温かい肉まんを母の背中を見ながら食べた優しい記憶。そして家族みんなで過ごした何気ない毎日。 幼い頃は当たり前だったその景色が、大人になった今では、どれも大切な宝物のように感じられます。 私は東北地方のある町で生まれました。 共働きの両親、三歳年上の兄、父方の祖父母と一緒に暮らす六人家族です。その後、妹が生まれ、七人家族になりました。 祖父は定年退職後も仕事を続け、父と母も毎日仕事へ出かけていました。祖母は家を守り、家族の食事や家事を担っていました。 今では核家族が増えましたが、当時は三世代同居が珍しくない時代だったんですね。近所にも同じような家庭が多かったです。 幼い頃は家の周りに田んぼや畑がたくさん広がっていました。私が小学生になる頃には少しずつ埋め立てが始まり、住宅が建ち並ぶようになっていきました。 今ではすっかり住宅地になっていますが、私が幼い頃はまだ工事の途中で、積み上げられた土の山に登って遊んだり、重ねられた土管で遊んだことも楽しい思い出です。 子どもにとっては工事現場さえも遊び場だった、そんな時代です。 近所同士のつながりも今よりずっと濃く、町内の子どもたちの名前や顔は、ほとんどの大人が知っていました。 子どもの頃と大人になってから、大きな地震を二度経験しました。 当時の家は今ほど耐震性が高くなく、壁が崩れたり、ブロック塀が倒れたりする様子を目の当たりにしました。何が起きたのか分からなくても、大人たちが慌ただしく動く姿だけは今でも覚えています。 ┄▸◂┄▹◃┄▸◂┄▹◃┄┄▸◂┄ 父は、とても穏やかな人で、思い返してみても、本気で怒られた記憶がほとんどありません。 兄妹げんかをした時に一度だけお尻を叩かれたことがありますが、それ以外は記憶にないんですよね。 ありがたかったと大人になってから思いました。 なんせ、私は子どもに怒ってばかりでしたので…(^_^;) 母親が間に入る分、父親は怒ることをしないで済むのかもしれないですね。 それはそれでズルいかも(笑)。 何でも器用にこなす父は、少年野球の監督をしたり、ソフトボールを楽しんだり、卓球を教えてくれたり、ボウリングにも連れて行ってくれました。 地域活動にも積極的で、小学校のPTA活動にも参加し、近所の人からも頼りにされる存在でした。 子どもだった私は、それが特別なことだとは思っていませんでしたが、今振り返ると、仕事をしながら地域活動にも関わり、子どもとの時間も大切にしてくれたということは、本当に忙しかっただろうなーと思います。 そんな父との思い出の一つが、お風呂です。 父の職場には家族も利用できる大きなお風呂があり、連れて行ってもらうことが度々ありました。 兄や妹と一緒に広い湯船へ入り、家のお風呂とは違う開放感にわくわくしたことを今でも覚えています。 また、近所にあったたこ焼き屋さんやホルモン焼き屋さんへ「今日、食べに行こうか」と父が連れて行ってくれることもありました。それほど高価な外食ではありません。 でも子どもにとっては特別なイベントだったんです。 兄妹で今でも話題になるくらい、大切な思い出です。 ┄▸◂┄▹◃┄▸◂┄▹◃┄┄▸◂┄ 母は父とはまた違う魅力を持った人でした。 とにかく明るく、歌が上手で、行動力があり、「やってみたい」と思ったことには迷わず挑戦する人でした。 その姿を見ながら育った私は、気づけば母によく似た性格に(笑)。 新しいことに興味を持ち、まずは挑戦してみる。失敗してもまたやってみる。 そんな考え方は、きっと母から受け継いだものなのだと思います。 何よりも印象に残っているのは、母はいつでも私を応援してくれたことです。 周りから「やめておいた方がいいんじゃない?」と言われるようなことでも、母だけは「頑張ってみたらいいよ」と背中を押してくれました。 私からの願い事を断られた記憶もほとんどありません。 否定されることなく、「応援しているよ」と言ってもらえたことは、子供時代の私にとって何よりの安心感でした。 これが、今の私が、目の前の人を否定しない、全力で応援する、という気持ちを大切にしている原点の気がしています。 ┄▸◂┄▹◃┄▸◂┄▹◃┄┄▸◂┄ 祖父との思い出は、決して派手なものではありません。 でも、一緒に暮らしているというだけで安心感があり、家にはいつも祖父の存在がありました。 私は現在、介護の仕事に携わっています。 体力的には大変な仕事ですが、不思議と「向いていない」と思ったことは一度もありません。 むしろ、お年寄りと話をすることが好きで、昔話を聞いたり、笑顔になってもらえたりすると、とても嬉しい気持ちになります。 なぜこんなにも高齢者と接することが好きなのだろうと考えた時、自然と思い浮かぶのが祖父との時間です。 一緒に暮らし、お年寄りが身近にいる生活が当たり前だったからこそ、年齢を重ねた方への抵抗感が全くありませんでした。 祖父が年を重ねてからは、当時まだ高校生だった私も自然と身の回りのお世話をしていました。 その頃は「介護」という言葉は今ほど一般的ではなく、「お世話をする」という感覚でしたが、その経験が今の仕事につながっているのだと思います。 一方で、祖母との関係は少し違いました。 祖母はいわゆる「厳しい人」で、母は嫁姑関係にとても苦労していました。 当時は今以上に嫁姑の関係が複雑だった時代です。 近所でも有名な「意地悪ばあさん」で、子どもだった私にも、母が毎日つらい思いをしていることは伝わってきました。 私自身も祖母に特別甘えた記憶はなく、いつも母の味方をしていたからように思います。 幼いながらに「お母さんがかわいそう」という気持ちが強く、家族みんなで母を支えていたような記憶があります。 戦争で両親を亡くしていた母には帰る実家がなく、どんなに辛くても、そこにいる以外の選択肢はなかったのです。それを知っているから、娘としても母の盾になるべく祖母と喧嘩ばかりしていた気がします。 でも不思議なことに、大人になって振り返ると、その経験が家族の絆をより強くしてくれたようにも感じています。 祖母という存在がいたからこそ、家族が一致団結できた部分もあったのかもしれません。 ラスボスが強いほど、みんなの団結を強めて戦っていく、そんなゲームありますよね?(^^♪ そのラスボスばあさんの話も、今では「あの頃はいろいろあったね」と笑いながら話せる思い出になっています。 もし今、嫁姑関係で悩んでいる方がいたら、「一人で抱え込まなくていいよ」と伝えたくなります。 誰かに話すだけでも、心は少し軽くなるものです。 兄妹との関係も、年齢とともに少しずつ変わっていきました。 三歳年上の兄とは、小さい頃から一緒に遊ぶことが多く、自然と兄と過ごす時間が長くなりました。 一方で妹とは年齢が離れていたため、本当に仲が深まったのは大人になってからです。 お互いに結婚し、子どもが生まれてからは、姉妹として話す時間も増えました。 同じように子育てを経験したからこそ分かり合えることも多く、今ではとても心強い存在です。 私自身も三人の子どもを育てましたが、娘からは「女きょうだいが欲しかった」と言われることが何度もあります。その気持ちもよく分かります。 私自身、妹がいることで助けられたことがたくさんあるからです。でも、兄弟の数や女か男かというのは大人の事情もあるし、どうにも出来ない事でもあるから、子供に何と言われようと仕方ないですよね(^_^;) さて、幼い頃の思い出として、一番心に残っている場所は保育園です。 両親が共働きだったため、兄妹三人とも保育園で育ちました。 兄と一緒に通った時期もあれば、一人で通った時期もあります。 雨の日以外は、母の自転車の後ろに乗って帰ることが多くありました。 夕方になると、住宅街のあちこちから夕飯を作る匂いが漂ってきます。 「今日はカレーかな。」 「お魚の匂いがするね。」 そんな何気ない会話を母と交わしながら帰る時間が、とても好きでした。 冬になると、母が肉まんを買ってくれることもありました。 冷え切った手を温めながら食べる肉まんは、子どもの私にとって何よりのごちそうでした。 今でも冬になると、その頃のことを思い出します。 保育園で特に嬉しかった思い出があります。 それは、お昼寝の時間に迎えが来る日です。 みんなが眠っている中、先生が小さな声で「お母さんがお迎えに来たよ」と教えてくれます。 そっと荷物を持って教室を出る、あの特別感。 子どもながらに「今日は特別な日だ!」という気持ちで胸がいっぱいになりました。 今でも思い出すと、自然と笑顔になります。 家では兄と並んで寝ていました。 寝る前になると、二人だけの空想遊びが始まります。 枕の下には秘密の冷蔵庫があるという設定です。 「今日はケーキが入ってるよ。」 「私はアイスを見つけた。」 「交換しよう。」 もちろん本当の冷蔵庫ではありません。 全部、子どもらしい想像の世界です。 それでも、その時間は本当に楽しく、何十年経った今でも忘れられない思い出になっています。 おやつも今ほど種類が豊富な時代ではありませんでした。 祖母が買ってきてくれるお菓子は、おせんべいやかりんとう、落雁など、どちらかというと昔ながらのものばかり。 七人家族だったので、一人でたくさん食べられるわけではありません。 子どもの頃の私の小さな夢は、「いつかおせんべいを一袋全部一人で食べてみたい。」ということでした。 今思えば、とてもかわいらしい願いです。 そんな何気ない毎日を積み重ねながら、私は育ってきました。 幼い頃には気づきませんでしたが、大人になり、親になり、介護の仕事に就いた今だからこそ分かることがあります。 両親が共働きを続けながら子どもを育ててくれたこと。 母が十五年間、子どもたちを保育園へ送り迎えしていたこと。 父が忙しい中でも家族との時間を大切にしてくれていたこと。 祖父母と暮らしたからこそ、お年寄りが身近な存在になったこと。 そして、家族にはさまざまな出来事があっても、お互いを思いやる気持ちが私の土台になっていること。 幼い頃の記憶は決して多くありません。 それでも心に残っている温かな景色は、今の私をつくる大切な原点です。 これからも、人の話に耳を傾け、誰かの気持ちに寄り添える人でありたい。 そう思えるのは、あの頃の家族との日々があったからなのだと思います。

    ・2.周りに抜かされる挫折をまだ知らないイケイケ小学生時代から大人になるまで 2008年11月 〜 2008年12月

    ※匿名・年齢非公開のため期間は変えて掲載しています(*´▽`*) ご理解いただけますと嬉しいです。 ✼••┈┈┈┈•• 私の小学校時代は体格もまあまあ良くて、 中学高校で、どんどん周りの生徒に 運動能力を超えられていく挫折をまだ知らない(笑)、 自信たっぷりの小学生でした。 小学生時代は、身長と体重の1年の差は大きく、 学年で早い時期の誕生日の子どもは、 早生まれ(1,2,3月)の子どもより 大きいことがよくありますよね。 私もまさしくそれでした。 6月生まれだったので 体はわりと大きい方だったんです。 運動会での徒競走。 テストの点数。 音楽会での物覚えの速さ。 先生に褒められることも多く、 人生を謳歌していたかも?ヾ(≧▽≦)ノ と思えるような小学生時代でした。 縄跳び授業では家での猛練習の甲斐もあって 全児童の前でお披露目したこともあったんですよ(ピース) そんなわけでしたから、 中学高校で、運動音痴が表に顔を出し始めるのですが 小学生のころは、そんな時代が来るなんて 夢にも思わなかったですね(^_^;) 今では小学校のまわりはほとんど住宅になっていますが、 当時はまだまだ田んぼが多くありました。 バッタを取ったり、トンボをとったり。 カエルやおたまじゃくしも、よく見ました。 怖くて捕まえることはしなかったものの、 カマキリも田んぼではよく見かけました。 夏休みには小学校の校庭で盆踊りや花火大会がありました。 町内会ごとに出店を出して賑やかにやっていたんですよ。 時代だと思いますが、おそらくその当時 協賛金がそこそこ集まったんでしょうね。 毎年夏まつりには打ち上げ花火を景気よく上げていましたね。 「私も子どもの頃そんな感じだったよ~」という方! きっと私と同じ年代です(笑)。 ✼••┈┈┈┈•• 自営業の家だといろんなエピソードがあるかもしれませんが 我が家は地方公務員の家庭。 フツーの家庭でフツーに生活してきました。 そんな「フツーで、ちょっと自信満々」だった私の前に、 最初の大きな壁が立ちはだかったのが、中学校への進学でした。 昭和のエネルギーがまだ満ちていたあの頃。 制服に身を包み、少し大人に近づいたような 誇らしい気持ちで通い始めた中学校でしたが、 そこで待っていたのは、 小学生時代の「生まれ月貯金」が全く通用しない「厳しい現実」でした。 まず直面したのが、あんなに自信のあった運動能力の崩壊です。 中学校に入ると、周りの友達の成長スピードは凄まじいものでした。 早生まれだった子がグングン背を伸ばし、 体格も体力も、あっという間に追い抜かれていく。 小学校の頃は体格の良さでカバーできていたものの、 だんだんと自分の「運動音痴」な部分が隠せなくなってきました。 体育の時間、周りの友達がスマートにこなしていく中で、 自分の体は思うように動かない。 「あれ? おかしいな」と思っているうちに、 走るのも球技をするのも、すっかりクラスの後方グループが定位置になっていきました。 そんな自覚もあり、中学校では運動部ではなく文化部を選びました。 昭和の部活動といえば、運動部が学校のヒエラルキーの中心にいて、 夕方のグラウンドや体育館から響く大きな掛け声が主役だった時代です。 そんな熱気あふれる運動部の友達をどこか眩しく、 遠い存在のように眺めながら、文化部の静かな教室で過ごしていた私。 徒競走でいつも真ん中より後ろを走るようになった時や、 華やかな運動部の輪に入れない自分を意識した時、 「ああ、私は特別でも何でもない、ただのフツーの人間なんだ」と、 胸がチクッと痛むような切ない挫折感を味わいました。 勉強の面でも同じでした。 小学校の頃は授業を聞いているだけでそれなりの点数が取れていたのに、 中学校の定期テストが始まると、範囲の広さと難しさに圧倒されました。 教室の後ろに張り出される成績の順位。 トップ層の華やかな顔ぶれを遠くから眺めながら、 「私は何をやってもフツー、いや、フツー以下かもしれない……」と、 それまで持っていた根拠のない自信は、見る影もなくパサパサに崩れ去っていきました。 あのイケイケだった小学生時代の私はどこへ行ってしまったんだろう。 学校の帰り道、夕日に照らされる自分の影を見つめながら、 何とも言えない劣等感と焦りに押しつぶされそうになっていたのを覚えています。 しかし、この「学校の主役になれない」という挫折が、 後々、私の人生に新しい視点をくれるきっかけになりました。 ✼••┈┈┈┈•• 高校生になる頃には、私はすっかり「目立たない、フツーの生徒」 としての立ち位置を受け入れるようになっていました。 私が覚えている当時の雰囲気は華やか組と地味組の線引き。 さらには運動部と文化部の線引きが暗黙の了解であったことです。 もちろん、私は最初は地味組確定でした。 そんな中で、中学校では文化部だった私が、高校では何をトチ狂ったのか(笑)、 あんなに苦手意識のあった「運動部」に飛び込んだのです。 理由はあるスポーツ漫画に感動を受けたから。単純です(^_^;) 運動音痴なのに。 当然、周りは経験者や運動神経の良い子ばかり。 私は最初から最後まで、ずーっと「下手くそで、びりっけつ」でした。 後から聞いた話ですが、先輩たちの間では 「あの子が一番先に辞めるよね」と噂されていたそうです。 それくらい、私の運動音痴ぶりは目立っていましたし、 周りの経験者のスピードについていくのが精一杯でした。 指の関節を骨折したり、足が疲労骨折になりながらも、 事あるごとに漫画をよんでは自分を励ましていました。 もちろん今でもその漫画本は大切に取ってありますヾ(≧▽≦)ノ ホント、不思議と辞めなかったんですよね。 正直、なぜあんなに辛くて下手くそだったのに続けられたのか、 明確な理由は今でも覚えていません。 意地だったのか、それとも不器用なりにその場所が好きだったのか……。 ただ、びりっけつでも、笑われても、「自分で決めたことを途中で投げ出す」 ということだけはしたくなかったのかもしれません。 華やかな主役として活躍することは一度もありませんでした。 でも、この「下手くそでも諦めずに最後までやり抜いた」という経験が、 私の中にひとつの太い芯を作ってくれました。 そしてこの部活動の時間が、私の人生に新しい視点をくれるきっかけになります。 激しい練習の合間や、部活帰りの暗くなった駐輪場で、 友達とぽつりぽつりと悩みを打ち明け合う時間がありました。 進路のこと、親との衝突、友達関係の小さなすれ違い、そして部活内での焦り。 十代の多感な時期、誰もが心の中に「言葉にできないモヤモヤ」を抱えていました。 私はただ、「うん、うん」と静かに話を聞いていました。 気の利いたアドバイスなんてできません。 でも、自分自身がびりっけつで苦労していたからこそ、 相手の「上手くいかない悔しさ」や「焦る気持ち」を否定せず、 ただその子の気持ちが少しでも軽くなればいいなと思って、そばにいて耳を傾け続けました。 話し終えた友達が、 「なんか、みのりに話したらスッキリした。聞いてくれてありがとうね」と、 少し晴れやかな笑顔を見せてくれたとき、私の胸の奥がじんわりと温かくなりました。 その時、ハッと気づいたのです。 「主役になれなくても、びりっけつの痛みが分かる私だからこそ、 誰かの話をじっくり聞いて、その人の心をそっと支える側になれるかもしれない」 それからというもの、なぜか私の周りには、 ポツリポツリと悩みを打ち明けにくる友達が集まるようになりました。 お弁当を食べながら、あるいは部活帰りの暗くなった駐輪場で、 色んな子の「誰にも言えない本音」を預かりました。 みんな、クラスの前では明るく振る舞っているけれど、 一歩裏に入れば傷ついたり悩んだりしている。 そんなみんなの素の表情に触れるたび、 私は「人間って不思議だな、面白いな」と感じるようになっていったのです。 華やかなスポットライトは当たらないけれど、 放課後の静かな教室や、夕暮れの帰り道という私の「小さな居場所」が、 とても心地よく、誇らしく思えました。 一番になれなかった挫折や、 文化部で周りをじっくり観察していた時間があったからこそ、 私は「完璧じゃなくて、不器用にもがいている人の気持ち」に、 誰よりも敏感に寄り添えるようになっていたんだと今思うのです。 イケイケだった小学生時代。 現実を知って足元がグラグラ揺れた中学校の挫折と、文化部での静かな時間。 そして、誰かの聞き役としての自分の価値を見出していった高校時代。 この多感な時期の経験が、今の私の大きな土台になっています。 もし私が、あのまま何でも器用にこなせる「イケイケ」のままで大人になっていたら、 きっと今、悩んでいる方の痛みを本当の意味で理解することはできなかったと思います。 自分がフツーであることの苦しさや、周りと比べて焦る気持ちを、 身をもって知ったからこそ、私は今、あなたの前に立てているのだと感じています。 人生は、思い通りにいかないことの連続です。 でも、スポットライトが当たる場所だけが人生ではありません。 今、周りと比べて「自分なんてフツーだ」「何をやってもうまくいかない」と孤独を感じているあなたへ。 あの頃、放課後の教室で友達の言葉をただ静かに受け止めていた時のように、 私はいつでもここで、あなたの味方になってお話を聞く準備をしています

    ・3.短大時代/どんな人とも心が通い合う楽しさと、誰からも信頼される接客の原点 2009年6月 〜 2009年7月

    ※匿名・年齢非公開のため期間は変えて掲載しています(*´▽`*) ご理解いただけますと嬉しいです。 ✼••┈┈┈┈•• 短大への進学は、私の世界をぐっと広げてくれました。 それまでの狭い学校という世界、決められた通学路から飛び出し、社会という大きな海に片足を踏み入れたような、そんなワクワクした高揚感と少しの緊張感で満ちていた時代です。 高校時代は運動部で「びりっけつでも諦めずに最後までやり抜く」という粘り強さを身につけ、同時に人の心に寄り添うことの大切さを少しずつ学び始めていた私でしたが、 この短大時代に経験したアルバイトこそが、現在私が営んでいる「人と関わり、心に寄り添う仕事」の明確な原点となりました。 社会に出て、全く見知らぬ人たちと関わる中で、私は自分の中に眠っていた「ある強み」に気づいていくことになります。 ■活気あふれる洋食屋さんでの日々 私が最初にアルバイトとして働き始めたのは、地元で古くから愛されている、とても活気のある洋食屋さんでした。 そのお店は、お昼時ともなれば近所のサラリーマンやOLさん、休日に訪れる家族連れでごった返す、地域の一番店のような場所でした。 厨房からは、ジューというお肉の焼ける小気味よい音や、香ばしいデミグラスソースの匂い、甘酸っぱいケチャップの香りが常に漂ってきます。 メニューは、常連さんがこぞって頼むボリューム満点のピラフや、鉄板に乗ったアツアツのスパゲッティ、サクサクの衣をまとった大きなエビフライなど、どれも懐かしくてホッとする美味しさのものばかり。特にランチタイムは大人気だったため、店内は戦場のような忙しさでした。 さらに、そのお店は店内での飲食だけでなく、近所への「出前」も盛んに行っていました。 まだ今のように便利なフードデリバリーのサービスなどない時代です。お店の電話がリンリンと鳴り響くと、注文をメモして厨房へ伝え、出来上がった料理を大きなお皿にラップをピシッと張って、配達をします。 「みのりちゃん、これ〇〇会社に届けて!」と声がかかれば、「はい!」と元気よく返事をして、ラップに包んだ大きなお皿を抱えて運んでいきました。 夏の暑い日も、冬の凍えるような風が吹く日も、重いお皿を抱えて歩くのはなかなかの重労働でしたが、高校時代の運動部で培ったタフさがあったおかげで、へこたれることなく元気に働くことができました。 ■老若男女、どんなお客様とも心が通い合う瞬間 この洋食屋さんでの毎日は、私に「老若男女、どんな人とでも笑顔で心が通い合う楽しさ」を教えてくれる、学びの場となりました。 お店のドアが開くたびに、「いらっしゃいませ!」と声をかけるのですが、そこに来られるお客様の背景は本当に様々です。 短い休憩時間の中で急いで食事を済ませようとバタバタしているビジネスパーソン、小さなお子さんの手を引きながら少し慌ただしくスプーンを動かしているお母さん、そして、いつも決まった席に座って静かにコーヒーを飲む、少し気難しそうな表情のご年配の常連さん。 高校時代に「一歩引いた場所から周りをじっくり観察する力」を身につけていた私は、自然に目の前の人の状態を五感で察知して、自然と体が動くようになっていたのです。 例えば、時間に追われている様子のサラリーマンの方には、お水や伝票を渡すタイミングをワンテンポ早くしてテキパキと対応する。小さなお子さん連れの方には、「取り皿は使われますか?」と先回りして声をかけ、少しでも落ち着いて食べられるような空気を作る。 そして、いつも少し難しい顔をして入ってくるご年配のお客様には、意識的に笑顔を出してゆっくりとお茶を差し出す。 そんな風に、一人ひとりの「その瞬間の気持ち」にアンテナを立てて丁寧な関わりを続けていると、 最初は声をかけても無表情だったおじいちゃんが、ある日、帰り際に私の顔を見てフッと優しい笑顔を見せてくれるようになったり、「いつも、ありがとうね」と、出前の先で温かい言葉をかけてもらえるようになったり。 年齢や立場、その時の機嫌に関係なく、こちらが目の前の相手を一人の大切な人間として尊重し、心を込めて接すれば、必ず相手からも温かい気持ちが返ってくる。 この時に得た強い実感と成功体験が、私の中に「私は接客業が好きだし、もしかしたら得意かもしれない」という、人生における確固たる自信を育ててくれたのです。 どんな相手であっても物怖じせず、その人の懐に入っていけるコミュニケーションの素地は、間違いなくこのお店のカウンター越しや、出前先での短い会話の中で育まれました。 ■厨房の奥で輝いていた、大人のシェフへの秘めた恋 そして実は、この活気あふれる洋食屋さんでの思い出には、私の「大人になってからの、切なくも美しい片思い(笑)」の記憶が重なっています。 子供時代の恋といえば、小学校や中学校の頃、クラスの人気の男の子を指して、同じ人を好きな友達同士で「あの子かっこいいよね!」「今日目が合っちゃった!」などと、陰できゃいきゃいと騒ぎ合うような、無邪気で可愛らしいものがすべてでした。 しかし、この短大という大人と子供の境界線のような時期に私が経験したのは、誰にも言わず、胸の奥にそっとしまっていた恋でした。 お相手は、お店の厨房の奥で、黙々とフライパンを振り、美味しい料理を作り出していた大人のシェフでした。 世間一般で言うような、誰もが振り返るような華やかなイケメンというわけでは決してありませんでしたが(笑)、でも、とにかく自分の仕事に対してどこまでも誠実で、妥協がなく、そして何より周りのスタッフへの気配りが本当に細やかで、芯から優しい人だったのです。 ランチタイムのピーク時、オーダーが滝のように押し寄せて、ホールも厨房もパニックになりそうな時、私が忙しさに追われてミスをしそうになったり、焦って顔をこわばらせていたりすると、彼は絶妙なタイミングで私の様子に気づいてくれました。 怒鳴ったり責めたりするようなことは一切せず、「みのりちゃん、落ち着いてな。無理すんなよ」と、低く温かい声でそっと言葉をかけてくれるのです。 その調理場の熱気の中で響く優しい声や、忙しい中でも絶やさない周囲への配慮の眼差しに、私は気づけば惹かれていました。純粋な短大生でこのシチュエーション。絵にかいたようなベタなストーリーかもしれませんけれど(^_^;)。 もちろん、その方はすでに家庭を持たれている既婚者でしたから、完全な片思いでした。初めから展開無しが確定の想いでしたが、 その気持ちが仕事を頑張るモチベーションでもありました。 実ることは絶対にないと最初から分かっているからこそ、胸の奥の引き出しにそっと仕舞い込んでいた秘めた恋。切なくて、少し苦しい瞬間もありましたが、でも、その人を想う温かい気持ちがあったからこそ、毎日の大変な仕事も、出前の重いお皿も、足の痛みも、不思議とずっと満面の笑顔で乗り越えられたのだと思います。 今振り返っても、あの厨房のオレンジ色のライトの光とともに思い出すその記憶は、私の独身時代を彩る、切なくもどこか愛おしい特別な1ページです。 ■母親の口から聞いた、店長さんからの最高の勲章 そんな風に、恋も仕事も、自分の持てるエネルギーのすべてを注ぎ込んで駆け抜けた短大時代でしたが、卒業という人生の節目とともに、当然そのお店を去る時が訪れました。 どうしても外せない個人的な事情が重なってしまい、最後のひと月の給料を、私の代わりに母親がお店へ出向き、店長さんから最後の給料を受け取ってきてくれることになりました。お給料の手渡しなんて、今では考えられないですよね(笑)。時代がバレそうです(^_^;)。 「迷惑をかけていないだろうか」「気まずい別れ方になってしまっていないだろうか」と、心配していましたが、家に帰ってきた母が、カバンから給料袋を取り出しながら、どこか誇らしげな笑顔を浮かべて私にこう言いました。 「みのり、今日お店に行ってきたよ。そしたらね、店長さんがわざわざお母さんのところに来てくれてね、『みのりちゃんは卒業だから、お店を辞めていくのは時期として仕方がないことなんだけど……。本当を言うとね、僕は辞めないで欲しかったんです。出来ればこのまま、うちの店でずっと長く続けて欲しいと思っていたんですよ』って。すごく残念そうに、みのりのことを惜しんでくれていたよ」 もし店長さんが、私に直接「辞めないでくれ」と言っていたとしたら、それは単なる人手不足のための引き止めだったかもしれません。でも、私がいない場所で、わざわざ私の母親に対して、そこまで熱を込めて「本当は残って欲しかった」「続けて欲しかった」と伝えてくれた。 それは、店長さんが本心から私の毎日の働きぶりを認め、一人の人間として、そして仕事の戦力として、信頼を寄せてくれていたことの何よりの証拠でした。 ただ指示された作業をこなすだけのアルバイトなら、代わりはいくらでもいます。でも、お店のため、そして何より目の前のお客様の笑顔のために、高校時代のびりっけつ根性と、お母さんから譲り受けた全肯定の精神で心を込めて動き続けていた私の姿勢を、店長さんはちゃんと見ていてくれたのです。 直接お礼を言えなかった心残りは、この言葉によって最高の思い出へと昇華されました。この「強く引き止められ、心から必要とされた」という客観的な経験は、その後の私の人生において、どんな壁にぶつかっても「私は大丈夫、私には人を笑顔にする力がある」と思える、本当に大きな自己肯定感の土台(勲章)となったのです。 ■独身時代の財産を、今あなたのために 短大時代から独身時代にかけて培った、「どんな年齢、どんな立場の方とも分け隔てなくお話しし、心を通わせることができる素地」。そして、「どんな場所に行っても周囲から深く信頼され、必要とされる接客と対話の力」。 これらの経験は、単なる過去の思い出ではありません。今、私がいるココナラの電話相談にそのまま大きな財産として脈々と受け継がれています。 インターネットを通じたお悩み相談の場では、本当に多様な人生の背景を持った方々が扉を叩いてくださいます。 年齢も違えば、抱えている問題の重さも、心の傷の深さも違います。 誰にも言えない苦しみに押しつぶされそうになりながら、藁をも掴む思いでメッセージをくださる方も少なくありません。 あなたが今、どんな年齢で、どんな状況にあって、社会のどんな荒波に揉まれていたとしても、私はあの活気ある洋食屋さんのカウンターで、あるいは出前先の会社の玄関前で、一人ひとりのお客様と真っ直ぐに向き合っていたあの頃と、全く変わらない眼差しであなたを迎えます。 あなたの言葉を途中で遮ることはしません。あなたの生き方や悩みを否定することも絶対にしません。 お母さんが私を全肯定してくれたように、お父さんが穏やかに包み込んでくれたように、そして私が洋食屋さんで出会った多くの人たちと心を交わしてきたように、あなたという存在のすべてを全力で大切にします。 「この人なら、どんなに格好悪い自分を見せても、安心してすべてを委ねられる」 「みのりさんに話したら、心の荷物がフッと軽くなった」 そう思っていただける、世界で一番温かい心の居場所を用意して、私はいつでも、あなたの「誰にも言えない本音」をお聞きする準備をしています。どうぞ安心して、その胸の内を私に預けてみてくださいね。

    ・4.母の涙を隠れて見た日と、私の心に宿った「闘う優しさ」の原点 2009年11月 〜 2009年12月

    ※匿名・年齢非公開のため期間は変えて掲載しています(*´▽`*) ご理解いただけますと嬉しいです。 ✼••┈┈┈┈•• 私の人生を振り返る上で、切っても切り離せない「娘としての記憶」があります。 それは、私の人格や物事の捉え方に強い影響を与え、そして現在の活動の原動力の一つとなっている、我が家の「嫁姑問題」です。 今でこそ、世間にはさまざまな家族の形があり、辛いことがあれば実家に帰るなど距離を置く選択肢も一般的になりました。 しかし、昭和という時代において、三世代同居の家の中で起きる嫁姑の確執は、外からは見えにくい密室の苦しみそのものでした。 この家庭内の過酷な現実は、幼い私に「誰かを守るために闘う強さ」と、「傷ついた女性の痛みを我がことのように感じる共感力」を植え付けることになります。 ■近所でも有名だった、厳しすぎる祖母 我が家の祖母は、言葉を選ばずに言えば、近所でも有名な「意地悪ばあさん」でした。 昔ながらの古い価値観を絶対とし、家の中では絶対的な権力を持とうとする人だったのです。その矛先は、常に我が家へ嫁いできた私の母親へと向かっていました。 祖母の母に対する態度は、一時的な感情の爆発ではありませんでした。毎日、朝から晩まで、日常のありとあらゆる隙間を狙っては、チクチク、ネチネチ、ガミガミと、終わりのない小言や嫌がらせが続くのです。 掃除の仕方が気に入らない、料理の味付けがどうこう、子育てのやり方が甘い……。何をどうしても否定され、認められることのない日々。子供だった私の目から見ても、おばあちゃんが母に向ける言葉の鋭さは、まるで冷たい刃物のようでした。たとえ父が決めたことでも、気に入らないことは全て母が手をまわしたからと決めつけました。 その激しさは、家の中だけにとどまりませんでした。近所の人たちとのお付き合いの中でも、祖母は陰で色々と周囲の悪口を言ったり、当然母の悪口も言い続けていたため、地域の大人たちもおばあちゃんの性格をよく分かっていました。 だからこそ、近所の大人たちはみんな、私の母のことを「あそこのお嫁さんは本当に偉いわね」「毎日大変よね」と、陰ながらねぎらい、同情の目を向けてくれていたのです。それほどまでに、母の置かれた環境の過酷さは、誰の目にも明らかなものでした。 でも、だからといって、そのねぎらいは一時的に嬉しくはあっても、母を楽にしてくれるほど甘くはないのが現実でした。 ■逃げ場がなく部屋の片隅で、声を殺して泣く母の姿 そんな過酷な環境の中で、母はいつも毅然と振る舞おうとしていました。子供たちの前では明るい笑顔を見せ、父や祖父の前でも不満を大声でぶつけるようなことはしませんでした。 しかし、どんなに強い人であっても、毎日の理不尽な攻撃に心が削られないわけがありません。 私は小さい頃から、家の中の薄暗い部屋の片隅や、誰もいない台所の奥で、母が一人で静かに泣いている姿を何度も、何度も目撃してきました。 わあわあと声を上げて泣くのではありません。祖母に気づかれないように、そして子供たちに心配をかけないように、肩を小さく震わせながら、必死に声を殺して涙を流しているのです。 その母の背中を見たときの胸が締め付けられるような感覚は、何十年経った今でも忘れることができません。 当時の母には、本当に「どこにも逃げ場」がありませんでした。 母は戦争によって幼くして両親を亡くしていました。そのため、父方の祖父母(私にとっての曾祖父母)に育てられたという境遇を持っていたのです。 私が小学校、中学校に上がる頃には、その育ての親であるおじいちゃんもすでに他界しており、おばあちゃんも高齢のために施設に入っていました。 今の時代であれば、「もう限界だから、ちょっと1週間実家に帰って羽を伸ばしてくるね」と、実家の両親の元へ避難して心を休めることもできるでしょう。しかし、私の母には、辛い時に温かく迎え入れてくれる「帰るべき実家」が、この世のどこにも存在しなかったのです。 四面楚歌の家の中で、たった一人で耐え続けるしかない母。 声を殺して泣く母の後ろ姿を見つめながら、私は子供ながらに、まるで自分の心が直接切り刻まれているような、強烈な痛みを自分の中に抱え込んでいました。私はお母さん本人ではないけれど、お母さんの流している涙の辛さが、そのまま自分の体の中に流れ込んでくるような感覚でした。 そして、私の心の中に、ひとつの強烈な決意が芽生えたのです。 「私が、お母さんを守らなくてはいけない」 ■姉妹で一致団結し、おばあちゃんと戦った日々 我が家には、もうひとつ独特の家族の構図がありました。 昔の人だった祖母は、強烈な「長男至上主義」の考えを持っていました。我が家において、私の父親は長男であり、祖母にとって息子である父は目に入れても痛くない存在。そして、私には3歳年上の兄がいたのですが、祖母はその「長男の孫」である兄に対しても、とにかく甘々でした。 一方で、女の子供である私と妹に対しては、明らかに態度が違っていました。 父や祖父、そして兄は、家庭内の女性同士のドロドロとした戦いにどう介入することなく、どこか見て見ぬふりをするようなところがありました。頼りになる男性陣が誰も味方をしてくれない中、母の側に寄り添い、母の痛みを本気で共有していたのは、私たち姉妹だけだったのです。 こうして、「私と妹で母を守り、おばあちゃんと戦う」という、我が家の明確な戦闘構図が出来上がりました。 兄は、祖母が亡くなって以降、私と妹から話を聞いて、そんなことがあったんだ、と初めて知ったことも多かったくらいです。 子供の私は、理不尽にお母さんをチクチクと責め立てる祖母に対して、怯むことなく正面からぶつかっていきました。 「お母さんは悪くない!」「なんでそんな酷いことを言うの!」と、子供の拙い言葉でありながらも、精一杯の怒りを込めて祖母に反論しました。妹と二人で母の前に立ちはだかり、祖母の鋭い言葉を遮るように盾になったことも一度や二度ではありません。 祖母との言い合いは、子供心にとてもエネルギーのいることでしたし、家の中の空気がピリピリと張り詰めるのは恐ろしいことでもありました。でも、「私が黙ったら、お母さんが壊れてしまう」という恐怖の方が、何倍も大きかったのです。 この時に培われた、理不尽なものに対してNOと言える強さ、そして自分がボロボロになってでも大切な人を守り抜くという「闘う根性」は、私の性格の深い土台となりました。 大人になってから振り返ると、当時は本当に苦しくて重い毎日でした。 しかし不思議なことに、この過酷な嫁姑問題という嵐があったからこそ、私たち家族(特に母と私たち姉妹)の絆は、誰よりも強く、深く結ばれることになったのです。 お互いを思いやり、支え合わなければ生きていけない環境だったからこそ、私たちは一致団結することができました。今では「あの頃は本当に色々あったよね」と、笑いながら思い出話として語り合えるようになったことが、何よりの救いです。 ■大変な「ミドル女性」の力になりたいという、私の使命 この幼少期から少女時代にかけて、母の涙を側で見続け、共に戦ってきた記憶。これこそが、現在私が話し相手として活動する中での、最も深い「女性の味方」のベースになっています。 世の中の多くの女性たちは、人生のステージが進むにつれて、本当に多くの「役割」を背負うことになります。 誰かの「娘」であり、誰かの「妻」となり、家を守る「嫁」という立場になり、そして子供を育てる「母」となる。 特に50代を中心としたミドル世代の女性たちは、これら全ての役割が一気に押し寄せ、自分のキャパシティを超えてしまうほどの重圧に晒されがちです。子育ての悩み、夫婦関係の冷え込み、押し寄せる親の介護、そして自分自身の体調や心の変化。 それなのに、かつての私の母がそうであったように、周りに心配をかけまいと「大丈夫なフリ」をして、部屋の片隅で声を殺して一人で泣いている方が、本当にたくさんいらっしゃるのです。 「私が我慢すれば、波風が立たないから」 「みんな大変なんだから、これくらいで弱音を吐いちゃいけない」 そうやって自分を後回しにし、逃げ場のない孤独の中で限界まで耐えている女性たちの姿を見ると、私はどうしても、あの頃の母の背中を思い出さずにはいられません。そして、私の胸の奥にある「守りたい、力になりたい」という熱い想いが、静かに燃え上がるのです。 私が今、ココナラで電話相談の活動をしているのは、かつての私の母のような「逃げ場のない女性たち」にとっての、絶対的なシェルターになりたいからです。 実家に帰るような安心感で、心置きなく涙を流せる場所。 誰にも言えない愚痴や、ドロドロとした感情を、そのまま吐き出せる場所。 そして、あなたが理不尽な環境で苦しんでいるなら、私はあの頃とおなじように、全力であなたの味方になって一緒に闘う覚悟を持っています。 あなたは、一人で声を殺して泣く必要はありません。嫁として、妻として、母として、娘として、一生懸命に頑張ってきたあなたの苦しみを、私は誰よりも理解し、我がことのように受け止めます。 心が限界を迎える前に、どうぞ私を頼ってください。あの頃、母を守り抜いたその温かさと強さで、私は今度は、あなたという大切な存在を全力で包み込みます。 いつでもあなたが来ても大丈夫なように両手を広げて待っています♪

    ・5.私が先陣を切って作った「心の避難所」と、家族を救った安全地帯のぬくもり 2010年6月 〜 2010年7月

    ※匿名・年齢非公開のため期間は変えて掲載しています(*´▽`*) ご理解いただけますと嬉しいです。 ✼••┈┈┈┈•• 前項でお話しした通り、我が家には祖母を中心とした非常に重苦しい嫁姑問題の嵐が吹き荒れていました。 子供の頃からその理不尽な現実を特等席で見つめ、時には妹と盾になって母を守ってきた私でしたが、短大を卒業する年齢を迎えた時、私の中に一つの明確な決意が固まっていました。 「このままこの家に縛られていたら、自分自身の人生も、母を守る力も、すべて擦り切れてしまう。まずは私が、この家から外の世界へ飛び出そう」 と言えればカッコいいですが、とにかく逃げたかったというのが本音。でも、まずは私が出なければ、という気持ちももちろんありました。 祖母という絶対的な権力から物理的な距離を置き、自分自身の呼吸ができる聖域を確保するための、いわば「決死の脱出作戦」だったのです。 こうして短大卒業と同時に、私の実家からの独立ストーリーが始まりました。 ■親友と寄り添い合った、1年限定のスタートライン そうは言っても、生まれてからずっと過ごした地元を離れ、いきなり見知らぬ土地で完全な一人暮らしを始めるというのは、当時の私にとって想像以上に心細く、勇気の要ることでした。 そこで私は、無謀に一人で飛び出すのではなく、短大時代に苦楽を共にした大切な親友に声をかけることにしたのです。「最初の1年間だけ、一緒に暮らしてみない?」と。 なぜその親友に声をかけたかというと、私と似たような事情があったからです。 彼女は父親が厳しくて、私が祖母に抱いていた思いとほぼ同じ思いを父親に持っていて、長年心に傷を抱えていました。家を出て父親から離れたい、その願いを彼女の母親は理解してくれていました。それが私たちを近づけたんです。 お互いに社会人としての第一歩を踏み出す不安な時期です。私たちは「期間は1年間だけ」という明確なルールをあらかじめ決めて、二人暮らしのスタートを切りました。これが結果的に、本当に素晴らしい選択となりました。 私たちは適度な距離感を保ちながら、仕事で疲れて帰ってきた時には「おかえり」「今日こんなことがあってさ」と言い合える、温かい空間を作ることができました。 完全に孤独になってしまう寂しさを紛らわせつつ、社会人としての生活リズムを整え、家事のノウハウを身につける。この「1年限定の二人暮らし」があったからこそ、私は実家の重苦しい記憶を引きずることなく、健全に大人の階段を上り始めることができたのです。 親には言えない話や行動も打ち明け合いながら、親友と過ごしたあの穏やかな時間は、私が「誰かと心地よい距離感で寄り添い合う」という人間関係のバランス感覚を養うための、貴重なステップとなりました。 ■2年目の本当の自立と、妹の緊急避難 約束の1年がアッという間に過ぎ去り、親友との同居を解消した2年目から、いよいよ私の「本当の一人暮らし」が始まりました。 小さなアパートの一室。自分の好きなモノを置き、自分の好きな時間に眠り、自分の好きな味付けで料理を作る。実家にいた頃には考えられなかった「誰のことも気にしなくていい自由」がそこにはありました。 朝起きたときに、家の中にピリピリとした緊張感が漂っていないというだけで、これほどまでに心が軽いのかと、深い感動を覚えたものです。 しかし、私がその自由をようやく満喫し始めた頃、実家では新たな限界が近づいていました。私のすぐ後ろを歩んでいた妹が、高校の卒業を控えていたのです。 妹も姉である私と同じように、長年祖母の理不尽な態度に耐え、母を守るために闘い続けてきた戦友でした。 高校卒業という人生の節目を迎えた妹の心の中は、「一刻も早く、あの家から、あの祖母から逃げ出したい」という悲痛な思いでいっぱいだったのです。 妹のSOSを察知した私は、迷うことなく言いました。「私のところにきていいよ」と。 こうして高校を卒業したばかりの妹が、私の小さなアパートに転がり込んでくる形で、今度は「姉妹での二人暮らし」がスタートしたのです。 引っ越してきたばかりの妹は、どこか張り詰めていた糸が切れたような、ホッとした表情をしていました。私は姉として、「本当によく頑張ってここまで持ちこたえたね。もう大丈夫だよ」と、妹を心から温かく迎え入れました。 実家という戦場から逃れてきた妹にとって、私のアパートのドアを開けた瞬間は、心の救いになったと思います。 二人で狭い部屋に肩を寄せ合いながら、お互いの仕事を応援し、時には実家の愚痴を言い合い、時にはこれからの未来について語り合う。あの頃の私たち姉妹は、単なる家族という枠を超えて、同じ痛みを分け合ってきた本当の意味での「ソウルメイト」になっていました。 ■小さなアパートが、母の「逃げ込み寺」になった日 そして、私と妹が作ったこの小さな安全地帯は、ついに最大の救済必須者であった「母」をも救い出すことになります。 娘二人が実家を出て独立し、自分たちの力で生活の基盤を作っている。その事実そのものが、実家で一人耐え続けていた母にとって、どれほど大きな精神的支えになっていたかは計り知れません。 「子供たちが立派に自分の足で立っている」という安心感が、母の折れそうな心を繋ぎ止めていたのです。 兄もすでに家を出て仕事をしていましたが、祖母からすると、子供たちを家から出すなんてとんでもないことで、そんなんだから〇〇(母)はダメな母親なんだ、と何度も何度も家を出た子供たちを許した母を攻め続けたのでした。 家を出ることを許したのは母だけでなく、父も賛同してのことなのに、母がそそのかした、というのが祖母の意見でした。 やがて、母も実家の四面楚歌の状況から少しだけ息を抜くために、私たち姉妹が暮らすアパートへ、時々「避難」して来ることができるようになりました。 祖母の目を盗んで、片道数十分の距離を移動し、私たちの部屋のインターホンを鳴らす母。ドアを開けて部屋に入ってきた瞬間の母の顔は、実家で見せていたあの「声を殺して泣く切ない背中」とはまるで別人のようでした。 「あぁ、ここは本当に落ち着くわね」 そう言って、狭いアパートの畳の上に座り、私たち姉妹が淹れたお茶を飲む母。その時の母の安らいだ笑顔、心の底からホッとしたような深い溜め息を、私は今でも鮮明に覚えています。 その部屋にいる時間だけは、母は「理不尽に責め立てられる哀れなお嫁さん」である必要はありませんでした。ただの「愛しい娘たちのお母さん」に戻り、何気ない世間話をしたり、テレビを見て声を上げて笑ったり、短大時代の洋食屋さんの思い出話に花を咲かせたりすることができたのです。 母と、私と、妹。女3人が狭いアパートの6畳間に集まって過ごすその時間は、世間から見ればなんてことのない、ごく普通の光景だったかもしれません。しかし、私たちにとっては、嵐の海を泳ぎ切った後にようやくたどり着いた、聖なる「安全地帯」そのものでした。 私が勇気を出して先陣を切り、実家を飛び出して作った小さな拠点が、妹を救い、ついには母をも救う「心の逃げ込み寺」になった。 この独身時代の経験は、私の中に「人間には、どんなに苦しい現実があっても、一時的に避難して心を休められる安全な場所が絶対に絶対に必要なんだ」という、確信を植え付けることになったのです。 母の避難に慣れてきた、ある時、母が泊まり込みに来たことがありました。 知ってるのは私たち3人だけ。父にも黙っての決行でした。母にしてみれば、何もしない父に反旗を翻した行動です。 最終的には私たち姉妹と父親とで話し合いをして母のことを訴えて、味方になるように説得して母が戻りましたが、良かったのは最初だけで、結局は母が辛い思いをするという構図は最後までかわることはありませんでした。 とはいえ、母にとって逃げ場がある、というのか心の支えになっていたのは確かなようでした。本当に母の苦労は並大抵ではなかったと思うのです。 今の時代、このようなことはあまりないかもしれませんが、何がどれくらいつらいか、なんて人それぞれ違うんです。 世間一般には大変じゃないと思われることでも本人にとっては死活問題と言えるくらい辛いことだって十分ありえます。 世間の物差しに関係なく目の前の人の物差しを大事にしたい、そんな想いが刻まれた私の人生の1ページです。 ■今、逃げ場のない孤独の中で耐えているあなたへ この短大卒業から独身時代にかけての「実家からの独立」と「心の避難所作り」のストーリーは、今、私がココナラで提供している電話相談室のあり方に、深く、真っ直ぐに繋がっています。 私の元へ相談に来てくださるお客様の多くは、かつての私の家族と同じように、「逃げ場のない環境」で苦しんでいます。 理不尽な家族関係、モヤモヤする職場環境、誰にも弱音を吐けない孤独。 「自分が我慢すればいい」と自分を追いつめ、心の中で声を殺して泣いている。そんなあなたに、私は一番に伝えたいのです。 「苦しい場所から、一時的に逃げることは悪いことじゃないんだよ。それは自分を守るための、優しくて正しい防衛なんだよ」と。 私が今、用意している電話相談の空間は、まさにあの独身時代に私が先陣を切って作った「小さなアパートの6畳間」そのものです。 実家や祖母という現実の嵐から離れ、妹や母がドアを開けて「あぁ、助かった」と崩れ落ちるように座り込んだ、あの温かい部屋。誰もあなたを責めない、誰もあなたを否定しない、ただただ温かいお茶を飲んで、フッと肩の荷を下ろせる安全地帯。 あなたが今、どんな年齢で、どんな複雑な人間関係の絡まりの中にいたとしても、私はあの頃と全く同じ「絶対にあなたを守る」という強い覚悟で、あなたをこの部屋に迎え入れます。 外の世界では「しっかり者」として頑張っているあなたも、私の前ではただの「一人の傷ついた人間」に戻ってください。弱音を吐いてもいい、涙を流してもいい、ドロドロした感情をぶちまけてもいいんです。 あの小さなアパートで、母娘3人が寄り添い合って笑顔を取り戻したように、今度は私とあなたの二人で、その張り詰めた心をそっと解きほぐしていきましょう。 どうぞ安心して、私のアパートのドアをトントンと叩くような気持ちで、いつでも逃げ込んできてくださいね。私はいつでも、両手を広げてあなたを待っています。

    ・6.自分を見失った暗闇の数年間と、勝手に作った心のペナルティが溶けた日。 2010年11月 〜 2010年12月

    ※匿名・年齢非公開のため期間は変えて掲載しています(*´▽`*) ご理解いただけますと嬉しいです。 ✼••┈┈┈┈•• 短大を卒業し、先陣を切って実家を飛び出し、妹や母のための「心の避難所」を作った独身時代。 一見すると、自分の力で人生を切り開いているように見えた私でしたが、大人の社会という荒波は、そう甘いものではありませんでした。 人生には、どれだけ抗おうとしても、どうしても光が見えなくなる時期があります。 私にとってのそれは、新卒で入社した会社を、自己都合で退職した後に訪れた数年間でした。 あの輝いていた短大時代のエネルギーが嘘のように、私は人生の深い、深い暗闇のトンネルへと迷い込んでいくことになります。 目標を見失い、アルバイトを転々とする日々。 会社を辞めた後の私には、「これからどうしていきたいか」という明確な目標が、これっぽっちも見えなくなっていました。 とりあえず生活のためにと、いくつかのアルバイトを始めましたが、何をやっても長続きせず、どこに行っても「これじゃない」「上手くいかない」という空回りばかり。一つの仕事に馴染めず、履歴書の行数だけが増えていく毎日は、自分のプライドを少しずつ、でも確実に削り取っていきました。 「私は一体、何がやりたいんだろう」 「どうして周りの人のように、普通に、器用に生きられないんだろう」 気がつけば、自分という存在を完全に見失っていました。 朝起きて、中身の伴わない頼りない体を引きずるようにしてバイト先へ向かい、夜は狭い部屋で自分の不甲斐なさにただ頭を抱える。何をやっても上手くいかない、何を選んでも間違っているような気がする。 そんな辛くて苦しい日々が、数年間にわたって、まるで出口のない深い霧のように私の行く手を阻み続けました。 妹との二人暮らしを卒業して一人暮らしを始めた私に訪れた試練でした。 ■眩しすぎる仲間たちと、自分に課した「ペナルティ」 その暗闇にいた時期、私の心を最も苦しめたのは、高校時代の友人たちの存在でした。 例の、運動音痴の私が何をトチ狂ったのか飛び込んで、びりっけつになりながらも最後までやり抜いた、あの思い出の運動部の仲間たちです。 彼女たちは定期的に集まり、お互いの近況を報告し合っていました。 でも、私はその集まりに、どうしても顔を出すことができませんでした。いや、「顔を出さなかった」というより、情けなくて、惨めで、「顔を出せなかった」のです。 私の想像の中の仲間たちは、みんな本当に眩しい存在でした。 「みんなはきっと、ちゃんとした会社で普通に働いて、普通に恋をして、普通に休日をエンジョイしているんだろうな」 それに比べて、今の自分はどうだろう。 定職にも就けず、目標も見えず、アルバイトを転々として、その日暮らしのような生活をしている。 高校時代、あんなに「びりっけつでも最後までやり抜いたんだから」と胸を張っていたあの根性はどこへ行ってしまったのか。今の自分を見られたら、なんて思われるだろう。憐れみの目を向けられるくらいなら、最初からいない方がいい。 みんなが楽しそうに笑っている空間に、こんなボロボロの自分が混ざる資格なんてない。そうやって私は、自分で自分を勝手に「落第生」に認定し、心の扉をガチガチに閉ざしてしまいました。 仲間たちが優しければ優しいほど、その眩しさが今の自分を責め立てているような気がして、私は定期的に届く連絡からも、そっと距離を置くようになっていきました。 私が勝手に作った「まともな社会人になれていない私は、みんなに会ってはいけない」という心のペナルティは、私をどんどん深い孤独へと追い込んでいったのです。 ■トンネルの終わりと、怯えながら開けたドア しかし、どんなに長くて暗いトンネルであっても、歩みを止めなければ、いつかは必ず一筋の光が見えてくるものです。 あんなに真っ暗だった日々から、本当に少しずつ、少しずつではありましたが、私は暗闇のトンネルを抜け出すことができるようになっていきました。 何がきっかけだったのか、劇的なドラマがあったわけではありません。ただ、目の前の小さなことを一つずつ受け入れ、不器用ながらも必死に生きているうちに、霧が晴れるように「あぁ、やっと本来の自分を取り戻せたな」と感じられる瞬間が、数年ぶりに訪れたのです。 心が少しずつ元気を取り戻したとき、私の脳裏に真っ先に浮かんだのは、やはりあの高校時代の仲間たちの顔でした。 「みんな、まだ集まっているのかな。……久しぶりに、勇気を出して顔を出してみようか」 そう思ったものの、実際に連絡を取り、集まりの場所に向かうまでの足取りは重く、心は緊張で一杯でした。 私の頭の中は、ありとあらゆる最悪のシミュレーション(不安)でいっぱいだったのです。 「なんで今まで、ずっと来なかったの?」って責められたらどうしよう。 「今まで何してたの?」って聞かれたら、アルバイトを転々としてどん底にいたなんて、絶対に言いたくない。嘘をつくのも嫌だし、かといって本当のことも言いたくない……。 聞かれたくない、言いたくない。もしそんな質問攻めにあったら、私はまたあの暗闇に逆戻りしてしまうかもしれない。 そんな張り詰めた緊張感と恐怖を抱えながら、私は久しぶりに、仲間たちが集まる部屋のドアを開けました。 ■溶けていったペナルティと、今も胸にある安堵感 ところが、実際に部屋に入った私を待っていたのは、想像していたものとは全く違う現実でした。 「あ、みのり!久しぶりー!」 みんなは、私が数年間ずっと行方をくらましていたことなんて全く気にしていない様子。まるで昨日も会っていたかのような、ごく自然な笑顔で私を迎えてくれたのです。 そして驚いたことに、私が何年も怯え、恐れていた質問――「なんで来なかったの?」「今まで何してたの?」という言葉は、誰の口からも、ただの一言も、発せられることはありませんでした。 誰も何も聞かない。誰も私を責めない。ただそこにいる私を、そのまま受け入れて、今この瞬間の楽しい会話の中に、当たり前のように混ぜてくれたのです。 そのとき、私の胸の中に、言葉では言い表せないほどの巨大な「安堵感」が押し寄せました。張り詰めていた心のトゲが、温かいお湯に溶かされるように、一瞬ですーっと消えていったのです。 席に座り、みんなの笑い声を聞きながら、私は心の底から思いました。 「あぁ、休んでいたことに対するペナルティなんて、この世界のどこにもなかったんだ。みんなの心の中にも、最初からそんなものは存在していなかった。それは全部、私が自分の頭の中、心の中で勝手に作り上げて、自分を苦しめていただけの、幻のペナルティだったんだ」 数年間、勝手に怯えて、勝手に壁を作って、一人で惨めになっていた自分が、なんだか少し可笑しくもあり、それ以上に、何も言わずにただ迎えてくれた仲間たちの優しさが、心の底からありがたくて、愛おしくて堪りませんでした。 この時に味わった「何も言わずに、ただそのままを受け入れてもらえる」という圧倒的な安堵感は、何年、何十年が経った今でも、私の胸の奥に温かいお守りのように残り続けています。 ■あなたが自分に課したペナルティも、私が全部溶かします この、人生の暗闇を経験し、そして「心のペナルティ」から解放されたエピソードは、今、ココナラで電話相談の活動をする私にとって、非常に大切な心の指針となっています。 私の元へ相談に来てくださる方の中には、かつての私と全く同じように、自分で自分に厳しい「ペナルティ」を課して苦しんでいる方が本当にたくさんいらっしゃいます。 「こんな年齢なのに、まともな仕事に就けていない自分はダメだ」 「普通の人ができている結婚や子育てが上手くいかない私は、失格だ」 「みんな楽しそうなのに、自分だけが立ち止まっていて情けない」 周りの人がみんな眩しく見えて、自分の現状が恥ずかしくて、誰にも相談できず、一人で殻に閉じこもってしまう。その苦しみは、あの数年間、トンネルの中で自分を見失っていた私だからこそ、痛いほどよく分かります。 でもね、そんなあなたに、私はあの日の安堵感を込めて、真っ直ぐに伝えたいのです。 「あなたが勝手に作り上げてしまった心のペナルティなんて、この相談室にはどこにもないんだよ。あなたが今までどれだけ立ち止まっていても、アルバイトを転々としていても、何もかも上手くいかなくて引きこもっていても、私はそれを責めることも、問い詰めることも絶対にしないからね」 私の電話相談室は、あの高校時代の仲間たちが私を温かく迎えてくれた、あの部屋と同じです。 「なんで今まで相談しなかったの?」なんて聞きません。「今まで何をしていたの?」なんて、あなたが言いたくないことは、一つも話さなくていいんです。ただ、その傷ついた心のまま、この部屋のドアを叩いてみてください。 私は、あなたが今どんなにボロボロであっても、「よく来たね、待ってたよ」と、ただそれだけの、ありのままのあなたを全力で受け入れます。 一人で抱えているその情けなさも、惨めさも、私の前では隠す必要はありません。 あなたが自分を責めるその「心のペナルティ」を、今度は私が、あの温かい安堵感で全部きれいに溶かします。どうぞ安心して、本来のあなたを取り戻す一歩を踏み出しにきてください(*´▽`*)

    ・7.私の「好き」で満ちていた幸福な日々と、今だから分かる熱量のズレ 2011年6月 〜 2011年7月

    ※匿名・年齢非公開のため期間は変えて掲載しています(*´▽`*) ご理解いただけますと嬉しいです。 ✼••┈┈┈┈•• 人生の暗闇のトンネルを抜け、高校時代の仲間たちとの再会によって「心のペナルティ」から解放された私は、本来の自分らしいポジティブなエネルギーを完全に引き戻していました。 そんな20代の後半、私の中にそれまでとは全く違う、新しい心の変化が訪れます。 それまでは「結婚なんてまだまだ先の話、今は自分の力で自由に生きていくのが楽しい」と、独身の自由を謳歌していました。仕事をして、友達と遊び、旅行を楽しみ、自分のアパートで自由に暮らす。 その日々に不満はありませんでした。しかしある時、自分の中でふと「やりたいことはやり尽くしたかな」という、不思議なほど大きな満足感が芽生えたのです。 自分自身の独身時代に対して、何ともいえない満たされた感覚。やりたいことをやりきったという達成感。それが強力なスイッチとなり、私の心の中に突然、ものすごい熱量で「結婚したい!よし、結婚しよう!」という強い思いが湧き上がってきました。 一度決めたら先陣を切って猛スピードで突っ走るのが私の性分です(笑)。そこからの私は、ブレーキなんて一切かけずに動き出しました。 友達に「誰かいい人いない?」と片っ端から声をかけ、家族にも「私、結婚するから!」と宣言し、「お見合いもするから、話があったら断らないで」とアピール。いわゆる「婚活」をエネルギー全開でスタートさせたのです。 そしてしばらくして、友人の紹介で出会った一人の男性と、私は結婚することになりました。 ■私の「好き」という圧倒的な熱量で突っ走った結婚生活 出会った当時、どちらかと言えば私の方が彼に一目惚れに近い状態でした。彼のどこが具体的に良かったのか、何を魅力に感じたのか、そんな細かい理屈や条件は後付けに過ぎません。私の心の中に湧き上がった「この人と一緒に生きていくんだ」「この人が好きだ」という直感と、恋心の熱量のままに、私は恋に落ち、周囲の状況など目に入らないほどの勢いで結婚へと突き進んでいきました。 友達にも親にも「結婚」を前提に声をかけていたし、年齢的にいっても親としても「さっさと結婚して欲しい」という気持ちがあったはず。 それに相手も結婚したいから結婚したい女性を探していたわけで。 だから、出会って結婚を進めるのに障害はなかったんです。逆に障害がなさ過ぎて、相手が私のことをどれくらい好きなのか、相手の熱量がどれくらいなのかを推し量るよりも先に、私の「好き」という気持ちだけで結婚に進められた、進めることができてしまったんです。 やがて私たち夫婦は、3人の子供たちに恵まれることになります。 子供が3人いる暮らしというのは、本当に慌ただしく、目まぐるしい毎日です。それまでの自由な独身生活とは180度変わり、24時間365日、自分の時間など1分もないような怒涛の生活が始まりました。 朝はまだ暗いうちから起き出して朝食とお弁当の準備をし、子供たちを起こして服を着せ、ご飯を食べさせるだけで一戦争。オムツを日に何度も替え、山のような洗濯物を回し、泣き叫ぶ声を抱っこであやしながら、片手で掃除機をかける。夜になれば子供たちをお風呂に入れ、寝かしつけをし、深夜の夜泣きに対応する。毎日自分の髪を振り乱し、化粧をする暇もなく、文字通り怒涛のような子育ての渦に巻き込まれていました。 しかし、そんな激しい忙しさの中にあっても、当時の私は間違いなく「普通に、とても幸せ」でした。 なぜなら、私は相変わらず夫のことが大好きだったからです。 「向こうが私のことをどう思っているか」とか、「夫の愛の大きさはどれくらいか」なんていうことは、当時の私にとってはこれっぽっちも大した問題ではありませんでした。 ただ、私が夫を好きで、私がこの人と結婚して、私がこの可愛い3人の子供たちを必死に育てて、毎日賑やかな家庭を営んでいる。その私自身の愛情の満たされ感だけで、我が家という空間は十分に幸福な世界として成立していると、疑いもなく信じ切っていたのです。 世間一般で言われるような、お互いに四六時中愛を囁き合うような熱烈な夫婦の形ではなかったかもしれません。夫はどちらかと言えば静かな人だったし、私は子育てで常にバタバタしていました。 でも、私が夫を好きなままで、子供たちの成長を共に見守り、日々の平穏な暮らしが続いていく。その「普通」の風景の中に、私は確かな温もりと幸せを感じていました。忙しさに追われながらも、私の心は夫と子供たちへの愛で満タンだったのです。 ■今振り返るからこそ分かる、「気にしなさすぎた」という心のズレ しかし、人生というものは、自分が見ている景色が「世界のすべて」ではないということを、時に残酷な形で教えてくれます。 当時は子育ての忙しさの真っ只中にいて、自分の「好き」という一方通行かもしれない情熱だけで満足していた私でしたが、のちに夫婦関係の破綻という人生最大の強制終了を経験するとは、このときはこれっぽっちも予測できませんでした。 あの幸福だった日々を全く違う視点から、冷静に客観的に振り返ることができるようになるには時間が必要でした。 「あの時の私は、相手が私をどれくらい好きなのかということを、あまりにも『気にしなさすぎた』のかもしれない」 「〇〇(夫)が浮気してるかも?とか疑ったことなかったの?」とは離婚の話になったときの妹からの言葉。 無かった。考えもしなかった。でも、そう言われれば、怪しいことがいくつか思い当たりました。 ピンときて、何か行動していたら、結果は違っていたかもしれない。とは思いましたが、小さい子供を3人育て、同居もし、母として嫁として妻として頑張っていた私には、そこに意識を持っていくことはほぼ不可能でした。私には何の落ち度もないと今でも自信を持っています。 不倫をして離婚を向こうから切り出してきたんですからね。姑も義理の姉も私と子供たちの味方でした。 ただ、これは結果ですが、そのプロセスとしては、 ・ 私が「夫を好きで、普通に幸せ」と満足していたあの空間で、夫の心の温度が本当はどれくらいだったのか。 ・夫が私に対して、そして家庭に対してどんな熱量を持っていたのか。 ・私は自分の溢れるようなエネルギーと愛情で目の前の現実を強引に満たしていたために、夫の側の微細な心の変化や、夫婦の間に生じていたかもしれない「熱量のズレ」に対して、無意識のうちに目を向けないようにしていた、あるいは本当に気づかないほど「気にしなさすぎた」 というのがあったのかもしれません。今さらどうにもならないことですけれど、何年もたって、心の傷がなんとか癒えたころ、そんな思いが”ふと”浮かびました。 相手の気持ちを気にしすぎて振り回されるのも辛いことですが、当時の私はその真逆でした。自分が好きだからそれで満足してしまい、相手の心のケアや、相手が抱えていたかもしれない寂しさや不満という「別の物差し」に、全く気がついていませんでした。 夫婦生活が目に見えて冷え切っていたわけでも、毎日激しい喧嘩を繰り返していたわけでもありません。私は相変わらず夫を好きなままだったし、家庭はしっかりと回っていました。 しかし、私が見ていた「普通に幸せな景色」の裏側で、夫が見ていた景色との間には、少しずつ、でも確実に、決定的なズレが生じていたのかもしれません。 当時はそれに気づく由もありませんでした。3人の子育てに必死で、夫を信じ切り、自分の愛の熱量のままに生きていた私の前に、やがて人生を根底から覆すような、突然の「旦那の不倫」と「一方的な関係の切断」という、青天の霹靂の大事件が待ち受けているとは、当時の私は夢にも思っていなかったのです。 私は自分が愛しているから大丈夫だと、無防備なままその幸せの渦中にどっぷりと浸かっていました。 ■人を好きになる熱量と、心のズレに悩むあなたへ この、自分の「好き」という気持ちだけで突っ走った結婚生活と、今振り返るからこそ分かる「相手の熱量を気にしなさすぎた」という切ない教訓。 この経験は、私の共感の土台となっています。様々な立場で、自分の思いに振り回されて苦しんでいる方に寄り添う原動力になっています。 「私は普通に幸せだと思っていたのに、パートナーから突然裏切られて絶望している」 「子育てに必死で相手のことを信じていたのに、ある日突然、関係を拒絶された」 「私はこんなに相手のことが好きなのに、相手からの熱量が同じように返ってこなくて寂しくて堪らない」 「一度火がついた恋心が止められなくて、周囲が見えなくなるほど突っ走ってしまい、自分をコントロールできない」 世間というものは、人間関係でトラブルが起きたり、複雑な恋愛に身を投じたりしている女性に対して、「もっと冷静になりなさい」「相手の気持ちを考えなさい」「自業自得だ」などと、冷たい正論や道徳をぶつけて裁こうとすることがあります。でも、私はそんな世間の物差しであなたを責めることは絶対にしません。 だって、人を好きになって周りが見えなくなるほどの激しい情熱を持つことも、自分の「好き」という純粋な気持ちのままに必死に突き進んでしまうことも、人間の抑えきれない本能であり、それほどまでに誰かを強く想えるということは、本来とても愛おしいことだからです。 その熱量も、盲目になってしまうほどの必死さも、私には痛いほどよく分かります。なぜなら私自身が、その熱量だけで結婚生活を駆け抜けた人間だからです。 そして同時に、自分が好きなままで幸せだと信じていたからこそ、そこから突然一方的に関係を切られたときの「信じられないショック」も、息ができなくなるほどの絶望も、すべて自分の身をもって知っています。自分が見ていた景色と相手が見ていた景色の「熱量のズレ」がもたらす、あの引き裂かれるような胸の痛みも、私は誰よりも理解しています。 だからこそ、あなたが今どんな立場にいて、どんな複雑な人間関係の絡まりの中にいたとしても、私は何一つ否定しません。あなたがパートナーとの熱量のズレに対する耐えがたい寂しさに震えているならその孤独に寄り添いますし、理屈抜きで誰かを好きになってブレーキが効かずに苦しんでいるならその情熱を丸ごと受け止めます。世間の常識や正論であなたを問い詰めたり、説教したりすることはありません。そのままのあなたを受けとめます。 あなたの「誰かを強く想う気持ち」や、その過程で生まれた傷は、何も間違っていません。まずはその傷ついた心のまま、誰にも言えない胸の内を私に吐き出してください。あの頃、自分の熱量だけで突っ走った未熟さも、その裏で起きていたズレの切なさも、すべてを通過してきた私だからこそ、何があってもあなたの味方になって、その張り詰めた心を温かく包み込みます。どうぞ安心して、私を頼ってくださいね。

    ・8.青天の霹靂の離婚劇と、私を救ってくれたもう一つの安全地帯 2011年11月 〜 2011年12月

    ※匿名・年齢非公開のため期間は変えて掲載しています(*´▽`*) ご理解いただけますと嬉しいです。 ✼••┈┈┈┈•• 3人の子供たちに恵まれるという奇跡に恵まれ、毎日髪を振り乱しながらも、自分の「好き」という純粋な愛情だけで家庭を満たしていた日々。その平穏は、ある日突然、何の前触れもなく音を立てて崩れ去ることになりました。 当時、夫は仕事の関係で単身赴任をしていました。 ずっと赴任先にきりというわけではなく、週末や休暇のたびに時々は自宅に帰ってくるという生活スタイルです。離れて暮らしている分、どうしてもお互いの生活リズムにすれ違いが起きたり、時には些細なことでケンカをして口をきかなくなったりすることもありました。 でも、当時の私は「夫婦なんだから、長い結婚生活のなかでそんな時期もあるでしょ。どこの家庭だって同じようなものよね」と、特に深く気に留めてはいませんでした。 何より、目の前にはやんちゃ盛りの小さな子供が3人。毎日の家事と育児に追われ、自分のことや夫婦の力関係をじっくり見つめ直す余裕など、1秒すらなかったというのが本音です。 私は夫を信じていたし、この慌ただしくも愛おしい日常の延長線上に、これからも当たり前の未来がずっと続いていくと信じて疑っていませんでした。私は、自分が愛しているから大丈夫だと、無防備なままその幸せの渦中にどっぷりと浸かっていたのです。 ■義姉の言葉と、夫の拒絶。はざまで右往左往した日々 そんなある日、義理の姉から奇妙な提案を何度も受けるようになりました。 義姉はたまたま夫の赴任先の近くに用事があり、ついでに弟の様子を見に行ってくれていたのです。その日を境に、義姉は私に対して「子供たちを連れて、赴任先で一緒に生活した方が良いよ」と、何度も何度も熱心に勧めてくるようになりました。 当時の私は、義姉がなぜそこまで強く引っ越しを勧めてくるのか、その本当の理由を全く知りませんでした。「お義姉さん、私のことを心配して、親身になってくれるんだな」くらいにしか思っていなかったのです。 でも、何度も熱心に言われているうちに、「たしかに、子供たちを連れて、家族みんなで赴任先で暮らすのもアリかもしれない。その方が夫も寂しくないだろうし、子供たちにとっても父親が近くにいる方がいいよね」と、私の心も少しずつ動き始めました。 実際に引っ越すとなれば大ごとです。まずは一度、現地の様子を偵察しに行こうと考えました。これから子供たちが暮らす環境や、学校、住む家がどんなところなのか、母親として自分の目でしっかり見ておきたいと思ったからです。 私は夫に「近いうちに、子供たちの住む環境を見に赴任先へ一度行くね」と伝えました。 ところが、夫から返ってきたのは、「来なくていい」でした。 夫は頑なに、私たちが赴任先へ行くことを拒み、不自然なほど一点張りの態度を崩しませんでした。 「一緒に暮らした方がいい」と私の背中を押し続ける義姉と、「来るな」と激しく拒絶する夫。その正反対の言葉のはざまで、私は一体何が起きているのか分からず、ただ困惑し、不気味な違和感を抱えながら右往左往するしかありませんでした。 そして、その奇妙な緊迫感が限界に達したとき、事態は最悪の形で急展開を迎えます。 夫の口から、突然「離婚してほしい」という言葉が飛び出してきたのです。 ■青天の霹靂。「愛してない」と言われたあの日の絶望 夫の告白は、私の人生を根底から揺るがす衝撃でした。 実は赴任先で付き合っている女性(不倫相手)がいて、その人と一緒になりたいから、私と別れたいというのです。そして、義理の姉が私に同居をあんなに勧めていたのは、すでにその不倫の事実を知り、弟の目を覚まさせよう、離婚を回避させようと考えてくれていたからだ、ということも同時に知りました。 まさに、青天の霹靂でした。 頭を重たい鈍器で殴られたような衝撃が走り、目の前の景色がぐにゃりと歪んでいくのを感じました。私が夫を大好きなままで、必死に守り、育んできたはずの家庭は、私の知らないところでとうに壊れていたのです。 怒りなのか、悲しみなのか、悔しさなのか、自分でも処理しきれない感情が心の中で大爆発を起こしました。気がつけば私は、夫の赴任先へと向かっていました。 そこからの記憶は、今でも断片的です。 話し合い、と呼べるような冷静なものではありませんでした。私はまるで、制御不能になった「壊れた機械」のように、わけの分からない感情の叫びを夫にぶつけ続けました。思いつく限りの文句を言い、これまでの自分の頑張りをすべて否定された悔しさをののしり、涙と怒りでぐちゃぐちゃになりながら、ただただ自分の感情のすべてを叩きつけて、命からがら自宅へと帰ってきました。 その後、義母も義姉も、なんとか離婚を回避できないかと、私たちの間に入って一生懸命に動いてくれました。私と子供たちの味方になって、夫を説得しようとしてくれたのです。 しかし、夫の固まった決意が覆ることはありませんでした。 夫から私に突きつけられたのは、「もうお前を愛していない」という、冷酷で決定的な事実でした。 私は、夫のことを心から愛していました。愛していたからこそ、義母との同居生活の苦労も、小さな不満も、すべてを飲み込んで「母として、嫁として、妻として」頑張ることができていたのです。 私には何の落ち度もないという強い自信もありました。でも、夫婦の片方からの愛が完全に消え去り、別の誰かに向いてしまっている以上、もうこの家に私がいる意味は、どこにも残されていませんでした。 私の「好き」という熱量だけで繋ぎ止めておける限界を、とうに超えていたのです。 こうして、私の結婚生活は、突然の強制終了を告げられました。 ■暗闇の中で私を救ってくれた、友達の「心の安全地帯」 離婚が決まり、私の心は完全に真っ暗闇のどん底に突き落とされました。これまでの自分の人生がすべて否定されたような気がして、呼吸をするのさえ苦しい毎日でした。 そんな絶望の時期、私の周りにいた大切な友達たちが、全力で私を励まし、支えてくれたのです。 彼女たちは、私の傷ついた心に寄り添うために、本当に心を砕いてくれました。変に「元気出しなよ」とか「前を向かなきゃダメだよ」なんていう綺麗事の慰めは一切言いませんでした。それどころか、私の代わりに、私以上に怒り、一緒になって夫のことを「非道だ!」「最低だ!」「とんでもない悪人だ!」と、言葉を選ばずに徹底的にぶった切ってくれたのです。 「みのりは何も悪くない!」「一生懸命やってきたのを私たちは知ってる!」 そう言って、ドロドロした感情を一緒に吐き出してくれた友達の姿を見たとき、私の張り詰めていた心の糸が、フッと緩まるのを感じました。誰にも言えない惨めさや怒りを、彼女たちの前では包み隠さず全部さらけ出すことができたのです。 この時、友達が一緒になって怒り、悲しみ、私の感情のすべてを全肯定してくれたことは、本当に大きな力になりました。どれだけありがたかったか、言葉では言い表せません。彼女たちが作ってくれた「どんな感情を吐き出しても絶対に否定されない安全な空間」があったからこそ、私は自分の壊れそうな心をなんとか保ち、正気を保つことができたのです。 この「友達が心を砕いて寄り添ってくれた」という原体験こそが、今、私が電話相談で多くの方のお話を聞き、どんな感情も丸ごと受け止めていきたいと思う強いベース(心の土台)になっています。 ■私たち4人を生き延びさせてくれた、もう一つの安全地帯 そしてもう一つ、私の手元に残された、まだ小さな3人の子供たちと、一歩先すら見えないこれからの生活への不安。もし自分一人だけだったら、あの絶望の淵から立ち上がることすらできなかったかもしれません。 経済的にも精神的にも追い詰められ、愛する子供たちを手放さざるをえないという、最悪の結末がすぐ目の前まで迫っていました。 そんな私を、物理的にも全面的に救い上げてくれたのは、私の実家の両親でした。 当時、健在だった私の父と母は、事の顛末をすべて静かに、じっくりと聞いてくれたあと、迷うことなく「子供たちを連れて、すぐにうちに帰ってきなさい」と、私たち親子4人を実家へと呼び寄せてくれたのです。 実家に戻った私たちを迎えてくれたのは、温かいお風呂、温かいご飯、そして何よりも「ここにいていいんだよ」という、誰も私たちを責めない無条件の優しさでした。 あの独身時代に、私が先陣を切って小さなアパートに作った「心の逃げ込み寺」。今度は、傷つき果ててボロ雑巾のようになった私が、両親が作ってくれた大きな「安全地帯」に逃げ込ませてもらう番だったのです。 実家という避難所のおかげで、私たち親子4人は、間違いなく生き延びることができました。凍りついていた心が、実家のぬくもりによって、少しずつ、少しずつ溶かされていくのを感じました。毎日温かいご飯を食べ、温かいお風呂に浸かれるということが、どれほどありがたく、救いになったか分かりません。 この時、両親が何も言わずに私と子供たちを包み込んでくれたことへの、深い深い感謝。この「救われた」という強い想いがあったからこそ、私はのちに、重度の認知症になった父と、大腸がんを患った母の介護が必要になったとき、何の迷いもなく「今度は私が、お父さんとお母さんを全力で支え、看取る番だ」と、心の底から覚悟を決めることができたのだと思います。私の介護への原点は、まさにこの離婚の暗闇のなかで、両親からもらった光にありました。 ■壊れた機械のようになってしまった、傷だらけのあなたへ この、突然の裏切りによる離婚劇と、そこから友達や実家という安全地帯に救われたストーリーは、今、私がココナラでお客様の複雑な悩みをお聴きする上での、最も強い背骨となっています。 パートナーの不倫を知ったとき、あるいは突然の別れを突きつけられたとき、人間の心は簡単に崩壊します。かつての私のように、まるで「壊れた機械」のように、怒りと悲しみで叫び出すことしかできなくなるのは、あなたがそれだけ相手を真っ直ぐに想い、家庭や仕事を一生懸命に守ってきた証拠です。 〇周囲に言えない不倫の傷跡に苦しむ方 〇人間関係の破綻にのたうち回っている方 〇ただただ苦しくて身動きが取れない方 〇裏切られた側だけでなく、誰にも言えない激しい恋心のはざまで身を焦がし、周囲から「最低だ」と責められて孤独に震えている方 どんな立場であれ、心が壊れるほどの痛みを抱えているあなたに、私はあの日の友達や実家のような温もりを持って、こう伝えたいのです。 「今のあなたは、壊れた機械のようになってしまって当然なんだよ。それほどまでに深い傷を負ったんだから。ここでは、その泥ドロした感情も、行き場のない怒りも、世間には言えない本音も、格好つけずに全部吐き出していいんだよ」と。 人を真っ直ぐに愛したからこその絶望も、そこから命からがら生き延びる過酷さも、私はすべて自分の身をもって経験してきました。そして、一緒になって怒ってくれる友達の存在が、どれほど心を軽くしてくれるかも知っています。 だからこそ、あなたが今どんなにボロボロで、惨めな気持ちになっていたとしても、私はあなたを温かいお風呂のような安心感で包み込み、あなたの代わりに怒り、あなたのすべての感情を肯定します。 あなたが安心して心を休め、もう一度自分の足で立ち上がれる日まで、私はずっとここで、あなたの手を握って待っています。どうぞ、あの日の私がお友達や実家を頼ったように、いつでも私の胸に飛び込んできてくださいね。

    ・9.子どもの小児喘息と、オーガニックの罠。お母さんの笑顔こそが最大の特効薬 2012年6月 〜 2012年7月

    ※匿名・年齢非公開のため期間は変えて掲載しています(*´▽`*) ご理解いただけますと嬉しいです。 ✼••┈┈┈┈•• シングルマザーとして実家に身を寄せ、両親と友達の温かいサポートのおかげで、なんとか命からがら生き延びることができた私と3人の子供たち。 しかし、一難去ってまた一難。 私を待っていたのは、まだ幼い長男の「小児喘息」という、新たな、そしてつらい試練でした。 夜中に突然、ヒューヒュー、ゼーゼーと苦しそうに呼吸を始め、小さな体を折り曲げて激しく咳き込む息子。その背中をさすりながら、何もしてあげられない自分の無力さに、私は毎晩のように胸を締め付けられる思いをしていました。 「どうしてこの子がこんな目に遭わなければいけないの?」 「私の育て方が悪いから、この子をこんなに苦しませてしまっているのではないか」「やっぱり離婚したのが原因なんだろうか…」 離婚の傷もまだ癒えきらないなか、私は新たな罪悪感と、息子の命を守らなければという強いプレッシャーのなかに放り込まれたのです。 ■病院ジプシーの日々と、辿り着いた「食」への道 息子の喘息を少しでも良くしたい一心で、私は必死になって病院を巡りました。 「あそこの小児科が良い」と聞けば遠くても飛んでいき、「このアレルギー科の名医が効く」と聞けば何時間も待合室で待つ。いわゆる「病院ジプシー」の状態でした。 しかし、どこの病院に行っても処方されるのは吸入器やアレルギーの強い薬ばかりで、根本的な解決には至らず、発作が起きるたびに薬で一時的に抑え込むだけの毎日に、私は焦りと不安を募らせていきました。 そんな病院ジプシーの果てに、ようやく最後に行き着いたある病院で、一人の医師からこれまでにないアドバイスを受けました。 「お母さん、薬に頼る前に、まずは毎日食べる『お米』を見直してみませんか。主食を玄米に変えてみるか、もし精米するなら家庭用の精米機を自分で買って、三分づき(さんぶづき)や五分づき、七分づきにして、お米の栄養を丸ごと食べるようにしてみてください」 それは、それまで薬のことばかり考えていた私にとって、目から鱗が落ちるような言葉でした。 「食べるものが、この子の体を作っているんだ」 腑に落ちた私は、すぐに家庭用精米機を購入しました。 毎日、玄米をそのまま炊いてみたり、子供たちが食べやすいように五分づきや七分づきにして工夫を凝らしたり、お米の洗い方や炊き方に至るまで、試行錯誤を繰り返す日々が始まりました。 ここから、私の「食」に対する探求はさらに加速していきます。 マクロビオティック、自然療法、未来食……。息子の体を内側から変えるための学びを見つけては、夢中になって知識を吸収し、実践していきました。 化学調味料を一切排除し、調味料はすべて昔ながらの製法で作られた本物に変え、野菜の切り方一つ、火の通し方一つにも、学んだ通りのルールを厳格に当てはめていきました。 ■「有機」「無農薬」の罠。完璧主義に囚われて失った笑顔 「食事を変えれば、息子は絶対に良くなる」 そう信じていた私は、いつしか「体に良いもの」を追求するあまり、極端な完璧主義の罠にすっぽりとハマり込んでいきました。 買い物に行けば、食品表示の裏側を血眼になってチェックする毎日。 添加物が入っているものは「毒」であり、避けるべき悪。野菜は有機栽培や無農薬のものでなければ意味がない。少しでも体に悪いとされるものを子供の口に入れることは、母親としての怠慢であり、息子の喘息を悪化させる原因になる。 そんなふうに、当時の私の頭の中は「正しい食事」というルールでガチガチに固まっていました。 しかし、そうやって頑張れば頑張るほど、私の心はどんどん苦しく、窮屈になっていったのです。 無農薬の野菜やこだわりの食材を揃えるのにはお金も手間もかかります。3人の子供を抱えるシングルマザーの生活の中で、毎日完璧な自然食を作り続けることは、想像を絶する重労働でした。 「どうしてこんなに頑張っているのに、完璧にできないんだろう」 「また無農薬じゃない野菜を使ってしまった」 お惣菜や市販のお菓子を美味しそうに食べている周りの親子を見ては、「あんなものを食べさせて信じられない」と心の中で批判し、同時に、そこまで神経質になれない自分を責めて、自己嫌悪に陥る。 息子の体を健康にするために始めたはずの自然療法が、いつの間にか私から心の余裕を奪い去り、私をピリピリとした「怒りっぽい母親」に変えてしまっていたのです。食卓からは笑顔が消え、まるで義務を果たすための緊張感漂う空間になっていました。 ■目の前で起きた発作。息子が教えてくれた「心の繋がり」 そんなある日のことでした。 些細なことがきっかけだったと思います。育児の疲れと、思うようにいかない苛立ち、そして完璧にやらなければというプレッシャーで心が限界を迎えていた私は、子供に対して、感情をそのままぶつけるように、めちゃくちゃに激しく叱りつけてしまったのです。 怒鳴り散らす私の声が、部屋中に響き渡りました。 子供は怯えた目をして、私の顔を見上げていました。 その、まさに次の瞬間でした。 息子の喉の奥から、「ヒュー……」という、あの聞き慣れた不吉な音が聞こえてきたのです。 みるみるうちに息子の顔色が変わり、激しい喘息の発作が、目の前で、信じられないほどのスピードで起きました。息が吸えなくて苦しそうにのたうち回る息子の姿を見た瞬間、私の頭に、まるで雷が落ちたような強烈な衝撃が走りました。 「……あぁ、私のせいだ」 そのとき、私はハッキリと理解したのです。 どれだけ無農薬の食事を食べさせ、どれだけマクロビを徹底して体を整えようとしても、目の前にいる母親の私が鬼のような形相でピリピリと怒り狂い、子供の心を恐怖で満たしてしまっていたら、そんな「正しい食事」なんて何の意味もないのだということを。 お母さんの心の状態、子供との関わり方、家庭の中の空気の温度。それらすべてが、目に見えない絆を通じて、子供の体の健康をこれほどまでにダイレクトに左右しているのだという現実を、私は息子の体を張った反応によって、痛烈に、残酷なほど突きつけられたのでした。 私が守るべきだったのは、完璧なお皿の上のメニューではなく、子供が安心して呼吸できる「お母さんの笑顔と、温かい空気」だったのだと、その日、私は涙が枯れるほど泣きながら、眠っている息子に「ごめんね」と何度も謝り、心から反省したのでした。 ■頑張ることを手放し、「良い加減(いいかげん)」のバランスへ この痛烈な経験を経て、私の「食」と「子育て」に対するスタンスは、劇的に変わっていきました。 「もう、頑張りすぎるのはやめよう」 私は、自分を縛り付けていたオーガニックやマクロビの厳格なルールを、一度手放すことにしました。 有機だ無農薬だと目の色を変えて食材を探し回るのをやめ、スーパーで手に入る普通の食材も「ありがたいね」と受け入れる。たまには添加物が入ったお菓子だって、みんなで「美味しいね!」と笑顔で分け合って食べる。 「体に良いものを食べさせること」よりも、「家族みんなで、おしゃべりをしながら、何でも美味しく、楽しくいただくこと」を最優先にするようにしたのです。 できる範囲で、心地よく取り組む。 お金があるときは良い食材を、お金や時間が限られているときは、そのときの状況に合わせて無理はしない。完璧を目指してイライラするくらいなら、適度に手を抜いて、お母さんがニコニコ笑っている方が、子供の体にとっては100倍の栄養になる、そう思えるようになったんです。 この、極端なこだわりから一歩引いて、物事を広い視野で捉える「バランスのいいポジション(中庸)」の視点が身についたことは、私のその後の人生において、大きな宝物となりました。 不思議なことに、私が肩の力を抜き、家庭の中に笑顔と穏やかな時間が戻ってくるにつれて、あんなに私を悩ませていた息子の喘息の発作は、少しずつ、でも確実に落ち着いていったのです。 ■「お母さん、あなたはもう、十分に頑張っています」 この、子育てにおける完璧主義の苦しみと、お母さんの「心の余裕」が子供の健康に与える影響についての経験は、今、私がココナラでお子さんの病気や、育児、不登校、そして「母親としての自信」に悩む女性たちの相談を受ける上での、何よりものメッセージの源となっています。 これまで私は、仕事やプライベートを通じて、子育てに疲れ果てて自分を責めているお母さんたちの悩みをたくさんお聴きしてきました。 「子供が病気になったり、学校に行けなくなったりしたのは、私の愛情が足りないからかな…」 「イライラして、つい子供を激しく怒鳴りつけてしまう。夜に子供の寝顔を見ては、そんな自分が嫌で苦しい気持ちになる」 「良い母親にならなければと必死に頑張っているのに、誰も褒めてくれず、孤独で息が詰まりそう」 昔の私と、全く同じです。 みんな、我が子を愛しているからこそ、一生懸命になりすぎて、自分自身をがんじがらめに縛り付け、笑顔を失ってしまっているのです。お母さん自身が自分を責めるその痛々しいほどの健気さを思うと、私は胸がぎゅっと締め付けられます。 だからこそ、私はそんなあなたに、あの日の気づきを込めて、優しく伝えたいのです。 「お母さん、あなたはもう、十分に、これ以上ないくらい頑張っていますよ。だから、これ以上自分を責めなくていいんですよ」 お母さんが自分を責めて、プレッシャーに潰されそうになると、どうしても心に余裕がなくなります。 その余裕のなさが、イライラを生み、大切な我が子にぶつけてしまうという、誰も望んでいない悲しい悪循環を生み出してしまうのです。 だからね、まずはあなた自身が、自分の肩の荷を下ろして、一息つくことが何よりも大切なんです。 私の電話相談は、子育てに奮闘して、ボロボロになって、誰にも弱音を吐けないお母さんたちのための「24時間いつでも逃げ込める避難所」です。 ここでは、母親としての立派な姿を見せる必要は一切ありません。 「もう子育てを投げ出したい」「子供を可愛いと思えない瞬間がある」「つい怒鳴ってしまった」といった、他の人には絶対に言えない本音や、自己嫌悪の感情も、私はすべてを優しく受け止めます。100%あなたの味方です。 あなたの話をじっくり聞いて、その頑張りを心から認め、寄り添ってくれる人がそばにいる。それだけで、お母さんの心にはふっと、温かい風のような「余裕」が生まれます。 お母さんの心に余裕が生まれ、あなたが笑顔を取り戻すことこそが、お子さんにとっての何よりの特効薬であり、お守りになるのです。 一人でその重い責任を背負い込まないでください。まずは私に、その肩の荷物を半分、預けてみませんか?あなたが本来の「笑顔のお母さん」に戻れるまで、私はいつでもここで、あなたの味方になってお待ちしていますね。

    ・10。長男・長女の不登校と、先回り母の後悔。そこからの起死回生、笑顔が運んできた最高の「ありがとう」 2012年11月 〜 2012年12月

    ※匿名・年齢非公開のため期間は変えて掲載しています(*´▽`*) ご理解いただけますと嬉しいです。 ✼••┈┈┈┈•• 子どもの健康を守るために「食」に必死になり、「お母さんの笑顔こそが最大の特効薬だ」と身をもって学んだ私。しかし、子育ての試練は体の健康面だけにとどまりませんでした。 次に私の前に立ちはだかったのは、子どもたちの「心」のSOS、すなわち「不登校」という大きな壁でした。 長男と長女、二人それぞれが異なる形で学校に行けなくなる経験を通して、私は「親としての本当の寄り添い方とは何か」を、痛いほど学ばせてもらうことになったのです。 ■長男の不登校:ある日突然、奪われた「居場所」 小学生時代、長男は地域の少年野球チームに所属していました。土日も泥だらけになりながら白球を追いかけ、元気に活動している姿を見るのは、私にとっても大きな喜びであり、当たり前の日常でした。 ところが、小学 5 年生のあるときから、長男の様子に明らかな異変が現れ始めました。 週末が近づくとポツリと「野球に行きたくない」と言い始め、やがて「学校にも行きたくない」と、布団から出てこられない日が増えていったのです。 初めての事態に、私の頭は真っ白になりました。 「どうして急にそんなことを言い出すの?」 「私の育て方が悪いから、この子をこんなに苦しませてしまっているのではないか」 「やっぱり、私が離婚したのが原因なんだろうか…」 離婚の傷も癒えきらないなか、私は新たな罪悪感と、息子を守らなければという強いプレッシャーのなかに放り込まれたのです。 理由を聞くと、原因は少年野球チームでの人間関係でした。 練習中や移動の際、ペアを組んでもらえなかったり、話の輪に入れてもらえず、あからさまな「仲間外れ」にされていたのです。 さらに辛いことに、その子どもたちが学校のクラスでも同じグループでした。野球での冷たい態度がそのまま学校生活にも持ち込まれ、学校という空間そのものが、長男にとって「怖くて行けない場所」へと変わっていました。 狭い子どもの世界の中で逃げ場を失った我が子の孤独を想像したとき、私の胸は張り裂けんばかりに痛みました。「この子をどう守ればいいのか」という、終わりのない暗闇を手探りで進む日々が始まったのです。 ■逃げ込んだ先で見つけた、温かい光と仲間の存在 学校に行けない長男を家に閉じ込めておくわけにはいかないけれど、無理やり行かせることは、傷ついた心をさらに追い詰めることになる。 当時は、フリースクールや学校以外の居場所についての情報が増え始めた時期でした。私は必死になって情報を集め、少年野球チームのお母さんたちと話し合いを重ねつつ、同時に長男の新しい居場所を確保することに動きました。 近くにあるフリースクールへ見学に行き、さらには市が運営している適応指導教室(不登校の子どものための居場所)にも通うようにしたのです。 この選択が、長男の止まっていた時間を少しずつ動かし始めました。 そこには、長男と同じように辛い思いをして学校を休んでいる子どもたちが集まっていました。長男にとって、「学校に行けないのは自分だけじゃない」という事実は、言葉にできないほどの安心感をもたらしたようです。 最初は表情が硬かった長男も、そこで過ごすうちに急速に仲間と仲良くなっていきました。「明日はあそこに行く日だね」という会話が家庭の中で復活し、生活の中に楽しみを取り戻す。その小さな「楽しみ」の積み重ねが、長男の枯れ果てていたエネルギーのコップを、少しずつ満たしていったのです。 ■ スモールステップのはずが…心臓バクバクの新学期 エネルギーをチャージしながら過ごすうちに新年度を迎え、再出発の大きなチャンスがやってきました。 そんな時、温かい手を差し伸べてくれたのが、当時の校長先生でした。 「新しく担任になるこの先生ならしっかり寄り添ってくれます。新学期が始まる前に、一度担任の先生と顔合わせをしてみませんか」 その提案に乗り、春休みの学校へ向かいました。新しい担任の先生は、長男の目を優しく見つめ、「大丈夫だからね。先生はいつだって味方だから」と、心強い言葉をまっすぐに届けてくれたのです。 そして迎えた、新学期初日。 私たちは「保健室登校」のような、別室で少しずつ慣らしていくスモールステップをイメージして校門をくぐりました。 ところが、事態は私たちの予想とは全く異なる展開を見せました。 学校に到着した長男は、先生の誘導のまま、初日からいきなり普通に教室へと案内され、クラスの一員としてスタートすることになったのです。 学校から帰ってきた長男の話から、初日の教室でどれほど心臓がバクバクと脈打っていたかが痛いほど伝わってきました。一度行けなくなった場所にいきなり放り込まれたら、大人だって生きた心地がしないはずです。 しかし、そのバクバクを救ってくれたのは、クラスの周りの子どもたちでした。 子どもたちは、長男が休んでいたことなど何事もなかったかのように、本当に「フツー」に接してくれたのです。「あ、〇〇くん、おはよー!」と、いつも通りの日常の一部として、彼を自然に受け入れてくれました。 この経験こそが、長男にとって何よりの強力な安心材料となりました。「もう怖がらなくていいんだ」と確信した長男は、いつもの笑顔を取り戻し、以前のように当たり前に学校へ通えるようになったのです。 この復帰劇は、先生の細やかな目配り、不登校の時期にしっかりと心の元気をチャージできていたこと、そして長男自身の成長が奇跡のように混ざり合って成し遂げられたものでした。あの時に関わってくださったすべての人への感謝の気持ちは、今でも忘れることはありません。 中学生になってからも小さなトラブルはいくつかありましたが、長男はあの時に培った心の強さで登校し続け、今では母親想いの本当に優しい息子に育ってくれました。 ■長女の「まだら不登校」 長男がなんとか学校に復帰し、ホッとしたのも束の間、今度は長女の「まだら不登校」が始まりました。 長女の不登校は、小学校、中学校と、「行ける日」と「行けない日」が不規則に繰り返される状態でした。 本人の「やっぱり友達が欲しい」という気持ちから、何度も登校をするのですが、毎回、数日行っては行けなくなるのでした。 人一倍のがんばり屋さんだったと思います。 しかし、当時の私は、そんな娘の姿を見ているのが辛くてたまりませんでした。 「また行けなくなったら、この子はどれだけ傷つくだろう」 「進路はどうなるの?将来どうやって生きていくの?」 私は「心配の先回り」をするようになっていきました。娘が傷つく前に、私が先に行って石ころを拾い上げ、道を作ってあげなければいけない。そうやって娘の表情を過剰に伺い、先回りしてアドバイスをしたり、過保護に干渉したりする日々が続きました。 今となっては、冷静に考えられることがあります。 私がしたあの「過度な心配」と「先回り」こそが、結果的に娘の自律するチャンスを奪い、不登校を長引かせる原因になってしまっていたのではないか、と。 私が放つ「大丈夫?」という言葉は、裏を返せば「あなたは大丈夫じゃないよね」という不信感として、娘の心に重くのしかかっていたのかもしれません。 高校生になっても、出席日数を数え、常に中退の境界線、卒業ギリギリのラインを死守しながら、何とかだましだまし二人三脚で卒業しました。ここでも、私の過保護ぶりは遺憾なく発揮されていたと思います。 ■過去は変えられない。だから決めた「笑顔の徹底」 「私は、なんて未熟で至らない母親なんだろう」 長男の時も、長女の時も、もっとうまく対応できていればと、過去を悔やんでは一人でくよくよと泣く夜もありました。 でも、ある時、私の心の中で何かが吹っ切れたのです。 「だめな母親かもしれない。でも、あの時の私は、私なりに精いっぱい、命がけで、MAXで頑張ったじゃない。それしか方法を知らなかったんだから、仕方ないじゃない!」 過去をいくら悔やんでも時計の針は戻りません。過ぎたことはもう変えられない。だったら、過去の自分を責めるのはやめよう。これからの子どもたちとの関わり方にエネルギーを注ごう、と決意したのです。 そこから私は、ある一つの行動を徹底することにしました。 子どもたちから何を言われても、どんな状況であっても、 「私はただ、笑顔で返事をし続ける」 これだけを、何があっても守り抜こうと決めたのです。 学校に行く、行かないはどうでもいい。あなたがどんな状態であっても、お母さんは笑顔でここにいるよ。そのメッセージを、毎日の「笑顔の返事」という行動だけで伝え続けました。 ■子どもがくれた、人生最高の「宝物」 その「笑顔の徹底」を始めてから、2年ほど経ったある日のことです。 娘から、思いもよらない言葉をかけられました。 「お母さん、ありがとう。私がどんなに愚痴を言っても、暴言を吐いても、お母さんをディスっても、お母さんが私のことを絶対に責めないでいてくれたこと、本当に助かってたよ。心の病気だから、自分で分っていても止められないんだ。だから、お母さんは絶対に怒らない、っていう安心感はありがたいよ」 その言葉を聞いた瞬間、これまでの何年もの苦しみや葛藤、自分を責め続けた涙のすべてが、一瞬にして温かい光に変わって洗い流されていくのを感じました。 もちろん、今でも子どもたちから文句を言われることもありますし、過去の母親批判をされることもあります(笑)。 それでも、諦めずに笑顔を送り続けたことが娘の心に届いていた。娘が私にくれた「ありがとう、私を責めないのが助かってる」という言葉は、私のこれまでの人生における、何よりもの一番の宝物です。 ■誰もあなたを責めない「安全地帯」が、ここにはあります この長男と長女の不登校、そして私自身の過保護な後悔から這い上がった経験は、今、我が子のことで自分を責めているお母さんたちに一番伝えたいメッセージです。 子どもが学校に行けなくなったとき、誰よりも自分を激しく責めているのはお母さん、あなた自身ですよね。「私の育て方のせいだ」と暗闇で一人で泣いていませんか。 未熟な母親でもいいじゃないですか。あの時のあなたは、我が子のために精いっぱいのMAXで頑張った。まずはその事実を、自分自身で「よくやったね」と認めてあげてください。 お母さんが過去を悔やむのをやめて、ただ「何があっても笑顔で、責めずにそこにいてくれる」という安心感を作ること。それこそが、子どもがもう一度自分の足で立ち上がるための最強の土台になります。 でも、一人で笑顔を保ち続けるのは本当に大変なことです。だからこそ、私を、あなたにとっての「不安をすべて吐き出すゴミ箱」であり、エネルギーをチャージする「給油所」として使ってほしいのです。 これまで私は、仕事やプライベートで多くのお母さんたちの悩みを聴いてきました。私の電話相談は、誰にも弱音を吐けないあなたのための「避難所」です。ここでは母親としての立派な姿を見せる必要は一切ありません。どんな本音を吐き出しても、私は100%あなたの味方です。 あなたが不安を全部預けて、心がふっと軽くなり、お家で「笑顔のお母さん」に戻るお手伝いをさせてください。もう一人で抱え込まなくて大丈夫です。いつでも、あなたのお電話を心からお待ちしています。 (*´▽`*)

    ・11.シングルマザーの決意。ヘルパー2級から始まった、私の介護人生 2013年6月 〜 2013年7月

    ※匿名・年齢非公開のため期間は変えて掲載しています(*´▽`*) ご理解いただけますと嬉しいです。 ✼••┈••✼ 子どもの不登校や行き渋りに悩み、 たくさんの失敗や後悔の末に「笑顔の徹底」という母としての境地にたどり着いた私。 私の人生を振り返ると、子育てと介護は切っても切れない関係にありました。 今こうして18年以上介護の仕事をしているのは、「ヘルパー2級」という情報を持ってきてくれた人がいたからです。 ◆「食べていかなければならない」シングルマザーの現実 離婚した当時の私は、これからの生活に対する大きな不安のなかにいました。。当時は近場で短時間のアルバイトをしていましたが、毎月の家計のやりくりを考えると、到底それだけでやっていけるほど甘い世界ではありません。 「やっぱり、シングルマザーとして子育てをしていくためには、もっと腰を据えて、しっかりとした仕事をしなければならない」 焦りと不安で胸がいっぱいになっていた私を、親や親戚、母の友人などが一緒になって心配してくれ、いろんな情報を持ってきてくれました。そんな時、ある方が私に、アドバイスをくれたのです。 「今はヘルパー2級がいいらしいよ。あの資格を持っていると、求人もたくさんあるみたいだから、仕事には困らないらしいよ」 当時は、今のように介護資格の制度が細かく複雑に分かれている時代ではなく、「ヘルパー2級」が最もメジャーで、介護の世界への登竜門とされていた時代でした。 「そうか、ヘルパー2級があれば、私でもしっかりと働ける場所が見つかるかもしれない」 私は、すぐにその言葉を聞いて調べてみることにしました。 ◆授業と実技、6万円で掴んだ「最初の一歩」 調べてみると、その資格は通信教育での座学と、いくつかのスクーリング(対面授業)、そして実技の講習を受けるだけで取得できることが分かりました。 当時の受講費用は、確か5万〜6万円ほどだったと記憶しています。 講座の最後に出されるテストも、落とすためのものではなく、しっかりとカリキュラムに出席して真面目に受ければ、誰でも修了証がもらえるという性質のものでした。 現代の介護業界は、介護職員初任者研修から始まり、実務者研修、介護福祉士と、ステップアップのために膨大な勉強と複雑な要件が必要ですが、当時は本当に「ヘルパー2級さえあれば、介護の仕事はどこにでも行ける」という、おおらかな時代でした。 こうして私は、人生で初めて「介護」という未知の世界の切符を手に入れたのです。 ◆命の重さに足がすくんだ、初めての訪問介護 資格取得の最終段階として、近所での「訪問ヘルパー」と「介護施設」の2箇所での実務研修がありました。無事に研修を終えたとき、研修先の担当の方から温かい声をかけていただきました。 「みのりさん、もしよかったら、まずはうちのホームヘルパーに登録して、仕事を始めてみない?」 その一言が嬉しくて、私は迷わずその訪問介護事業所にヘルパーとして登録し、プロとしての第一歩を踏み出すことになりました。そこで約1年間、私は訪問ヘルパーとしての経験を積むことになります。 訪問ヘルパーの仕事は、お一人おひとりのお宅に伺い、その方の生活のペースに合わせてケアを行う。色々なお客様との出会いがありましたが、私の記憶に今でも最も強烈に焼き付いているのは、ある「ALS(筋萎縮性側索硬化症)」の患者さんのご自宅へ通った日々のことです。 ヘルパーの仕事は料理や入浴など生活中心の介助と、病気を抱えていて医療的なサポートが必要な介助があって、医療度合いが高い方が、時給が高いのです。 少しでも時給が高い方が良かったので、声をかけられたとき、迷わず医療度合いの高い方のヘルパーを引き受けました。 ALSは、意識や五感ははっきりしているにもかかわらず、全身の筋肉が徐々に動かなくなっていく非常に過酷な難病です。 そのお客様のケアは、それまで学校の授業で習ったような一般的な生活援助とは全く異なり、医療的なケアが多く含まれていました。 もちろん、最初のうちは同行してもらい、何回かは見てるだけ。メモを取って質問をして覚えていきます。その後、自分で介助するところを見てもらって合格できたら独り立ち、となるわけです。 24時間体制で介助のスケジュールが組まれており、訪問看護師が1日に何回か来るので、それまでの間を介護員が見守って介助していました。ご利用者様の病状が進んでいくのに合わせて介助の内容も変化するので、チームワークが本当に大切だな、と感じながら介護に当たっていました。 「もし、私の手元が少しでも狂ったら、この方の命に関わるかもしれない」 毎回、そのお客様のお宅の呼び鈴を鳴らすときは、緊張感に包まれていました。 シングルマザーの生活のために始めた仕事でしたが、そこは文字通り、一瞬の油断も許されない「命の最前線」だったのです。 ◆災害の恐怖と、自分の未熟さを認めた決断 そんな張り詰めた緊張感のなかでなんとか1年ほど頑張っていたある日、私たちの地域を大きな災害が襲いました。 激しい揺れや混乱のなかで、私はハッとあのお客様の顔を思い浮かべました。自分の身体を1ミリも動かすことができず、医療機器やヘルパーの助けがなければ息をすることすらままならない、あのお客様。 数日して、病院に受け入れてもらって元気に過ごされていることを聞いて安心しましたが、 「もし、私がケアをしている時に災害が起きたとき、私一人の力で、この重篤な状態の方の命を背負って守りきることができるだろうか……」 想像しただけで、恐ろしいと感じていました。私にはまだ、一人でそこまで重い責任と命の重さを支えきるだけの技術も、心の強さも備わっていない。まだ「ヘルパー2級」を取って1年。気軽に引き受けた重度の方の介護。自分の知識と経験の浅さを突きつけらたのでした。 恐怖と不安がどんどん大きくなり、私はこれ以上、この方の介護をするのは難しいと思い、変えていただけないか聞きに行きました。 私は正直に自分の限界を事業所に伝えました。すると事業所は私の気持ちを汲み取り、「それなら、同じ法人がやっているデイサービス(通所介護)の方に切り替えて働いてみない?」と提案してくれたのです。 これが、私とデイサービスとの、最初の出会いでした。 ◆ デイサービスで知った、介護の「楽しさ」と「賑やかさ」 1対1で、静まり返った部屋の中で命と向き合っていた訪問ヘルパーとは異なり、新しく異動したデイサービスの世界は、賑やかで活気に満ちあふれていました。 大勢のスタッフがいて、大勢のお客様をみんなで協力しながら介助する。 入浴介助、食事介助、排泄介助といった基本的な身体介護はもちろん毎日ありましたが、リハビリやレクレーションも毎日行われて、楽しんでくださるご利用者様もたくさんいました。 「介護の現場って、こんなに明るくて、楽しい場所でもあったんだ……!」 たまたま私が配属されたのが規模の大きなデイサービスだったこともあり、毎日賑やかでした。スタッフ同士で声を掛け合い、「次はお風呂行きますね!」「はーい、よろしくお願いします!」とチームワークで動く心地よさ。お客様たちが笑顔で「今日も楽しかったよ、ありがとう」と言って送迎車に乗り込んでいく姿。 訪問ヘルパーの時に感じていた「孤独なプレッシャー」から解放され、私はこの場所で、介護の仕事の本当の「楽しさ」と「奥深さ」を吸収しながら、生き生きと働くことができるようになっていきました。 人に勧められて始めた仕事でしたが、いつの間にか、このデイサービスの賑やかな日常が、自分の居場所のようにも感じられるようになっていたのです。 ◆ 「経験」という武器を手に、資格を目指す デイサービスでの毎日は忙しくも充実しており、気がつけばカレンダーのページが何枚もめくられ、私の介護職としての実務経験日数は着実に積み重なっていきました。 そして、介護の世界に入って数年が経った頃、私の中にひとつの大きな転機が訪れます。 プロの資格である「介護福祉士」、そして介護保険の司令塔である「ケアマネジャー(介護支援専門員)」の試験を受けるための、実務経験の要件を満たす時期がやってきたのです。 今でこそ、ケアマネジャーの受験資格は「特定の国家資格を持って5年以上実務を行う」など、非常に厳格で狭き門になっていますが、当時はまだ要件が緩く、規定の日数以上働いていれば、私のようなヘルパー2級からスタートした人間でも挑戦できる時代でした。 「よし、ケアマネの資格を取ろう!」 私はそう心に決めました。 なぜなら、いつまでもデイサービスの現場で夜勤や重い身体介助を続けるには、体力的にもいつか限界が来るかもしれない。もしデスクワークが中心の「ケアマネジャー」の資格を取ることができれば、体力的にも少しは楽になり、もっと長く、安定して働けるのではないか。 そんな、未来への期待と希望を胸に膨らませ、私は日々の過酷な仕事を終えたあと、夜遅くに机に向かい、猛烈に受験勉強を始めました。仕事と子育て、そして勉強のトリプルパンチでしたが、あの時の集中力は今思い出しても凄まじいものがあったと思います。 結果は、見事に合格。 「やった……!これで私も、ケアマネジャーとして新しいスタートが切れる!」 手元に届いた合格通知を握りしめ、私の胸はこれからの新しいキャリアへの期待でパンパンに膨らんでいました。 介護の現場で学んだ楽しさと、資格取得の喜び。それらを引っ提げて、いよいよ私は「ケアマネジャー」という相談専門職の世界へと足を踏み入れることになるのです。 しかし、その先に人生の挫折が待ち受けているとは、この時の私はまだ、知る由もありませんでした。 ◆あなたの一歩も、ここから始まります 私の介護人生のスタートは、決して高尚な理想や志から始まったわけではありません。 「シングルマザーとして食べていかなければならない」という切実な現実と、周りの人の「ヘルパー2級がいいよ」というアドバイスから始まった、本当に地味で必死な一歩でした。 最初に訪問ヘルパーで自分の未熟さに怯え、逃げるようにデイサービスに移ったことも、当時の私にとっては「挫折」のように思えて情けなかった記憶があります。 でも、今なら分かります。その時々で、自分の限界を認め、自分に合った環境を選びながら一歩ずつ進んできたからこそ、私の18年のキャリアの土台が作られたのだ、って。 今、ココナラの私の相談室に繋がってくださる女性の中には、「今の仕事を続けるのが辛い」「新しい一歩を踏み出したいけれど、自分の未熟さが怖くて動けない」「生活のために必死だけど、将来が見えない」と、当時の私と同じような不安で足がすくんでいる方がいらっしゃいます。 私は、そんなあなたに寄り添い、声を大にして伝えたいのです。 「完璧なスタートじゃなくていいんです。怖くなったら、途中で道を変えたっていい。大事なのは、あなたの生活と、あなたの心を最優先に守ること。あの時、未熟でビビりだった私でも、一歩ずつ進んだらケアマネになれたんだから、あなただって絶対に大丈夫ですよ」 私の電話相談では、仕事の悩みやキャリアの迷い、生活の不安など、誰にも言えない心のザワザワをすべて受け止めます。あなたが自分の「未熟さ」を責めて苦しんでいるなら、まずは私がそれを「それでいいんだよ」と包み込みます。 一人で暗闇の中で悩むのは終わりにして、私にその不安を分けてください。 自分を受け入れたところから見えてくる景色を一緒に見つけていきませんか。

    ・12.(恋愛・パートナーシップ特化):私の想い 2013年11月 〜 2013年12月

    ※匿名・年齢非公開のため期間は変えて掲載しています(*´▽`*) ご理解いただけますと嬉しいです。 ✼••┈••✼ ここまで自分の歴史を振り返りながら書いてきて、ふと恋愛に関する自分の想いを書きたくなりました。プロフィールには文字数の関係で書く場所がなく、ここでお伝えするのもありかと思ったんです。 この項目だけ私の恋愛に関する想いにお付き合いくださいね。 +:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-+ (恋愛・パートナーシップ特化):どんな立場でも、どんな想いでも。あなたが抱いたその気持ちは、絶対に間違いじゃない。 +:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-+ 子育てや介護、そして私自身の離婚やその後の様々な出会いと別れを通して、私は本当にたくさんの「人の想い」に触れてきました。 世の中には、いろいろな立場があり、いろいろな恋の形があります。 周りから素直に祝福される誇らしい恋もあれば、誰にも言えず、たった一人で暗闇の中で胸を痛める恋もあります。 そして、自分自身でさえ「こんな想いを抱いちゃダメだ」「どうして私はこんなに愚かなんだろう」と、自分の気持ちを罰するように責めてしまう夜もあるかもしれません。 でもね、私はずっと感じてきたことがあります。 どんな立場であっても、どんな状況であっても、世間からどう見られようとも――あなたが心の中で感じているその想いは、あなたにとって絶対に嘘偽りのない「本物」だということです。 1. 抑えきれない想いは、あなたが「一生懸命生きている証拠」 頭では、重々分かっているんですよね。 「もう諦めた方がいい」 「こんな関係、早く終わらせなきゃいけない」 「この年齢でこんなに胸を焦がすなんて恥ずかしい」 「相手の迷惑になるから、連絡なんてしちゃいけない」 世間の正論や、自分の中の理性が「ダメだ」と何度も警告を鳴らしている。それでも、どうしても湧き上がってきてしまう情熱や、抑えようとすればするほど溢れてしまう切ない想い、そして夜中に押し寄せる猛烈な寂しさ。 それってね、決してあなたが未熟だからでも、心が弱いからでも、愚かだからでもありません。 あなたが今日という日を、自分の人生を、それだけ一生懸命に生きてきたからこそ出てきた、愛おしい感情なんです。 少し立ち止まって、考えてみてほしいのです。 もし、あなたが自分の人生や、目の前のお相手に対して完全に「無関心」だったら、どうでしょうか? そんな風に夜も眠れないほど胸を痛めたり、スマホを握りしめて涙を流したりすることなんて、絶対にあり得ないはずです。 「どうでもいい相手」なら、心は1ミリも揺れません。 苦しくて、切なくて、心が千切れそうになっていること自体が、あなたが自分の心に嘘をつかずに、人と真剣に向き合い、必死で生きている何よりの証拠なのです。 それなのに、世間の「正論」という鋭いナイフを自分に突き刺して、「こんな私なんてダメだ」とせっかく芽生えた自分の大切な感情を否定したり、無かったことにしたりして傷つけるなんて、あまりにも悲しすぎます。 自分を本当の意味で受け入れ、大切にできるのは、世界中で自分しかいません。 だからこそ、私はあなたに伝えたいのです。 「どんな想いであっても、まずはあなた自身が『私は今、こう感じているんだね。それだけ真剣なんだね』と、その気持ちを大切に抱きしめてあげていいんだよ」って。 2. 感情は流れる水と同じ。だからこそ「今」の自分を肯定する 人の気持ちや感情というのは、川の流れや空の天気と同じで、常に変化していくものです。 永遠に同じ場所で止まっている感情なんて、この世には一つもありません。 今、あなたを苦しめているその猛烈な執着や、胸を締め付けるような切なさが、この先ずっと一生そのまま続くとは限らないのです。もちろん、長く続くかもしれないけれど、ふとしたきっかけで明日には全く違う優しい風が吹くかもしれない。 それなのに、私たちはどうしても「これから先、どうなっちゃうんだろう」と先の見えない未来を不安がって「今すぐどうにかしなきゃ」と焦ったり、過去の選択を振り返って「あの時こうしていれば」と終わったことを悔やんで自分を責めたりしてしまいます。 でも、未来も過去も、今の私たちが触れることはできません。 大切なのは、過去でも未来でもなく、「今、この瞬間の自分の気持ち」を、ただ丸ごと否定せずに受け止めてあげることです。 「ああ、私は今、あの人のことがこんなにも好きなんだな」 「本当は、喉から手が出るほど寂しかったんだな」 「愛されたくて、自分を見てほしくて、必死だったんだな」 そうやって、まずは一度、自分のどんなドロドロした本音であっても、100%肯定してあげる。 「これでいいんだ」 「私は今、こう思っているんだ」と、 自分の感情に自分自身で『マル』を出してあげた瞬間に、ピンと張り詰めていた心の緊張がふっと緩みます。 そして、相手や世間に振り回されてグラグラに揺れていたあなたの軸が、スーッと元の「自分の中心」へと静かに戻ってくるのです。 すべての問題の解決や、状況の好転は、この「今の自分をまずは一旦、フラット(ニュートラル)に受け入れること」から始まると私は思っています。 でも簡単にそれができれば誰も苦労はしませんよね(^_^;)。 3. 「人の恋愛」のように、自分の恋を客観的に見つめ直す よく「友達の恋愛ならすごく冷酷なくらい冷静に良いアドバイスができるのに、自分の恋愛になると途端に冷静さを失って、暴走したり自爆したりしてしまう」というお話を聞きますよね。 実はこれ、心理学的にも当然のことなんです。 自分の恋愛となると、感情の嵐の渦中にどっぷりと浸かってしまうため、どうしても視野が狭くなります。 「彼がすべて」「この恋を失ったら私の人生は終わり」と極限まで追い詰められ、お相手のちょっとした言動やLINEの返信速度一つに一喜一喜一憂して、振り回されてしまうのです。 当事者として渦中にいる時に「冷静になれ」と言われても、それは無理というもの。 だからこそ、私の電話相談という場を、上手く「心の安全地帯」として使ってほしいのです。 電話越しに、胸の中に溜まっているぐちゃぐちゃした想いを、思いつくままに一つひとつ言葉にして吐き出していく。誰かに話すという行為(アウトプット)を通して、人は自分の感情を頭の外に連れ出すことができます。 すると不思議なことに、まるで映画のスクリーンで他人のドラマを見るように、自分の恋愛を少し離れた高い場所から「客観的」に見つめ直すことができるようになるのです。 感情の渦から一歩抜け出して、一旦フラットな視点に立つことができたとき、あなたの中に劇的な変化が起こります。 「あれ?私、彼に猛烈に怒っていたけれど、本当はただ寂しくて悲しかっただけなんだ」 「なんだ、彼に執着していたんじゃなくて、『私を認めてほしい』っていう自分の承認欲求に縛られていただけなんだ」 「こうやって視点を変えてみたら、何も今すぐ答えを出さなくても、他にもっと自分を楽にする選択肢があるじゃない」 今まで狭い暗闇の中で「これしかない」「もう終わりだ」と思い詰めていた景色がガラリと変わり、新しい発想や、思いもよらなかった次の一歩がふっと見えてくることもあります。 冷ややかに冷静になるのではなく、温かい目で自分の恋愛を「人の恋愛」のように俯瞰して見つめ直す。これができると、恋愛の苦しみは驚くほど軽くなります。 それがきっかけになって、彼へのアプローチが変わることも十分ありえます。 悩みのど真ん中にいる時には考えもしなかったことが浮かんでくるかもしれません。 彼への想いにも変化がこ起こるかもしれません。心は生き物。未来の自分の心は誰にも自分でさえも分からないのです。 分かっているのは、自分の心を軽くすれば、湧き上がる想いや感情も影響を受けて変わってくるということ。だって、心も想いも感情も繋がっていますから。影響し合っています。 4. 誰にも言えない秘密も、世間の正論で傷ついた心も、丸ごと包み込む 世間はいつだって正論を突きつけてきます。 「不倫なんてダメに決まっている」 「そんな歳で恋愛に夢中になるなんて」 「早く忘れて次の人を探しなさい」 でも、そんな正論で解決できるくらいなら、あなたは最初からこんなに苦しんでいませんよね。正論を聞かされるたびに、「やっぱり私が悪いんだ」とさらに自分を追い詰め、誰にも相談できなくなってしまうだけです。 私は、世間の正論を振りかざしてあなたを裁くようなことはしません。 世間一般からしたら否定されるような関係であっても、人には絶対に言えないようなドロドロした感情であっても、私はあなたの気持ちを絶対に否定しません。「そんな風に思っちゃダメだよ」なんて、100%言いません。 なぜなら、最初にお話しした通り、どんな状況であれ「あなたがそう感じた」という事実そのものが、何よりも尊い本物のあなただけの気持ちだからです。 私の相談室は、あなたが心に秘めている「人に対する黒い本音」や「誰にも言えない秘密を」吐き出しても安全な「心の避難所」です。 一人で暗闇の中で携帯を握りしめ、既読がつかない画面を見つめて涙を流すのは、もう今日で終わりにしませんか? まずは私に、あなたの胸のザワザワや、やり場のない想いをそのまま預けてください。 一度フラットな状態になって、心をすっきり軽やかにした上で、「じゃあ、これからどんな素敵な未来を作っていこうか?」と、私と一緒に新しい景色を探しに行きませんか。 あなたの中にある大切な想いを、私にも一緒に大切にさせてくださいね。 いつでも、あなたからのお電話を心からお待ちしています。

    ・13.「愛する家族が壊れていく恐怖」と、介護共倒れを防ぐための心の保ち方 2014年6月 〜 2014年7月

    ※匿名・年齢非公開のため期間は変えて掲載しています(*´▽`*) ご理解いただけますと嬉しいです。 ✼••┈••✼ 「愛する家族が壊れていく恐怖」と、介護共倒れを防ぐための心の保ち方 親の介護というのは、ある日突然、前触れもなく私たちの日常に飛び込んできます。 「昨日まで当たり前にできていたことが、今日はできなくなっている」 「大好きだったはずの親が、まるで別人のような言動をとる」 そんな親の姿を前にして、多くのご家族がショックを受け、絶望し、「どうしてこんなことになってしまったのだろう」と涙を流します。 そして、終わりが見えない介護の渦の中で、心も体も擦り減らし、共倒れ寸前まで追い詰められてしまうのです。 今回は、私自身が経験した「父親の重度認知症の介護」と、突然訪れた最期の瞬間、そして介護で心が折れそうになっているあなたに一番伝えたい「心の保ち方」についてお話しします。 1. 違和感から始まった、父の「水頭症」と認知症 父の認知症の発端は、「水頭症(すいとうしょう)」という病気からでした。 ある時、同居していた母が父の様子を見ていて、ふと異変に気づいたのです。 「なんだか最近、お父さんの歩き方がおかしいのよ。小股でひょこたん、ひょこたんって歩くの」 そして決定打となったのが、ある日の昼食でした。 父がカップ焼きそばを食べようとしていた時のことです。 通常なら、お湯を入れて数分待った後、湯切り口からお湯をしっかりと捨ててからソースを混ぜますよね。ところが父は、たっぷりとお湯が入ったままの容器の中に、躊躇なくソースをダバダバと投入し、そのまま食べようとしたのです。 それを見た母は、「これはもう絶対におかしい!」と確信し、すぐに父を連れて病院へ向かいました。 病院での診断結果は「水頭症」。脳の中に髄液という液体が溜まり、それが脳を圧迫することで、歩行障害や認知症によく似た症状を引き起こす病気でした。 一般的には、脳から髄液を抜き取る手術をすれば、脳の圧迫が取れて認知症状も改善することが多いとされています。父もすぐに髄液を抜く手術を受けました。 手術後のレントゲン写真を確かめると、溜まっていた髄液は綺麗になくなり、脳の圧迫もなくなっていました。 「これでまた、元の父に戻ってくれる」――誰もがそう期待しました。 しかし、現実はそう甘くはありませんでした。 脳の圧迫は取れたものの、父の認知症状が改善することはなく、むしろそこからゆっくりと、着実に進行していくというパターンを辿ったのです。 おそらく、レントゲン写真には写らないような深い部分で、髄液が溜まっていた時に脳にダメージが残ってしまっていたのだと思います。 こうして、我が家の「父の認知症介護」の日々が、静かに幕を開けました。 2. 「知っている」ことが、私と母を救ってくれた 徐々に進行していく父の認知症。 しかし、ここで私にとって大きな強みとなったのは、私自身が介護の仕事をしていて、認知症のたどるプロセスを実際に見て、経験しているいうことでした。 認知症の初期症状から中期症状、そして最終的に「重度認知症」になると人間の身体と心がどう変化していくのか。私は仕事を通して、何十人、数百人という大勢の高齢者の方々を見つめてきていました。 「認知症というのは、脳の病気であり、こういう経過を辿るものだ」 その「構造」と「未来の予測」が頭の中に完全に頭に入っていたため、私は父の認知症が進行していく経過を見ても、激しいショックを受けたり、取り乱したりすることはありませんでした。 「あ、今は中期段階に入ったな」 「次はこういう行動が出てくるかもしれないな」 と、客観的に(ニュートラルに)父の状況を捉えることができたのです。 そして何より大きかったのは、同居して一緒に介護をしていた母の存在です。 介護の知識がない母にとってみれば、愛する夫がどんどん変わっていく姿は恐怖でしかなかったはずです。 でも、私が横にいて、 「お母さん、今の父さんのあの行動はね、意地悪でやってるんじゃないんだよ。脳のここが原因なんだよ」 「次はこういうサービスを使って、お母さんも少し休もうね」 とその都度、認知症のメカニズムを解説し、一緒に考え、先手を打って介護体制を整えることができました。 結果として、我が家の介護は悲壮感に包まれることなく、家族がパニックを起こすこともなく、とても穏やかに、スムーズに進んでいきました。 一般的に、家族の介護で最も精神を削られるのは、「今までできていたこと(家族の機能や思い出)が、目の前でどんどん失われていくことに対する絶望、悲しみ、ショック」です。 そして、「これからどうなってしまうんだろう」という未知の恐怖です。 私は介護員だったからこそ、その「絶望」や「パニック」の段階を飛び越えて、最初から落ち着いて父に向き合うことができました。もし、そうでなければ、きっと心配で不安で辛いだろうと思うのです。 仕事とプライベートの両方で介護を経験してきたからこそ、突然の介護生活、未知の介護に直面して「もう無理だ」と心細い思いでいるご家族の気持ちが、理解できるのです。 3. 重度認知症のリアルと、チームで乗り越えた日々 父の認知症は最終的に「重度」へと進んでいきました。 一般的に「重度認知症」と聞くと、寝たきりで何も分からなくなっている姿をイメージされるかもしれません。しかし、実際の重度認知症というのは、体の機能や筋肉自体には全く問題がない場合が多いのです。 では何が起きるかというと、「自分の意思で身体をどう動かせばいいのか、脳からの指令が出せなくなる」のです。 「立ってね」と声をかけても立たない。「座って」と言っても座らない。 歩けるだけの筋力はあるのに、どうやって足を前に出せばいいのかが分からなくなってしまう。 そのため、食事、排泄、着替え、移動……ありとあらゆる生活の動作において、完全な介助が必要になります。 我が家では、私と母だけで抱え込むことはせず、介護サービスをフル活用しました。 デイサービス(通所介護)に通い、ショートステイ(短期入所)で施設に泊まってもらい、さらには「お泊まりデイサービス」なども利用しながら、プロの手を借りて父の生活を支え、母の介護負担を減らす工夫を重ねました。 ケアマネジャーとしての知識も活かしながら、使える制度はすべて使い、家族の笑顔を守る。 それが、我が家の介護スタイルでした。 4. 突然訪れた最期――介護に「絶対」はないからこそ そんな風にして、デイサービスやショートステイを利用しながら穏やかな介護生活を続けていたある日のことです。 父は持病に糖尿病を抱えていたため、定期的に主治医の元へ通い、血液検査や全身のチェックを受けていました。 その日の検査結果も、先生から太鼓判を押されるほど良好でした。 「お母さん、お父さんの検査結果、今日もバッチリだよ!認知症の経過も落ち着いているし、数値も完璧。本当に優等生だね!」 主治医の先生からそう言われたと、母から聞きました。「よかったね、お父さん」と安心し、て夜を迎えたのでした。 しかし、その「優等生だね」と笑顔で言われた、まさにその翌日のことです。 父は、突然の「心筋梗塞」で、あっけなく息を引き引き取りました。 本当に、昨日まで主治医と笑って話していた父が、次の日にはいなくなってしまったのです。 介護の世界に、「絶対」はありません。 「この介護はあと何年続くんだろう」と途方に暮れることもあれば、昨日まで元気に笑っていた人が、脳卒中や心筋梗塞など高齢者特有の急激なリスクによって、ある日突然、最期を迎えることもあります。 デイサービスや施設でも、「昨日元気だったのに?」というなくなり方をする方はいらっしゃいます。 でも、終わりが見えない、これも事実です。 介護というのは、どれだけ準備をしていても、どれだけ知識があっても、「いつ何が起こるか分からない」という予測不能な連続なのです。 ◆介護に悩むあなたへ。一人で抱え込まないで 父を見送った今、私が改めて強く思うことがあります。 私が父の介護を大きな負担と感じず、最後まで穏やかに向き合うことができたのは、私が特別な人間だったからでも、父が特別な人だったからでもありません。 ただ単に、「介護の知識があり、次に何が起こるかを知っていたから」です。 家を出て徘徊する時は玄関にセンサーを置いてみたり、突っ張り棒で出られないようにしたり、椅子からどうしてもずり落ちる時は家にあるものを色々試してしっかり座っていられるように工夫したり。それができたもの、やっぱり前もって知っていたからだと思っています。 知っていることで慌てず、冷静に対応できたというのは介護員だったから、と言うのは間違いありません。 もし私が介護の素人で、一人で父の異変に怯え、認知症の症状に振り回されていたとしたら……きっと私も、世の中の多くの介護者と同じように、怒りと悲しみに打ちひしがれ、母と一緒に共倒れしていたかもしれません。 介護で心が折れてしまう一番の原因は、体力の限界だけではありません。 「どうしてこんなことをするの?」「いつまで続くの?」という、出口の見えない孤立感とパニックです。 今、この記事を読んでくださっているあなたも、親御さんの介護や突然の環境の変化に戸惑い、夜も眠れないほどの不安を抱えていませんか? 「怒ってはいけないと分かっているのに、つい強く当たってしまう」 「自分の人生が、介護のために潰されていくのが怖い」 「もう、投げ出して逃げ出したい」 そうやって自分を責める必要は、1ミリもありません。 知識もないまま、相談できる人もいないまま、大切な家族の介護を背負わされているのですから、パニックになって当然なのです。 一人で暗闇の中で抱え込まないでくださいね。 私の電話相談では、18年の介護員・ケアマネジャーとしての経験と、実の父親を看取った当事者としての経験の両方から、あなたの胸の苦しみを受け止めます。 ・「なぜそんな行動をとるのか」という、長年の現場経験から見えてくるご本人の心の紐解き ・プロとして、そして家族として経験したからこそ分かる、共倒れしないための「心の抜きどころ」 ・世間の正論や「良い介護者でいなきゃ」という罪悪感に振り回されず、あなたの心と生活を一番に守るための「マインドの保ち方」 制度の詳しい解説は市役所や事業所にお任せします。ここでは、誰にも言えない愚痴や「もう嫌だ」という本音を受け止めて、あなたの擦り減った心をフワッと軽やかにすることを心がけています。 介護の愚痴でも、やり場のない怒りでも、誰にも言えない弱音でも構いません。 心が破裂しそうになる前に、まずは私にその重いお荷物を半分、預けてみませんか? あなたが笑顔を取り戻せる道筋を、一緒に探していきましょう。いつでもお電話をお待ちしています。

    ・14.「介護の専門知識」と「娘としての葛藤」の間で揺れ動いたリアルな体験と、そこから得た寄り添いの心 2014年11月 〜 2014年12月

    ※匿名・年齢非公開のため期間は変えて掲載しています(*´▽`*) ご理解いただけますと嬉しいです。 ✼••┈••✼ 私がこれまで歩んできたケアマネジャーと介護職員としての20年以上のキャリアの中で、最も深く、そして自分の人生観やカウンセリングへの姿勢を根本から変えた出来事があります。 それは、実の母の大腸がん再発、そして約2か月半にわたる「在宅療養と看取り」の体験でした。 介護のプロとして、これまで数え切れないほどの利用者様やそのご家族に関わらせていただき、「高齢者の心身の変化」や「医療・介護の仕組み」については知識としても現場経験としても深く理解していたつもりでした。 しかし、いざ「自分自身が患者の家族(娘)」という立場に立ったとき、私が直面したのは、教科書やマニュアルには一切書かれていない「激しい感情の揺れ」と「言葉にできない罪悪感・葛藤」でした。 その原因の一つに、母には認知症状がなかった、といことがありました。 介護の仕事では認知症状のある方の利用がほとんどなので、ご本人が「心を痛める」ということに対して、それほど問題になりません。伝え方を工夫することで、納得していただけることがほとんどでした。 でも、認知症状が全くない母には言い方の工夫も何も通じなかったのです。すべての流れを理解し、自分の体の変化を感じ、周りの私たちの様子を観察するのですから。 それが、母の苦痛の種でもあり、私たち家族の心の葛藤の根っこでもありました。 毎日の療養生活の中で 「プロとしてはこれが正解だと分かっている。でも、娘としては母の嫌がることをしたくない」 「本人の希望を尊重してあげたい。けれど、支える側の自分の心と身体が限界を迎えてしまう」 「医師や看護師の前では冷静を装っているけれど、一人になると涙が止まらない」 という想いを抱えながらサポートしてきました。 だから、もし今現在、ご家族の介護や看取り、病気のサポートに直面し、誰にも言えない孤独や罪悪感を抱えていらっしゃる方がいらしたら。 あるいは、人生の大きな壁にぶつかり、「正論だけでは救われない苦しみ」の中にいる方がいらしたら。 私が母を見送る中で経験した「失敗」も「悔い」も「絆」も、すべてありのままにお話しすることが、いま苦しんでいるあなたの心を少しでも軽やかにし、自分を責める気持ちをゆるめ、、自分は自分でいいんだ、と感じていただけるきっかけになればと思い、「母のこと」と「私のこと」を書いてみたいと思います。お付き合いいただけたら嬉しいです。 ■突然の再発告知と「在宅医療」という選択 母に大腸がんの再発が告げられたのは、手術から1年ほど経ったある日の定期健診でのことでした。それを聞いたとき、母は81歳だったので、私は「まさか」という気持ちと、高齢なんだからゆっくり進むでしょう、大丈夫だろう、とどこか冷静な気持ちが入り混じった状態で私は受け止めていたのです。 ところが実際には、高齢者とは思えないスピードで病状が進行していきました。 当初は総合病院に通院していましたが、夜中の救急受診や休日受診のたびに繰り返される造影剤を使ったCT検査やレントゲン検査、そして定期健診で主治医からあけすけに告げられる腫瘍マーカーの数値悪化の言葉に、私の心は確実にすり減っていました。 「毎回数値が悪くなっていくのを聞くのは、私だけでなくお母さんだって辛いはず……」 「痛みを我慢して救急車を呼んだり、造影剤を使った検査を繰り返したくない」 そう考えた私は、家族(兄・妹)に「往診専門のクリニックによる在宅医療」への切り替えを提案しました。 表向きの理由は「無理な通院を減らし、自宅で穏やかに過ごすため」。 そして裏の理由は「悪化していく検査数値の現実を母に直接突きつけるのではなく、家族と医療陣で見守りながら、母には一日一日を穏やかに過ごしてほしいから」でした。 こうして、我が家での「在宅療養生活」がスタートしました。母は何も言いませんでしたが、数値に傷ついていかもしれないと考えることもあって、何度も自分を責めていました。 24時間365日いつでも医師や看護師と連絡が取れる安心感を得た一方で、ここから私たちは「がんの痛みとの凄絶な闘い」と「日々の選択に対する迷い」の渦中へと巻き込まれていくことになります。 ■「痛みコントロール」の難しさと、家族としての私情 在宅医療が始まって痛感したのは、「がんの痛みをコントロールすることの難しさ」でした。 主治医は癌は痛みが出る人と出ない人がいると言っていましたが、母は痛みが出るタイプだったようで最後の最後まで痛みに苦労しました。 最初はカロナールという一般的な痛み止めからスタートしましたが、病状の進行とともに薬の量は増え、1日最大許容量を服用しても痛みが収まらない日が増えていきました。 効かなくなると、より強い薬を選択していくことになります。 薬が強くなればなるほど、痛みは和らぐ代わりに「強烈なだるさ」「食欲不振」「意識の混濁」といった副作用が襲いかかります。 医師や看護師は、何千人もの患者を診てきた「プロ」として客観的なアドバイスをくれます。 「痛みを取るか、だるさを取るかですね」 「痛みをゼロにするために、一段階強い麻薬(フェントステープや舌下錠)を使いましょう」 医療の正解としては、それが正しいのです。しかし、家族は100%「私情」です。 何千人の一人ではなく目の前のたった一人だけです。 新しい強い薬を使った途端、さっきまで笑顔で話していた母が急速にぐったりし、息も絶え絶えになって別人(あるいは認知症)のようになってしまう姿を目の当たりにしたとき、私は強いショックを受けました。 「痛みと引き換えにするものが、多すぎるんじゃないか……?」 「薬を強めたのは、私の判断ミスのせいじゃないか……?」 薬を飲むのも地獄、飲まないで痛みに耐えるのも地獄。 母の隣で24時間過ごしながら、私は毎回のように「どの薬を、どのタイミングで使えばいいのか」という選択に胸を締め付けられました。主治医は指示を抱いてはくれますが、それを選択するのは私の仕事でした。 本人と相談できるうちは良かったのですが、強くなるにつれて、私に葛藤が出てくるようになり、恐怖と不安で押し潰されそうになる日々でした。 ■ 「日によって激変する症状」と、振り回される家族の心 在宅療養が始まってから、私たち兄妹を一番悩ませたのは「昨日元気だった母が、今日は別人のようにぐったりする」という、まさにジェットコースターのような症状の激しい波でした。 ある日は、痛みが治まって表情も柔らかくなり、車椅子に乗って近所を散歩したり「外でオムツライスが食べたい!」と言って出かけたりするほどの回復を見せます。 そんな姿を見ると、私たちは「奇跡が起きているのかもしれない」「このまま良い方向に向かってくれるんじゃないか」と、胸躍るような希望を抱くのです。 しかし、その翌日には一転して熱が38.8度まで跳ね上がり、激しい痛みと吐き気でベッドから起き上がることもできなくなります。 「昨日はあんなに元気だったのに、なんで……」 天国と地獄を一日で行き来するような毎日に、私の心は休まる暇がありませんでした。少しでも母の表情が冴えないと不安で胸が押し潰されそうになり、夜中に母の静かな寝息を聞きながら、「どうか神様、お父さん、まだお母さんを呼ばないで」と必死に祈り続ける日々でした。(父は4年前に他界) また、薬の調整も一筋縄ではいきませんでした。 痛み止めのカロナールは1日8錠が限界量でしたが、病状が進むと錠剤を飲むことが厳しくなってきました。 医師の指示で粉薬に変えてみたものの、例えようのない凄まじい苦さに母が更に体調を崩したり、貧血用のシロップがあまりにも甘すぎて吐いてしまったりと、薬を一つ試すたびに新たなトラブルが発生しました。 「病気そのものよりも、薬の副作用や試行錯誤で母に辛い思いをさせてしまっているのではないか」 目の前で苦しむ母を見るたび、私の胸には刃物で刺されたような痛みが走りました。いくら知識で知っていても、自分の最愛の母がそのプロセスを辿り、苦しんでいる姿を見るのはあまりにも残酷な現実でした。 ■お彼岸の夜に起きた不思議な出来事と「覚悟」 なくなる前のお彼岸の時期には、今でも忘れられない不思議な出来事もありました。 突然、母が別人のように饒舌になり、普段の奥ゆかしい母とは全く違うトーンで肉を食べたがったり、ハイテンションで動き回ったりし始めたのです。喋り方や表情があまりにも生前の叔母にそっくりで、「お彼岸だから、叔母さんが精神が弱っている母の身体を借りて会いに来たのかな」と兄妹で話し合ったほどでした。 丸二日間、ハイテンションで活動した母でしたが、お彼岸が明けると嘘のようにテンションが下がり、そのままぐったりとベッドから離れられなくなってしまいました。エネルギーをすべて使い果たしてしまったかのような急激な落ち込みようでした。 この「お彼岸事件」をきっかけに、母の身体は急速に寝たきりへと向かっていきました。 1週間前までは自分の足で歩いてシャワーを浴びていた母が、あっという間に声も出せなくなり、手振りや表情でしか意思表示ができなくなっていく──。 目にも留まらぬスピードで変化していく母の姿に、私たち兄妹は頭も心も全く追いつきませんでした。 けれど、東京にいる兄、隣町に住む妹とLINEで毎日のように母の様子を共有し、「今日という一日を大切に生きよう」「痛くない時間が1分でも長ければ、それで万々歳だよね」と泣きながら励まし合いました。 「生死はいつも隣り合わせで、それが真実。死をしっかりと見つめて生きることが、人を優しく、正しくする。だからお母さんの死を恐れるのではなく、今生きていることに感謝しよう」 そうでも思わないと心が崩壊しそうだったという面もありますが、兄がLINEで送ってくれたこの言葉は、不安で押し潰されそうだった私の心を強く支えてくれました。 母が命をかけて見せてくれている姿は、私たち家族に「生きることのありがたさ」と「覚悟」を教えてくれる、人生最大のメッセージだったのだと今は感じています。【つづく】

    ・15.【後編】 プロとしての知識と、娘としての葛藤が激突した日 2015年6月 〜 2015年7月

    ※匿名・年齢非公開のため期間は変えて掲載しています(*´▽`*) ご理解いただけますと嬉しいです。 ✼••┈••✼ 母の看取りの中で、私が今でも忘れられない、そして最も涙した出来事があります。 病状が進み、母は一人でトイレに立つことも難しくなっていきました。トイレに行こうと起き上がるだけで息が上がり、強い吐き気と痛みに襲われる状態でした。 ベッドの隣にポータブルトイレを置いていましたが、トイレに座るために起き上がり、立とうとするだけで痛みと吐き気が出ていたのです。 往診の先生から、こう提案されました。 「おしっこで起き上がるのは本人の身体に大きな負担がかかります。起きるたびに嘔吐するくらいなら、尿管カテーテルを入れるか、オムツに切り替えた方がいいでしょう」 元ケアマネジャーの私には、その提案が「医学的に100%正しい」ことが痛いほど分かっていました。体力を温存し、痛みを減らすためにはカテーテルを入れるのが最善の選択です。 しかし、母にその話を打診したとき、母は静かに、けれどはっきりと首を横に振って拒否しました。 80歳を超えても自分のことは自分でやり、プライドを持って生きてきた母にとって、「自分でおしっこができなくなること」「管を通されること」は、自分の尊厳を奪われるような悲しいことだったのです。 認知症があれば、このような葛藤は起きないのですが、母は頭はしっかりしていて、自分の気持ち、考えをしっかり維持していたのです。 母のプライドや切ない気持ちが、痛いほど分かりました。できれば母の意思を尊重してあげたかった。 でも、24時間ノンストップで介護を行い、疲弊しきっていた私の体力も限界に達していました。夜中に何度も起こされ、苦しむ母を支える中で、「これ以上は私ひとりの対応では限界がある」という現実が突きつけられていたのです。 母にとっても最大級の難所でした。ベッドの隣のポータブルトイレで用を足したいというささやかな欲求にもかかわらず、起き上がるのも立ち上がるのも1,2歩足を動かすのも、全てが苦しそうで辛そうで痛そうで見ているのもいたたまれないくらいの身体状況でもあったのです。 私は最終的に、母の拒否を押し切る形で、先生に依頼して看護師に尿管カテーテルを入れてもらいました。 処置が終わった後、母は何も言わず、ただ静かにそれを受け入れてくれました。諦めたような、寂しそうなその表情を見た瞬間、私の心は決壊しました。 「お母さん、ごめんなさい……ごめんなさい……」 「自分の体力が限界だからって、お母さんのプライドを奪ってしまったんじゃないか」 「ケアマネの資格もあるのに、もっと良い方法を見つけてあげられなかったのか」 部屋の隅で、私は声を殺して泣きました。知識があることと、家族としての葛藤を乗り越えられることは全く別物でした。正論だけではどうしても割り切れない「罪悪感」と「切なさ」が、そこには確かに存在していたのです。6年経った今でも思い出せば涙が出てくる辛い現実でした。 ■最後の願い:「愛」で一致団結した家族の絆 大変な闘病生活ではありましたが、母の命と向き合う日々は、私たち家族に何物にも代えがたい「宝物」を残してくれました。 病状が急速に悪化し、ほぼ寝たきり状態になっていたある日の夜。すでに声も出せず、筆談もできなくなっていた母が、ノートにミミズがのたくるような読めない字を一生懸命に書き始めました。 「ご飯が食べたいの?」「お水が飲みたいの?」 私が思いつく問いかけを何十回も繰り返し、母が「違う」と首を振る中で、ようやく判明した母の本当の願い。 それは、「家族みんなで思い出のお寺に行きたい」というものでした。車で約1時間の場所で、家族で何回も出かけている馴染みのお寺でした。 1週間前まで車椅子でドライブできていた母が、今では酸素吸入を行い、口には水分さえもなめるのがやっと、点滴も打てないほど弱っている状態です。ジェットコースターのような症状の変化に母も家族も何が何だか分からず、目の前のことに対応することがやっとでした。 後から思うと、母の気持ちをもっと考える余裕があったらと、悔やまれることもありましたが、その時は精一杯で余裕がまったくなかったのです。 母の願いを知って、今から出かけるなんて無謀かもしれない、途中で何が起きるか分からないという不安が頭をよぎりました。 しかし、東京にいる兄、となりの町に住む妹、そして私。3人兄妹の意見は瞬時に一致しました。 「何が何でも、お母さんの最後の願いを叶えよう!」 介護タクシーを手配し、救急救命士のドライバーさんにお願いし、リクライニング車椅子を準備して、万全の体制で思い出のお寺への「大旅行」を実行しました。 正味1時間ほどの滞在でしたが、現地では孫たちも駆けつけ、母は言葉が出ない代わりに手を合わせ、目線と表情で全身の感謝を伝えてくれました。 何十年も生きていると、兄弟・家族の間でも意見の食い違いや気まずさがあるものです。けれど、母の命を前にしたとき、すべてのわだかまりがリセットされ、「お母さんのために」という強い想いもとで心が一つになりました。 母は亡くなる直前、私たちに「本当に大切なものは何か」「家族の絆とは何か」という最高の置き土産を残してくれたのです。 ■この体験から得た、私のカウンセリングへの「絶対的な軸」 母を見送り、長い時間が経った今でも、あの約2か月半の日々は私の心に深く刻まれています。 この体験を通じて、私は話し相手として非常に重要ないくつかの「軸」を得ることができました。 ①「正論」で人を追い詰めない 世の中には「こうするべきだ」「これが正しい選択だ」という正論があふれています。しかし、当事者やそのご家族が求めているのは、正しいノウハウやアドバイスだけではありません。 「正しいと分かっていても、気持ちが追いつかない」「冷たい人間だと思われるとしても、投げ出したくなる」という揺れ動く感情に寄り添うことこそが、寄り添いの本質であると痛感しています。 ② 言葉にならない「罪悪感・葛藤」を丸ごと受け止める 「自分の選択は間違っていたのではないか」「もっと自分に出来ることがあったのではないか」──何か大きな出来事に直面したとき、人は自分を責めてしまいがちです。 私自身が母の看取りで強い罪悪感を抱いたからこそ、あなたが抱える「綺麗事だけではないドロドロした感情」や「自分責め」を、否定することなく丸ごと受け止めます。 ③ 1日1日を大切に生きる「今ここ」の視点 ひすいこたろうさんの著書『あした死ぬかもよ』にあるように、私たちはいつ人生の最後を迎えるか分かりません。母との闘病を通じ、私は「今日という一日、目の前にある時間をいかに大切に、後悔なく生きるか」というマインドを身体で学びました。 ■いままさに悩んでいるあなたへ。一人で抱え込まず、私に胸の内を聴かせてください 最後までお読みいただき、本当にありがとうございます。 いま、この欄を読まれているあなたは、どのようなお悩みを抱えていらっしゃるでしょうか。 ご家族の介護や看取りに直面し、限界を感じている方 家族や親戚関係の揉めごと、や理解してもらえない孤独感にさいなまれている方 「自分がどうしたいのか分からない」と、感情の迷子になっている方 誰にも言えない弱音や、自分の中の冷たい感情に罪悪感を感じている方 介護の現場でも、個人の人生でも、「完璧な人」など一人もいません。プロである私ですら、自分の母の前では迷い、失敗し、涙を流す一人の人間でした。 だからこそ、私はあなたに対して上から目線でアドバイスをしたり、説教をしたりすることは絶対にありません。 まとまっていなくても構いません。うまく話そうとしなくても大丈夫です。 あなたがこれまで一人で抱え込んできた重い荷物を、少しだけ私に預けてみませんか? 電話相談というプライベートで安心できる空間で、あなたの「言葉にならない想い」を、心を込めてお聴きいたします。 あなたとお話しできる日を、心よりお待ちしております。

    ・16.職場での挫折と三重苦の真っただ中。そして私が「電話相談」に込める想い 2015年11月 〜 2015年12月

    ※匿名・年齢非公開のため期間は変えて掲載しています(*´▽`*) ご理解いただけますと嬉しいです。 ✼••┈••✼ 職場での挫折と三重苦の出来事。 言葉を失ったあの日のことは、何年たった今も思い出す旅に苦しくなる人生の1ページです。 私たちが生きる社会では、真面目に、誠実に生きようとすればするほど、時に理不尽な壁にぶつかり、自分の心が置き去りになってしまうことがあります。 「もっと上手に立ち回らなければならない」 「ここで弱音を吐いたら、自分の負けだ」 「みんな我慢しているんだから、私だって耐えなければいけない」 そうやって自分を追い込み、気づいた時には笑顔が消え、心だけでなく身体や「言葉」にまで不調が表れてしまう……。 そのような人は少なくないと思うのです。 ケアマネジャーの資格を取得し、事業所を変えて新しい職場で1から奮闘していた頃の私もまさにそうでした。 人間関係のプレッシャーから「吃音(きつおん)」を発症し、自分の意思とは裏腹に、特定の上司の前では声が出せなくなってしまったのです。 今回は、私が経験した「職場の人間関係の挫折」「吃音症の発症」、そして母の大腸がんや子どもの不登校が重なった「人生の三重苦」、そこから救い出された転機、そしてそのすべての経験が、いま私が「電話相談」という場所であなたに寄り添う原動力になっている理由について、お話しします。 ■初めてのケアマネ職と、静かに追い詰められていった日々 介護の仕事に身を置いて、努力の末にケアマネジャーの資格を取得した私は、大きな希望と少しの不安を胸に、新しいケアマネの職場へと飛び込みました。 しかし、現実はそう甘くありませんでした。 その職場にはすでに4人の先輩ケアマネジャーが在籍しており、組織の輪の中に、私自身がなかなかうまく馴染めずにいたのです。 右も左も分からない新米の私に対して、先輩や上司からの指導が入ります。しかし、その指導に則った成果がなかなか出せず、自分の力不足に焦る日々が続きました。 すると、プレッシャーは次第に「監視」のような形へと変わっていきました。 私の一挙手一投足がチェックされるようになり、ある日、上司からこう言われたのです。 「さっき、介護員と話していたよね? 介護員も忙しいんだから、勤務中に私語をしてはダメだよ」 その言葉を聞いたとき、私は大きな違和感と理不尽さを覚えました。 「そうは言っても、他のベテランのケアマネさんたちは日常的に介護員さんと楽しくおしゃべりをしているのに……なぜ私だけが?」 私の行動のすべてが否定され、重箱の隅をつつくようなチェックが日増しに増えていく中で、私の心は少しずつ、確実にすり減っていきました。 「次に怒られたらどうしよう」 「また何か粗探しをされるのではないか」 そう怯えるうちに、私の身体に異変が起き始めました。 言いたいことが頭にあるのに、喉のところで言葉が引っかかり、どうしても声に出せなくなってしまったのです。 またある時は、頭が真っ白になって、何を言うべきか考えられなくて上司の前で話し始めるまで黙って立っていることも。 特に、私を監視しプレッシャーをかけ続けるその上司の前に立つと、まるで呪縛にかけられたかのように、完全に最初の一声が出にくくなっていました。 最初の一音がどもって、上手く話せないことが多くなってきたときに、ようやく「自分は吃音症なのかもしれない」と気づいたのでした。 「うまく話せない」「挨拶すらまともにできない」 自分が自分でなくなっていくような恐れとショックの中で、私は心も身体も限界を迎えていました。 ■ 重なる試練:母の病気と、子どもの不登校という「三重苦」 職場で吃音に悩み、精神的に追い詰められていた私に、さらに辛い出来事が追い打ちをかけるように重なりました。 それは、母の大腸がんの再発、高校生だった子どもの不登校でした。 職場ではプレッシャーと吃音に耐えながら働き、家に帰れば不登校で心を閉ざす我が子を気にかけ、そして病と闘う母の姿がある。 まさに「仕事」「家庭・子育て」「親の介護」のすべてが同時に襲ってきて、人生最大の「三重苦」のなかに私は立っていました。 当時の私は、「ここで仕事を辞めたら無責任だ」「吃音ごときで弱音を吐いてはいけない」「私が踏ん張らなければ家族が崩壊してしまう」と、ガチガチに自分の心を縛りつけていました。 逃げ出すことは許されない、そう思い込み、心も身体もボロボロになりながら、毎朝満身創痍で会社へ通い続けていたのです。 出口のない暗闇の中で、「私はいつまでこの苦しみに耐え続ければいいのだろう」と、絶望感で眠れない夜が何度もありました。 ■ 母の一言に救われ、すべてを手放した瞬間 そんな限界の淵にいた私を救い出したのは、病と闘っていた母の言葉でした。 母は自身の病気が進行していく中で、私の様子を見てこう言ったのです。 「私自身ががんになって、心に余裕がない。家に孫(娘)がいても、今の私には面倒を見てあげられないし、何にもしてあげられない。そして気持ちもそれが負担になるの。だから、あなたが介護の仕事を一旦辞めて、自宅にいて、娘の不登校のケアも、私の病気のサポートもしてほしい」 その母の言葉を聞いた瞬間、私の心の中で、張り詰めていた糸がプツリと音を立てて切れたのを覚えています。 「……仕事を、辞めてもいいんだ」 「仕事を無理して続けなくても、いいんだ」「母がそれを望んでくれて、私を必要としてくれているんだ」 それは、私にとってまるで天からの救いの声のようでした。 「会社を辞められないない、辞めてはいけない」という呪縛に縛られていた私の肩から、何十キロもある重荷がスッと下りたような感覚でした。 私はその言葉に背中を押され、思い切って仕事を退職する決意をしました。 そして、仕事を辞め、自宅で娘の不登校に向き合い、母の在宅療養をサポートする生活へとシフトしたのです。 不思議なことに、仕事を辞めて職場という「理不尽なストレスの温床」から離れた途端、あんなに私を苦しめ、声が出なくなるほど追い詰めていた「吃音症の症状」が、いつのまにか自然にスーッと解消されていきました。 私の身体と心は、病気だったのではなく、環境のプレッシャーによって悲鳴を上げていただけだったのだと、その時初めて気づいたのです。 ■この経験があるからこそ、今の「電話相談」であなたに寄り添える 母のがんは進行が早く、1年と少しで最期を迎えました。 その間の在宅療養のサポートと、子どもの不登校のケア、そして自身の仕事の挫折と吃音の克服。 この一連の出来事を経験したからこそ、今の私には、電話相談、話し相手として大切にしている想いがあります。 それは、「理不尽な環境や人間関係で心を病んでいる人を、絶対に否定しない」ということです。 世間では「嫌なら辞めればいい」「もっと強くならなきゃダメだ」と言われがちです。しかし、当事者にとって「辞めること」「環境を変えること」は、恐怖を伴う大きな決断です。 特に真面目な人ほど、「自分が悪いのではないか」「まだ頑張れるはずだ」と、ギリギリまで自分を削ってしまいます。 ・職場の人間関係や上司のプレッシャーで、言いたいことが言えなくなっている方 ・仕事も家庭も板挟みになり、心も身体も限界を迎えている方 ・「逃げたい」と思っているのに、責任感から身動きが取れなくなっている方 かつて職場で言葉を失い、三重苦の中で絶望していた私だからこそ、あなたのその「言葉にならない苦しさ」「胸のつかえ」が、痛いほどよく分かります。 一人で抱え込まず、その胸の内を聴かせてください。 ■長文を最後までお読みいただき、本当にありがとうございます。 いま、このプロフィールを読まれているあなたは、どのような「終わらないトンネル」の中にいらっしゃるでしょうか。 「もう誰にも本音が言えない」 「自分の気持ちを言葉にするのが怖い、あるいは上手く話せない」 そんな状態であっても、全く心配いりません。 ココナラの電話相談というプライベートで安心できる空間は、あなたがどんな言葉をつかっても、どんなにまとまらない愚痴や弱音をこぼしても、すべてを100%の肯定と温かさで受け止める場所です。 かつて母の言葉に救われた私が、今度はあなたの「心のリセットボタン」になり、あなたがあなたを取り戻すための時間を一緒に作ります。 上手く話せなくても大丈夫です。その緊張した声のままで、泣きながらでも構いません。 どうか一人で抱え込まず、あなたのその重荷を、少しだけ私に預けてみませんか? あなたとお話しできる日を、心よりお待ちしております。

    ・17.『完璧じゃなくていい』― 葛藤の果てに見つけた「心の余白」と、あなたに届けたい安心感 2016年6月 〜 2016年7月

    ※匿名・年齢非公開のため期間は変えて掲載しています(*´▽`*) ご理解いただけますと嬉しいです。 ✼••┈••✼ 『完璧じゃなくていい』― 葛藤の果てに見つけた「心の余白」と、あなたに届けたい安心感 ■繰り返される試練の渦中で 人生には、時に「なぜ自分ばかりにこんなことが起きるのだろう」と思わずにはいられない瞬間があります。私の人生もまた、幾度となく押し寄せる大きな試練の波との戦いでした。 ・夫の不倫と、突然訪れた離婚 言葉にできないほどの裏切りとショック。これまで信じてきた家庭という基盤が足元から崩れ去るような感覚でした。激しい怒り、悲しみ、孤独感、そして「自分の何が悪かったのだろう」という自分責め。出口の見えない暗闇の中で、息をするのも苦しい日々を過ごしました。 ・子供の不登校 離婚の痛みが癒え切らない中で向き合うことになった、子供の不登校。「学校に行けない」「いかない」という現実に直面した時、親としての不甲斐なさや未来への強い不安が押し寄せました。周りの目、世間の「普通」という基準に追われ、どうすれば子供を正しさへと導けるのかと、一人で頭を抱え続ける日々でした。 ・仕事ストレスからの吃音症(きつおんしょう) 思い通りに言葉が出てこないもどかしさ、伝えたいのに口がすくんでしまう恐怖。自分の意思とは関係なく生じる身体の反応に、職場にいるのが辛い毎日でした。上司に対してのストレスで、その上司がいる事務所でだけの吃音症状だったんです。「うまく話さなければならない」と思えば思うほど、言葉は喉に詰まり、自分を責める材料になっていきました。 ・両親の介護と病 さらに、父親の認知症と、母親の大腸がん。かつて頼りがいがあった親が少しずつ変わっていく姿を受け入れる切なさ、そして病と闘う母を支える介護の日々は、精神的にも肉体的にも私を追い詰めていきました。 どれも渦中にいた時には、本当に苦しく、心が押し潰されそうな日々でした。 「なぜ私だけが」「いつになればこの苦しみから抜け出せるのか」と、心が悲鳴を上げていたのです。 ■答えを求めて奔走した「心の探求」 このあまりにも重い現実と、胸を締め付ける辛い気持ちをどうにかしたくて、私は必死で「救い」を求め始めました。 書店に足を運び、心理学や心のメカニズムを解説した本、自分自身と向き合うための内観の本、古来からの知恵が詰まった仏教や神道の書籍、そしてスピリチュアルな思想の書物まで、ありとあらゆる本をむさぼるように読み漁りました。 「この本の中に、私を救ってくれる答えがあるはずだ」 そう信じて、何冊もの本を読み進め、自分の心との対話を何度も何度も重ねていきました。 ■「ポジティブ思考」という新たな罠 本を読む中で最初にはまったのが、「ネガティブはダメだ、ポジティブにならなければ幸福になれない」という強い思い込みでした。 「嫌なことがあっても感謝しよう」 「常に明るく、前向きな思考を持とう」 「怒りや悲しみの感情は引き寄せるから捨てよう」 そう自分に言い聞かせ、必死にポジティブになろうと頑張りました。しかし、どれだけ前向きな言葉を口にしても、心の中にあるドロドロとした怒りや悲しみ、不安が消えるわけではありません。 むしろ、「またネガティブなことを考えてしまった」「前向きになれない自分は駄目だ」と、「ポジティブになれない自分」をさらに責めるという二重の苦しみを生み出していたのです。 救いを求めて始めたはずの学びが、いつしか自分を締め付ける新しい「鎖」になっていました。 ●目を吊り上げていた「正しい食」の記憶 この「正しさに囚われて自分を追い詰める」という構図は、実は過去の子育てでも全く同じように繰り返されていました。 子供が小児喘息(ぜんそく)を患った時のことです。親として「この子を何としても健康にしてあげたい」「辛い思いをさせたくない」という一心から、私は体に良いとされるもの、食の安全に異常なほど執着するようになりました。 ●「有機・無農薬・無添加」への執着 スーパーに行けば裏面の原材料表示を真剣な目でチェックし、添加物が入っているものは徹底的に排除。無農薬野菜や有機栽培の食材を取り寄せ、食事はすべて手作りで完璧に整えようとしました。 しかし、その時の私の表情は、決して穏やかなものではありませんでした。 「これは体に悪い」「添加物は敵だ!」と、まるで敵と戦うかのように目を吊り上げ、カリカリと余裕をなくしていたのです。 食事の時間は楽しむものではなく、まるで「正解をチェックする作業」のようになっていました。 ●大切なものを見失っていたことに気づく 確かにお米や野菜、無添加の食事は素晴らしく、子供を思う親心としても間違っていませんでした。しかし、一番大切だったはずの「家族で囲むあたたかい食卓」や「お母さんの笑顔」は、そこにはありませんでした。 正しい食事を出しているけれど、お母さんはピリピリしていて余裕がない。 これはまさに、後の私が陥った「ポジティブにならなきゃいけない」と自分を追い詰めていた姿と、全く同じだったのです。 ●正しさという「鎧」を着込んでいた日々 振り返ってみれば、私が「食」や「思考」の正しさに必死にしがみついていたのは、これ以上傷つかないための防御反応だったのかもしれません。 夫の不倫による離婚、子供の不登校、職場ストレスからの吃音症、そして親の病気。次から次へと予期せぬ困難が襲いかかってきた時、私の心は常に恐怖と不安でいっぱいでした。 「なぜ私ばかりこんな目に遭うのか」「私が間違っているからこんな悪いことが起きるのではないか」――そんな恐怖から逃れるために、私は「絶対的な正解」を求めていたのです。 「体に良い無農薬野菜を選んでいれば、完璧な母親でいられる」 「いつでもポジティブな思考でいれば、二度と嫌な出来事は起きない」 そう信じ込むことで、崩れそうな自分の心を必死で支えようとしていました。正しさという硬い鎧(よろい)を着込むことで、無意識のうちに自分自身をガードしていたのです。 しかし、その鎧はあまりにも重く、私をどんどん息苦しくさせていきました。 スーパーで添加物が入った食品を見つけるたびに「これは体に害を与える悪だ」と決めつけ、ネガティブな感情が湧くたびに「こんな考えを持つ自分はダメだ」と自分を切り捨てる。 正しさを求めれば求めるほど、私の世界は「正解」と「不正解」の二色だけに塗りつぶされ、私の心から寛容さや温かみが失われていきました。 一番守りたかったはずの子供の前で、私は「正しさ」を振りかざしてピリピリとした空気を出していたのです。子供が欲しかったのは、無添加の完璧な料理ではなく、失敗しても笑って包み込んでくれるお母さんの大らかな笑顔だったのに、当時の私はそれに気づく余裕すらありませんでした。 「正しくあること」と「幸せであること」は、決して同じではありません。 どんなに正しい知識を持っていても、それによって自分や大切な人を追い詰めてしまっては本末転倒です。私が本当に欲しかったのは、完璧な正解ではなく、ただ「どんな自分でも大丈夫」と思える安心感でした。 この「鎧を脱ぐ」という体験があったからこそ、私は自分の失敗も、弱さも、ネガティブな感情も、すべて「これが今の私なんだ」と受け入れる第一歩を踏み出せるようになったのです。 ■たどり着いた「どっちもいい」という境地 数々の苦難、本での学び、そして食事や思考での失敗を経験する中で、私はある日、大きな気づきを得ました。 「有機野菜も無添加も素晴らしい。ポジティブな思考も素晴らしい。けれど、そうじゃない自分や環境を責める必要なんて、どこにもなかったんだ」 白か黒かではなく、グラデーションでいい 私たちはつい、「正しいか・間違いか」「ポジティブか・ネガティブか」「無添加か・添加物か」という極端な二者選択で物事を捉えてしまいがちです。しかし、人間は完璧ではありません。 落ち込む日があってもいい。 怒りたくなる日があってもいい。 たまにはジャンクフードを食べて「美味しいね」と笑う日があってもいい。 頑張れない自分も、余裕のない自分も、全部「今の私」なんだ。 「どっちでもいいんだ」「どっちの自分もいていいんだ」と思えた瞬間、ずっと肩に力が入っていた自分の体から、ふっと余計な緊張が抜けていくのを感じました。 一番大事なのは「ラクで、楽しくて、安心できること」 本当に大切なのは、完璧な正しさを証明することではなく、「自分がラクで、楽しくて、美味しくて、ゆったりして、安心できていること」でした。 正しさを追求してイライラ生きるよりも、ちょっと適当でも笑顔でゆったり生きるほうが、自分にとっても周りにとっても、ずっと幸せなことだったのです。 この「どっちもいいんだ」という受容の感覚を得てから、私の人生は格段に生きやすくなりました。目の前の問題が魔法のように全て消えてなくなったわけではありません。けれど、心に「余白」ができたことで、どんな出来事が起きてもしなやかに受け止められるようになったのです。 ■電話を通して、あなたに届けたいこと 私がこれまで経験してきた数々の苦難――離婚、不登校、吃音、親の介護や病。そして「正しさ」に囚われて自分を苦しめてしまった遠回り。 そのすべての経験は、今、同じように苦しんでいる誰かの心に寄り添うための大切な財産となりました。 ●100%完璧を目指さなくていい 今、お悩みを抱えてこの記事を読んでいるあなたも、もしかしたら「もっと頑張らなきゃ」「正しくいなきゃ」「ネガティブになっちゃダメだ」と、自分自身を追い詰めてはいませんか? 家族のために必死で頑張っているのに、報われないと感じる時 人の目や世間の基準に縛られて、動けなくなっている時 自分の弱さやネガティブな感情を捨てきれずに、自分を責めてしまう時 どうか、自分に「もう十分頑張っているよ」と言ってあげてください。完璧を目指す必要はありません。投げ出したい自分も、泣きたい自分も、そのまま包み込んであげてほしいのです。 ■お電話(ご相談)でお伝えしたい「心の余白」 私が電話相談という場でお届けしたいのは、単なるノウハウや「こうすべき」というアドバイスではありません。 お電話を通じて、あなたがずっと張り詰めてきた心の糸をふっと緩め、「すこしでもラクに、軽く、心の中にじんわりと余白を感じてもらえること」。それを一番大切にしています。 誰にも言えなかった本音、整理のつかない感情、ネガティブな思い、どんな内容でも大丈夫です。 あなたのそのままの言葉を、そのまま受け止めます。 「どっちでも大丈夫。」 「今のあなたのままで、ちゃんと価値があるんですよ。」 私の声と言葉を通して、あなたの心に温かい安心感と、明日を少しラクに生きるための「心の余白」が生まれることを、心から願っています。

    ・18.特定の人の前で言葉が詰まる――身体が教えてくれた限界のサインと、自分を守る選択の話 2016年11月 〜 2016年12月

    ※匿名・年齢非公開のため期間は変えて掲載しています(*´▽`*) ご理解いただけますと嬉しいです。 ✼••┈••✼ ■特定の人の前で言葉が詰まるー理由のわからない「言葉のフリーズ」 「なぜか、あの人の前に行くと、頭が真っ白になって、言葉がうまく出てこない――」 私の人生の中で体験した「吃音(きつおん)」のような症状。それは、職場の特定の人の前、特定の人間関係や強い緊張を強いられる場面でだけ、ピンポイントで現れる非常に不思議で、かつとても苦しい症状でした。 普段通りに楽しく話せる相手もいれば、同僚と冗談を言い合って笑える時間もある。私が苦労していたその上司に対して、同じように悩んでいた同僚とは、辛さや苦しさなどの心の内を、それこそスムーズに、打ち明けあえていました。 業務上の一般的な報告や連絡だって、相手を選べば滞りなくこなすことができる。それなのに、その「決まった人物」が目の前に立ったり、その人の目の届く場所から不意に声をかけられたりすると、私の中で何かが一瞬で硬直してしまうのです。 まるで全身の血の気が引き、心がキュッと凍りついて頭の中が真っ白になるような感覚。胸が圧迫されて呼吸が浅くなり、「何か正しく返さなきゃ」「変に思われないように、失礼のないように喋らなければ」と一瞬で頭の中のチャンネルが変わってしまうのでした。焦れば焦るほど、言葉の最初の一音が喉の奥にへばりついて離れなくなります。 「あの、あの、あの……」と口唇は動いているのに、肝心の声が出てこない。 沈黙の数秒間が、まるで永遠のように長く感じられる。相手の視線が自分の口元に注がれているのを感じるたび、冷や汗が背中を吹き出し、心臓が破裂しそうなほど早打ちする。 「早く喋らなきゃ」と自分自身を内側から必死に叩き起こそうとすればするほど、喉の締めつけは強くなり、ついに言葉は完全に詰まってしまうのでした。 一度この状態に陥ると、その日一日中、自分が惨めでたまりませんでした。たった数行のやり取りすら満足にできない自分。相手から「どうしたの?」「しっかりしてよ」と言いたげな視線を向けられるたびに、自分の存在価値がグラグラと揺らいでいくのを感じていました。 ■自分を責め続けた暗闇の日々 当時の私は、この現象の原因をすべて「自分自身の精神的な弱さ」のせいにして、激しく自分を責め立てていました。 「どうして私は、大人なのに普通に受け答えすらできないんだろう」 「周りの同僚たちは、あの人とも平然と会話してうまくやっているのに、なぜ私だけがこんなに不器用で情けないんだろう」 「 毎日のように自分に対して反省会を開き、自分がどれほどダメな人間かを数え上げました。 言葉がスムーズに出ないもどかしさと恥ずかしさ、そして「うまく喋れない自分」への強い情けなさ。 当時は、布団に入っても「明日はちゃんと話せるだろうか」「またうまく話せなかったらどうしよう」という不安が頭をぐるぐると駆け巡り、夜中に何度も目が覚めるようになっていました。 朝、起きた瞬間から胸の奥が重く沈み込み、仕事に向かう途中は1ミリも楽しみを持てない毎日でした。 「私がもっと強くなれば解決する」 そう信じ込んでいた私は、自分の喉が鳴らす悲鳴を「メンタルの弱さ」という一言で片付け、さらに自分を奮い立たせようと必死になっていました。自分が壊れかけていることにも気づかず、重い足取りで職場へ通い続けていたのです。 ■突然訪れた「強制終了」と物理的な離脱 けれど、その苦しい悩みは、全く思いもよらないかたちで終わりを迎えることになりました。 私自身の努力によって解決したわけでも、メンタルが強くなったわけでもありませんでした。家庭の中で、同時に大きな問題が持ち上がったところからの訪れでした。 母親の病気(大腸がん)の再発、そして子供の不登校。母に、自分の病気で手いっぱいだから、孫(子供)の面倒は今までのようにはみることができない、と言われて、私は目の前の家庭の問題と向き合うことになりました。母は、家にいて、不登校の子供に寄り添い、自分の病気のサポートもして欲しいから仕事辞めてもいいんじゃない?と提案してくれたのです。 私の辛さや苦しさ、吃音症のことを話してはいませんでしたが、きっと見ていて何となく感じるものがあったんだと思います。そして、実際問題、母にも子供にも問題が発生して、どうにもならない、どうにかしないといけない状況だったのは確かでした。 結果として、母親からの一言で、その職場を退職することにしたのです。 子供のため、母親のため、それを自分への、社会への免罪符として逃げるように辞めましたが、その時の私の気持ちは「神様からのプレゼント」だと思うほど救われた気持ちになりました。 それだけ、自分では気づかないほど追いつめられていて限界だったのだと気づきました。 家庭の事情とはいえ、職場を去り、あの「特定の人」が存在する空間から完全に物理的な距離が置かれた時、吃音症状は消えていました。 病院に通って言語療法を受けたわけではありません。 メンタルトレーニングや話し方の講座に通ったわけでもありません。 ただ「その環境」から離れ、「その人」と顔を合わせる必要がなくなっただけで、私の吃音症は改善できていました。 ■身体が命がけで出していた「SOS」の正体 この体験を通して、私はそれまでの自分の価値観が変わるような、大きな気づきを得ました。 あの決まった人の前でだけ起きていた「言葉の詰まり」は、私のメンタルが弱かったからでも、人間の器が小さかったからでもありませんでした。 あれは、私自身の心と体が、 「この環境はあなたに合っていないよ」 「この人間関係はあなたのエネルギーを削り削ぐもので、これ以上いたら危険だよ」 と出していた、精一杯のSOS(限界のシグナル)だったと思ったのです。 言葉が出なくなるという身体症状は、私を苦しめるための呪いというよりは、むしろ「これ以上、自分を殺してまでその場所に留まらないで!」と教えてくれる、身体の必死の防衛本能だったのかもしれません。 心が「限界だ」と叫んでも、真面目な頭(思考)が「頑張らなきゃ」「私が悪いんだ」と無視してしまうため、身体が物理的に言葉を止めることで、これ以上のダメージを防ごうとしてくれていたのです。 私たちは日常生活の中で、つい「どんな環境でも耐え抜くのが立派な大人だ」「どんな人とも上手くやっていくのが社会人のマナーだ」と自分に厳しく考えてしまいがちではないでしょうか。 特に真面目で責任感が強く、優しい人ほど、違和感や苦しみを感じていても「自分が至らないからだ」「もっと私が大人になればいいんだ」と自分を責め、身体からの危険信号を「弱音」として切り捨ててしまいます。 けれど、本当はそう決めつけることはできないと思うんです。 特定の場所に行くだけで動悸がする、決まった人の前だと声が出なくなる、胃が痛む、眠れなくなる――そういった身体の反応は、あなたがダメだから起きるのではありません。単に「その環境や人間関係が、今のあなたにとって著しくエネルギーを奪う、相性の悪いもの」という事実にすぎないのです。 私の自分の選択が本当に正しかったかどうかはもちろん、分かりません。でも、私の心が楽になって、体が悲鳴をあげるのを止め、リラックスできたのは「私にとっての正解」だったんだと思うようになりました。 ■「逃げる」のではなく「自分を守る」という選択 「逃げることはよくない」 「途中で投げ出すのは忍耐力がない証拠だ」 世間ではそんな言葉を聞くこともありますが、自分を壊してまで耐え続ける必要なんてないんだ、と今は思っています。 母の病気や子供の不登校という出来事は、渦中にいた時は「なぜこんな試練ばかりが重なるのか」と天を仰ぎたくなるほど重いものでした。けれど今振り返ると、あれらの出来事は、自分では「辞めます」と言えなかった私を、苦しみの環境から無理やりにでも引っ張り出し、自分を守るための選択(退職)をさせてくれた、必然の救いだったのだと感じています。 自分が自然体で、ラクにいられる環境を選ぶこと。 自分を削り、追い詰めてくる人間関係からは、静かに距離を置いたり適切な境界線を引いたりすること。 それは決して甘えでも、逃げでも、社会人としての敗北でもありません。 「自分という、たった一つの大切な命と心を全力で守るための、極めて健全で勇気ある決断」なのです。 植物だって、日当たりの悪い場所や水が合わない土壌に植えられれば、芽を伸ばせずに枯れそうになってしまいます。それと同じように、人間にも「咲ける場所」と「どうしても枯れてしまう場所」があります。 枯れそうな場所で「なぜ上手く咲けないんだろう」と自分を責める必要は全くなかったのです。ただ、自分に合う土壌へと植え替えをしてあげればよかっただけなのですから。 ■今、苦しんでいるあなたへ――「心の余白」を取り戻すために もし今、あなたが特定の場所や、特定の誰かの前で息が詰まるような苦しさを抱えていたり、「うまく振る舞えない自分」「弱くて耐えられない自分」を激しく責めてしまっているのなら、どうか立ち止まってみてください。 あなたが苦しくなっているのは、あなたが弱いからでも、努力が足りないからでもありません。 あなたの心と体が必死に、「もう十分頑張ったよ」「そこはあなたが無理をしてまで居続ける場所じゃないよ」と命がけで教えてくれているのかもしれないのです。 どうか、自分を責めるのを今すぐやめてあげてください。私の場合は吃音症状でしたが、人により症状は様々だと思います。 どんな自分も、そのまま抱きしめてあげてください。 そして、自分自身にこう許可を出してあげてほしいのです。 「合わない場所から離れてもいいんだ」 「誰よりも、まず自分の心と体を優先して守っていいんだ」と。 世間の正しさや誰かの期待に応えるために、あなたの大切な心を犠牲にする必要はありません。嫌な場所から一歩引くこと、境界線を引くこと、時にはその環境を手放すことは、あなたの人生をより豊かで穏やかなものにするための「大切な権利」です。 環境を変え、自分を縛っていた「こうあるべき」を手放したとき、あなたの胸には久しぶりに深々と息が吸えるような、あたたかく優しい「心の余白」が広がっていくはずです。 でも、それは一つの側面であることも十分わかっています。 今回の私の話は、辞めた場合でしたが、続けることももちろん素晴らしい事ですし、辞められない、やりたいことだから続けたい、という方もいると思います。 そんなときは体を整え、心を整え、「暖簾に腕押し(のれんにうでおし)」ではありませんが、なんとかやりすごす「したたかさ」や「消しゴム」のようなリセット力を貯めていけたらいいですよね。 「どっちでも大丈夫」 「正解は一人一人違っていい」 「選んだ道をゆっくり自分に優しく進んでいく」 そんなお手伝いができればと思っています。 いかに心の負担を取り除きながら、工夫して乗り切るか、そんな道も選択肢の一つとして大切にしていきたいですよね。 正解は一人一人違うもの。あなたが自分を一番に大切にし、心がすーっとラクになる道を選べるよう、私はいつでも応援しています。一番の味方、一番の応援団長としてそばにいます。

    ・19.おわりに 2017年6月 〜 2017年7月

    ※匿名・年齢非公開のため期間は変えて掲載しています(*´▽`*) ご理解いただけますと嬉しいです。 ✼••┈••✼ ここまで読んだいただき本当にありがとうございます。 かなりのボリュームになりました。 心から感謝申し上げます。 私自身、産まれた日からを振り返る機会になり 自分でも忘れていたことをたくさん思い出しました。 電話相談をする私の思いの土台は 大人になって苦労を乗り越えてからの自分が元になっていると 思っていました。 でも、違うんですね。 子供の頃からの体験のいろんな場面、出来事にも 自分の根っこになるところがたくさんありました。 今回、こちらに綴らせていただくことで 見えてきたことがたくさんありました。 さいごに、ココナラの電話相談への私の思いを書かせていただいて 締めくくりたいと思います。 +:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-+ ■「話す」ことは「放す」こと —— 吐き出すことがもたらす奇跡的な効果 心が押し潰されそうになっているとき、 私達は無意識のうちに息をキュッと止めてしまっています。 自分の感情に蓋をして、 「自分が我慢すればいいんだ」 「弱音なんて吐いちゃだめだ」と、 溢れ出しそうな想いを必死で心の中に押し込めようとします。 でも、パンパンに膨らんだ風船にむりやり空気を入れると割れるのと同じで、心もまた、溜め込みすぎるといつか限界を迎えてパンッと割れてしまいますよね。 心理学の世界では、感情を言葉にして外に出すことを「カタルシス(浄化)」と呼ぶのですけれど、日本語の「話す」という言葉には、本当に美しい響きと意味が隠されています。 「話す」は、自分を縛り付けている重荷を「放す(手放す)」こと。 「話す」は、固まっていた感情を自分の心から「離す(切り離す)」こと。 「話す」は、本来の自分という存在を美しく「華す(開花させる)」こと。 誰かに自分の想いを打ち明ける作業は、単なるおしゃべりではありません。 それは、心の中に溜まった毒素を外に排出して、本来のあなたを取り戻すための、とても健康で愛に満ちたプロセスなんです。 ■誰かに話を聞いてもらうことには、こんなにも素晴らしい効果があるんですよ。 1. 心の中の「未処理の感情」に居場所を与えてあげられる 言葉にできないモヤモヤや怒り、悲しみは、心の中で迷子になった小さな子どものようなものです。 それらを言葉にして外に出してあげることで、初めて 「ああ、私、こんなにも傷ついていたんだな」 「本当はすごく悔しかったんだね」と、 自分自身の本当の感情を認めて撫でてあげることができます。 2. 絡まった毛糸が解けるように、思考が自然と整理される 人の思考って、頭の中だけでぐるぐると巡らせていると、どうしてもネガティブなループに陥りがちです。 でも、誰かに話すために「言葉を選ぶ」という作業を通すと、不思議と頭の中の整理が進んでいきます。 「私って何に対して不安だったんだろう」 「何が一番嫌だったのかな」 が目に見える形になり、客観的に自分を見つめ直すきっかけが生まれます。 3. 「孤独」という一番重たい荷物を下ろせる 「世界中で、自分だけがこんな苦しみを抱えているんじゃないか」という孤独感は、人の心を深くむしばんでしまいます。 けれど、誰かが「うん、うん」と温かく真剣に頷きながら話を聞いてくれたとき、 「私は一人じゃないんだ」 「この苦しみを分かち合ってくれる人がいる」 という圧倒的な安心感が生まれます。 孤独の影が消えるだけでも、心は驚くほど軽くなるんですよ。 ■まとまらない言葉、支離滅裂な感情をそのまま差し出していい理由 電話相談に来てくださるとき、みなさん、こんなふうにおっしゃいます。 「話がまとまっていなくて、本当にすみません……」 「何から話せばいいのか自分でも分からなくて……」 「うまく説明できない自分がもどかしいです」 このように申し訳なさそうに言われるたびに、私は「どうかそんなに自分を責めないでくださいね」と心からお伝えしたくなるんです。 なぜなら、「話がまとまらない」ことこそが、あなたの心が限界を迎えて、切実に助けを求めている何よりの証拠だからです。 心が本当に限界を迎えているとき、私たちの頭の中は、複雑に絡まり合った毛糸玉のようになっています。 悲しみ、悔しさ、焦り、怒り、諦め、そしてほんの少しの希望……あらゆる感情が整理されないまま、渦を巻いているのが当たり前なんです。 それを「分かりやすく綺麗にまとめよう」とする作業は、怪我をして血を流している人に「まず傷口の理由を論理的にまとめて提出してください」と言っているようなもの。 そんな無理をする必要は、どこにもありません。 文章として支離滅裂であっても、全く構いません。 主語と述語がバラバラになってしまっても、構いません。 「とにかく辛い」「なんでこうなるの」「もう嫌だ」という、たった一言の叫びであってもいいんです。 整った綺麗な言葉よりも、そのグチャグチャとした「生の感情の塊」をそのまま外に出すプロセスこそが、あなたの心に一番深い癒やしをもたらしてくれます。 頭でひねり出した綺麗な説明はただの「思考」に過ぎないけれど、口から思わず漏れ出た脈絡のない言葉の中にこそ、あなたの「魂のリアルな声」が宿っているからです。 電話相談では、賢くあろうとする必要も、筋道を立てて話す必要も1ミリもありません。 「何が嫌なのか自分でもサッパリ分からないけれど、とにかく涙が止まらない」 「あっちの話をしたかと思えば、急に昔の嫌な思い出に飛んでしまう」 「怒っていたはずなのに、急に自分が情けなくなって惨めになる」 そんな風に、目まぐるしく変化するあなたの感情のグラデーションを、私はそのまま丸ごと受け止めます。 散らかったお部屋を片付けるときだって、まずは部屋の中にあるものを一旦すべて床に引っ張り出しますよね。会話も全く同じです。 まずは頭や心の中にあるモヤモヤを、支離滅裂なままでいいから外に「出し切る」こと。 床に散らかった言葉をひとつひとつ一緒に並べてみて、初めて 「ああ、私ってこんなことに傷ついていたんだな」 「ここが一番悲しかったんだね」と、 ご自身の本音と優しく対面できるようになります。 あなたの言葉がどれほどとっ散らかっていても、私はそれを見苦しいなんて絶対に思いません。 むしろ、あなたが勇気を出して心を開き、泥のついた生の感情をそのまま差し出してくれたことに、深い感謝とを抱きます。 まとまらない言葉のままで、どうぞいらしてくださいね。 その散らかった糸を、一緒にゆっくりと、優しく解いていきましょう。 +:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-+ さいごに これまで私の長い長い人生歴をお読みいただき、本当にありがとうございました。 私自身、これまで決して平坦とは言えない、数々の「山」と「谷」を歩んできました。泣いた夜も、途方に暮れた季節も、たくさんありました。 だからこそ、いま心から言えることがあります。 人生に山があり、谷があるのは、特別なことではなく「当たり前」のこと。 冷たい雨に打たれる谷底にいるときは、「どうして私だけ」と惨めに思えるかもしれないけれど、その谷底で踏みしめた土の温かさや、そこからしか見えない星空の美しさが、あなたの心をどこまでも深く、優しく育んでくれています。 そして、「ちゃんとした大人」として周りに気を遣い、一人で仮面をかぶって頑張ってきたあなた。 そんなあなたが、溢れ出しそうな想いを抱えて静かな孤独の中にいることを、私は知っています。 もう、一人で頑張らなくて大丈夫ですよ。 言葉がうまくまとまらなくても、支離滅裂でもいいんです。「話す」ことは、心の重荷を「放す」こと。散らかった感情のままで、どうぞ私のもとへいらしてください。 私は裁判官のようにあなたを裁いたりしません。あなたの歩んできた素晴らしい人生の歴史に深い敬意を払い、どんな暗闇の中でも、あなたのとなりに一緒に座り続けます。 私のこれまでの人生も、決して綺麗事ばかりではありませんでした。遠回りをして、たくさん傷ついてきた私だからこそ、いま、あなたの痛みにそっと寄り添うことができます。 ここが、あなたがふっと息を吐き、素顔に戻れる場所。 いつでも、どんなあなたであっても、温かい両手を広げて待っていますね。 あなたの心が、今日より少しでも穏やかで、温かい光に包まれますように。 ココナラで、ずっとあなたを待っています♡みのり

    ・20.私は、なぜ人の話を聴く人になったのか振り返ってみました 2017年11月 〜 2017年12月

    ※匿名・年齢非公開のため期間は変えて掲載しています(*´▽`*) ご理解いただけますと嬉しいです。 ✼••┈••✼ 私は昔から、人の話を聴くのが得意だったわけではありません。 自分のことで精いっぱいだった時期もたくさんあります。 子育てをしていた頃は、仕事をして、家のことをして、子どものことを考えて……気がつけば一日が終わっている。 「もっとちゃんとしなきゃ」 「私が頑張れば何とかなる」 そんなふうに、自分に言い聞かせながら過ごしていたこともありました。 でも、いろいろな経験をして、人と関わって、たくさんの人の話を聞いているうちに、少しずつ考え方が変わっていきました。 人って、正しいことを言われたからといって、すぐに気持ちを切り替えられるものではないんですよね。 「そんなことで悩まなくてもいいよ」 「気にしなければいいよ」 「もっと前向きに考えよう」 良く言われたんですよね(^_^;) でも、頭では分かっていても、心がついてこないことがあります。 だからこそ、まずは話すことが大切なんじゃないかと思うようになりました。 誰かに話しているうちに、自分でも気づいていなかった気持ちが出てくることがあります。 「私、本当は怒っていたんだ」 「悲しかったんだ」 「ずっと我慢していたんだ」 「本当はこうしてほしかったんだ」 そんなことに、話している途中で初めて気づくこともあります。 私は、それがすごく大切なことだと思っています。 答えを外から持ってきて、「あなたはこうすればいいですよ」と教えるだけが、人を助けることではない。 安心して話せる場所があれば、自分の中にある答えに、自分で気づけることがあります。 だから、電話相談でも「何とかしてあげなきゃ」とはあまり思ってないんですね。 まず、話してもらう。 いっぱい吐き出してもらう。 途中で話があちこちに飛んでもいい。 同じことを何度話してもいい。 「こんなこと言ったら、どう思われるかな」と考えなくてもいい。 そうやって安心して話しているうちに、心の奥に隠れていた気持ちが、少しずつ顔を出してくる。 その時間に立ち会えることが、私はうれしいのです。 ◆介護の仕事を長く続けて、わかったこと 私は介護の仕事を長くしてきました。 いろいろな職場で、たくさんの高齢者の方と接してきました。 デイサービス、グループホーム、特別養護老人ホーム、サービス付き高齢者向け住宅など。 入浴や排せつ、食事、リハビリ、レクリエーションなど、身体的な介助もたくさん経験しました。 でも、長く続けてきたからこそ、介護の仕事で学んだことは、技術だけではないと思っています。 人は、年齢を重ねても、一人の人間なんですよね。 身体が思うように動かなくなっても、その人にはその人の思いがあります。 昔から大切にしてきたもの、好きなこと、嫌なこと、プライド、家族への思い。 そして、ときには言葉にできない寂しさや不安を抱えていることもあります。 介護をしていると、「こうしてあげたほうがいい」という側の都合だけでは、うまくいかないことがあります。 本人にとっては、それが嫌だったり、怖かったり、納得できなかったりする。 そこには、その人なりの理由があるんですよね。 これは介護だけの話ではないと思っています。 家族でも、夫婦でも、親子でも、職場でも同じ。 相手から見れば「どうしてそんなことで怒るの?」と思うことでも、本人にとっては、そこに積み重なったものがある。 だから、人の気持ちは表面だけを見ても分からない。 介護の仕事を通して、それを何度も教えてもらいました。 そして、家族同士の関係についても、いろいろな場面を見てきました。 家族だからこそ言葉がきつくなることがあります。 心配しているのに、相手には責められているように聞こえてしまうこともあります。 「家族なんだから分かってくれるはず」と思うからこそ、傷つくこともあります。 人間関係って、本当に難しい。 だから私は、「どちらが正しいか」を決めることより、「その人は何を感じているのか」を知ることのほうが大切だと思うようになりました。 怒っていてもいい。 愚痴を言ってもいい。 嫉妬してもいい。 「こんな自分、嫌だ」と思うような感情があってもいい。 まずは、「そう感じている自分がいるんだ」と認めてあげる。 そこから、少しずつ心が動き始めることがあると思っています。 ◆私自身も、ずっと心が安定していたわけじゃなかったんです ここまで書くと、私はいつも穏やかで、人のことを何でも受け止められる人のように思われるかもしれません。 でも、もちろんそんな人間ではありません(笑)。 私だって、落ち込みます。 イライラすることもあります。 「あの言い方はなかったんじゃない?」と後から何度も思い返すこともあります。 誰かの言葉に傷ついて、その場面を頭の中で何度も再生してしまうこともあります。 だから、「いつでも前向きでいましょう」という言葉には、少し違和感があります。 人間なんだから、落ち込む日があっていい。 腹が立つ日があっていい。 何もしたくない日があってもいい。 大事なのは、一度も揺れないことではないんじゃないか。 私はそう思うようになりました。 心って、天気みたいなものなのかもしれません。 晴れている日もあれば、曇る日もある。 雨が降ることもある。 でも、雨が降ったからといって、ずっと雨が続くわけではありません。 少しずつ雲が動いて、また空が見えてくる。 私は「心をコントロールする」ということも、感情をなくすことではないと思っています。 怒らないことでも、悲しまないことでも、無理にポジティブになることでもない。 揺れた自分を否定せずに、少しずつ自分の真ん中に戻ってくる。 そんな感覚です。 だから、誰かに相談されたときも、「そんなこと気にしなくていいよ」と簡単には言わないようにしているんです。 気になるんだったら、気になっていい。 悲しいんだったら、悲しくていい。 腹が立つなら、まず腹を立てていい。 いっぱい吐き出したっていい。 吐き出していくうちに、その奥にある本当の気持ちが見えてくることがあるからです。 「怒っている」と思っていたけれど、その奥には「寂しかった」があった。 「もうどうでもいい」と思っていたけれど、本当は「大切にしてほしかった」。 そんなふうに、感情の奥には別の気持ちが隠れていることがあります。 私は、その気持ちを一緒に見つけていく時間が好きです。 そして、その先にある答えは、私が決めるものではないと思っています。 本当の答えは、その人の中にある。 私は、そこに気づくためのお手伝いをする。 それが、今私が感じている事なんです(*^-^*) ◆ 新しいことを始めるのは、いつだって少し怖い 新しいことを始めるときって、ちょっと勇気がいります。 「今さら始めても遅いかな」 「私にできるかな」 「誰かに必要としてもらえるかな」 そんなことを考えることもあります。 やってみても、思ったようにいかないことがあります。 それでも、やってみたからこそ分かることがあります。 最初から上手にできなくてもいい。 失敗したからこそ、次に気をつけられる。 一歩動いたからこそ、次の一歩が見える。 私は、そういうことを何度も経験してきました。 人生って、ある程度の年齢になったら完成するものだと思っていた時期もありました。 でも、実際は全然違いました。 人間関係で新しい発見をすることもある。 仕事で考え方が変わることもある。 今まで興味がなかったことを始めることもある。 昔だったら気にしていたことが、今は気にならなくなることもある。 人は、いつまでも変わっていくんですよね。 だから私は、「もう遅い」という言葉を、自分にも他人にもあまり使わないようになりました。 やりたいと思ったときが、その人にとってのタイミングなのかもしれないって。 私もココナラを始めてから、思うようにいかないことがたくさんありました。 「これなら売れるかな」と思ったものが売れなかったり(^_^;) 一生懸命書いた文章を何度も直したり。 画像を作り直したり。 「これでいいのかな」と迷ったり。 それでも、やっているうちに少しずつ分かってくることがやっぱりあるんですよね。 そして何より、「私はこれをやってみたいんだ」と自分で気づけたことが大きかった。 人は、誰かに背中を押してもらうことも大切だけれど、最後に一歩を踏み出すのは自分。 その一歩を踏み出した自分のことは、ちゃんと認めてあげたい。 今はそう思っています♪ ◆  私がココナラでやっていくいこと 私はココナラで、たくさんの方に出会っていきたいです♥。 「この人に話してみようかな」と思ってもらえたらうれしい。 電話をかけてきてくださった方に、「話してよかった」と思ってもらえたら、もっと嬉しい。 でも、私がやりたいことは、誰かの人生を私が変えることではなくて、 「こうすれば幸せになれます」と答えを渡すことでもないなー、って思うんです。 ただ、安心して話せる時間を作りたい。 それだけなのかもしれません。 誰にも言えないこと。 家族には言えないこと。 友達には言いにくいこと。 こんなことを言ったら嫌われるかもしれないと思うこと。 自分でも「こんなこと考えるなんて、性格が悪い」と思ってしまうこと。 そんな気持ちほど、誰かに話してみると、意外と心が軽くなりますよね。 だから私は、ただただ想いを吐き出せる人でいられたら嬉しいんです。 話している途中で泣いてもいい。 笑ってもいい。 怒ってもいい。 話がまとまっていなくてもいい。 「何を相談したいのか自分でも分からない」という状態でも大丈夫。 最初からきれいに話す必要なんてありません。 むしろ、まとまっていないからこそ、話してほしいと思っています。 話して、吐き出して、少しずつ頭の中が整理されていく。 そして最後に、 「あ、私、本当はこう思っていたんだ」 と、自分で気づく。 そんな時間になったらすごく嬉しいです。 主役は、あくまでも相談してくださる方。 私は、その人の隣に座って話を聞く人。 迷ったときに、一緒に立ち止まる人。 いっぱい吐き出したいときに、「うん、聞くよ」と受け止める人。 そして、少し心が軽くなったら、「じゃあ、また自分の道を歩いていこう」と送り出せる人。 そんな存在になれたらいいなと思っています(*^-^*) 人生には、どうしても一人では抱えきれないときがありますよね。 誰かに話すことで、ほんの少し楽になることがあります。 まず、心の中にたまっていたものを外に出してみてください。 それだけでも、見える景色が変わってきます。 私は、そんな「話せる場所」を作っていきたいなーって思うようになって ココナラを始めました。 揺れたら、また戻ればいい 完璧じゃなくてもいい 遠回りしてもいい 自分の心を置き去りにせず、一歩ずつ進んでいけたらいい そんなことを思いながら、私は今日もここで、奇跡の出会いをを待っています。 たくさんの出品者。たくさんのお客様。 そこで出会うということは奇跡☆そう思っています。 あなたと出会って、会話そして、心を軽くするお手伝いをする。 席を温めてお待ちしています ♨

    ・21.ここからはブログのように~私のこと、私の想い、として綴っていきたいと思います(*^-^*) 2018年6月 〜 2018年7月

    介護の話を書くとき、私はいつも少し迷います。 「介護は大変です」 「頑張っている家族を応援したい」 そんな言葉なら、いくらでも書けます。 でも、私が本当に書きたいのは、もっとその奥にある気持ちです。 介護をしていると、優しい人でいられない瞬間があります。 イライラする。 腹が立つ。 何度言っても伝わらないことに疲れる。 「もう無理」と思う。 「早く終わってほしい」と考えてしまう。 そして、そのあとで自分を責める。 「私はなんてひどいことを考えてしまったんだろう」 「本当は大切な親なのに」 「もっと優しくしてあげなきゃ」 「介護しているんだから、これくらい我慢しなきゃ」 そんなふうに、自分で自分を追い詰めてしまう。 私は、介護の仕事を長くしてきました。 施設の現場では、排泄介助、入浴、食事、移動など、利用者さんの生活を支える仕事をしてきました。 そして、仕事だけではありません。 自分の家でも、認知症の父の介護や、がんを患った母の介護と看取りを経験しました。 だから私は、介護について「こうすればうまくいきます」と簡単には言えません。 介護は、そんなにきれいに割り切れるものではないからです。 施設の仕事なら、勤務が終わればいったん離れることができます。 もちろん仕事として大変なことはたくさんありますが、家に帰れば自分の時間があります。 でも、家族の介護は違います。 朝起きても介護。 食事をしていても介護。 夜になっても気になる。 眠っていても、呼ばれれば起きる。 いつ終わるのか分からない。 「今日一日頑張れば終わり」というものではない。 それが、家族介護の苦しさの一つだと思います。 しかも、相手は大切な家族です。 だから余計に難しい。 大切だから優しくしたい。 でも、疲れているから優しくできない。 大切だからちゃんとしたい。 でも、ちゃんとしようとするほど苦しくなる。 「介護してあげている」なんて思いたくない。 でも、心のどこかで「どうして私ばかり」と思ってしまう。 その気持ちは、どちらも本当なんですよね。 愛情があることと、疲れて腹が立つことは、両立します。 親を大切に思っていることと、「もう勘弁して」と思うことも、両立します。 私は、ここを無理にきれいにしなくていいと思っています。 介護をしている人は、いつも優しい人でいなくていい。 疲れたら疲れたでいい。 腹が立ったら腹が立ったでいい。 泣きたかったら泣いていい。 「こんな気持ちになる私はダメな人間だ」と、自分まで責めなくていい。 なぜなら、介護をしているのはロボットではなく、人間だからです。 眠くなるし、疲れる。 自分の予定もある。 自分の体調もある。 自分の人生もある。 それなのに、「親なんだから」「家族なんだから」と、自分のことを後回しにしてしまう。 介護をしている人ほど、自分の心を後回しにしやすいのではないかと思います。 私自身も、父の介護で怒りをぶつけてしまい、後悔したことがあります。 今思えば、父に対して腹を立てていたというより、状況そのものに追い詰められていたのだと思います。 認知症という病気がある。 こちらの言うことが思うように伝わらない。 同じことが繰り返される。 頭では分かっていても、感情が追いつかない。 「病気なんだから仕方がない」 頭では分かっています。 でも、人間の感情は、頭で理解しただけで消えてくれるわけではありません。 だから怒ってしまうことがある。 そのあとで後悔する。 そして、「もっと優しくできたはずなのに」と自分を責める。 この繰り返しは、本当に苦しいです。 母の介護と看取りも、また違う苦しさがありました。 病気になった本人の辛さを目の前にして、こちらも苦しくなる。 心配させないように笑っていたい。 でも、本当は自分も怖い。 大丈夫な顔をしながら、心の中では泣いている。 介護をしている家族には、そういう「人には見せない時間」がたくさんあるのだと思います。 だから私は、介護の相談で「正しい介護方法」だけを話したいわけではありません。 家族には言えない。 ケアマネジャーさんには言いにくい。 友達に話したら心配をかけそう。 介護の専門職には、もっと頑張っている人だと思われている気がする。 そんなふうに感じて、誰にも言えないことがあります。 だからこそ、私は電話で受け止めたいと思っています。 「実は、もう嫌なんです」 「今日は本当に腹が立ちました」 「自分でも怖いくらいイライラします」 「早く終わってほしいと思ってしまいます」 「こんなことを思う自分が嫌です」 そんな言葉が出てきても、私は驚きません。 「そんなふうに思っちゃダメですよ」とも言いません。 「もっとこうしたほうがいいですよ」と、すぐにアドバイスすることもしません。 まずは、全部出してほしい。 話がまとまっていなくてもいい。 途中で泣いてしまってもいい。 同じことを何度話してもいい。 「何を話したかったのか分からなくなりました」と言ってもいい。 それでいいんです。 心の中に溜まっているものは、きれいに整理してから話す必要なんてありません。 むしろ、整理されていないからこそ、誰かに聴いてほしいんですよね。 「もう無理」 「疲れた」 「腹が立つ」 「悲しい」 「誰か助けて」 そんな言葉から始まってもいい。 話しているうちに、最初は怒りだと思っていた気持ちの奥から、別のものが出てくることがあります。 本当は寂しかった。 本当は怖かった。 本当は誰かに「よく頑張ってるね」と言ってほしかった。 本当は自分も大切にしてほしかった。 そんな気持ちです。 私は、そこまで出てきたら、その人にとって大きな意味があると思っています。 すぐに問題が解決しなくてもいい。 介護そのものが明日からなくなるわけでもない。 でも、心の中に溜まっていたものを少し外に出せたら、呼吸が少し楽になるかもしれない。 今日一日を乗り切る力が、ほんの少し戻ってくるかもしれない。 「また明日からやってみよう」と思えるかもしれない。 私は、それで十分だと思っています。 介護をしている人にも、その人自身の人生があります。 介護する側だからといって、すべてを犠牲にしなければならないわけではありません。 自分の好きなことをしていい。 笑っていい。 遊んでいい。 疲れたと言っていい。 罪悪感を持たずに、自分の時間を持っていい。 そんなことを、私は伝えたいと思っています。 介護の仕事をしているからといって、家族の介護まで完璧にできるわけではありません。 これは、介護に関わる人には覚えておいてほしいことです。 仕事では落ち着いて対応できても、自分の親となると感情が大きく揺れることがあります。 「認知症だから仕方ない」と知識では分かっていても、長年一緒に暮らしてきた親だからこそ、以前の親との違いに戸惑う。 できていたことができなくなる。 会話がかみ合わなくなる。 こちらの気持ちが届かないように感じる。 それは、介護技術だけではどうにもならない部分です。 だから、介護の経験がある人もない人も、苦しくなって当然です。 「私には知識があるから大丈夫」 「介護職なんだから、家ではもっとちゃんとしなくちゃ」 そんなふうに、自分に厳しくしなくてもいい。 知識があっても、疲れるものは疲れる。 愛情があっても、腹が立つことはある。 私は、そこも含めて受け止めたいと思っています。 介護は、介護される人だけの問題ではありません。 介護する人の心も、同じくらい大切です。 だから私は、介護を頑張っている人に「もっと頑張れる方法」を渡すより、まず「もう十分頑張っているよ」と言える場所を作りたい。 話すことで、心の中に少し余白ができる。 その余白ができて初めて、自分に必要なことや、これからどうしたいかを考えられることもあるからです。 そして、介護をしている人が一番苦しくなるのは、「自分だけが頑張らなければ」と思ってしまったときかもしれません。 でも、本当は一人で抱えなくていい。 誰かに話していい。 助けを求めていい。 愚痴を言っていい。 弱音を吐いていい。 「こんな黒いこと、話していいのかな」と思うことほど、安心して話せる場所が必要なのだと思います。 私は介護の現場で、きれいごとだけではない人の姿をたくさん見てきました。 そして自分自身も、家族の介護を経験して、「介護する側の気持ち」がどれほど揺れるものなのかを知りました。 だから、介護をしている人に完璧を求めたくありません。 「いつも優しく」 「笑顔で」 「感謝して」 「親孝行だから頑張って」 そんな言葉だけでは、救われない日があります。 むしろ、そんな言葉が苦しくなる日もあります。 そんな日は、頑張る前に吐き出していい。 誰かに話して、「ああ、私、こんなにしんどかったんだ」と気づいていい。 そして、少し心が軽くなったら、また自分の生活に戻っていけばいい。 私は、電話相談をそんな場所にしたいと思っています。 電話を切った瞬間に、介護の問題が全部なくなるわけではありません。 でも、 「私だけじゃなかった」と思えたり、 「この気持ちを話しても大丈夫だった」と感じられたり、 「今日はもう自分を責めるのをやめよう」と思えたり。 そんな小さな変化があれば、それは大きな一歩だと思います。 介護の毎日は、終わりが見えないことがあります。 だからこそ、その長い道の途中で、少し立ち止まってもらいたい。 荷物をいったん下ろしてもらいたい。 「もう重いよ」と言ってもらいたい。 私は、その隣に座って話を聴く人でありたい。 答えを押しつけるのではなく。 正しいことを言うのでもなく。 あなたの中にある気持ちが、ちゃんと外に出てくるまで。 「そんなことを思っていたんですね」と受け止めながら、一緒にその気持ちを見ていきたい。 そして電話を切るころには、少しだけ呼吸がしやすくなっていたらいい。 「もう少しだけ、やってみようかな」と思えるくらいの元気が戻っていたらいい。 介護をしているあなたは、決して「介護する人」だけではありません。 あなた自身の人生を生きている、一人の人です。 だから、あなたの気持ちも大切にしてほしい。 つらいときは、黒い気持ちもそのまま持ってきてください。 私は、介護の大変さを知っているからこそ、きれいごとだけでは受け止めません。 あなたの中にある、言葉にできない気持ちも、そのまま持ってきてください。 電話を切ったあと、ほんの少し心が軽くなっている。 そして「明日も何とかやってみよう」と、自分の生活に戻っていける。 私は、そんな時間を一緒につくりたいと思っています。 介護の途中で疲れたら、ここに寄ってください。 あなたがまた自分の心の真ん中に戻っていけるように、私は隣で話を聴きます(´▽`*)

    ・22.嫁姑のお悩み相談のわけ 2018年11月 〜 2018年12月

    私は、子供が小さい頃に離婚したので、「義母との関係に悩んだ」という経験はあまりありません。 それなのに、なぜ私が「嫁姑の悩みを聴くサービス」を出しているのか。 それには、私が子どもの頃から見てきた、母と祖母の関係があります。 私の母は、義母である祖母との関係に、とても苦しんでいました。 私は、その姿を幼い頃からずっとそばで見ていました。 子どもって不思議ですよね。 言葉で説明されなくても、家の中の空気を感じ取るんです。 誰かが怒っている。 誰かが我慢している。 誰かが傷ついている。 そういうことは、なんとなく分かるものです。 私の中には、そんな記憶がずっと残っています。 当時の祖母は、私の子どもの頃の感覚で言えば、まさに「ラスボス」のような存在でした。 家の中で大きな力を持っている。 母は傷ついている。 でも、簡単には逃げられない。 子どもだった私には、それがとても苦しいことでした。 そして、母には逃げ込める実家もありませんでした。 母は両親を戦争で亡くしていたからです。 「嫌なら実家に帰ればいい」 そんな簡単な話ではなかった。 帰る場所がない。 逃げ込める場所がない。 その現実を、私は子どもながらに感じていました。 今、大人になって振り返ってみると、あの頃の母はどれほど苦しかったのだろうと思います。 もちろん、子どもだった私には、母が何を考えていたのか、その全部を知ることはできません。 でも、傷ついている姿は分かりました。 陰で泣いている姿もありました。 だから私は、幼いながらに「お母さんを守りたい」と思っていたんだと思います。 妹と一緒に祖母にぶつかることもありました。 子どもの私たちなりに、母を守ろうとしていた。 今考えると、なんとも不器用なやり方だったと思います。 でも、その頃の私たちには、それしかできなかった。 大人の世界には、大人の事情があります。 嫁と姑という関係があります。 夫婦という関係があります。 家族だからこそのしがらみもあります。 子どもの私には、それがよく分かっていませんでした。 ただ、 「お母さんがかわいそう」 それだけだったのかもしれません。 そんな経験があるから、私は今でも嫁姑の話を聞くと、少し胸がざわっとします。 「義母にこんなことを言われた」 「何をしても私が悪いことになる」 「夫に相談しても、母親の味方をする」 そういう話を聞くと、単純に「嫁と姑が仲良くすればいい」とは思えないんです。 嫁姑の問題って、二人だけの問題ではないからです。 そこには夫がいる。 家族全体の空気がある。 長年続いてきた家族の関係がある。 それぞれの立場や価値観がある。 そして、その中で一番苦しくなっている人が、自分の気持ちを言えずに黙ってしまうことがあります。 「私が我慢すればいい」 「ここで言い返したら、もっと揉める」 「夫に言っても分かってもらえない」 そうやって、一つ一つの小さな我慢を積み重ねていく。 最初は小さなことだったのかもしれません。 言われた一言。 された態度。 ちょっとした嫌味。 自分だけに向けられているように感じる扱い。 でも、それが一度ではなく、何度も何度も続くと、人の心は少しずつ削られていきます。 そして怖いのは、いつの間にか「私が悪いのかな」と思い始めてしまうことです。 最初は「それはおかしい」と思っていた。 でも、何度も否定されたり、夫に分かってもらえなかったりすると、 「私の考え方がおかしいのかな」 「私が気にしすぎなのかな」 「私がもっと上手にやればいいのかな」 と、自分のほうを疑い始めてしまう。 私は、そこがとても苦しいところだと思います。 誰かに傷つけられているのに、自分を責め始めてしまう。 本当なら「つらかったね」と言ってほしいのに、 「あなたにも悪いところがあるんじゃない?」 なんて言われたら、ますます言えなくなってしまう。 だから私は、嫁姑の相談では、まず「正しい答え」を出そうとは思っていません。 もちろん、具体的にどうすればいいかを考えることが必要な場合もあります。 でも、その前にやることがあると思っています。 まず、その人の中に溜まっているものを全部出してもらうこと。 怒っていい。愚痴っていい。泣いていい。 「もう嫌!」 「義母の顔を見るだけでイライラする」 「夫にも腹が立つ」――そんな言葉も、ここでは出していい。 誰にも言えない言葉ほど、心の中に溜まっていきます。 そして、溜め込んだままでは、自分が何に一番傷ついているのかも分からなくなることがあります。 怒りのように見えて、その奥には悲しさがあるかもしれない。 「義母が嫌い」という気持ちの奥に、「夫に味方してほしかった」という思いがあるかもしれない。 「もう関わりたくない」という気持ちの奥に、「本当は家族として大切に扱ってほしかった」という願いがあるかもしれない。 だから、私は急いで結論を出したくありません。 まず話してほしい。 何があったのか。 何が嫌だったのか。 何が悔しかったのか。 何を我慢してきたのか。 そして、本当はどうしてほしかったのか。 話していくうちに、自分でも気づいていなかった気持ちが見えてくることがあります。 私は、それが「話すこと」の大きな意味だと思っています。 相談というと、すぐにアドバイスをもらうものだと思う人もいるかもしれません。 「こう言えばいいですよ」 「こういうふうに距離を取ればいいですよ」 「旦那さんにこう伝えましょう」 そういう答えが必要なときもあるでしょう。 でも、心がパンパンになっているときに、正論を聞いても入ってこないことがあります。 頭では分かっている。 でも、気持ちが追いつかない。 だから私は、まず心の中を空っぽにするような時間が必要なんじゃないかと思っています。 思いっきり吐き出して、 「私、こんなに我慢してたんだ」 と気づく。 それだけでも、少し違う。 人は、自分の気持ちを言葉にすることで、少しずつ自分の本音が見えてくることがあります。 私は、その時間を大切にしたい。 私自身、母の姿を見てきたからこそ、「家族だから我慢する」ということが、どれほど人を苦しくするのかを感じてきました。 家族だから、仲良くしなければならない。 家族だから、我慢しなければならない。 家族だから、嫌いになってはいけない。 本当にそうでしょうか。 私は、家族であっても距離が必要なことがあると思います。 大切に思っているからこそ、距離を取ったほうがいいこともある。 相手を嫌いにならなくても、近づきすぎないという選択もある。 全部分かり合えなくてもいい。 全部受け入れなくてもいい。 そして、「義母とうまくやる」ことだけが正解でもないと思います。 その人にとって、どんな距離なら心が少し楽になるのか。 夫とは、どこまで話すのか。 何を伝えて、何は伝えないのか。 どこから先は自分が背負わなくていいのか。 そういうことを、自分自身で考えられる状態に戻っていくこと。 私は、そこを大切にしたいと思っています。 母が嫁姑の関係で苦しんでいる姿を見ていた私にとって、これは決して遠い話ではありません。 だからといって、「私があなたの人生を何とかしてあげます」とは思っていません。 それは違うと思うんです。 その人の人生の答えを決めるのは、その人自身だから。 私はただ、隣で話を聴くことができます。 「それは嫌だったよね」 「ずっと我慢してきたんだね」 「そう思ってしまうのも無理ないよ」 そんなふうに、まずその気持ちを置ける場所になる。 そして、いっぱい話したあとで、少し心に余白ができたら、 「私は本当はどうしたいんだろう」 と一緒に考えていく。 答えを押しつけるのではなく、自分の中にある答えを見つけていく。 それが、私の相談の基本にある考え方です。 嫁姑の問題は、明日突然なくなるとは限りません。 電話を切ったからといって、義母の性格が変わるわけでも、夫が急に理解してくれるわけでもありません。 だからこそ、私は「電話したら全部解決します」とは言いたくありません。 でも、電話を切ったあとに、 「さっきまであんなに苦しかったのに、少し呼吸が楽になった」 「私が全部悪いわけじゃないのかもしれない」 「今日はもう、自分を責めるのをやめよう」 そんなふうに思ってもらえたら、それは大きな意味があると思っています。 誰にも言えなかったことを、安心して吐き出せる。 自分でも驚くような黒い感情を、否定されずに話せる。 途中で泣いてしまってもいい。 話がめちゃくちゃでもいい。 怒りながら話してもいい。 「こんなことを言う私は最低だ」と思っていることでも、ここでは隠さなくていい。 私は、母が苦しんでいた姿を知っているからこそ、そういう女性の気持ちを「そんなことで悩まないで」と簡単に片づけたくありません。 もしかしたら、あなたはずっと頑張ってきたのかもしれない。 家族のために。 夫のために。 子どものために。 家の空気を壊さないために。 「私さえ我慢すれば」と、何度も飲み込んできたのかもしれない。 でも、あなたの気持ちまで消さなくていい。 腹が立つなら、腹が立つ。 悲しいなら、悲しい。 悔しいなら、悔しい。 「もう無理」と思うなら、その言葉も出していい。 私は、あなたの話を聞くためにいます。 そして、たくさん話して少し心が軽くなったとき、今まで見えなかったものが見えてくるかもしれません。 義母との距離。 夫との向き合い方。 これから自分がどうしたいのか。 今すぐ答えを出さなくてもいい。 まずは、自分の気持ちを取り戻すこと。 それだけでもいいんです。 私は、母の姿を見てきたからこそ、嫁姑の関係で苦しむ女性に伝えたい。 あなたが悪いと決めつけなくていい。 あなたが全部我慢しなくてもいい。 そして、誰にも言えない気持ちを、一人で抱え続けなくてもいい。 もし今、心の中にいっぱいになっているものがあるなら、電話で全部吐き出してください。 きれいに話そうとしなくて大丈夫です。 「もう聞いて!」から始まってもいい。 私は、ちゃんと聴きます。 あなたの話を聞きながら、一緒に少しずつ心をほどいていきたい。 電話を切るころには、張り詰めていた肩の力が少し抜けて、 「ああ、話してよかった」 と思ってもらえたら嬉しい。 そしてまた、自分の生活に戻っていける。 そんな時間を、私は作りたいと思っています。 母が苦しんでいた姿を、私は子どもの頃から見てきました。 だから今度は、あの頃の母にはできなかった「誰かに安心して話す」ということを、今苦しんでいる女性に渡してあげたい。 それが、私が嫁姑相談をしている理由です (´▽`*)*゜

    ・23.子どもが成人しても、親の心配はなくならないものです 2019年6月 〜 2019年7月

    子どもが成人しても、親の心配はなくならない。 私は、3人の子どもを育ててきました。 子どもが小さい頃は、小さいなりの心配がありました。 熱を出せば心配になる。 学校で何かあれば気になる。 友達関係は大丈夫かな。 ちゃんとご飯を食べているかな。 親なら、きっと誰でも経験することですよね。 でも、子どもが大人になれば、親の役目も少しずつ終わっていくものだと思っていました。 ところが、実際にはそう簡単ではありませんでした。 子どもが大人になっても、苦しんでいる姿を目の前にすれば、親はやっぱり心配になる。 「この子はこれからどうするんだろう」 「私がいなくなったら、この子は大丈夫なんだろうか」 「親として、私は何をしてあげればいいんだろう」 そんなことを、何度も考えてしまう。 私自身、そんな経験をしました。 末の娘には、4年ほど引きこもっていた時期があります。 今振り返っても、あの頃は長かったなと思います。 4年という時間を数字だけで見ると、それだけのことに感じるかもしれません。 でも、その毎日の中にいる親にとっては、一日一日がとても長い。 昨日も家にいる。 今日も家にいる。 明日も、きっと家にいる。 そんな日々が続いていく。 周りの子どもたちは学校へ行ったり、仕事をしたり、結婚したり、自分の人生を進めている。 そんな姿が目に入れば、比べたくなくても比べてしまう。 「うちの子は、いつになったら動き出すんだろう」 「私の育て方が悪かったのかな」 「もっと何かしてあげたほうがいいのかな」 親の頭の中には、いろいろな考えが浮かびます。 そして、良かれと思って声をかける。 「大丈夫?」 「これからどうするの?」 「少しでも外に出てみたら?」 「何かやりたいことはないの?」 親としては、何とかしてあげたい。 このままではいけないと思ってしまう。 でも、こちらが心配すればするほど、子どもとの距離が難しくなることもあります。 私も、最初から「聴く」という方法を知っていたわけではありません。 失敗に次ぐ失敗でした。 親だから何とかしなければ。 親だから道を示さなければ。 そう思っていたんだと思います。 でも、うまくいかない。 こちらが一生懸命になればなるほど、娘との間にあるものが重くなっていく。 そんな中で、私は少しずつ考え方を変えていきました。 「何とかしようとする」よりも、「まず話を聴いてみよう」と。 当時の娘は、 「辛い」 「苦しい」 「生きていたくない」 そんな言葉を口にして、泣いていました。 母親として、その言葉を聞くのは本当に苦しいことです。 何とかしてあげたい。 今すぐ苦しみを取り除いてあげたい。 そう思ってしまう。 でも、そこで私ができることは、必ずしも答えを出すことではありませんでした。 私は、余計なアドバイスをせず、ただ娘の話を聴くことにしました。 何時間でも。 最初は、4時間くらい話を聴いていたこともあります。 4時間ですよ。 普通なら、「そんなに長く何を話すの?」と思うかもしれません。 でも、娘にとっては、それだけ吐き出したいものがあったんだと思います。 私も、最初から完璧にできたわけではありません。 娘の言葉に心を揺さぶられることもありました。 こちらまで苦しくなってしまうこともある。 このままでは私まで引っ張られてしまう。 そう感じたときには、一度その場を離れました。 部屋を出て、深呼吸する。 自分の心を少し落ち着ける。 そして、また娘のところへ戻る。 そんなことを繰り返していました。 今思えば、あれは私にとっても大切な時間でした。 娘の心を支えようとするあまり、母親である私自身が倒れてしまったら、続かないからです。 子どもの苦しみを受け止めることと、子どもの苦しみを自分の中に全部抱え込むことは、同じではありません。 そこに気づけたことは、私自身にとって大きかったと思います。 そして、変化は少しずつ現れてきました。 最初は4時間かかっていた娘の話が、3時間になった。 それが2時間になった。 そして、最後には10分ほど話すことで、気持ちを切り替えられるようになっていきました。 もちろん、4年間のことを「聴くだけで解決した」と単純に言うつもりはありません。 人が変わっていく過程には、いろいろなことがあります。 時間も必要です。 本人の力もあります。 その人にしか分からない苦しみもあります。 だから、私は「こうすれば必ず引きこもりが治ります」という話をしたいわけではありません。 私が伝えたいのは、もっと別のことです。 親が子どもを何とか変えようとするだけではなく、まず子どもの言葉を受け止める。 そして同時に、親自身の心も守る。 その両方が大切なんだということです。 親は、子どものことになると、自分のことを後回しにしがちです。 子どもが苦しんでいる。 だから、自分が苦しいなんて言ってはいけない。 自分が弱音を吐いている場合じゃない。 もっと頑張らなくちゃ。 そうやって、自分の心をどんどん後ろに追いやってしまう。 でも、親だって一人の人間です。 心配するし、疲れる。 腹が立つこともある。 「もう私には無理」と思う日だってある。 子どもに優しくできない自分を責めることもある。 そんな気持ちを持ったからといって、悪い親になるわけではありません。 私は、娘のことで悩んでいた頃、自分の心が揺れることを何度も経験しました。 娘の言葉を聞いて苦しくなる。 先が見えなくて不安になる。 このままでいいのか分からなくなる。 それでも、また次の日が来る。 そんな毎日の中で、私が少しずつ覚えていったのが、「自分の心をリセットする」ということでした。 一度その場を離れて深呼吸する。 自分の感情を整える。 そして、また戻る。 これは、子どもから逃げることではありません。 むしろ、長く寄り添い続けるために必要なことだったのだと思います。 親が自分を守ることは、決して子どもを見捨てることではない。 私は、娘との時間を通して、そう感じるようになりました。 だから今、成人した子どものことで悩んでいるお母さんを見ると、その気持ちが他人事には思えません。 「もう大人なんだから、放っておけばいい」 周りからそう言われることもあるかもしれません。 でも、そんなに簡単に割り切れないですよね。 20歳でも、30歳でも、40歳でも、自分の子どもは自分の子ども。 苦しんでいる姿を見れば心配になる。 部屋から出てこなければ気になる。 何日も顔を合わせなければ、「今日は大丈夫かな」と思ってしまう。 親として、当然の気持ちだと思います。 ただ、その心配が長く続くと、親の心まで疲れ切ってしまいます。 子どもの問題を考えているつもりはないのに、気づけば一日中そのことばかり考えている。 テレビを見ていても、食事をしていても、夜布団に入っても考えてしまう。 「この先どうなるんだろう」 そんな不安が頭から離れない。 そして、誰かに相談したくても相談できない。 友達に話せば、「うちの子はもう働いているよ」などと言われるかもしれない。 親戚には知られたくない。 子ども本人には言えない。 夫婦でも考え方が違う。 そうして、母親一人で抱えてしまう。 私は、そんなお母さんにこそ、安心して話せる場所が必要だと思っています。 子どもの話をしてもいい。 自分の不安を話してもいい。 愚痴だっていい。 「もう疲れた」と言ってもいい。 「この先が怖い」と泣いてもいい。 「私の育て方が悪かったのかな」と自分を責めてもいい。 まずは、そこにある気持ちを外へ出してほしい。 私は、あなたの子どもを変えることはできません。 これから先の人生を決めることもできません。 でも、あなたが今抱えている気持ちを聴くことはできます。 そして、話しているうちに、 「私は子どものことばかり考えて、自分のことを何も考えていなかったな」 「本当は、私もすごく疲れていたんだな」 「今すぐ答えを出さなくてもいいのかもしれない」 そんなふうに、自分の気持ちに気づくことがあるかもしれません。 子どもの人生と、自分の人生。 大切だからこそ、全部を一つにしなくてもいい。 子どもの苦しみを心配しながら、自分の時間を持ってもいい。 笑ってもいい。 楽しんでもいい。 自分の好きなことをしてもいい。 子どもが苦しんでいるときに自分だけ楽しむなんて、と罪悪感を持つお母さんもいるかもしれません。 でも、親まで一緒に苦しみ続けなければならないわけではありません。 私自身、娘との4年間を通して、それを少しずつ学びました。 今、もしあなたが長いトンネルの中にいるのなら、無理に出口を探さなくてもいいと思っています。 今日は今日でいい。 まず、あなた自身が少し息をつける場所を作る。 誰かに話す。 泣く。 愚痴を言う。 「もう疲れた」と言う。 それだけでもいいんです。 私は、同じ母親として、子どものことで心配し続ける苦しさを知っています。 だから、きれいに整理された話でなくても大丈夫。 何から話せばいいか分からなくても大丈夫です。 「もう、どうしたらいいのか分からない」 その一言からでも、十分です。 話していくうちに、張り詰めていた心が少し緩む。 子どものことばかりでいっぱいだった頭の中に、少しだけ自分の居場所が戻ってくる。 そして電話を切るときに、 「少し話せてよかった」 「今日はもう、自分を責めるのをやめよう」 「また明日を迎えてみようかな」 そんなふうに思ってもらえたら、私は嬉しいです。 子どもの人生を背負いすぎなくていい。 でも、心配する気持ちまで無理に消さなくていい。 親だから心配する。 親だから苦しくなる。 それも含めて、そのまま話していい。 私は、娘との4年間で、「聴くこと」の力を自分自身で経験しました。 だから今度は、あの頃の私と同じように、子どものことで一人で悩んでいるお母さんの話を聴きたい。 子どもを変えるためではなく、 まず、お母さん自身が少し元気を取り戻すために。 子どものことを心配する毎日の中で、自分の心まで置き去りにしないために。 「私も少し休んでいいんだ」 そう思える時間を、一緒に作れたらと思っています。 子どものことを話してもいい。 自分のことを話してもいい。 泣いても、愚痴っても、まとまっていなくても大丈夫。 電話を切ったあと、少しだけ肩の力が抜けている。 そんな時間を、私はあなたに届けたいと思っています。

    ・24.職場のイライラ、ストレスの愚痴聞きます 2019年11月 〜 2019年12月

    朝、目が覚めた瞬間に、 「ああ、今日も仕事か……」 そんなふうに思ってしまうことって、ありませんか? まだ布団の中なのに、もう仕事のことを考えてしまって、なんだかため息が出てしまう…。 職場に行けば、上司の機嫌や顔色が気になる。 自分では普通にしているつもりなのに、なぜか職場で居場所がないように感じる。 仕事が終わって家に帰っても、今日言われたことや、嫌だったことが頭から離れない。 夜になっても考えてしまって、なかなか眠れない。 そして、いつの間にか 「私が悪かったのかな」 「もっと上手に立ち回らないといけないのかな」 そんなふうに、自分を責める方向へ気持ちが向いてしまう。 仕事って、仕事内容だけが大変なわけじゃないんですよね。 人間関係だったり、上司との関係だったり、ちょっとした言葉だったり。 毎日の中では小さなことに見えても、それが少しずつ積み重なっていくと、心が疲れてしまうこともあると思うんです。 私自身、これまで介護の仕事を長くしてきました。 特別養護老人ホーム、デイサービス、グループホームなど、いくつかの現場を経験してきましたが、どの職場にも、それぞれの人間関係がありました。 介護業界はまだまだ人手が足りないので再就職しやすいんですよね。資格がなくても始められるし、働きながら資格を取っていくサポートも充実しているので、いろんなところから介護職に入ってくる人がいるんです。 色んな人がいる分、人間関係も難しいな、と思うことも何度もありました。 もちろん、楽しいこともありますよ♪ 利用者さんとの関わりに嬉しくなったり、仕事を通して人とのつながりを感じたり。 でも、その一方で、人間関係に悩んだ時期もあったんです。 あまりにも仕事へ行くことがつらくなってしまって、吃音症になったこともありました。 人と話すことが怖くなって、言葉がうまく出てこない。 朝、仕事へ向かう足も重い。 「今日も行かなくちゃ」と思いながら、気持ちの中では、もうどうしたらいいのか分からない。 そんな時期を経験しています。 だから、仕事のことで悩んでいる人の気持ちは、頭で考えているだけではなく、私自身の経験としても分かる部分があるんです。 その頃の私は、職場で起きる嫌なことを、なんとか自分の力で解決しようとしていました。 相手の言い方が気になればいつまでも気にする。 嫌なことを言われれば、その言葉を何度も思い返す。 「どうして私ばかり……」と考えてしまう。 そうすると、仕事そのものより、人間関係に心のエネルギーを使ってしまうんですよね。 そこから、本を読んだり、いろいろ試してみたりしながら、少しずつ考え方が変わっていきました。 「相手を変えようとしなくてもいいんじゃないかな」 そんなふうに思えるようになったんです。 もちろん、何を言われても我慢するという意味ではありません。 嫌なことをされたら、嫌だと感じていい。 腹が立つことがあれば、腹が立っていい。 ただ、そのたびに相手とぶつかって、自分の心まで消耗させなくてもいいのかもしれない。 そう考えられるようになってから、仕事との向き合い方が少しずつ楽になっていきました。 そして、もうひとつ、私の中に残っている経験があります。 仕事をしていると、自分がしていないことまで、なぜか自分のせいにされてしまうことってあるんですよね。 私も、実際にそういう経験をしました。 「私じゃないのに……」 そう思うことがあっても、その場では反論せず、できるだけ嫌な顔をしないようにして、言われたことを受け止めていました。 これは、何でも黙って耐えればいい、という話ではないんです。 ただ、そのときの私は、そこで「違います!」と戦うことよりも、まずその場を荒らさずに終えることを選んだんですよね。 すると、あるとき上司から、 「悪気があって、言ってるわけじゃないからね」 というような言葉をかけられました。 そのとき、私は少しだけ「ああ、そういうことなのかな」と思ったんです。 嫌なことを言われたからといって、毎回こちらも嫌な顔をしたり、腹を立てたりしていたら、自分のほうが疲れてしまう。 だからといって、言われたことを全部自分のせいにする必要もない。 表面上は「そうなんですね」と受け止めながら、心の中では、 「これは私の責任とは別の話だな」 と分けて考えてもいい。 この感覚を持てるようになったことは、私にとって大きかったんです。 仕事では、思い通りにならないことがたくさんあります。 自分がどれだけ気をつけていても、誰かの機嫌が悪い日もある。 ちょっとしたことで誤解されることもある。 一生懸命やっているのに、認めてもらえないことだってありますよね。 そんな毎日の中で、全部を真正面から受け止めていたら、心がいくつあっても足りないんじゃないかなと思うんです。 だからこそ、私は「話す場所」が大事じゃないかと思っています。 仕事の愚痴って、誰にでも話せるわけじゃないですよね。 同僚に話せば、どこからか上司の耳に入るかもしれない。 職場の人には立場があって、言いたいことを全部言うのも難しい。 家族に話せば心配をかけそうで、つい我慢してしまう。 友達に話したくても、「また仕事の愚痴だと思われたらどうしよう」と気になってしまうこともあるでしょう。 だから、心の中に溜め込んでしまう。 でも、私は愚痴を言うことって、そんなに悪いことじゃないと思うんです。 「今日は最悪だった!」 「もう、あの人ほんとに嫌!」 そんなふうに言いたくなる日があってもいい。 まずは言葉にして外へ出す。 それだけでも、少し呼吸がしやすくなることがあります。 全部きれいに前向きにならなくてもいいんです。 「今日は嫌だったなあ」と話して、それを誰かに受け止めてもらう。 そして、「まあ、明日も仕事だけど、とりあえず今日は終わったか」と、また明日に戻っていく。 私は、そんな時間があってもいいと思っています。 私の電話相談では、無理に前向きになってもらおうとは考えていません。 「辞めてもいいんですよ」 「気にしなければいいですよ」 そんな簡単な言葉だけで終わらせたくもないんです。 その人が今、どんなことに傷ついていて、何を悔しいと思っていて、何を我慢しているのか。 まずは、その気持ちをそのまま話してほしいと思っています。 ちょっと人には言いにくいような気持ちが出てきても、大丈夫です。 話しているうちに、自分でも気づいていなかった気持ちが見えてくることもあります。 「私、本当はこんなことが嫌だったんだ」 「ずっと我慢してたんだな」 そんなふうに、自分の気持ちに気づけるだけでも、少し見える景色が変わることがあるんですよね。 そして、話したあとに、 「明日も仕事だけど、まあ行ってみようかな」 と思えたら、それだけでも十分だと思うんです。 仕事そのものをすぐに変えられなくても、自分の心の持ち方が少し変われば、同じ場所で過ごす時間が少し楽になることもあると思います。 私も、以前は仕事へ行くことさえつらい時期がありました。 だからこそ、今、仕事のことで苦しくなっている人に伝えたいんです。 ひとりで抱え込まなくてもいいですよ、と。 職場では言えないことも、ここなら話していい。 「こんなこと言ったら嫌な人だと思われるかな」なんて気にしなくて大丈夫。 その日のモヤモヤを、いったん全部こちらに置いていってください。 話し終わったときに、胸のあたりが少し軽くなって、 「明日もなんとかやってみようかな」 そんなふうに思ってもらえたら、私は嬉しいです。 仕事が嫌になる日があってもいい。 腹が立つ日があってもいい。 「今日は最悪だった!」と誰かに話して、また自分の毎日に戻っていけばいいんです。 もし今、仕事のことで心がいっぱいになっているなら、ひとりで整理しようとしなくても大丈夫。 ベンチで隣に座って話すような気持ちで、よかったら聞かせてくださいね。 私は、そんなときに安心して話せる場所になれたらと思っています。 ✼••┈┈┈┈••✼ 仕事で嫌なことがあると、その影響って職場だけでは終わらないんですよね。 家に帰ってからも、今日言われたことを思い出したり、「あのとき、ああ言えばよかったかな」と考えたり。 お風呂に入っていても、布団に入ってからも仕事のこと。 本当なら、仕事が終わったら自分の時間に戻っていいはずなのに、心だけはまだ職場に置いてきたような感じになることがあります。 そうなると、せっかくのお休みでも気持ちが休まらない。 好きなことをしていても、なんとなく上の空。 「明日、また仕事か……」と考えてしまう。 そんな日が続くと、仕事そのものよりも、仕事を引きずっていることに疲れてしまうんですよね。 私自身も、仕事のことで頭がいっぱいになっていた時期がありました。 今思うと、仕事で起きたことと、自分自身の価値まで一緒にしてしまっていたんだと思います。 仕事で失敗したら、「私ってダメなのかな」。 誰かにきつく言われたら、「私のやり方が悪かったのかな」。 そんなふうに、ひとつの出来事から自分全体を責めてしまう。 でも、 「今日、仕事でうまくいかなかった」 ということと、 「私はダメな人間だ」 ということは、別なんですよね。 そこを切り分けられるだけでも、少し気持ちが楽になることがあります。 だから私は、仕事の愚痴や悩みを話す時間って、ただストレスを吐き出すだけではないと思っています。 話しているうちに、 「私、本当は悔しかったんだ」 「そこが一番嫌だったんだな」 「辞めたいわけじゃなくて、今の状況がしんどいんだ」 なんて、自分の本当の気持ちに気づくこともあるんです。 最初から話をきれいにまとめなくても大丈夫。 「今日こんなことがあってさ……」から始まって、怒ったり、悔しがったり、途中で話が脱線したりしてもいい。 そうやって話しているうちに、頭の中でぐちゃぐちゃになっていたものが、少しずつ整理されていくことがあります。 そして、ひと通り話したら、 「よし、今日はもういいや」 と、いったん区切ってしまえばいいんです。 仕事は大切だけれど、仕事だけが自分のすべてではないですからね。 職場では頑張っている自分も、家に帰れば、好きなものを食べたり、音楽を聴いたり、ぼーっとしたりする普通の自分に戻っていい。 そのためにも、抱えているものを誰かに話して、少し外へ出してあげる。 私は、そんな時間があってもいいと思っています。 「こんなことで電話していいのかな?」 なんて心配しなくても大丈夫ですよ。 まとまっていない話でも、その日の愚痴だけでも大丈夫。 話し終わったときに、 「ちょっとスッキリしたな」 「明日は明日で、まあ何とかなるか」 そんなふうに思えたら、それで十分なんじゃないかな。 仕事を頑張っているあなたが、仕事の外では少し肩の力を抜いていられるように。 そんな時間を一緒につくれたら、嬉しいなと思っています(´▽`*)

    ・25.言葉がつっかえても、うまく話せなくても大丈夫。安心して話せる場所をつくりたい 2020年6月 〜 2020年7月

    言葉がつっかえる。 声を出そうとしているのに、なかなか出てこない。 頭の中にはちゃんと言いたいことがあるのに、言葉だけが出てこない。 そんな経験をすると、「話す」という、ごく普通のことが急に難しく感じられることがありますよね。 電話に出るのが怖くなったり、人と話すことに緊張したり。 「またつっかえたらどうしよう」 「うまく話せなかったらどうしよう」 そんなことを考えているうちに、話す前から身体に力が入ってしまうこともあると思います。 私自身、過去に職場の人間関係による強いストレスから、一時的に言葉が出にくくなった経験があります。 今は落ち着いていますが、そのときのことは今でも覚えています。 それまで普通にできていた「話す」ということが、思うようにいかなくなる。 声を出したいのに、うまく出てこない。 話さなくちゃと思うほど、余計に緊張してしまう。 その経験をして初めて、「話せることって、当たり前じゃなかったんだな」と感じました。 人と話すことって、普段はあまり意識しませんよね。 朝の「おはようございます」。 職場でのちょっとした会話。 誰かに電話をすること。 買い物をするときに店員さんと話すこと。 家族との何気ない会話。 そういうことが普通にできているときには、特別なことだとは思わないんです。 でも、言葉が思うように出てこなくなったとき、その「普通」がとても遠く感じることがあります。 そして、周りの人には分かりにくい苦しさもあると思うんです。 見た目には元気そうに見えても、本人の中では、 「ちゃんと話せるかな」 「変に思われないかな」 「聞き返されたらどうしよう」 そんな不安を抱えていることがある。 だから私は、この経験をしたからこそ、吃音のある方が安心して話せる場所を作りたいと思うようになりました。 もちろん、私は吃音の専門家でも、医療従事者でもありません。 吃音を治すことも、症状について専門的な判断をすることもできません。 そこは、きちんとお伝えしておきたいと思っています。 私ができるのは、専門的な治療ではなく、 「安心して話せる相手になること」 なんです。 言葉がつっかえても、急かさない。 途中で言葉が止まっても、待つ。 沈黙があっても、「早く話さなきゃ」と思わせない。 うまく話せなかったことを、失敗のように扱わない。 私は、そこを大切にしたいと思っています。 話すって、内容だけが大事なのではないんですよね。 「ちゃんと伝えられたか」だけではなく、 「安心して話せたか」 ということも、とても大切なんじゃないかなと思うんです。 だから、このサービスでは、吃音について話すことだけを目的にしていません。 仕事のことでもいい。 人間関係のことでもいい。 家族のことでもいい。 今日あった出来事でもいい。 誰かに聞いてほしかったことでもいいんです。 「実は今日、こんなことがあってね」 そんなところから始めてもらって大丈夫。 特別な相談じゃなくても構いません。 嬉しかったことを話したい日もあるでしょう。 ちょっと嫌なことがあって、誰かに聞いてほしい日もあるでしょう。 なんとなく寂しくて、誰かと話したい日だってあると思います。 そんなお話も、私は大歓迎です。 私は介護の仕事を長くしてきたこともあって、これまでいろいろな人のお話を聞く機会がありました。 そして、自分自身も、悩みや苦しさを抱えていた時期に、「話せる相手がいること」の大きさを感じてきました。 だから、何か特別な答えを用意して待っているわけではありません。 「こうしたほうがいいですよ」 「こう考えれば大丈夫ですよ」 と、すぐに答えを出そうとも思っていません。 まずは、その人が話したいことを、その人のペースで話してもらう。 私は、その時間を一緒に過ごしたいと思っています。 吃音があると、人との会話そのものに疲れてしまうこともあるかもしれません。 話す前から、 「ちゃんと話さなくちゃ」 と考えてしまう。 言葉がつっかえたらどうしようと思って、電話をかけること自体をためらってしまう。 本当は誰かと話したいのに、話すことが怖くなってしまう。 そういう気持ちも、私は無理に変えようとは思いません。 「電話してみようかな」 と思ったときに、 「でも、うまく話せないかもしれないし……」 と迷う気持ちがあってもいい。 そのうえで、もし一度話してみようと思ってくださったなら、私はできるだけゆっくりお待ちしたいと思っています。 言葉が出てくるまでの時間も、その人の大切な時間ですから。 急かされることなく話せるだけで、少し違うと感じる方もいるかもしれません。 そして、もし途中で言葉に詰まってしまっても、 「ちゃんと話さなきゃ」 と頑張りすぎなくて大丈夫です。 言葉が出てくるまで待ちます。 沈黙があっても大丈夫。 話すことが途切れてしまっても、またそこから始めればいいんです。 私は、「上手に話せたかどうか」だけで、その人の話す時間を判断したくありません。 一生懸命言葉にしようとしていること。 伝えたいと思っていること。 話してみようと思って電話をしてくださったこと。 それだけでも、十分大切なことだと思っています。 そして、私自身の経験について聞いてみたいという方には、ご希望があれば、私が一時的に言葉が出にくくなったときのことをお話しすることもできます。 もちろん、私の経験がそのまま誰かに当てはまるとは思っていません。 吃音の症状や悩みは、人によって違います。 だから、「私もこうだったから、あなたもこうですよ」と決めつけるようなことはしたくないんです。 ただ、 「言葉が出ないって、こういう苦しさもあるんだよね」 と感じた経験を持つ一人として、そばにいることはできると思っています。 私自身も、言葉がうまく出てこなかったときには、 「普通に話せるようにならなくちゃ」 という気持ちがありました。 でも、今振り返ると、あの経験があったからこそ、人が話すことの難しさを少し考えられるようになったと思っています。 話したいことがあるのに、言葉にならない。 言いたいことは頭にあるのに、声にならない。 そんなときって、本人が一番もどかしいんですよね。 周りから見れば、ほんの少し言葉がつっかえただけに見えるかもしれない。 でも本人にとっては、その一瞬がとても長く感じられることもある。 だから私は、その一瞬を急かしたくないんです。 「大丈夫、大丈夫」と簡単に片づけるのではなく、 「ゆっくりでいいですよ」 という気持ちで待っていたい。 それが、このサービスを作ろうと思った一番大きな理由かもしれません。 そして、もうひとつ。 私は、吃音のことだけを話す場所にしたくないと思っています。 「今日は仕事で嫌なことがあった」 「家族とちょっと揉めちゃって」 「最近、なんだか気持ちが落ち込む」 「誰かと話したかっただけ」 そんな話でもいいんです。 むしろ、そういう何気ない話をしているうちに、少しずつ緊張がほどけることもあると思います。 電話だからこそ、顔を合わせなくていい。 その場でうまく話そうとしなくてもいい。 言葉が止まってしまったら、少し待って、また続ければいい。 そんなふうに、自分のペースで話せる時間を作れたらと思っています。 私は、このサービスを「たくさん売れたらいいな」と思って作ったわけではありません。 もちろん、必要としてくださる方がいれば嬉しいです。 でも、それ以上に、 「いつか、このサービスを必要としている人に見つけてもらえたらいいな」 という気持ちがあります。 吃音について、普段はなかなか人に話せない方もいるかもしれません。 「分かってもらえないだろうな」と、話すこと自体を諦めている方もいるかもしれません。 そんな方が、たまたまこのページを見つけて、 「ここなら、ちょっと話してみてもいいかも」 と思ってくださったら、それだけでも私は嬉しいんです。 話すことに自信がなくても大丈夫。 言葉がつっかえても大丈夫。 途中で沈黙しても大丈夫。 涙が出てしまっても大丈夫。 今日あったことを話すだけでも大丈夫です。 うまく話すことよりも、 「話してみよう」 と思えたことを、私は大切にしたいと思っています。 もし電話をかけること自体に少し勇気が必要だったとしても、その勇気を出してくださったことまで含めて、ゆっくり受け止めたい。 そして電話を切るときに、 「ちゃんと話せたかな」 ではなく、 「話してみてよかったな」 と思ってもらえたら。 それが私にとっては、一番嬉しいことです。 吃音のことでも、それ以外のことでも構いません。 誰かに話を聞いてほしいと思ったときに、ふと思い出してもらえるような場所。 そんな電話相談でありたいと思っています。 初めての方も、1分からお気軽にお電話くださいね。 あなたのペースで大丈夫です。 言葉が出てくるまで、ゆっくり待っています。 心の扉を開いて、あなたをお待ちしています♪ ✼••┈┈┈┈┈••✼ そして、電話で話すことに少しハードルを感じる方のために、チャットでお話を聞くサービスも作っています。 吃音がある方の中には、 「電話だと緊張してしまう」 「言葉につまったらどうしよう」 「相手を待たせたら申し訳ない」 そんな気持ちから、誰かに話したくてもなかなか話せない方もいると思うんです。 そんなときは、無理に電話を選ばなくても大丈夫。 文字なら、自分のペースで考えながら伝えることができます。 すぐに文章がまとまらなくてもいいですし、途中で考える時間があっても大丈夫。 「今日はちょっと疲れました」 そんな一言から始めてもいいんですよ。 そこから少しずつ話していけばいいんです。 電話ではうまく言えなかったことも、文字にすると伝えやすくなることがあります。 何度か書き直しているうちに、 「私、本当はこう思っていたんだ」 と、自分の気持ちに気づくこともあるかもしれません。 もちろん、吃音のことだけではありません。 仕事のこと、人間関係、家族のこと、日々のモヤモヤなど、どんなお話でも大丈夫です。 私は、電話でもチャットでも、上手に話すことや、きれいな文章を書くことを求めたいわけではありません。 伝えたいことが、少しずつでも届けば十分です。 「電話はまだちょっと怖いけれど、文字なら話してみようかな」 そんな気持ちからでも大丈夫ですよ。 話すことが苦手だからこそ、誰にも言えずに抱えていることもあると思います。 そんな気持ちを安心して置いていける場所になりたいと思っています。 電話でも、チャットでも、そのときの自分に合った方法で ゆっくり自分のペースでお話ししてくださいね。 「話してみてよかった」 そんな時間になったら嬉しいです (´▽`*)

    ・26.「今日は家に帰りたくない」そんな日があってもいい 2020年7月 〜 2020年8月

    「今日は、家に帰りたくないな……」 そんなふうに思ったこと、ありませんか? 仕事が終わった。 もう帰る時間。 なのに、なぜかすぐには家に向かいたくない。 コンビニに寄って、必要のないものまで眺めてみたり。 車の中でしばらくスマホを見ていたり。 ちょっと遠回りしてみたり。 「もう少しだけ、ここにいたい」 そんなふうに思ってしまう。 以前、「家に帰りたくないおじさんが、コンビニで時間をつぶしてから帰る」なんて話を聞いたことがあります。 最初はちょっと笑ってしまうような話だけれど、よく考えてみると、これって男性だけの話じゃないんですよね。 「一人になりたいお母さん」だっている。 「誰とも話したくないお父さん」だっている。 「夫婦で顔を合わせる前に、少しだけ気持ちを整えたい」という人もいる。 家族が嫌いなわけじゃない。 家に帰りたくないほど、家族を大切に思っていないわけでもない。 むしろ、毎日家族のことを考えて、頑張っているからこそ、 「今だけは、誰にも何も言われたくない」 と思うことがあるんじゃないかなと思うんです。 家に帰れば、 「おかえり」 と言われる。 ご飯のことを考える。 子どもの話を聞く。 夫や妻との会話がある。 洗濯物が待っている。 片づけることもある。 明日の予定も考えなくちゃいけない。 家族にとっては、いつもの何気ない日常。 でも、その「いつもの日常」を回すために、誰かが頑張っているんですよね。 仕事から帰ってきたら、今度は家族のための時間。 お母さんなら、仕事を終えてから母親になる。 妻なら、仕事を終えてから妻になる。 お父さんなら、仕事を終えてから父親になる。 もちろん、家族と過ごすことが嬉しい日もあります。 子どもの話を聞くのが楽しみな日もある。 夫や妻と笑って過ごせる日もある。 家に帰ってホッとすることだって、きっとあるでしょう。 でも、毎日そうとは限らないんですよね。 仕事で嫌なことがあった日。 人間関係で疲れ切った日。 何か失敗して落ち込んでいる日。 体調がいまひとつの日。 理由はよく分からないけれど、とにかく疲れている日。 そんな日に、 「さあ、家に帰ったら家族のためにもうひと頑張り!」 なんて、なかなかできないものだと思うんです。 本当は、玄関を開ける前に、 「ちょっとだけ一人にして」 と言いたい。 誰にも話しかけられず、誰のことも考えず、ただぼーっとしたい。 それだけなのに、その時間がなかなか持てない。 だから、コンビニに寄ってしまう。 車の中で時間をつぶしてしまう。 スーパーを意味もなく一周してしまう。 トイレに入って、少し長めに座ってしまう。 そんなことだって、あるかもしれません。 私は、こういう時間を「サボっている」とは思わないんです。 もしかしたら、その人にとっては、やっと自分に戻れる時間なのかもしれない。 家族のために頑張る人ほど、自分ひとりの時間が後回しになりやすいですからね。 「家族がいるんだから、一人になりたいなんて思っちゃいけない」 「母親なんだから、そんなこと言っていられない」 「父親なんだから、弱音を吐いちゃいけない」 「妻なんだから、ちゃんとしなくちゃ」 「夫なんだから、しっかりしなくちゃ」 そんなふうに、自分で自分に役割を背負わせてしまうこともあると思います。 でも、役割を持っている人だって、一人の人間です。 疲れることもある。 イライラすることもある。 何もしたくない日もある。 誰とも話したくない日だってある。 家族に優しくできない自分を見て、 「私って冷たいのかな」 と落ち込んでしまうこともあるかもしれません。 でもね。 家族にイライラしたからといって、家族を愛していないとは限らないんですよね。 一人になりたいからといって、家族から離れたいわけでもない。 「少し休みたい」と思うことと、「家族が大切」という気持ちは、ちゃんと両方あっていいんです。 ここは、私自身も大事にしたいと思っています。 人って、心に余裕がなくなってくると、普段なら流せることまで気になってしまいます。 いつもなら何とも思わない家族の一言に、イラッとしてしまう。 子どものちょっとした態度に腹が立つ。 夫や妻の何気ない言葉が、妙に引っかかる。 そして、 「なんでこんなことで怒ってるんだろう」 と、今度は自分を責めてしまう。 でも、そのとき必要なのは、「もっと優しくしなきゃ」と自分に言い聞かせることではなくて、 「ちょっと疲れてるんだな」 と気づくことなのかもしれません。 心の余裕って、使えば減っていくものだと思うんです。 仕事で使う。 家族のために使う。 人間関係で使う。 誰かの心配をして使う。 そうやって一日を過ごしていたら、夜にはもう残っていないことだってありますよね。 そんな状態で、さらに「ちゃんとしなきゃ」と自分を追い込んだら、苦しくなってしまいます。 だからこそ、私は「話す時間」があってもいいと思っています。 家族には言えないこと。 友達には言いにくいこと。 職場の人には絶対に言えないこと。 「こんなことを言ったら、家族を悪く言っているみたいで嫌だな」 と思うこと。 そういうものを、いったん外に出してしまう。 「もう疲れた!」 「今日は家に帰りたくない!」 「一人になりたい!」 「もう誰にも気を遣いたくない!」 そんな言葉が出てきても大丈夫です。 きれいな言葉にしなくてもいい。 家族への不満が混ざっていてもいい。 自分でも整理できていない気持ちでもいい。 まずは、そのまま話してみる。 それだけでも、少し違うことがあります。 私は20年間、介護の仕事を通して、高齢者の方やそのご家族のお話を聞いてきました。 そして、私自身も妻として、母として、娘として、いろいろな役割を経験してきました。 夫婦のこと。 子どものこと。 親の介護。 家族の心配。 自分のことで精いっぱいなのに、家族のことまで考えなくてはいけない時期もあります。 だから、 「もう一週間くらい、一人になりたい!」 なんて気持ちになることも、私はそんなに不思議なことだとは思わないんです。 本当に一週間、一人になれるかどうかは別として(笑)。 そう思うくらい疲れているんだな、と受け止めてあげてもいい。 「家族から離れたい」 という言葉の奥には、 「ちょっと休みたい」 「誰かに気を遣わずにいたい」 「自分のことも少し考えたい」 という気持ちが隠れていることもありますから。 そして、話しているうちに、 「私、家族が嫌だったんじゃなくて、ずっと一人になる時間がなかったんだ」 と気づくこともあるかもしれません。 そうすると、見えてくるものが少し変わることがあります。 家族をどうするか。 夫婦をどうするか。 子どもにどう接するか。 そういう大きな答えを、すぐに決めなくてもいいんです。 まずは、 「今の私は、何が一番しんどいんだろう」 と、自分の気持ちを少し眺めてみる。 そのために誰かと話す時間があってもいいと思っています。 私は電話相談で、無理に励ましたり、説教したり、正論を言ったりするつもりはありません。 「家族なんだから大切にしなきゃ」 「そんなことくらいで怒っちゃダメ」 「もっと頑張って」 なんて言われたら、余計に苦しくなることもありますよね。 そうではなくて、 「今日は本当に疲れたんですね」 と、まずその気持ちを受け止めたい。 「それは嫌だったよね」 「そこまで頑張っていたんだね」 そんなふうに、一緒に話しながら、少しずつ心の中を整理していけたらと思っています。 電話をかけたとき、 「何から話せばいいか分からない」 となっても大丈夫です。 最初の一言が、 「はぁ〜、もう疲れました……」 でもいいんです。 「今日、家に帰りたくなくて」 でもいい。 「もう誰とも話したくないんです」 でもいい。 そこから始めましょう。 途中で話が変わってもいいし、同じことを何度も言ってもいい。 怒っていても、泣いていても、笑っていても大丈夫。 私は、話しながら気持ちが少しずつほどけていく時間を大切にしたいと思っています。 もしかしたら、電話を切ったあとに、家に帰りたくない気持ちが完全になくなるわけではないかもしれません。 でも、 「まあ、帰るか」 と、少しだけ肩の力が抜けるかもしれない。 「今日は帰ったら、何もせず少し休もう」 と思えるかもしれない。 「明日のことは、明日考えればいいか」 となるかもしれない。 それだけでも、私は十分だと思っています。 家族を大切にするためにも、自分の心がカラカラになるまで頑張り続けなくていい。 一人になりたいと思った自分を、責めなくていい。 家族が好きなのにイライラしてしまう自分も、嫌いにならなくていい。 人間だから、そんな日もあります。 家に帰る前にコンビニに寄ってしまう日があってもいい。 車の中で一人になる時間が必要な日もあっていい。 そして、もしその時間さえなかなか作れないなら、電話で少しだけ誰かに話してみるという方法もあります。 家族の前では言えない言葉を、ここではそのまま出して大丈夫です。 「もう無理!」 「疲れた!」 「一人になりたい!」 そんな言葉も、ちゃんと聞きます。 話したあとに、少し呼吸がしやすくなって、 「もうちょっとだけ、やってみようかな」 と思えたら、それで十分。 頑張るために話すのではなく、頑張っている自分を少し休ませるために話す。 私は、そんな電話相談でもいいと思っています。 家族のために頑張っているあなたが、ほんの少しだけ「自分」に戻れる時間。 そんな時間を、一緒につくれたら嬉しいです。 今日は家に帰りたくない。 今日は一人になりたい。 そう思ったら、まずはその気持ちを私に聞かせてくださいね。 「はぁ〜、もう疲れました……」 その一言からで大丈夫です。 あなたの心の荷物、ここに少し置いていってください。 電話を切る頃には、ほんの少しでも心が軽くなっていますように。 心を休ませる場所として、あなたのお電話をお待ちしています。

    ・27.話すだけで、心に少し余白ができる。そんな場所をつくりたい 2020年8月 〜 2020年9月

    「誰かに話を聞いてほしいな」 そんなふうに思うことって、ありませんか? 何か大きな問題が起きたわけじゃない。 でも、なんとなくイライラしている。 寂しい。 落ち込んでいる。 誰かと話したい。 だけど、家族や友達に話すほどでもないような気もする。 そんなときって、意外とありますよね。 反対に、 「これは、さすがに誰にも言えないな」 と思うようなこともある。 家族には言えない話。 友達には心配をかけたくない話。 職場では絶対に言えない話。 自分でも「こんなことを考えるなんて、性格が悪いのかな」と思ってしまうような気持ち。 そんなものを、心の中にしまったまま過ごしている人も、きっとたくさんいると思うんです。 私は、そんなときに気軽に話しに来てもらえる場所を作りたいと思っています。 「今日はこんなことがあったんだよ」 という軽い話でもいい。 「もう、今日は最悪だった!」 という愚痴でもいい。 「実は誰にも言えないことがあって……」 という話でもいい。 泣いてもいいし、怒ってもいい。 話があちこちに飛んでもいい。 何を話したいのか自分でもよく分からなくても、大丈夫。 まずは、そのまま話してみてほしいんです。 私は、これまで20年間、介護の仕事をしてきました。 特別養護老人ホーム、デイサービス、グループホームなど、いくつかの現場を経験し、ケアマネジャーとして仕事をしていた時期もあります。 介護の仕事をしていると、ご利用者さんのお話だけではなく、ご家族のお話を聞く機会もたくさんあります。 介護の方法について相談されることもありますし、 「もう疲れちゃった」 「どうしたらいいのか分からない」 と、ご家族の気持ちを聞くこともありました。 そんな中で、何度も感じたことがあります。 人って、話を聞いてもらうだけでも、少しずつ表情が変わっていくんですよね。 最初は険しい顔をされていた方が、話しているうちに少し笑顔になる。 辛そうにされていた方が、話し終わる頃には、少し落ち着いた表情になる。 もちろん、話をしたからといって、介護の大変さそのものがなくなるわけではありません。 抱えている問題が、電話一本で解決するわけでもない。 それでも、話す前と話した後では、心の状態が少し違っている。 私は、そんな場面を何度も見てきました。 そして、それは介護だけの話ではないと思うようになったんです。 仕事でも、人間関係でも、夫婦のことでも、子どものことでも。 日常の中で起こることって、すぐには変えられないものが多いですよね。 相手を変えることもできない。 家族の状況を、今日いきなり変えることもできない。 職場の人間関係だって、自分ひとりの力ではどうにもならないことがあります。 だから私は、 「問題をすぐに解決すること」 よりも、 「まず心に少し余白を作ること」 が大切なときもあるんじゃないかなと思っています。 心がパンパンになっているときって、目の前のことしか見えなくなります。 「もう無理」 「どうしたらいいの?」 「この先どうなるんだろう」 そんな考えで頭の中がいっぱいになる。 でも、誰かに話して少し外へ出すと、ほんの少しだけ余白ができることがあります。 すると、その余白に安心が入ってくることがある。 ちょっと元気が戻ってくることもある。 今まで思いつかなかったことが、ふっと浮かぶこともある。 「あれ? 私、こうしたかったのかも」 と、自分の気持ちに気づくことだってあります。 私は、この「余白」がとても大切だと思っているんです。 答えを誰かからもらうのではなく、自分の中にあるものが見えてくる。 それが、話すことの面白いところでもあると思っています。 私自身も、これまでの人生で、いろいろな人に話を聞いてもらってきました。 辛い出来事があったとき。 どうしたらいいのか分からなかったとき。 気持ちがぐちゃぐちゃになっていたとき。 誰かに話を聞いてもらうと、 「そうか、私ってこう思っていたんだ」 と気づくことがありました。 話をしているうちに、頭の中が整理されていく。 少し心が軽くなる。 そして、 「じゃあ、もう少しやってみようかな」 と、また一歩進む力が湧いてくる。 私は、そんな経験を何度もしてきました。 だからこそ、今度は私が誰かの話を聞く側になりたいと思ったんです。 もちろん、私にも人に言えないような気持ちを抱えていたことがあります。 たとえば、認知症の親を介護しているとき。 大切な親だから、優しくしたい。 そう思っているのに、疲れ切ってしまうと、どうしても複雑な気持ちが出てくることがあります。 「もう疲れた」 「一人になりたい」 「なんで私ばっかり」 そんな気持ちが浮かんできても、不思議ではないんですよね。 でも、そんなことを口にすると、 「親を大切に思っていないみたい」 と思われそうで、言えなくなる。 自分自身でも、 「こんなことを考える私はダメなんじゃないか」 と責めてしまう。 でも、人の心って、そんなにきれいなものだけではないと思うんです。 好きだけど腹が立つ。 大切だけど疲れる。 心配だけど、もう放っておいてほしいと思う。 嬉しいことがあったのに、素直に喜べない。 そんな相反する気持ちが、一緒に存在することだってあります。 だから私は、ここでは無理にきれいな気持ちだけを話してほしいとは思っていません。 「こんな汚い言葉、誰にも言えない」 そんな言葉でも大丈夫。 「こんなことを考えているなんて、自己中心的だと思われそう」 という気持ちでも大丈夫です。 話したからといって、その気持ちを持ったまま何か行動しなくてはいけないわけではありません。 ただ、 「私は今、こう感じているんだな」 と外に出してみる。 それだけでもいいんです。 仕事で理不尽なことを言われた日だって、 「もう、あの上司、本当に腹が立つ!」 と言っていい。 家族のことで疲れた日には、 「もう今日は誰のことも考えたくない!」 と言っていい。 夫婦関係でモヤモヤしているなら、そのモヤモヤをそのまま持ってきていい。 介護のことで限界を感じているなら、 「もう無理!」 と吐き出していい。 私は、その言葉を聞いて、 「でも、家族なんだから」 「そんなふうに考えちゃダメ」 なんて言うつもりはありません。 まずは、 「そう思うほど、しんどかったんだね」 と受け止めたい。 そこから、ゆっくり話していけばいいと思っています。 そして、このサービスは、重たい話だけの場所でもありません。 「今日、こんなことがあってね」 という普通の日常の話も大歓迎です。 嬉しかった話でもいい。 自慢話でもいい。 最近ハマっている趣味の話でもいい。 テレビで見たことでも、買ってよかったものでも、今日食べたものでも。 「ちょっと誰かに話したかっただけ」 そんな電話があってもいいと思っています。 人って、悩みがあるときだけ誰かを必要とするわけじゃないですからね。 嬉しいことがあったときに、 「聞いて、聞いて!」 と言いたくなることもある。 面白いことがあったら、誰かと笑いたくなる。 何となく寂しい夜に、少し誰かの声を聞きたくなる。 そんな時間も、大切な時間だと思っています。 だから、この電話では「相談らしい相談」を用意してこなくても大丈夫。 何を話すか決めてから電話をしなくてもいいんです。 電話をかけてから、 「何から話そうかな……」 と考えてもいい。 最初の一言が、 「なんとなく電話しちゃいました」 でも大丈夫。 そこから一緒に話していきましょう。 私は、電話の向こうで先生のように座っているわけではありません。 「こうしたほうがいいですよ」 と答えを渡す人でもありません。 ベンチで隣に座って、 「それで、それからどうなったの?」 と話を聞くような、そんな存在でいたいと思っています。 話しているうちに、心の中にあったものが少しずつ出てくる。 自分でも気づかなかった気持ちが見えてくる。 そして、電話を切る頃には、 「ちょっとスッキリしたな」 「なんか笑えたな」 「もう少しやってみようかな」 そんなふうに思えたら嬉しい。 日常そのものを、私が変えることはできません。 介護も、人間関係も、家族のことも、明日になればまた続いていくでしょう。 でも、同じ日常でも、心に少し余白があるだけで、見え方が変わることがあります。 いっぱいになった心に、少し空間ができる。 そこに安心が入ってくる。 元気が少し戻ってくる。 笑顔が戻ってくる。 そして、自分の中から何かが見えてくる。 私は、その時間を一緒につくりたいんです。 だから、 「こんなことで電話していいのかな」 なんて思わなくて大丈夫ですよ。 イライラしているなら、そのまま。 落ち込んでいるなら、そのまま。 寂しいなら、そのまま。 黒い気持ちを抱えているなら、それもそのまま。 逆に、 「今日はちょっと嬉しいことがあって」 という日も、もちろん大歓迎です。 どんな話でも、その日のあなたのままで来てください。 私は、あなたの話をじっくり聞きます。 話すことで心に少し余白ができて、その余白から、安心や元気や笑顔が戻ってくる。 そんな時間を、これからも届けていきたいと思っています。 「今すぐ誰かに話を聞いてほしい」 「何となく誰かと話したい」 「家族や友達には言えないことがある」 「今日は一人でいるのがちょっとつらい」 そんなときは、いつでも来てくださいね。 最初の一言は、 「ちょっと聞いてほしいんです」 それだけで十分です。 話し終わったとき、少し心が軽くなって、 明日をほんのちょっと「ご機嫌」に過ごせますように。 そんな時間を、心を込めてお届けしたいと思っています。

    ・28.愚痴を言いたくなる自分を、そんなに責めなくてもいい 2020年9月 〜 2020年10月

    ※愚痴を言いたくなる自分を、そんなに責めなくてもいい※ 「もう、あの人にはイライラする!」 「なんで私ばっかり……」 「誰かに愚痴を聞いてほしい!」 そんなふうに思うことって、ありますよね。 職場の人間関係、家族のこと、友達との関係。 誰かの言葉や態度にモヤッとしたり、 「なんでそんな言い方するの?」 「こっちはちゃんとやってるのに」 「もう知らない!」 なんて、頭の中で同じことを何度も繰り返してしまう。 そして、ひとしきり腹を立てたあと、 「こんなことを考える私は性格が悪いのかな」 と、今度は自分を責めてしまう。 これって、結構しんどいんですよね。 私は、愚痴を言いたくなること自体は、そんなに悪いことではないと思っています。 だって、人間ですから。 腹が立つこともある。 悔しいこともある。 納得できないこともある。 「もう嫌だ!」って叫びたくなる日だってある。 それくらい、あっていいんじゃないかなと思うんです。 ◆愚痴がたまるのは、心が頑張っているからかもしれない 私は長く介護の仕事をしてきました。 いろいろな方と接する中で感じてきたのは、人って外から見えている姿だけでは、本当のところはわからないということです。 いつも明るく話している人が、心の中では悩んでいることもある。 「大丈夫です」と笑っている人が、本当は大丈夫じゃないこともある。 だから私は、愚痴を言いたくなることも、心からのサインの一つなんじゃないかなと思っています。 たとえば、仕事で嫌なことがあったとします。 上司から納得できないことを言われた。 同僚の態度に腹が立った。 自分ばかり仕事を押し付けられている気がする。 一生懸命やっているのに、誰にもわかってもらえない。 その場では、 「まあ、仕方ないか」 「仕事だからね」 と飲み込む。 家に帰っても、 「もう終わったことだから」 と考えないようにする。 そうやって毎日を回しているうちに、心の中には少しずつ「言いたかったこと」がたまっていきます。 そして、ある日ふと、 「あー、もう無理!」 となる。 私は、こういうときの愚痴って、 **心のゴミ箱がいっぱいになっているサイン** みたいなものだと思うんです。 ゴミがたまれば、ゴミ箱を空にしたくなる。 部屋にホコリがたまれば、掃除したくなる。 それと同じように、心にも「そろそろ外に出したいよ」というものがたまることがある。 だから、 「愚痴を言いたい」 と思ったときは、 「あ、ちょっと心にたまってきたんだな」 くらいに考えてみてもいいんじゃないかなと思います。 ◆「悪口を言いたい」と思う自分も、いていい もちろん、誰かを傷つける行動をしていい、という話ではありません。 でも、 「もう、あの人ほんっとに腹立つ!」 「なんで私ばっかり気を遣わなきゃいけないの!」 「本当にムカつく!」 そんな気持ちを、誰かに聞いてもらうことまで悪いことにしなくてもいいと思っています。 「そんなこと言っちゃダメ」 と最初から蓋をしてしまうと、感情そのものが消えるわけではないんですよね。 むしろ、 「あのとき、ああ言われた」 「やっぱりあれは腹が立つ」 と、頭の中で何度も繰り返してしまうことがあります。 それなら、一度ぜんぶ外に出してみる。 まとまっていなくてもいい。 きれいな言葉にする必要もない。 「聞いて!今日こんなことがあったの!」 から始めてもいいんです。 ◆ 愚痴の奥に、本当の気持ちが隠れていることもある 愚痴を話しているうちに、 「本当は悔しかったんだ」 「私だって頑張っているのに、認めてもらえないのが悲しかったんだ」 「ずっと我慢していたんだな」 なんて、自分でも気づかなかった気持ちが見えてくることがあります。 「腹が立つ」の奥に、「わかってほしい」があることもある。 「もうあの人と関わりたくない」の奥に、「これ以上傷つきたくない」があることもある。 「仕事なんて辞めたい!」の奥に、「少し休みたい」があることもある。 だから私は、愚痴を単純に「ネガティブなもの」とは考えていません。 そこには、その人が今どんなことで苦しくなっているのかを教えてくれるものが入っていることもあると思うんです。 まずは出してみる。 出してみてから、 「あれ?私、本当はこう思っていたのかも」 と気づく。 そんなことがあってもいいですよね。 ◆ ちゃんと話そうとしなくて大丈夫 誰かに話を聞いてもらうとき、 「ちゃんと説明しなきゃ」 と思ってしまう方もいると思います。 でも、愚痴って、そんなにきれいに整理されているものじゃないですよね。 「えーっと、どこから話そう……」 「とにかく腹が立って!」 「そうそう、それでね!」 と、話が行ったり来たりする。 それでいいと思うんです。 だから、 「とにかく聞いて!」 でいい。 「今日こんなことがあった!」 でいい。 「もう、めちゃくちゃ腹が立つ!」 だけでもいい。 私は、そういう話を聞く時間も大切だと思っています。 ◆ 「吐き出す」は、心の掃除 私は「吐き出す」という言葉が好きです。 でも、 **掃き出す=吐き出す** と考えると、少しイメージしやすいかもしれません。 部屋を掃除するとき、ホコリを奥に追いやるだけでは、きれいになりません。 外へ掃き出していく。 心も同じで、 「考えないようにしよう」 「気にしないようにしよう」 「もう忘れよう」 と押し込むだけでは、なかなか難しいことがあります。 だったら、一度外に出してみる。 「私はこんなことが嫌だった!」 「こんな言い方されて腹が立った!」 「本当はずっと我慢してた!」 そうやって吐き出していく。 全部を一度にきれいにしなくても大丈夫。 少しずつでもいいんです。 話しているうちに、 「あれだけ腹が立っていたのに、ちょっと落ち着いてきた」 と感じることもあるかもしれません。 そして、心に少し空きスペースができる。 私は、その「空き」が大事なんじゃないかなと思っています。 ◆ 私自身も、いろいろな気持ちを抱えてきました 私自身も、これまでの人生で、 「もう無理!」 と思うことをいろいろ経験してきました。 家族のこと、仕事のこと、人間関係のこと。 介護の仕事を長く続けてきた中でも、 「どうして私が……」 と思うようなことがありました。 それでも、そのたびに誰かに話を聞いてもらったり、家族や身近な人に話したりすることで、 「そうか、私はこんなふうに感じていたんだ」 と気づくことがありました。 話したからといって、相手や環境がすぐに変わるわけではありません。 でも、自分の中にたまっていたものを外へ出すだけで、 「ちょっとだけ楽になった」 と思えることがあるんですよね。 そして、その「ちょっと」が案外大事だったりします。 「明日もあの人と顔を合わせなきゃ……」 と、どんよりしていた気持ちが、 「まあ、明日は明日だな」 に変わることもある。 問題そのものは同じでも、自分の心の状態が少し変わる。 私は、そこに「話すこと」の力があると思っています。 ◆ 愚痴だけじゃなくても大丈夫 もちろん、 「なんとなく誰かと話したい」 「今日あったことを聞いてほしい」 「ちょっと聞いてほしい自慢がある!」 そんなお話も大歓迎です。 愚痴を言うためだけの場所ではありません。 「ねえねえ、聞いてよ!」 と誰かに話したくなる日がありますよね。 それが嫌な話の日もあれば、嬉しい話の日もある。 今日は頑張ったから褒めてほしい。 こんなことがあって嬉しかった。 最近こんなことにハマっている。 そんな話だっていいんです。 心にたまっているものを外へ出す場所。 そして、ちょっとした嬉しいことを誰かと分け合う場所。 そんな場所があってもいいと思っています。 ◆ 「愚痴を言う相手」がいないときは 家族には言えない。 友達にも言いにくい。 職場の人には、もちろん言えない。 でも、頭の中ではずっと考えてしまう。 そんなときは、 「ここだけで吐き出そう」 と思ってもらって大丈夫です。 きれいな言葉にしなくていい。 「ムカつく!」 でもいい。 「もう嫌!」 でもいい。 「私、性格悪いかもしれないけど……」 から始まってもいい。 私は、その気持ちをじっくり聴きます。 説教したり、正論をぶつけたり、無理に前向きにしたりするための時間ではありません。 まずは、話す。 吐き出す。 心の中を少し掃除する。 それでいいと思っています。 ◆ 最後には、少しだけ笑えたらいい 愚痴を話したあと、 「なんかスッキリした!」 「いっぱい言っちゃった(笑)」 「ちょっと元気になった」 そんなふうに思ってもらえたら嬉しいです。 「ご飯がおいしく食べられそう」 「今日はもう寝ようかな」 「明日から、また少し頑張ってみようかな」 そんな小さな変化でいいんです。 人生の問題を全部解決しなくてもいい。 職場の人間関係を今日一日で変えなくてもいい。 まずは、重たくなっていた心を少し軽くする。 そのために、ここで思いっきり吐き出してみませんか? 「こんなこと言っていいのかな」 と思うことほど、誰かに聞いてもらうことで楽になることがあります。 全部話さなくても大丈夫。 話したくなったところからでいい。 言葉がまとまらなくてもいい。 私は、あなたの話をじっくり聴きます。 「はぁ〜、もう疲れた!」 と言ったあとに、 「でも、ちょっとスッキリしたかも」 と笑えたら。 それだけでも、十分だと思うんです。 ここは、そんなふうに心の掃除をする場所。 どんな愚痴も、どんな不満も、そのまま持ってきてくださいね。 あなたが少し肩の力を抜いて、また自分の日常へ戻っていけるように。 私は、ここでお待ちしています(^-^)

    ・29.復縁を願うあなたへ。まずは、その胸の痛みを話してください 2020年10月 〜 2020年11月

    「もう一度だけ、あの人と笑い合いたい……」 「LINEの返信が来ないだけで、胸が押し潰されそう」 「あの時、あんなことを言わなければよかった」 今、あなたは一人で深く傷つき、出口の見えない暗闇の中にいるのかもしれません。 大好きな人との関係が壊れてしまった時って、本当に苦しいですよね。 何度スマホを見ても連絡は来ない。 相手のSNSを何度も確認してしまう。 過去のLINEを読み返して、「あの時、違う言い方をしていたら」と後悔する。 頭では「考えすぎないようにしよう」と思っても、気がつけばまた相手のことを考えている。 そんな夜を、一人で過ごしていませんか? ✼••┈┈┈┈••✼ 私自身、かつて夫の不倫による突然の離婚という、人生最大の痛みを経験しました。 「お前はもう必要ない」と拒絶され、3人の子供のうち下の子がまだ1歳の時、信じていた日常は一瞬で崩れ去りました。 心は引き裂かれ、息をするのも苦しいほどの絶望と孤独。 「どうしてこうなったんだろう」 「私がもっと何かできたんじゃないか」 「この先、どうすればいいんだろう」 そんなことを何度も考えました。 もちろん、夫婦関係の離婚と恋愛の復縁では、状況は違います。 それでも、大切な人との関係を失うかもしれない時に感じる、胸が締め付けられるような苦しさ、後悔、寂しさ。 私は、その痛みを知っています。 だから、今あなたが抱えている気持ちを「そんなことで悩まなくても」と簡単に片づけたくありません。 「まだ好き」 「会いたい」 「戻りたい」 「諦めたくない」 「もう一度だけ話したい」 そんな気持ちがあってもいいんです。 反対に、「もう疲れた」「本当は少し離れたい」と思う瞬間があってもいい。 気持ちは、いつも一つとは限りません。 好きなのに腹が立つ。 会いたいのに怖い。 復縁したいのに、また傷つくのが怖い。 そんな矛盾も含めて、今のあなたなんだと思います。 ✼••┈┈┈┈••✼ 復縁を願っている時、一番つらいのは「相手の気持ちがわからないこと」かもしれません。 「まだ私のことを好きなのかな」 「もう気持ちはないのかな」 「連絡したら迷惑かな」 「待っていたら戻ってきてくれるかな」 答えが見えないからこそ、不安はどんどん膨らみます。 そして不安が大きくなると、 「今すぐ何かしなきゃ」 「このままじゃ忘れられてしまう」 「もう一度連絡したほうがいい」 と、焦ってしまうこともありますよね。 でも、心がいっぱいいっぱいの時って、自分が本当に望んでいることさえ見えにくくなるものです。 だから私は、まず「どうすれば復縁できるか」を考える前に、あなたの心にあるものを全部出してほしいと思っています。 泣きたいなら、泣いていい。 悔しいなら、悔しいと言っていい。 「私ばかり好きなのが悔しい」 「相手にも後悔してほしい」 「できれば向こうから連絡してきてほしい」 そんな、少し言いにくい気持ちだって大丈夫。 人には見せられない本音ほど、一人で抱えていると苦しくなるからです。 ここでは、きれいな言葉にまとめなくて大丈夫です。 ✼••┈┈┈┈••✼ そして、話していくうちに、最初は見えていなかった気持ちが出てくることがあります。 「私は本当に、あの人とやり直したいのかな?」 「それとも、あの頃の幸せを取り戻したいのかな?」 「相手に愛されていた自分に戻りたいのかな?」 「ちゃんと気持ちを伝えて、後悔を残したくないのかな?」 「本当は、ただ寂しいだけなのかな?」 どの答えが正しい、ということではありません。 復縁したい気持ちが変わってもいい。 やっぱり復縁したいと思ってもいい。 大切なのは、誰かに決めてもらうことではなく、あなた自身が自分の気持ちに気づいていくことだと思っています。 私は「こうすれば絶対に復縁できます」とは言いません。 恋愛には相手の気持ちやタイミングがあり、自分一人の力だけでは動かせない部分もあるからです。 その代わり、あなたが焦りや不安に飲み込まれそうな時、少し立ち止まって、自分の心を見つめられるように寄り添いたい。 本当の答えは、あなたの中にあると私は信じています。 ✼••┈┈┈┈••✼ 「でも、私にも悪いところがあったんです」 そう話す方もいるかもしれません。 もちろん、自分の言動を振り返ることは大切です。 「あの時は言い過ぎたな」 「もっと相手の気持ちを考えればよかった」 そう思うこともあるでしょう。 でも、後悔することと、自分を責め続けることは同じではありません。 過去の自分は、その時の自分なりに精一杯だったのかもしれない。 寂しかったから。 不安だったから。 わかってほしかったから。 愛されていることを確かめたかったから。 その時のあなたにも、そうなってしまった理由があったはずです。 だから、今のあなたが過去の自分を一方的に責め続けなくてもいいんです。 「私が全部悪かった」 「私に魅力がないから」 「もっといい人にならなきゃ」 そんなふうに自分を追い詰めてしまった時こそ、一度その気持ちを私に話してください。 一緒に、絡まった糸を少しずつほどいていきましょう。 ✼••┈┈┈┈••✼ 私は介護の仕事を20年続ける中で、たくさんの人の話を聴いてきました。 高齢者の方の話だけではありません。 家族の悩み、人間関係の悩み、仕事の悩み。 人にはそれぞれ、「誰にも言えないけれど、心の中にはずっとある」ということがあります。 私自身も、家族とのこと、子育て、人間関係など、人生の中で簡単には言葉にできない出来事を経験してきました。 だからこそ、悩んでいる人に対して、上から答えを与えるのではなく、「まず、その人の話をちゃんと聴く」ことを大切にしています。 話すことで、問題そのものがすぐ解決するわけではありません。 相手の気持ちが、その場で変わるわけでもありません。 それでも、胸の中に溜めていたものを言葉にすると、少し呼吸がしやすくなることがあります。 「私、本当はこんなに悲しかったんだ」 「こんなことをされたら、そりゃ苦しかったよね」 「私、ずっと頑張っていたんだな」 そんなふうに、自分自身の気持ちに気づくこともあります。 そして、心に少し余白ができると、今まで見えなかったものが見えてくることがあります。 それが「これからどうしたいか」を考えるための、小さな一歩になるのかもしれません。 ✼••┈┈┈┈••✼ 復縁を願う時って、「相手を好き」という気持ちだけでは説明できないこともあります。 一緒にいた時間。 何気なく交わした会話。 一緒に見た景色。 いつものように届いていたメッセージ。 当たり前だと思っていたものがなくなると、その一つ一つが急に大切なものに感じられるんですよね。 「こんなに好きだったんだ」と気づくこともあるし、 「失って初めて、相手の存在の大きさに気づいた」と感じることもある。 反対に、時間が経つにつれて「私が恋しいのは、相手そのものなのか、それとも一緒にいた頃の安心感なのか」と考えることもあるかもしれません。 どちらでもいいんです。 すぐに答えが出なくてもいい。 心の中にあるものを一つずつ言葉にしていけば、「私は本当は何を大切にしたいのか」が少しずつ見えてくることがあります。 だから私は、復縁の相談だからといって、最初から結論を急がなくていいと思っています。 まずは、あなたの話を聞かせてください。 出会った時のこと。 好きだったところ。 うれしかったこと。 つらかったこと。 別れることになった経緯。 最後に交わした言葉。 話したくなったところからで大丈夫です。 もし今、周りの人から「もう忘れなよ」「次に行ったほうがいい」と言われているとしても、心がそんなに簡単に切り替わらないことだってあります。 人の気持ちは、スイッチのようにオンとオフを切り替えられるものではありません。 だから、まだ好きな自分を責めなくていい。 「こんなに引きずる私はダメだ」と思わなくていい。 好きだった時間が長ければ長いほど、心の整理にも時間がかかって当然です。 その時間を、一人で耐える必要はありません。 ✼••┈┈┈┈••✼ 復縁のことを考えていると、どうしても「相手」に意識が向きます。 相手はどう思っている? 相手は何を考えている? 相手から連絡は来る? どうしたら振り向いてくれる? でも、そんな時こそ、あなた自身の心も大切にしてほしい。 あなたは今、ちゃんと眠れていますか? 食事はできていますか? 仕事や日常生活まで、相手のことでいっぱいになっていませんか? 好きな人を大切にしたい気持ちは、とても自然なものです。 でも、そのために自分自身をボロボロにしてしまったら、あなたが苦しくなってしまいます。 まずは、あなたの心を少し休ませてあげる。 泣いて、話して、笑って、また泣いて。 同じ話を何度してもいい。 「今日はこんなことがあった」と、些細なことを話してもいい。 復縁の話だけではなく、日常のことや、誰にも言えない気持ちまで、何でも話してください。 私は、あなたを否定しません。 無理に元気にさせようともしません。 「前向きになりましょう」と急かすこともしません。 今のあなたの気持ちから、一緒に始めたいと思っています。 ✼••┈┈┈┈••✼ 「もう一度、あの人と笑いたい」 その願いを抱えているあなたへ。 今はまだ、先のことが見えなくても大丈夫です。 復縁できるかどうかという答えを、今すぐ出さなくてもいい。 まずは、胸の中にあるものを外に出してみませんか? 後悔も。 寂しさも。 怒りも。 未練も。 期待も。 怖さも。 全部、ここに置いていってください。 話しているうちに、少し心が軽くなるかもしれません。 そして、少し心に余白ができた時、あなた自身の中から「私はどうしたいんだろう」という答えが見えてくるかもしれません。 私は、その時間に寄り添いたい。 あなたの代わりに答えを決めるのではなく、あなた自身が自分の気持ちを見つけていけるように、一番近くでお話を聴きます。 うまく話せなくても大丈夫。 言葉がまとまっていなくても大丈夫。 泣いてしまっても大丈夫です。 「復縁したいんです」 その一言からでも、十分です。 もう、一人で抱え込まなくても大丈夫。 ほんの少し勇気を出して、その胸の痛みを私に預けてみませんか? あなたが、もう一度心から笑える日を取り戻せるように。 今のあなたの気持ちを、まるごと受け止めます。 ✿秘密厳守いたします ✿匿名で評価ができます ✿あなたの心が穏やかになり、本来のあなたが輝きますように☆

    ・30.夫婦の悩み、もう一人で抱えなくていいんです 2020年11月 〜 2020年12月

    「夫の顔を見るだけでため息がでる…」 「話し合いたいだけなのに、なぜかキレられる」 「このまま一生、我慢して生きるのかな……」 そんな思いを抱えながら、 一人で耐えていませんか。 夜、静かな部屋でスマホを見つめながら、 「夫婦関係 修復」「熟年離婚」と検索しては、 答えが見つからず、頭の中がぐるぐるしてしまう。 そんな日々を過ごしていないでしょうか。 部屋に満ちる冷え切った空気。 業務連絡だけになってしまった会話。 普通に話そうとしただけなのに、なぜか責められる理不尽さ。 家族のために自分を後回しにして頑張ってきたのに、ふとした瞬間に残る虚しさ。 「私が悪いのかな」 「私がもっと我慢すればいいのかな」 「昔はこんな関係じゃなかったのに」 そんなことを考えながら、涙をこらえてきた方もいるかもしれません。 夫婦のことって、外からは簡単に見えないんですよね。 一緒に暮らしているからこそ、嫌なところも、傷つく言葉も、毎日の小さな積み重ねも、全部目の前にある。 しかも、家族や友人に話そうとしても、 「夫婦なんだから仲良くしなよ」 「子どものために我慢したら?」 「そんなことで離婚するの?」 そんな言葉が返ってきそうで、本音を言えないこともあります。 だからこそ、ここでは無理にきれいな話をしなくて大丈夫です。 夫へのイライラ。 怒り。 悲しさ。 寂しさ。 「もう顔も見たくない」という気持ち。 「本当は嫌いかもしれない」という本音。 それでも離婚するのは怖い、という気持ち。 どれも、そのまま話してください。 ✼••┈┈┈┈••✼ 夫婦問題で苦しくなるのは、「好きか嫌いか」だけではないと思うんです。 長年一緒に暮らしてきたからこそ、簡単には割り切れない。 嫌なところがあっても、良かった頃の思い出がある。 腹が立っても、子どもの父親である。 離婚したいと思っても、生活のことが頭をよぎる。 もう一緒にいたくないと思う日があっても、ふとした瞬間に昔の優しかった夫を思い出す。 「じゃあ、どうしたらいいの?」 そうなってしまいますよね。 しかも、周りから見れば普通の夫婦に見えているほど、本人は孤独だったりします。 外では普通に笑っている。 家では必要なことしか話さない。 誰にも言わず、何年も我慢している。 そんな「見えない苦しさ」は、本人にしかわからないものです。 私は、あなたの話を聞く時に、 「夫婦なんだからこうするべき」 「あなたも悪いところがあるんじゃない?」 「子どものために我慢するべき」 というような、決めつけから入りません。 まずは、あなたが何を感じているのか。 そこを大切にしたいと思っています。 ✼••┈┈┈┈••✼ 私自身、離婚を経験し、3人の子どもを育ててきました。 あの頃は、プレッシャーと孤独で胃が痛むような毎日でした。 「子どもから父親を奪っていいのだろうか」 「私が我慢すれば丸く収まるのではないか」 「この先、子どもたちをちゃんと育てていけるだろうか」 そんな葛藤を抱えながら、眠れない夜を何度も過ごしました。 離婚という言葉が頭に浮かんでも、簡単に決められるものではありません。 生活はどうする? 子どもはどうなる? 周りには何と言えばいい? この先、一人でやっていける? 考えれば考えるほど、不安が増えていきます。 だからこそ私は、夫婦関係で悩んでいる方に対して、「離婚したほうがいい」「修復したほうがいい」と簡単には言えません。 結果として私は離婚を選びました。 そして今振り返ると、自分で悩み、考え、納得して選んだ道だったからこそ、その後、前を向いて歩いてこられたのだと思っています。 大切なのは、誰かに決めてもらうことではなく、あなた自身が「私はどうしたいんだろう」と考えられることなのかもしれません。 ✼••┈┈┈┈••✼ もちろん、そんなことを考える余裕すらない時もありますよね。 夫の一言に傷ついた。 また嫌味を言われた。 帰宅した夫の顔を見ただけで気分が落ちる。 話しかけても無視された。 家事をしても当たり前。 何をしても感謝されない。 そんな毎日が続けば、心が疲れてしまうのは当然です。 「もう無理」 「全部投げ出したい」 「私だって好きでこんな生活をしているわけじゃない」 そう叫びたくなる日があっても、おかしくありません。 そんな時に、無理に冷静にならなくてもいいんです。 電話の中では、思っていることをそのまま出してください。 話がまとまっていなくても大丈夫。 同じ話を何度しても大丈夫。 泣いてしまっても大丈夫です。 「今日、こんなことを言われたんです」 「もう本当に腹が立つ!」 「私はずっと我慢してきたんです」 そんなところから始めてもいい。 誰かに聞いてもらうことで、頭の中でぐるぐるしていたことが、少しずつ言葉になっていくことがあります。 そして、言葉にしてみると、 「私が一番つらかったのは、あの言葉だったんだ」 「本当は怒っていたんだ」 「ずっと寂しかったんだ」 「わかってほしかったんだ」 そんな自分の本音に気づくこともあります。 私は、そこを大切にしたいと思っています。 ✼••┈┈┈┈••✼ 夫婦問題は、一つの出来事だけで苦しくなるとは限りません。 小さな不満が積み重なっていたり、 何年も言えなかったことがあったり、 昔の出来事が今も心に残っていたり。 「今さら言っても仕方ない」と飲み込んできたことが、ある日突然、あふれてしまうこともあります。 だから、「こんな小さなことで悩んでいる私はおかしいのかな」と思わなくていいんです。 あなたにとって苦しいなら、それはあなたにとって大切なことです。 夫婦の形は、それぞれ違います。 修復したい人もいる。 距離を置きたい人もいる。 離婚を考えている人もいる。 まだ何も決められない人もいる。 どれが正解ということではありません。 今は「どうするか」を決める前に、「私は何を感じているのか」を知る時間が必要なのかもしれません。 ✼••┈┈┈┈••✼ 私は介護の仕事を20年続けてきました。 介護の現場では、いろいろな人生に触れます。 高齢者の方だけではなく、ご家族が抱えている悩みや、家族同士のすれ違い、長い年月の中で積み重なった思いにも触れてきました。 人間関係って、正しいか間違っているかだけでは割り切れないことがたくさんあります。 「相手にも事情があるのはわかっている。でも、私はつらい」 そんなことだってありますよね。 だから私は、あなたの気持ちを聞く時に、すぐに相手側の事情を考えようとはしません。 まずは、あなたの気持ちを受け止めたい。 「そんなふうに感じていたんですね」 「それはつらかったですね」 「ずっと頑張ってきたんですね」 そんなふうに、一つずつ心の荷物を置いていく時間があってもいいと思っています。 誰かに話したからといって、夫が突然変わるわけではありません。 夫婦の問題が、その電話一本ですべて解決するわけでもありません。 それでも、一人で抱えていた苦しさを誰かに話すだけで、少し心が軽くなることはあります。 気持ちが整理されると、今まで見えていなかったものが見えてくることもあります。 「私は本当はどうしたいんだろう」 その問いに、自分自身で向き合えるようになる。 私は、そんな時間に寄り添いたいと思っています。 ✼••┈┈┈┈••✼ もし今、あなたが「修復するか、離婚するか」で揺れているなら、今すぐ答えを出さなくてもいいんです。 今日は修復したい。 明日はもう無理だと思う。 そんなふうに気持ちが揺れることだってあります。 長い結婚生活の中で抱えてきたものがあるなら、なおさらです。 「私は本当はどうしたい?」 「何が一番苦しい?」 「これだけはもう我慢できないことは何?」 「本当は、夫にどうしてほしかった?」 そんなことを一緒に話してみませんか。 答えを押しつけるのではなく、あなた自身の気持ちを整理するお手伝いをしたいと思っています。 そして、少しずつ心に余白ができた時、あなたの中にある本当の気持ちが見えてくる。 私は、そう信じています。 ✼••┈┈┈┈••✼ 夫婦のことは、友達にも家族にも話しにくいことがあります。 特に、長年我慢してきた人ほど、 「今さら愚痴を言っても仕方ない」 「みんな大変なんだから」 「私さえ我慢すればいい」 と、自分の気持ちを後回しにしてしまいがちです。 でも、あなたの心にも限界があります。 我慢できることと、我慢し続けなければならないことは、同じではありません。 だから、ここでは遠慮しなくて大丈夫。 夫への愚痴でもいい。 離婚したいという気持ちでもいい。 本当はまだ好きだという気持ちでもいい。 「もう何も考えたくない」という弱音でもいい。 どんな気持ちも、そのまま持ってきてください。 そして、夫婦のことを話す時に、「こんなことまで言っていいのかな」と遠慮する必要もありません。 夫には言えない。 友達には心配をかけたくない。 子どもには聞かせたくない。 そんなふうに、ずっと胸の中だけで抱えてきた言葉があるなら、ここで出してしまって大丈夫です。 「本当は、私はこんなに腹が立っていた」 「ずっと寂しかった」 「誰かに大丈夫だよと言ってほしかった」 そんな気持ちを言葉にするだけでも、自分の心が少し見えてくることがあります。 夫婦関係をどうするかを決めるのは、その後でもいい。 まずは、あなたが少し楽になること。 そこから始めてもいいんです。 私はあなたを否定しません。 無理に前向きにさせようともしません。 世間の「夫婦はこうあるべき」に、あなたを合わせようともしません。 ただ、あなたの隣に座って、一緒に話をする。 そんな時間を作れたらと思っています。 ✼••┈┈┈┈••✼ 修復を選ぶとしても。 別の道を選ぶとしても。 大切なのは、あなた自身が納得できること。 誰かに「こうしたほうがいい」と言われたからではなく、 あなたが自分の心と向き合い、自分で選んだと思えること。 そのためにも、まずは心の中に溜めてきたものを外に出してみませんか? 泣いてもいい。 怒ってもいい。 愚痴ってもいい。 同じことを何度話してもいい。 電話だからこそ、誰の目も気にせず、本音を吐き出せます。 「こんなこと、人には言えない」 そう思っていることほど、ここでは話してください。 あなたの心がホッとひと息つける、避難所のような存在になれたらうれしいです。 温かいお茶を飲むような気持ちで、気軽にお電話ください(^^) 一人で抱え込む時間は、もうおしまいにしましょう。 あなたの心に少し余白ができて、 「明日もなんとかやってみようかな」 そう思える時間になりますように。 ✿秘密厳守いたします ✿匿名で評価ができます ✿あなたの心が穏やかになり、本来のあなたが輝きますように☆

    ・31.「逢いたい…」その悲しみを、ひとりで抱えないで。寄り添います。 2021年1月 〜 2021年1月

    「逢いたい…」 「淋しい…」 「悲しい…」 もう逢えないと分かっていても、 頭では分かっているのに、気持ちが追いつかない。 ふとした瞬間に思い出して、 胸がぎゅっと苦しくなる。 写真を見たり、思い出の場所を通ったり、 いつものように名前を呼びたくなったり。 涙がとまらない毎日を 過ごしていませんか。 大切な人を亡くした悲しみは、 「時間が経てば忘れられる」ような 簡単なものではないと思うんです。 忘れたくない。 忘れられない。 それでも、悲しみ続けることに疲れてしまう。 そんな複雑な気持ちを抱えている方も いらっしゃるのではないでしょうか。 はじめまして、みのりと申します。 たくさんある中から、 こちらに来てくださってありがとうございます。 一人で抱え込んできたその辛い想い、 ほんの半分だけでも、私に預けてみませんか? ✼••┈┈┈┈••✼ 私自身、父と母の介護をして、 最後の一瞬まで二人を看取り、見送りました。 そして、20年にわたり介護の現場で、 お一人おひとりの人生やお気持ちに 寄り添ってきました。 大切な人を亡くした時の、 胸が引き裂かれるような悲しみ。 そこにいるはずの人が、もういない。 話しかけても返事がない。 いつもの場所に姿がない。 何気なく「これを伝えたい」と思った瞬間に、 もう伝えられないことに気づく。 その現実を受け入れることは、 頭で分かっていても、 心にとっては簡単なことではありません。 父が亡くなった時は、母がいました。 悲しい時には母と悲しみを分け合い、 お互いに支えながら過ごすことができました。 でも、母が亡くなった時は一人でした。 その時の私は、母との思い出の場所を 何度も何度も訪れました。 行っては泣き、 行っては泣き。 思い出しては泣き、 また思い出しては泣く。 「もう泣かないようにしよう」と 無理に止めることもしませんでした。 泣きたい時は泣きました。 寂しい時は、寂しいままでいました。 そうやって何度も悲しみを味わっているうちに、 少しずつ、ほんの少しずつ、 悲しみの形が変わっていったんです。 最初はただ苦しかった思い出が、 いつの間にか「温かな思い出」に 変わっていきました。 もちろん、母を忘れたわけではありません。 今でも思い出すことはあります。 でも、その思い出は、 以前のように私をただ苦しめるものではなく、 心の中にそっと残っている 大切なものになっています。 この経験から私は、 悲しみは無理に消そうとしなくていいのだと 思うようになりました。 ✼••┈┈┈┈••✼ 大切な人を亡くした時、 周りの人から「もう元気になった?」と聞かれたり、 「そろそろ前を向かないと」と言われたりすることがあります。 もちろん、悪気があって言っているわけでは ないのだと思います。 でも、悲しみの真ん中にいる人にとっては、 その言葉が苦しく感じられることもありますよね。 「まだ悲しいの?」 「いつまで泣いているの?」 そんなふうに思われるのが怖くて、 人前では明るく振る舞ってしまう。 「もう大丈夫です」と言ってしまう。 でも、一人になると涙が出てくる。 そんなことがあっても、 何もおかしくありません。 悲しみには、 「この日までに終わります」という 期限があるわけではないからです。 一週間で気持ちが落ち着く人もいれば、 何か月経っても、何年経っても、 ふとした瞬間に涙が出る人もいる。 どちらが正しいということではありません。 あなたには、あなたの悲しみ方がある。 だから、無理に元気にならなくてもいいんです。 「まだ逢いたい」 「もっと話したかった」 「ありがとうって、もう一度言いたい」 「最後にあんなことを言わなければよかった」 「もっと何かしてあげられたんじゃないか」 そんな気持ちも、 ここではそのまま話してください。 ✼••┈┈┈┈••✼ 私は、悲しみを「乗り越える」という言葉にも、 少し違和感を持つことがあります。 大切な人との思い出を、 乗り越えてどこかに置いてくる必要はないと思うからです。 悲しみがなくなるというより、 悲しみを抱えながらでも、 少しずつ日常を歩けるようになっていく。 そしていつか、 思い出した時に涙だけではなく、 「あの人と過ごせてよかった」 「こんなこともあったな」 と、温かい気持ちが一緒に湧いてくる。 私自身は、母との思い出を通して、 そんなふうに感じるようになりました。 だから私は、 あなたの悲しみを急いで消そうとはしません。 「前を向きましょう」とも言いません。 今、悲しいなら悲しいままでいい。 寂しいなら寂しいままでいい。 逢いたいなら、「逢いたい」と言っていい。 その気持ちを誰かに否定されることなく、 安心して話せる時間があってもいいと思っています。 ✼••┈┈┈┈••✼ ◆こんなお気持ちを抱えていませんか? ・周りに遠慮して、  いつまでも「悲しい」「寂しい」と言えない ・「もう大丈夫」と強がってしまう ・誰にも言えない後悔がある ・涙が出てしまう自分を持て余している ・故人のことを話したいけれど、  周りの人には何度も話しづらい ・思い出を話すと泣いてしまうから、  我慢している ・「もっとこうしてあげればよかった」と  自分を責めてしまう ・家族の前では平気な顔をしているけれど、  一人になると苦しくなる ・「いつまでも悲しんでいてはいけない」と  自分に言い聞かせている ・ただ誰かに、あの人の話を聞いてほしい 一つでも当てはまるものがあるなら、 どうぞ、その気持ちを抱えたままで お電話ください。 ✼••┈┈┈┈••✼ グリーフケアというと、 何か特別なことをしなければならないように 感じる方もいるかもしれません。 でも、私はまず、 「話すこと」からでいいと思っています。 故人との思い出を話す。 最後に交わした言葉を話す。 楽しかった出来事を話す。 後悔していることを話す。 「もっと生きていてほしかった」と泣く。 「今でも大好き」と言う。 「腹が立つこともあった」と話す。 どんな話でも大丈夫です。 亡くなった人との関係が、 いつもきれいな思い出ばかりとは限りません。 大好きだったからこそ、 もっとこうしてほしかったと思うこともある。 優しい思い出の中に、 後悔や怒りが混ざっていることもある。 それも含めて、 その人との大切な時間だったのだと思います。 私は、そんな複雑な気持ちも含めて、 あなたの話を聴きたいと思っています。 言葉が途中で止まっても大丈夫。 涙が止まらなくなっても大丈夫。 沈黙になっても大丈夫です。 無理に話し続ける必要もありません。 電話の向こうで、 あなたのペースに合わせて そっと寄り添います。 ✼••┈┈┈┈••✼ 介護の仕事を20年続けていると、 人生の終わりに向き合う場面にも たくさん出会います。 ご本人の思い、 ご家族の思い、 「もっとこうしてあげたかった」という後悔。 一人ひとり、それぞれの人生があり、 それぞれの家族の形があります。 だから私は、 「こうすれば悲しみがなくなります」 というような一つの答えを 簡単に当てはめたくありません。 悲しみ方も、 その人との関係も、 亡くした後の生活も、 みんな違うからです。 ただ、一つ言えるとしたら、 悲しみを一人で抱え続けなくてもいい、 ということ。 誰かに話していいんです。 同じ話を何度してもいい。 「また同じことを話してしまった」と 気にしなくてもいい。 話すたびに気持ちが少し変わることもあります。 昨日は泣きながら話したことを、 今日は少し笑いながら話せるかもしれない。 それも、あなたの心が少しずつ 変化している証なのかもしれません。 ✼••┈┈┈┈••✼ そして、悲しみの中にいる時には、 自分のことまで後回しになってしまうことがあります。 食事をする。 眠る。 仕事に行く。 家のことをする。 毎日のことをこなすだけで精一杯。 「こんなことで落ち込んでいてはいけない」 「周りに心配をかけられない」 と頑張ってしまう。 でも、悲しい時に悲しむことは、 弱いことではありません。 大切な人を大切に思っていたからこそ、 悲しいんです。 涙が出るほど大切だった。 逢いたいと思うほど、 一緒に過ごした時間が大切だった。 その悲しみを、 無理に小さくしなくてもいい。 私はそう思っています。 だから、ここでは頑張らなくて大丈夫です。 元気なふりもしなくていい。 「今日はダメです」と言ってもいい。 何も話せない時は、 ただ一緒に時間を過ごすような気持ちでもいい。 あなたが少しだけ心の力を抜ける場所に なれたらと思っています。 ✼••┈┈┈┈••✼ 悲しみは、なくならないかもしれません。 大切な人との思い出も、 消えることはないでしょう。 でも、悲しみの中にある時間を 誰かと分け合うことで、 ほんの少し呼吸がしやすくなることがあります。 胸の中にいっぱいになっていた想いを 言葉にすることで、 心に少し余白ができることもあります。 そして、その余白の中に、 いつか温かな思い出が そっと戻ってくることがある。 私は、母との経験から そう感じています。 だから今、まだ涙が止まらないあなたにも、 「早く元気になって」とは言いません。 今は悲しくていい。 寂しくていい。 逢いたくていい。 その気持ちを抱えたままでも、 あなたのペースで少しずつ進んでいけばいいんです。 「誰かに聞いてほしい」 そう思った時が、 話してみるタイミングなのかもしれません。 ✼••┈┈┈┈••✼ 大切な人のことを、 もう少しだけ話しませんか? どんな人だったのか。 どんな思い出があるのか。 何が一番つらいのか。 何を後悔しているのか。 今、どんな気持ちで毎日を過ごしているのか。 話したくなったところからで大丈夫です。 途中で涙が止まらなくなっても、 言葉に詰まって沈黙になっても構いません。 私は急かしません。 無理に前を向かせません。 あなたの悲しみを、 「もう終わったこと」にもしません。 同じ痛みを経験した一人の人間として。 そして、20年にわたって人の話に耳を傾けてきた者として。 あなたの隣にそっと寄り添います。 一人で抱えてきたその辛い想い、 ほんの半分だけでも、私に預けてみませんか? あなたの心が少しずつ温かさを取り戻していく時間を、 一緒に過ごせたらうれしいです。 電話の向こうで、お待ちしています(^-^) ※当サービスは医療行為に基づく治療ではなく、実体験および傾聴に基づくお話し相手・感情の寄り添いサービスです。

    ・32.不倫された苦しみも、不倫してしまった苦しみも。誰にも言えない想いを話してください 2021年2月 〜 2021年2月

    「別れてくれ」と言われた日、私は、自分の人生が突然ひっくり返ったような感覚になりました。 夫の転勤先への引っ越しを、子どもたちと一緒にする予定でした。3日後には、家族で暮らすための下見に行くことになっていたんです。 それなのに、その直前に夫から告げられたのが「別れてくれ」。 私は、夫婦にはいろいろあると思っていました。楽しい時もあれば、すれ違う時もある。だから、まさか自分の夫婦にそんなことが起きるなんて、考えたこともありませんでした。 そして後になって、不倫を知りました。 あまりに突然のことで、何が起きているのか理解できない。悲しいという言葉だけでは足りない。自分の存在そのものを否定されたような、底のない苦しさでした。 さらに、義兄から言われた言葉も忘れられません。 「お義姉さん、本当に全然気づかなかったの?」 「単身赴任なら、少しは疑った方が良かったと思うよ」 悪気があったのかどうかは分かりません。でも、すでにボロボロだった私には、その言葉まで胸に刺さりました。 どうして気づかなかったんだろう。 もっと疑えばよかったのかな。 私が悪かったのかな。 そんなことを何度も考えました。 そして私は、離婚をしました。 もちろん、すぐに気持ちを切り替えられたわけではありません。心も体も疲れ果てて、どうしたらいいのか分からない時期がありました。 そんな時、私は信頼できる友人に、自分の気持ちを話しました。 誰かに話すだけで、すぐ問題が解決するわけではありません。でも、胸の中に詰まっていたものを言葉にしていくうちに、「私はこんなに苦しかったんだ」と、自分の気持ちを少しずつ認められるようになったんです。 そして、ここからは少し言いにくい話です。 私はその後、自分自身も不倫の当事者になった経験があります。 夫との離婚を経験し、心も体もボロボロだった頃、話を聞いてくれた友人にも、家庭の中での寂しさや虚しさがありました。 お互いに、これからどうしたいとか、未来を約束しようとか、そんなことを考えていたわけではありません。 ただ、寂しかった。 誰かに分かってほしかった。 心の隙間を埋めたかった。 その気持ちが重なって、越えてはいけない線を越えてしまいました。 だから私は、不倫というものを「する側」「される側」という一方向だけでは見られません。 不倫をされた側の、絶望するほどの苦しさ。 不倫をしてしまった側の、罪悪感や、誰にも言えない切ない孤独。 私は、その両方を自分の人生で経験しました。 もちろん、不倫によって傷つく人がいることも分かっています。誰かを傷つけたことをなかったことにしたいわけでもありません。 ただ、人はいつも、きれいな気持ちだけで生きているわけではないんですよね。 「こんなことを考える自分は最低だ」 「こんな相手を好きになるなんておかしい」 「家族がいるのに、どうしてこんな気持ちになるんだろう」 そうやって自分を責めながら、誰にも言えずに抱えている人もいると思うんです。 たとえば、職場の人を好きになってしまった。 ただの同僚のはずなのに、その人が他の女性と話しているだけで嫉妬してしまう。 ちょっとした言葉や態度に一喜一憂してしまう。 優しくされた日は嬉しくて、そっけなくされると一日中気になってしまう。 「この気持ちはどうしたらいいんだろう」と思っても、友人には言えない。 もし知られたら、職場にいられなくなるかもしれない。 相手との関係が周りに知られたら、今まで築いてきたものを失うかもしれない。 そんな怖さを抱えながら、それでも相手のことが頭から離れない。 そんな相談も、私は否定しません。 もちろん、不倫をされた側のご相談も大丈夫です。 夫や妻の様子が何となくおかしい。 スマホを気にするようになった。 帰宅時間が変わった。 知らない名前が気になる。 疑い始めると、今まで何でもなかったことまで気になってしまいます。 本当は確かめたい。 でも、確かめるのが怖い。 もし本当に不倫だったら? 自分の家庭はどうなる? 離婚するのか、しないのか。 相手に何を言えばいいのか。 頭の中がいっぱいになってしまうのも、無理のないことだと思います。 不倫の相談では、「どうやって相手を別れさせるか」「どうすれば相手を取り戻せるか」といった方法を考えることもあると思います。 もちろん、具体的にどうしたいのかを考えることも大切です。 でも、その前に、今の自分がどんな状態なのかを知ることも同じくらい大切だと思っています。 たとえば、相手から連絡が来ないだけで、不安で何も手につかなくなる。 メッセージの一言を何度も読み返してしまう。 少し優しくされると「もしかしたら」と期待して、次の日に冷たくされると一気に落ち込む。 そんなふうに心が相手の言動に振り回されている時は、自分が本当に望んでいることさえ見えにくくなります。 「相手が好きだから一緒にいたい」のか。 「失うのが怖いから離れたくない」のか。 「一人になるのが怖い」のか。 「今までの時間を無駄にしたくない」のか。 もしかすると、いくつもの気持ちが重なっているのかもしれません。 どれが正しくて、どれが間違いということではありません。 人の心って、そんなに簡単に一つには決められないものだと思うんです。 私自身も、離婚を決めるまでには、怒りだけではなく、悲しみや悔しさ、これからの生活への不安、子どもたちのことなど、いろいろなことを考えました。 だから、「こうするべき」という一つの答えを押しつけることはしたくありません。 離婚するのか、しないのか。 関係を続けるのか、終わらせるのか。 相手に伝えるのか、しばらく様子を見るのか。 大きな決断ほど、自分の気持ちが少し落ち着いてから考えても遅くないことがあります。 まずは、今の苦しさを少し外に出す。 それだけでもいいんです。 電話で話しているうちに、「私、本当はここが一番嫌だったんだ」と気づくこともあるかもしれません。 逆に、「私はまだこの人が好きなんだ」と気づくこともあるかもしれない。 「本当は相手ではなく、安心できる場所が欲しかった」と分かることだってあるでしょう。 そうやって自分の気持ちが見えてくれば、次にどうするかは、その時の自分で考えられます。 私は、その時間に付き合いたいんです。 答えを急がせるのではなく、まず隣に座って話を聴く。 それが、私がしたい不倫相談です。 そして、重い話ばかりでなくても大丈夫です。 「今日は相手のことで頭がいっぱい」 「昨日こんなことを言われた」 「嬉しいことがあったけど誰にも話せない」 そんな話でも構いません。 人には、誰かに話すことで初めて、自分の中にあった気持ちに気づくことがあります。 私は、あなたの人生を決める人ではありません。 ただ、あなたが自分の気持ちを置き去りにせず、自分でこれからを考えられるようになるまで、一緒に話すことはできます。 もし今、誰にも言えない気持ちを抱えているなら、きれいな言葉に直さなくて大丈夫です。 怒っていてもいい。 泣いてもいい。 矛盾していてもいい。 「こんな自分、嫌だ」と思うような気持ちでもいい。 話しているうちに、最初は見えていなかった自分の本音が、少しずつ見えてくることがあります。 私は、あなたを裁く立場ではありません。 不倫をしたから。 不倫をされたから。 既婚者を好きになったから。 別れられないから。 離れたいのに離れられないから。 どんな状況でも、その中であなたが何を感じているのかを、まずは大切にしたいと思っています。 もちろん、何でも話していいからといって、無理に全部話す必要もありません。 話したくないことは話さなくて大丈夫。 今話せるところからで大丈夫です。 そして、相談したからといって、すぐに結論を出さなくてもいいんです。 「今日はただ聞いてほしい」 「自分の気持ちを整理したい」 「誰にも言えないことを吐き出したい」 「相手への気持ちが自分でも分からない」 「離婚するか迷っている」 「この関係をどうしたらいいのか考えたい」 どんな入口でも大丈夫です。 私は、不倫という出来事そのものだけではなく、その奥にある「寂しかった」「愛されたかった」「分かってほしかった」「怖かった」という気持ちにも、耳を傾けたいと思っています。 私自身、あの日の「別れてくれ」という言葉で、人生が突然変わってしまうような経験をしました。 だからこそ、今、誰にも言えない苦しさを抱えている人がいるなら、「そんなこと考えちゃダメ」と切り捨てずに、その気持ちをそのまま受け止めたい。 そして、少しずつ心が軽くなってきたら、その先でどうしたいのかを一緒に考えていきましょう。 答えを急がなくてもいい。 今すぐ決めなくてもいい。 まずは、胸の中に抱えているものを、ここに置いていってください。 不倫された側の苦しみも。 不倫してしまった側の罪悪感も。 誰にも言えない恋心も。 嫉妬も、寂しさも、後悔も。 きれいに整理してから話さなくて大丈夫です。 あなたの言葉のままで、話してください。 秘密は守ります。 評価も匿名です。 「こんなこと、誰にも言えない」と思っていることほど、一人で抱え続けなくてもいいのかもしれません。 よかったら、ここで話してみませんか。

    ・33.私はなぜ「答えを教える」より「話を聴く」のか 2021年3月 〜 2021年3月

    「どうしたらいいと思いますか?」 相談をするとき、こんなふうに誰かに答えを求めたくなることがありますよね。 私も、悩んでいるときには「誰か、答えを教えて」と思ったことがあります。 頭の中がいっぱいで、自分では何も決められない。そんなときに、経験のある人から「こうしたらいいんじゃない?」と言ってもらえると、道が見えたような気がすることもあります。 でも、私は今、誰かの相談を聴くときに、最初から答えを教えることはあまりしたくないと思っています。 それには、私自身の経験が関係しています。 誰かに言われて、その通りにやってみたこと。 その時は「そうか、それがいいんだ」と思って進んでみる。 うまくいけば、それで問題はありません。 でも、少しでも「あれ?なんか違うんじゃない?」と思うことが起きたとき、人って意外と簡単に、言った相手に対して「あなたのせい」という気持ちを持ってしまうことがあると思うんです。 もちろん、実際に相手のアドバイスが合っていなかった場合もあるでしょう。 でも、ほんの小さなことでも、「あの人がそう言ったから」と思ってしまうことって、ありませんか? 私は、そういう経験を何度もしてきました。 だからこそ、今は思うんです。 誰かに決めてもらった答えよりも、自分で「これなら納得できる」と思った答えのほうが、あとになって後悔しにくいんじゃないか。 もし思った通りにならなかったとしても、「あの人に言われたから」ではなく、「私は自分で考えて、これを選んだ」と思える。 その違いは、とても大きいと思っています。 だから私は、相談してくれた人に、いきなり「こうしたほうがいいですよ」と答えを渡すのではなく、まず話を聴きたいんです。 話して、話して、話して。 頭の中にあることを外に出していく。 最初は「どうしたらいいか分からない」と言っていた人が、話しているうちに、「でも、本当はこうしたいのかもしれない」と言い始めることがあります。 「私、そこが嫌だったんだ」 「本当は寂しかったんだ」 「相手に怒っていると思っていたけど、分かってほしかったのかもしれない」 「別れたいと思っていたけど、怖かっただけかもしれない」 そんなふうに、自分の中から言葉が出てくることがあります。 私は、その瞬間がとても大切だと思っています。 誰かから正解を渡されるのではなく、自分の中にあるものを、自分の言葉で見つけていく。 それが「納得のいく答え」につながっていくんじゃないかなと思うんです。 もちろん、話してすぐに答えが出なくても大丈夫です。 今日の電話では何も決まらなかった。 でも、少し頭の中が整理された。 それだけでも、十分なことがあります。 答えって、相談しているその場で必ず出さなければいけないものではないと思うんです。 話したことで心の中に少し余白ができる。 そのあと、お風呂に入っているときや、布団に入ったとき、ふっと「あれ、私が本当に嫌だったのはこれだったのかも」と気づくことだってあります。 だから私は、「電話を切るまでに答えを出しましょう」とは思っていません。 むしろ、答えを急がないことも大切にしています。 そして、もう一つ、私が「聴く」ことを大切にしている理由があります。 それは、「そうだね」と受け止めてもらうことが、安心への第一歩になると思っているからです。 悩んでいるときって、自分の気持ちそのものを否定したくなることがありますよね。 「こんなことで怒るなんて、心が狭いのかな」 「こんなことを考える私は最低なのかな」 「家族なんだから我慢しなきゃ」 「みんな頑張っているんだから、私だけ弱音を吐いちゃいけない」 そんなふうに、自分で自分にダメ出しをしてしまう。 でも、まず「そう感じたんだね」と受け止めてもらえたらどうでしょう。 問題が解決したわけではなくても、 「私、そう思ってもいいんだ」 「この気持ちがあっても大丈夫なんだ」 と、少しだけ肩の力が抜けるかもしれません。 私は、それが安心への第一歩だと思っています。 「そうだね」と言うことは、「あなたの考えが全部正しい」と認めることとは違います。 相手を傷つける行動まで肯定することでもありません。 ただ、「あなたは今、そう感じているんだね」と、その人の気持ちがそこにあることを認める。 私は、その違いを大切にしたいんです。 たとえば、誰かに腹が立って、「もう顔も見たくない!」と思うことがある。 そんなときに、「そんなこと言っちゃダメ」とすぐに正されるより、「そこまで腹が立ったんだね」と一度受け止めてもらったほうが、自分の気持ちを落ち着いて見られることがあります。 怒りの下に、悲しさがあるかもしれない。 悲しさの下に、分かってほしかった気持ちがあるかもしれない。 でも、最初からそこまで自分で整理できる人ばかりではありません。 だから、まずはそのまま話していい。 私はそう思っています。 私は介護の仕事を長くしてきました。 これまで、たくさんの方と接してきました。 その中で感じてきたのは、人は「正しいことを言ってもらう」だけではなく、「自分の話をちゃんと聴いてもらう」ことで、少しずつ落ち着きを取り戻すことがあるということです。 もちろん、必要な場面では情報を伝えたり、選択肢を一緒に整理したりすることもあります。 でも、その前に、その人が今どんな気持ちなのかを知りたい。 言葉になっていない部分も含めて、まず受け止めたい。 それが私の聴き方です。 相談を受けていると、「こんなことを相談していいのかな」と遠慮する人もいます。 でも、相談内容に「立派な悩み」である必要はありません。 夫婦のことでもいい。 親子のことでもいい。 仕事のことでもいい。 恋愛のことでもいい。 友達には言えない愚痴でもいい。 「今日はなんとなく落ち込んでいる」 「何が嫌なのか自分でも分からない」 そんな状態でも大丈夫です。 むしろ、何が嫌なのか分からないからこそ、話してみる意味があるのかもしれません。 話し始めたときには、頭の中がぐちゃぐちゃでもいい。 話が前後してもいい。 同じことを何度も言ってもいい。 途中で泣いてしまってもいい。 話しているうちに、自分でも気づいていなかった気持ちが、ぽろっと出てくることがあります。 私は、その言葉を急いでまとめたくありません。 「つまり、こういうことですね」と、こちらの都合で結論を作ってしまうのではなく、その人自身が「そうか、私はこう思っていたんだ」と気づく時間を大切にしたい。 だから、私は「答えを教える人」ではなく、「答えを見つけるまで一緒に話す人」でありたいと思っています。 そして、そのためには、何でも話せる安心感が必要だと思っています。 「こんなこと言ったら、どう思われるだろう」 「否定されたら嫌だな」 「説教されたらどうしよう」 そんな心配をしながら話していたら、本当の気持ちはなかなか出てきません。 だから私は、まず受け止める。 あなたが今そう感じていることを、そのまま聴く。 そこから始めたいんです。 もちろん、話した結果、最終的に私から何か提案することもあるかもしれません。 でも、それを「これが正解です」と押しつけるつもりはありません。 選ぶのは、あくまでその人自身。 私が「こうしたほうがいい」と思ったとしても、その人が「私はそうしたくない」と思うなら、それも大切な答えです。 なぜなら、その人生を生きていくのは、その人自身だからです。 私が代わりに生きることはできません。 だからこそ、自分で納得して選んでほしい。 もし選んだ結果、思っていたようにならなかったとしても、「自分で考えて選んだ」と思えることは、その後の自分を支えるものになると思っています。 反対に、誰かに言われたから選んだことは、うまくいかなかったときに、どうしても「あなたのせい」という気持ちが出やすくなる。 私は、そんなふうに誰かのせいにしながら苦しんでほしくないんです。 だから、私は急いで答えを渡しません。 まず話してもらう。 今まで我慢していたことも、言えなかったことも、頭の中でぐるぐるしていることも、全部出していい。 そうして心の中に少し余白ができたとき、今まで見えなかったものが見えてくることがあります。 「本当はどうしたい?」 「何が一番嫌だった?」 「私は何を大切にしたい?」 その答えは、私が持っているものではありません。 あなたの中にあるものです。 私は、その答えが見つかるまでの時間を、一緒に過ごしたい。 「そうだね」 「それはつらかったね」 「そう感じたんだね」 そんな言葉から始まる安心があって、その先に、自分自身の答えを見つけていく時間がある。 私は、そんな相談の時間を大切にしています。 私は、相談相手の人生を背負うことはできません。 でも、その人が自分の気持ちを置き去りにしないように、隣で一緒に考えることはできます。 たとえば、頭では「もうやめたほうがいい」と分かっているのに、気持ちがついてこないことがあります。 「そんなの早く決めればいい」と言われても、決められないから苦しいんですよね。 逆に、「あなたは本当はどうしたいの?」と聞かれても、自分でも分からないことがあります。 そんなときに、無理に答えをひねり出さなくてもいいと思っています。 「分からない」という気持ちも、その時点での大切な気持ちです。 話しているうちに、少しずつ輪郭が見えてくればいい。 昨日は分からなかったことが、今日になって分かることもある。 誰かに話した言葉が、自分自身への問いかけになって、あとから答えにつながることもある。 だから私は、相談の時間を「答えを出す時間」だけにはしたくありません。 まず安心して話せる時間。 自分の気持ちを否定しなくていい時間。 そして、その中で、自分自身の声を少しずつ聞いていく時間。 そんな時間を一緒につくれたらと思っています。 だから、もし今「自分で決めなきゃ」と頑張りすぎているなら、まずは話すだけでもいいんです。誰かに決めてもらうためではなく、自分の中にあるものを見つけるために。 焦らなくて大丈夫です。 何を話せばいいか分からなくても大丈夫です。 答えが決まっていなくても大丈夫。 今のあなたのままで、話しに来てください。 話し終わったときに、「あれ、私が思っていたより、自分の気持ちが分かったかも」と感じてもらえたら。 そして、自分で選んだ答えを、自分自身で受け止められるようになったら。 それが、私にとっては「相談してよかった」と思ってもらえる時間なのだと思います。

    ・34.人には、誰にも言えない「黒い気持ち」がある 2021年4月 〜 2021年4月

    「こんなことを思う自分って、性格が悪いのかな」 「こんなことを言ったら、嫌な人だと思われそう」 「本当は腹が立っているけど、こんなことで怒るなんて大人げないよね」 そんなふうに、自分の中に出てきた気持ちを、すぐに「ダメ」と消そうとしたことはありませんか。 私は、人には誰にでも、表に出しにくい気持ちがあると思っています。 嫉妬することもある。 誰かをうらやましいと思うこともある。 腹が立つこともある。 「もう知らない」と投げ出したくなることもある。 家族なのに、少し離れたいと思うことだってある。 そして、ときには「相手が失敗すればいいのに」と、一瞬思ってしまうことだってあるかもしれません。 そんな気持ちが出てきたとき、「こんなことを考える私は最低だ」と、自分を責めてしまう人は少なくないと思うんです。 でも私は、気持ちが浮かんだことと、それを実際に行動に移すことは、別のことだと思っています。 怒りを感じたからといって、誰かを傷つけるとは限らない。 嫉妬したからといって、相手を攻撃するとは限らない。 「逃げたい」と思ったからといって、本当に何もかも投げ出すわけではない。 まずは、「私は今、そう感じているんだ」と気づく。 私は、それだけでも大切なことだと思っています。 私が電話相談で大切にしたいのも、まさにそこです。 きれいな言葉に直してから話さなくていい。 相手を思いやる言葉にまとめなくてもいい。 「本当はこう思ってる」と、そのまま話していい。 たとえば、親の介護をしているとします。 大切な親だから、できることはしてあげたい。 そう思っている一方で、「もう疲れた」「少し離れたい」「なんで私ばっかり」と思ってしまうことがある。 そんな気持ちが出てきたとき、自分を責めてしまう人もいるでしょう。 「親なんだから大切にしなきゃ」 「もっと頑張らなきゃ」 「こんなことを思う私は冷たい」 でも、疲れていることと、親を大切に思っていることは、同時に存在できます。 愛情があるからこそ疲れることもある。 頑張っているからこそ、もう無理だと思うこともある。 その気持ちをなかったことにしてしまうと、心の中にどんどん苦しさが溜まってしまいます。 だから、まず吐き出していい。 「もう無理!」 「腹が立つ!」 「なんで私だけ!」 「正直、もう顔も見たくない!」 そんな言葉が出てきても大丈夫です。 言葉にして外へ出してみると、自分でも驚くほど、「ああ、私はそこまで追い詰められていたんだ」と気づくことがあります。 これは、愚痴でも同じです。 職場の上司に言われた一言が、どうしても許せない。 何日経っても思い出して腹が立つ。 家に帰ってからも、頭の中で何度もその場面を再生してしまう。 「そんなこと、気にしなきゃいい」と言われても、気になるものは気になるんですよね。 友達に話そうとしても、「また愚痴ってると思われるかな」と遠慮してしまう。 そんなときこそ、思い切り話していいと思うんです。 「本当にムカついた!」 「今でも腹が立つ!」 「私は悪くないと思う!」 そうやって話しているうちに、怒りの奥から別の気持ちが出てくることもあります。 本当は悔しかった。 本当は認めてほしかった。 本当は頑張っていることを分かってほしかった。 怒りだけを見ていると、その下にある気持ちには気づきにくいものです。 だから私は、最初から「そんなに怒らなくてもいいよ」と言いたくありません。 怒っているなら、まず怒っていい。 泣きたいなら、泣いていい。 嫉妬しているなら、「嫉妬してる」と言っていい。 そんな自分を、最初から良い人に直さなくてもいいんです。 私はこれまで、人の話を聴く中で、表面に出ている言葉だけでは分からない気持ちがあることをたくさん感じてきました。 「もうどうでもいい」と言っていても、本当は大切にしてほしかったのかもしれない。 「別に平気」と笑っていても、本当はすごく傷ついていたのかもしれない。 「相手が嫌い」と言いながら、本当は分かってもらいたかったのかもしれない。 人の気持ちは、一言では片づけられないんですよね。 だから私は、「あなたはこういう人ですね」と決めつけるのではなく、その人が話していく過程を大切にしたいと思っています。 そして、もう一つ大切にしていることがあります。 それは、「黒い気持ちが出てきた自分」を責めすぎないことです。 人間だから、いつも優しくいられるわけではありません。 家族にイライラする日もある。 友達の幸せを素直に喜べない日もある。 同僚の成功を見て、「いいな」と思ってしまうこともある。 誰かに嫌なことを言われたら、「同じ目に遭えばいいのに」と思うことだってある。 そんな瞬間があったからといって、その人の全部が悪い人になるわけではありません。 感情は、突然出てくることがあります。 でも、その感情をどう扱うかは、そのあと自分で考えることができます。 だからこそ、私は「感じてはいけない」と抑え込むより、「今、私はこんな気持ちなんだ」と気づくことを大切にしています。 気づけば、その気持ちを少し離れたところから見ることができます。 「ああ、私は相当疲れているんだな」 「本当はあの言葉が悲しかったんだな」 「私は、あの人が嫌いというより、うらやましかったのかもしれない」 そうやって見えてくると、次にどうするかも少し考えやすくなります。 だから、「黒い気持ち」は、必ずしも悪いものではないと思っています。 もしかすると、それは自分からの小さなサインかもしれないからです。 「もう少し休みたい」 「誰かに分かってほしい」 「これ以上は無理」 「私は本当は嫌だった」 心の中に出てきた言葉は、自分が今どんな状態なのかを教えてくれていることがあります。 でも、普段から我慢することに慣れている人ほど、そのサインを無視してしまいます。 「これくらい我慢しなきゃ」 「私より大変な人もいる」 「こんなことで弱音を吐いちゃダメ」 そうやって、自分の気持ちを後回しにする。 それを繰り返していると、いつの間にか「自分が何を感じているのか分からない」という状態になってしまうこともあります。 だから、誰かに話してみる。 「実は、私こんなこと思ってた」と言葉にしてみる。 それだけでも、自分の気持ちを取り戻すきっかけになることがあります。 私は、相談の場では「正しい気持ち」だけを持ってきてほしいとは思っていません。 むしろ、普段は人に見せられない気持ちを安心して置ける場所でありたいと思っています。 「こんなことを言ったら嫌われるかな」 「こんな自分をどう思われるかな」 そんな心配をしなくていい時間です。 もちろん、何をしてもいいという意味ではありません。 誰かを傷つける行動を肯定するわけでもありません。 でも、行動に移す前に、自分の中にある感情を言葉にしてみることはできます。 そして、感情を言葉にできると、少し冷静になれることがあります。 「今すぐ何かしなきゃ」と思っていたのが、「ちょっと待ってみようかな」に変わることもある。 「絶対に許せない」と思っていたのが、「私は何が一番嫌だったんだろう」と考えられるようになることもある。 そこまで来たら、次にどうするかは自分で選べます。 私は、その時間を大切にしたいんです。 そして、私は「黒い気持ち」を話すことには、もう一つ意味があると思っています。 それは、自分の中だけで膨らませないことです。 頭の中で何度も同じことを考えていると、最初は小さな不満だったものが、どんどん大きくなってしまうことがあります。 「あの人はいつも私を軽く扱う」 「誰も私のことなんて考えてくれない」 「どうせ私ばかり損をする」 そんなふうに、ひとつの出来事からどんどん話が広がってしまうこともありますよね。 だからこそ、いったん外に出してみる。 口に出してみると、「あれ?私が本当に腹を立てていたのは、ここだったんだ」と分かることがあります。 話すことは、誰かを責めるためだけのものではなく、自分の心の中を知るための時間にもなる。 私は、そんなふうに「話すこと」を使ってほしいと思っています。 もちろん、今日話したから全部スッキリしなくても大丈夫。 一回で整理できないことだってあります。 何度も話しながら、少しずつ自分の気持ちが分かってくることもある。 その人のペースでいいんです。 だから私は、あなたの中にどんな気持ちが出てきても、「まずはここに置いていっていいよ」と言える場所でありたいと思っています。 だから、もし今、あなたの中に誰にも言えない気持ちがあるなら、きれいに整えてから持ってこなくて大丈夫です。 怒っていてもいい。 嫉妬していてもいい。 羨ましくてもいい。 泣いていてもいい。 「もう嫌だ」と言ってもいい。 「こんなこと思ってる自分が嫌」というところからでも大丈夫です。 私は、その気持ちを聞きます。 そして、話していく中で、「私は本当は何を求めていたんだろう」と、一緒に見つけていけたらと思っています。 心の中にあるものは、押し込めればなくなるとは限りません。 むしろ、ちゃんと見てあげることで、少しずつ扱いやすくなることがあります。 怒りの奥にある悲しさ。 嫉妬の奥にある寂しさ。 愚痴の奥にある「分かってほしい」という気持ち。 投げ出したくなる気持ちの奥にある「もう頑張りたくない」という本音。 そこまでたどり着けたら、今までとは違う自分の気持ちが見えてくるかもしれません。 私は、「いつも前向きでいましょう」とは言いません。 嫌なものは嫌でいい。 腹が立つものは腹が立っていい。 疲れたら、疲れたと言っていい。 まずは、自分の気持ちを自分で認めてあげる。 それができるだけでも、心は少し変わると思っています。 誰かに見せるための自分ではなく、誰にも見せなくていい本当の気持ち。 そこには、意外と大切なものが隠れていることがあります。 「私は、こうしてほしかった」 「本当は、寂しかった」 「もっと大事にされたかった」 「もう頑張りたくない」 「本当は、これをやってみたい」 そんな本音が見えてきたら、その先でどうするかを考えればいい。 私は、その前段階の「話す時間」を大切にしたいんです。 だから、ここでは良い人にならなくて大丈夫。 誰かの前では言えないことも、ここではそのまま話してください。 あなたの中に出てきた気持ちは、あなたを悪い人にするために出てきたものではないのかもしれません。 もしかしたら、「ちょっと疲れてるよ」「本当は寂しいよ」「もう少し自分を大切にして」という、心からのサインなのかもしれません。 そのサインを、一緒に見つけてみませんか。 まずは、どんな気持ちでも大丈夫。 きれいじゃなくていい。 まとまっていなくていい。 「こんなこと思ってるんだけど……」から、始めてください。 私は、ちゃんと聴きます。

    ・35.心がいっぱいいっぱいのとき、大きな決断をしなくていい 2021年5月 〜 2021年5月

    「もう無理。全部やめたい」 そんなふうに思ったことはありませんか。 仕事で嫌なことが重なった日。 家族とのことで揉めた日。 パートナーとの関係がうまくいかない日。 誰かに言われた一言が、どうしても頭から離れない日。 いくつものことが一度に重なると、心の中にはどんどん荷物が増えていきます。 ひとつなら何とか持てる。 もうひとつくらいなら、まだ大丈夫。 でも、それがいくつも重なってくると、いつの間にか両手いっぱいになってしまう。 そんな状態のときに、「これからどうする?」と聞かれても、すぐに答えなんて出せないですよね。 私は、心がいっぱいいっぱいになっているときには、大きな決断を急がなくてもいいと思っています。 もちろん、今すぐ対応しなければいけないこともあります。 逃げたほうがいい状況や、誰かに助けを求めたほうがいい場合もあります。 でも、「今日中に人生の答えを出さなきゃ」とまで思わなくてもいい。 まず、少し荷物を下ろしてから考えてもいいんじゃないかなと思うんです。 私自身、人生の中で大きな出来事をいくつも経験してきました。 そのときは、目の前のことで精いっぱいでした。 悲しい。 悔しい。 腹が立つ。 怖い。 どうしたらいいのか分からない。 いろいろな感情が一度に押し寄せてくると、「これからどうしたい?」と聞かれても、自分でも分からなくなるんですよね。 本当はどうしたいのか。 何が一番嫌なのか。 何を大切にしたいのか。 そんなことを考える余裕なんてない。 ただ、苦しい。 だから私は、相談に来てくれた人に対しても、いきなり「じゃあ、どうしますか?」とは聞きたくありません。 まずは、その苦しさを話してほしい。 「今日こんなことがあった」 「もう嫌になった」 「こんなことを言われた」 「ずっと我慢している」 そんなことからでいいんです。 話しているうちに、頭の中に詰まっていたものが少しずつ外へ出ていきます。 それだけでも、心の状態は少し変わります。 もちろん、電話一本で現実の問題が消えるわけではありません。 嫌な上司が突然いなくなるわけでもない。 家族の性格が変わるわけでもない。 パートナーとの問題が、その場ですべて解決するわけでもない。 でも、問題そのものを変えられなくても、「問題を見ている自分の状態」を少し変えることはできるかもしれません。 これが、私はとても大事だと思っています。 同じ出来事でも、心に余裕があるときと、いっぱいいっぱいのときでは、見え方が違うからです。 例えば、誰かから言われた何気ない一言。 普段なら「まあ、そういうこともあるよね」で流せるのに、疲れ切っている日は、その一言がものすごく刺さる。 帰宅してからも思い出してしまう。 「なんであんな言い方するの?」 「私のこと嫌いなのかな」 「もう仕事なんて辞めてやる!」 そこまで思ってしまうこともあります。 もちろん、本当に相手の言い方が嫌だったのかもしれません。 でも、その日の自分がすごく疲れていたことも、関係しているかもしれない。 だからといって、「疲れているから気にするな」という話ではありません。 むしろ、疲れているなら「私は今、こんなに疲れているんだ」と気づいてあげることが大切だと思うんです。 心の余裕がなくなっているときは、何でも自分一人で解決しようとしなくていい。 誰かに話してもいい。 泣いてもいい。 愚痴を言ってもいい。 「もう無理!」と一度外に出してしまってもいい。 それだけでも、抱えていた荷物が少し軽くなることがあります。 私は、相談というものは「答えをもらう場所」だけではないと思っています。 むしろ、「考えられる状態に戻るための場所」でもあると思っています。 心がいっぱいのときには、目の前の問題しか見えなくなります。 「辞めるしかない」 「別れるしかない」 「もう全部終わり」 「私が我慢するしかない」 そんなふうに、選択肢が一つしかないように感じてしまうこともあります。 でも、少し心に余白ができると、「待って、他にも方法があるかもしれない」と思えることがあります。 誰かに話して、「そうか、私が一番苦しかったのはそこだったんだ」と気づくこともあります。 すると、最初に考えていた答えとは違う答えが見えてくることがあります。 だから私は、「決断するな」と言いたいわけではありません。 むしろ、自分で納得して決断するために、一度立ち止まってほしいと思っています。 勢いで決めたことが、あとから自分を苦しめることがあります。 反対に、少し時間を置いて、自分の気持ちを整理してから決めたことは、たとえ結果が思い通りにならなくても、「あのときの私は、これを選んだ」と受け止めやすくなることがあります。 私は、そこを大切にしたいんです。 人生には、「正解」が最初から書いてある問題ばかりではありません。 仕事を辞めるのか。 続けるのか。 家族との距離をどうするのか。 今の関係を続けるのか。 誰かに本音を伝えるのか。 もう少し様子を見るのか。 どれを選んでも、きっと「これで全部完璧!」ということはありません。 選んだあとに、「やっぱり違った」と思うこともあるでしょう。 だからこそ、誰かに決めてもらうのではなく、自分で考えて選ぶことが大切なんだと思います。 そのためには、まず自分の気持ちを知る必要があります。 でも、心がいっぱいのときには、それが難しい。 だから私は、まず話してほしいと思っています。 話すことで、頭の中にあるものを一つずつ外に出していく。 「私は怒っている」 「本当は悲しい」 「怖かった」 「寂しかった」 「分かってほしかった」 「もう疲れた」 そんな言葉が出てくるだけでもいいんです。 最初は「仕事を辞めたい」と言っていた人が、話しているうちに、「仕事そのものが嫌なんじゃなくて、あの人と一緒に働くのがつらい」と気づくかもしれません。 「家族と離れたい」と言っていた人が、「本当は一人になる時間が欲しかっただけかもしれない」と気づくこともあるでしょう。 「もう全部嫌」と思っていた人が、「全部ではなく、この一つがつらかったんだ」と分かることもあります。 そこまで見えてくると、考え方が少し変わります。 「全部捨てる」か「全部我慢する」か、その二つしかなかったように見えていたものに、別の選択肢が見えてくることがあるんです。 私は、それが「心の余白」だと思っています。 余白があると、少し考えられる。 少し考えられると、自分で選べる。 自分で選べると、少しだけ前を向ける。 そんな順番なのではないかなと思っています。 だから、心がいっぱいいっぱいのときに、「もっと前向きにならなきゃ」と頑張らなくても大丈夫です。 今は前向きになれなくてもいい。 笑えなくてもいい。 やる気が出なくてもいい。 まずは、今の自分がどれだけ疲れているのかを認める。 それだけでもいいんです。 「今日はもう何も考えたくない」と思うなら、それも一つの気持ちです。 「誰かに聞いてほしい」と思うなら、聞いてもらえばいい。 「ただ愚痴を言いたい」と思うなら、それでもいい。 相談というと、「何かを解決しなければ」と思う人もいるかもしれません。 でも、私はもっと気軽なものであってもいいと思っています。 今日あったことを話す。 嫌だったことを吐き出す。 誰にも言えないことを口にする。 泣く。 笑う。 「聞いてもらったら、ちょっとスッキリした」と思う。 それだけでも、十分意味があると思うんです。 心の中に余白がないまま、ずっと頑張り続けるのは、とても苦しいことです。 荷物を持ち続けていれば、どんなに体力のある人でも疲れます。 だから、たまには荷物を下ろしていい。 全部下ろさなくてもいい。 一つだけでもいい。 「これは今日は持たなくていい」と、横に置いてみる。 それだけでも、少し違うかもしれません。 そして、少し楽になったら、そのときに考えればいいんです。 今の仕事をどうするのか。 家族とどう向き合うのか。 この関係をどうするのか。 これから何を大切にしたいのか。 その答えは、私が決めるものではありません。 私は、あなたの人生を代わりに生きることはできないからです。 でも、あなたが自分の気持ちを整理するために、一緒に話すことはできます。 「どうしたらいいか分からない」と言っても大丈夫。 「もう全部嫌」と言っても大丈夫。 「本当はこうしたいけど、怖い」と言っても大丈夫。 そこから始めればいいんです。 私は、「こうしなさい」と答えを押しつけるより、「あなたは本当はどう感じている?」と、一緒に見つけていく時間を大切にしたいと思っています。 話しているうちに、自分でも忘れていた気持ちが出てくることがあります。 本当はこうしたかった。 本当は嫌だった。 本当は怖かった。 本当は誰かに分かってほしかった。 そういう気持ちが見えてきたとき、自分の中にあった答えにも、少しずつ近づけるのかもしれません。 だから、今すぐ決めなくてもいい。 今日、答えが出なくてもいい。 「今日は少し話せた」 「ちょっと気持ちが軽くなった」 それだけでも十分です。 明日の自分は、今日の自分とは少し違うかもしれません。 一晩眠ったら、少し考え方が変わることもある。 誰かに話したら、見え方が変わることもある。 少し休んだら、「やっぱりこうしたい」と思えることもある。 だから、心がいっぱいのときには、自分に「今すぐ答えを出さなくていいよ」と言ってあげてもいいと思います。 決断を先延ばしにすることと、決断するために心を整えることは、同じではありません。 自分の気持ちを置き去りにせず、納得できる答えを探すための時間。 私は、その時間を一緒に過ごしたいと思っています。 もし今、いろいろなことが重なって、頭の中がいっぱいになっているなら。 まずは、話してみませんか。 何から話しても大丈夫です。 順番もいりません。 きれいにまとめなくても大丈夫。 今、あなたの心に乗っている荷物を、一つずつここに置いていってください。 全部を今日、片づけなくてもいい。 少し軽くなったところで、また明日のことを考えればいいんです。 そのときに初めて見えてくる答えも、きっとあると思っています。

    ・36.「話すのが苦手」でも大丈夫。何から話せばいいか分からなくても、ここでは大丈夫です 2021年6月 〜 2021年6月

    「話すのが苦手」でも大丈夫。何から話せばいいか分からなくても、ここでは大丈夫です 「電話相談って、ちゃんと話せる人じゃないと無理なんじゃない?」 「何から話せばいいのか分からない」 「話したいことはあるけれど、うまく説明できない」 そんなふうに思っている方も、きっといると思います。 でも私は、電話相談では「上手に話すこと」は必要ないと思っています。 むしろ、頭の中がぐちゃぐちゃになっているときほど、話がまとまらないのは自然なことなんですよね。 悩みが大きいと、何から話したらいいのか分からなくなります。 「あれも言いたい」「これも聞いてほしい」と思っているうちに、話があちこちに飛んでしまうこともあります。 途中で自分でも何を言っているのか分からなくなったり、同じことを何度も話したり、話しているうちに涙が出てきたり。 それでいいんです。 電話相談は、発表会ではありません。 きれいに整理された話を聞かせてもらう場所でもありません。 私は、相談する人が「ちゃんと話さなくちゃ」と頑張る必要はないと思っています。 「実は、何から話せばいいか分からなくて……」 最初にそう言ってもらうだけでも大丈夫です。 そこから一緒に、ゆっくり始めればいいんです。 私は介護の仕事を20年続けてきました。 その中では、いろいろな方と話してきました。 話すことが得意な方もいれば、自分の気持ちを言葉にするのが苦手な方もいます。 同じことを何度も話される方もいますし、話が途中で止まってしまう方もいます。 こちらが質問しても、すぐには答えが返ってこないこともあります。 でも、だからといって「話すのが下手な人」だとは思いません。 その人の中にあるものを、言葉にするまでの時間がそれぞれ違うだけなんですよね。 人の気持ちは、いつもきれいに整理されているわけではありません。 「腹が立つ。でも嫌いになったわけじゃない」 「離れたい。でも本当は分かってほしい」 「もうどうでもいいと思う。でも気になって仕方ない」 そんなふうに、矛盾した気持ちが同時にあることだってあります。 だから、話している途中で言っていることが変わってもいいんです。 最初は「大丈夫です」と言っていたのに、話しているうちに「やっぱり嫌だった」と気づくこともある。 逆に、ものすごく腹が立っていたはずなのに、話しているうちに「本当は寂しかったのかもしれない」と気づくこともある。 私は、そういう変化こそ大切だと思っています。 最初から自分の気持ちを正確に分かっている人ばかりではありません。 話しているうちに、自分でも知らなかった気持ちが少しずつ見えてくる。 だからこそ、私は「きちんと話してください」とは思いません。 むしろ、うまく話せないままでも来てほしいと思っています。 沈黙があっても大丈夫です。 「……」となってしまっても、急いで言葉を探さなくていいんです。 泣いてしまってもいい。 怒っていてもいい。 何度も同じ話をしてもいい。 「こんなこと言ったら、変な人だと思われるかな」と心配しなくても大丈夫です。 話しているうちに、つい汚い言葉が出てしまうことだってあると思います。 普段は人に見せないようにしている「もう知らない!」「なんで私ばっかり!」という気持ちが出てくることもあります。 それも含めて、そのときのあなたの気持ちです。 私は、そこに「そんなふうに思っちゃダメですよ」と蓋をするのではなく、まずは「そう思うくらい、しんどかったんですね」と受け止めたいと思っています。 もちろん、電話相談だからといって、無理にたくさん話してもらう必要もありません。 私から少しずつ質問することもできます。 「それって、いつ頃からですか?」 「そのとき、どんな気持ちでした?」 「一番つらかったのは、どんなところでしたか?」 そんなふうに、話せるところから少しずつで大丈夫です。 逆に、質問されるより、自分のペースで話したい方もいると思います。 その場合は、思いついたことから話してください。 話が前後しても構いません。 私は「話の順番」よりも、「あなたが何を感じているのか」を大切にしたいと思っています。 そして、電話相談には、対面とは違う良さもあると思っています。 顔を合わせないからこそ、かえって話しやすいことがあります。 普段なら言えないことも、相手の表情を気にしなくていい分、言葉にしやすくなることもあるんですよね。 名前も顔も知らない相手だからこそ話せることもあります。 「家族には言えない」 「友達には心配をかけたくない」 「職場の人には絶対に言えない」 そんな話を、誰かに聞いてほしい夜もあると思います。 私は、そういうときに使ってもらえる電話相談でありたいと思っています。 そして、私は「相談されたら、必ず答えを出さなくてはいけない」とも思っていません。 もちろん、聞かれたことについて一緒に考えることはできます。 でも、最終的にどうするのかを決めるのは、その人自身です。 私は、これまでにも「誰かに話しているうちに、自分の気持ちが分かってきた」ということを大切にしてきました。 誰かに話を聞いてもらうと、それだけで頭の中に少し余白ができます。 余白ができると、今まで見えなかったものが見えてくることがあります。 「本当はこうしたかったんだ」 「私はこれが嫌だったんだ」 「思っていたより、私は頑張っていたんだ」 そんな気づきが、ふっと出てくることもあります。 だから私は、相談者さんに「こうしたほうがいいですよ」と答えを渡すことよりも、安心して話してもらえることを大切にしています。 自分のことを自分で考え、自分なりに納得できるところまでたどり着く。 そのためのお手伝いができたらと思っています。 そもそも「話すのが苦手」と感じる理由は、人によって違うと思います。 自分の気持ちを言葉にする習慣がなかった人もいるでしょうし、いつも周りを優先して、自分のことを後回しにしてきた人もいるでしょう。 「こんなことで悩んでいる自分がおかしいのかな」と考えてしまう人もいるかもしれません。 本当は悲しいのに「大丈夫」と言ってしまう。 腹が立っているのに「私が我慢すればいい」と飲み込んでしまう。 助けてほしいのに、「これくらい自分で何とかしなくちゃ」と思ってしまう。 そういうことが長く続いていると、自分が何を感じているのかさえ分からなくなることがあります。 だから、「相談するなら、まず自分の気持ちを整理してから」と思わなくていいんです。 整理するために話す、という方法もあります。 話しながら考える。 話しながら気づく。 話しながら、「あ、私ってこう思っていたんだ」と分かってくる。 私は、それでいいと思っています。 介護の現場でも、相手の話を聞いていると、最初に話していたことと最後に出てくる気持ちが違うことがあります。 最初は「別に大したことじゃない」と言っていたのに、少し話していくと、「実はずっと気になっていた」と分かる。 最初は怒っているように見えても、その奥には不安や寂しさがあることもある。 人の気持ちは、一言では表せないものなんですよね。 だから私は、話の途中で出てくる小さな言葉も大切にしたいと思っています。 「本当はね」 「でもね」 「誰にも言ってないんだけど」 「こんなこと言っちゃいけないと思うんだけど」 こういう言葉のあとには、その人がずっと胸の中にしまっていたものが出てくることがあります。 もちろん、必ず何かを話さなければいけないわけではありません。 今日はここまでしか話せない、という日があってもいい。 「今日はただ聞いてほしい」と言うだけでもいい。 「アドバイスはいらないから、聞いて」と伝えてもらっても大丈夫です。 反対に、「少し一緒に考えてほしい」と言ってもらっても大丈夫。 その日の気持ち、その日の余裕、その日の話したいこと。 毎回同じでなくていいんです。 私は、相談することを特別なことにしたくありません。 悩みが限界まで大きくなってからでなくてもいいし、「こんなことで電話していいのかな」と迷うくらいのことでもいい。 ちょっとモヤモヤしている。 誰かに聞いてほしい。 今日は疲れた。 何となく寂しい。 嬉しかったことを誰かに話したい。 そんな日にも、電話を使ってもらえたらと思っています。 深刻な相談だけが「相談」ではありませんから。 そして、話したあとに必ず前向きにならなくてもいいと思っています。 「今日はこれでいいか」と少し肩の力が抜けるだけでも十分。 「自分だけじゃなかった」と思えるだけでも十分。 「また明日考えよう」と思えるだけでも十分です。 心がいっぱいのときは、何かを解決する前に、まず誰かに受け止めてもらうことが必要な場合もあります。 話すことは、問題をすぐに消す魔法ではありません。 でも、ひとりで抱えているものを外に出すことで、少しだけ持ち方が変わることはあります。 私は、その小さな変化を大切にしたいんです。 電話相談というと、「悩みを相談して、答えをもらう場所」というイメージがあるかもしれません。 でも、私がつくりたいのは、それだけではありません。 「今日は誰かと話したかった」 「ちょっと聞いてもらいたかった」 「自分の気持ちをそのまま出せる場所がほしかった」 そんなときに、ふらっと立ち寄れるような場所。 ベンチに隣に座って、話したいことを話す。 そんな感覚でいてもらえたらと思っています。 だから、話すのが苦手でも大丈夫です。 何から話せばいいか分からなくても大丈夫。 まとまっていなくても、途中で止まっても、涙が出ても、笑ってもいい。 あなたが話せるところから、あなたのペースで。 電話を切るころに、「少し話してよかったな」と思ってもらえたら、私はうれしいです。 そしてまた、何か話したくなったときには、いつでもその続きからで大丈夫です。 「何から話せばいいか分からないんですけど……」 その一言からでも、私はちゃんと聴きます。

    ・37.「元気にならなきゃ」と思わなくていい。まずは安心して、納得できるところへ 2021年7月 〜 2021年7月

    「元気にならなきゃ」と思わなくていい。まずは安心して、納得できるところへ 悩みを抱えているときって、今の状況がイヤだから、辛いから、どうしたらいいのか分からなくなるんですよね。 「このままでいいのかな」 「どうしたら楽になれるんだろう」 「もう何も考えたくない」 そんなふうに、頭の中をいろいろな考えが行ったり来たりすることもあると思います。 そんなとき、私は相談者さんに「元気になってください」とは思いません。 無理に前向きにならなくてもいい。 すぐに笑えるようにならなくてもいい。 「大丈夫、大丈夫」と自分に言い聞かせて、気持ちを押し込めなくてもいい。 まずは、「今はこれでいいんだ」と思えること。 それが大切なんじゃないかなと思っています。 悩んでいるときは、心が落ち着いていない状態です。 今の状況がイヤ。 辛い。 腹が立つ。 悲しい。 怖い。 寂しい。 いろいろな気持ちが重なっているかもしれません。 そんな状態で、「じゃあ、どうする?」と急いで答えを出そうとしても、なかなかうまくいきません。 だから私は、何かを決める前に、まず安心できる場所に戻ってきてほしいと思っています。 誰かに話を聴いてもらう。 「そうだったんだね」と受け止めてもらう。 「大丈夫だよ」と言ってもらう。 それだけで、少しほっとすることがあります。 問題そのものが消えたわけではありません。 相手が変わったわけでもない。 状況が良くなったわけでもない。 それでも、「ひとりで抱えなくていいんだ」と思えるだけで、心の感じ方が少し変わることがあります。 私は、この「安心」がとても大切だと思っています。 安心は、心が立っている地面のようなもの。 地面がぐらぐらしていたら、歩き出すのも怖いですよね。 まず、ちゃんと立てる場所が必要です。 心も同じなんじゃないかなと思うんです。 私は、その場所を「ニュートラル」と考えています。 車にはニュートラルというギアがありますよね。 前にも進んでいない。 後ろにも進んでいない。 でも、どちらにも動き出せる状態です。 私は、心にもそんな場所があると思っています。 「今すぐ前向きにならなくちゃ」 「こうしなきゃ」 「もう決めなくちゃ」 そうやって一つの方向に無理に入れようとするのではなく、いったんニュートラルに戻る。 そこでは、「今の私はこう感じているんだ」と、そのままの自分を置いておける。 怒っていてもいい。 悲しくてもいい。 迷っていてもいい。 何も決められなくてもいい。 まずは、安心してそこにいていい。 私は、それが心のニュートラルだと思っています。 そして、安心できる場所に戻ると、その次に「納得」というものが見えてくることがあります。 私は、納得というのは「自分が次に入れるギアを選ぶ力」なんじゃないかなと思っています。 たとえば、誰かに「こうしたほうがいいよ」と言われたとします。 それで、その通りにしてうまくいけばいい。 でも、やってみて「なんか違う」と感じたら、どうでしょう。 「あの人がそう言ったから」 「言われた通りにしたのに」 そんなふうに、相手のせいにしたくなることもあると思います。 私自身も、そういう経験を何度もしてきました。 だからこそ、私は「誰かに決めてもらう」よりも、自分が納得できるところまで考えることを大切にしています。 もちろん、誰かの意見を聞いてはいけないということではありません。 むしろ、人に話すことで、自分では気づかなかったことに気づけることがあります。 「私は本当はどうしたいんだろう」 「何が一番イヤなんだろう」 「本当は何を望んでいるんだろう」 誰かに話しているうちに、少しずつ見えてくる。 その過程があるからこそ、最後に自分で選びやすくなるんですよね。 私は、相談者さんに「このギアに入れましょう」と言いたいわけではありません。 前に進むのか。 少し止まるのか。 一度戻るのか。 別の道を選ぶのか。 どの方向へ行くのかは、その人が決めていい。 そのために、まず安心できる場所まで戻ってきてもらう。 そして、自分の気持ちを話して、考えて、少しずつ納得できるところを探していく。 私は、そこまでのお手伝いができたらと思っています。 だから、電話をしてきたときに、すぐに「元気にならなきゃ」と思わなくて大丈夫です。 泣いていてもいい。 怒っていてもいい。 「もう嫌だ」と言ってもいい。 今の状況が辛いなら、「辛い」と言っていいんです。 私は、それを無理に明るい方向へ持っていこうとは思いません。 「そんなこと考えちゃダメ」 「前向きに考えよう」 「きっと良いことがあるよ」 そういう言葉が、かえって苦しくなるときもありますから。 人は、安心できて初めて、次のことを考えられることがあります。 だから私は、まず「今のあなたでいいですよ」というところから始めたいんです。 それは、「ずっとこのままでいい」という意味ではありません。 今すぐ変わらなくてもいい。 今すぐ答えを出さなくてもいい。 まずは、ここにいていい。 そう思えることです。 安心は、問題を解決することとは違います。 でも、問題と向き合うための土台にはなります。 心がずっと緊張していると、選択肢が見えなくなることがあります。 「もうこれしかない」 「どうせ無理」 「私にはできない」 そんなふうに、視野が狭くなることもあります。 でも、少し安心すると、「他にもあるかもしれない」と思える瞬間が出てくる。 誰かに話してみようかな。 今日は少し休もうかな。 もう一度考えてみようかな。 今までとは違う方法もあるかもしれない。 そんなふうに、選べるものが増えてくるんです。 だから私は、安心を「立っている地面」と考えています。 地面があるから、その上でどちらへ進むかを考えられる。 そして、納得は、その地面の上で自分の足で方向を選ぶこと。 この二つは、どちらも大切だと思っています。 安心だけでも、ずっと立ち止まっていることがあります。 納得だけを急ぐと、心がついてこないことがあります。 まず安心する。 そのあとで、自分の気持ちを確かめる。 そして、「私はこうしたい」と思えるところまで、自分の答えを探していく。 私は、この順番を大切にしています。 悩んでいるときって、「早く答えを出さなきゃ」という焦りも出てきますよね。 でも、本当に必要なのは、答えの速さではなく、自分の気持ちが置いていかれないことなのかもしれません。 たとえば、頭では「こうするしかない」と分かっていても、心が「本当は嫌だ」と言っているなら、その声を無視したまま進むのは苦しくなることがあります。 反対に、「今はこれでいい」と自分で納得できたなら、同じ選択でも、受け止め方は変わってくると思うんです。 だから私は、相談の時間を「答えをもらう時間」ではなく、「自分の答えに近づいていく時間」として使ってもらえたらと思っています。 そのために、私はまず安心して話せる空気をつくりたい。 どんな気持ちでも置いていける場所があれば、人は少しずつ自分の本音に近づけると思うからです。 「こんなことを言ってもいいのかな」と思うことほど、実は話してみると、自分にとって大切な気持ちだったと分かることもあります。 だから、まとまった答えを持って電話をかけてこなくて大丈夫。 今の気持ちを、そのまま持ってきてください。 私は、そこから一緒に始めたいと思っています。 だから、電話相談でも、最初から「どうしたらいいですか?」という答えを求めなくても大丈夫です。 もちろん、そう聞いてもらっても構いません。 でも、その前にたくさん話してもいい。 今日あったことを話してもいい。 相手への不満を全部吐き出してもいい。 自分でも嫌になるような気持ちを話してもいい。 泣いてもいい。 そうやって心の中に溜まっていたものを外に出していくと、少しずつ心に余白ができることがあります。 余白ができると、今まで見えなかった自分の気持ちが見えてくる。 「私は本当は、こうしたかったんだ」 「ここだけは譲りたくないんだ」 「今は決めなくてもいいんだ」 そんな気づきが出てくるかもしれません。 私は、それを大切にしたいんです。 「元気になって電話を切ってほしい」というより、 「少し安心できた」 「自分の気持ちが分かった」 「今はこれでいいと思えた」 「これなら、自分で決めていけそう」 そんなふうに感じてもらえたらいいなと思っています。 もちろん、電話を切ったあとも、状況がすぐ変わるわけではありません。 明日になれば、また同じ問題が待っているかもしれない。 また悩む日もあるでしょう。 それでも、一度安心できる場所を知っていると、心が揺れたときに戻ってこられることがあります。 「私は今、かなりいっぱいいっぱいなんだな」 「ちょっと立ち止まろう」 「誰かに話してみよう」 そうやって、自分をニュートラルに戻すことができる。 私は、そんな感覚を少しずつ持ってもらえたらと思っています。 人生には、自分ではどうにもできないこともあります。 相手を変えることはできない。 過去をやり直すこともできない。 すぐには動かせない状況もあります。 だからこそ、「状況を変えること」だけを目標にしなくてもいいと思うんです。 まず、自分の心が安心できる場所をつくる。 そこから、今できることを考える。 そして、自分が納得できるギアを選んでいく。 そのギアは、前進だけとは限りません。 休むことかもしれない。 距離を置くことかもしれない。 誰かに助けを求めることかもしれない。 もう一度話し合うことかもしれない。 何も決めず、しばらくそのままでいることかもしれない。 どれを選ぶかは、その人の自由です。 私は、その選択を急がせたくありません。 ただ、安心して自分の気持ちを話せる場所でありたい。 話すことで、少し心が落ち着く。 落ち着いたところで、自分の気持ちが見えてくる。 そして、「私はこれでいい」と思えるところまで、一緒に考えていく。 それが、私が考えている電話相談です。 元気になれない日があってもいい。 答えが出ない日があってもいい。 迷っている自分でもいい。 まずは安心できる場所に戻ってくる。 そこからなら、どの方向にも進めます。 車のニュートラルギアのように。 心も、ニュートラルに戻れば、また自分でギアを選べる。 私は、そんな「心の地面」になれるような場所を、つくっていきたいと思っています。 そして電話を切るときに、 「今すぐ何かを変えなくてもいいんだ」 「私は私の答えを、自分で選んでいけばいいんだ」 そんなふうに、少し安心してもらえたら。 それだけでも、十分だと思っています。

    ・38.介護の仕事で20年、人の話を聴いてきて思うこと 2021年8月 〜 2021年8月

    「介護の仕事で20年、人の話を聴いてきて思うこと」 私は介護の仕事を20年ほど続けてきました。 その間、特別養護老人ホーム、グループホーム、デイサービス、サービス付き高齢者向け住宅など、いろいろな介護の現場で働いてきました。 介護の仕事というと、「人の話を聴く仕事」というイメージを持つ方もいるかもしれません。 もちろん、利用者さんやご家族のお話を聴く場面はたくさんあります。 でも、20年介護をしてきて私が思う「聴く」ということは、必ずしも、言葉と言葉を交わすことだけではないんです。 特に入居型の施設では、認知症の症状がある方がほとんどです。 もちろん、症状の程度や現れ方は一人ひとり違います。 言葉で上手に会話ができる方もいれば、言葉でのやり取りが難しい方もいます。 何度も同じことを話される方もいます。 こちらの問いかけに、言葉では返ってこないこともあります。 だから介護の現場では、「何を言ったか」だけを聴いているわけではありません。 表情を見る。 声の調子を感じる。 いつもと違う様子に気づく。 落ち着かない様子なら、そばにいる。 不安そうなら、安心できるように声をかける。 そんなことも含めて、「聴く」なんだと思うようになりました。 たとえば、言葉としては同じことを繰り返していても、その奥に「不安」があるのかもしれない。 「家に帰りたい」と何度も言われるなら、単純に家に帰りたいという言葉だけではなく、「ここは大丈夫な場所なの?」という不安があるのかもしれない。 もちろん、私たちが勝手に決めつけてはいけません。 その人が何を感じているのかを想像しながら、その人のそばにいる。 それも介護における「聴く」なのだと思っています。 一方で、デイサービスでは、認知症状がない方も多くいらっしゃいます。 脳梗塞などの病気の後遺症で身体に麻痺が残っている方や、今できていることをできるだけ長く続け、一人で暮らせる身体機能を維持したいという方もいます。 そういう方とは、普通に会話をすることも多いです。 今日の出来事を話したり、昔の話を聞いたり、家族の話を聞いたり。 何気ない会話の中に、その方の人柄や生活が見えてくることもあります。 でも、どの現場にいても、私が大切にしてきたのは、「その人をその人として見ること」だったように思います。 介護では、どうしても「介護する側」と「介護される側」という関係になります。 食事を手伝う。 入浴を手伝う。 排せつを手伝う。 着替えを手伝う。 薬を確認する。 必要なことを行っていく仕事です。 でも、介助が必要になったからといって、その人の人生まで誰かのものになるわけではありません。 その人には、その人の思いがあります。 嫌なこともある。 やりたいこともある。 こだわりもある。 昔から大切にしてきたものもある。 介護する側が「こうしたほうがいい」と思っても、本人にとっては違うこともあります。 だからこそ、介護では「相手を知ること」が大切なんだと思います。 そして、ご家族との関わりでは、また違う意味で「聴く」ことが必要になります。 ご家族は、長い時間を一緒に過ごしてきたからこそ、いろいろな思いを抱えています。 心配。 寂しさ。 罪悪感。 怒り。 疲れ。 「もっとできたんじゃないか」という後悔。 「親だから大切にしたい」という気持ちと、「もう疲れた」という気持ちが同時にあることもあります。 家族だからこそ、きれいな気持ちだけではいられません。 介護の仕事をしていると、そういうご家族のお話を聴く機会もあります。 そして私は、家族介護について考えるとき、介護職と家族では大きく違うところがあると思っています。 介護の仕事は、仕事だからこそ、できることがあります。 もちろん、簡単な仕事ではありません。 体力も使いますし、気も遣います。 大変なこともたくさんあります。 それでも、仕事が終われば家に帰ることができます。 その日の仕事を終えて、自分の生活に戻ることができます。 私は、そこが家族介護とは大きく違うと思っています。 家族介護は、そうはいきません。 24時間365日、頭のどこかに介護がある。 食事をどうしよう。 病院はいつだったかな。 今日は大丈夫かな。 夜、何かあったらどうしよう。 出かけたいと思っても、すぐには出かけられない。 自分の予定を立てることも難しい。 ちょっと休みたいと思っても、介護する相手のことが気になる。 「今日は私の休日」と、簡単には切り替えられないんですよね。 だからこそ、家族介護をしている人には、ときどきでもいいから、介護とは関係のないところで、自分の気持ちを吐き出せる場所が必要なんじゃないかなと思っています。 「もう疲れた」 「今日は本当に腹が立った」 「こんなことを思う自分は冷たいのかな」 そんなことを言ってもいい場所です。 家族には言えない。 介護をしていない友達には分かってもらえない。 介護の話ばかりすると、相手にも申し訳ない。 そんなふうにして、どんどん自分の中に溜めてしまうことがあります。 でも、吐き出したからといって、親を大切に思っていないわけではありません。 「もう嫌だ」と思ったからといって、愛情がないわけでもありません。 疲れるものは疲れるんです。 大切な人だからこそ、簡単には離れられない。 だからこそ、疲れるんです。 私は、そこを無理にきれいな言葉にしなくていいと思っています。 そして、ここからが、私が電話相談をしている理由ともつながっています。 介護の現場では、介護される側が主人公です。 それは当然のことだと思います。 その人が安全に、その人らしく生活できるように支える。 介護職は、そのために働きます。 でも、家族介護をしているご家族まで、ずっと「介護する人」という役割だけになってしまったら、苦しくなると思うんです。 本当は、その人にも自分の人生があります。 自分の好きなことがある。 やりたいことがある。 休みたい日がある。 誰かに甘えたいときもある。 でも、家族介護が始まると、生活そのものが介護とつながってしまいます。 自分の時間と、介護する相手の時間の境界線が薄くなる。 自分の行動にも制限が出てくる。 「私がいないと」 「私がやらないと」 そう思ううちに、自分自身が主人公であることを忘れてしまうことがあります。 私は、これは介護だけの話ではないと思っています。 誰かのために頑張り続けている人は、家族介護をしていなくても、自分の人生の主人公から少しずつ降りてしまうことがあります。 夫のため。 子どものため。 親のため。 職場のため。 気づいたら、自分の気持ちは後回し。 「私はどうしたい?」と聞かれても、すぐに答えられない。 そんな人もいると思います。 だから私は、電話相談では、相談する側の人が主人公であってほしいと思っています。 介護の場では、介護される方が主人公。 でも、電話相談の時間は、あなたが主人公です。 家族の話をしてもいい。 仕事の話をしてもいい。 介護の話をしてもいい。 でも、その時間だけは、「私はどう感じているんだろう」「私はどうしたいんだろう」と、自分のことを考えていいんです。 誰かの世話をする時間ではありません。 誰かのために我慢する時間でもありません。 あなたが話す時間です。 「今日はもう限界」 「誰にも言えないけど、本当はこう思ってる」 「こんな自分、嫌だな」 そんな気持ちも、そのまま話して大丈夫です。 介護の仕事をしてきたからこそ、私は「介護する人」の大変さも分かります。 そして、介護される人にも、その人の不安や苦しさがあることも分かります。 だからこそ、どちらか一方だけを責めたいわけではありません。 家族も悪くない。 介護される人も悪くない。 介護する人も悪くない。 ただ、介護という状況そのものが、人を疲れさせることがあるんです。 その疲れを、「家族なんだから」「親なんだから」「もっと頑張らなきゃ」で押し込めなくてもいいと思います。 誰かに話す。 少し吐き出す。 「そうだったんですね」と受け止めてもらう。 それだけでも、また自分の生活に戻るための力を取り戻せることがあります。 施設に預けることに、罪悪感を持つご家族もいるかもしれません。 でも、施設に預けることで、ご家族が「介護する人」だけではなく、自分自身の生活を持てるようになることもあります。 会いに行ったときには、介護者と介護される側という関係だけではなく、「家族」として過ごせる時間も生まれる。 私は、それも大切なことだと思っています。 家族だからこそ、ずっと一緒にいなければならないわけではありません。 少し離れることで、また優しくなれることもあります。 自分の時間を持つことは、決して冷たいことではありません。 むしろ、長く家族を支えていくためには、自分自身を守る時間も必要なんだと思います。 介護の仕事を20年してきて、私はたくさんの人の人生に触れてきました。 その中で感じるのは、人は誰でも「自分の人生を生きたい」という気持ちを持っているということです。 介護が必要になっても、それは変わりません。 そして、介護する側にも同じように、自分の人生があります。 だから私は、介護する人にも「あなたの人生も大切ですよ」と伝えたい。 頑張っていることを認めてほしい。 疲れたときには、疲れたと言ってほしい。 腹が立ったら、腹が立ったと言っていい。 きれいな言葉にできなくてもいい。 電話相談は、そのための場所の一つになれると思っています。 介護の相談を専門的に解決する場所、というよりも、その介護をしている「あなた」の話を聴く場所。 介護される人ではなく、あなた自身が主人公になって話せる時間です。 もちろん、介護の話ではなくても大丈夫です。 今日あったこと。 嬉しかったこと。 腹が立ったこと。 何となく寂しいこと。 何でも話してください。 私は介護の現場で、「そばにいて安心してもらう」という意味での「聴く」を20年続けてきました。 そして今は、電話の向こうにいる人にも、そんな安心を感じてもらえたらと思っています。 介護の現場では、言葉のキャッチボールができなくても、そばにいることに意味があります。 電話相談では、言葉を使って、あなたの気持ちを受け止めることができます。 形は違っても、私が大切にしていることは同じです。 「ここでは無理しなくていい」 そう感じてもらえること。 そして、電話を切ったあとに、少しだけ自分の人生に戻っていけること。 誰かを支えるためにも、まず自分が立っていられることは大切です。 ずっと誰かの主人公を演じ続けなくていい。 あなたの人生では、あなたが主人公でいていいんです。 介護のことで疲れたときも、家族のことでいっぱいになったときも、何も関係なく、ただ誰かに話したいときも。 その時間くらいは、自分のために使ってください。 私は、そんなふうに安心して話せる場所でありたいと思っています。

    ・39.「話す」って、そんなに大げさなことじゃない。話すことから、少しずつ心が動き出す 2021年9月 〜 2021年9月

    「話す」って、そんなに大げさなことじゃない。話すことから、少しずつ心が動き出す 「誰かに話す」って、考えてみると、とても不思議なことですよね。 悩みがある。 落ち込んでいる。 なんとなくモヤモヤする。 そんなとき、私たちは自然に誰かに話します。 「ちょっと聞いてよ」 「こんなことがあってさ」 「もう、ほんと嫌になっちゃう」 友達に話したり、家族に話したり、職場の人に話したり。 そして、話しているうちに、少し気持ちが落ち着いてくることがあります。 私は最近、電話相談を始めてみて、「話すって、すごいことなんだな」と改めて感じるようになりました。 それまでは、あまりにも当たり前のことだったんです。 私自身も、悩んだときや落ち込んだときには、必ず誰かに話を聴いてもらっていました。 でも、それが自分にとってどれほど大切なことなのか、ちゃんと考えたことがなかったんですよね。 当たり前すぎて、気づいていなかったんです。 電話相談についていろいろ調べたり、実際に相談を受けたりする中で、「人に話す」ということには、もっと大きな意味があるんじゃないかと思うようになりました。 人間にとって、話すことって、もしかしたら空気くらい必要なものなのかもしれない。 そんなことまで思うんです。 私たちは、呼吸をすることを「特別なこと」とは考えません。 苦しくなれば、自然に息を吸います。そして、吐きます。 それと同じくらい、「誰かに話す」ということも、人間の土台に近いものなのかもしれません。 もちろん、一人で考える時間も大切です。 でも、人はずっと一人で自分の中だけにいると、考えが同じところをぐるぐる回ってしまうことがあります。 「どうしよう」 「でも、こうするしかない」 「いや、やっぱり無理」 「でも……」 頭の中だけで考えていると、出口が見えなくなることがあります。 そんなときに、誰かに話す。 それだけで、少し違ってくることがあります。 話すことで、頭の中にあったものが外に出ます。 言葉にしてみると、「私、こんなことを考えていたんだ」と自分で気づくこともあります。 話している途中で、「あれ? 本当はそこが嫌だったんじゃないかも」と気づくこともあります。 最初は相手への怒りを話していたのに、最後には「本当は寂しかった」と分かることもある。 逆に、「私はそんなに気にしていないと思っていたけど、やっぱり傷ついていたんだ」と気づくこともあります。 だから、話すことは、単に言葉を外に出すだけではないんですよね。 自分の中にあるものを、自分で見つける作業にもなる。 私は、そこがすごいところだと思っています。 そして、ここでちょっと言葉遊びをしてみたいんです。 「話す」。 話すと、心の中に抱えていたものを「離す」ことができる。 ぎゅっと握りしめていたものを、少し手放す。 そして「放す」。 ずっと自分の中に閉じ込めていた言葉や気持ちを、外へ放してあげる。 そうすると、心に少し空間ができる。 そして最後は、ちょっと無理やりですが(笑)、「華す」。 心に余白ができると、今まで見えなかった自分の良さや、これからの可能性が、少しずつ見えてくることがある。 私はそんなふうに、「話す」には、その先にいろいろな変化があるんじゃないかなと思っています。 もちろん、話したからといって、問題が消えるわけではありません。 嫌な人が突然いなくなるわけでもない。 家族の状況が急に変わるわけでもない。 明日の仕事が楽になるわけでもない。 でも、同じ状況でも、自分の心の持ち方が少し変わることがあります。 一人で抱えていると、「私がなんとかしなくちゃ」と思っていたことが、誰かに話しただけで、「今日はもうこれ以上考えなくてもいいか」と思えることもある。 「私、ちゃんと頑張っていたんだな」と気づくこともある。 「もう少しだけやってみようかな」と思えることもある。 反対に、「やっぱりこれは無理だったんだ」と認められることもある。 どちらも、大切な気づきだと思います。 私は、「話せば必ず前向きになれる」とは思っていません。 元気にならなくてもいい。 答えが出なくてもいい。 ただ、「一人で抱えなくてよかった」と思えたら、それだけでも十分なことがあります。 そして、話す相手は、必ずしも家族や友達でなくてもいいんですよね。 家族には心配をかけたくない。 友達には同じ話を何度もできない。 職場の人には絶対に言えない。 そんなこともあります。 だからこそ、利害関係のない相手に話すという選択肢があってもいい。 「今日だけ聞いてほしい」 「誰かに話したかった」 それだけでもいいんです。 相談という言葉を使うと、少し大げさに感じる人もいるかもしれません。 「私の悩みなんて、相談するほどじゃない」 そう思う人もいるでしょう。 でも、私は「相談するほどじゃないこと」こそ、話していいと思っています。 今日、ちょっと嫌なことがあった。 なんとなく寂しい。 誰かに腹が立った。 仕事で疲れた。 家族にイライラした。 嬉しいことがあったから聞いてほしい。 ちょっと自慢したい。 そんな話でもいいんです。 人に話すって、もっと気軽でいいと思うんです。 「ちょっと聞いてよ~」くらいでいい。 友達とお茶を飲みながら話すように。 誰かと帰り道に話すように。 ベンチに座って、隣の人にぽつぽつ話すように。 そんな感覚で使える電話相談だったらいいなと思っています。 私は、介護の仕事を20年してきたこともあり、人の話を聴く機会はたくさんありました。 でも、電話相談を始めてみると、「話す側」にとっての「話す」という行為の意味を、改めて考えるようになりました。 電話の向こうには、実際には会ったことのない人がいます。 それでも、その人が言葉にして話してくれる。 その声を聴いていると、最初はまとまっていなかった気持ちが、少しずつ言葉になっていくことがあります。 「そういえば……」 「本当は……」 「私、こう思っていたのかも」 そんなふうに、話している本人が自分の気持ちを見つけていく。 私は、その瞬間がとても大切だと思っています。 誰かに答えを教えてもらうのではなく、自分の中から言葉が出てくる。 それは、その人自身のものです。 だから、あとになって「やっぱり違った」と思ったとしても、自分で考えて選んだことなら、また考え直すことができます。 私は、そういう「自分で選べる状態」に戻っていくことが大切なんじゃないかなと思っています。 心がいっぱいいっぱいのときは、選択肢が見えなくなることがあります。 「もうこれしかない」と思ってしまう。 でも、誰かに話して少し心に余白ができると、「こっちもあるかもしれない」と思えることがあります。 それだけでも、話す意味はあると思うんです。 そして、話すことには、もう一つ大切なことがあります。 「自分の気持ちを、そのまま受け止めてもらう」ということです。 人は、自分の気持ちを否定されずに聴いてもらうと、「この気持ちがあってもいいんだ」と思いやすくなります。 怒っていてもいい。 悲しくてもいい。 嫉妬してもいい。 弱音を吐いてもいい。 そんな自分を、まずそのまま置いておく。 そこから、少しずつ次のことを考えていけばいい。 私は、電話相談の時間を、そんな場所にしたいと思っています。 だから、電話をかけるときに、立派な悩みを用意しなくても大丈夫です。 話しているうちに、見つかることがあります。 「そうそう、これが言いたかった」 そんな瞬間が来るかもしれません。 今日はただ、誰かに聴いてほしかった。 それだけでもいいんです。 私は、電話相談って、もっと呼吸に近いものになってもいいんじゃないかなと思っています。 苦しくなったから、深呼吸する。 心がいっぱいになったから、誰かに話す。 毎日誰かに電話しなければいけないという意味ではありません。 自分一人で過ごす時間も大切です。 ただ、「話したい」と思ったときに、「こんなことで電話していいのかな」と自分で止めてしまわなくていい。 話すことは、特別なことではないからです。 人間にとって、話すことは、もしかしたら空気のようなもの。 あまりにも身近だから、その大切さに気づかない。 でも、なくなると苦しくなる。 だから、私は「話せる場所」がもっと普通にあってもいいと思っています。 病気になるほどではない。 心が壊れるほどではない。 でも、なんとなくしんどい。 誰かに聞いてほしい。 そんなときに、気軽に使える場所。 それが電話相談だったらいいなと思っています。 「ちょっと聞いてよ」 そのくらいの気持ちで電話をかけてもらえたら嬉しいです。 そして、話して、少し離して、少し放して。 心に余白ができたら、そこに自分の好きなものや、楽しいことや、これからのことが少し入ってくるかもしれません。 それが、私の言う「華す」なのかもしれません(笑)。 悩みを全部なくす必要はありません。 人生を一気に変える必要もありません。 ただ、今抱えているものを、少し外に出してみる。 誰かに話してみる。 それだけで、心がほんの少し呼吸しやすくなることがあります。 私は、そんな時間を一緒につくりたいと思っています。 「相談するほどじゃないんだけど……」 その一言からで大丈夫。 「ちょっと聞いてほしくて」 それでも大丈夫。 今日あったことでも、ずっと抱えていたことでも、くだらない話でも、嬉しかった話でも。 あなたが話したいことを、あなたのペースで話してください。 話すことは、もっと気軽でいい。 もっと普通でいい。 呼吸をするように、当たり前に誰かに話せる場所がある。 そんな電話相談だったら、いいですよね。 そして電話を切ったあとに、「ああ、ちょっと話してよかった」と思ってもらえたら。 それだけで、私は十分嬉しいです。 「話す」ことって、何かを解決するためだけのものではないんですよね。 嬉しいことがあったら誰かに伝えたくなる。 おいしいものを食べたら「これ、おいしいよ」と言いたくなる。 腹が立つことがあったら「聞いてよ!」と言いたくなる。 そう考えると、話すことは、悩みを抱えた人だけに必要なものではありません。 人と人がつながるための、とても自然な行為なんだと思います。 だから私は、「悩みがある人が電話をする場所」だけではなく、「誰かと話したい人が電話をする場所」にしたい。 そのくらい気軽で、身近な場所でありたいと思っています。 今日は何を話そうかな、と考えてから電話をかけなくてもいい。 話し始めたら、きっと何か出てくる。 何も出てこなかったら、それもまたいい。 そんなふうに、肩の力を抜いて使ってもらえたら嬉しいです。 話すことは、特別な技術じゃありません。 誰にでもできる、とても人間らしいこと。 だからこそ、私はその「当たり前」を大切にしていきたいと思っています(*^-^*)

    ・40.電話を切ったあとに、少し心が軽くなっていたらいい 2021年10月 〜 2021年10月

    ### 電話を切ったあとに、少し心が軽くなっていたらいい 電話相談をしていて、私が一番願っていることがあります。 それは、電話を切ったあとに、相談者さんの心がほんの少し軽くなっていること。 もちろん、電話をしたからといって、目の前の問題が全部なくなるわけではありません。 家族の性格が急に変わるわけでもないし、職場の環境が明日から別のものになるわけでもない。 長年抱えてきた悩みが、数十分話しただけですっかり解決するとも思っていません。 でも、問題そのものが変わらなくても、 「このまま、もう少し様子を見てみようかな」 と思えることはあるんじゃないかなと思うんです。 私は、それだけでも大きなことだと思っています。 悩んでいるときって、目の前の出来事と、自分の心がものすごく近くなっていることがあります。 何かが起きる。 それを考える。 また嫌な気持ちになる。 嫌な気持ちになるから、さらにそのことを考える。 考えれば考えるほど、不安になる。 不安になると、また起きてもいないことまで想像してしまう。 そうすると、いつの間にか「起きていること」と「悩んでいること」が、くっついてしまうんですよね。 私はこれを、二つのビルにたとえて考えることがあります。 ひとつは「事実のビル」。 もうひとつは「悩みのビル」。 本当は、この二つは別々の建物なんです。 ところが、その間に連絡通路ができている。 事実のビルで何かが起こると、その連絡通路を通って、悩みのビルにも影響が入ってくる。 たとえば、事実のビルで火事が起きたとします。 連絡通路がつながっていれば、煙がこちらのビルにも入ってきます。 事件が起きれば、犯人がこちらへ来てしまう可能性もある。 もちろん、これはあくまで私の頭の中のたとえ話です。 でも、心の中では似たようなことが起きているんじゃないかなと思うんです。 「夫がこんなことを言った」 「子どもがこういう態度を取った」 「職場でこんなことがあった」 これは、まず事実として起きたこと。 でも、そのあとに、 「きっとこれからもこうなる」 「私は大切にされていないんだ」 「また同じことが起きるかもしれない」 「この先どうなってしまうんだろう」 と、心の中でどんどん広がっていく。 もちろん、その心配には理由があると思います。 長く一緒に暮らしてきたからこそ分かることもあるでしょう。 過去に何度も同じことがあったから、また起きると思ってしまうこともある。 だから、 「そんなこと考えなければいい」 なんて簡単には言えません。 私自身も、いろいろなことから影響を受けながら生きてきました。 というより、何十年も生きてきたら、そりゃあ影響も受けますよね(笑)。 家族のこと。 仕事のこと。 人間関係のこと。 そのときどきで起きる出来事に心が揺れて、それを引きずって、また次の日を迎える。 そんなことを繰り返してきました。 だからこそ思うんです。 人は、自分が思っている以上に、周りで起きていることから影響を受けているんじゃないかな、と。 そして、その影響があまりにも当たり前になっていると、 「私は今、何に影響されているんだろう?」 ということ自体に気づけなくなることがあります。 それが、心が苦しくなる理由のひとつになることもあると思うんです。 だから私は、電話で相談者さんのお話を聴きながら、 「その出来事と、今のあなたの気持ちは、どこでつながっているんだろう」 と一緒に見ていくことがあります。 もちろん、私が答えを決めるわけではありません。 「ここが連絡通路ですよ」と指さして終わりでもありません。 話している本人が、 「あ、私、ここでつながっていたんだ」 と気づくこと。 それが、とても大切なんじゃないかなと思っています。 なぜなら、その連絡通路をどうするのかを決められるのは、本人だからです。 私は通路を勝手に壊すことはできません。 誰かの人生の中に入り込んで、 「もう気にしなくていいですよ」 「こう考えれば大丈夫です」 と、外側から決めることもできません。 それは、その人自身にしかできないことです。 でも、 「こういうところで、ずっと影響を受けていたのかもしれない」 と気づくためのお手伝いはできる。 私は、そこに電話相談の意味があると思っています。 連絡通路があることに気づけば、 「今、煙がこっちまで来ているな」 と分かるようになる。 そうすると、 「ちょっと窓を閉めよう」 「今はこっちのビルから離れておこう」 「これは向こうで起きていることで、私のいる場所まで全部燃えているわけじゃない」 と考えられるかもしれません。 もちろん、現実に危険がある場合や、すぐに対応しなければならないことまで、ただ距離を取ればいいという話ではありません。 そこは、きちんと現実を見る必要があります。 でも、現実に起きていること以上に、自分の心まで巻き込まれてしまっているとしたら。 そこには、少し距離を取れる余地があるかもしれない。 私は、その「少し」を大切にしたいんです。 悩みがなくなることだけが、心が軽くなることではないと思うからです。 同じ問題を抱えたままでも、 「今すぐ答えを出さなくてもいいか」 「今日はここまで考えなくてもいいか」 「これは相手の問題で、私の全部ではないな」 と思えたら。 それだけでも、心が少し自分の場所へ戻ってこられることがあります。 そして、自分の場所へ戻ってくると、見えるものが変わることがあります。 さっきまで、 「もうどうしたらいいか分からない」 と思っていたことが、 「今はこれだけやっておこう」 に変わる。 「全部何とかしなきゃ」 と思っていたことが、 「これは今すぐ私が何とかすることじゃないな」 と思える。 そんなふうに、問題との距離が少し変わることがあるんです。 私は、それが「心が軽くなる」ということのひとつなんじゃないかなと思っています。 だから、電話相談が終わったときに、 「じゃあ、明日から頑張りましょう!」 と元気いっぱいになっていなくてもいいんです。 泣いたままでもいい。 まだ答えが出ていなくてもいい。 「とりあえず今日は、これでいいか」 と思えたら、それで十分です。 「もう少し様子を見てみよう」 「今すぐ決めなくてもいいな」 「私は私の場所に戻っていいんだ」 そんな小さな感覚を持って、電話を切ってもらえたら。 私は、それがとても嬉しいです。 電話相談では、相談者さんが主人公です。 私は、その人に代わって人生を決める人ではありません。 隣に座って話を聴きながら、 「ここはどう感じていますか?」 「本当はどうしたいですか?」 「今、一番苦しいのはどこでしょうね」 そんなふうに、一緒に心の中を見ていく。 話しているうちに、自分でも気づかなかった気持ちが出てくることがあります。 怒っていたと思ったら、本当は寂しかった。 諦めたと思っていたら、本当は分かってほしかった。 どうでもいいと思っていたのに、本当はずっと傷ついていた。 そんなこともあるかもしれません。 それが分かったからといって、すぐに何かを変えなくてもいいんです。 気づくだけでもいい。 そして、その気持ちを、 「そうだったんだね」 と自分自身で受け止められたら、それもひとつの前進だと思っています。 私は、電話相談を「問題を解決してもらう場所」だけにはしたくありません。 もちろん、具体的な方法を一緒に考えることもあります。 でも、それ以上に、 「ここでは何を話しても大丈夫」 と思える場所でありたい。 誰かの前では言えなかったこと。 家族には言えなかったこと。 友達には心配をかけたくなくて言えなかったこと。 ずっと自分の中だけでぐるぐる考えていたこと。 そんなものを、いったん外に出していい場所。 そして、話し終わったら、また自分の日常へ戻っていく。 そのときに、来たときより少しだけ心が軽くなっていたらいい。 少しだけ、問題との距離ができていたらいい。 「このままでも、もう少し様子を見てみよう」 そう思えたらいい。 そして何より、 「私の人生は、私のものなんだ」 と、ほんの少しでも思い出してもらえたら嬉しいです。 人は、誰かの言葉や態度や、周りの出来事に影響されながら生きています。 それは、これからもきっと変わりません。 でも、影響を受けることと、影響され続けることは、少し違うのかもしれません。 自分と出来事の間に、どんな連絡通路があるのか。 どこから煙が入ってきているのか。 それに気づくことができれば、その通路をどうするかを、自分で考えられるようになる。 私は、その気づきのお手伝いができたらいいなと思っています。 そして電話を切ったあと、 「まだ何も解決していないけど……まあ、今日はこれでいいか」 そんなふうに、ふっと息を吐けたら。 それで十分です。 心が少し自分の真ん中に戻ってきたら、それでいい。 また何かあったら、そのときに話せばいい。 そんなふうに、無理なく自分の日常へ戻っていける電話相談でありたいと思っています。 最後まで読んでくださって、ありがとうございました。 もし今、誰かに話したいことがあるのなら。 きれいにまとめなくても大丈夫です。 「何から話したらいいか分からないんです」 そこからでも大丈夫。 あなたのペースで話してください。 私は、ちゃんと聴きます。 そして電話を切ったあと、あなたの心に少しだけ余白ができていたら。 それが、私にとって一番うれしいことです。

  • みのり|笑顔と癒しのほっとカフェ=第2章=私の思い 2020年1月 〜 2022年1月

    ・1.自分では気づかなかった経験が、誰かの力になることがある / ※第2章は、コラム形式です。どこから読んでも大丈夫な内容になっています(*^-^*) 2020年1月 〜 2020年1月

    ※匿名・年齢非公開のため期間は変えて掲載しています(*´▽`*) ご理解いただけますと嬉しいです。 ✼••┈┈┈┈••✼ 私はこれまでの人生で、いろいろなことを経験してきました。 夫の不倫。 離婚。 ひとりで子どもを育てること。 子どもの不登校。 引きこもり。 そのほかにも、そのときそのときで「どうしたらいいんだろう」と思うことは、いろいろありました。 今振り返れば、 「よくやってきたな」 と思うこともあります。 でも、渦中にいるときは、そんなふうには思わないんですよね。 そのときは、その日をどうするかで精いっぱい。 今日をなんとか終わらせて、また明日を迎える。 そんな感じだったように思います。 だから、自分の経験を「誰かの役に立つもの」なんて考えたことは、ほとんどありませんでした。 ただ必死に、そのときそのときを生きていただけ。 それが私の感覚でした。 そんな私にとって、ありがたかったのが兄妹の存在でした。 私がいろいろなことで苦しんでいるとき、兄妹は私のことを否定しませんでした。 「あなたが悪いんじゃない?」 「もっとこうしたほうがいいんじゃない?」 そんなふうに、私を責めたり、正そうとしたりすることもなかった。 それって、思っている以上に大きいことなんですよね。 自分が苦しいときって、それだけでも心が弱っています。 そこへ誰かから、 「あなたにも悪いところがあるんじゃない?」 と言われたら、ただでさえ苦しいところに、さらに自分を責める気持ちが加わってしまう。 でも、否定されない。 それだけで、 「ここでは、このままの私でいていいんだ」 と思えることがあります。 私は、それを自分の経験として知っています。 そして、もう一つ兄妹から言ってもらって、嬉しかったことがあります。 私が経験してきたことを知っているからこそ、 「こんな大変なことを乗り越えて、今は元気にしている人がいるって知ったら、誰かが勇気をもらえるんじゃない?」 というようなことを、折に触れて言ってくれたんです。 最初に聞いたとき、 「え? そうなのかな?」 と思いました。 自分では、そんなふうに考えたことがなかったから。 私は別に、 「私は大変なことを乗り越えました!」 なんて思っていませんでした。 乗り越えたというより、そのときは必死だっただけ。 何か特別な方法を知っていたわけでもない。 ただ、そのとき必要なことをやって、子どもたちと一緒に毎日を過ごしてきた。 だから、 「それが誰かの勇気になる」 と言われても、最初はピンときませんでした。 でも、不思議なことに、嫌な感じはしなかったんですよね。 むしろ、 「そうなのかな?」 と、ちょっと嬉しかった。 もし本当にそうなら、嬉しい。 自分が経験してきたことが、もし誰かの役に立つのなら。 それは、なんだかいいな。 そんなふうに思ったんです。 もちろん、その時点ですぐに何かを始めたわけではありません。 でも、その言葉はどこかに残っていたんだと思います。 自分では見えていなかった自分の姿を、誰かが見つけてくれた。 そんな感じだったのかもしれません。 人って、自分のことを意外と客観的には見られないものですよね。 毎日、自分の中から自分を見ているから。 「私はこれくらいしかできていない」 「たいしたことはしていない」 「みんなもっと頑張っている」 そんなふうに思ってしまう。 でも、外から見たら、 「いや、それって結構すごいことだよ」 ということがある。 本人にとっては当たり前になっているから、気づかないんです。 私の場合、それを兄妹が教えてくれた。 「あなたの経験は、誰かの勇気になるかもしれないよ」 という言葉で、自分の過去を見る角度が一つ増えたんです。 「そうなのかな?」 という、小さな疑問のような、小さな希望のようなもの。 私は、こういう「そうなのかな?」って、とても大切だと思っています。 いきなり、 「私はすごい!」 と思わなくてもいい。 「私は大丈夫!」 と無理に思わなくてもいい。 ただ、 「もしかしたら、そういう見方もできるのかな?」 と思えるだけでいい。 そのくらいの小さな変化でも、心には入ってくるんですよね。 そして、その後、私がココナラを知って、いろいろな人のプロフィールを読むようになりました。 電話相談をしている人たちのプロフィールです。 そこで、たくさんの人が自分の経験を書いていることを知りました。 自分自身が苦しい経験をした。 つらい時期があった。 誰にも言えないことを抱えていた。 その経験があったからこそ、今度は自分が誰かの役に立ちたい。 そんな思いで電話相談を始めている人がたくさんいたんです。 それを読んでいるうちに、 「ああ、そういうことなんだ」 と思いました。 そして、 「私もここで電話相談をして、辛い人に元気になってもらうお手伝いができるんじゃないかな」 と思ったんです。 兄妹からもらった言葉と、そこで見た人たちの姿が、私の中でつながったんだと思います。 もちろん、私が経験したことと、誰かが経験していることは同じではありません。 夫婦の問題でも、親子の問題でも、介護でも、人間関係でも、同じ出来事が起きるわけではない。 「私も経験したから、あなたのことは全部分かります」 なんて、私は言えません。 人のつらさは、その人にしか分からない部分が必ずあります。 だから私は、自分の経験を振りかざして、 「私も大変だったんだから、あなたも頑張れるよ」 とは言いたくありません。 それでは、かえって苦しくなる人もいると思うから。 そうではなくて、 「私にも、こんな時期がありました」 と、そっと置いておく。 もしそれを聞いた人が、 「そうなんだ」 「この人もいろいろあったんだな」 「じゃあ、私もいつか少しラクになれるのかな」 と思ってくれたら、それでいい。 それくらいの距離感でいいと思っています。 誰かの経験が、自分の未来を保証してくれるわけではありません。 でも、 「こういう人もいるんだ」 と知るだけで、ほんの少し希望が生まれることはある。 私は、自分が兄妹からもらった「そうなのかな?」という感覚を、今度は誰かに渡せたらいいなと思っています。 「あなたは大丈夫です」と決めつけるのではなく、 「もしかしたら、今はそう見えていないだけかもしれないよ」 と、別の見方をそっと置いてあげる。 それをどう受け取るかは、その人次第です。 「いや、そんなことないよ」 でもいい。 「そうかなあ」 でもいい。 「そうだったらいいな」 でもいい。 そのくらいで十分なんです。 私は、相談者さんの人生を変える人になりたいわけではありません。 その人に代わって答えを出す人でもありません。 ただ、今まで自分だけで見ていた景色に、もう一つ別の窓をつける。 その窓から見てみたら、 「思っていたより、悪くないかもしれない」 「私は私なりに、よくやってきたのかもしれない」 「今すぐ全部決めなくてもいいかもしれない」 そんなふうに感じることがあるかもしれない。 私は、そういう小さな変化を大切にしたいんです。 そして、これは私自身にも言えることなんですよね。 自分では何とも思っていなかった経験が、誰かにとっては意味のあるものになるかもしれない。 自分では当たり前だと思っていることが、誰かから見たら「よくやってきたね」と言いたくなることかもしれない。 だからもし今、 「私なんて、たいしたことしていない」 と思っている人がいたら。 本当にそうなのかな、と私は思います。 もちろん、無理に自分を褒めなくてもいい。 「私、すごい!」と思えなくてもいい。 ただ、 「そうなのかな?」 くらいでいいんです。 もし本当にそうだったら、ちょっと嬉しい。 そのくらいの気持ちからでもいい。 人は、自分一人では気づけないことがあります。 だから、誰かと話す。 誰かに自分のことを話してみる。 すると、自分では見えていなかったものが、少し見えてくることがある。 私が電話相談で大切にしたいのも、そんな時間です。 「あなたはこうですよ」と答えを決めるのではなく、 「こんなふうにも見えるかもしれないね」 と、一緒に眺めてみる。 その中から、 「そうなのかな?」 と、ほんの少しでも思えるものが見つかったら。 それが、次の日を迎える小さな力になることもあると思うんです。 私自身が、誰かの言葉からそれをもらったように。 今度は私が、誰かにそっと渡せる人になれたらいいな。 そんな思いで、私は今日も電話相談をしています。

    ・2.「私なんて頑張ってない」と言う人ほど、実はよく頑張っている 2020年2月 〜 2020年2月

    ※匿名・年齢非公開のため期間は変えて掲載しています(*´▽`*) ご理解いただけますと嬉しいです。 ✼••┈┈┈┈••✼ 「私なんて、全然頑張ってないですよ」 相談をしていると、こんな言葉が出てくることがあります。 でも、話を聞いていると、 「いやいや、十分頑張ってるじゃないですか」 と思うことがあるんですよね。 もちろん、本人に「あなたは頑張っています!」と押しつけるつもりはありません。 本人がそう思っていないのに、 「いや、あなたはすごいですよ」 と言われても、 「そんなことないって……」 となることもありますから。 それでも私は、人って、自分がどれだけ頑張ってきたのかを案外分かっていないものだと思っています。 なぜなら、自分にとっては、それが毎日のことだから。 朝起きて、家族のことを考える。 仕事に行く。 帰ってきて家のことをする。 誰かの機嫌を気にする。 親のことを心配する。 子どものことを考える。 夫婦のことを考える。 明日の予定を考える。 嫌なことがあっても、とりあえず今日を終わらせる。 これを毎日やっていると、それが「頑張っていること」ではなく、「普通のこと」になってしまいます。 だから、 「みんなやっていることだから」 「別にたいしたことじゃない」 「私なんて、もっと頑張っている人がいる」 と思ってしまう。 でも、もしそれを別の人が何年も続けていたら、私たちはきっと、 「よくやってるね」 と言うんじゃないでしょうか。 自分のことになると、急に採点が厳しくなるんですよね。 人には優しいのに、自分には厳しい。 これ、結構あることだと思います。 私自身も、そうでした。 これまでの人生で、夫の不倫や離婚、ひとりでの子育て、子どもの不登校や引きこもりなど、いろいろなことがありました。 今なら、 「いろいろあったなあ」 と思えます。 でも、その真っ最中に、 「私は今、とても頑張っています」 なんて考えていたわけではありません。 そんな余裕はありませんでした。 そのとき必要なことをする。 子どものことを考える。 生活を回す。 仕事をする。 また次の日が来る。 ただ、それだけ。 「頑張っている自分」を意識するより、目の前のことを何とかするので精いっぱいだったんですよね。 だから、あとになって誰かから、 「よくやってきたよね」 と言われると、 「そうなのかな?」 と思う。 自分では、そんなに特別なことをしたつもりがないからです。 でも、そう言われると、ちょっと嬉しい。 「もしそうなら、嬉しいな」 と思う。 私は、この感覚って大切だと思うんです。 「私はすごい!」までいかなくてもいい。 「私、よくやってきたのかも」 と、ほんの少し思えるだけでもいい。 それだけで、自分を見る目が少し変わることがあります。 そして、私は介護の仕事をしてきた中でも、似たようなことをたくさん見てきました。 ご家族が一生懸命に親御さんのことを考えている。 病院に連れて行ったり、施設を探したり、必要なものを用意したり。 本人のために、あれこれ考えている。 でも、そのご家族は、 「もっとできるはずなのに」 「私がちゃんとしないと」 「こんなこともできていない」 と、自分にダメ出しをしていたりする。 外から見ていると、 「十分やっているのにな」 と思うことがあります。 でも、本人には見えない。 毎日のことだから。 自分がやっていることが、あまりにも当たり前になっているから。 だから私は、人の話を聴くとき、 「何を悩んでいるのか」 だけではなく、 「この人は、ここまで何をやってきたんだろう」 というところにも目を向けたいと思っています。 悩みの中にいると、できていないことばかり見えてしまうからです。 「あれもできていない」 「これもできていない」 「もっとこうすればよかった」 「私が悪かったのかもしれない」 そんなことばかり考えてしまう。 でも、その反対側には、 「それでも、ここまでやってきた」 という事実もあるんですよね。 本人が忘れているだけで。 あるいは、本人にとっては当たり前すぎて、数えていないだけで。 私は、そういうものも一緒に見つけていきたいと思っています。 「今日も仕事に行った」 「家族のご飯を作った」 「親のところへ顔を出した」 「嫌なことがあったけど、ちゃんと一日を終えた」 「泣いたけど、また起きた」 そんなことでいいんです。 大きな成果じゃなくていい。 誰かに褒めてもらえるようなことじゃなくてもいい。 その人が毎日やっていることの中に、その人の頑張りはちゃんとあると思うから。 ただし、ここで私は、 「だから、もっと頑張りましょう」 とは言いたくありません。 むしろ逆です。 頑張ってきたことに気づいたら、 「じゃあ、もう少し自分を休ませてもいいかな」 と思ってもいい。 「今日はここまででいいかな」 と思ってもいい。 「私、結構やってきたんだな」 と認めたら、それ以上、自分に何かを課さなくてもいいんです。 頑張っている人ほど、 「もっと頑張らなきゃ」 と思いやすい。 だからこそ、 「もう十分やってるよ」 と、誰かに言ってもらうことが必要なときもあると思います。 もちろん、その言葉を受け取れるかどうかは、その人次第です。 「いやいや、そんなことない」 と思うかもしれない。 それでもいい。 何度か話しているうちに、 「そういえば、私も結構やってきたのかも」 と思える日が来るかもしれない。 そのくらいゆっくりでいいと思っています。 私は、電話相談で何か特別なことをしたいわけではありません。 相談者さんの人生を評価したいわけでもない。 「あなたは100点です」 「あなたは間違っていません」 と、何でも肯定したいわけでもありません。 ただ、その人が自分では見落としているものを、一緒に見つけられたらいい。 「ここまで、ちゃんとやってきたんですね」 と伝えられることがあれば伝えたい。 そして、その言葉を聞いて、 「……そうなのかな」 と少しだけ考えてもらえたら、それでいい。 もしかしたら、自分が思っているより、ちゃんとやってきたのかもしれない。 もしかしたら、今まで頑張りすぎていたのかもしれない。 もしかしたら、今日はもう休んでもいいのかもしれない。 そんな「もしかしたら」が生まれるだけでも、私は十分だと思っています。 人は、自分のことを自分だけで見ていると、同じところばかり見てしまうことがあります。 だから、ときどき誰かと話してみる。 自分では当たり前だと思っていたことを、誰かに話してみる。 すると、 「え、それって結構大変だったんじゃない?」 と言われることがある。 そこで初めて、 「そうか。私、思っていたより大変だったのかも」 と気づく。 逆に、 「でも、よくここまでやってきたな」 と思えることもある。 私は、そんな時間が好きです。 問題を解決することだけが、相談の目的ではないと思うから。 自分を責め続けていた人が、ほんの少しだけ自分を見る目を緩められる。 それだけでもいい。 「私なんて……」 と言っていた人が、 「まあ、私なりにやってきたか」 と思えたら、それもいい。 そのくらいの小さな変化を、一緒に見つけられたら嬉しいんです。 もし今、 「私なんて何もしていない」 「全然頑張っていない」 と思っているなら。 本当にそうなのかな。 一度だけ、自分に聞いてみてほしいんです。 大きなことを成し遂げていなくてもいい。 誰かに褒められていなくてもいい。 今日まで生きてきたこと。 その中で、いろいろなことを抱えながら、それでも毎日を続けてきたこと。 それも、その人にしかできなかったことだと思うから。 「そうなのかな?」 くらいでいいんです。 もし本当にそうなら、ちょっと嬉しい。 私自身も、そんなふうに誰かから教えてもらったから。 だから今度は私が、誰かの「そうなのかな?」を一緒に見つける人になれたらいいなと思っています。

    ・3.【「こんなことで人に頼っていいのかな」と思った時に】【私は大丈夫、が口癖になっていませんか?】 2020年3月 〜 2020年3月

    ※匿名・年齢非公開のため期間は変えて掲載しています(*´▽`*) ご理解いただけますと嬉しいです。 ✼••┈┈┈┈••✼ 【「こんなことで人に頼っていいのかな」と思った時に】 「こんなことで人に頼っていいのかな」 そんなふうに思ったこと、ありませんか? 困っていることはある。 誰かに聞いてもらいたい気持ちもある。 でも、 「もっと大変な人もいるし」 「これくらい自分で何とかしないと」 「わざわざ人に話すほどのことじゃない」 「こんなことで頼ったら迷惑かな」 そうやって、結局ひとりで抱えてしまう。 私は、こういう人ってけっこう多いんじゃないかなと思っています。 特に、長いあいだ家族のことを考えてきた人ほど、そうなりやすい気がします。 家族が困っていたら、自分が動く。 誰かが体調を崩したら、自分が心配する。 家のことがあれば、自分がやる。 仕事でも、 「私がやっておけばいいか」 となる。 そうやって毎日を回しているうちに、 「自分が誰かに頼る」 ということが、いつの間にか苦手になっていることがあります。 頼られることには慣れている。 でも、頼る側になると、 「なんて言えばいいんだろう」 と戸惑ってしまう。 これ、ちょっと不思議ですよね。 人から相談されたら、 「話してくれてありがとう」 と思えるのに、自分が相談する側になると、 「こんなこと話していいのかな」 となってしまう。 でもね。 話すことって、必ずしも「助けてもらうこと」だけじゃないんですよね。 ただ、 「聞いてほしい」 ということもあります。 答えが欲しいわけじゃない。 何かを解決してほしいわけでもない。 ただ、自分の中にあるものを外に出してみたい。 誰かに聞いてもらって、 「ああ、私、こんなことを思ってたんだ」 と気づく。 それだけで、少し気持ちが変わることもあります。 私は、電話相談って、そういう使い方でもいいと思っています。 「大した悩みじゃないんですけど……」 から始まってもいい。 「自分でも何を話したいのかわからないんですけど……」 でもいい。 「ちょっと聞いてほしくて」 だけでもいい。 むしろ、最初はそれくらいで十分なんじゃないかな。 話しているうちに、 「あれ?」 と思うことが出てくるかもしれません。 本当は悲しかった。 本当は腹が立っていた。 本当は寂しかった。 本当は、 「私だって頑張ってるよ」 と言いたかった。 自分では気づかなかった気持ちが、言葉になって出てくることがあります。 私は、人って自分のことを全部わかっているわけじゃないと思っています。 毎日一緒にいる自分だからこそ、見えなくなっている部分もある。 だから、誰かに話すことは、 「答えを教えてもらう」 ためだけじゃない。 自分の中にあるものを、一緒に見つけていく時間にもなるんですよね。 そしてもう一つ。 私は「人に頼ること」と「人に甘えること」は、少し違うと思っています。 もちろん、甘えていいときもあります。 でも、 「今ちょっと話を聞いてほしい」 と誰かに伝えることまで、特別なことにしなくていい。 それは、自分の心を大切にするための小さな行動かもしれません。 ずっと自分で頑張ってきた人ほど、 「もう少し頑張らなきゃ」 ではなく、 「今日は誰かに聞いてもらおうかな」 という選択肢を持っていてもいい。 私は、そう思っています。 介護の仕事をしていると、人の生活には本当にいろいろなことが起こるんだなと感じます。 家族のこと。 仕事のこと。 体のこと。 お金のこと。 夫婦のこと。 親子のこと。 人間関係のこと。 ひとつの悩みだけなら何とかできても、いくつも重なってくると、心の置き場所がなくなることもあります。 そんなとき、 「こんなことで電話するなんて」 と自分にダメ出ししなくていい。 心の中に荷物がいっぱいになったら、いったん誰かに預ける。 そして少し身軽になったら、また自分のところへ持って帰ればいい。 私は、電話相談をそんな場所にもできたらいいなと思っています。 何かを決めなくてもいい。 答えを出さなくてもいい。 元気になろうと頑張らなくてもいい。 ただ話して、 「ちょっと楽になったな」 と思えたら、それで十分。 そしてもし、 「私、こんなことを思ってたんだ」 と何かひとつ見つかったら、それも素敵なこと。 本当の答えは、きっとその人の中にある。 だから私は、答えを決めて渡すより、 「それで、あなたはどう感じてる?」 と一緒に見ていくほうが好きなんです。 人に頼るのが苦手な人へ。 「こんなことで頼っていいのかな」 と思ったときは、 「こんなことだからこそ、ちょっと話してみようかな」 くらいでもいいのかもしれません。 話す相手がいるだけで、心の中の景色が少し変わることがあります。 ひとりで抱えていたものを、ほんの少し外に出してみる。 それだけでもいい。 私は、そんなふうに気軽に話せる場所でいたいと思っています。 【「こんなことで人に頼っていいのかな」と思った時に。終わり】 +:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:… 【私は大丈夫、が口癖になっていませんか?】 「私は大丈夫です」 そう言う人って、けっこう多いですよね。 誰かに心配されたとき、 「大丈夫、大丈夫」 と笑ってみせる。 ちょっと疲れていても、 「寝れば大丈夫」 嫌なことがあっても、 「まあ、よくあることだから」 家族のことで悩んでいても、 「私が気にしすぎてるだけ」 そんなふうに、自分の気持ちを小さくしてしまう。 もちろん、本当に大丈夫なこともあります。 私も、 「まあ、何とかなるよ」 と思ってきたことがたくさんあります。 実際、何とかなることも多いんですよね。 でも、ときどき思うんです。 「大丈夫」と言えることと、 「つらくない」ということは、 同じじゃないんじゃないかなって。 つらくても、 「大丈夫」 と言える人はいます。 悲しくても、 「大丈夫」 と言える人もいる。 腹が立っていても、 「もういいや」 と笑ってしまう人もいる。 そして、その言葉を何度も繰り返しているうちに、自分でも本当に大丈夫なのか、わからなくなってしまうことがあります。 「私、何が嫌だったんだろう?」 「何に腹が立ってたんだろう?」 「どうしてこんなに疲れてるんだろう?」 そこまで考える余裕がなくて、とりあえず今日を終わらせる。 明日のことを考える。 また朝になったら動く。 そうやって毎日を過ごしていると、自分の気持ちはどんどん後ろへ置いていかれてしまいます。 家族の予定。 仕事の予定。 誰かの都合。 誰かの心配。 やらなければならないこと。 そういうものを先に片づけて、 「私のことは後でいいや」 となる。 でも、その「後で」が、なかなか来ないんですよね。 気がつけば何年も経っている。 私は、こういう話を聞くことがあります。 「別に大したことじゃないんです」 と話し始めたのに、しばらくすると、 「あれ? 私、けっこう嫌だったのかも」 と、ご本人が驚く。 それを聞くと、 「ああ、やっぱりそうだったんだ」 と決めつけるのではなく、 「そう感じていたんですね」 と、その気持ちをそのまま置いてあげたくなります。 怒っていてもいい。 寂しくてもいい。 羨ましくてもいい。 もう嫌だと思ってもいい。 「そんなこと思っちゃいけない」 と、自分で取り消さなくてもいい。 気持ちって、思った瞬間に正しいとか間違いとかを決めるものじゃないと思うんです。 まず、 「私はそう感じたんだ」 と気づいてあげる。 それだけでも、少し違うことがあります。 たとえば、 「本当は嫌だった」 と気づいたからといって、すぐに相手に何かを言わなければいけないわけじゃありません。 「もう無理」 と感じたからといって、今すぐ全部を投げ出す必要もありません。 「寂しかった」 と気づいたからといって、誰かに何かを要求しなければいけないわけでもない。 ただ、 「私は、そうだったんだな」 と知っておく。 それだけでもいいんです。 私は、ここがけっこう大事なんじゃないかなと思っています。 自分の気持ちを認めることと、その気持ちのまま行動することは別だからです。 怒っている自分に気づいた。 でも、今は何も言わない。 寂しいと気づいた。 でも、今日はゆっくり休む。 嫌だったと気づいた。 でも、どうするかはもう少し考える。 そんなふうに、一度気持ちと行動の間に少し余白をつくることもできます。 だから、 「自分の気持ちを大切にしたら、わがままになってしまうんじゃない?」 と心配しなくてもいい。 むしろ、自分の気持ちがわからないまま無理を続けるほうが、あとになって苦しくなることもあります。 「私は大丈夫」 と言えることは、強さなのかもしれません。 でも、 「今日はちょっとしんどい」 と言えることも、同じくらい大切なことだと思います。 誰かに聞かれたとき、 「大丈夫です」 と反射的に答える前に、 「……本当はどうなんだろう?」 と、自分に聞いてみる。 それだけでもいい。 すぐに答えが出なくても大丈夫。 「わからない」 でもいいんです。 長いあいだ自分を後回しにしてきた人ほど、自分の気持ちを聞かれても、すぐには答えられないことがあります。 それは、気持ちがないからではありません。 ずっと後回しにしてきたから、聞くことに慣れていないだけかもしれません。 だから、ゆっくりでいい。 「本当はどうしたい?」 「何が嫌だった?」 「何が悲しかった?」 「何が嬉しかった?」 そんなことを少しずつ自分に聞いてみる。 答えが出たら、それを大切にする。 出なかったら、 「今日はわからなかったな」 で終わってもいい。 私は、電話相談でも、そんな時間を大切にしたいと思っています。 何かを解決するためだけじゃなく、 自分の気持ちを少し確認するために話す。 誰かに話しているうちに、 「私、本当はこう思ってたんだ」 と気づくこともある。 【次の項目に続く】

    ・4.【私は大丈夫、が口癖になっていませんか?】続き【「あのとき、もっとこうすればよかった」と思うあなたへ】 2020年4月 〜 2020年4月

    【前の項目からの続き】 そして、気づいたからといって、すぐに何かを変えなくてもいい。 まずは知る。 それだけで十分なときもあります。 いつも周りを優先してきた人。 家族のことを考えてきた人。 「私さえ我慢すれば」と思ってきた人。 そんな人ほど、 「私は大丈夫」 の中に、自分でも気づいていない気持ちが隠れていることがあるかもしれません。 だから、ときどきでいいんです。 「大丈夫」と言う前に、 自分の心にちょっとだけ聞いてみる。 「ねえ、本当はどう?」 答えが何であっても大丈夫。 怒っていても、泣きたくても、疲れていても、案外元気でもいい。 そのときの自分を、そのまま知ってあげる。 私は、それだけでも自分に少し優しくできるんじゃないかなと思っています。 そしてもし、一人ではうまく言葉にできないときは、 誰かに話してみてもいい。 「大丈夫って言ってるけど、本当はちょっと違うかもしれなくて……」 そんなところから始まる話も、私は大切に聞きたいと思っています。 【私は大丈夫、が口癖になっていませんか?】終わり +:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:… 【「あのとき、もっとこうすればよかった」と思うあなたへ】 「あのとき、もっとこうすればよかった」 そんなふうに、過去の自分を振り返ることってありませんか? あのとき、もっとちゃんと話せばよかった。 もっと早く気づけばよかった。 あんなこと言わなければよかった。 もっと我慢すればよかった。 逆に、もっと早く離れればよかった。 あの人に、あのとき言えばよかった。 考え始めると、いくらでも出てきます。 今の自分なら、違う選択をするかもしれない。 だからこそ、 「どうしてあのとき、そうしなかったんだろう」 と、昔の自分を責めたくなることがあります。 でもね。 私は、過去の自分を今の自分と比べなくてもいいんじゃないかなと思っています。 今の自分には、今まで生きてきた経験があります。 いろいろなことを経験して、 「あれはこういうことだったのかもしれない」 と後からわかることもある。 人との付き合い方も変わる。 考え方も変わる。 自分が大切にしたいものも、少しずつわかってくる。 だから、今の自分から過去を見ると、 「あのとき、もっとこうすればよかった」 と思えてしまう。 でも、そのときの自分は、そのとき持っていた知識や経験の中で考えていたんですよね。 今の自分が持っている答えを、過去の自分はまだ持っていなかった。 それは、当たり前のことなんじゃないかなと思います。 私自身も、振り返れば、 「あのとき別の選択をしていたら」 と思うことはあります。 人生って、あとから見ると、 「あっちの道もあったな」 と思うことがいっぱいありますよね。 でも、そのときは、その道しか見えていなかった。 その選択をしたときには、それなりの理由があった。 そのときは、そのときで必死だった。 そんなこともあると思うんです。 だから私は、 「過去の自分は間違っていた」 と一言で片づけるのは、ちょっと違う気がしています。 そのときの自分には、そのときの事情があった。 怖かったのかもしれない。 余裕がなかったのかもしれない。 誰かを傷つけたくなかったのかもしれない。 自分が傷つくのが怖かったのかもしれない。 どうしたらいいのかわからなかったのかもしれない。 「これしかない」と思っていたのかもしれない。 外から見たら、 「どうしてそんなことをしたんだろう」 と思うようなことでも、 本人の中には、そのときなりの理由があるものです。 もちろん、 「あのときの自分の行動は、よくなかったな」 と思うことだってあります。 後悔することもある。 誰かを傷つけてしまったことを、今でも申し訳なく思うこともある。 それを無理に、 「全部意味があったんだよ」 ときれいにまとめなくてもいいと思います。 後悔は後悔でいい。 「あれは、よくなかった」 と思う気持ちも、そのままでいい。 でも、 「だから私はダメな人間だ」 まで、自分を責めなくてもいい。 ここは、別の話なんじゃないかなと思うんです。 過去の自分の行動を振り返ることと、 過去の自分そのものを否定することは、同じではありません。 「あのときは、こうした」 「今なら、違う方法を選ぶかもしれない」 それだけでもいい。 そこから、 「じゃあ、これからはどうしようかな」 と考えることができます。 私は、過去って変えられないからこそ、今の自分に使えるものもあると思っています。 「あのとき、すごく苦しかった」 その経験があるから、 「今、同じように苦しんでいる人の気持ちが少しわかるかもしれない」 と思えることがある。 「あのとき、誰にも言えなかった」 という経験があるから、 「話せる場所って大切なんだな」 と思えることもある。 「あのとき、誰かに聞いてほしかった」 と思ったからこそ、 「今度は私が誰かの話を聞けたらいいな」 と思うこともある。 私自身も、これまでの経験を振り返って、 「これが誰かの役に立つことなんてあるのかな」 と思ったことがあります。 でも、周りから、 「あなたが経験してきたことが、誰かの力になるかもしれないよ」 と言われることがありました。 最初は、 「そうなのかな?」 くらいでした。 自分にとっては、自分が生きてきた人生です。 特別なことをしてきたつもりもない。 そのときそのときで、何とかやってきただけ。 だから、 「これが誰かのためになる」 と言われても、すぐにはピンときませんでした。 でも、 「もしそうなら、嬉しいな」 と思ったんです。 それくらいでいいのかもしれません。 自分の過去に、 「この経験には絶対こういう意味がある」 と決めなくてもいい。 いつか誰かの役に立つかもしれない。 そうじゃないかもしれない。 でも、もし役に立つなら嬉しい。 そのくらいの距離感でもいいんじゃないかなと思います。 そして、過去の自分に対しても、同じように思います。 「あのときの私、もっとちゃんとすればよかった」 と思ったとき、 「でも、あのときの私なりにやってたんだよね」 と、少しだけ見方を変えてみる。 「よくやった!」 と無理に褒めなくてもいい。 「全部正しかった!」 と思わなくてもいい。 ただ、 「そのときは、それしかできなかったんだな」 と理解してあげる。 それだけでも、少し違うかもしれません。 私は、人って今この瞬間だけでできているわけじゃないと思っています。 嬉しかったことも。 悔しかったことも。 恥ずかしかったことも。 悲しかったことも。 「あんなこと、しなきゃよかった」 と思うことも。 全部が少しずつ積み重なって、今の自分になっている。 だから、過去を全部きれいに消してしまおうとしなくてもいい。 嫌だった経験を、 「いい経験だった」 と言い換えなくてもいい。 傷ついたことは、傷ついたことでいい。 悔しかったことは、悔しかったことでいい。 それでも、その経験を抱えたまま、 「これからどう生きようかな」 と考えることはできます。 私は、そこが大切なんじゃないかなと思っています。 過去を変えることはできない。 でも、過去をどう見るかは、時間が経つことで少し変わることがあります。 昔は、 「最悪だった」 としか思えなかったことが、 何年か経って、 「あの経験があったから、今の私がいるのかもしれない」 と思えることもある。 逆に、 「もう昔のことだから大丈夫」 と思っていたのに、ふとした瞬間に悲しくなることもある。 どちらでもいいんです。 人の気持ちは、いつも同じ場所にあるわけじゃないから。 昨日は平気だったのに、今日はつらい。 昔は腹が立っていたのに、今は少し笑える。 ずっと忘れていたことを、急に思い出す。 そんなことだってあります。 だから、 「もう終わったことなのに、まだ気にしている私はおかしい」 と、自分を責めなくてもいい。 そのときの自分に、今の自分が少し寄り添ってあげればいい。 「あのとき、つらかったよね」 「よくわからなかったよね」 「怖かったよね」 「本当は、こうしたかったんだよね」 そんなふうに。 誰かに言ってもらうのもいいし、 自分で自分に言ってあげるのもいい。 私は、電話相談でも、そんな時間を大切にしたいと思っています。 「昔のことなんですけど……」 と話し始める人もいると思います。 でも、その「昔のこと」が、今の自分に何かを残していることだってあります。 だから、 「今さらこんなことを話しても」 と思わなくていい。 話してみたら、 「私、ずっとあのときのことを引っかけたままだったんだ」 と気づくかもしれない。 あるいは、 「思っていたより、もう大丈夫なのかもしれない」 と気づくかもしれない。 どちらでもいいんです。 話してみて、自分がどう感じるのか。 その答えを決めるのは、私ではありません。 本当の答えは、その人の中にあると思っているから。 私は、ただ隣で話を聞きながら、 「そうだったんですね」 「それはつらかったですね」 「そのときは、そうするしかなかったのかもしれませんね」 そんなふうに、一緒に振り返ることができたらと思っています。 過去の自分を、無理に好きにならなくてもいい。 全部許さなくてもいい。 全部肯定しなくてもいい。 ただ、 「あのときの私も、あのときなりに生きてたんだな」 と、ほんの少しだけ見てあげる。 それだけでもいいんじゃないでしょうか。 そして今の自分が、 「これからは、どうしようかな」 と考えられたら、それで十分。 過去をやり直すためじゃなく、 これからの自分を少し楽にするために。 私は、そんなふうに過去と付き合っていけたらいいなと思っています。

    ・5.【「なんだかイライラする」は、心からの小さなサインかもしれない】 2020年5月 〜 2020年5月

    ※匿名・年齢非公開のため期間は変えて掲載しています(*´▽`*) ご理解いただけますと嬉しいです。 ✼••┈┈┈┈••✼ 「最近、なんだかイライラするんです」 そんな話を聞くことがあります。 家族にちょっとしたことを言われただけなのに、妙に腹が立つ。 いつもなら気にならないことが、今日は気になる。 テレビを見ていてもイライラする。 スマホを見ていても落ち着かない。 別に大きな出来事があったわけじゃないのに、なんとなく機嫌が悪い。 そして、そんな自分に対して、 「私、性格悪くなったのかな」 なんて思ってしまう。 でも、私は「イライラする=性格が悪い」ではないと思っています。 もちろん、誰かにきつく当たってしまったら、 「あれは言い過ぎたな」 と振り返ることは大切です。 でも、その前に、 「どうして今日はこんなにイライラしてるんだろう?」 と、自分のほうにも目を向けてあげてほしいんです。 もしかしたら、疲れているのかもしれない。 寝不足なのかもしれない。 ずっと我慢していることがあるのかもしれない。 自分の時間がなさすぎるのかもしれない。 誰かのことばかり考えていて、自分のことを後回しにしているのかもしれない。 「ちょっと休みたい」 という気持ちが、イライラという形で出ていることだってあると思います。 心って、 「私は今、疲れています」 と、いつもわかりやすく教えてくれるわけじゃないんですよね。 「休ませてください」 と札を出してくれればわかりやすいのですが、そんな便利な機能はついていない。 だから、 なんとなく機嫌が悪い。 なんとなく人に会いたくない。 なんとなく面倒くさい。 なんとなく何もしたくない。 そんな小さな変化として出てくることがあります。 そして、私たちはそれを、 「最近の私、ダメだな」 と片づけてしまう。 ここが、ちょっともったいないんじゃないかなと思うんです。 「ダメだから直さなきゃ」 ではなく、 「何かあったのかな?」 と、一度立ち止まってみる。 それだけでも違います。 たとえば、朝から家族に何度も話しかけられて、 「もう、うるさい!」 と思ってしまったとします。 もちろん、相手が悪いとは限りません。 ただ自分の中に、 「今日は一人で静かにいたかった」 という気持ちがあったのかもしれない。 仕事から帰ってきて、 「ご飯まだ?」 と言われて、 「私だって疲れてるんだけど!」 と腹が立った。 その一言だけが原因ではなくて、 「毎日私がやるのが当たり前になってない?」 という気持ちが、ずっと奥にあったのかもしれない。 友達から何気なく、 「最近どう?」 と聞かれて、 「別に普通だよ」 と答えたのに、なぜかそのあと涙が出てきた。 それならもしかしたら、 「本当は誰かに気づいてほしかった」 のかもしれない。 もちろん、全部がそうだとは限りません。 ただ、 「イライラした」 という出来事だけを見るのではなく、 「その前に何があったんだろう?」 と少しだけ見てみる。 すると、自分でも気づかなかったものが見えてくることがあります。 私は、こういう小さな気づきって、けっこう大事だと思っています。 大きな悩みになる前に、 「あ、私ちょっと疲れてるかも」 と気づけるからです。 でも、これが意外と難しい。 特に、長いあいだ頑張ってきた人は、 「これくらいで疲れたなんて言えない」 と思ってしまう。 朝から仕事をして、 帰ったら家事をして、 家族のことを気にして、 明日の予定を考えて、 やっと布団に入る。 それでも、 「みんなこれくらいやってるよね」 と思う。 そして翌日も頑張る。 だから、自分の疲れが「疲れ」として認識される前に、 「イライラ」 や 「無気力」 や 「何もしたくない」 という形になって出てくることがあります。 そんなときは、 「もっとちゃんとしなきゃ」 と自分を追い込むより、 「今日はちょっと余裕がないのかも」 くらいに思ってみる。 それだけでもいいんです。 そして、できる範囲で小さな休憩を入れる。 温かい飲み物を飲む。 好きな音楽を聴く。 少しだけ一人になる。 スマホを置いてぼーっとする。 散歩する。 早めに布団に入る。 何もしない時間をつくる。 こういうことって、 「そんなことで何が変わるの?」 と思うかもしれません。 でも、心が疲れているときって、人生を大きく変えるようなことより、 「ちょっと気持ちいい」 くらいの小さなことが案外大事だったりします。 私自身も、 「ちゃんとしなきゃ」 と考えすぎるより、 「あ、今ちょっと余裕ないな」 と気づいたほうが、気持ちを戻しやすいことがあります。 そしてもう一つ。 イライラしているときに、 「原因を絶対見つけなきゃ」 と頑張らなくてもいいんです。 「なんか今日はイライラするなあ」 で終わってもいい。 原因が一つとは限らないからです。 疲れもある。 寝不足もある。 家族のこともある。 仕事のこともある。 天気のせいかもしれない。 ただ単に今日はそんな日なのかもしれない。 人間ですから、いつも機嫌よくはいられません。 朝から笑顔で、 何を言われても優しくて、 何が起きても冷静で、 そんな人でいなくてもいい。 「今日はちょっと機嫌が悪い私です」 くらいの日があってもいいと思います。 もちろん、周りに八つ当たりしていいという意味ではありません。 そこは別です。 自分の機嫌の悪さに気づいたら、 「今日は少し余裕がないから、できるだけ人に当たらないようにしよう」 と考えることはできる。 もし言い過ぎてしまったら、 「さっきはごめん」 と言えばいい。 完璧じゃなくても、あとから戻すことはできます。 私は「心のニュートラル」という言葉が好きなのですが、ずっとニュートラルでいることが大切なのではなくて、 「揺れたら戻る」 ことのほうが大事なんじゃないかなと思っています。 イライラする日があってもいい。 落ち込む日があってもいい。 何もしたくない日があってもいい。 そこから、 「あ、ちょっと戻ってきたな」 と思えるところまで戻れたら、それでいい。 だから、 「今日の私はダメだった」 ではなく、 「今日はちょっと余裕がなかったな」 くらいでいいんです。 そして、もし何日も何週間もずっとしんどい状態が続いているなら、 「いつものことだから」 で済ませず、誰かに話してみるのも一つです。 家族でもいい。 友達でもいい。 専門家でもいい。 そして、顔の見える相手には話しにくいことなら、電話で話すという方法もあります。 「最近、なんかイライラしてて……」 そんなところから始めても大丈夫。 話しているうちに、 「実は仕事がしんどかった」 「家族にずっと我慢してた」 「一人になる時間が全然なかった」 なんて、自分でも気づいていなかったことが出てくるかもしれません。 逆に、 「話してみたけど、別にたいしたことじゃなかったな」 と終わるかもしれない。 それでもいいんです。 話すことに、必ず大きな答えが必要なわけではありません。 ただ、 「今の私はこんな感じなんだな」 と確認できる。 それだけでも十分なことがあります。 私は、電話相談では、 「それはこうしたほうがいいですよ」 と、すぐに答えを出すことより、 「そうだったんですね」 と聞きながら、 「それで、みのりさんは……じゃなくて、あなたはどう感じているんだろう?」 と、その人自身の気持ちが見えてくる時間を大切にしたいと思っています。 本当の答えは、その人の中にあると思っているからです。 だから、 「こんなことでイライラするなんて」 と自分を責めている人がいたら、 一度だけ、自分に聞いてみてほしい。 「私、何か我慢してない?」 「最近、ちゃんと休めてる?」 「本当はどうしたい?」 すぐに答えが出なくても大丈夫。 「わからない」 でもいい。 その問いを自分に向けてあげるだけでも、 「私のことも、ちょっと気にしてあげようかな」 というきっかけになるかもしれません。 イライラは、悪い感情とは限りません。 ときには、 「もうちょっと休ませて」 「私のことも考えて」 「本当は嫌だった」 と教えてくれる、小さなサインなのかもしれない。 だから今日、なんだかイライラするなと思ったら、 「性格悪くなったかな」 ではなく、 「お疲れ、私」 くらいでいい。 まずは、そこから。 心が少し落ち着いたら、 またいつもの場所へ戻ればいいんです。

    ・6.【あの人はできているのに」と思ってしまうわけ】 2020年6月 〜 2020年6月

    ※匿名・年齢非公開のため期間は変えて掲載しています(*´▽`*) ご理解いただけますと嬉しいです。 ✼••┈┈┈┈••✼ 「あの人はできているのに、私はできない」 そんなふうに思ってしまうこと、ありませんか? 同じくらいの年齢の人が、楽しそうに暮らしている。 友達は仕事も家庭も順調そう。 昔の知り合いが、いつの間にか何かを始めている。 同年代の人が旅行に行ったり、趣味を楽しんだりしている。 そんな姿を見て、 「いいなあ」 と思う。 そして、そのあとに、 「それに比べて私は……」 と続いてしまう。 人と比べることって、やめようと思っても、なかなか難しいですよね。 「比べたって仕方ない」 頭ではわかっている。 でも、目に入ってくるものが多い今は、どうしても比べてしまう。 特に、自分がちょっと落ち込んでいるときほど、他の人がまぶしく見えたりします。 そんなとき、 「人と比べるのはやめましょう」 と言われても、 「それができないから困ってるんだけど」 と思ってしまうこともある。 私は、無理に比べないようにしなくてもいいと思っています。 比べてしまうこと自体を、さらに責めなくてもいい。 「あ、今、私この人と比べてるな」 と気づくだけでも十分なんじゃないかなと思うんです。 そして、もう一つ。 人と比べるときって、実はその人の人生全部を見ているわけではないんですよね。 見えているのは、その人の一部分だけ。 楽しそうな笑顔。 うまくいっている仕事。 素敵な家。 旅行の写真。 家族との楽しそうな時間。 そこだけを見て、 「この人は全部うまくいっているんだ」 と思ってしまう。 でも、その人にも、その人にしかわからない悩みがあるかもしれない。 もちろん、だからといって、 「実はその人も大変なんだよ」 と決めつける必要もありません。 本当にうまくいっていて、毎日楽しく過ごしている人だっているでしょう。 ただ、私たちには、その人の人生の全部は見えない。 それだけ覚えておいてもいいんじゃないかなと思います。 そして、比べてしまったときに、 「私はダメだ」 と結論を出す前に、 「私は、何が羨ましいんだろう?」 と考えてみる。 ここが、けっこう面白いところです。 たとえば、 「友達が旅行にたくさん行っていて羨ましい」 と思ったとします。 本当に欲しいのは、旅行そのものかもしれない。 でも、 「自由に自分の時間を使えること」 が羨ましいのかもしれない。 「誰にも気を遣わずに出かけられること」 が羨ましいのかもしれない。 「楽しみにできる予定があること」 が羨ましいのかもしれない。 「自分のためにお金を使えること」 かもしれない。 そう考えると、 「私は旅行に行けないからダメ」 という話ではなくなります。 自分が本当に欲しかったものが、少し見えてくるからです。 人を羨ましいと思う気持ちって、悪いものとは限らないんですよね。 むしろ、 「私は本当はこういうものが欲しい」 と教えてくれることがあります。 「あの人みたいになりたい」 ではなく、 「あの人が持っているものの中で、私は何に惹かれたんだろう?」 と考えてみる。 すると、自分の中に眠っていた希望が見つかることがあります。 たとえば、 「友達が楽しそうに趣味をしていて羨ましい」 と思ったなら、 「私も何か始めたいのかも」 と気づく。 「家族と仲良く出かけている人を見て羨ましい」 と思ったなら、 「私も家族ともう少しゆっくり話したい」 と思っているのかもしれない。 「仕事で活躍している人を見て羨ましい」 と思ったなら、 「私も、まだ何か挑戦したいのかも」 しれない。 そう考えると、 「羨ましい」 という気持ちは、 自分を傷つけるものだけではなく、 「私は本当はどうしたい?」 と考えるきっかけにもなります。 もちろん、いつでも前向きに変換しなくてもいいです。 「あー、羨ましい!」 で終わってもいい。 「いいなあ。私もあんなふうにできたらな」 と、ちょっとため息をついて終わる日があってもいい。 人間ですから。 羨ましいものは羨ましい。 悔しいものは悔しい。 嫉妬することだってある。 そんな気持ちまで、 「持っちゃいけない」 と禁止してしまうと、今度は自分の感情まで否定することになってしまいます。 私は、そういう「人にはあまり見せたくない気持ち」も、話していいと思っています。 「友達のこと、素直に喜べないんです」 「人の幸せを見ると、なんだか落ち込みます」 「こんなこと思う自分、嫌なんですけど……」 そんな話でも大丈夫。 誰かに話すことで、 「私、本当は羨ましかったんだ」 と気づくこともある。 その気持ちに気づいたら、 「じゃあ、私はどうしたい?」 と、その先を考えることもできる。 でも、そこまで考えたくない日は、 「今日は羨ましいままでいい」 でもいいんです。 私は、感情って、すぐに処理しなくてもいいと思っています。 悲しいなら、悲しい。 悔しいなら、悔しい。 羨ましいなら、羨ましい。 まずは、 「そう感じている私がいる」 と認める。 それから先のことは、落ち着いてから考えても遅くありません。 そして、人と比べて落ち込んだときには、 「私は何もできていない」 と決めつけないでほしいなと思います。 人には、それぞれのタイミングがあります。 20代で始める人もいる。 40代で始める人もいる。 50代になってから始める人もいる。 もっと後から始める人だっている。 人の人生には、同じ時計が置かれているわけじゃありません。 誰かが先に進んでいるように見えても、 「私は遅れている」 とは限らない。 そもそも、どこをゴールにするかも、人によって違います。 結婚することが幸せな人もいる。 一人の時間を大切にしたい人もいる。 仕事を頑張りたい人もいる。 仕事を減らしてゆっくりしたい人もいる。 家族を大切にしたい人もいる。 自分の世界を広げたい人もいる。 「こう生きるのが正解」 という一つの道があるわけではありません。 なのに私たちは、ときどき、 「あの人はちゃんとしている」 「私は遅れている」 と、自分で勝手に順位をつけてしまいます。 でも、人生って、そもそも順位を競うものじゃないですよね。 昨日の自分より、今日の自分が少し楽だった。 今日はちゃんと眠れた。 久しぶりに笑った。 好きなものを食べた。 誰かに優しくできた。 逆に、今日は何もできなかったけど、無理をしなかった。 そんなことだって、自分の人生の一部です。 大きな成果だけが、 「ちゃんと生きている証拠」 ではないと思います。 私自身も、これまでの人生を振り返ると、 「もっと早くこうしていれば」 と思うことがあります。 でも、今だから見えることがある。 今だからできることもある。 過去の自分には見えなかったものが、今になって少し見えてきた。 それなら、 「遅かった」 ではなく、 「今、気づいた」 でもいいんじゃないかなと思っています。 人と比べてしまったときは、 「私はダメだ」 で終わらせるのではなく、 「私、何に反応したんだろう?」 と、自分の心を少し覗いてみる。 羨ましい。 悔しい。 寂しい。 焦っている。 本当はやってみたい。 もっと自由になりたい。 誰かに認めてもらいたい。 どんな気持ちが出てきてもいい。 その気持ちを知ったら、 「じゃあ、これからどうする?」 を考えてもいい。 何もしなくてもいい。 小さなことを一つ始めてもいい。 誰かに話してみてもいい。 私は、その答えを決めるのは本人だと思っています。 だから電話相談でも、 「こうすればいいですよ」 と私の答えを押しつけるより、 「それを見て、あなたはどう感じたんだろう?」 と、一緒に考えていきたい。 話しているうちに、 「私、本当はこれが欲しかったんだ」 と気づくことがあるかもしれない。 逆に、 「いや、別に私はこれが欲しいわけじゃなかった」 と気づくかもしれない。 どちらでもいいんです。 自分の気持ちがわかれば、それだけで一歩進んでいます。 「あの人はいいなあ」 と思ったとき。 「あの人に比べて私は……」 と落ち込みそうになったとき。 その先に、 「じゃあ、私は何が欲しいんだろう?」 と、一つだけ問いかけてみる。 答えはすぐに出なくても大丈夫。 人と比べたことで、自分の本音が見えてくることだってあります。 だから今日は、 「また人と比べちゃった」 と、自分を責める代わりに、 「お、私、何か羨ましかったんだな」 くらいでいい。 そして、その気持ちをちょっと眺めてみる。 そこにはもしかしたら、 今まで気づかなかった「本当はこうしたかった」が、隠れているかもしれません。 人と比べることを、全部なくさなくてもいい。 比べてしまった自分を責めなくてもいい。 その気持ちを、自分を知るための小さな入口にしてみる。 そんな付き合い方も、あっていいんじゃないかなと思っています。

    ・7.【今日は何もしたくない。そんな日があってもいい(´▽`*)】 2020年7月 〜 2020年7月

    ※匿名・年齢非公開のため期間は変えて掲載しています(*´▽`*) ご理解いただけますと嬉しいです。 ✼••┈┈┈┈••✼ 「今日は、何もしたくない」 そんな日って、ありませんか? 朝、目が覚めた瞬間から、 「今日は何もしたくないなあ……」 と思ってしまう。 起きなきゃいけない。 洗濯もしなきゃ。 ご飯も作らなきゃ。 仕事もある。 やることはいろいろあるのに、心も体も、 「今日はもう、勘弁してください」 と言っている。 それでも、 「こんなこと言ってちゃダメだ」 と起き上がる。 そして一日を何とか終える。 こういう日って、誰にでもあると思うんです。 なのに、なぜか私たちは、 「何もしない自分」 に対して、ものすごく厳しかったりします。 忙しく動いていれば、 「今日もよくやった」 と思えるのに、 ソファに座ってぼーっとしていると、 「私、何やってるんだろう」 と思ってしまう。 テレビを見ていたら、 「こんな時間があるなら、片づければよかった」 スマホを見ていたら、 「また無駄な時間を使っちゃった」 昼寝をしたら、 「寝すぎた……」 せっかく休んでいるのに、頭の中では反省会が始まっている。 これじゃあ、休んでいるのか、休んでいないのかわかりませんよね(笑)。 体はソファにあるのに、心はずっと働いている。 そんなこともあると思います。 でも、 「何もしない時間」 って、本当に全部が無駄なんでしょうか。 私は、そうは思いません。 人間って、ずっと何かをしていなくてもいいんですよね。 何かを生み出していなくてもいい。 誰かの役に立っていなくてもいい。 家事を一つ片づけていなくてもいい。 ただぼーっとしている時間があってもいい。 むしろ、そういう時間があるからこそ、また動けることもあります。 特に、普段から周りのことを気にしている人は、 「何もしない」 ことが苦手だったりします。 家族のことを考える。 仕事のことを考える。 明日の予定を考える。 「あれをやっておかなきゃ」 「これも忘れないようにしなきゃ」 と、頭の中ではずっと何かを処理している。 だから、 「今日は何もしない」 と決めても、 「でも、あれが……」 と考えてしまう。 そんなときは、 「何もしないぞ!」 と気合いを入れなくてもいいと思うんです。 まずは、 「今日はちょっとペースを落とそう」 くらいでいい。 洗濯を一回休んでもいい。 料理を簡単なものにしてもいい。 掃除を明日に回してもいい。 誰かから連絡が来ても、すぐ返さなくてもいい。 もちろん、仕事など、どうしても休めないものもあります。 それでも、その中で、 「今日はここまででいい」 と決められるところが一つくらいあるかもしれません。 全部を完璧に休まなくてもいい。 一つだけ手放す。 それだけでも、少し違います。 そして、 「何もしない時間」を過ごしたあとに、 「さあ、頑張らなきゃ!」 と無理やりスイッチを入れなくてもいい。 コーヒーを飲んで、 「そろそろ動こうかな」 くらいでいいんです。 私は、人って機械じゃないから、 オンとオフをパチッと切り替えられなくても当然だと思っています。 少し休んで、 少し動いて、 また休んで。 そんなふうに、波がありながら一日を過ごしてもいい。 ずっと一定のペースで走り続ける必要なんてありません。 それなのに、 「今日は何もできなかった」 と、その日の自分を一日単位で採点してしまう。 朝から何もしたくなかった。 洗濯をしなかった。 料理も手抜きだった。 掃除もしなかった。 だから、 「今日は0点」 みたいに。 でも、本当に0点でしょうか。 起きた。 顔を洗った。 ご飯を食べた。 仕事に行った。 誰かに挨拶した。 ちゃんと家に帰ってきた。 それだけでも、やったことはある。 何より、 「何もしたくない」 と思いながらも、その日を終えた。 それだって、その日の自分の仕事だったのかもしれません。 私は、 「頑張ったこと」 って、目に見える成果だけじゃないと思っています。 何かを完成させた。 誰かに褒められた。 仕事で結果を出した。 そういうことだけじゃなく、 「今日はこれ以上無理をしなかった」 というのも、自分を守るための一つの選択です。 もちろん、毎日何もしたくない状態が続いているなら、 「ただの怠けだ」 と片づけず、体や心の状態を見直すことも大切です。 長く続くつらさがあるなら、医療機関など専門家に相談することも一つの方法です。 でも、 「今日は何もしたくないなあ」 という一日まで、 「こんな自分はダメ」 と責めなくてもいい。 人間なんですから。 元気な日もある。 やる気がある日もある。 何でもできそうな日もある。 そして、 何にもしたくない日もある。 全部、自分です。 元気な自分だけが本当の自分ではありません。 ぐったりしている自分も、 イライラしている自分も、 やる気が出ない自分も、 ちょっと寂しい自分も、 同じ自分。 だから、 「こんな自分じゃダメ」 と追い出さなくてもいいんです。 「今日はこういう私なんだな」 くらいでいい。 そうすると、少しだけ楽になることがあります。 そして、面白いことに、 「何もしなくていい」 と思ったら、逆にちょっと動きたくなることもあります。 「お茶でも入れようかな」 「洗濯だけしようかな」 「ちょっと散歩してみようかな」 そんな気持ちが自然に出てくる。 これって、 「やらなきゃ」 から動くのとは、ちょっと違うんですよね。 自分の中から、 「やってみようかな」 が出てくる。 私は、この「やってみようかな」を大切にしたいと思っています。 誰かから、 「こうしたほうがいいよ」 と言われて動くのではなく、 自分の中から、 「私はどうしたい?」 が出てくる。 それが、本当の意味で自分を動かす力になることがあるからです。 だから、電話相談でも、 「今日は何もしたくなくて……」 という話を、 「じゃあ、頑張りましょう」 で終わらせたくない。 「何もしたくないんですね」 と、まずその気持ちを聞きたい。 その奥に、 「疲れている」 があるのかもしれない。 「誰かに腹が立っている」 のかもしれない。 「本当は寂しい」 のかもしれない。 「何もしたくないんじゃなくて、今の生活を少し変えたい」 のかもしれない。 あるいは、 本当にただ、 「今日は何もしたくない」 だけなのかもしれない。 それなら、それでいい。 話してみて、 「なんだ、私、ただ疲れてただけかも」 と笑えるかもしれない。 「そういえば最近、ずっと頑張ってたな」 と気づくかもしれない。 「明日はこれだけやろう」 と一つ決められるかもしれない。 逆に、何も決めずに電話を終えてもいい。 私は、相談って、 必ず答えを持って帰らなければいけないものではないと思っています。 話して、 「あー、しゃべった!」 と少しスッキリする。 それだけでもいい。 心の中に詰まっていたものを少し外に出したら、 「今日はもう寝よう」 と思える。 それだって、立派な時間です。 何もしないことに罪悪感を持ってしまう人は、 もしかしたら、 「何かしている自分」 でいることに慣れすぎているのかもしれません。 誰かのために動く。 家族のために動く。 仕事のために動く。 それが当たり前になっているから、 自分のために何もしない時間を持つと、 「こんなことしていいのかな」 と落ち着かなくなる。 でも、 自分のための時間を持つことは、 誰かを大切にすることと反対ではありません。 自分が少し元気になれば、 また誰かに優しくできることもある。 余裕ができれば、 いつもなら気になっていたことが、 「まあ、今日はいいか」 と思えることもある。 心に少し空きスペースがあるだけで、 同じ出来事の見え方が変わることだってあります。 だから、 「何もしない=サボり」 と決めつけなくてもいい。 何もしない日は、 「何もしないことをする日」 なのかもしれません。 今日は休む。 今日は手を抜く。 今日は自分を急かさない。 それを自分で選んだなら、 それも一つの過ごし方です。 そして明日、 「そろそろ動こうかな」 と思ったら、また動けばいい。 昨日休んだから、 今日は頑張らなきゃ、 ではなく、 「今日はこれをやってみようかな」 でいい。 人って、毎日同じじゃありません。 昨日の自分と今日の自分が違ってもいい。 元気な自分も、 元気じゃない自分も、 どちらも自分。 だから今日、 「何もしたくないなあ」 と思ったら、 「そうか、今日はそんな日なんだね」 と、少しだけ自分に言ってあげてください。 そして、できるなら、 「お疲れさま」 も一緒に。 何かを成し遂げたからではなく、 今日もここまで来たから。 それだけで、十分な日もあるんです。

    ・8.【家族なのにどうして分かってくれないんだろう、って思うとき】 2020年8月 〜 2020年8月

    ※匿名・年齢非公開のため期間は変えて掲載しています(*´▽`*) ご理解いただけますと嬉しいです。 ✼••┈┈┈┈••✼ 「家族なんだから、分かってくれてもいいのに」 そんなふうに思ったことはありませんか? 夫婦だったり、親子だったり、兄弟だったり。 長く一緒に過ごしてきた家族なら、言わなくても分かってくれる。 自分のことを一番分かってくれる。 どこかで、そんな期待があるのかもしれません。 だからこそ、分かってもらえなかったときの寂しさは、思っている以上に大きかったりします。 「そんなつもりじゃないのに」 「どうしてそこを分かってくれないの?」 「私がどれだけやってきたと思ってるの?」 言葉にすると、怒りに聞こえるかもしれません。 でも、その奥には、 「本当は分かってほしかった」 という気持ちが隠れていることもあります。 家族に対して腹が立つときって、単純に相手が嫌いだからではないんですよね。 むしろ、近い存在だからこそ、 「これくらい分かってよ」 「私の気持ちくらい察してよ」 と思ってしまう。 そして、分かってもらえないと、 「もういい」 「どうせ言っても無駄」 「何を言っても分かってもらえない」 と、話すこと自体を諦めてしまうこともあります。 でも、諦めたつもりでも、心の中では終わっていない。 ふとした瞬間に思い出して、また腹が立つ。 「そういえば、あのときも……」 と、何年も前のことまで出てきたりします。 こういうこと、ありますよね。 家族とのことって、今起きている出来事だけではなく、これまで積み重なってきたものが一緒に出てくることがあります。 だから、 「そんなことで怒るなんて」 と、自分でも思ってしまうような小さな出来事なのに、妙に腹が立つ。 その出来事だけを見れば小さなことでも、 「今までずっと私ばかり我慢してきた」 という気持ちが重なっていたら、そりゃあ簡単には片づきません。 だから私は、 「そんなことで怒らなくても」 「家族なんだから仲良くしなきゃ」 「ちゃんと話し合えばいいですよ」 と、簡単には言いたくないんです。 話し合えるなら、とっくに話している人もいるでしょう。 何度も伝えてきた人もいるでしょう。 伝えようとして、うまく言葉にならなかった人もいるでしょう。 そして、 「もう何を言っても仕方ない」 と、黙ることを選んだ人もいると思います。 それも、その人なりに自分を守る方法だったのかもしれません。 家族だからといって、何でも分かり合えるわけではありません。 同じ家で暮らしていても、同じ出来事を見ても、感じ方は違います。 親子だから分かることもあれば、親子だからこそ分からないこともある。 夫婦だから分かってほしいこともあれば、夫婦だからこそ言いにくいこともある。 長く一緒にいるから分かる部分と、長く一緒にいるから見えなくなっている部分。 家族って、案外そんなものなのかもしれません。 そして、ここが少し難しいところなのですが、 「分かってもらえない」 と 「自分の気持ちに価値がない」 は、別のことなんですよね。 相手が分かってくれなかったからといって、 あなたの感じたことが間違いになるわけではありません。 相手が納得してくれなかったからといって、 あなたが我慢しなければならないわけでもありません。 逆に、相手の考えが自分と違ったからといって、 相手が全部間違っているとも限りません。 このあたりが、家族の難しいところです。 どちらか一方が完全に正しくて、もう一方が完全に間違っている。 そんなにきれいに分けられないことも多いんですよね。 だからこそ、 「私は本当は何が嫌だったんだろう?」 と、自分の中を少しだけ見てみることには意味があると思っています。 相手を変えるためではありません。 相手に分からせるためでもありません。 まず、自分が自分の気持ちを知るためです。 「私は怒っていたんだ」 「本当は寂しかったんだ」 「ずっと気づいてほしかったんだ」 「私だって大切にされたかったんだ」 そんなふうに、自分の中にある気持ちが見えてくることがあります。 もしかしたら、 「私は謝ってほしかったんじゃなくて、気持ちを分かってほしかったんだ」 ということもあるかもしれません。 反対に、 「分かってほしいと思っていたけど、今はもう分かってもらおうとしなくてもいいのかもしれない」 と思うこともある。 どちらが正解ということではありません。 その人によって、必要な答えは違います。 私は電話相談をしていて、 「家族のことだから、誰にも言えなくて」 という話を聞くことがあります。 家族のことだからこそ、外では話しにくい。 友達に話したら、家族の悪口を言っているみたいで嫌。 身近な人には余計な心配をかけたくない。 そんな気持ちもあるでしょう。 でも、心の中に溜めたままにしていると、自分でも何に苦しんでいるのか分からなくなることがあります。 そんなときは、きれいに整理してから話さなくても大丈夫です。 「もう腹が立って仕方ない!」 から始まってもいい。 「私だって悪いところはあるんですけど……」 と、行ったり来たりしてもいい。 「何が嫌なのか自分でも分からない」 でも大丈夫です。 話しているうちに、 「あ、私が嫌だったのはそこだったんだ」 と、自分でも気づいていなかった気持ちが出てくることがあります。 私は、その瞬間が好きなんです。 誰かから答えをもらうのではなく、 自分の中から、 「ああ、そうだったのか」 と出てくる瞬間。 本当の答えは、本人の中にある。 私はそう思っています。 だから、家族との問題についても、 「こうすればいいですよ」 と簡単に答えを決めるより、 まずは、 「あなたは本当はどう感じているんだろう?」 というところから、一緒に見ていきたい。 怒っていてもいい。 泣いていてもいい。 「もう知らない!」と言ってもいい。 そのあとで、 「でも、やっぱり分かってほしいんだよね」 と戻ってきてもいい。 気持ちは、そんなに一直線ではありませんから。 家族だからこそ、いろんな感情が混ざります。 好きだけど腹が立つ。 大切だけど距離を置きたい。 心配だけど、もう疲れた。 分かってほしいけど、もう説明するのもしんどい。 どれも、その人の本当の気持ちなのだと思います。 だから、 「こんなことを思う私は冷たいのかな」 と、自分を責めなくてもいいんです。 まずは、その気持ちをそのまま出してみる。 誰かに分かってもらうためではなく、 自分が自分の気持ちを置き去りにしないために。 家族の問題は、すぐに解決できないこともあります。 相手が変わらないこともあります。 何年もかけてできた関係なら、なおさらです。 だから私は、 「今日の電話で全部解決しなくてもいい」 と思っています。 いっぱい話して、 「なんか腹立つ!」 で終わってもいい。 「まだモヤモヤしてる」 でもいい。 それでも、少しだけ自分の気持ちが見えたなら、それはそれで十分な一歩だと思うんです。 家族なのに分かってもらえない。 そんな寂しさを抱えているなら、 まずはここで、 「本当はね……」 から話してみませんか。 まとまっていなくても大丈夫。 きれいな言葉じゃなくても大丈夫。 家族の前では言えなかったことも、 ここでは、そのまま話してください。 私は、ちゃんと聞きます。 そして話し終わったとき、 「私、こんなことを思ってたんだ」 と、ほんの少しでも自分の気持ちが分かっていたら。 それだけでも、心の中に少し余白ができるかもしれません。

    ・9.【「断るのが苦手」な人が、つい引き受けてしまう理由】 2020年9月 〜 2020年9月

    ※匿名・年齢非公開のため期間は変えて掲載しています(*´▽`*) ご理解いただけますと嬉しいです。 ✼••┈┈┈┈••✼ 「本当は断りたいのに、断れない」 そんなこと、ありませんか? 頼まれた瞬間は、 「どうしよう……」 と思っているのに、 「いいですよ」 と口から出てしまう。 電話を切ったあとや、その場を離れてから、 「やっぱり断ればよかった……」 と後悔する。 でも、次にまた頼まれると、やっぱり断れない。 そんな経験を繰り返している人もいると思います。 断ることって、簡単そうで意外と難しいんですよね。 「今ちょっと忙しいから無理」 と、はっきり言える人もいます。 でも、 「相手が困るんじゃないかな」 「嫌な顔をされたらどうしよう」 「せっかく頼ってくれたのに」 「私がやったほうが早いし」 そんなことを考えているうちに、 「じゃあ、やります」 となってしまう。 そして、引き受けたあとで大変になる。 「あー、またやっちゃった……」 なんて思う。 でも、私は「断れない人」を単純に、 「もっと自分を大切にしましょう」 だけで片づけたくないんです。 だって、断れないのには、その人なりの理由がありますから。 人に嫌な思いをさせたくない。 関係を悪くしたくない。 場の空気を壊したくない。 相手の大変さが分かるから放っておけない。 これまでずっと、 「人に迷惑をかけないように」 と考えてきた。 そういう人ほど、断ることに強い抵抗を感じることがあります。 だから、 「断ればいいじゃん」 と言われても、 「それができたら苦労しないんだよ!」 なんですよね(笑)。 断るというのは、単に「NO」と言うだけではありません。 その瞬間に、 「相手はどう思うだろう」 という想像まで一緒についてきます。 だから苦しくなる。 そして、優しい人ほど、 「自分がちょっと我慢すれば済む」 と考えてしまう。 これも、長い間そうしてきた人にとっては、ごく自然なことなのかもしれません。 でも、その「ちょっと」が積み重なると、いつの間にか大きな負担になります。 頼まれごとを一つ引き受ける。 また一つ引き受ける。 家に帰ってから、 「なんで私ばっかり……」 と思う。 でも、相手には、 「やってくれる人」 として見えている。 ここに、ちょっとしたズレが生まれることがあります。 相手からすると、 「いつもやってくれるから、今回も大丈夫だろう」 くらいなのかもしれません。 でも、自分の中では、 「本当は毎回しんどい」 だったりする。 相手は、こちらが無理をしていることに気づいていない。 だから余計に腹が立つ。 「少しくらい気づいてよ!」 と思ってしまう。 でも、相手からすれば、 「嫌なら断ってくれればよかったのに」 となることもあります。 これ、どちらが悪いという話ではないんですよね。 ただ、お互いに分かっていない。 自分の「本当は嫌だった」を、相手は知らない。 だからこそ、断れない人にとっては、 「断る練習」 より先に、 「私は本当はどうしたい?」 を知ることが大切なのかもしれません。 頼まれた瞬間、 「できます!」 と言う前に、 ほんの数秒だけ、 「私はこれ、やりたい?」 と自分に聞いてみる。 やりたい。 できる。 今なら大丈夫。 そう思うなら、引き受ければいい。 でも、 「本当は嫌だな」 「今は余裕がないな」 「これをやったら自分が大変になるな」 と思うなら、 その気持ちもちゃんと存在しています。 そこで、 「でも断ったら悪いし……」 とすぐに消してしまわない。 まず、 「私は嫌なんだな」 と分かってあげる。 それだけでも、少し違うと思うんです。 もちろん、気持ちが分かったからといって、必ず断らなければいけないわけではありません。 嫌だけど今回は引き受ける。 今回はできるけど、次は断る。 今は無理だから、別の日ならできる。 誰かに頼む。 いろんな選択肢があります。 「断る」か「全部引き受ける」か。 二択じゃなくてもいいんですよね。 たとえば、 「今日は難しいけど、○曜日ならできるよ」 というのも一つ。 「そこまではできないけど、ここまでならできる」 というのも一つ。 「今回はごめんね」 だけでもいい。 長々と理由を説明しなくてもいいこともあります。 断ることに慣れていない人ほど、 「なぜできないのかを、相手が納得するまで説明しなきゃ」 と思ってしまうことがあります。 でも、自分の都合を説明することと、相手の許可をもらうことは別なんですよね。 もちろん、仕事などでは事情やルールによって説明が必要なこともあります。 でも、日常のちょっとしたお願いなら、 「今回は難しいです」 それだけで終わってもいい。 最初は、そんな短い言葉を口にするだけでもドキドキするかもしれません。 「嫌われたかな」 「感じ悪かったかな」 と、あとから何度も考えてしまうかもしれません。 でも、そのたびに、 「私は悪いことをしたのかな?」 ではなく、 「私は自分の都合を伝えただけかもしれない」 と、少しだけ見方を変えてみる。 相手が残念そうな顔をしたとしても、 それは必ずしも、 「あなたが悪い」 という意味ではありません。 お願いを断られたから、残念だった。 ただ、それだけかもしれません。 人には、人の都合があります。 そして、自分にも自分の都合があります。 その二つがいつも一致するわけではない。 それは、人間関係では当たり前のことなのかもしれません。 それでも、 「断ったら嫌われる」 と思ってしまうことがありますよね。 実際、断ったことで少し距離ができる関係もあるでしょう。 でも逆に、 「何でも引き受けてくれる人」 を演じ続けることで、苦しくなってしまう関係もあります。 いつも笑顔で、 「いいよ、いいよ」 と言っていた人が、ある日突然限界になってしまう。 それより、 「今日は難しいよ」 「それはできないな」 と、小さく伝えられるほうが、長く続く関係もあると思います。 そして何より、 断ることは、相手を拒絶することとは違います。 「あなたが嫌いだから断る」 ではなく、 「今の私は、それを引き受けられない」 ということもある。 相手と自分を切り離して考えてみると、少しだけ分かりやすくなるかもしれません。 私はあなたが嫌い。 ではなく、 私は今回はできない。 この二つは、全然違います。 もし今、 「また引き受けちゃった……」 とモヤモヤしているなら、 「なんで私は断れないんだろう」 と自分を責める前に、 「本当は、どうしたかった?」 と聞いてみてほしいんです。 「断りたかった」 なら、それでいい。 「助けてあげたい気持ちもあった」 なら、それもいい。 「嫌だったけど、今回は仕方なかった」 でもいい。 人の気持ちは、一つに決めなくても大丈夫です。 やりたくない。 でも放っておけない。 腹が立つ。 でも嫌いになれない。 断りたい。 でも助けたい。 そんな矛盾した気持ちを抱えることも、人間らしさの一つだと思います。 もし一人で考えていると、 「結局、私はどうしたいの?」 と分からなくなってしまったら。 そんなときは、誰かに話してみるのもいいと思います。 「こんなこと、断ればいいだけなんですけどね」 なんて笑いながら話しているうちに、 「いや、私、本当はずっと嫌だったんだ」 と気づくこともある。 逆に、 「話してみたら、私は引き受けたかったんだ」 と分かることもある。 どちらでもいいんです。 大切なのは、 「周りがどう思うか」 だけで決めるのではなく、 自分の気持ちも、ちゃんと選択肢の中に入れてあげること。 断ってもいい。 引き受けてもいい。 今回は断って、次は引き受けてもいい。 その時々で変わってもいい。 「私はどうしたい?」 という問いを、自分の中に一つ持っておく。 それだけでも、少しずつ何かが変わっていくかもしれません。 そしてもし、 「断れない自分をどうにかしたい」 ではなく、 「そもそも私は何が嫌なのか、自分でも分からない」 という状態なら。 そこから一緒に話していきましょう。 うまく説明できなくても大丈夫です。 「なんか嫌なんです」 からでもいい。 「また頼まれて、いいよって言っちゃったんです」 からでもいい。 話しているうちに、 「あ、私、これが嫌だったんだ」 と見えてくるかもしれません。 私は、あなたの代わりに答えを決めるのではなく、 あなた自身の気持ちが見えてくるまで、 隣で一緒に話を聞いていたいと思っています。

    ・10.【「分かってくれると思っていたのに」と、」勝手に傷ついてしまうとき】 2020年10月 〜 2020年10月

    ※匿名・年齢非公開のため期間は変えて掲載しています(*´▽`*) ご理解いただけますと嬉しいです。 ✼••┈┈┈┈••✼ 「これくらい、分かってくれると思ってたのに」 そんなふうに思って、がっかりしたことはありませんか? こちらからすると、特別なことをお願いしたわけではない。 ちょっと気にかけてほしかっただけ。 一言、声をかけてほしかっただけ。 自分が大変そうにしていることに、少しくらい気づいてほしかっただけ。 なのに、相手はいつも通り。 何も気づいていない。 何もなかったようにしている。 そんなとき、 「なんで分からないの?」 と、腹が立ってきます。 そして、その怒りの奥には、 「分かってくれると思ってた」 という期待があったことに気づきます。 期待って、不思議ですよね。 「こうしてくれたら嬉しい」 くらいなら、まだいい。 でも、 「きっとこうしてくれる」 「この人なら分かってくれる」 「普通はこうするでしょう」 と、いつの間にか自分の中で「当然」に変わっていることがあります。 そして、その通りにならなかったとき、 「裏切られた」 くらいの気持ちになってしまう。 相手は、約束したわけでもないのに。 こちらが勝手に期待していただけなのに。 そう思って、 「私が勝手に期待したんだから仕方ない」 と、自分に言い聞かせることもあります。 でも、それで気持ちがすぐに消えるわけではありません。 やっぱり悲しい。 やっぱり腹が立つ。 やっぱり寂しい。 そんな自分を、 「期待するほうが悪い」 と責めなくてもいいと思うんです。 だって、期待すること自体は悪いことではないから。 人を信頼するから期待することもあります。 大切に思っているから期待することもあります。 「この人なら分かってくれる」 と思える相手がいることは、むしろ嬉しいことでもあります。 問題なのは、期待したことではなく、 その期待を自分でも気づかないうちに、 「相手がしてくれて当然」 にしてしまったときなのかもしれません。 たとえば、 「誕生日だから、何かしてくれると思ってた」 「仕事で大変だったから、今日は家族が気を遣ってくれると思ってた」 「長く付き合っている友達なら、私の気持ちくらい分かると思ってた」 そんなことがあります。 でも、相手には相手の考えがあります。 こちらが「これくらい分かるよね」と思っていることが、相手には見えていないこともある。 これは、冷たいからとは限りません。 そもそも、気づいていないだけかもしれない。 自分だったら気づくことでも、相手は気づかない。 相手だったら気にすることでも、自分は気にしない。 人って、本当に違います。 だから、 「私はこれをしてほしかった」 という気持ちと、 「相手がそれをしてくれなかった」 という事実を、少し分けて考えてみるといいのかもしれません。 「してほしかった」 これは、自分の気持ち。 「してくれなかった」 これは、起きたこと。 そして、 「だから私は悲しかった」 これも、自分の気持ちです。 ここまでは、そのまま認めていい。 そのうえで、 「じゃあ、私はどうしたい?」 と考えてみる。 ここから先は、人によって違います。 今さら言いたくない人もいるでしょう。 一度ちゃんと伝えてみたい人もいるでしょう。 もう期待することをやめたい人もいるでしょう。 「期待しないようにしよう」と思っても、やっぱり期待してしまう人もいるでしょう。 どれが正しいということではありません。 私は、 「人に期待しないほうがいい」 とも思っていません。 期待しないで生きるなんて、なかなか難しいですから(笑)。 好きな人には、やっぱり分かってほしい。 大切な人には、大切にしてほしい。 頑張っているときには、少しくらい気づいてほしい。 そう思うのは、そんなにおかしなことではないと思います。 ただ、 「分かってくれるはず」 と心の中だけで思っていると、相手はその期待を知らないままになってしまいます。 こちらは、 「どうして分かってくれないの?」 相手は、 「何のこと?」 という、悲しいすれ違いが起きる。 だから、ときには、 「実は、こうしてくれたら嬉しかった」 と伝えてみることも一つです。 もちろん、伝えたからといって相手が必ず変わるわけではありません。 「そうだったの?ごめん」 と言ってくれるかもしれない。 「そこまで考えてなかった」 と言われるかもしれない。 「そんなの無理だよ」 と言われるかもしれない。 それも、相手の反応です。 自分の気持ちを伝えることと、 相手を思い通りに動かすことは違います。 ここは、とても大事なところだと思っています。 「私はこう感じた」 までは、自分の言葉にできる。 でも、 「だからあなたは、こうしなさい」 になると、相手の領域に入っていきます。 もちろん、お願いすることは悪くありません。 「こうしてくれたら嬉しい」 と伝えるのもいい。 ただ、それを相手がどう受け取るかは、相手の自由です。 そして、相手の反応を見て、 「この人にはここまで期待できる」 「これは期待しないほうがいい」 と、自分の中で少しずつ分かってくることもあります。 それは、諦めとは違うと思うんです。 「この人はこういう人なんだな」 と知っていくこと。 そして、 「じゃあ、私はどう付き合おうかな」 と考えること。 人間関係って、そうやって少しずつ形が変わっていくのかもしれません。 でも、ときには、 「そんなこと分かってるんです。 でも、分かってほしかったんです」 ということもありますよね。 頭では分かっている。 期待しすぎたことも分かっている。 相手に悪気がないことも分かっている。 それでも、悲しい。 それでも、腹が立つ。 そんなときまで、 「分かってるんだから、もう気にしないようにしよう」 と自分を説得しなくてもいいと思います。 気持ちは、理屈だけでは動きません。 「分かってる」と「納得した」は、別のことですから。 だから私は、電話相談でも、 「でも、相手にも事情があるから」 と、すぐに話を終わらせたくはありません。 もちろん相手の事情を考えることも大切です。 でも、その前に、 「あなたは、どうだったの?」 を聞いてみたい。 本当は悲しかった? 悔しかった? 寂しかった? 腹が立った? それとも、 「私のことなんて、どうでもいいのかな」 と感じてしまった? そこには、その人にしか分からない気持ちがあります。 話しているうちに、 「私、相手に怒っていたんじゃなくて、寂しかったんだ」 と気づくこともあります。 逆に、 「いや、やっぱり私は腹が立ってる!」 となることもある(笑)。 それだっていいんです。 無理にきれいな気持ちにまとめなくていい。 「期待してしまった自分が悪い」 と結論を出さなくてもいい。 「相手が悪い」 と決めなくてもいい。 まずは、 「私は、こう感じた」 そこに戻ってくればいい。 人に期待して傷つくことは、誰にでもあります。 大切に思っている人ほど、期待することもある。 だから、 「期待しちゃった自分はダメだ」 なんて思わなくて大丈夫です。 期待した自分も、傷ついた自分も、 「そうだったんだね」 と、そのまま受け止めてあげればいい。 そのうえで、 「これから、この人とどう付き合っていこうかな」 と考える。 その答えは、誰かから決めてもらうものではなく、 きっと自分の中から少しずつ出てくるものだと思っています。 もし今、 「分かってくれると思ってたのに……」 という気持ちを抱えているなら。 その「……」の中にあるものを、話してみませんか。 怒っていてもいい。 愚痴でもいい。 「私、期待しすぎたのかな」 と迷っていてもいい。 うまく説明できなくても大丈夫です。 話しているうちに、 「ああ、私は本当はこれが欲しかったんだ」 と、自分でも気づいていなかった気持ちが見えてくるかもしれません。 私は、その気持ちを一緒に見つけるお手伝いができたらと思っています。 だって、期待したことも、 傷ついたことも、 そのときのあなたにとっては、 ちゃんと意味のある気持ちだったのだから。

    ・11.【「私ってなにが好きだったんだろう?」と思ったとき】 2020年11月 〜 2020年11月

    ※匿名・年齢非公開のため期間は変えて掲載しています(*´▽`*) ご理解いただけますと嬉しいです。 ✼••┈┈┈┈••✼ 「何が好きですか?」 そう聞かれたら、すぐに答えられますか? 好きな食べ物。 好きな色。 好きな音楽。 好きな場所。 好きな休日の過ごし方。 こういう質問なら、 「私はこれが好き!」 と答えられる人もいるでしょう。 でも、なかには、 「うーん……なんだろう」 と考え込んでしまう人もいます。 そして、 「別に、特にないかな」 と答える。 本当に「好きなものがない」人もいると思います。 でも、もしかすると、 好きなものがないのではなく、 「自分の好き」を後回しにする時間が長すぎたのかもしれません。 家族が好きなものを優先する。 子どもが喜ぶものを選ぶ。 夫が食べたいものを作る。 親のことを考える。 仕事の都合に合わせる。 誰かが困らないようにする。 そんなことを毎日のように繰り返していると、 「私は何が好きなんだろう?」 という問いそのものを、考えなくなっていくことがあります。 夕食だって、 「何が食べたい?」 と聞かれても、 「何でもいいよ」 となる。 旅行に行くことになって、 「どこに行きたい?」 と聞かれても、 「みんなが行きたいところでいいよ」 となる。 休日も、 「今日は何しようかな」 ではなく、 「家のことをやらなきゃ」 から始まる。 気がつけば、 「自分がどうしたいか」 より、 「何をしたらうまくいくか」 「誰が喜ぶか」 「何をしておけば困らないか」 を考えることが多くなっている。 それが悪いわけではありません。 むしろ、そうやって家族や周りの人を支えてきたからこそ、今の生活が成り立っていることもあるでしょう。 でも、長い間それを続けていると、 自分の「好き」が少し奥に隠れてしまうことがあります。 だから、 「私って、何が好きだったんだろう?」 と思うのは、決しておかしなことではないんです。 「好きなものくらい、普通は分かるでしょう」 なんて思わなくていい。 分からなくなっているなら、 これから少しずつ見つけていけばいいんです。 しかも、 「好きなものを見つけなきゃ!」 と、また頑張らなくても大丈夫。 もっと小さなところからでいいと思います。 たとえば、 朝、コーヒーを飲んだとき。 「この香り、好きだな」 と思った。 それだけでもいい。 スーパーで、 「このお菓子、ちょっと気になる」 と思った。 それもいい。 テレビを見ていて、 「この人、なんか好きだな」 と思った。 それも立派な「好き」です。 「人生で一番好きなものは何ですか?」 なんて、そんな大きな質問に答えなくてもいいんです。 むしろ、 「今、ちょっと心が動いたもの」 くらいでいい。 私は、この小さな「好き」を大事にしたいと思っています。 なぜなら、 「好き」という気持ちは、 「私はこうしたい」 という気持ちにつながっていることがあるからです。 そして、 「私はこうしたい」 が分かると、 「じゃあ、どうしようかな」 と、自分の選択が少しずつ見えてくることがあります。 もちろん、 好きだからといって、全部やらなければいけないわけではありません。 旅行が好きでも、毎月旅行に行く必要はない。 甘いものが好きでも、毎日食べる必要はない。 一人の時間が好きでも、家族を嫌いになるわけではない。 好きなものは、 「必ず生活に取り入れなければならないもの」 ではありません。 「あ、私これ好きだったんだ」 と気づくだけでも、十分なんです。 そして、面白いのは、 「好き」を探していると、 逆に「嫌い」や「苦手」も見えてくることです。 「これは別に好きじゃないな」 「本当はこういう場所、苦手だった」 「みんなが好きだから合わせていたけど、私はそんなに好きじゃなかった」 そんな発見も出てきます。 これも大切なことだと思います。 自分を知るというのは、 好きなものをたくさん並べることだけではありません。 「私はこれは嫌なんだ」 「これは疲れるんだ」 「これは無理していたんだ」 と知ることも、自分を知ることです。 だから、 「好きなものが分からない」 というところから始めても大丈夫。 むしろ、 「分からない」 と気づいたこと自体が、最初の一歩なのかもしれません。 長い間、 「家族のため」 「仕事のため」 「親のため」 と動いてきた人ほど、 自分のことになると急に分からなくなることがあります。 人のことなら、すぐに答えられるのに。 「娘にはこれがいいと思う」 「夫にはこれが合っている」 「親にはこれをしてあげたほうがいい」 と、周りのことはよく見えている。 なのに、 「じゃあ、あなたは?」 と聞かれると、 「私は……」 と止まってしまう。 そんな人もいるでしょう。 もしそうなら、 少しずつでいいから、 「私は?」 を取り戻してみませんか。 大きな決断じゃなくていい。 今日のお昼に何を食べたいか。 どんな服を着たいか。 どの道を歩きたいか。 テレビをつけるのか、つけないのか。 お風呂に入ったあと、すぐ寝るのか、少しゆっくりするのか。 そんな小さな選択でもいいんです。 「どっちでもいい」 と思ったときも、 「本当にどっちでもいい?」 と、自分に一回だけ聞いてみる。 案外、 「……こっちかな」 と、出てくることがあります。 それが、自分の気持ちです。 そして、 「やっぱり何でもいいや」 なら、それも答えです(笑)。 大事なのは、 「自分で選ばなきゃ!」 と頑張ることではありません。 自分の気持ちを、一度ちゃんと聞いてあげること。 答えが出てもいい。 出なくてもいい。 今日は分からなくても、明日は分かるかもしれない。 前は好きだったけど、今はそうでもないかもしれない。 逆に、 「昔は興味なかったのに、今は好き」 というものが出てくるかもしれません。 人は変わります。 だから、「昔の自分が好きだったもの」を、ずっと好きでいなくてもいいんです。 今の自分が、 「ちょっといいな」 と思うものを見つけていけばいい。 私は、「自分を大切にする」という言葉も、そんなに難しく考えなくていいと思っています。 豪華な旅行をするとか、 高いものを買うとか、 特別なことをする必要はありません。 「今日はこっちが食べたい」 「この曲、好きだな」 「もう少し寝たい」 「今日は一人でいたい」 そんな小さな気持ちを、 「そうなんだね」 と、自分が聞いてあげる。 それだけでも、自分との付き合い方は少し変わっていくのかもしれません。 もし、 「私、何が好きなのか本当に分からない」 という人がいたら。 私は、 「じゃあ、一緒に探してみましょう」 と言いたいです。 もちろん、電話の中でいきなり、 「あなたの好きなものを10個言ってください!」 なんてしません(笑)。 そんなことをされたら、 「分からないから電話してるんですけど!」 ってなりますよね。 「最近ちょっと嬉しかったこと」 「なぜか気になったこと」 「昔好きだったもの」 「人に言われると嬉しい言葉」 そんなところから、ゆっくり話していけばいい。 話しているうちに、 「そういえば私、昔これ好きだった」 「そうそう、これを見るとちょっと嬉しくなる」 なんて、小さなものが見つかるかもしれません。 その小さな「好き」を拾っていく。 それだけでもいいんです。 誰かのために頑張ってきた時間が長かった人ほど、 これからは少しずつ、 「私はどうしたい?」 を聞いてあげてもいいと思います。 大きな答えじゃなくていい。 立派な夢じゃなくていい。 今日の小さな「好き」でいい。 「私、これ好きだったんだ」 と気づいた瞬間、 心の中に、ほんの少し自分の居場所が戻ってくることがあります。 そして、その居場所は、 誰かに許可してもらわなくてもいい。 自分の中にあっていいものなんです。

    ・12.【「今さら遅いかな」と思ったときに】 2020年12月 〜 2020年12月

    ※匿名・年齢非公開のため期間は変えて掲載しています(*´▽`*) ご理解いただけますと嬉しいです。 ✼••┈┈┈┈••✼ 「今さら始めても遅いよね」 そんなふうに思ったことはありませんか? やってみたいことがある。 興味のあることもある。 「ちょっとやってみようかな」 と思う瞬間もある。 でも、そのあとに、 「今さら?」 という言葉が出てくる。 もう若くないし。 今から始めても大したことにならないだろうし。 もっと早く始めておけばよかった。 周りはもうとっくにやっている。 今から始めたら、笑われるかもしれない。 そんなことを考えているうちに、 「まあ、いいか」 と、元の生活に戻ってしまう。 これ、すごくもったいないような気もするし、 でも、そう簡単には動けない気持ちも分かるんです。 特に、長い間、 家族のこと。 仕事のこと。 親のこと。 毎日の生活。 そういうものを優先してきた人ほど、 「自分がやりたいこと」 に時間を使うのは、案外難しいものです。 何かを始めようと思っても、 「そんなことしてる場合じゃない」 と、すぐに現実が出てくる。 家のこともしなきゃ。 仕事もある。 お金もかかる。 時間もない。 体力だって昔とは違う。 そう考えていたら、 「じゃあ、やめておこう」 となる。 そして何年か経って、 「そういえば、あのときやってみたかったな」 と思い出す。 もちろん、何でも始めればいいという話ではありません。 やりたいことがあっても、 今はできないこともあります。 お金の問題があるかもしれない。 家族の事情があるかもしれない。 仕事との両立が難しいかもしれない。 だから、 「やりたいなら、今すぐやろう!」 と簡単に背中を押すつもりもありません。 ただ、 「今さら遅い」 という理由だけで、最初から諦めてしまうのは、 少しだけ寂しいなと思うんです。 だって、 「今さら遅い」 という言葉って、 本当に事実なのでしょうか。 それとも、 「失敗したら恥ずかしい」 「続かなかったら嫌だ」 「思ったほどできなかったら嫌だ」 という気持ちを、 「今さら遅い」 という言葉に置き換えているだけなのでしょうか。 ここは、自分でも分からないことがありますよね。 本当に今は必要ないのか。 それとも、ちょっと怖いのか。 面倒なのか。 自信がないのか。 誰かに何か言われるのが嫌なのか。 そこを一つずつ見ていくと、 「私、本当はやってみたいんだ」 という気持ちが出てくることがあります。 私は、「やってみたい」という気持ちは、そんなに大きなものでなくてもいいと思っています。 「一度だけやってみたい」 でもいい。 「ちょっと調べてみたい」 でもいい。 「見るだけならやってみようかな」 でもいい。 何かを始めるというと、 資格を取る。 仕事にする。 毎日続ける。 成果を出す。 そんな大きなことを想像してしまいがちです。 でも、最初は、 「ちょっと触ってみる」 くらいでもいいんですよね。 やってみて、 「思ってたのと違った」 なら、やめてもいい。 「やっぱり好きじゃなかった」 なら、それが分かっただけでも十分です。 逆に、 「なんだ、私これ好きじゃん」 と分かるかもしれない。 始める前から、 「続けなきゃ」 まで考えなくてもいいんです。 一歩目を出しただけで、 十歩目まで歩く必要はありません。 それなのに私たちは、 「始めるなら、ちゃんとやらなきゃ」 と思ってしまう。 だから、始めることそのものが重たくなる。 「どうせやるなら、ちゃんと」 「中途半端は嫌」 「時間を無駄にしたくない」 そうやって考えているうちに、 何もしないまま時間だけが過ぎていく。 でも、 「ちょっとやってみる」 という選択肢もあっていいと思うんです。 そして、年齢を重ねてから始めることには、 若い頃とは違う面白さもあると思います。 若い頃は、 「これから何にでもなれる」 という可能性がある一方で、 自分が何を好きなのか分からないまま走っていることもあります。 でも、いろいろな経験をしてきた今なら、 「これは好き」 「これは向いていない」 「これは無理してまでやらなくていい」 ということが、少し分かっている。 人生経験って、 何かを始めるときにも使えるんですよね。 失敗した経験があるから、 「まあ、やってみてダメならやめればいいか」 と思えることもある。 人間関係でいろいろ経験したから、 「人にどう思われるかより、自分がどうしたいか」 を考えられるようになることもある。 昔は気にしていたことが、 「まあ、いいか」 で済むようになることもある。 もちろん、誰もがそうなるわけではありません。 年齢を重ねれば自動的に強くなるわけでもない。 今までの経験が、逆に怖さにつながっていることもあります。 だから、 「大人なんだから、もっと堂々と」 なんて言う必要もありません。 怖いものは怖い。 不安なものは不安。 それも含めて、 「それでもちょっとやってみたい?」 と、自分に聞いてみればいい。 もし答えが、 「うん。ちょっとだけ」 なら、 その「ちょっと」を大切にしてみる。 「やっぱりやりたくない」 なら、それもいい。 やりたいことがあるからといって、 必ず行動しなければいけないわけではありません。 心の中で、 「私、これやってみたいんだな」 と気づくだけの日があってもいい。 そうしているうちに、 いつか自然に動ける日が来るかもしれません。 反対に、 「今はやらなくてもいいや」 と、すっきり手放せることもあります。 それも、自分で選んだ答えです。 大事なのは、 「今さら遅い」 という一言だけで、 自分の気持ちを最初から却下しないこと。 「今さら遅いかな」 と思ったら、 そのあとに一つだけ、 「でも、本当はやってみたい?」 と聞いてみる。 その答えが、 「はい」 なら、 まずは調べるだけでもいい。 体験だけでもいい。 誰かに話を聞くだけでもいい。 小さな一歩なら、 今の自分にもできるかもしれません。 そして、 何歳から始めたって、 最初はみんな初心者です。 今までやったことがないなら、 上手にできなくて当然。 知らなくて当然。 分からなくて当然。 「こんなことも知らないなんて」 と恥ずかしがらなくていいんです。 初めてなんだから。 それに、 「もっと早く始めればよかった」 と思うことだってあるでしょう。 でも、 そのときの自分には、そのときの生活があった。 そのときは家族を優先していた。 仕事を頑張っていた。 親のことを考えていた。 自分以外のことで精一杯だった。 だから、 「どうしてあのときやらなかったんだろう」 と、昔の自分を責めなくてもいいと思います。 そのときは、そのときで精一杯だったのだから。 そして今、 「やってみたい」 と思った。 だったら、 今の自分にできる形を探してみればいい。 大きくなくていい。 人に言わなくてもいい。 途中でやめてもいい。 やっぱり違ったと思ってもいい。 「やってみたい」と思った自分を、 ちょっと面白がってみるくらいでもいいんです。 もし誰かに、 「今さら?」 と言われたとしても、 その人の人生と自分の人生は違います。 自分がこれから何に時間を使いたいのか。 何をちょっと楽しんでみたいのか。 それを決めるのは、自分です。 もちろん、現実的なことを考えるのも大切です。 生活とのバランス。 お金。 時間。 体力。 家族との兼ね合い。 そこを考えたうえで、 「じゃあ、できる範囲でやってみよう」 という答えが出てもいい。 「今は難しいから、もう少し先にしよう」 でもいい。 「やっぱりやめておこう」 でもいい。 どの答えになっても、 自分で考えて選んだなら、それでいいんです。 私は、 「何歳からでも夢を追いかけよう!」 と、元気いっぱいに背中を押すタイプではありません(笑)。 そんなに簡単なものじゃないことも、分かっています。 でも、 「ちょっとやってみたいな」 という気持ちまで、 「今さら遅い」 の一言で消してしまわなくてもいい。 その気持ちは、 今のあなたの中から出てきたものだから。 もし最近、 「本当はやってみたいことがあるんだけど……」 と思っているなら、 その「……」の続きを、話してみませんか。 「くだらないことなんですけど」 でもいい。 「今さら無理だと思うんですけど」 でもいい。 「笑われるかもしれないけど」 でもいい。 私は、 「じゃあ、やりましょう!」 と勝手に決めたりはしません。 まずは、 「それ、どんなことなの?」 と聞きたい。 話しているうちに、 「やっぱりやってみたい」 と思うかもしれない。 「今はまだいいや」 と思うかもしれない。 どちらでも大丈夫。 自分の中にある小さな気持ちを、 「そんなの無理」 と最初から消さずに、 一度ちゃんと聞いてみる。 それだけでも、 今までとは少し違う景色が見えてくるかもしれません。 「今さら」じゃなくて、 「今の私だから」。 そんなふうに思える日が、 いつか来たらいいですよね。

    ・13.【「あの人機嫌悪い?」と気になってしまうあなたへ】 2021年1月 〜 2021年1月

    ※匿名・年齢非公開のため期間は変えて掲載しています(*´▽`*) ご理解いただけますと嬉しいです。 ✼••┈┈┈┈••✼ 「なんか〇〇、今日、機嫌悪い?」 相手のちょっとした表情や声のトーンで、そんなことを考えてしまうことはありませんか? いつもより返事が短い。 なんとなく顔が怖い。 ため息をついている。 いつもなら普通に話してくれるのに、今日はそっけない。 それだけで、 「私、何かしたかな?」 と、心当たりを探し始める。 さっきの言い方、まずかったかな。 余計なこと言ったかな。 何か怒らせたかな。 そうやって頭の中で、さっきまでの会話を何度も再生してしまう。 でも、よく考えてみたら、 相手が機嫌悪そうにしている理由なんて、自分には分からないんですよね。 寝不足なのかもしれない。 仕事で嫌なことがあったのかもしれない。 体調が悪いのかもしれない。 家族と何かあったのかもしれない。 単純に疲れているだけかもしれない。 もしかしたら、こちらとはまったく関係のないことなのかもしれません。 それなのに、 「私のせいかも」 と考えてしまう。 これって、けっこう疲れます。 相手の顔色を見て、 「今は話しかけないほうがいいかな」 「怒ってるのかな」 「機嫌を直してもらわなきゃ」 と考えているうちに、自分のほうがぐったりしてしまう。 そして、いつの間にか、 「相手が機嫌よくしていること」 が、自分の安心の条件になってしまうことがあります。 相手が笑っていれば安心。 普通に返事をしてくれれば安心。 でも、少しでも不機嫌そうだと、 「どうしよう」 となる。 これを繰り返していると、 相手の気分に、自分の一日まで左右されるようになってしまいます。 朝、家族の機嫌が悪かった。 それだけで、こちらまで一日中どんより。 職場で誰かが不機嫌だった。 自分は関係ないのに、帰宅してからも気になっている。 電話の相手の声がいつもより冷たかった。 「嫌われたのかな」 と、何度も考える。 そんなこと、ありませんか? もちろん、人の表情や声色に気づくこと自体は悪いことではありません。 むしろ、 「今日はなんだか元気がないな」 と気づけるのは、その人をよく見ているからこそ。 周りへの気配りができる人でもあります。 ただ、 「気づくこと」と「自分が何とかしなければと思うこと」は、少し違います。 相手が不機嫌だと気づく。 そこまではいい。 でも、 「だから私が機嫌を直してあげなきゃ」 となると、自分の仕事が一つ増えてしまいます。 そして、 「何をしたら機嫌が直るだろう」 と考え始める。 声をかける。 そっとしておく。 何かしてあげる。 いつもより優しくする。 冗談を言ってみる。 場合によっては、自分が悪くないのに謝る。 そうやって、 「相手の感情を整える係」 みたいになってしまうことがあります。 でも、本来、 相手の感情は相手のものなんですよね。 もちろん、自分の言動が原因で相手を傷つけてしまったのなら、謝ることは大切です。 自分にできることをするのも大事です。 でも、 理由も分からないのに、 「相手が不機嫌=私が悪い」 と決めてしまう必要はありません。 ここを分けて考えるだけでも、少し楽になることがあります。 「今、あの人は機嫌が悪そうだな」 それだけ。 「だから私が何とかしなきゃ」 までは、まだ決まっていない。 「何かあったのかな」 と思っても、 「でも、私には分からないな」 で止めてもいい。 分からないものを、 一生懸命考えて答えを出そうとしなくてもいいんです。 これって、案外難しいんですよね。 気になる人は、どうしても気になる。 相手の表情が変わると、自分の心までザワザワする。 「気にしないようにしよう」 と思っても、 気になるものは気になる(笑)。 だから、 「気にしない人になろう」 とするより、 「気になっている自分に気づく」 くらいでいいと思います。 「あ、今、相手の機嫌を気にしてる」 と気づく。 そして、 「私、何かしたかな?」 と考え始めたら、 「ちょっと待って。まだ何も分かってないぞ」 と、一回止まる。 これだけでも違います。 自分の頭の中で、 「きっと私のせいだ」 というストーリーを作ってしまう前に、 事実と想像を分けてみるんです。 事実は、 「相手の返事が短かった」 だけかもしれない。 そこに、 「怒っている」 「私を嫌っている」 「何か悪いことをした」 という想像がくっついている。 この二つは、同じではありません。 もちろん、本当に怒っていることもあるでしょう。 でも、それは相手に聞いてみないと分からない。 だから、 「分からないことは、分からないままにしておく」 というのも、一つの方法なんだと思います。 これができるようになると、少し心に余白ができます。 「まあ、今日は機嫌悪そうだけど、私には分からないや」 と。 冷たいわけではありません。 無関心になるわけでもありません。 ただ、 「相手の感情まで、私が背負わなくてもいい」 ということです。 私は、介護の仕事でも、 「相手の様子をよく見ること」 の大切さを感じてきました。 表情や声の変化。 いつもと違う様子。 そういう小さな変化に気づくことは、とても大切です。 でも同時に、 「気づいたからといって、すべてを自分一人で背負うわけではない」 ということも大切なんですよね。 これは、日常の人間関係でも同じだと思います。 気づく。 心配する。 声をかける。 必要なら手を差し伸べる。 そこまではできる。 でも、その人の感情を最終的にどうするかは、その人自身の領域でもあります。 だから、 「今日はなんだか機嫌悪そうだな」 と思ったら、 「何かあった?」 と聞いてみるのもいい。 相手が話したければ話すでしょう。 「別に」 と言うかもしれない。 それなら、 「そっか」 で終わってもいい。 そこから先まで、 「本当は何があったの?」 「私のせい?」 「怒ってる?」 と追いかけなくてもいい。 相手にも、 話したくない日があります。 一人になりたい日があります。 ただ疲れている日もあります。 そして、自分だってそうですよね。 誰かに、 「どうしたの?」 「何があったの?」 「なんでそんな顔してるの?」 と何度も聞かれたら、 「もう放っておいてよ!」 と思う日もある(笑)。 だったら、 自分にも相手にも、 少しだけ余白があっていいのかもしれません。 「今日はそういう日なんだな」 くらいで置いておく。 すぐに答えを出さない。 すぐに自分のせいにしない。 すぐに関係を悪い方向へ想像しない。 それだけでも、心の疲れ方は変わってくるかもしれません。 そして、 「相手の機嫌が悪いと、自分まで落ち込んでしまう」 という人は、 もしかすると、 「相手が笑っていること=自分も安心」 という結びつきが強くなっているのかもしれません。 だったら、 相手がどういう状態であっても、 自分の中には自分の時間がある。 自分の気分がある。 自分の楽しみがある。 ということを、少しずつ取り戻していけばいい。 相手が不機嫌でも、 自分はコーヒーがおいしいと思っていい。 相手がムスッとしていても、 見たいテレビを見ていい。 職場の誰かがピリピリしていても、 帰り道に「今日は空がきれいだな」と思っていい。 相手の感情と、自分の感情は、 同じ部屋にいても別々に存在できます。 相手が曇っているからといって、 自分まで曇り空にならなくてもいいんです。 もちろん、すぐにはできないかもしれません。 長い間、人の顔色を見てきた人ほど、 「相手がどう思っているか」 を気にする癖は、簡単には消えません。 だから、 「気にしないようにしなきゃ」 と、また自分に課題を増やさなくていい。 まずは、 「あ、今また気にしてる」 と気づく。 そして、 「でも、これは私の感情じゃないかもしれない」 と思ってみる。 それだけでもいいんです。 もし、 「私はいつも人の顔色を見て疲れてしまう」 という人がいたら、 そのことを話してみませんか。 「相手がちょっと変な顔をしただけで、私が悪かったのかなって思っちゃう」 そんな話でも大丈夫です。 「気にしすぎだよ」 なんて簡単に片づけません。 だって、その人にとっては、 ずっと身につけてきた大切な習慣なのかもしれないから。 話していくうちに、 「私は相手の機嫌を取ることまで、自分の役目だと思ってたんだ」 と気づくかもしれません。 あるいは、 「本当は、嫌われることが怖かったんだ」 と分かるかもしれない。 それなら、それも大切な発見です。 答えを急がなくてもいい。 相手の機嫌を直すことより先に、 まず自分の心を少し落ち着かせる。 「相手は相手。私は私」 その境目が少しずつ見えてきたら、 今までよりほんの少し、 人の機嫌に振り回されずにいられる日が増えるかもしれません。 そしてそんな日は、 自分の心にも、 少し静かな場所ができているのかもしれません。

    ・14.【「これで良かったのかな?」と決めた後にまよってしますうとき】 2021年2月 〜 2021年2月

    ※匿名・年齢非公開のため期間は変えて掲載しています(*´▽`*) ご理解いただけますと嬉しいです。 ✼••┈┈┈┈••✼ 「これでよかったのかな」 何かを決めたあと、そんなふうに何度も考えてしまうことはありませんか。 仕事を辞めると決めたとき。 誰かとの関係を少し離してみようと思ったとき。 家族のために何かを選んだとき。 逆に、自分のために何かを諦めたとき。 そのときは、それなりに考えて決めたはずなのに。 時間が経つと、 「本当にこれでよかったのかな」 「あっちを選んでいたら、違っていたのかな」 「もう少し我慢したほうがよかったのかな」 そんな考えが、何度も頭に浮かんできます。 一度決めたことなのだから、もう迷わないほうがいい。 そう思う人もいるかもしれません。 でも私は、決めたあとに迷うこと自体は、そんなにおかしなことではないと思っています。 そもそも、大きな決断をするときに、未来のことまですべて分かる人はいません。 その時点で分かっていたこと。 そのときの自分の気持ち。 置かれていた環境。 周りの人との関係。 自分にできたこと。 その中で考えて、「これにしよう」と決めているわけですよね。 ところが、時間が経つと新しいことが分かってきます。 状況が変わったり、自分自身が変わったりすることもあります。 すると、今の自分から過去の決断を見ることになります。 ここで少しややこしいことが起こります。 今の自分は、当時の自分が知らなかったことを知っています。 だから、 「今なら、もっと違う選択をしたかもしれない」 と思うことがある。 でも、それは必ずしも、 「あのときの選択は間違いだった」 ということではないんですよね。 たとえば、昔の自分が一生懸命考えて出した答えを、何年も経った今の自分が採点するとします。 今の自分は、経験も増えています。 いろいろなことを知っています。 だから、過去の自分より判断材料が多い。 そんな今の自分が、 「あのとき、どうしてそんなことをしたんだろう」 と考えたら、過去の自分が不利なのは当然です。 だって、そのときには今の自分が持っている情報がなかったのですから。 だから私は、過去の選択を振り返るとき、 「正解だったか、間違いだったか」 だけで考えなくてもいいと思っています。 「あのときの私は、何を大切にしていたんだろう」 と見てみる。 すると、少し違ったものが見えてくることがあります。 家族を大切にしたかったのかもしれない。 自分を守りたかったのかもしれない。 これ以上傷つきたくなかったのかもしれない。 誰かを悲しませたくなかったのかもしれない。 とにかく前に進みたかったのかもしれない。 その選択が結果的に思っていた通りにならなかったとしても、そのときの自分には、その選択をする理由があったのかもしれません。 もちろん、 「じゃあ、全部自分の選択を肯定しましょう」 と言いたいわけではありません。 振り返ってみて、 「あれは失敗だったな」 と思うことがあってもいい。 「あのときは、もう少し違うやり方があったかもしれない」 と思うこともあっていい。 後悔することだってあります。 それも含めて、自分の人生です。 ただ、 「失敗した選択があった」 ことと、 「私はダメな人間だった」 ことは、同じではありません。 ここは、意外と一緒になってしまいやすいところです。 「あの選択は間違いだった」 から、 「私は判断を間違える人間だ」 へ。 「この人との関係はうまくいかなかった」 から、 「私は人付き合いが下手なんだ」 へ。 一つの出来事から、自分全体に大きな判決を出してしまう。 でも、一つの選択がうまくいかなかったからといって、自分の全部まで否定する必要はないんですよね。 そして、決めたあとに迷うときには、もう一つ考えてみてもいいことがあります。 「今の私は、本当にその決断をやり直したいのかな」 それとも、 「決めたことによって起きた不安が怖いのかな」 ということです。 似ているようで、少し違います。 決断そのものを後悔しているのではなく、 「この先どうなるんだろう」 という不安から、過去の選択まで疑いたくなることがあります。 特に、先が見えないときはそうですよね。 「あっちを選んでいたら安心だったのかな」 と、選ばなかった道が急に魅力的に見える。 でも、選ばなかった道には、その道に進んだ場合の苦労や悩みもあったはずです。 私たちは、実際に歩いている道の大変さは見えます。 でも、選ばなかった道の大変さは見えません。 だから、そちらの道が妙にきれいに見えることがあります。 そんなときは、 「もう一つの道なら、全部うまくいっていた」 とは限らない。 そう思っておくだけでも、少し違うかもしれません。 人生には、あとからしか分からないことがあります。 あのときの選択が何につながっていくのかも、その場では分かりません。 だから、すぐに答えを出さなくてもいい。 「これでよかったのかな」 と思いながら進んでいく時期があってもいいんです。 そして、もし今、 「自分で決めたのに、ずっと迷っている」 という人がいたら。 無理に迷いを消そうとしなくても大丈夫です。 「私は今、迷っているんだな」 と、そのまま置いておく。 決断を取り消す必要もない。 今すぐ結論を出し直す必要もない。 ただ、 「私は何が不安なんだろう」 「本当は、何を後悔しているんだろう」 「今の私が欲しいものは何だろう」 と、少しずつ見ていけばいい。 誰かに話してみると、自分では気づかなかったことが出てくることもあります。 話しているうちに、 「私、選択そのものを後悔していたわけじゃなかったんだ」 と気づくこともある。 反対に、 「やっぱり、ここは変えたい」 と分かることもある。 どちらでもいいんです。 大事なのは、人から正解を渡してもらうことではなく、自分の中にあるものが少しずつ見えてくること。 私の電話相談でも、何かを決めるために無理やり答えを出す必要はありません。 「これでよかったのかな」 という気持ちを、そのまま持ってきてもらって大丈夫です。 まとまっていなくてもいい。 迷ったままでもいい。 後悔していてもいい。 「本当はどうしたいんだろう」と一緒に話しているうちに、少しずつ自分の気持ちが見えてくることがあります。 本当の答えは、本人の中にある。 私はそう思っています。 だから、急いで答えを決めるより、 「今の私は、何を感じているんだろう」 そこから始めてもいい。 過去の自分に、 「どうしてあんな選択をしたの?」 と問い詰める代わりに、 「あのときは、あのときなりに考えていたんだよね」 と、少しだけ隣に座ってあげる。 そして今の自分は、今の自分でまた選んでいけばいい。 人生は、一度決めたら最後までそのまま進まなければいけないものではありません。 途中で考え直してもいい。 迷ってもいい。 立ち止まってもいい。 「あのときの私」と「今の私」は、同じ人だけれど、同じではありません。 だから、今の自分にできる選択を、また一つ考えていけばいいんだと思います。

    ・15.【「ごめんなさい」が口グセになっていませんか?】 2021年3月 〜 2021年3月

    ※匿名・年齢非公開のため期間は変えて掲載しています(*´▽`*) ご理解いただけますと嬉しいです。 ✼••┈┈┈┈••✼ 「ごめんなさい」 何か悪いことをしたわけでもないのに、つい口から出てしまう。 そんなことはありませんか? 人とぶつかったわけでもないのに、 「ごめんね」 お願いをしただけなのに、 「ごめんね、忙しいところ」 ちょっと質問しただけなのに、 「ごめんなさい、こんなこと聞いて」 誰かに何かを頼むときにも、 「ごめんね、こんなことお願いして」 気がつくと、何かにつけて「ごめんなさい」と言っている。 もちろん、謝ることそのものが悪いわけではありません。 自分が相手を傷つけてしまったとき。 迷惑をかけてしまったとき。 自分の言動を振り返って、本当に謝りたいと思ったとき。 「ごめんなさい」と伝えることは、大切なことです。 でも、中には、 「私、何に対して謝っているんだろう?」 と考えてみると、よく分からないこともあります。 たとえば、誰かに話を聞いてもらっているとき。 「ごめんね、こんな話して」 と言ってしまう。 でも、本当はただ話したかっただけかもしれません。 「聞いてほしい」 という気持ちがあっただけかもしれない。 それなのに、 「こんな話をする私は迷惑なのかな」 と考えて、先に謝ってしまう。 そうすると、自分の気持ちを話すことそのものが、何か悪いことのように感じられてしまいます。 お願いするときもそうです。 「これ、お願いしてもいいかな?」 だけでいいところを、 「ごめんね、忙しいのに」 と一言つける。 相手に断る自由があることを分かっていても、 「お願いすること自体が申し訳ない」 と思ってしまう。 もちろん、相手への配慮から出ている言葉もあるでしょう。 だから、「ごめんなさいを言わないようにしましょう」と単純には言えません。 むしろ、長い間「ごめんなさい」を使ってきた人にとっては、それが人との関係を円滑にするための大切な方法だったのかもしれません。 小さい頃から、 「人に迷惑をかけちゃいけない」 「我慢しなさい」 「相手の気持ちを考えなさい」 「いい子にしていなさい」 そんなことをたくさん言われてきた人もいるでしょう。 家族の中で、いつも周りの様子を見てきた人もいるかもしれません。 誰かの機嫌が悪くならないように。 誰かを困らせないように。 揉め事にならないように。 そうやって周りを見ながら過ごしていると、 「自分が少し引けば丸く収まる」 という感覚が身についていくことがあります。 そして、いつの間にか、 「私が謝ればいい」 が、とても早い選択肢になる。 相手が悪いかどうかを考える前に、 「ごめん」 と出てしまう。 自分の気持ちを確認する前に、 「ごめんね」 と引いてしまう。 これは、単純に「気が弱い」という話ではないと思います。 むしろ、長い間、人との関係を大切にしてきたからこそ身についた反応なのかもしれません。 相手のことを考える。 その場の空気を見る。 揉めないようにする。 相手を嫌な気持ちにさせないようにする。 そういうことを一生懸命やってきた人ほど、「ごめんなさい」が多くなることがあります。 ただ、ここで一つだけ気にしてみてほしいことがあります。 「私は本当に謝りたいのかな?」 ということです。 もちろん、すぐに答えが出なくても大丈夫です。 「分からない」 でもいい。 もし誰かに何かをお願いするときに「ごめんね」と言ったなら、 「私は今、何に対して謝ったんだろう?」 と後から考えてみる。 すると、 「別に悪いことをしたわけじゃないな」 と気づくことがあるかもしれません。 「ちょっと聞いてほしい」 「手伝ってほしい」 「一緒に考えてほしい」 「今日はしんどい」 「少し休みたい」 これらは、謝らなければいけないこととは限りません。 人には、人を頼る日もあります。 誰かに話を聞いてもらいたい日もあります。 自分だけでは抱えきれない日だってあります。 それは、「弱いから」ではなく、人と人との間で生きていれば自然なことでもあるんですよね。 そして、「ごめんなさい」が口ぐせになっている人には、もう一つ特徴があることがあります。 「ありがとう」まで「ごめん」に変わってしまうことです。 たとえば、何かをしてもらったとき、 「ごめんね、ありがとう」 と言う。 もちろん、それ自体は何も悪くありません。 でも、本当は、 「ありがとう、助かった」 だけでも十分な場面があります。 それなのに、 「迷惑をかけちゃった」 「手間を取らせちゃった」 「申し訳ない」 という気持ちが先に出て、「ありがとう」の前に「ごめん」がついてしまう。 その人の中では、誰かに何かをしてもらうことが、「ありがたいこと」であると同時に「申し訳ないこと」になっているのかもしれません。 そう考えると、 「もっと自分を大切にしましょう」 と言われても、簡単ではないことが分かります。 だって、自分を後回しにすることが長年の習慣になっているのですから。 急に、 「今日から自分を一番に!」 なんてできなくても当然です。 むしろ、そんなことを言われたら、 「そんなの無理だよ」 と思う人もいるでしょう。 だから、もっと小さなところからでいいと思います。 次に「ごめんなさい」と言いそうになったとき、 ほんの一秒だけ止まってみる。 「今、私は本当に謝りたい?」 と考えてみる。 もし本当に謝りたいなら、謝ればいい。 でも、 「いや、別に悪いことしてないな」 と思ったら、 「ありがとう」 「助かります」 「お願いしてもいい?」 に変えてみる。 それだけでもいいんです。 もちろん、毎回できなくても大丈夫です。 何十年も使ってきた言葉なら、そう簡単には変わりません。 いつものように、 「ごめんね」 と言ってから、 「あ、また言った(笑)」 と気づくだけでもいい。 気づけたら、それで一歩目です。 そして、ときには、 「本当は嫌だったのに、私が謝って終わらせてしまった」 ということに気づくこともあるかもしれません。 そんなときも、自分を責めなくていい。 「あのときは、そうするしかないと思っていたんだな」 と見てあげてもいいと思います。 今まで自分を守るために使ってきた方法なのかもしれないからです。 人間関係の中では、譲ることも必要です。 謝ることも必要です。 相手の気持ちを考えることも大切です。 でも、 「いつも私が悪いことにしておけばいい」 まで背負わなくてもいい。 相手の機嫌を直すために、毎回自分が謝る必要もありません。 自分が悪くないことまで引き受けて、 「ごめんなさい」 と言い続けなくてもいいんです。 そして、もし「ごめんなさい」がたくさん出てくる自分に気づいたら、 「私ってダメだな」 ではなく、 「私、ずいぶん周りに気を遣ってきたんだな」 と見てあげてほしい。 そこには、これまでの自分なりの生き方があるからです。 電話相談でも、 「こんなことで電話してごめんなさい」 と最初に言われることがあります。 そんなとき、私は、 「謝らなくて大丈夫ですよ」 と伝えます。 だって、話したいと思って電話をかけてくれたのだから。 悩んでいるから、話したい。 誰かに聞いてほしいから、電話した。 それだけでいいんです。 「こんなこと相談していいのかな」 「こんなことで悩むなんて、私がおかしいのかな」 そんなふうに考えてしまう人もいるでしょう。 でも、悩みの大きさに、 「これは相談していい」 「これは自分で我慢する」 という明確な線があるわけではありません。 本人にとって苦しいなら、それだけで話してみる理由になります。 私は、電話相談を「正しい答えを教えてもらう場所」だけにはしたくありません。 「今日、誰かと話したかった」 そんな理由でもいいと思っています。 家族には言いにくいこと。 友達には何度も話せないこと。 自分でも何にモヤモヤしているのか分からないこと。 「こんなことで電話してごめんなさい」と言いたくなるようなこと。 そんなものも、そのまま持ってきてください。 もしかすると、話しているうちに、 「私、本当は謝りたかったんじゃなくて、分かってほしかったんだ」 と気づくことがあるかもしれません。 「ずっと我慢してたんだ」 と分かることもあるかもしれない。 反対に、 「やっぱり私が悪かったな」 と、自分で納得することもあるでしょう。 どんな答えになってもいいんです。 誰かから正解を決めてもらうのではなく、自分の中にあるものが少しずつ見えてくればいい。 「ごめんなさい」が出てきたとき、 一度だけ、 「私は、本当に謝る必要がある?」 と自分に聞いてみる。 それだけでも、自分と自分の間に、ほんの少し余白ができます。 そして、その余白の中で、 「ありがとう」 「助けてほしい」 「今日は無理」 「ちょっと聞いてほしい」 そんな言葉が見つかることもある。 ずっと周りを優先してきた人ほど、自分の気持ちを言葉にするのには時間がかかるかもしれません。 だから、急がなくていい。 うまく言えなくてもいい。 「ごめんなさい」から始まってもいい。 そこから少しずつ、 「本当はね……」 が出てくれば、それで十分だと思っています。

    ・16.【「そんなことないですよ」と誉め言葉をすぐに打ち消してしまうとき】 2021年4月 〜 2021年4月

    ※匿名・年齢非公開のため期間は変えて掲載しています(*´▽`*) ご理解いただけますと嬉しいです。 ✼••┈┈┈┈••✼ 「〇〇さんって、優しいですよね」 そう言われたとき、 「いやいや、そんなことないですよ」 と、すぐに否定してしまう。 「仕事が丁寧ですね」 と言われても、 「全然ですよ。たいしたことしてません」 「いつも頑張っていますね」 と言われたら、 「そんなことないです。みんなやってますから」 「話しやすいですね」 と言われても、 「いやいや、私なんて……」 こんなふうに、褒められた言葉を受け取る前に、つい打ち消してしまうことはありませんか。 もちろん、日本では昔から「謙虚であること」が大切にされてきました。 「ありがとうございます」と言うより、 「そんなことないですよ」 と一歩引く。 自分から「私は頑張っています」と言うより、 「たいしたことしてません」 と言ったほうが、なんとなく感じがいい。 特に、長い間周りに気を遣ってきた人ほど、褒められることに慣れていない場合があります。 褒められると、嬉しい。 でも、嬉しいと言うのが恥ずかしい。 「ありがとう」と言ったら、 「自分で自分のことを認めているみたいで嫌だな」 と思う。 だから、 「そんなことないです」 と返す。 相手は、 「いや、本当にそう思ったんですよ」 と言う。 それでも、 「いやいや、全然です」 と返す。 ……気がつけば、褒め言葉のキャッチボールが、全部跳ね返されている。 これ、けっこうありますよね(笑)。 でも、ちょっと考えてみると不思議です。 自分が誰かを褒めたとき、 「ありがとうございます」 と言ってもらったら、嫌な気持ちになるでしょうか。 たぶん、そんなことはありません。 むしろ、 「伝わったんだな」 と嬉しくなることもあります。 それなのに、自分が褒められる側になると、 「いやいや、そんなことない」 と必死に否定してしまう。 なぜなのでしょう。 一つには、 「自分では、自分のことをそんなふうに思っていない」 ということがあるかもしれません。 自分では普通にやっていること。 ずっと続けてきたこと。 毎日のようにやっていること。 だから、自分にとっては特別ではない。 でも、他の人から見ると、それが「すごいこと」だったりするんですよね。 たとえば、毎日家族のことを気にかけている。 仕事をしながら家のこともしている。 誰かの話を聞いている。 困っている人がいたら手を貸す。 何年も同じ仕事を続けている。 大変なことがあっても、その日の生活を止めずにやってきた。 本人からすると、 「そんなの普通でしょ」 なのかもしれません。 でも、その「普通」を毎日続けることは、誰にでもできることではありません。 それなのに、 「私は普通にやっているだけ」 と、自分の頑張りを自分で小さくしてしまう。 もちろん、本当に「普通のこと」と思っている場合もあります。 でも、長い間そうやって自分のことを評価していると、 「私は大したことをしていない」 という感覚まで、自分の中に染み込んでしまうことがあります。 そして、もう一つ。 褒められると、 「じゃあ、これからも頑張らなきゃ」 と思ってしまう人もいます。 「優しいね」 と言われたら、 「優しい人でいなきゃ」 「しっかりしているね」 と言われたら、 「しっかりしていないといけない」 「いつも頑張っているね」 と言われたら、 「これからも頑張らなくちゃ」 そんなふうに、褒め言葉がいつの間にか「新しい宿題」になってしまう。 だから、素直に受け取るのが怖い。 「期待されるのが嫌」 という気持ちにつながることもあります。 でも、褒められたからといって、その人であり続けなければいけないわけではありません。 今日、 「優しいですね」 と言われたからといって、 明日も明後日も、誰に対しても優しくし続ける義務ができるわけではない。 「頑張っていますね」 と言われたからといって、 もっと頑張らなければいけないわけでもない。 その人が、その瞬間に見てくれたあなたの一部分を、 「私はこう感じましたよ」 と伝えてくれただけなのかもしれません。 だから、 「ありがとうございます」 だけでもいいんです。 「そう言ってもらえると嬉しいです」 でもいい。 照れくさかったら、 「そうですか?(笑)」 でもいい。 全部受け入れなくてもいいんです。 ただ、最初から全部打ち消さなくてもいい。 「自分ではそう思わないけど、そう見える人もいるんだな」 くらいでもいいんですよね。 これは、自分を無理やり好きになることとは少し違います。 「私は素晴らしい!」 と毎日言わなくてもいい。 「私は最高!」 と思えなくてもいい。 ただ、 「この人は、私のことをそう感じたんだ」 と、その人の言葉をそのまま置いておく。 それだけでも、ずいぶん違います。 たとえば、 「話していると安心します」 と言われたとします。 自分では、 「いや、私は普通に話しているだけだけど」 と思うかもしれない。 でも、 「私にとっては普通でも、この人には安心できる時間だったのかもしれない」 と考えてみる。 すると、自分では見えていなかった自分の一面が、少し見えてくることがあります。 私たちは、自分の顔を自分の目で直接見ることができません。 鏡や写真を通して見るしかない。 自分のことも、少し似ているのかもしれません。 自分では気づいていない部分を、誰かが見つけてくれることがあります。 「あなたって、こういうところがあるよね」 と言われて、 「え?私が?」 と驚く。 でも、何人かから同じようなことを言われると、 「もしかしたら、そうなのかな」 と思うこともある。 それは、自分を過大評価することではありません。 自分が知らなかった自分の一面を知る、ということです。 そして、褒め言葉だけではありません。 「あなたって、思っていたより頑張ってたんだね」 と言われて初めて、 「ああ、私、結構頑張っていたのかも」 と思うこともある。 誰かに言われたから、その瞬間に全部納得する必要はありません。 「まだよく分からない」 でもいい。 その言葉を、心の片隅に置いておく。 いつか、 「あのとき言われたこと、ちょっと分かるかも」 と思う日が来るかもしれません。 反対に、 「そんなことないですよ」 と否定したくなる自分を責める必要もありません。 それも、長い間身につけてきた反応かもしれないからです。 謙遜することが身についている。 目立たないようにすることが身についている。 「自分なんて」と一歩引くことが身についている。 そういう自分を、 「もっと自信を持たなきゃ」 と急に変えようとしなくてもいい。 まずは、 「私、褒められるとすぐ否定するな」 と気づくだけ。 それで十分です。 そして、次に誰かから褒められたとき。 いつものように、 「いやいや、そんなことないです」 と言いそうになったら、一秒だけ待ってみる。 そして、 「ありがとうございます」 と言ってみる。 たったそれだけ。 心の中では、 「いや、でも私はそう思ってないけどね(笑)」 と思っていてもいいんです。 口に出して否定しなかっただけでも、大きな違いです。 人から褒められたときに、 「ありがとうございます」 と言うのは、 「私は完璧です」 と認めることではありません。 「あなたがそう感じてくれたことを、受け取りました」 というだけ。 それなら、少し受け取りやすくなるかもしれません。 そして、もし今、 「私は何をやっても自信がない」 「褒められても、どうせお世辞だと思ってしまう」 という人がいたら。 もしかすると、足りないのは「自信」ではなく、 「自分を否定しない時間」 なのかもしれません。 自信を持てなくてもいい。 自分を大好きになれなくてもいい。 ただ、 「私はダメ」 と決めつけることを、少しだけ休んでみる。 誰かがあなたに向けてくれた言葉を、 「違います」 とすぐに返さず、 「そう感じてくれたんだね」 と、そのまま置いておく。 それだけでも、自分を見る目が少し変わってくることがあります。 電話相談でも、 「私なんて大したことないんです」 という言葉を聞くことがあります。 そんなとき、私は無理に、 「そんなことないですよ!すごいですよ!」 と持ち上げたいわけではありません。 その人自身が、 「本当にそうかな」 と、自分のことを少し見直せる時間になればいいと思っています。 人から評価されるために頑張らなくてもいい。 褒められるために生きなくてもいい。 でも、誰かが見つけてくれた自分の良さまで、急いで打ち消さなくてもいいんです。 「そんなことないですよ」 の代わりに、 「そう言ってもらえると嬉しいです」 と言える日が来たら、それは素敵な変化かもしれません。 でも、まだ言えなくても大丈夫。 「ありがとう」と言うだけでもいい。 それすら恥ずかしかったら、 「そうかなぁ(笑)」 でもいい。 自分のことを、少しだけそのまま受け取ってみる。 その練習からでもいいんだと思います。 もしかしたら、あなたが「大したことない」と思っていることの中に、 誰かが「それ、すごいことだよ」と感じているものがあるかもしれません。 自分では見慣れてしまっているから、気づかないだけで。 長く続けてきたこと。 当たり前にやってきたこと。 誰にも褒められなくても続けてきたこと。 それらを、全部「たいしたことない」で片づけなくてもいい。 「そうなのかな?」 と、少しだけ残しておく。 そのくらいの受け取り方でも、いいのかもしれません。

    ・17.【「何も起きてないのに何だか不安」そんなときに】 2021年5月 〜 2021年5月

    ※匿名・年齢非公開のため期間は変えて掲載しています(*´▽`*) ご理解いただけますと嬉しいです。 ✼••┈┈┈┈••✼ 「別に、何かあったわけじゃないんですけど……」 そう言いながら、 「なんだか不安なんです」 ということはありませんか。 仕事で大きな問題が起きたわけでもない。 家族とケンカしたわけでもない。 誰かから嫌なことを言われたわけでもない。 今日、特別悪いことがあったわけでもない。 それなのに、なんとなく落ち着かない。 胸のあたりがザワザワする。 先のことを考えると、少し怖くなる。 「何が心配なの?」と聞かれても、 「うーん……自分でもよく分からない」 となってしまう。 こういう不安って、けっこうやっかいですよね。 理由が分かっている不安なら、まだ対処しやすいことがあります。 「明日の仕事が心配」 なら、準備をする。 「家族との話し合いが不安」 なら、何を伝えるか考えてみる。 「お金のことが心配」 なら、今の状況を書き出してみる。 もちろん、それで全部解決するわけではありません。 でも、少なくとも「何が不安なのか」は見えています。 ところが、 「何となく不安」 になると、どこから手をつけていいのか分からない。 そんなとき、人はつい、 「何か悪いことが起こるんじゃないか」 と考えてしまうことがあります。 まだ何も起きていないのに、 「もし病気になったら」 「もし仕事がなくなったら」 「もし家族に何かあったら」 「もし一人になったら」 「もし老後が大変だったら」 と、次々に「もし」が出てくる。 一つ考え始めると、別の心配が出てきて、その心配からさらに別の心配が出てくる。 気がつけば、まだ起きていないことを何個も抱えている。 そして、 「こんなに不安になるってことは、何か悪い予感がするのかも」 と思ってしまう。 でも、不安を感じたことと、悪いことが起こることは別です。 「不安だから、何か起こる」 とは限りません。 心が落ち着かないからといって、それが未来から届いた予告とは限らないんです。 人は、先のことが分からないと不安になります。 これは、とても自然なことです。 明日のことも、来月のことも、数年後のことも、全部分かる人はいません。 だから、 「分からない」 という空白を、頭の中で埋めようとします。 そして、そのときに出てきやすいのが、 「悪いほうだったらどうしよう」 という想像だったりします。 たとえば、家族から返信が来ない。 まだ一時間しか経っていないのに、 「何かあったのかな」 と心配になる。 電話がつながらない。 「事故に遭った?」 仕事でいつもと違うことを言われた。 「何か問題を起こしたのかな?」 まだ事実が何も分からないのに、頭の中ではどんどん話が進んでしまう。 もちろん、心配すること自体は悪くありません。 大切な人のことなら、気になります。 慎重になることが必要な場合もあります。 でも、 「事実」と「想像」がいつの間にか一緒になっていないかな? と、一度見てみるのはいいかもしれません。 「返信が来ていない」 これは事実。 「何かあった」 これは、まだ分からないこと。 「嫌われたのかもしれない」 これも、まだ分からないこと。 「きっと悪いことが起きている」 これも、今の時点では想像です。 不安が強くなると、この三つが全部同じくらい本当のことのように感じられてしまいます。 だから、ますます怖くなる。 そんなときは、 「今、私が実際に知っていることは何?」 と考えてみる。 これだけでも、少し頭の中を整理しやすくなることがあります。 そして、「何も起きていないのに不安」というときには、実は今ではなく、少し前から疲れがたまっていることもあります。 仕事では普通にしていた。 家でも普通に家事をしていた。 家族にも普通に接していた。 だから、自分では、 「別に元気だけど」 と思っている。 でも、ずっと気を張っていた。 小さなことを何度も我慢していた。 自分のことを後回しにしていた。 そういうものが重なってくると、ふとした瞬間に心が落ち着かなくなることがあります。 それは、 「今、何か問題が起きたから」 ではなく、 「ずっと頑張っていたから、ちょっと余裕がなくなっている」 ということなのかもしれません。 だから、 「何が不安なの?」 と必死に原因を探しても、すぐには見つからないことがあります。 そもそも、一つの原因ではないかもしれないからです。 仕事の疲れ。 家族への気遣い。 将来への心配。 睡眠不足。 一人になる時間の少なさ。 言いたいことを飲み込んだこと。 そういう小さなものが重なって、 「なんだか不安」 という一つの感覚になっていることもあります。 だから、無理に、 「不安の原因を一つ見つけなきゃ」 と思わなくてもいいんです。 「最近、ちょっと疲れてるのかな」 くらいでもいい。 「今、いろいろ考えすぎてるのかも」 でもいい。 原因が分からないなら、 「分からない」 ままにしておいてもいい。 不安になると、 「この不安をなくさなきゃ」 と思いますよね。 でも、感情って、 「はい、今日から不安になるのは禁止!」 と命令して消えるものでもありません(笑)。 むしろ、 「不安になっちゃダメ」 「考えちゃダメ」 「気にしちゃダメ」 と頑張るほど、余計にそのことが頭から離れなくなることがあります。 だから、 「今、私は不安なんだな」 くらいでいい。 「何か起こるかもしれない」 ではなく、 「私は今、そう想像して不安になっている」 と、一つ距離を置いてみる。 この違いは、意外と大きいんです。 不安そのものを消すのではなく、 「不安を感じている自分」 と 「実際に起きていること」 を少し分けてみる。 すると、 「あれ? 今のところ何も起きてないな」 と気づくことがあります。 もちろん、何か問題が見つかれば、そのときに対応すればいい。 でも、まだ起きていないことまで、今すべて解決しようとしなくていいんですよね。 特に、先のことを考えやすい人は、 「今を生きましょう」 と言われても、簡単ではないと思います。 家族のことを考える。 将来の生活を考える。 仕事のことを考える。 お金のことを考える。 それは、これまで一生懸命生きてきたからこそでもあります。 先のことを考えて準備するのは、悪いことではありません。 ただ、 「まだ起きていない明日の問題を、今日の自分が全部背負わなくてもいい」 とは思います。 明日のことは、明日の自分が考える。 今できることがあるなら、一つだけやる。 今できないことは、とりあえず置いておく。 それでもいいんです。 そして、ときには不安を誰かに話してみるのも一つです。 「何が不安なのか、自分でも分からないんです」 というところから始めても大丈夫。 話しているうちに、 「実は、最近仕事でちょっと嫌なことがあって」 と出てくるかもしれない。 「そういえば、家族のことがずっと気になっていた」 と気づくかもしれない。 あるいは、 「本当に何が原因か分からない(笑)」 で終わるかもしれない。 それでもいいと思います。 話すことは、必ずしも問題を解決するためだけにあるわけではありません。 頭の中でグルグルしていたものを、外に出してみる。 誰かに、 「そうなんだね」 と受け止めてもらう。 それだけで、少し呼吸がしやすくなることがあります。 私の電話相談でも、 「こんなことで電話していいのかな」 と迷いながら電話をくださる方がいます。 でも、 「なんだか不安」 というだけでもいいんです。 うまく説明できなくてもいい。 順番がバラバラでもいい。 「何から話したらいいか分からない」 から始まっても大丈夫です。 話していくうちに、自分でも気づいていなかったことが出てくることがあります。 「私、ずっとこれが気になってたんだ」 「本当は寂しかったのかも」 「思っていたより疲れていたんだな」 そんなふうに、少しずつ輪郭が見えてくる。 もちろん、何も見つからない日があってもいい。 「今日はただ不安だった」 それだけの日もあります。 そんな日まで、 「原因を探さなきゃ」 「前向きにならなきゃ」 と頑張らなくていい。 不安な日は、不安な日。 心が落ち着かない日は、落ち着かない日。 それでも、時間はちゃんと流れていきます。 少し眠ったら、朝には気持ちが変わっていることもある。 誰かと話したら、少し軽くなることもある。 おいしいものを食べたら、 「まあ、いっか」 と思えることもある(笑)。 心って、案外そんなふうに動くものです。 「何も起きていないのに不安」 そんなときは、 「何か悪いことが起こるのかも」 と未来を怖がる前に、 「今、私はちょっと不安なんだな」 と、まず現在の自分に気づいてあげる。 そして、 「今、実際に起きていることは何?」 と確認してみる。 分からないことは、分からないまま置いておく。 まだ来ていない未来まで、今日の自分が全部抱えなくてもいい。 不安がなくならなくても大丈夫。 ゼロにしなくてもいい。 ただ、不安に心の全部を持っていかれそうになったら、 「ちょっと待って。今ここに戻ろう」 と、自分を現在に戻してあげる。 その小さな繰り返しが、心の中に少しずつ余白を作ってくれるのかもしれません。

    ・18.【「普通はこうでしょ」にいつの間にかしばられているとき】part1 2021年6月 〜 2021年6月

    ※匿名・年齢非公開のため期間は変えて掲載しています(*´▽`*) ご理解いただけますと嬉しいです。 ✼••┈┈┈┈••✼ 「普通はこうでしょ」 そんな言葉を、私たちはけっこう使います。 普通は、これくらいするもの。 普通は、この年齢ならこうする。 普通は、家族ならこうする。 普通は、仕事をしていたらこれくらいできる。 普通は、結婚したらこう。 普通は、子どもがいたらこう。 普通は、親ならこう。 普通は、ちゃんとしなきゃ。 こうやって書き出してみると、「普通」ってずいぶん忙しいですよね(笑)。 しかも、その「普通」は、誰が決めたものなのか分からないこともあります。 たとえば、 「このくらい我慢するのが普通」 と思っている人がいる。 でも、別の人からしたら、 「そんなに我慢しなくてもいいんじゃない?」 となる。 「子どもが大きくなったら、親はこうするもの」 と思っている人もいれば、 「それぞれの生活があるんだから、そこまでしなくてもいい」 と思う人もいる。 「夫婦なら何でも話し合うのが普通」 という人もいれば、 「言わなくても分かることもある」 という人もいる。 どちらが正しいのでしょう。 たぶん、こういうものに絶対的な「普通」はないんですよね。 育った家庭も違う。 時代も違う。 地域も違う。 性格も違う。 経験してきたことも違う。 だから、それぞれの中に「普通」がある。 それなのに、自分の中にある「普通」を、いつの間にか世の中全体のルールのように扱ってしまうことがあります。 そして、そのルールから外れると、 「私、おかしいのかな」 と思ってしまう。 特に、長い間家族のことや仕事のことを優先してきた人ほど、 「こうするもの」 という基準をたくさん持っていることがあります。 妻ならこうする。 母親ならこうする。 嫁ならこうする。 社会人ならこうする。 いい人ならこうする。 ちゃんとした大人ならこうする。 そうやって、「こうあるべき」を一つずつ積み重ねていく。 もちろん、その中には自分が大切にしてきた価値観もあります。 だから、全部捨てる必要はありません。 「昔の考え方は全部古い」 という話でもないんです。 問題なのは、 「私は本当にそう思っているのかな?」 というところです。 たとえば、 「親なんだから、子どものことを心配して当然」 と思っていたとします。 それ自体は自然な気持ちです。 でも、 「だから、子どものことをいつも気にしていなければいけない」 「子どもが困っていたら、私が何とかしなければいけない」 まで広がっていくと、だんだん苦しくなることがあります。 最初は「大切にしたい」という気持ちだったものが、 「こうしなければならない」 に変わっている。 「仕事は責任を持ってやるもの」 という考えも同じです。 責任感は大切。 でも、 「だから、多少つらくても我慢するのが当然」 「休むのは申し訳ない」 「弱音を吐くのはダメ」 までいってしまうと、自分を追い込むことがあります。 「普通」という言葉には、ちょっと不思議なところがあります。 誰かから、 「それが普通だよ」 と言われると、 「そうなのか」 と思ってしまう。 でも、その「普通」は、その人が生きてきた中で作られたものかもしれません。 その人にとっての普通であって、あなたにとっての普通とは限らない。 反対に、自分の「普通」を誰かに押しつけてしまうこともあります。 「普通、こうするでしょ」 と思ったのに、相手が違う行動をすると、 「なんで?」 と腹が立つ。 でも、相手からすると、 「それが普通なの?」 かもしれません。 人間関係のすれ違いって、こういうところから始まることもあります。 「普通は分かるでしょ」 「普通はこう言うでしょ」 「普通は連絡するでしょ」 「普通は親なんだから」 「普通は夫婦なんだから」 でも、その「普通」を相手は知らない。 言葉にしていないルールは、相手にとってはルールではないんですよね。 だから、 「どうして分かってくれないの?」 と思ったとき、 「私は何を『普通』だと思っているんだろう?」 と考えてみるのも一つです。 そして、これは他人に対してだけではありません。 自分自身にも、 「普通なら、もっとできるはず」 と言っていないでしょうか。 「この年齢なら、もっとしっかりしているはず」 「これくらいの仕事はできて当然」 「家事くらいちゃんとやらなきゃ」 「このくらいで疲れるなんてダメ」 「みんなやっているんだから、私もできるはず」 そんなふうに、自分を「普通」の型に入れようとする。 でも、その「みんな」って誰なのでしょう。 本当にみんなが同じなのでしょうか。 そして、仮に誰かができていたとしても、 「その人ができる」 ことと、 「自分もできなければいけない」 ことは、別ですよね。 私たちは、他人の生活を全部知っているわけではありません。 外から見えている部分だけを見て、 「あの人はちゃんとしている」 「私はできていない」 と比べてしまう。 でも、その人にはその人の事情がある。 自分には自分の事情がある。 同じ物差しで測れるものばかりではありません。 それでも、 「でも、普通は……」 と思ってしまう。 そういうときは、「普通」という言葉を一度外してみると、意外と本音が見えてくることがあります。 「普通なら、親がやる」 を、 「私は、本当はどこまでやりたい?」 に変えてみる。 「普通なら、我慢する」 を、 「私は、今どう感じている?」 に変えてみる。 「普通なら、こうする」 を、 「私は、本当にこれを選びたい?」 に変えてみる。 答えは、すぐに出なくてもいいんです。 「分からない」 でもいい。 今までずっと「こうするもの」と思ってきたことなら、自分の希望がすぐに出てこなくても不思議ではありません。 むしろ、 「私は何がしたい?」 と聞かれて、 「分からない」 となる人もいると思います。 これまで、 「どうしたい?」 より、 「どうするべき?」 を考えてきた人ほど、そうなりやすいのかもしれません。 「家族がどう思うか」 「職場でどう見られるか」 「世間からどう思われるか」 「普通ならどうするか」 そんなことを先に考えてきた。 だから、 「私はどうしたい?」 という質問が、急に難しくなる。 でも、それも悪いことではありません。 自分の気持ちが分からないなら、 「今は分からない」 というところから始めればいい。 少しずつ、 「これは嫌かもしれない」 「これは別にやりたくない」 「これは、できれば続けたい」 そんな小さなところから見つけていけばいいんです。 「好きなものは何?」 と聞かれても分からないけれど、 「これは嫌い」 なら分かる。 「何をしたい?」 は分からないけれど、 「これはもう疲れた」 なら分かる。 それでも十分です。 自分の輪郭って、最初からはっきり見えるものではありません。 そして、「普通」から外れることを、必要以上に怖がらなくてもいいと思います。 もちろん、社会の中で生きている以上、ルールや約束はあります。 誰かを傷つけてもいい、何をしてもいい、という話ではありません。 でも、 「世間一般の普通」 と 「自分が大切にしたいこと」 は、同じでなくてもいい。 たとえば、一人で過ごす時間が好きでもいい。 家族といつも一緒にいたいと思わなくてもいい。 友達がたくさんいなくてもいい。 仕事より家庭を大切にしたい人もいる。 家庭だけではなく、自分の時間を大切にしたい人もいる。 何歳になっても新しいことを始めたい人もいる。 何も始めず、ゆっくり暮らしたい人もいる。 どれが正解ということではなく、 「自分にとってはどうなんだろう」 ということなんですよね。 昔は「こうするもの」と思っていたことが、今の自分には合わなくなっていることもあります。 それも自然なことです。 人は変わります。 環境も変わります。 家族との関係も変わります。 体力も変わります。 大切にしたいものも変わります。 だから、昔の自分が大切にしていた「普通」を、今の自分がずっと守り続けなければいけないわけではありません。 「昔はこうだったけど、今は違うかも」 それでいい。 「前は我慢できたけど、今はもう無理」 それでもいい。 「今までこうしてきたけど、これからは少し変えたい」 それもいい。 もちろん、変えることで誰かに何かを言われることもあるでしょう。 「今までやってきたじゃない」 「普通はそうするものでしょ」 と言われることもあるかもしれません。 そんなとき、 「そうか。あなたはそう思うんだね」 と思いながら、 「でも私はどうしたい?」 と、自分の中にも戻ってくる。 相手の考えを否定しなくても、自分の考えまで相手に合わせなくていいんです。 私自身も、人の話を聴いていると、 「そうか。私はこういうのを『普通』だと思っていたんだな」 と気づくことがあります。 人と話すと、自分一人では当たり前すぎて気づかなかったことが、ふっと見えてくることがあるんですよね。 だから、もしあなたが今、 「私はどうしたらいいんだろう」 と迷っているなら、 「普通はどうする?」 ではなく、 「私はどうしたい?」 という質問も、ちょっとだけ置いてみてください。 すぐに答えが出なくても大丈夫です。 「分からない」 でもいい。 「本当は嫌だった」 でもいい。 「みんながそうしているから、私もそうしなきゃと思っていただけかも」 と気づくだけでもいい。 電話相談でも、 「こんなこと言ったら、変だと思われますよね」 と話す人がいます。 ≪続きは次の項目へ≫

    ・19.part1続き +【「話したいのに、話そうとすると涙が出てしまう」そんなあなたへ】 2021年7月 〜 2021年7月

    ≪前項目の続きはこちら≫ でも、私は最初から「普通かどうか」を判定するために話を聞いているわけではありません。 その人が何を感じているのか。 何に困っているのか。 本当は何を言いたかったのか。 そこを一緒に見ていきたいと思っています。 「こんなことを思う私はおかしいのかな」 という気持ちも、 「本当はこうしたいんだけど……」 という気持ちも、 まずはそのまま話してみる。 話しているうちに、 「私、ずっと『普通はこう』に合わせていたんだな」 と気づくことがあるかもしれません。 そして、その気づきがあったからといって、すぐに何かを変えなくてもいい。 今まで通りにすることを選んでもいい。 少し変えてみてもいい。 しばらく考えてみてもいい。 選ぶのは、その人自身です。 「普通はこう」 という言葉に疲れたら、 「本当にそうかな?」 と、一度だけ立ち止まってみる。 世間の普通。 家族の普通。 昔からの普通。 誰かに教えられた普通。 その中に、 「今の私にも必要なもの」と 「もう私には合わなくなったもの」 があるかもしれません。 全部を捨てなくていい。 全部を守らなくてもいい。 今の自分に合うものを、少しずつ選び直していけばいい。 「普通はこうでしょ」 と言われたとき、 「そうなんだね」 と聞きながら、 心の中で、 「でも、私はどうかな?」 と、自分にも聞いてみる。 その小さな一言が、自分の人生にもう一度、自分の席を作ってくれるのかもしれません。 :+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:… 【「話したいのに、話そうとすると涙が出てしまう」そんなあなたへ】 「ちゃんと話したいんですけど……」 そう言いながら、急に涙が出てしまう。 話したいことは頭の中にあるのに、いざ言葉にしようとすると声が詰まる。 「こんなことで泣くなんて、自分でも困ります」 「泣かないで話したいんです」 「ちゃんと説明しようと思っていたのに、何から話していいのか分からなくなっちゃって……」 そんなことって、ありませんか? 私は、涙が出ることを「話すのが下手」ということだとは思っていません。 むしろ、ずっと言葉にできなかったものが、やっと外に出ようとしているのかもしれない。 そんなふうに感じることがあります。 ### 涙は、言葉より先に出てくることがある 人って、何でもすぐ言葉にできるわけではありません。 「悲しい」 「寂しい」 「悔しい」 「腹が立つ」 「怖かった」 「本当は嫌だった」 「ずっと我慢していた」 こうやって言葉にできれば分かりやすいけれど、実際には、もっと曖昧な状態のまま抱えていることもあります。 何となく苦しい。 何となくしんどい。 何となくモヤモヤする。 でも、何がそんなに苦しいのか、自分でもよく分からない。 そんなものを長い間抱えていると、頭では平気なつもりでも、身体のほうが先に反応することがあります。 その一つが、涙なのかもしれません。 だから、 「泣いちゃったから、ちゃんと話せなかった」 ではなく、 「泣くほどのものを、私は抱えていたんだな」 と考えてみてもいいと思うんです。 もちろん、涙が出る理由は人それぞれです。 悲しいから泣く人もいれば、悔しくて泣く人もいる。 安心した瞬間に涙が出る人もいるし、今まで我慢していたものが緩んで泣けてくる人もいる。 自分でも理由が分からないまま涙が出ることだってあります。 だから、涙の意味を無理に決めなくてもいい。 「どうして泣いているんだろう?」 と原因探しを急がなくても大丈夫です。 まずは、 「今、涙が出るくらい何かを抱えていたんだな」 それくらいでいいんじゃないかなと思います。 ### 「泣かないで話さなきゃ」と思わなくていい 電話相談でも、 「すみません、泣いちゃって……」 と謝る方がいるかもしれません。 でも、私はそこで「泣かないでください」とは言いたくありません。 むしろ、 「大丈夫ですよ。ゆっくりでいいですよ」 と、そのまま待っていたい。 言葉が出てこないなら、少し黙っていてもいい。 「……なんか、分からないけど涙が出ちゃって」 でもいい。 そこから、 「実は……」 と話が始まることもあります。 最初から順番どおりに説明しなくてもいいんです。 今日起きたことから話してもいいし、何年も前のことから話してもいい。 途中で話が飛んでもいいし、 「ごめんなさい、何を話していたか分からなくなっちゃった」 でも大丈夫。 話すことって、学校の発表みたいに、きちんと整理してから始めるものではないと思うんです。 話しているうちに、自分でも忘れていたことを思い出したり、 「私、ここが嫌だったんだ」 と気づいたりすることもあります。 だから、最初から完璧な言葉を用意する必要はありません。 ### 「大したことじゃないのに」と思ってしまう もう一つ、よくあるのが、 「こんなことで泣くなんて、自分でも情けない」 という気持ちです。 でも、その「こんなこと」が、本人にとってどれくらい大きかったのかは、外からは分かりません。 例えば、一つ一つは小さな出来事だったとしても、それが何度も積み重なっていたらどうでしょう。 言われた一言。 飲み込んだ一言。 誰にも相談できなかったこと。 笑って流したこと。 「まあ、いいか」と自分を納得させたこと。 その一つ一つは小さく見えても、積み重なれば心の中にかなりの荷物がたまっていることがあります。 だから、最後に起きた出来事だけを見て、 「こんなことで泣くなんて」 と自分を責めなくてもいい。 もしかすると、泣いているのは「今日の出来事」だけではないのかもしれません。 今までのいろいろなものが、重なっているのかもしれない。 そう考えると、 「私、弱くなったのかな」 ではなく、 「それだけ頑張ってきたのかな」 と見ることもできます。 ### 泣いたからといって、すぐ答えを出さなくてもいい そして、ここも大切だと思っています。 話して、泣いて、少しスッキリした。 それだけでも十分なことがあります。 「じゃあ、これからどうする?」 「相手に何て言う?」 「仕事を辞める?」 「別れる?」 「関係を変える?」 そんな大きな答えを、必ず出さなくてもいいんです。 心がいっぱいのときに、無理に結論まで持っていこうとすると、かえって苦しくなることがあります。 まずは、 「私、本当はこんなふうに感じていたんだ」 と、自分の中にあるものを少し外に出してみる。 それだけで、見えてくる景色が変わることがあります。 そして、答えが見えてくるのは、そのあとでもいい。 私は「本当の答えは、その人の中にある」と思っています。 だから、私が代わりに答えを決める必要はない。 「こうしたほうがいいですよ」と急いで方向を決めるより、 「本当はどうしたかったんだろうね」 「何が一番苦しかったんだろうね」 そんなふうに、一緒にゆっくり見ていく。 その時間があってもいいと思っています。 ### 泣いてしまうあなたへ もし電話をかける前から、 「途中で泣いたらどうしよう」 「うまく話せなかったらどうしよう」 と思っているなら、そんなに心配しなくても大丈夫です。 うまく話せなくてもいい。 順番がバラバラでもいい。 途中で黙ってしまってもいい。 涙が出てもいい。 「何を話したかったのか分からなくなりました」 でもいい。 むしろ、そこから一緒に探していけばいいんです。 私は、きれいに整理された話だけを聞きたいわけではありません。 怒っていてもいい。 愚痴でもいい。 矛盾していてもいい。 「こんなこと思っちゃいけない」と思っていることでもいい。 そして、涙が出てしまうなら、その涙も含めて、その人の話なんだと思っています。 話し終わったとき、 「結局、答えは出なかったな」 でもいいんです。 それでも、 「なんか少し話せた」 「思っていたことを言えた」 「自分がこんなふうに感じていたんだと分かった」 そんな小さな変化があれば、それで十分。 電話を切ったあとに、胸の中に少しだけ余白ができていたら。 さっきまでギュッと握りしめていたものを、ほんの少し手放せていたら。 私は、それだけでも話した意味があったと思います。 だから、泣かないように頑張らなくて大丈夫。 うまく話そうとしなくても大丈夫。 話したいと思ったときに、そのまま来てください。 涙から始まる話があっても、いいんです。

    ・20.【「普通はこうでしょ」にいつの間にかしばられているとき】part2 2021年8月 〜 2021年8月

    ※匿名・年齢非公開のため期間は変えて掲載しています(*´▽`*) ご理解いただけますと嬉しいです。 ✼••┈┈┈┈••✼ 「普通」から少し外れてみると、意外なことに気づくことがあります。 それは、 「自分が思っていたより、罪悪感が出てくる」 ということです。 たとえば、今まで家族のためにやってきたことを、一つやめてみる。 毎日のようにしていたことを、 「今日はやらなくていいか」 と思って休んでみる。 誰かから頼まれたことを、 「今回はできない」 と断ってみる。 すると、やっと自分の時間ができたはずなのに、 「こんなことしていていいのかな」 と落ち着かなくなる。 せっかく休んでいるのに、 「私だけ休んでいて悪いな」 と思ってしまう。 これも、「普通はこう」という考え方が長く身についている人には、起こりやすいことなのかもしれません。 今まで、 「家族のことを優先するのが普通」 「頼まれたら応えるのが普通」 「忙しくても頑張るのが普通」 と思ってきた。 だから、その「普通」から少し外れると、 「私、何か悪いことをしているんじゃない?」 という感覚が出てくる。 でも、罪悪感が出てきたからといって、 「やっぱり私が間違っていた」 とは限りません。 ただ、今までと違うことをしたから、心が慣れていないだけかもしれないんです。 長い間、右側に寄って歩いていた人が、急に左側を歩こうとしたら、最初は違和感があります。 「こっちでいいのかな」 と何度も確認したくなる。 でも、その違和感だけで、 「左側は間違いなんだ」 とは決められませんよね。 心も、少し似ているのかもしれません。 ずっと自分を後回しにしてきた人が、自分を優先するとき。 ずっと我慢してきた人が、「これは嫌」と言うとき。 ずっと周りに合わせてきた人が、「私はこうしたい」と言うとき。 最初からスッキリするとは限りません。 むしろ、 「これでよかったのかな」 と揺れることがあります。 そんなときは、 「罪悪感がある=やってはいけないことをした」 とは限らない。 「今までと違うことをしたから、慣れていないのかもしれない」 と考えてみてもいいと思います。 そして、もう一つ大事なのは、 「普通から外れること」と「自分勝手になること」は同じではない、ということです。 ここを心配する人は多いと思います。 「自分の気持ちを優先したら、わがままにならない?」 「断るようになったら、冷たい人だと思われない?」 「自分のために生きたら、家族を大切にしていないことになるんじゃない?」 そんなふうに考える。 でも、自分の希望を持つことと、相手のことを一切考えないことは別です。 相手を大切にしながら、自分のことも大切にする。 それは両立できます。 たとえば、 「今日は疲れているから、家事を少し後回しにしたい」 と思ったとします。 それだけで、 「家族を大切にしていない」 ことにはなりません。 「今回は手伝えない」 と断ったからといって、 「もう二度と人を助けない」 という意味にもなりません。 一回の選択で、その人の人間性全部が決まるわけではないんですよね。 ところが、自分に厳しい人ほど、一つの行動を大きな意味にしてしまいます。 「今日は休んだ」 ↓ 「私は怠け者なのかも」 「今回は断った」 ↓ 「私は冷たい人間なのかも」 「自分のことを優先した」 ↓ 「私って自分勝手なのかな」 でも、本当はもっと小さな出来事です。 今日は休んだ。 今日は断った。 今日は自分の予定を優先した。 それだけ。 そこから「私はこんな人間だ」というところまで話を大きくしなくてもいいんです。 そして、長い間「こうするもの」と思ってきた人ほど、何かを変えるときには、一気に全部変えなくてもいい。 今まで毎日やっていたことを、いきなり全部やめる必要はありません。 一つだけ減らしてみる。 一回だけ断ってみる。 自分のために30分使ってみる。 「今日はこれをしない」と決めてみる。 そのくらいからでも十分です。 やってみて、 「やっぱり私は、これをしているほうが心地いい」 と分かることもあります。 それなら、また戻ればいい。 逆に、 「思っていたより、やらなくても大丈夫だった」 と気づくこともある。 それなら、そのまま少し減らしてみてもいい。 自分に合うかどうかは、実際にやってみないと分からないこともあります。 だから、 「一生これでいく」 という決断までしなくていいんです。 「とりあえず、今日はこうしてみる」 くらいでもいい。 「普通はこう」という考え方は、悪者ではありません。 それまでの自分を助けてくれたものも、たくさんあると思います。 家族を大切にすること。 責任を持つこと。 人に迷惑をかけないようにすること。 周りを気遣うこと。 どれも、なくしてしまわなくていい。 ただ、その中に、 「今の私には、少し苦しくなってきたもの」 があるなら、それだけを少し調整してもいいんです。 昔の自分にとって必要だったルールが、今の自分には必要ではなくなっていることがあります。 それは、昔の自分が間違っていたということではありません。 そのときは、そのやり方で自分を守っていた。 そのやり方で家族を支えていた。 そのやり方で生活を回していた。 だからこそ、今になって、 「もう少し楽なやり方に変えてもいいかな」 と思えるようになった。 それだけなのかもしれません。 人生の途中で、ルールを見直してもいい。 「今までこうしてきたから、これからもずっとこうしなきゃ」 でなくてもいいんです。 そして、もし周りから、 「前はそんなこと言わなかったじゃない」 「急にどうしたの?」 と言われたとしても、 「そうだね。私も変わったのかも」 くらいでいい。 人は変わります。 考え方も変わる。 大切にしたいことも変わる。 体力や生活環境が変われば、できることだって変わります。 昔と同じ自分でい続ける必要はありません。 むしろ、 「昔の私はこうだった」 と知っているからこそ、 「今の私はどうかな?」 と考えられる。 それは、自分勝手になることではなく、自分の人生をその時々で見直しているということだと思います。 もし今、 「私は普通じゃないのかな」 と悩んでいることがあるなら、 「普通かどうか」 を決める前に、 「私は、それをしていて苦しいのかな?」 「本当はどうしたいのかな?」 と聞いてみてもいい。 そして、 「どうしたいか分からない」 なら、それもそのままでいい。 今までずっと「こうするべき」を優先してきた人が、急に自分の希望を見つけられなくても当然です。 そんなときは、 「何をしたい?」 ではなく、 「何なら少し楽かな?」 から始めてもいい。 「これは、もうやりたくないかも」 でもいい。 「これは、まだ大切にしたい」 でもいい。 小さな答えを一つずつ拾っていけば、そのうち、 「私はこういうふうに暮らしたいんだな」 というものが、少しずつ見えてくることがあります。 電話相談でも、最初から「私はこうしたいんです」とはっきり話せる人ばかりではありません。 「みんなはこうしているから……」 「普通ならこうですよね……」 というところから始まることもあります。 そこから話していくうちに、 「でも、本当は私は嫌だったのかもしれない」 「本当は、もう少し自分の時間が欲しかった」 「今までずっと、こうするものだと思っていた」 そんな気持ちが出てくることがあります。 私は、その気持ちを聞きながら、 「じゃあ、こうしたほうがいいですよ」 と答えを決めたいわけではありません。 その人が、自分の中にあるものを見つけていく時間になればいいと思っています。 答えを急がなくてもいい。 今までのやり方をすぐに変えなくてもいい。 「もしかしたら、私が思っていた『普通』って、私だけの普通だったのかもしれない」 そう気づくだけでも、少し見え方が変わることがあります。 「普通はこうでしょ」 という言葉に、長い間守られてきた人もいる。 同時に、その言葉に少し苦しくなってきた人もいる。 どちらも本当なんだと思います。 だから、全部を否定しなくていい。 全部を守らなくてもいい。 今の自分に必要なものを残して、もう少し楽になれるものがあれば、少しずつ変えてみる。 そのくらいでいい。 「普通はこう」 と言われたとき、 「そうかもしれないね」 と受け止めながら、 「でも、私はどうかな?」 と自分に聞いてみる。 その問いを持てるだけでも、自分の気持ちを置き去りにせずに済むのかもしれません。 そしてもし、今までの「普通」から少し外れてみた自分に、罪悪感が出てきたとしても。 すぐに、 「やっぱり元に戻らなきゃ」 と決めなくていい。 ただ、 「私、今までと違うことをしたから、ちょっと落ち着かないんだな」 と気づいてみる。 慣れていないだけかもしれない。 その違和感が、少し時間を置いたらどうなるのか、見てみてもいい。 自分の人生だからといって、何もかも自分一人で決めなくてもいい。 誰かの意見を聞いてもいい。 迷ってもいい。 相談してもいい。 そして最後に、 「私はどうしたいんだろう」 と、自分のところへ戻ってくる。 その繰り返しでいいのだと思います。 「普通」という大きな枠から、いきなり飛び出す必要はありません。 ほんの少しだけ、枠の外を覗いてみる。 「こっちのほうが、今の私には楽かもしれない」 そんな場所が見つかったら、そこに少し立ってみる。 合わなかったら戻ってもいい。 また別の場所を探してもいい。 そうやって、自分に合う「これから」を少しずつ選び直していけばいいんです。

    ・21.【「楽しんでいいのかな」と思ってしまうあなたへ】 2021年9月 〜 2021年9月

    ※匿名・年齢非公開のため期間は変えて掲載しています(*´▽`*) ご理解いただけますと嬉しいです。 ✼••┈┈┈┈••✼ 「最近、楽しいことをしていないな」 ふと、そんなことに気づくことがあります。 毎日やることはある。 仕事もある。 家族のこともある。 家のこともある。 誰かに頼まれれば動くし、困っている人がいれば気になる。 一日が終わる頃には、 「今日も疲れたな」 と思いながら眠る。 それなのに、 「じゃあ、自分は何を楽しんでいるんだろう?」 と聞かれると、すぐには答えが出てこない。 「うーん……何だろう」 となってしまう。 もしかすると、そんな人は少なくないのかもしれません。 そして、やっと自分の時間ができたとしても、 「これをしていていいのかな」 と思ってしまうことがあります。 家族は忙しくしているのに、自分だけ楽しんでいいのかな。 やることが残っているのに、遊んでいていいのかな。 もっと頑張っている人もいるのに、私だけ休んでいていいのかな。 そんなふうに、楽しむことにまで「許可」が必要になってしまう。 でも、本来、楽しいことって誰かの許可をもらってするものではないんですよね。 ### 「楽しい」と「役に立つ」は別のもの 私たちは、長く生活していると、 「何かの役に立つこと」 に価値を感じやすくなることがあります。 仕事をする。 家事をする。 家族のために動く。 誰かの話を聞く。 必要なことを片づける。 そういうものには、 「やらなきゃ」 という理由があります。 だから、やったあとに疲れていても、 「仕方ないよね」 と思える。 ところが、 好きな音楽を聴く。 ドラマを見る。 おいしいものを食べる。 何となくスマホを見る。 散歩する。 ぼーっとする。 そんな時間になると、 「これって何のため?」 と、急に説明を求めたくなることがあります。 でも、楽しいことに「何の役に立つの?」と聞かなくてもいいんじゃないかなと思うんです。 楽しいから楽しい。 好きだから好き。 それだけでも、十分な理由です。 何かを生み出さなくてもいい。 誰かの役に立たなくてもいい。 将来のためにならなくてもいい。 その時間を過ごしている自分が、ちょっと嬉しい。 それだけでいい時間だってあります。 ### 楽しいことをしているのに、落ち着かない 実は、楽しむことそのものが苦手になっている人もいます。 せっかく好きなことを始めたのに、 「あ、洗濯物まだ干してなかった」 「明日の準備してない」 「こんなことしてる場合じゃないな」 と、頭の中に「やるべきこと」が入ってくる。 映画を見ていても、心の片隅では家事のことを考えている。 お茶を飲んでいても、 「こんなにゆっくりしていて大丈夫かな」 と思う。 旅行に行っても、家に残してきたことが気になる。 休んでいるはずなのに、心が休んでいない。 これって、単純に「楽しめない性格」だからではないと思うんです。 長い間、 「先にやることをやってから」 「人のことを優先してから」 「迷惑をかけないように」 という生活をしてきた人ほど、自分の楽しみを後回しにすることが当たり前になっていることがあります。 そして、後回しにしているうちに、 「私は何が好きだったっけ?」 と分からなくなることもある。 それは、好きなものがなくなったということではなくて、自分の「好き」を使う機会が少なくなっていただけなのかもしれません。 ### 「好きなことが分からない」なら、小さなことでいい 「じゃあ、自分の好きなことを見つけましょう」 と言われても、 「それが分からないんですよ」 という人もいると思います。 そんなときに、いきなり趣味を探さなくてもいいんです。 「何がしたい?」 ではなく、 「これならちょっと嫌じゃない」 くらいから始めてもいい。 いつもより少し高いコーヒーを買う。 好きなパンを選ぶ。 帰り道を少し変える。 気になっていた番組を見る。 布団に入る時間を少し早くする。 何も考えずに窓の外を見る。 「こんなの楽しみって言えるのかな?」 くらいの小さなことでいい。 むしろ、そのくらいのほうが始めやすいこともあります。 「今日はこれをしてみよう」 と決めるほど大げさにしなくても、 「あ、これ好きだった」 「これ、ちょっと気分いいな」 という感覚を拾っていく。 そうすると、少しずつ自分の中にある「好き」の感覚が戻ってくることがあります。 ### 楽しんでいると、誰かに申し訳なくなる人へ そして、もう一つ気になるのが、 「自分だけ楽しんでいるのが申し訳ない」 という気持ちです。 家族が大変なとき。 誰かが悩んでいるとき。 仕事が忙しいとき。 自分だけ笑っていていいのかな、と感じることがあります。 もちろん、周りの状況を気にすること自体が悪いわけではありません。 人と一緒に暮らしていれば、相手のことを考えるのは自然なことです。 ただ、 「誰かが大変なら、自分も楽しくしてはいけない」 までいってしまうと、自分の時間がどんどん小さくなってしまいます。 誰かの苦しさと、自分の楽しさは、必ずしも同時に存在できないものではありません。 家族が悩んでいても、自分がおいしいものを食べることはできる。 仕事で嫌なことがあっても、帰宅して好きな音楽を聴くことはできる。 誰かを心配しながら、自分自身のことも大切にすることはできます。 どちらか一つを選ばなくてもいいんです。 ### 「楽しい」と思った自分を否定しない ときどき、 「こんなことで喜んでいる自分って、単純だな」 とか、 「もっと有意義なことをしなきゃ」 と思ってしまうことがあります。 でも、私は「単純」でいいと思うんです。 おいしいものを食べて嬉しい。 天気が良くて嬉しい。 好きな歌が流れてきて嬉しい。 店員さんの感じが良くて嬉しい。 偶然、信号が全部青だった。 そんなことでちょっと嬉しくなる。 それって、けっこういいことだと思いませんか? 大きなイベントじゃなくてもいい。 人生を変えるような出来事じゃなくてもいい。 「今日はちょっと嬉しかった」 が一日に一つあるだけでも、毎日の景色は少し違って見えるかもしれません。 そして、それを誰かに報告する必要もありません。 「今日、こんなことがあったんだよ」 と話したくなったら話せばいい。 自分の中だけで、 「ふふっ」 と笑って終わってもいい。 そんな小さな楽しみは、誰にも評価してもらわなくていいものです。 ### 「楽しめる自分」に戻るまで もし今、 「何をしても楽しくない」 「昔は好きだったことにも興味がわかない」 と感じているなら、無理に楽しもうとしなくてもいいと思います。 「楽しまなきゃ」 と思うと、それさえ新しい宿題になってしまいます。 今日は何もしたくないなら、何もしない。 好きなものが思いつかないなら、思いつかないままでもいい。 ただ、 「私、最近、自分のために何かしたかな?」 と、少しだけ振り返ってみる。 それだけでも十分です。 そして、 「そういえば、昔これ好きだったな」 と思い出すものがあったら、それをもう一度試してみてもいい。 昔と同じように楽しめなくても大丈夫。 今の自分には、今の自分の「好き」があります。 年齢を重ねれば、好きなものが変わることもある。 昔は好きだったけれど、今はそれほどでもないこともある。 逆に、昔は興味がなかったものが、今になって妙に面白く感じることもある。 だから、 「昔の私が好きだったもの」 にこだわる必要もありません。 今の自分が、 「なんか、これいいな」 と思えるものを、少しずつ見つけていけばいい。 ### 「楽しむこと」を後回しにしない 長い間、人のために動いてきた人ほど、自分の楽しみを後回しにするのが上手です。 「まだ大丈夫」 「これが終わってから」 「みんなが落ち着いてから」 「時間ができたら」 そうやっているうちに、時間だけが過ぎていく。 もちろん、やるべきことはあります。 家族のことも、仕事のことも、放っておけないことがあります。 だから、全部を投げ出して自分だけ楽しみましょう、という話ではありません。 ほんの少しでいいんです。 一日の中に、自分のための時間を置いてみる。 五分でもいい。 十分でもいい。 「これは私の時間」 と、誰かのためではない時間を持ってみる。 それは、わがままになることとは違います。 自分の人生の中に、自分自身もちゃんといる。 そのことを思い出す時間なのかもしれません。 もし、 「楽しみたいのに、なぜか楽しめない」 「自分のために時間を使うと罪悪感が出る」 「そもそも、何が好きだったのか分からなくなった」 そんな気持ちがあるなら、それも話してみてください。 「こんなこと相談するほどじゃないですよね」 なんて思わなくても大丈夫。 私は、そんな小さく見える気持ちの中にも、その人が今までどう生きてきたのかが表れることがあると思っています。 話しているうちに、 「私、ずっと自分のこと後回しにしてたんだな」 と気づくかもしれない。 あるいは、 「いや、別に後回しにしてたわけじゃない。ただ今は疲れてるだけだった」 と分かるかもしれない。 どちらでもいいんです。 答えを急がなくてもいい。 まずは、自分の中にあるものを、そのまま話してみる。 そして電話を切ったあと、 「そういえば、私も楽しんでいいんだよね」 と、ほんの少し思えたら。 その小さな感覚を、私は大切にしたいと思っています。 誰かのために頑張る時間も大切。 でも、自分がちょっと笑える時間も、同じくらい大切。 「こんなことで喜んでいいのかな?」 ではなく、 「私、これ好きなんだな」 と、素直に思える時間が少しずつ増えていったらいい。 人生って、頑張ることだけでできているわけじゃないですからね。 たまには、理由なんてなくてもいい。 「今日はこれ、楽しかったな」 それだけで、十分なんです。

    ・22.【「昔はもっとできたのに」と、今の自分にがっかりするとき】 2021年10月 〜 2021年10月

    ※匿名・年齢非公開のため期間は変えて掲載しています(*´▽`*) ご理解いただけますと嬉しいです。 ✼••┈┈┈┈••✼ 「昔は、もっとテキパキ動けたのに」 「前はこんなことで悩まなかったのに」 「昔の私だったら、こんなこと簡単にできたのにな」 そんなふうに、今の自分と昔の自分を比べてしまうことはありませんか? 以前は当たり前にできていたことが、なんだか面倒に感じる。 前なら気にせず受け流せたことが、いつまでも心に引っかかる。 新しいことを始めようと思っても、以前ほど勢いが出ない。 そんな自分に気づくと、ちょっとがっかりすることがあります。 「私、こんな人だったっけ?」 なんて思ったりして。 でも、ちょっと待ってください。 今の自分は、昔の自分とまったく同じ条件で生活しているでしょうか? もしかしたら、そこに見落としていることがあるのかもしれません。 ◆昔の自分と、今の自分は条件が違う 若い頃は、多少無理をしても何とかなった。 仕事が終わってから予定を入れたり、休日にあれもこれも済ませたり。 疲れていても、「まあ、寝れば大丈夫!」と動けた時期があったかもしれません。 でも、年齢を重ねれば体力や生活環境も変わってきます。 仕事で任されることが増えているかもしれない。 家族のことや親のことなど、自分以外に気を配る場面が増えているかもしれない。 以前は考えなくてもよかったことに、時間や気力を使うようになっていることもあります。 それなのに、昔と同じように動けない自分だけを見て、 「私、ダメになったな」 と判断してしまう。 これって、少し不公平だと思いませんか? 昔の自分と今の自分では、置かれている状況が違うんです。 背負っているものも、経験してきたことも、毎日使っている気力も違う。 それなのに、昔の自分を基準にして、今の自分に同じ結果を求めてしまう。 これでは、今の自分がかわいそうですよね。 もちろん、以前よりできなくなったことがあるのは事実かもしれません。 そこを無理に否定する必要はありません。 でも、できなくなったことだけを並べて、自分の価値まで下げなくてもいいんです。 ◆「できなくなったこと」ばかり見ていませんか? 人は、自分が失ったものには気づきやすいのかもしれません。 以前ほど体力がない。 新しいことを覚えるのに時間がかかる。 人付き合いが面倒になった。 無理をすると、あとから疲れが出る。 そういう変化は、自分でも分かりやすいものです。 一方で、昔にはなかったものも、きっと増えているはずです。 経験を積んだからこそ、避けたほうがいいことが分かる。 失敗したことがあるから、慎重に考えられる。 いろいろな人と関わってきたから、相手の事情を想像できる。 若い頃なら勢いで決めていたことも、今は一度立ち止まって考えられる。 もちろん、誰もがそうなるわけではありません。 年齢を重ねれば自動的に立派になる、という話でもないんです。 ただ、以前よりできなくなったことがある一方で、以前とは違う力が育っている可能性もある。 そこを忘れたくないなと思います。 例えば、昔なら誰かに嫌なことを言われたとき、すぐに言い返していたとします。 今は、その場では言い返さず、少し考えてから対応するようになった。 昔の自分と比べれば、反応が遅くなったように感じるかもしれません。 でも、それは本当に悪い変化でしょうか? もしかしたら、経験を重ねたことで、すぐに反応しない選択ができるようになったのかもしれません。 反対に、以前なら平気だったことが、今はどうしても我慢できなくなった。 それも、単に弱くなったからとは限りません。 昔は当たり前だと思っていたことに、違和感を覚えるようになった可能性もあります。 変化には、いろいろな面があるんですよね。 ◆昔の自分に戻らなくてもいい 「昔の自分に戻りたい」 そう思うこともあるでしょう。 もっと元気だった頃。 何でもできる気がしていた頃。 毎日が今より軽やかに感じられた頃。 懐かしく思うのは、自然なことだと思います。 あの頃の自分が好きだったのなら、なおさらですよね。 ただ、昔の自分に戻ることだけを目標にすると、今の自分がずっと物足りなくなってしまうことがあります。 「あの頃はできたのに」 「前はもっと頑張れたのに」 そんな言葉が、今の自分を責める材料になってしまう。 でも、私たちは過去に戻って生きるわけではありません。 今の自分で、これからの時間を過ごしていくんです。 だったら、昔と同じ自分を取り戻すことだけにこだわらなくてもいいのではないでしょうか。 昔の自分にあった良さは、今の生活に合う形で取り入れればいい。 以前は旅行が好きだったなら、遠くまで出かけなくても、近場で気になる場所に行ってみる。 昔は人と会うのが好きだったなら、大勢の集まりではなく、気の合う人とゆっくり話してみる。 以前は何でも自分でやっていたとしても、今は誰かに頼る方法を覚えてもいい。 昔とまったく同じでなくても、好きだったものを今の自分に合う形で楽しむことはできます。 「昔の私に戻る」ではなく、「今の私なら、どう楽しめるかな?」 そんなふうに考えてみるのも、一つの方法です。 ◆変わった自分を、すぐに否定しない 自分が変わったと感じたとき、私たちはつい、その変化に点数をつけたくなります。 前よりできるようになったことは、プラス。 前よりできなくなったことは、マイナス。 そんなふうに。 でも、変化したことと、悪くなったことは、必ずしも同じではありません。 以前より慎重になった。 一人で過ごす時間が好きになった。 付き合う人を選ぶようになった。 無理な約束をしなくなった。 こうした変化を、昔の自分と比べて「つまらない人間になった」と感じることもあるかもしれません。 けれど、それは今の自分に合った生き方を探している途中なのかもしれない。 もちろん、変化の中には、自分でも困っていることがあるでしょう。 以前は楽しめていたことが長く楽しめない。 日常生活に支障が出るほど気力が落ちている。 そんな場合は、気合いで何とかしようとせず、身体や心の状態を確かめることも大切です。 何でも「年齢のせい」で片づけなくていいんです。 ただ、特に困っていない変化まで、無理に元へ戻そうとしなくてもいい。 今の自分には、今の自分なりのペースがある。 そう認めることから、少し楽になることもあると思います。 ◆「今の私」を知ることから始めてみる もし最近、昔の自分と比べて落ち込むことが増えているなら、一度こんなことを考えてみてもいいかもしれません。 「今の私が、以前より楽になったことは何だろう?」 「昔より、無理をしなくなったことはあるかな?」 「今だからこそ、大切にしたいと思えるものは何だろう?」 すぐに答えが出なくても構いません。 昔の自分を否定する必要も、今の自分を無理に好きになる必要もありません。 ただ、できなくなったことだけではなく、変わったこと全体を眺めてみる。 そうすると、今までとは少し違う自分の姿が見えてくるかもしれません。 そして、もし「やっぱり、あれはもう一度やってみたいな」と思うことがあれば、試してみればいい。 反対に、「今はもう、そこまで頑張らなくてもいいかな」と思うなら、それも一つの答えです。 どちらを選んでも、昔の自分に負けたわけではありません。 今の自分に合うものを、選び直しているだけです。 ## 自分の変化に戸惑ったときは 人は、自分のことを一番よく知っているようで、意外と分からないものです。 特に、毎日を一生懸命に過ごしていると、自分がどう変わってきたのかを振り返る機会もなかなかありません。 そんなとき、誰かに話してみると、自分では当たり前だと思っていたことが、少し違って見えることがあります。 「昔はこうだったんです」 「でも、今はこうなんですよね」 そんな話をしながら、 「そうか。私は変わったんだな」 と気づくこともあるでしょう。 変わった理由が分かることもあれば、分からないままのこともある。 昔の自分が恋しくなる日もあれば、今の自分も悪くないと思える日もある。 どちらの気持ちがあってもいいんです。 私は、話を聞くときに、無理に前向きな結論へ持っていきたいとは思っていません。 「昔の自分より、今の自分のほうが素晴らしいですよ!」 なんて、簡単に決めつけるつもりもありません。 本人がどう感じているのか。 何が寂しくて、何に戸惑っているのか。 本当は、これからどうしていきたいと思っているのか。 そういうことを、ゆっくり話しながら一緒に見つけていけたらと思っています。 昔の自分が好きだったあなたも。 今の自分に少しがっかりしているあなたも。 まだ、これからの自分がどうなっていくのか分からないあなたも。 どの状態であっても、話していいんです。 今の自分を、すぐに評価しなくてもいい。 昔の自分に戻ろうと、焦らなくてもいい。 これまでの自分を連れて、これからの時間を生きていけばいいんですから。 昔の自分には、昔の自分の良さがあった。 そして、今の自分には、今の自分の暮らしがあります。 どちらか一方を選んで、もう一方を捨てなくてもいい。 「私、こんなふうに変わったんだな」 まずは、そんなふうに眺めてみる。 そこから、今の自分に合う生き方が少しずつ見つかっていくのかもしれません。

    ・23.【「何が食べたい?」と聞かれて、答えに困ってしまうあなたへ】 2021年11月 〜 2021年11月

    ※匿名・年齢非公開のため期間は変えて掲載しています(*´▽`*) ご理解いただけますと嬉しいです。 ✼••┈┈┈┈••✼ 「何が食べたい?」 そう聞かれて、 「何でもいいよ」 と答える。 「どこに行きたい?」 と聞かれても、 「あなたの行きたいところでいいよ」 と答える。 相手に合わせることに、特に抵抗はありません。 むしろ、そのほうがスムーズに決まるし、相手も喜んでくれる。 だから、いつも自然にそうしている。 ところが、ある日ふと気づくんです。 「あれ? 私、本当は何が食べたいんだろう?」 「私が行きたいところって、どこだろう?」 聞かれたから考えてみたのに、自分の希望がなかなか出てこない。 そんなことってありませんか? 別に、相手に不満があるわけではない。 自分の意見を言うのが嫌なわけでもない。 ただ、本当に何でもいいと思ってしまう。 あるいは、何か希望が浮かんでも、 「でも、相手はこっちのほうがいいかな」 と考え始めた途端、自分の希望がどこかへ行ってしまう。 こういうことが続いていると、自分の気持ちを聞かれても、答えるのが難しくなってしまうことがあります。 今回は、そんなお話です。 ◆「相手に合わせる」のは、悪いことじゃない まず、誰かに合わせること自体は、悪いことではありません。 一緒に暮らしていれば、お互いに譲り合う場面があります。 友達と出かけるときも、家族で食事をするときも、全員の希望がぴったり一致するとは限りません。 自分が少し譲ることで、相手が喜んでくれることもある。 自分に強いこだわりがないなら、相手の希望を優先したほうが気楽なこともあるでしょう。 だから、「自分の希望を言えない私はダメだ」と考える必要はありません。 ただ、気をつけたいのは、**自分で選んで相手に合わせているのか、それとも自分の希望を考える前に相手を優先しているのか**という違いです。 例えば、本当にどちらでもよくて、相手の希望を聞いて「それ、いいね!」と思えたなら、それは自分で選んだ結果です。 でも、本当は別のものが食べたかったのに、 「言ったら面倒かな」 「相手が嫌な顔をするかな」 「私が合わせれば丸く収まるし」 と考えて、希望を引っ込めてしまったのなら、少し事情が違います。 どちらも、表面上は「相手に合わせた」という同じ行動です。 でも、自分の中にある気持ちは違うんですよね。 そして、後者が何度も続いていくと、自分が何を望んでいるのかさえ、分かりにくくなることがあります。 ◆自分の希望を考える前に、相手のことを考えてしまう 誰かと何かを決めるとき、頭の中でこんなことを考えていませんか? 「この人は何が好きだったかな」 「今、忙しそうだから、私の希望は言わないほうがいいかな」 「これを提案したら、面倒だと思われるかな」 「せっかく誘ってくれたんだから、相手の希望に合わせよう」 こういう気配りができるのは、相手のことをよく見ているからかもしれません。 普段から家族の好みを覚えていたり、職場の人の忙しさを察したり、相手が困らないように先回りしたり。 そんなふうに周囲を見ながら生活している人もいるでしょう。 ただ、相手のことを考える習慣が強くなると、自分の希望を確認する前に、相手にとって都合のいい選択肢を探してしまうことがあります。 自分がどうしたいかよりも、相手がどう思うか。 自分が何を望んでいるかよりも、その場がうまく収まるかどうか。 いつの間にか、考える順番がそうなっているんです。 それが長年の習慣になっていると、自分の希望を聞かれても、すぐには答えが出てこないことがあります。 なぜなら、今まで自分の希望を優先して考える機会が少なかったから。 急に「自分の好きなようにしていいよ」と言われても、何を選べばいいのか分からない。 自由なのに、かえって困ってしまう。 そんなこともあるんですよね。 ◆「何でもいい」は、本当に何でもいい? ここで、少しだけ考えてみてほしいことがあります。 あなたが「何でもいいよ」と答えるとき、それはどんな気持ちからでしょうか。 本当に何でもよくて、相手が選んだものを楽しめる。 それなら、何も問題ありません。 でも、心のどこかで、 「私の希望なんて、別に聞かなくてもいいよね」 「どうせ言っても通らないし」 「希望を言って、嫌な顔をされるくらいなら何でもいい」 そんな気持ちが隠れていることはないでしょうか。 もちろん、毎回そんなふうに考えているわけではないと思います。 場面によって違うこともあるでしょう。 だから、いつも自分の本音を探し当てなければいけない、という話でもありません。 ただ、「何でもいい」と答えたあと、なんとなく寂しい気持ちが残ることがあるなら、その気持ちを少し気に留めてみてもいいと思うんです。 本当は、自分の希望を聞いてほしかったのかもしれない。 自分の意見も、選択肢の一つとして扱ってほしかったのかもしれない。 あるいは、相手に決めてもらうことに慣れすぎて、自分で選ぶことに自信がなくなっているのかもしれません。 何が正解ということではありません。 「何でもいい」という言葉の奥に、自分でも気づいていなかった気持ちがあることもある。 そんな可能性を知っておくだけでも、少し違うと思います。 ◆大きなことから、自分で決めなくてもいい では、自分の希望が分からなくなっているとき、どうすればいいのでしょう。 いきなり「これからは自分の意見をはっきり言いましょう!」と言われても、困りますよね。 今までの習慣を、急に変える必要はありません。 まずは、ごく小さなことでいいんです。 今日のお昼は何を食べたいか。 帰りにどこへ寄りたいか。 休みの日に、何をして過ごしたいか。 誰かに聞かれる前に、自分に聞いてみる。 「私は、どうしたい?」 それだけです。 すぐに答えが出なくても構いません。 「うーん、分からないな」 でもいい。 少し考えてみて、 「あ、今日は麺類が食べたいかも」 と思ったら、その気持ちを覚えておく。 実際に食べるかどうかは、そのあと決めればいいんです。 自分の希望が浮かんだからといって、必ずそれを実現しなければいけないわけではありません。 相手の都合と合わなければ、別の方法を考えてもいい。 自分の希望を確認することと、必ず希望を通すことは別なんです。 まずは、自分が何を望んでいるのかを知る。 その練習から始めてみてもいいと思います。 ◆希望を言うことは、わがままになることじゃない 自分の希望を口にするのが苦手な人は、 「自分の意見を通そうとしたら、わがままになってしまう」 と感じることがあります。 でも、自分の希望を伝えることと、相手に自分の希望を押しつけることは違います。 「私はこっちが食べたいな」 と言うことはできます。 そのうえで、相手が別のものを希望していたら、一緒に考えればいい。 「私はこの日が都合いいんだけど、そっちはどう?」 と伝えることもできます。 お互いの希望が違ったときに、どう折り合いをつけるか。 それは二人で考えることです。 最初から自分の希望をなかったことにしてしまわなくてもいいんです。 もちろん、相手との関係や状況によっては、希望を言いにくいこともあるでしょう。 言ったことで怒られたり、嫌な思いをした経験があるなら、簡単に言えるようになるとは限りません。 そんなときに、無理やり自分の意見を伝えようとしなくても大丈夫です。 まずは、自分の中で「私はこうしたいと思っているんだな」と認めるだけでもいい。 誰かに伝えるのは、そのあとでもいいんです。 自分の気持ちを大切にすることは、必ずしも相手と対立することではありません。 相手も自分も、どちらの希望も存在していい。 そんな関係を、少しずつ探していけたらいいですね。 ◆自分の気持ちが分からなくなったときは 長い間、誰かに合わせることを当たり前にしてきた人にとって、自分の希望を考えることは、意外と難しいものかもしれません。 「どうしたい?」と聞かれても、何も浮かばない。 やっと浮かんでも、「こんなことを望んでいいのかな」と思ってしまう。 自分の希望を口にすることに、なぜか抵抗がある。 そんな気持ちがあっても、不思議ではありません。 すぐに変わろうとしなくてもいいんです。 これまでの自分を否定する必要もありません。 相手に合わせてきたことで、うまくいったことも、守れた関係も、きっとあったでしょう。 そのやり方が、今までの自分を支えてくれた面もあるのかもしれません。 ただ、これからは、相手の希望だけではなく、自分の希望にも目を向けてみる。 その選択肢を持っていてもいいと思うんです。 もし、自分が何を望んでいるのか分からなくなっていたら、誰かに話してみるのも一つの方法です。 「私、いつも何でもいいって言っちゃうんです」 そんなところから始めても構いません。 話しているうちに、 「そういえば、あのとき本当は嫌だったんだな」 と気づくこともあるかもしれない。 反対に、 「考えてみたら、本当にどっちでもよかったんだ」 と分かることもあるでしょう。 どちらでもいいんです。 大切なのは、相手に合わせたかどうかだけで、自分の行動を判断しないこと。 自分で選んで合わせたのなら、それもあなたの希望です。 自分の気持ちを引っ込めていたのなら、これから少しずつ考えていけばいい。 どちらなのかを知ることから、始められます。 あなたが誰かを大切にしてきたように、あなた自身の希望も、同じように大切にしていい。 何を食べたいか。 どこへ行きたいか。 どんな時間を過ごしたいか。 そんな小さなことから、自分に聞いてみてください。 すぐに答えられなくても大丈夫。 これから少しずつ、見つけていけばいいんですから。

    ・24.【「やろうと思っているのに動けない」自分に、イライラしていませんか?】 2021年12月 〜 2021年12月

    ※匿名・年齢非公開のため期間は変えて掲載しています(*´▽`*) ご理解いただけますと嬉しいです。 ✼••┈┈┈┈••✼ 「そろそろ始めなきゃ」 そう思っていることがある。 やったほうがいいのは分かっているし、やりたい気持ちだってある。 頭の中では、何度も考えている。 「明日こそやろう」 「今度の休みには始めよう」 「今日こそ、少しだけでも進めよう」 ところが、気づけば一日が終わっている。 結局、何もできなかった。 そんな自分に、 「またやらなかった」 「どうして私は、いつもこうなんだろう」 と、がっかりしてしまう。 そして、翌日にはまた同じことを考える。 やろうと思う。 でも、動けない。 動けない自分にイライラする。 こんな繰り返し、ありませんか? 周りから見れば、ただ行動していないだけに見えるかもしれません。 自分でも、 「やればいいだけなのに」 と思っていることがあります。 だからこそ、余計に苦しいんですよね。 今回は、そんな「やろうと思っているのに動けない」という気持ちについて、少し考えてみたいと思います。 ◆動けない自分を、すぐに怠け者にしない 何かを始められないとき、私たちは自分に厳しい言葉をかけがちです。 「意志が弱い」 「根性がない」 「本気じゃないからできないんだ」 そんなふうに、自分の性格や気持ちの問題にしてしまう。 でも、本当にそれだけでしょうか? 例えば、仕事で疲れているとき。 家に帰ってからも、家事や家族の用事があるとき。 頭の中に考えごとがたくさんあるとき。 目の前のことを片づけるだけで、精いっぱいになっていることがあります。 そんな状態で、さらに新しいことを始めようとしても、なかなか動けないことはあります。 やりたい気持ちがないわけではない。 ただ、そこに使える余力が残っていないのかもしれません。 あるいは、何から手をつければいいのか分からず、考えているうちに時間が過ぎてしまうこともあるでしょう。 やることが大きすぎて、最初の一歩が見えない。 失敗したくなくて、準備ばかりしてしまう。 始めたら最後まで続けなければいけないと思って、気軽に手を出せない。 動けない理由は、人によって違います。 だから、動けなかったという結果だけを見て、 「私はダメだ」 と決めつけなくてもいいんです。 まずは、自分を責める前に、 「何が引っかかっているんだろう?」 と考えてみてもいいと思います。 ◆「やる気が出たら始めよう」と思っていませんか? 何かを始めるとき、 「もっとやる気が出てから」 「気分が乗ってから」 「時間に余裕ができてから」 と思うことがあります。 もちろん、気持ちや時間に余裕があるほうが、始めやすいことはあります。 でも、待っているだけでは、そのタイミングがなかなか来ないこともあるんですよね。 仕事が落ち着いたと思ったら、別の用事ができる。 今週こそ時間があると思ったら、急な予定が入る。 やる気が出てきたと思ったら、疲れてしまう。 毎日の生活には、予定どおりにいかないことがたくさんあります。 だからといって、無理やり自分を奮い立たせる必要はありません。 ただ、「やる気が出ること」と「少しだけ動いてみること」は、必ずしも同じ順番でなくてもいいんです。 例えば、部屋を片づけたいと思っているなら、部屋全体をきれいにしようとしなくてもいい。 目の前のものを一つだけ片づける。 勉強を始めたいなら、机に向かって参考書を開くだけでもいい。 新しいことを調べたいなら、気になっている言葉を一つ検索してみるだけでもいい。 それで終わっても構いません。 一つやったからといって、必ず続きをやらなければいけないわけではないんです。 「今日はここまで」と終わりにしてもいい。 小さく動いたからといって、明日も必ず続ける義務が生まれるわけではありません。 最初から大きな行動を目指さなくてもいいんです。 ◆始める前に、ゴールまで考えすぎてしまう 動けなくなる理由の一つに、始める前から先のことを考えすぎてしまう、というものがあります。 何かを始めようと思ったとき、 「これを続けられるかな」 「本当に役に立つのかな」 「途中でやめたら、時間の無駄になるかな」 「どうせやるなら、ちゃんと結果を出したい」 そんなことが次々と浮かんでくる。 気がつけば、始める前から、ずいぶん先のことまで考えている。 これでは、最初の一歩が重くなってしまうのも無理はありません。 まだ始めてもいないのに、続けられるかどうかまで決めようとしているんですから。 でも、実際にやってみなければ分からないこともあります。 始めてみたら、思ったより楽しかった。 反対に、想像していたものとは違った。 やってみたからこそ、分かることがあります。 だから、最初から最後までの計画を完璧に決めなくてもいいんです。 まずは試してみる。 合わなければ、やり方を変える。 必要なら、いったんやめる。 そんな選択肢があってもいい。 始めることは、最後まで続ける契約を結ぶことではありません。 今の自分に合うかどうかを確かめるために、少し試してみる。 それくらいの気持ちで始めてもいいんです。 ◆「やらなきゃ」を増やしすぎていない? もう一つ、気にしてみたいことがあります。 それは、やりたいことが、いつの間にか「やらなきゃいけないこと」に変わっていないか、ということです。 最初は、ちょっと興味があっただけ。 面白そうだから、やってみたいと思っただけ。 それなのに、 「毎日やらなきゃ」 「もっと上手にならなきゃ」 「成果を出さなきゃ」 と、自分の中で条件が増えていく。 そして、気軽に始められるはずだったことが、いつの間にか大きな課題になっている。 こうなると、始めること自体が重たくなってしまいます。 例えば、健康のために散歩を始めようと思ったとします。 最初は、気が向いた日に少し歩くだけでよかった。 ところが、 「毎日歩かなきゃ意味がない」 「決めた距離を歩かなきゃ」 「今日は歩けなかった。もうダメだ」 となってしまったら、散歩そのものが楽しくなくなってしまうかもしれません。 もちろん、目標を持つことが悪いわけではありません。 目標があるから頑張れる人もいます。 ただ、始める前から自分にたくさんの条件をつけているなら、少し減らしてみてもいいんです。 毎日じゃなくてもいい。 短い時間でもいい。 今日はできなくても、また別の日にやればいい。 自分が続けやすい形を探すことも、大切な工夫の一つです。 ◆動けなかった日にも、意味はある ここまで読んで、 「なるほど。じゃあ、小さく始めてみればいいんだね」 と思った方もいるかもしれません。 もちろん、それも一つの方法です。 でも、今日のあなたがどうしても動けないなら、無理に行動しなくてもいいんです。 この記事を読んだからといって、何かを始めなければいけないわけではありません(笑)。 動けなかった日があってもいい。 予定していたことができなくてもいい。 ただし、何日も動けなかったことを理由に、自分を責め続ける必要はありません。 「今日はできなかったな」 という事実と、 「私は何をやってもダメな人間だ」 という評価は、別のものです。 一つ目は、今日起きたこと。 二つ目は、そこから自分が導き出した結論です。 今日できなかったからといって、これから先もできないとは限りません。 そして、今は始めないという選択が、自分にとって合っている場合もあります。 本当はそれほどやりたいことではなかったのかもしれない。 今は別のことを優先したいのかもしれない。 少し休んでから考えたいのかもしれない。 自分の気持ちが分からないまま、ただ「やらなきゃ」と追い立てていることもあります。 そんなときは、行動することだけを目標にするのではなく、 「私は、これを本当にやりたいのかな?」 と考えてみてもいいと思います。 やりたいと分かったら、改めて始めればいい。 今は違うと思ったら、いったん保留にしてもいい。 自分で選んだ結果なら、どちらも意味のある選択です。 ◆自分を追い立てる声が大きくなったら 何かを始められずにいるとき、頭の中では、いろいろな声が聞こえてくることがあります。 「早くやりなさい」 「また先延ばしにしている」 「今度こそ頑張らないと」 その声が大きくなるほど、焦りも強くなる。 でも、焦っているからといって、必ず動けるようになるわけではありません。 むしろ、焦ることで余計に身動きが取れなくなることもあります。 そんなときは、いったん立ち止まってみてもいいんです。 「私は、何をそんなに急いでいるんだろう?」 「できなかったら、何が困るんだろう?」 「本当は、どうしたいと思っているんだろう?」 自分に問いかけてみる。 すぐに答えが出なくても構いません。 自分を責める言葉ばかりが浮かんでいるときには、少し違う問いかけをしてみるだけでも、気持ちの向きが変わることがあります。 そして、一人で考えていると同じところをぐるぐる回ってしまうなら、誰かに話してみるのも一つの方法です。 「やらなきゃいけないのに、できないんです」 そんな話から始めても大丈夫。 何を始めたいのか。 どうして始められないと思っているのか。 始めたら、何が変わりそうなのか。 話しながら、少しずつ整理していけばいいんです。 話しているうちに、本当にやりたかったことが見えてくるかもしれない。 自分が思っていたより疲れていたことに気づくかもしれない。 あるいは、「そこまで急がなくてもいいんだ」と思えるかもしれません。 私は、無理に背中を押すことだけが応援ではないと思っています。 動きたいときには、動きやすくなるように。 立ち止まりたいときには、安心して立ち止まれるように。 その人が今どんな状態なのかを、一緒に見ていくことも大切です。 やろうと思っているのに動けない。 そんな自分にイライラしているときこそ、少しだけ、自分への接し方を変えてみませんか? 「どうしてできないの!」ではなく、 「何が引っかかっているんだろう?」 「今の私にできることって、何だろう?」 そんな問いかけに変えてみる。 大きな一歩じゃなくてもいい。 今日は考えるだけでもいい。 明日、小さく試してみてもいい。 そして、やらないと決めたっていいんです。 大切なのは、自分を責めることだけで一日を終わらせないこと。 あなたが動けないのには、あなたなりの事情があるのかもしれません。 それを無視して無理やり動かそうとする前に、少しだけ耳を傾けてみる。 その先に、今までとは違う一歩が見つかることもあると思います。

    ・25.【いいことがあったのに、素直に喜べないあなたへ】 2022年1月 〜 2022年1月

    ※匿名・年齢非公開のため期間は変えて掲載しています(*´▽`*) ご理解いただけますと嬉しいです。 ✼••┈┈┈┈••✼ 嬉しいことがあった。 ずっと欲しかったものが手に入った。 楽しみにしていた予定が決まった。 誰かに褒めてもらった。 頑張っていたことが、少しだけうまくいった。 そんなとき、本当なら素直に喜んでいいはずなのに、なぜか心のどこかでブレーキがかかる。 「でも、まだ安心できないよね」 「このあと、何か悪いことが起きるかもしれないし」 「そんなに喜んで、あとでがっかりしたら嫌だな」 嬉しい気持ちが湧いてきたはずなのに、いつの間にか心配事を探している。 せっかくいいことがあったのに、気持ちが晴れない。 そんな経験はありませんか? 周りからは、 「もっと喜べばいいのに」 「せっかくなんだから、楽しもうよ」 と言われるかもしれません。 自分でも、そうできたらいいのにと思う。 でも、どういうわけか、素直に喜びきれない。 そんな自分を見て、 「私って、ひねくれているのかな」 「どうして、もっと前向きになれないんだろう」 と感じてしまうこともあるでしょう。 でも、私は、嬉しいことを素直に喜べない自分を、すぐに責めなくてもいいと思っています。 そこには、その人なりの理由があるかもしれないからです。 ◆喜んだあとに、がっかりしたくない 例えば、以前、楽しみにしていたことが台なしになった経験があったとします。 期待していたのに、思うようにいかなかった。 信じていたのに、裏切られた。 うまくいくと思っていたのに、急に状況が変わった。 そんな経験をすると、次に嬉しいことがあったとき、心のどこかで用心するようになることがあります。 「今回も、どうなるか分からない」 「まだ安心するのは早い」 「期待しすぎないほうがいい」 そう考えておけば、もし思いどおりにならなくても、ショックが小さくて済むような気がする。 嬉しい気持ちを大きくしすぎないことで、自分を守ろうとしているのかもしれません。 もちろん、誰もがそういう理由で喜べなくなるわけではありません。 もともと慎重な性格の人もいるでしょうし、今抱えている問題が大きくて、嬉しいことに集中できない場合もあるでしょう。 ただ、素直に喜べない自分がいるとき、 「私ってダメだな」 と決めつける前に、 「もしかしたら、何かを心配しているのかな?」 と考えてみてもいいと思うんです。 心配すること自体が悪いわけではありません。 先のことを考えるのは、大切なことでもあります。 ただ、まだ起きていないことを心配するあまり、今起きている嬉しいことまで受け取れなくなっていたら、少しもったいないですよね。 ◆「いいことのあとには悪いことが起きる」と感じるとき 中には、いいことがあると、かえって不安になる人もいます。 「こんなにうまくいくなんて、何か裏があるんじゃない?」 「今はいいけれど、このあと悪いことが起きるかもしれない」 「こんなに幸せで、いいのかな」 せっかく嬉しいことが起きたのに、次に起きるかもしれない悪いことを考えてしまう。 まるで、喜んだ分だけ、あとで何かを失うことになるような感覚です。 でも、嬉しいことが起きたからといって、その埋め合わせに悪いことが起きると決まっているわけではありません。 いいことが続く日もあれば、思いどおりにいかない日もある。 それは、誰にでも起こりうることです。 嬉しいことと、困ったことが、いつも帳尻を合わせるようにやって来るわけではありません。 もちろん、これから先のことを完全に予測することはできません。 楽しみにしていた予定が変更になるかもしれないし、思いがけない問題が起きることもあるでしょう。 でも、それは、今の嬉しい気持ちを我慢しておけば防げるというものでもありません。 まだ起きていないことのために、今の喜びまで小さくしなくてもいいんです。 未来のことは、未来になってから考えればいい。 今、嬉しいことが起きているのなら、その事実をそのまま受け取ってみてもいいと思います。 ## 喜ぶことにも、練習が必要なのかもしれない 私たちは、困ったことが起きたときには、いろいろな対処を考えます。 どうすれば解決できるか。 誰に相談すればいいか。 何を準備しておけばいいか。 そうやって、問題に備えることには慣れているかもしれません。 でも、嬉しいことが起きたときに、どう受け取るか。 そこまで意識する機会は、意外と少ないのではないでしょうか。 何かいいことがあったら、喜べばいい。 楽しめばいい。 頭では分かっていても、長い間、心配することや先回りすることを習慣にしてきた人にとっては、それが簡単ではない場合もあります。 そんなときは、大きく喜ぼうとしなくてもいいんです。 無理にテンションを上げなくてもいい。 「最高に幸せ!」 と思えなくてもいい。 ただ、 「あ、今日はいいことがあったな」 と認めてみる。 それくらいから始めてもいいと思います。 例えば、おいしいものを食べた。 「おいしかったな」 それだけ。 誰かに優しい言葉をかけてもらった。 「嬉しかったな」 それだけ。 楽しみにしていた予定が決まった。 「楽しみだな」 それだけ。 そのあとで心配事が浮かんできても、無理に追い払う必要はありません。 「あ、また心配しているな」 と気づけばいい。 嬉しい気持ちも、心配する気持ちも、同時にあっていいんです。 心配がゼロにならなければ喜んではいけない、という決まりはありませんからね。 ◆嬉しいことを、人と比べなくてもいい もう一つ、素直に喜べなくなる理由として、周りとの比較もあるかもしれません。 自分にとっては嬉しい出来事だった。 でも、周りを見ると、もっとすごいことを成し遂げている人がいる。 自分より恵まれた状況に見える人もいる。 そうすると、 「これくらいで喜んでいていいのかな」 「もっと頑張っている人がいるのに」 と、自分の喜びを小さくしてしまうことがあります。 でも、喜びに順位をつけなくてもいいんです。 大きな成功でなければ喜んではいけない、ということはありません。 誰かにとっては当たり前のことでも、自分にとっては嬉しいことがあります。 ずっと苦手だったことが少しできた。 前より気持ちに余裕ができた。 欲しかったものを買えた。 苦手な人と、今日は穏やかに話せた。 そんなことだって、自分にとっては意味のある出来事です。 他の人と比べて、どちらがすごいかを決める必要はありません。 あなたが嬉しかったのなら、その気持ちには、あなたにとっての理由があります。 誰かに認めてもらわなくてもいい。 大きな成果として説明できなくてもいい。 自分の中で「嬉しいな」と感じたことを、そのまま大切にしていいんです。 ◆喜べない自分を、無理に変えようとしなくていい ここまで読んで、 「そうか、もっと喜べばいいんだね!」 と思った方もいるかもしれません。 でも、私は、無理に喜ぼうとしなくてもいいと思っています。 嬉しいことがあっても、すぐには実感が湧かないこともあります。 頭では嬉しいはずなのに、気持ちが追いつかないこともある。 いろいろな事情が重なって、喜ぶ余裕がないこともあるでしょう。 そんなときに、 「せっかくのことなのに、喜ばなきゃ」 と自分を追い立ててしまったら、今度は喜ぶこと自体が義務になってしまいます。 それでは、ちょっと苦しいですよね。 だから、今は喜べないなら、喜べないままでもいいんです。 ただ、自分の気持ちを否定しなくてもいい。 「嬉しいはずなのに、私は何を心配しているんだろう」 「本当は、どうなることが怖いんだろう」 そんなふうに、少しだけ自分の中を見てみる。 何かが分かるかもしれないし、特に何も分からないかもしれません。 どちらでも構いません。 大切なのは、喜べない自分を責めることではなく、今の自分がどんな気持ちでいるのかを知ることです。 ◆今ある嬉しさを、ほんの少し味わってみる もし今日、何か小さな嬉しいことがあったら。 いつもよりコーヒーがおいしかった。 誰かと楽しく話せた。 気になっていた用事が一つ片づいた。 帰り道の空がきれいだった。 そんな出来事があったなら、ほんの数秒だけ、その気持ちに目を向けてみてください。 「よかったな」 「楽しかったな」 「ちょっと得した気分だな」 それだけでもいい。 そのあとで、またいつもの心配事を考え始めても構いません。 ずっと幸せな気分でいなければいけないわけではないし、心配をしない人になる必要もありません。 ただ、嬉しいことが起きたときに、その喜びを受け取る時間が少しあってもいい。 未来の心配をする時間も必要かもしれない。 反省したり、準備したりすることも大切でしょう。 でも、今ここにある嬉しさを味わう時間も、同じようにあっていいんです。 ◆自分の気持ちを、誰かと話してみる もし、いいことがあっても不安になってしまう。 嬉しいはずなのに、なぜか心から喜べない。 そんな自分に戸惑っているなら、誰かに話してみるのも一つの方法です。 「こんなことがあったんです。でも、素直に喜べなくて……」 そんな話から始めても大丈夫。 嬉しいことだからといって、明るく話さなければいけないわけではありません。 途中で不安になってもいいし、自分でも矛盾していると感じる気持ちを、そのまま話してもいい。 話しているうちに、 「私は、またがっかりするのが怖かったんだな」 と気づくこともあるかもしれません。 あるいは、 「最近ずっと余裕がなかったから、嬉しいことがあっても実感できなかったのかも」 と思うこともあるでしょう。 もちろん、必ず理由が見つかるとは限りません。 でも、自分の気持ちを言葉にしてみることで、少し見え方が変わることがあります。 私は、どんな気持ちにも、最初から正解や不正解をつける必要はないと思っています。 喜べる自分にならなければいけないわけでも、いつも前向きでいなければいけないわけでもありません。 嬉しい日には嬉しいと感じていい。 不安な日には不安だと感じていい。 両方の気持ちがあるなら、両方あっていい。 それが、今のあなたの気持ちなのですから。 せっかくの嬉しい出来事。 もし心のどこかに心配が残っていても、その嬉しさまで手放さなくていいんです。 「この先どうなるかは分からない。でも、今は嬉しい」 そんなふうに、二つの気持ちを並べておくこともできます。 未来を全部安心できるものにしてから喜ぶのではなく、分からないことは分からないまま、今ある喜びを少しだけ味わってみる。 そんな時間が、これから少しずつ増えていったらいいですね。

受賞歴・執筆歴・講演歴

  • 執筆

    今ここを呼ぶ幸せマインド 2024年8月

  • 執筆

    心を整えるセルフケア 2024年8月

  • 執筆

    天国の母からの贈り物 2024年6月

評価

by 匿名

19時間前

悩み相談・カウンセリング > 話し相手・愚痴聞き相談

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気持ちが下がったときに、どう過ごすのかがとても難しいです。主治医に言われるように、ベッドで寝るしかないのかなど今のところは思っています。気分の変動はなかなか大変です。ありがとうございました。
みのり|笑顔と癒しのほっとカフェ✿
この度はお電話ありがとうございました(´︶`) お気持ちが下がったときは それだけでもしんどいですよね。 「何とかしなきゃ」と思うほど、 どう過ごせばいいか分からなくなることもあると思うんです。 ...
みのり|笑顔と癒しのほっとカフェ✿
このたびはお電話をいただき、 そして嬉しい評価までありがとうございます(´꒳`) お話を伺いながら、 ご自宅でできそうなことを一緒にいくつか考えてみましたが、 「これ!」というものには、なかなか出会...
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このたびは お電話ありがとうございました(´꒳`) うれしい評価もいただき、励みになります♪ 今まさに起きている出来事で 頭も心もいっぱいだと思います。 そんな中 丁寧にお気持ちを聞かせていただき...

by 匿名

7日前

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あまり部屋干しに詳しくなかったので、質問させていただきました。洗濯はわりと好きなので、楽しくできればいいなと思っています。ありがとうございました。
みのり|笑顔と癒しのほっとカフェ✿
本日はお電話ありがとうございました٩(*´︶`*)۶ 部屋干し、すっきり乾かしたいですよね。 なかなか渇ききらない感じがする、 とのことでしたが、すでに ご自身でできることはされていらしたので、 そ...

by 匿名

15日前

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足のけがをしたり、引っ越しをしたりと、ここ1ヶ月ちょっとの間に、たくさんの大きな事がありました。最近は生活がどんどん落ち着いてきていて、穏やかな毎日を過ごすことができています。これから先も平穏な日々を...
みのり|笑顔と癒しのほっとカフェ✿
本日はお電話ありがとうございました(*^-^*) 本当に短い期間の間に たくさんのことが起きましたよね。 お話を聴いていて、出来事が次から次へとでてくるので びっくりしました。 でも、お声に辛さや...

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