雑談から深い悩みまで幅広い共感が得意です
■認知症介護、病気介護、介護ストレス
■人間関係(家族、職場、地域、親戚)
■ 子育て、不登校、引きこもり
■不倫、恋愛
■夫婦、離婚、別居、
■吃音症、家族の病気
■将来の不安、悩み、焦り
■愚痴、不平不満、ストレスお悩み相談
■Kindle作業の孤独や凹みサポート
7月15日 (水) 〜25時までいつでも話せ...
はじめまして!みのりです♪

言葉にすることで心が軽くなる♪コーヒー片手にお話ししませんか

介護に疲れたあなたを癒します。言葉に出すことで心が軽くなる!

第2の人生をより良くするためには習慣化力が大切です(^^♪

寝る前にイライラもモヤモヤも解消!スッキリして素敵な睡眠を!

話してスッキリ。心が軽くなって笑顔がやってくる。

母娘

「えー、それ、びっくり!」を聞かせてください。
ライフスタイル・その他 / マッサージ師・セラピスト 経験年数 : 2年
ライフスタイル・その他 / カウンセラー・コーチ 経験年数 : 3年
ライフスタイル・その他 / その他 経験年数 : 18年
Google ドキュメント 経験年数 : 3年
Word 経験年数 : 2年
ChatGPT 経験年数 : 2年
Canva 経験年数 : 3年
ペライチ 経験年数 : 2年
18年介護職で磨いた寄り添い力 経験年数:18年
お母さん歴 経験年数:29年
・雑談から深い悩みまで幅広い共感が得意です
▶今日、こんなことがあったよ(嬉しいことも、嫌なことも) ▶ストレスMAX、イライラ爆発、おさまらない気持ち ▶将来のことを考えると眠れない ▶スキマ時間に、ちょっとだけ話したい ▶一人でちょっと寂しいから誰かと繋がりたい ▶他人だからこそ遠慮なく話せる話 ▶こんなこと、言ってもいいのかな… ▶クーポン利用もお気軽に なんでもお話しください。圧倒的包容力でスタンバイ中(^o^)
・■認知症介護、病気介護、介護ストレス
▶軽度認知症から重度認知症まで悩みに寄り添います ▶つらく当たったり、力任せに介護して、後から後悔がでるとき ▶介護ストレス、誰にも話せない、理解してもらえない ▶罪悪感や孤独感、いつまで続くのかという不安 介護職18年、ケアマネ3年、両親の介護と看取りを経験しました。 家族目線とプロ目線でお話しお聞きします。 どんな気持ちもあなたの優しさが根っこにあるから。 安心しに来てください。
・■人間関係(家族、職場、地域、親戚)
ミドル女性は母、娘、妻、嫁など 役割か多くて、その分人間関係が多岐に渡ります。 職場の人間関係につまずいて吃音症になったことや、 夫の不倫が原因で離婚したことで心が病んだ経験があります。 でもそのおかげで、対人スキルが高くなりました(笑)。 人間関係に悩まれている方は繊細な方が多いです。 私の人生経験の全てを使って、あなたの心を軽くします。 心を軽くして人生も軽くしましょう♪
・■ 子育て、不登校、引きこもり
3人の子供を育ててきました。 いじめられていることにに気づかなかった、 心配し過ぎて子どものつらさを長引かせた、 などいろんな失敗をしてきました(^_^;)。 でもその分、あなたのお役に立てると思っています。 心配のし過ぎは良くないものの 母親なら心配するのも仕方ないと思うんです。 母としての苦痛や葛藤、頭では分かっていてもできない苦しみ。 そんな感情や気分転換に寄り添います。
・■不倫、恋愛
夫の不倫からの離婚を経験しました。 不倫してる側、された側の 両方の痛みを受け止めます。 どんな想いも否定しません。 すべては自分の中から湧き上がる自然な想い。 一緒に泣いて笑って人生のスパイスにしていけたら。 言葉にすることで見えてくる感情もあるはずです。 感情を限定せずに心を開放していけるよう 寄り添ってお話聞きます。 あなたはあなたのままでいいんです(´▽`*)
・■夫婦、離婚、別居、
私自身は子供が小さいころに離婚していますが、 日々悩み苦しんできたことを生かして悩みに寄り添います。 ▶結婚ウン十年。会話がない ▶お互いの不満。言えないままチリが積もって心が限界 ▶今さら離婚しても…どうすればいい? 状況はお一人お一人違うもの。あなたの味方になります。 あなたの応援団長になって100%味方になります。 どんな選択でも自信を持って人生を送れるようにエールを送ります!
・■吃音症、家族の病気
一時的ではありましたが、人間関係につまずいて強いストレスから吃音症になった経験があります。また、母親の大腸がん。子どもの躁鬱。家族の病気もまるで自分のことのように苦しんで、空回りしたことも。そんな辛さも失敗も私の人生の宝です。その経験であなたの今の苦しい気持ちに全力で寄り添います。否定されない安心安全の居場所を用意して待っています(*´▽`*) まずは、ほっとしに来てくださいね♪
・■将来の不安、悩み、焦り
将来のことは分からないからこそモヤモヤするんですよね。 言葉にして、吐き出すことで整理できます。 ▶何にモヤモヤしているか ▶何に取り組むか ▶何を手放すか 分かると安心できます。 一緒に探します ▶何かしたいけど、やりたいことが無い ▶やりたいことが分からない ▶気になっているけど誰にも言えない そんなあなたの心に寄り添って 変わるための小さな一歩をお手伝いします。
・■愚痴、不平不満、ストレスお悩み相談
どんな感情もどんな思考も、宝物。 ダメだ、イヤだと否定しないで、 じっくり向き合ってみませんか? そのままにしないで言葉にすること、 吐き出すことで、離れて 冷静に 見ることができるようになります。 そこから、 本当はどう感じていたのか、 どうしたいのかが見えてきます。 「納得」と「安心」が感じられたら それがあなたの答えです(^-^) スッキリしに来て下さいネ!
・■Kindle作業の孤独や凹みサポート
Amazonで誰でも無料で自分の本を出版できる時代。 あなたも出版しようとしている一人ではないですか? とはいえ、Kindle出版は孤独な作業です。 凹みや中だるみ、やる気ダダ下がり期も必ず襲ってきます(笑)。 個人で6冊、共同出版で5冊出した私があなたの孤独に寄り添います。 愚痴や悩み、進捗、何でも聞きます。 出版サポートはしておりませんが、出版まで応援します。フレーフレー
介護福祉士 取得年 : 2015年
ケアマネジャー(介護支援専門員) 取得年 : 2015年
ホームヘルパー2級 取得年 : 2009年
みのり|みちのく✿癒しのほっとカフェ 2008年6月 〜 2015年10月
・誕生から結婚するまでの独身時代 2008年6月 〜 2008年6月
※匿名・年齢非公開のため期間は変えて掲載しています(*´▽`*) ご理解いただけますと嬉しいです。 はじめまして、みのりです。 ココナラを始めるきっかけになった人生の試練や壁は、 ほとんが離婚をしてからなんです。 生まれた時からのことを思い出しながら書いていますので 離婚場面になるまでは(笑)、昭和の景色や温度感をお楽しみくださいヾ(≧▽≦)ノ とはいえ、幼少期の出来事や家族関係から育ってきた性格や性質も あるようですので、そのあたりも自分を振り返りながら書かせていただきました♡ ┄▸◂┄▹◃┄▸◂┄▹◃┄┄▸◂┄ 私は家族の中では記憶が少ないほうなんです。 兄妹から「そんなことも覚えていないの?」と笑われることもありますが、それでも思い返してみると、心に残っている風景がやっぱり出てくるものですね。 夕方、自転車の後ろに乗って保育園から帰った道。どこからともなく漂ってくる夕飯の匂い。冬の寒い日に買ってくれた温かい肉まんを母の背中を見ながら食べた優しい記憶。そして家族みんなで過ごした何気ない毎日。 幼い頃は当たり前だったその景色が、大人になった今では、どれも大切な宝物のように感じられます。 私は東北地方のある町で生まれました。 共働きの両親、三歳年上の兄、父方の祖父母と一緒に暮らす六人家族です。その後、妹が生まれ、七人家族になりました。 祖父は定年退職後も仕事を続け、父と母も毎日仕事へ出かけていました。祖母は家を守り、家族の食事や家事を担っていました。 今では核家族が増えましたが、当時は三世代同居が珍しくない時代だったんですね。近所にも同じような家庭が多かったです。 幼い頃は家の周りに田んぼや畑がたくさん広がっていました。私が小学生になる頃には少しずつ埋め立てが始まり、住宅が建ち並ぶようになっていきました。 今ではすっかり住宅地になっていますが、私が幼い頃はまだ工事の途中で、積み上げられた土の山に登って遊んだり、重ねられた土管で遊んだことも楽しい思い出です。 子どもにとっては工事現場さえも遊び場だった、そんな時代です。 近所同士のつながりも今よりずっと濃く、町内の子どもたちの名前や顔は、ほとんどの大人が知っていました。 子どもの頃と大人になってから、大きな地震を二度経験しました。 当時の家は今ほど耐震性が高くなく、壁が崩れたり、ブロック塀が倒れたりする様子を目の当たりにしました。何が起きたのか分からなくても、大人たちが慌ただしく動く姿だけは今でも覚えています。 ┄▸◂┄▹◃┄▸◂┄▹◃┄┄▸◂┄ 父は、とても穏やかな人で、思い返してみても、本気で怒られた記憶がほとんどありません。 兄妹げんかをした時に一度だけお尻を叩かれたことがありますが、それ以外は記憶にないんですよね。 ありがたかったと大人になってから思いました。 なんせ、私は子どもに怒ってばかりでしたので…(^_^;) 母親が間に入る分、父親は怒ることをしないで済むのかもしれないですね。 それはそれでズルいかも(笑)。 何でも器用にこなす父は、少年野球の監督をしたり、ソフトボールを楽しんだり、卓球を教えてくれたり、ボウリングにも連れて行ってくれました。 地域活動にも積極的で、小学校のPTA活動にも参加し、近所の人からも頼りにされる存在でした。 子どもだった私は、それが特別なことだとは思っていませんでしたが、今振り返ると、仕事をしながら地域活動にも関わり、子どもとの時間も大切にしてくれたということは、本当に忙しかっただろうなーと思います。 そんな父との思い出の一つが、お風呂です。 父の職場には家族も利用できる大きなお風呂があり、連れて行ってもらうことが度々ありました。 兄や妹と一緒に広い湯船へ入り、家のお風呂とは違う開放感にわくわくしたことを今でも覚えています。 また、近所にあったたこ焼き屋さんやホルモン焼き屋さんへ「今日、食べに行こうか」と父が連れて行ってくれることもありました。それほど高価な外食ではありません。 でも子どもにとっては特別なイベントだったんです。 兄妹で今でも話題になるくらい、大切な思い出です。 ┄▸◂┄▹◃┄▸◂┄▹◃┄┄▸◂┄ 母は父とはまた違う魅力を持った人でした。 とにかく明るく、歌が上手で、行動力があり、「やってみたい」と思ったことには迷わず挑戦する人でした。 その姿を見ながら育った私は、気づけば母によく似た性格に(笑)。 新しいことに興味を持ち、まずは挑戦してみる。失敗してもまたやってみる。 そんな考え方は、きっと母から受け継いだものなのだと思います。 何よりも印象に残っているのは、母はいつでも私を応援してくれたことです。 周りから「やめておいた方がいいんじゃない?」と言われるようなことでも、母だけは「頑張ってみたらいいよ」と背中を押してくれました。 私からの願い事を断られた記憶もほとんどありません。 否定されることなく、「応援しているよ」と言ってもらえたことは、子供時代の私にとって何よりの安心感でした。 これが、今の私が、目の前の人を否定しない、全力で応援する、という気持ちを大切にしている原点の気がしています。 ┄▸◂┄▹◃┄▸◂┄▹◃┄┄▸◂┄ 祖父との思い出は、決して派手なものではありません。 でも、一緒に暮らしているというだけで安心感があり、家にはいつも祖父の存在がありました。 私は現在、介護の仕事に携わっています。 体力的には大変な仕事ですが、不思議と「向いていない」と思ったことは一度もありません。 むしろ、お年寄りと話をすることが好きで、昔話を聞いたり、笑顔になってもらえたりすると、とても嬉しい気持ちになります。 なぜこんなにも高齢者と接することが好きなのだろうと考えた時、自然と思い浮かぶのが祖父との時間です。 一緒に暮らし、お年寄りが身近にいる生活が当たり前だったからこそ、年齢を重ねた方への抵抗感が全くありませんでした。 祖父が年を重ねてからは、当時まだ高校生だった私も自然と身の回りのお世話をしていました。 その頃は「介護」という言葉は今ほど一般的ではなく、「お世話をする」という感覚でしたが、その経験が今の仕事につながっているのだと思います。 一方で、祖母との関係は少し違いました。 祖母はいわゆる「厳しい人」で、母は嫁姑関係にとても苦労していました。 当時は今以上に嫁姑の関係が複雑だった時代です。 近所でも有名な「意地悪ばあさん」で、子どもだった私にも、母が毎日つらい思いをしていることは伝わってきました。 私自身も祖母に特別甘えた記憶はなく、いつも母の味方をしていたからように思います。 幼いながらに「お母さんがかわいそう」という気持ちが強く、家族みんなで母を支えていたような記憶があります。 戦争で両親を亡くしていた母には帰る実家がなく、どんなに辛くても、そこにいる以外の選択肢はなかったのです。それを知っているから、娘としても母の盾になるべく祖母と喧嘩ばかりしていた気がします。 でも不思議なことに、大人になって振り返ると、その経験が家族の絆をより強くしてくれたようにも感じています。 祖母という存在がいたからこそ、家族が一致団結できた部分もあったのかもしれません。 ラスボスが強いほど、みんなの団結を強めて戦っていく、そんなゲームありますよね?(^^♪ そのラスボスばあさんの話も、今では「あの頃はいろいろあったね」と笑いながら話せる思い出になっています。 もし今、嫁姑関係で悩んでいる方がいたら、「一人で抱え込まなくていいよ」と伝えたくなります。 誰かに話すだけでも、心は少し軽くなるものです。 兄妹との関係も、年齢とともに少しずつ変わっていきました。 三歳年上の兄とは、小さい頃から一緒に遊ぶことが多く、自然と兄と過ごす時間が長くなりました。 一方で妹とは年齢が離れていたため、本当に仲が深まったのは大人になってからです。 お互いに結婚し、子どもが生まれてからは、姉妹として話す時間も増えました。 同じように子育てを経験したからこそ分かり合えることも多く、今ではとても心強い存在です。 私自身も三人の子どもを育てましたが、娘からは「女きょうだいが欲しかった」と言われることが何度もあります。その気持ちもよく分かります。 私自身、妹がいることで助けられたことがたくさんあるからです。でも、兄弟の数や女か男かというのは大人の事情もあるし、どうにも出来ない事でもあるから、子供に何と言われようと仕方ないですよね(^_^;) さて、幼い頃の思い出として、一番心に残っている場所は保育園です。 両親が共働きだったため、兄妹三人とも保育園で育ちました。 兄と一緒に通った時期もあれば、一人で通った時期もあります。 雨の日以外は、母の自転車の後ろに乗って帰ることが多くありました。 夕方になると、住宅街のあちこちから夕飯を作る匂いが漂ってきます。 「今日はカレーかな。」 「お魚の匂いがするね。」 そんな何気ない会話を母と交わしながら帰る時間が、とても好きでした。 冬になると、母が肉まんを買ってくれることもありました。 冷え切った手を温めながら食べる肉まんは、子どもの私にとって何よりのごちそうでした。 今でも冬になると、その頃のことを思い出します。 保育園で特に嬉しかった思い出があります。 それは、お昼寝の時間に迎えが来る日です。 みんなが眠っている中、先生が小さな声で「お母さんがお迎えに来たよ」と教えてくれます。 そっと荷物を持って教室を出る、あの特別感。 子どもながらに「今日は特別な日だ!」という気持ちで胸がいっぱいになりました。 今でも思い出すと、自然と笑顔になります。 家では兄と並んで寝ていました。 寝る前になると、二人だけの空想遊びが始まります。 枕の下には秘密の冷蔵庫があるという設定です。 「今日はケーキが入ってるよ。」 「私はアイスを見つけた。」 「交換しよう。」 もちろん本当の冷蔵庫ではありません。 全部、子どもらしい想像の世界です。 それでも、その時間は本当に楽しく、何十年経った今でも忘れられない思い出になっています。 おやつも今ほど種類が豊富な時代ではありませんでした。 祖母が買ってきてくれるお菓子は、おせんべいやかりんとう、落雁など、どちらかというと昔ながらのものばかり。 七人家族だったので、一人でたくさん食べられるわけではありません。 子どもの頃の私の小さな夢は、「いつかおせんべいを一袋全部一人で食べてみたい。」ということでした。 今思えば、とてもかわいらしい願いです。 そんな何気ない毎日を積み重ねながら、私は育ってきました。 幼い頃には気づきませんでしたが、大人になり、親になり、介護の仕事に就いた今だからこそ分かることがあります。 両親が共働きを続けながら子どもを育ててくれたこと。 母が十五年間、子どもたちを保育園へ送り迎えしていたこと。 父が忙しい中でも家族との時間を大切にしてくれていたこと。 祖父母と暮らしたからこそ、お年寄りが身近な存在になったこと。 そして、家族にはさまざまな出来事があっても、お互いを思いやる気持ちが私の土台になっていること。 幼い頃の記憶は決して多くありません。 それでも心に残っている温かな景色は、今の私をつくる大切な原点です。 これからも、人の話に耳を傾け、誰かの気持ちに寄り添える人でありたい。 そう思えるのは、あの頃の家族との日々があったからなのだと思います。
・周りに抜かされる挫折をまだ知らないイケイケ小学生時代から大人になるまで 2009年4月 〜 2009年4月
※匿名・年齢非公開のため期間は変えて掲載しています(*´▽`*) ご理解いただけますと嬉しいです。 ✼••┈┈┈┈•• 私の小学校時代は体格もまあまあ良くて、 中学高校で、どんどん周りの生徒に 運動能力を超えられていく挫折をまだ知らない(笑)、 自信たっぷりの小学生でした。 小学生時代は、身長と体重の1年の差は大きく、 学年で早い時期の誕生日の子どもは、 早生まれ(1,2,3月)の子どもより 大きいことがよくありますよね。 私もまさしくそれでした。 6月生まれだったので 体はわりと大きい方だったんです。 運動会での徒競走。 テストの点数。 音楽会での物覚えの速さ。 先生に褒められることも多く、 人生を謳歌していたかも?ヾ(≧▽≦)ノ と思えるような小学生時代でした。 縄跳び授業では家での猛練習の甲斐もあって 全児童の前でお披露目したこともあったんですよ(ピース) そんなわけでしたから、 中学高校で、運動音痴が表に顔を出し始めるのですが 小学生のころは、そんな時代が来るなんて 夢にも思わなかったですね(^_^;) 今では小学校のまわりはほとんど住宅になっていますが、 当時はまだまだ田んぼが多くありました。 バッタを取ったり、トンボをとったり。 カエルやおたまじゃくしも、よく見ました。 怖くて捕まえることはしなかったものの、 カマキリも田んぼではよく見かけました。 夏休みには小学校の校庭で盆踊りや花火大会がありました。 町内会ごとに出店を出して賑やかにやっていたんですよ。 時代だと思いますが、おそらくその当時 協賛金がそこそこ集まったんでしょうね。 毎年夏まつりには打ち上げ花火を景気よく上げていましたね。 「私も子どもの頃そんな感じだったよ~」という方! きっと私と同じ年代です(笑)。 ✼••┈┈┈┈•• 自営業の家だといろんなエピソードがあるかもしれませんが 我が家は地方公務員の家庭。 フツーの家庭でフツーに生活してきました。 そんな「フツーで、ちょっと自信満々」だった私の前に、 最初の大きな壁が立ちはだかったのが、中学校への進学でした。 昭和のエネルギーがまだ満ちていたあの頃。 制服に身を包み、少し大人に近づいたような 誇らしい気持ちで通い始めた中学校でしたが、 そこで待っていたのは、 小学生時代の「生まれ月貯金」が全く通用しない「厳しい現実」でした。 まず直面したのが、あんなに自信のあった運動能力の崩壊です。 中学校に入ると、周りの友達の成長スピードは凄まじいものでした。 早生まれだった子がグングン背を伸ばし、 体格も体力も、あっという間に追い抜かれていく。 小学校の頃は体格の良さでカバーできていたものの、 だんだんと自分の「運動音痴」な部分が隠せなくなってきました。 体育の時間、周りの友達がスマートにこなしていく中で、 自分の体は思うように動かない。 「あれ? おかしいな」と思っているうちに、 走るのも球技をするのも、すっかりクラスの後方グループが定位置になっていきました。 そんな自覚もあり、中学校では運動部ではなく文化部を選びました。 昭和の部活動といえば、運動部が学校のヒエラルキーの中心にいて、 夕方のグラウンドや体育館から響く大きな掛け声が主役だった時代です。 そんな熱気あふれる運動部の友達をどこか眩しく、 遠い存在のように眺めながら、文化部の静かな教室で過ごしていた私。 徒競走でいつも真ん中より後ろを走るようになった時や、 華やかな運動部の輪に入れない自分を意識した時、 「ああ、私は特別でも何でもない、ただのフツーの人間なんだ」と、 胸がチクッと痛むような切ない挫折感を味わいました。 勉強の面でも同じでした。 小学校の頃は授業を聞いているだけでそれなりの点数が取れていたのに、 中学校の定期テストが始まると、範囲の広さと難しさに圧倒されました。 教室の後ろに張り出される成績の順位。 トップ層の華やかな顔ぶれを遠くから眺めながら、 「私は何をやってもフツー、いや、フツー以下かもしれない……」と、 それまで持っていた根拠のない自信は、見る影もなくパサパサに崩れ去っていきました。 あのイケイケだった小学生時代の私はどこへ行ってしまったんだろう。 学校の帰り道、夕日に照らされる自分の影を見つめながら、 何とも言えない劣等感と焦りに押しつぶされそうになっていたのを覚えています。 しかし、この「学校の主役になれない」という挫折が、 後々、私の人生に新しい視点をくれるきっかけになりました。 ✼••┈┈┈┈•• 高校生になる頃には、私はすっかり「目立たない、フツーの生徒」 としての立ち位置を受け入れるようになっていました。 私が覚えている当時の雰囲気は華やか組と地味組の線引き。 さらには運動部と文化部の線引きが暗黙の了解であったことです。 もちろん、私は最初は地味組確定でした。 そんな中で、中学校では文化部だった私が、高校では何をトチ狂ったのか(笑)、 あんなに苦手意識のあった「運動部」に飛び込んだのです。 理由はあるスポーツ漫画に感動を受けたから。単純です(^_^;) 運動音痴なのに。 当然、周りは経験者や運動神経の良い子ばかり。 私は最初から最後まで、ずーっと「下手くそで、びりっけつ」でした。 後から聞いた話ですが、先輩たちの間では 「あの子が一番先に辞めるよね」と噂されていたそうです。 それくらい、私の運動音痴ぶりは目立っていましたし、 周りの経験者のスピードについていくのが精一杯でした。 指の関節を骨折したり、足が疲労骨折になりながらも、 事あるごとに漫画をよんでは自分を励ましていました。 もちろん今でもその漫画本は大切に取ってありますヾ(≧▽≦)ノ ホント、不思議と辞めなかったんですよね。 正直、なぜあんなに辛くて下手くそだったのに続けられたのか、 明確な理由は今でも覚えていません。 意地だったのか、それとも不器用なりにその場所が好きだったのか……。 ただ、びりっけつでも、笑われても、「自分で決めたことを途中で投げ出す」 ということだけはしたくなかったのかもしれません。 華やかな主役として活躍することは一度もありませんでした。 でも、この「下手くそでも諦めずに最後までやり抜いた」という経験が、 私の中にひとつの太い芯を作ってくれました。 そしてこの部活動の時間が、私の人生に新しい視点をくれるきっかけになります。 激しい練習の合間や、部活帰りの暗くなった駐輪場で、 友達とぽつりぽつりと悩みを打ち明け合う時間がありました。 進路のこと、親との衝突、友達関係の小さなすれ違い、そして部活内での焦り。 十代の多感な時期、誰もが心の中に「言葉にできないモヤモヤ」を抱えていました。 私はただ、「うん、うん」と静かに話を聞いていました。 気の利いたアドバイスなんてできません。 でも、自分自身がびりっけつで苦労していたからこそ、 相手の「上手くいかない悔しさ」や「焦る気持ち」を否定せず、 ただその子の気持ちが少しでも軽くなればいいなと思って、そばにいて耳を傾け続けました。 話し終えた友達が、 「なんか、みのりに話したらスッキリした。聞いてくれてありがとうね」と、 少し晴れやかな笑顔を見せてくれたとき、私の胸の奥がじんわりと温かくなりました。 その時、ハッと気づいたのです。 「主役になれなくても、びりっけつの痛みが分かる私だからこそ、 誰かの話をじっくり聞いて、その人の心をそっと支える側になれるかもしれない」 それからというもの、なぜか私の周りには、 ポツリポツリと悩みを打ち明けにくる友達が集まるようになりました。 お弁当を食べながら、あるいは部活帰りの暗くなった駐輪場で、 色んな子の「誰にも言えない本音」を預かりました。 みんな、クラスの前では明るく振る舞っているけれど、 一歩裏に入れば傷ついたり悩んだりしている。 そんなみんなの素の表情に触れるたび、 私は「人間って不思議だな、面白いな」と感じるようになっていったのです。 華やかなスポットライトは当たらないけれど、 放課後の静かな教室や、夕暮れの帰り道という私の「小さな居場所」が、 とても心地よく、誇らしく思えました。 一番になれなかった挫折や、 文化部で周りをじっくり観察していた時間があったからこそ、 私は「完璧じゃなくて、不器用にもがいている人の気持ち」に、 誰よりも敏感に寄り添えるようになっていたんだと今思うのです。 イケイケだった小学生時代。 現実を知って足元がグラグラ揺れた中学校の挫折と、文化部での静かな時間。 そして、誰かの聞き役としての自分の価値を見出していった高校時代。 この多感な時期の経験が、今の私の大きな土台になっています。 もし私が、あのまま何でも器用にこなせる「イケイケ」のままで大人になっていたら、 きっと今、悩んでいる方の痛みを本当の意味で理解することはできなかったと思います。 自分がフツーであることの苦しさや、周りと比べて焦る気持ちを、 身をもって知ったからこそ、私は今、あなたの前に立てているのだと感じています。 人生は、思い通りにいかないことの連続です。 でも、スポットライトが当たる場所だけが人生ではありません。 今、周りと比べて「自分なんてフツーだ」「何をやってもうまくいかない」と孤独を感じているあなたへ。 あの頃、放課後の教室で友達の言葉をただ静かに受け止めていた時のように、 私はいつでもここで、あなたの味方になってお話を聞く準備をしています
・短大時代/どんな人とも心が通い合う楽しさと、誰からも信頼される接客の原点 2010年4月 〜 2010年4月
※匿名・年齢非公開のため期間は変えて掲載しています(*´▽`*) ご理解いただけますと嬉しいです。 ✼••┈┈┈┈•• 短大への進学は、私の世界をぐっと広げてくれました。 それまでの狭い学校という世界、決められた通学路から飛び出し、社会という大きな海に片足を踏み入れたような、そんなワクワクした高揚感と少しの緊張感で満ちていた時代です。 高校時代は運動部で「びりっけつでも諦めずに最後までやり抜く」という粘り強さを身につけ、同時に人の心に寄り添うことの大切さを少しずつ学び始めていた私でしたが、 この短大時代に経験したアルバイトこそが、現在私が営んでいる「人と関わり、心に寄り添う仕事」の明確な原点となりました。 社会に出て、全く見知らぬ人たちと関わる中で、私は自分の中に眠っていた「ある強み」に気づいていくことになります。 ■活気あふれる洋食屋さんでの日々 私が最初にアルバイトとして働き始めたのは、地元で古くから愛されている、とても活気のある洋食屋さんでした。 そのお店は、お昼時ともなれば近所のサラリーマンやOLさん、休日に訪れる家族連れでごった返す、地域の一番店のような場所でした。 厨房からは、ジューというお肉の焼ける小気味よい音や、香ばしいデミグラスソースの匂い、甘酸っぱいケチャップの香りが常に漂ってきます。 メニューは、常連さんがこぞって頼むボリューム満点のピラフや、鉄板に乗ったアツアツのスパゲッティ、サクサクの衣をまとった大きなエビフライなど、どれも懐かしくてホッとする美味しさのものばかり。特にランチタイムは大人気だったため、店内は戦場のような忙しさでした。 さらに、そのお店は店内での飲食だけでなく、近所への「出前」も盛んに行っていました。 まだ今のように便利なフードデリバリーのサービスなどない時代です。お店の電話がリンリンと鳴り響くと、注文をメモして厨房へ伝え、出来上がった料理を大きなお皿にラップをピシッと張って、配達をします。 「みのりちゃん、これ〇〇会社に届けて!」と声がかかれば、「はい!」と元気よく返事をして、ラップに包んだ大きなお皿を抱えて運んでいきました。 夏の暑い日も、冬の凍えるような風が吹く日も、重いお皿を抱えて歩くのはなかなかの重労働でしたが、高校時代の運動部で培ったタフさがあったおかげで、へこたれることなく元気に働くことができました。 ■老若男女、どんなお客様とも心が通い合う瞬間 この洋食屋さんでの毎日は、私に「老若男女、どんな人とでも笑顔で心が通い合う楽しさ」を教えてくれる、学びの場となりました。 お店のドアが開くたびに、「いらっしゃいませ!」と声をかけるのですが、そこに来られるお客様の背景は本当に様々です。 短い休憩時間の中で急いで食事を済ませようとバタバタしているビジネスパーソン、小さなお子さんの手を引きながら少し慌ただしくスプーンを動かしているお母さん、そして、いつも決まった席に座って静かにコーヒーを飲む、少し気難しそうな表情のご年配の常連さん。 高校時代に「一歩引いた場所から周りをじっくり観察する力」を身につけていた私は、自然に目の前の人の状態を五感で察知して、自然と体が動くようになっていたのです。 例えば、時間に追われている様子のサラリーマンの方には、お水や伝票を渡すタイミングをワンテンポ早くしてテキパキと対応する。小さなお子さん連れの方には、「取り皿は使われますか?」と先回りして声をかけ、少しでも落ち着いて食べられるような空気を作る。 そして、いつも少し難しい顔をして入ってくるご年配のお客様には、意識的に笑顔を出してゆっくりとお茶を差し出す。 そんな風に、一人ひとりの「その瞬間の気持ち」にアンテナを立てて丁寧な関わりを続けていると、 最初は声をかけても無表情だったおじいちゃんが、ある日、帰り際に私の顔を見てフッと優しい笑顔を見せてくれるようになったり、「いつも、ありがとうね」と、出前の先で温かい言葉をかけてもらえるようになったり。 年齢や立場、その時の機嫌に関係なく、こちらが目の前の相手を一人の大切な人間として尊重し、心を込めて接すれば、必ず相手からも温かい気持ちが返ってくる。 この時に得た強い実感と成功体験が、私の中に「私は接客業が好きだし、もしかしたら得意かもしれない」という、人生における確固たる自信を育ててくれたのです。 どんな相手であっても物怖じせず、その人の懐に入っていけるコミュニケーションの素地は、間違いなくこのお店のカウンター越しや、出前先での短い会話の中で育まれました。 ■厨房の奥で輝いていた、大人のシェフへの秘めた恋 そして実は、この活気あふれる洋食屋さんでの思い出には、私の「大人になってからの、切なくも美しい片思い(笑)」の記憶が重なっています。 子供時代の恋といえば、小学校や中学校の頃、クラスの人気の男の子を指して、同じ人を好きな友達同士で「あの子かっこいいよね!」「今日目が合っちゃった!」などと、陰できゃいきゃいと騒ぎ合うような、無邪気で可愛らしいものがすべてでした。 しかし、この短大という大人と子供の境界線のような時期に私が経験したのは、誰にも言わず、胸の奥にそっとしまっていた恋でした。 お相手は、お店の厨房の奥で、黙々とフライパンを振り、美味しい料理を作り出していた大人のシェフでした。 世間一般で言うような、誰もが振り返るような華やかなイケメンというわけでは決してありませんでしたが(笑)、でも、とにかく自分の仕事に対してどこまでも誠実で、妥協がなく、そして何より周りのスタッフへの気配りが本当に細やかで、芯から優しい人だったのです。 ランチタイムのピーク時、オーダーが滝のように押し寄せて、ホールも厨房もパニックになりそうな時、私が忙しさに追われてミスをしそうになったり、焦って顔をこわばらせていたりすると、彼は絶妙なタイミングで私の様子に気づいてくれました。 怒鳴ったり責めたりするようなことは一切せず、「みのりちゃん、落ち着いてな。無理すんなよ」と、低く温かい声でそっと言葉をかけてくれるのです。 その調理場の熱気の中で響く優しい声や、忙しい中でも絶やさない周囲への配慮の眼差しに、私は気づけば惹かれていました。純粋な短大生でこのシチュエーション。絵にかいたようなベタなストーリーかもしれませんけれど(^_^;)。 もちろん、その方はすでに家庭を持たれている既婚者でしたから、完全な片思いでした。初めから展開無しが確定の想いでしたが、 その気持ちが仕事を頑張るモチベーションでもありました。 実ることは絶対にないと最初から分かっているからこそ、胸の奥の引き出しにそっと仕舞い込んでいた秘めた恋。切なくて、少し苦しい瞬間もありましたが、でも、その人を想う温かい気持ちがあったからこそ、毎日の大変な仕事も、出前の重いお皿も、足の痛みも、不思議とずっと満面の笑顔で乗り越えられたのだと思います。 今振り返っても、あの厨房のオレンジ色のライトの光とともに思い出すその記憶は、私の独身時代を彩る、切なくもどこか愛おしい特別な1ページです。 ■母親の口から聞いた、店長さんからの最高の勲章 そんな風に、恋も仕事も、自分の持てるエネルギーのすべてを注ぎ込んで駆け抜けた短大時代でしたが、卒業という人生の節目とともに、当然そのお店を去る時が訪れました。 どうしても外せない個人的な事情が重なってしまい、最後のひと月の給料を、私の代わりに母親がお店へ出向き、店長さんから最後の給料を受け取ってきてくれることになりました。お給料の手渡しなんて、今では考えられないですよね(笑)。時代がバレそうです(^_^;)。 「迷惑をかけていないだろうか」「気まずい別れ方になってしまっていないだろうか」と、心配し得ていましたが、家に帰ってきた母が、カバンから給料袋を取り出しながら、どこか誇らしげな笑顔を浮かべて私にこう言いました。 「みのり、今日お店に行ってきたよ。そしたらね、店長さんがわざわざお母さんのところに来てくれてね、『みのりちゃんは卒業だから、お店を辞めていくのは時期として仕方がないことなんだけど……。本当を言うとね、僕は辞めないで欲しかったんです。出来ればこのまま、うちの店でずっと長く続けて欲しいと思っていたんですよ』って。すごく残念そうに、みのりのことを惜しんでくれていたよ」 もし店長さんが、私に直接「辞めないでくれ」と言っていたとしたら、それは単なる人手不足のための引き止めだったかもしれません。でも、私がいない場所で、わざわざ私の母親に対して、そこまで熱を込めて「本当は残って欲しかった」「続けて欲しかった」と伝えてくれた。 それは、店長さんが本心から私の毎日の働きぶりを認め、一人の人間として、そして仕事の戦力として、信頼を寄せてくれていたことの何よりの証拠でした。 ただ指示された作業をこなすだけのアルバイトなら、代わりはいくらでもいます。でも、お店のため、そして何より目の前のお客様の笑顔のために、高校時代のびりっけつ根性と、お母さんから譲り受けた全肯定の精神で心を込めて動き続けていた私の姿勢を、店長さんはちゃんと見ていてくれたのです。 直接お礼を言えなかった心残りは、この言葉によって最高の思い出へと昇華されました。この「強く引き止められ、心から必要とされた」という客観的な経験は、その後の私の人生において、どんな壁にぶつかっても「私は大丈夫、私には人を笑顔にする力がある」と思える、本当に大きな自己肯定感の土台(勲章)となったのです。 ■独身時代の財産を、今あなたのために 短大時代から独身時代にかけて培った、「どんな年齢、どんな立場の方とも分け隔てなくお話しし、心を通わせることができる素地」。そして、「どんな場所に行っても周囲から深く信頼され、必要とされる接客と対話の力」。 これらの経験は、単なる過去の思い出ではありません。今、私がいるココナラの電話相談にそのまま大きな財産として脈々と受け継がれています。 インターネットを通じたお悩み相談の場では、本当に多様な人生の背景を持った方々が扉を叩いてくださいます。 年齢も違えば、抱えている問題の重さも、心の傷の深さも違います。 誰にも言えない苦しみに押しつぶされそうになりながら、藁をも掴む思いでメッセージをくださる方も少なくありません。 あなたが今、どんな年齢で、どんな状況にあって、社会のどんな荒波に揉まれていたとしても、私はあの活気ある洋食屋さんのカウンターで、あるいは出前先の会社の玄関前で、一人ひとりのお客様と真っ直ぐに向き合っていたあの頃と、全く変わらない眼差しであなたを迎えます。 あなたの言葉を途中で遮ることはしません。あなたの生き方や悩みを否定することも絶対にしません。 お母さんが私を全肯定してくれたように、お父さんが穏やかに包み込んでくれたように、そして私が洋食屋さんで出会った多くの人たちと心を交わしてきたように、あなたという存在のすべてを全力で大切にします。 「この人なら、どんなに格好悪い自分を見せても、安心してすべてを委ねられる」 「みのりさんに話したら、心の荷物がフッと軽くなった」 そう思っていただける、世界で一番温かい心の居場所を用意して、私はいつでも、あなたの「誰にも言えない本音」をお聞きする準備をしています。どうぞ安心して、その胸の内を私に預けてみてくださいね。
・母の涙を隠れて見た日と、私の心に宿った「闘う優しさ」の原点 2011年4月 〜 2011年4月
※匿名・年齢非公開のため期間は変えて掲載しています(*´▽`*) ご理解いただけますと嬉しいです。 ✼••┈┈┈┈•• 私の人生を振り返る上で、切っても切り離せない「娘としての記憶」があります。 それは、私の人格や物事の捉え方に強い影響を与え、そして現在の活動の原動力の一つとなっている、我が家の「嫁姑問題」です。 今でこそ、世間にはさまざまな家族の形があり、辛いことがあれば実家に帰るなど距離を置く選択肢も一般的になりました。 しかし、昭和という時代において、三世代同居の家の中で起きる嫁姑の確執は、外からは見えにくい密室の苦しみそのものでした。 この家庭内の過酷な現実は、幼い私に「誰かを守るために闘う強さ」と、「傷ついた女性の痛みを我がことのように感じる共感力」を植え付けることになります。 ■近所でも有名だった、厳しすぎる祖母 我が家の祖母は、言葉を選ばずに言えば、近所でも有名な「意地悪ばあさん」でした。 昔ながらの古い価値観を絶対とし、家の中では絶対的な権力を持とうとする人だったのです。その矛先は、常に我が家へ嫁いできた私の母親へと向かっていました。 祖母の母に対する態度は、一時的な感情の爆発ではありませんでした。毎日、朝から晩まで、日常のありとあらゆる隙間を狙っては、チクチク、ネチネチ、ガミガミと、終わりのない小言や嫌がらせが続くのです。 掃除の仕方が気に入らない、料理の味付けがどうこう、子育てのやり方が甘い……。何をどうしても否定され、認められることのない日々。子供だった私の目から見ても、おばあちゃんが母に向ける言葉の鋭さは、まるで冷たい刃物のようでした。たとえ父が決めたことでも、気に入らないことは全て母が手をまわしたからと決めつけました。 その激しさは、家の中だけにとどまりませんでした。近所の人たちとのお付き合いの中でも、祖母は陰で色々と周囲の悪口を言ったり、当然母の悪口も言い続けていたため、地域の大人たちもおばあちゃんの性格をよく分かっていました。 だからこそ、近所の大人たちはみんな、私の母のことを「あそこのお嫁さんは本当に偉いわね」「毎日大変よね」と、陰ながらねぎらい、同情の目を向けてくれていたのです。それほどまでに、母の置かれた環境の過酷さは、誰の目にも明らかなものでした。 でも、だからといって、そのねぎらいは一時的に嬉しくはあっても、母を楽にしてくれるほど甘くはないのが現実でした。 ■逃げ場がなく部屋の片隅で、声を殺して泣く母の姿 そんな過酷な環境の中で、母はいつも毅然と振る舞おうとしていました。子供たちの前では明るい笑顔を見せ、父や祖父の前でも不満を大声でぶつけるようなことはしませんでした。 しかし、どんなに強い人であっても、毎日の理不尽な攻撃に心が削られないわけがありません。 私は小さい頃から、家の中の薄暗い部屋の片隅や、誰もいない台所の奥で、母が一人で静かに泣いている姿を何度も、何度も目撃してきました。 わあわあと声を上げて泣くのではありません。祖母に気づかれないように、そして子供たちに心配をかけないように、肩を小さく震わせながら、必死に声を殺して涙を流しているのです。 その母の背中を見たときの胸が締め付けられるような感覚は、何十年経った今でも忘れることができません。 当時の母には、本当に「どこにも逃げ場」がありませんでした。 母は戦争によって幼くして両親を亡くしていました。そのため、父方の祖父母(私にとっての曾祖父母)に育てられたという境遇を持っていたのです。 私が小学校、中学校に上がる頃には、その育ての親であるおじいちゃんもすでに他界しており、おばあちゃんも高齢のために施設に入っていました。 今の時代であれば、「もう限界だから、ちょっと1週間実家に帰って羽を伸ばしてくるね」と、実家の両親の元へ避難して心を休めることもできるでしょう。しかし、私の母には、辛い時に温かく迎え入れてくれる「帰るべき実家」が、この世のどこにも存在しなかったのです。 四面楚歌の家の中で、たった一人で耐え続けるしかない母。 声を殺して泣く母の後ろ姿を見つめながら、私は子供ながらに、まるで自分の心が直接切り刻まれているような、強烈な痛みを自分の中に抱え込んでいました。私はお母さん本人ではないけれど、お母さんの流している涙の辛さが、そのまま自分の体の中に流れ込んでくるような感覚でした。 そして、私の心の中に、ひとつの強烈な決意が芽生えたのです。 「私が、お母さんを守らなくてはいけない」 ■姉妹で一致団結し、おばあちゃんと戦った日々 我が家には、もうひとつ独特の家族の構図がありました。 昔の人だった祖母は、強烈な「長男至上主義」の考えを持っていました。我が家において、私の父親は長男であり、祖母にとって息子である父は目に入れても痛くない存在。そして、私には3歳年上の兄がいたのですが、祖母はその「長男の孫」である兄に対しても、とにかく甘々でした。 一方で、女の子供である私と妹に対しては、明らかに態度が違っていました。 父や祖父、そして兄は、家庭内の女性同士のドロドロとした戦いにどう介入することなく、どこか見て見ぬふりをするようなところがありました。頼りになる男性陣が誰も味方をしてくれない中、母の側に寄り添い、母の痛みを本気で共有していたのは、私たち姉妹だけだったのです。 こうして、「私と妹で母を守り、おばあちゃんと戦う」という、我が家の明確な戦闘構図が出来上がりました。 兄は、祖母が亡くなって以降、私と妹から話を聞いて、そんなことがあったんだ、と初めて知ったことも多かったくらいです。 子供の私は、理不尽にお母さんをチクチクと責め立てる祖母に対して、怯むことなく正面からぶつかっていきました。 「お母さんは悪くない!」「なんでそんな酷いことを言うの!」と、子供の拙い言葉でありながらも、精一杯の怒りを込めて祖母に反論しました。妹と二人で母の前に立ちはだかり、祖母の鋭い言葉を遮るように盾になったことも一度や二度ではありません。 祖母との言い合いは、子供心にとてもエネルギーのいることでしたし、家の中の空気がピリピリと張り詰めるのは恐ろしいことでもありました。でも、「私が黙ったら、お母さんが壊れてしまう」という恐怖の方が、何倍も大きかったのです。 この時に培われた、理不尽なものに対してNOと言える強さ、そして自分がボロボロになってでも大切な人を守り抜くという「闘う根性」は、私の性格の深い土台となりました。 大人になってから振り返ると、当時は本当に苦しくて重い毎日でした。 しかし不思議なことに、この過酷な嫁姑問題という嵐があったからこそ、私たち家族(特に母と私たち姉妹)の絆は、誰よりも強く、深く結ばれることになったのです。 お互いを思いやり、支え合わなければ生きていけない環境だったからこそ、私たちは一致団結することができました。今では「あの頃は本当に色々あったよね」と、笑いながら思い出話として語り合えるようになったことが、何よりの救いです。 ■大変な「ミドル女性」の力になりたいという、私の使命 この幼少期から少女時代にかけて、母の涙を側で見続け、共に戦ってきた記憶。これこそが、現在私が話し相手として活動する中での、最も深い「女性の味方」のベースになっています。 世の中の多くの女性たちは、人生のステージが進むにつれて、本当に多くの「役割」を背負うことになります。 誰かの「娘」であり、誰かの「妻」となり、家を守る「嫁」という立場になり、そして子供を育てる「母」となる。 特に50代を中心としたミドル世代の女性たちは、これら全ての役割が一気に押し寄せ、自分のキャパシティを超えてしまうほどの重圧に晒されがちです。子育ての悩み、夫婦関係の冷え込み、押し寄せる親の介護、そして自分自身の体調や心の変化。 それなのに、かつての私の母がそうであったように、周りに心配をかけまいと「大丈夫なフリ」をして、部屋の片隅で声を殺して一人で泣いている方が、本当にたくさんいらっしゃるのです。 「私が我慢すれば、波風が立たないから」 「みんな大変なんだから、これくらいで弱音を吐いちゃいけない」 そうやって自分を後回しにし、逃げ場のない孤独の中で限界まで耐えている女性たちの姿を見ると、私はどうしても、あの頃の母の背中を思い出さずにはいられません。そして、私の胸の奥にある「守りたい、力になりたい」という熱い想いが、静かに燃え上がるのです。 私が今、ココナラで電話相談の活動をしているのは、かつての私の母のような「逃げ場のない女性たち」にとっての、絶対的なシェルターになりたいからです。 実家に帰るような安心感で、心置きなく涙を流せる場所。 誰にも言えない愚痴や、ドロドロとした感情を、そのまま吐き出せる場所。 そして、あなたが理不尽な環境で苦しんでいるなら、私はあの頃とおなじように、全力であなたの味方になって一緒に闘う覚悟を持っています。 あなたは、一人で声を殺して泣く必要はありません。嫁として、妻として、母として、娘として、一生懸命に頑張ってきたあなたの苦しみを、私は誰よりも理解し、我がことのように受け止めます。 心が限界を迎える前に、どうぞ私を頼ってください。あの頃、母を守り抜いたその温かさと強さで、私は今度は、あなたという大切な存在を全力で包み込みます。 いつでもあなたが来ても大丈夫なように両手を広げて待っています♪
・私が先陣を切って作った「心の避難所」と、家族を救った安全地帯のぬくもり 2012年4月 〜 2012年4月
※匿名・年齢非公開のため期間は変えて掲載しています(*´▽`*) ご理解いただけますと嬉しいです。 ✼••┈┈┈┈•• 前項でお話しした通り、我が家には祖母を中心とした非常に重苦しい嫁姑問題の嵐が吹き荒れていました。 子供の頃からその理不尽な現実を特等席で見つめ、時には妹と盾になって母を守ってきた私でしたが、短大を卒業する年齢を迎えた時、私の中に一つの明確な決意が固まっていました。 「このままこの家に縛られていたら、自分自身の人生も、母を守る力も、すべて擦り切れてしまう。まずは私が、この家から外の世界へ飛び出そう」 と言えればカッコいいですが、とにかく逃げたかったというのが本音。でも、まずは私が出なければ、という気持ちももちろんありました。 祖母という絶対的な権力から物理的な距離を置き、自分自身の呼吸ができる聖域を確保するための、いわば「決死の脱出作戦」だったのです。 こうして短大卒業と同時に、私の実家からの独立ストーリーが始まりました。 ■親友と寄り添い合った、1年限定のスタートライン そうは言っても、生まれてからずっと過ごした地元を離れ、いきなり見知らぬ土地で完全な一人暮らしを始めるというのは、当時の私にとって想像以上に心細く、勇気の要ることでした。 そこで私は、無謀に一人で飛び出すのではなく、短大時代に苦楽を共にした大切な親友に声をかけることにしたのです。「最初の1年間だけ、一緒に暮らしてみない?」と。 なぜその親友に声をかけたかというと、私と似たような事情があったからです。 彼女は父親が厳しくて、私が祖母に抱いていた思いとほぼ同じ思いを父親に持っていて、長年心に傷を抱えていました。家を出て父親から離れたい、その願いを彼女の母親は理解してくれていました。それが私たちを近づけたんです。 お互いに社会人としての第一歩を踏み出す不安な時期です。私たちは「期間は1年間だけ」という明確なルールをあらかじめ決めて、二人暮らしのスタートを切りました。これが結果的に、本当に素晴らしい選択となりました。 私たちは適度な距離感を保ちながら、仕事で疲れて帰ってきた時には「おかえり」「今日こんなことがあってさ」と言い合える、温かい空間を作ることができました。 完全に孤独になってしまう寂しさを紛らわせつつ、社会人としての生活リズムを整え、家事のノウハウを身につける。この「1年限定の二人暮らし」があったからこそ、私は実家の重苦しい記憶を引きずることなく、健全に大人の階段を上り始めることができたのです。 親には言えない話や行動も打ち明け合いながら、親友と過ごしたあの穏やかな時間は、私が「誰かと心地よい距離感で寄り添い合う」という人間関係のバランス感覚を養うための、貴重なステップとなりました。 ■2年目の本当の自立と、妹の緊急避難 約束の1年がアッという間に過ぎ去り、親友との同居を解消した2年目から、いよいよ私の「本当の一人暮らし」が始まりました。 小さなアパートの一室。自分の好きなモノを置き、自分の好きな時間に眠り、自分の好きな味付けで料理を作る。実家にいた頃には考えられなかった「誰のことも気にしなくていい自由」がそこにはありました。 朝起きたときに、家の中にピリピリとした緊張感が漂っていないというだけで、これほどまでに心が軽いのかと、深い感動を覚えたものです。 しかし、私がその自由をようやく満喫し始めた頃、実家では新たな限界が近づいていました。私のすぐ後ろを歩んでいた妹が、高校の卒業を控えていたのです。 妹も姉である私と同じように、長年祖母の理不尽な態度に耐え、母を守るために闘い続けてきた戦友でした。 高校卒業という人生の節目を迎えた妹の心の中は、「一刻も早く、あの家から、あの祖母から逃げ出したい」という悲痛な思いでいっぱいだったのです。 妹のSOSを察知した私は、迷うことなく言いました。「私のところにきていいよ」と。 こうして高校を卒業したばかりの妹が、私の小さなアパートに転がり込んでくる形で、今度は「姉妹での二人暮らし」がスタートしたのです。 引っ越してきたばかりの妹は、どこか張り詰めていた糸が切れたような、ホッとした表情をしていました。私は姉として、「本当によく頑張ってここまで持ちこたえたね。もう大丈夫だよ」と、妹を心から温かく迎え入れました。 実家という戦場から逃れてきた妹にとって、私のアパートのドアを開けた瞬間は、心の救いになったと思います。 二人で狭い部屋に肩を寄せ合いながら、お互いの仕事を応援し、時には実家の愚痴を言い合い、時にはこれからの未来について語り合う。あの頃の私たち姉妹は、単なる家族という枠を超えて、同じ痛みを分け合ってきた本当の意味での「ソウルメイト」になっていました。 ■小さなアパートが、母の「逃げ込み寺」になった日 そして、私と妹が作ったこの小さな安全地帯は、ついに最大の救済必須者であった「母」をも救い出すことになります。 娘二人が実家を出て独立し、自分たちの力で生活の基盤を作っている。その事実そのものが、実家で一人耐え続けていた母にとって、どれほど大きな精神的支えになっていたかは計り知れません。 「子供たちが立派に自分の足で立っている」という安心感が、母の折れそうな心を繋ぎ止めていたのです。 兄もすでに家を出て仕事をしていましたが、祖母からすると、子供たちを家から出すなんてとんでもないことで、そんなんだから〇〇(母)はダメな母親なんだ、と何度も何度も家を出た子供たちを許した母を攻め続けたのでした。 家を出ることを許したのは母だけでなく、父も賛同してのことなのに、母がそそのかした、というのが祖母の意見でした。 やがて、母も実家の四面楚歌の状況から少しだけ息を抜くために、私たち姉妹が暮らすアパートへ、時々「避難」して来ることができるようになりました。 祖母の目を盗んで、片道数十分の距離を移動し、私たちの部屋のインターホンを鳴らす母。ドアを開けて部屋に入ってきた瞬間の母の顔は、実家で見せていたあの「声を殺して泣く切ない背中」とはまるで別人のようでした。 「あぁ、ここは本当に落ち着くわね」 そう言って、狭いアパートの畳の上に座り、私たち姉妹が淹れたお茶を飲む母。その時の母の安らいだ笑顔、心の底からホッとしたような深い溜め息を、私は今でも鮮明に覚えています。 その部屋にいる時間だけは、母は「理不尽に責め立てられる哀れなお嫁さん」である必要はありませんでした。ただの「愛しい娘たちのお母さん」に戻り、何気ない世間話をしたり、テレビを見て声を上げて笑ったり、短大時代の洋食屋さんの思い出話に花を咲かせたりすることができたのです。 母と、私と、妹。女3人が狭いアパートの6畳間に集まって過ごすその時間は、世間から見ればなんてことのない、ごく普通の光景だったかもしれません。しかし、私たちにとっては、嵐の海を泳ぎ切った後にようやくたどり着いた、聖なる「安全地帯」そのものでした。 私が勇気を出して先陣を切り、実家を飛び出して作った小さな拠点が、妹を救い、ついには母をも救う「心の逃げ込み寺」になった。 この独身時代の経験は、私の中に「人間には、どんなに苦しい現実があっても、一時的に避難して心を休められる安全な場所が絶対に絶対に必要なんだ」という、確信を植え付けることになったのです。 母の避難に慣れてきた、ある時、母が泊まり込みに来たことがありました。 知ってるのは私たち3人だけ。父にも黙っての決行でした。母にしてみれば、何もしない父に反旗を翻した行動です。 最終的には私たち姉妹と父親とで話し合いをして母のことを訴えて、味方になるように説得して母が戻りましたが、良かったのは最初だけで、結局は母が辛い思いをするという構図は最後までかわることはありませんでした。 とはいえ、母にとって逃げ場がある、というのか心の支えになっていたのは確かなようでした。本当に母の苦労は並大抵ではなかったと思うのです。 今の時代、このようなことはあまりないかもしれませんが、何がどれくらいつらいか、なんて人それぞれ違うんです。 世間一般には大変じゃないと思われることでも本人にとっては死活問題と言えるくらい辛いことだって十分ありえます。 世間の物差しに関係なく目の前の人の物差しを大事にしたい、そんな想いが刻まれた私の人生の1ページです。 ■今、逃げ場のない孤独の中で耐えているあなたへ この短大卒業から独身時代にかけての「実家からの独立」と「心の避難所作り」のストーリーは、今、私がココナラで提供している電話相談室のあり方に、深く、真っ直ぐに繋がっています。 私の元へ相談に来てくださるお客様の多くは、かつての私の家族と同じように、「逃げ場のない環境」で苦しんでいます。 理不尽な家族関係、モヤモヤする職場環境、誰にも弱音を吐けない孤独。 「自分が我慢すればいい」と自分を追いつめ、心の中で声を殺して泣いている。そんなあなたに、私は一番に伝えたいのです。 「苦しい場所から、一時的に逃げることは悪いことじゃないんだよ。それは自分を守るための、優しくて正しい防衛なんだよ」と。 私が今、用意している電話相談の空間は、まさにあの独身時代に私が先陣を切って作った「小さなアパートの6畳間」そのものです。 実家や祖母という現実の嵐から離れ、妹や母がドアを開けて「あぁ、助かった」と崩れ落ちるように座り込んだ、あの温かい部屋。誰もあなたを責めない、誰もあなたを否定しない、ただただ温かいお茶を飲んで、フッと肩の荷を下ろせる安全地帯。 あなたが今、どんな年齢で、どんな複雑な人間関係の絡まりの中にいたとしても、私はあの頃と全く同じ「絶対にあなたを守る」という強い覚悟で、あなたをこの部屋に迎え入れます。 外の世界では「しっかり者」として頑張っているあなたも、私の前ではただの「一人の傷ついた人間」に戻ってください。弱音を吐いてもいい、涙を流してもいい、ドロドロした感情をぶちまけてもいいんです。 あの小さなアパートで、母娘3人が寄り添い合って笑顔を取り戻したように、今度は私とあなたの二人で、その張り詰めた心をそっと解きほぐしていきましょう。 どうぞ安心して、私のアパートのドアをトントンと叩くような気持ちで、いつでも逃げ込んできてくださいね。私はいつでも、両手を広げてあなたを待っています。
・自分を見失った暗闇の数年間と、勝手に作った心のペナルティが溶けた日。 2013年4月 〜 2013年4月
※匿名・年齢非公開のため期間は変えて掲載しています(*´▽`*) ご理解いただけますと嬉しいです。 ✼••┈┈┈┈•• 短大を卒業し、先陣を切って実家を飛び出し、妹や母のための「心の避難所」を作った独身時代。 一見すると、自分の力で人生を切り開いているように見えた私でしたが、大人の社会という荒波は、そう甘いものではありませんでした。 人生には、どれだけ抗おうとしても、どうしても光が見えなくなる時期があります。 私にとってのそれは、新卒で入社した会社を、自己都合で退職した後に訪れた数年間でした。 あの輝いていた短大時代のエネルギーが嘘のように、私は人生の深い、深い暗闇のトンネルへと迷い込んでいくことになります。 目標を見失い、アルバイトを転々とする日々。 会社を辞めた後の私には、「これからどうしていきたいか」という明確な目標が、これっぽっちも見えなくなっていました。 とりあえず生活のためにと、いくつかのアルバイトを始めましたが、何をやっても長続きせず、どこに行っても「これじゃない」「上手くいかない」という空回りばかり。一つの仕事に馴染めず、履歴書の行数だけが増えていく毎日は、自分のプライドを少しずつ、でも確実に削り取っていきました。 「私は一体、何がやりたいんだろう」 「どうして周りの人のように、普通に、器用に生きられないんだろう」 気がつけば、自分という存在を完全に見失っていました。 朝起きて、中身の伴わない頼りない体を引きずるようにしてバイト先へ向かい、夜は狭い部屋で自分の不甲斐なさにただ頭を抱える。何をやっても上手くいかない、何を選んでも間違っているような気がする。 そんな辛くて苦しい日々が、数年間にわたって、まるで出口のない深い霧のように私の行く手を阻み続けました。 妹との二人暮らしを卒業して一人暮らしを始めた私に訪れた試練でした。 ■眩しすぎる仲間たちと、自分に課した「ペナルティ」 その暗闇にいた時期、私の心を最も苦しめたのは、高校時代の友人たちの存在でした。 例の、運動音痴の私が何をトチ狂ったのか飛び込んで、びりっけつになりながらも最後までやり抜いた、あの思い出の運動部の仲間たちです。 彼女たちは定期的に集まり、お互いの近況を報告し合っていました。 でも、私はその集まりに、どうしても顔を出すことができませんでした。いや、「顔を出さなかった」というより、情けなくて、惨めで、「顔を出せなかった」のです。 私の想像の中の仲間たちは、みんな本当に眩しい存在でした。 「みんなはきっと、ちゃんとした会社で普通に働いて、普通に恋をして、普通に休日をエンジョイしているんだろうな」 それに比べて、今の自分はどうだろう。 定職にも就けず、目標も見えず、アルバイトを転々として、その日暮らしのような生活をしている。 高校時代、あんなに「びりっけつでも最後までやり抜いたんだから」と胸を張っていたあの根性はどこへ行ってしまったのか。今の自分を見られたら、なんて思われるだろう。憐れみの目を向けられるくらいなら、最初からいない方がいい。 みんなが楽しそうに笑っている空間に、こんなボロボロの自分が混ざる資格なんてない。そうやって私は、自分で自分を勝手に「落第生」に認定し、心の扉をガチガチに閉ざしてしまいました。 仲間たちが優しければ優しいほど、その眩しさが今の自分を責め立てているような気がして、私は定期的に届く連絡からも、そっと距離を置くようになっていきました。 私が勝手に作った「まともな社会人になれていない私は、みんなに会ってはいけない」という心のペナルティは、私をどんどん深い孤独へと追い込んでいったのです。 ■トンネルの終わりと、怯えながら開けたドア しかし、どんなに長くて暗いトンネルであっても、歩みを止めなければ、いつかは必ず一筋の光が見えてくるものです。 あんなに真っ暗だった日々から、本当に少しずつ、少しずつではありましたが、私は暗闇のトンネルを抜け出すことができるようになっていきました。 何がきっかけだったのか、劇的なドラマがあったわけではありません。ただ、目の前の小さなことを一つずつ受け入れ、不器用ながらも必死に生きているうちに、霧が晴れるように「あぁ、やっと本来の自分を取り戻せたな」と感じられる瞬間が、数年ぶりに訪れたのです。 心が少しずつ元気を取り戻したとき、私の脳裏に真っ先に浮かんだのは、やはりあの高校時代の仲間たちの顔でした。 「みんな、まだ集まっているのかな。……久しぶりに、勇気を出して顔を出してみようか」 そう思ったものの、実際に連絡を取り、集まりの場所に向かうまでの足取りは重く、心は緊張で一杯でした。 私の頭の中は、ありとあらゆる最悪のシミュレーション(不安)でいっぱいだったのです。 「なんで今まで、ずっと来なかったの?」って責められたらどうしよう。 「今まで何してたの?」って聞かれたら、アルバイトを転々としてどん底にいたなんて、絶対に言いたくない。嘘をつくのも嫌だし、かといって本当のことも言いたくない……。 聞かれたくない、言いたくない。もしそんな質問攻めにあったら、私はまたあの暗闇に逆戻りしてしまうかもしれない。 そんな張り詰めた緊張感と恐怖を抱えながら、私は久しぶりに、仲間たちが集まる部屋のドアを開けました。 ■溶けていったペナルティと、今も胸にある安堵感 ところが、実際に部屋に入った私を待っていたのは、想像していたものとは全く違う現実でした。 「あ、みのり!久しぶりー!」 みんなは、私が数年間ずっと行方をくらましていたことなんて全く気にしていない様子。まるで昨日も会っていたかのような、ごく自然な笑顔で私を迎えてくれたのです。 そして驚いたことに、私が何年も怯え、恐れていた質問――「なんで来なかったの?」「今まで何してたの?」という言葉は、誰の口からも、ただの一言も、発せられることはありませんでした。 誰も何も聞かない。誰も私を責めない。ただそこにいる私を、そのまま受け入れて、今この瞬間の楽しい会話の中に、当たり前のように混ぜてくれたのです。 そのとき、私の胸の中に、言葉では言い表せないほどの巨大な「安堵感」が押し寄せました。張り詰めていた心のトゲが、温かいお湯に溶かされるように、一瞬ですーっと消えていったのです。 席に座り、みんなの笑い声を聞きながら、私は心の底から思いました。 「あぁ、休んでいたことに対するペナルティなんて、この世界のどこにもなかったんだ。みんなの心の中にも、最初からそんなものは存在していなかった。それは全部、私が自分の頭の中、心の中で勝手に作り上げて、自分を苦しめていただけの、幻のペナルティだったんだ」 数年間、勝手に怯えて、勝手に壁を作って、一人で惨めになっていた自分が、なんだか少し可笑しくもあり、それ以上に、何も言わずにただ迎えてくれた仲間たちの優しさが、心の底からありがたくて、愛おしくて堪りませんでした。 この時に味わった「何も言わずに、ただそのままを受け入れてもらえる」という圧倒的な安堵感は、何年、何十年が経った今でも、私の胸の奥に温かいお守りのように残り続けています。 ■あなたが自分に課したペナルティも、私が全部溶かします この、人生の暗闇を経験し、そして「心のペナルティ」から解放されたエピソードは、今、ココナラで電話相談の活動をする私にとって、非常に大切な心の指針となっています。 私の元へ相談に来てくださる方の中には、かつての私と全く同じように、自分で自分に厳しい「ペナルティ」を課して苦しんでいる方が本当にたくさんいらっしゃいます。 「こんな年齢なのに、まともな仕事に就けていない自分はダメだ」 「普通の人ができている結婚や子育てが上手くいかない私は、失格だ」 「みんな楽しそうなのに、自分だけが立ち止まっていて情けない」 周りの人がみんな眩しく見えて、自分の現状が恥ずかしくて、誰にも相談できず、一人で殻に閉じこもってしまう。その苦しみは、あの数年間、トンネルの中で自分を見失っていた私だからこそ、痛いほどよく分かります。 でもね、そんなあなたに、私はあの日の安堵感を込めて、真っ直ぐに伝えたいのです。 「あなたが勝手に作り上げてしまった心のペナルティなんて、この相談室にはどこにもないんだよ。あなたが今までどれだけ立ち止まっていても、アルバイトを転々としていても、何もかも上手くいかなくて引きこもっていても、私はそれを責めることも、問い詰めることも絶対にしないからね」 私の電話相談室は、あの高校時代の仲間たちが私を温かく迎えてくれた、あの部屋と同じです。 「なんで今まで相談しなかったの?」なんて聞きません。「今まで何をしていたの?」なんて、あなたが言いたくないことは、一つも話さなくていいんです。ただ、その傷ついた心のまま、この部屋のドアを叩いてみてください。 私は、あなたが今どんなにボロボロであっても、「よく来たね、待ってたよ」と、ただそれだけの、ありのままのあなたを全力で受け入れます。 一人で抱えているその情けなさも、惨めさも、私の前では隠す必要はありません。 あなたが自分を責めるその「心のペナルティ」を、今度は私が、あの温かい安堵感で全部きれいに溶かします。どうぞ安心して、本来のあなたを取り戻す一歩を踏み出しにきてください(*´▽`*)
・私の「好き」で満ちていた幸福な日々と、今だから分かる熱量のズレ 2014年4月 〜 2014年4月
※匿名・年齢非公開のため期間は変えて掲載しています(*´▽`*) ご理解いただけますと嬉しいです。 ✼••┈┈┈┈•• 人生の暗闇のトンネルを抜け、高校時代の仲間たちとの再会によって「心のペナルティ」から解放された私は、本来の自分らしいポジティブなエネルギーを完全に引き戻していました。 そんな20代の後半、私の中にそれまでとは全く違う、新しい心の変化が訪れます。 それまでは「結婚なんてまだまだ先の話、今は自分の力で自由に生きていくのが楽しい」と、独身の自由を謳歌していました。仕事をして、友達と遊び、旅行を楽しみ、自分のアパートで自由に暮らす。 その日々に不満はありませんでした。しかしある時、自分の中でふと「やりたいことはやり尽くしたかな」という、不思議なほど大きな満足感が芽生えたのです。 自分自身の独身時代に対して、何ともいえない満たされた感覚。やりたいことをやりきったという達成感。それが強力なスイッチとなり、私の心の中に突然、ものすごい熱量で「結婚したい!よし、結婚しよう!」という強い思いが湧き上がってきました。 一度決めたら先陣を切って猛スピードで突っ走るのが私の性分です(笑)。そこからの私は、ブレーキなんて一切かけずに動き出しました。 友達に「誰かいい人いない?」と片っ端から声をかけ、家族にも「私、結婚するから!」と宣言し、「お見合いもするから、話があったら断らないで」とアピール。いわゆる「婚活」をエネルギー全開でスタートさせたのです。 そしてしばらくして、友人の紹介で出会った一人の男性と、私は結婚することになりました。 ■私の「好き」という圧倒的な熱量で突っ走った結婚生活 出会った当時、どちらかと言えば私の方が彼に一目惚れに近い状態でした。彼のどこが具体的に良かったのか、何を魅力に感じたのか、そんな細かい理屈や条件は後付けに過ぎません。私の心の中に湧き上がった「この人と一緒に生きていくんだ」「この人が好きだ」という直感と、恋心の熱量のままに、私は恋に落ち、周囲の状況など目に入らないほどの勢いで結婚へと突き進んでいきました。 友達にも親にも「結婚」を前提に声をかけていたし、年齢的にいっても親としても「さっさと結婚して欲しい」という気持ちがあったはず。 それに相手も結婚したいから結婚したい女性を探していたわけで。 だから、出会って結婚を進めるのに障害はなかったんです。逆に障害がなさ過ぎて、相手が私のことをどれくらい好きなのか、相手の熱量がどれくらいなのかを推し量るよりも先に、私の「好き」という気持ちだけで結婚に進められた、進めることができてしまったんです。 やがて私たち夫婦は、3人の子供たちに恵まれることになります。 子供が3人いる暮らしというのは、本当に慌ただしく、目まぐるしい毎日です。それまでの自由な独身生活とは180度変わり、24時間365日、自分の時間など1分もないような怒涛の生活が始まりました。 朝はまだ暗いうちから起き出して朝食とお弁当の準備をし、子供たちを起こして服を着せ、ご飯を食べさせるだけで一戦争。オムツを日に何度も替え、山のような洗濯物を回し、泣き叫ぶ声を抱っこであやしながら、片手で掃除機をかける。夜になれば子供たちをお風呂に入れ、寝かしつけをし、深夜の夜泣きに対応する。毎日自分の髪を振り乱し、化粧をする暇もなく、文字通り怒涛のような子育ての渦に巻き込まれていました。 しかし、そんな激しい忙しさの中にあっても、当時の私は間違いなく「普通に、とても幸せ」でした。 なぜなら、私は相変わらず夫のことが大好きだったからです。 「向こうが私のことをどう思っているか」とか、「夫の愛の大きさはどれくらいか」なんていうことは、当時の私にとってはこれっぽっちも大した問題ではありませんでした。 ただ、私が夫を好きで、私がこの人と結婚して、私がこの可愛い3人の子供たちを必死に育てて、毎日賑やかな家庭を営んでいる。その私自身の愛情の満たされ感だけで、我が家という空間は十分に幸福な世界として成立していると、疑いもなく信じ切っていたのです。 世間一般で言われるような、お互いに四六時中愛を囁き合うような熱烈な夫婦の形ではなかったかもしれません。夫はどちらかと言えば静かな人だったし、私は子育てで常にバタバタしていました。 でも、私が夫を好きなままで、子供たちの成長を共に見守り、日々の平穏な暮らしが続いていく。その「普通」の風景の中に、私は確かな温もりと幸せを感じていました。忙しさに追われながらも、私の心は夫と子供たちへの愛で満タンだったのです。 ■今振り返るからこそ分かる、「気にしなさすぎた」という心のズレ しかし、人生というものは、自分が見ている景色が「世界のすべて」ではないということを、時に残酷な形で教えてくれます。 当時は子育ての忙しさの真っ只中にいて、自分の「好き」という一方通行かもしれない情熱だけで満足していた私でしたが、のちに夫婦関係の破綻という人生最大の強制終了を経験するとは、このときはこれっぽっちも予測できませんでした。 あの幸福だった日々を全く違う視点から、冷静に客観的に振り返ることができるようになるには時間が必要でした。 「あの時の私は、相手が私をどれくらい好きなのかということを、あまりにも『気にしなさすぎた』のかもしれない」 「〇〇(夫)が浮気してるかも?とか疑ったことなかったの?」とは離婚の話になったときの妹からの言葉。 無かった。考えもしなかった。でも、そう言われれば、怪しいことがいくつか思い当たりました。 ピンときて、何か行動していたら、結果は違っていたかもしれない。とは思いましたが、小さい子供を3人育て、同居もし、母として嫁として妻として頑張っていた私には、そこに意識を持っていくことはほぼ不可能でした。私には何の落ち度もないと今でも自信を持っています。 不倫をして離婚を向こうから切り出してきたんですからね。姑も義理の姉も私と子供たちの味方でした。 ただ、これは結果ですが、そのプロセスとしては、 ・ 私が「夫を好きで、普通に幸せ」と満足していたあの空間で、夫の心の温度が本当はどれくらいだったのか。 ・夫が私に対して、そして家庭に対してどんな熱量を持っていたのか。 ・私は自分の溢れるようなエネルギーと愛情で目の前の現実を強引に満たしていたために、夫の側の微細な心の変化や、夫婦の間に生じていたかもしれない「熱量のズレ」に対して、無意識のうちに目を向けないようにしていた、あるいは本当に気づかないほど「気にしなさすぎた」 というのがあったのかもしれません。今さらどうにもならないことですけれど、何年もたって、心の傷がなんとか癒えたころ、そんな思いが”ふと”浮かびました。 相手の気持ちを気にしすぎて振り回されるのも辛いことですが、当時の私はその真逆でした。自分が好きだからそれで満足してしまい、相手の心のケアや、相手が抱えていたかもしれない寂しさや不満という「別の物差し」に、全く気がついていませんでした。 夫婦生活が目に見えて冷え切っていたわけでも、毎日激しい喧嘩を繰り返していたわけでもありません。私は相変わらず夫を好きなままだったし、家庭はしっかりと回っていました。 しかし、私が見ていた「普通に幸せな景色」の裏側で、夫が見ていた景色との間には、少しずつ、でも確実に、決定的なズレが生じていたのかもしれません。 当時はそれに気づく由もありませんでした。3人の子育てに必死で、夫を信じ切り、自分の愛の熱量のままに生きていた私の前に、やがて人生を根底から覆すような、突然の「旦那の不倫」と「一方的な関係の切断」という、青天の霹靂の大事件が待ち受けているとは、当時の私は夢にも思っていなかったのです。 私は自分が愛しているから大丈夫だと、無防備なままその幸せの渦中にどっぷりと浸かっていました。 ■人を好きになる熱量と、心のズレに悩むあなたへ この、自分の「好き」という気持ちだけで突っ走った結婚生活と、今振り返るからこそ分かる「相手の熱量を気にしなさすぎた」という切ない教訓。 この経験は、私の共感の土台となっています。様々な立場で、自分の思いに振り回されて苦しんでいる方に寄り添う原動力になっています。 「私は普通に幸せだと思っていたのに、パートナーから突然裏切られて絶望している」 「子育てに必死で相手のことを信じていたのに、ある日突然、関係を拒絶された」 「私はこんなに相手のことが好きなのに、相手からの熱量が同じように返ってこなくて寂しくて堪らない」 「一度火がついた恋心が止められなくて、周囲が見えなくなるほど突っ走ってしまい、自分をコントロールできない」 世間というものは、人間関係でトラブルが起きたり、複雑な恋愛に身を投じたりしている女性に対して、「もっと冷静になりなさい」「相手の気持ちを考えなさい」「自業自得だ」などと、冷たい正論や道徳をぶつけて裁こうとすることがあります。でも、私はそんな世間の物差しであなたを責めることは絶対にしません。 だって、人を好きになって周りが見えなくなるほどの激しい情熱を持つことも、自分の「好き」という純粋な気持ちのままに必死に突き進んでしまうことも、人間の抑えきれない本能であり、それほどまでに誰かを強く想えるということは、本来とても愛おしいことだからです。 その熱量も、盲目になってしまうほどの必死さも、私には痛いほどよく分かります。なぜなら私自身が、その熱量だけで結婚生活を駆け抜けた人間だからです。 そして同時に、自分が好きなままで幸せだと信じていたからこそ、そこから突然一方的に関係を切られたときの「信じられないショック」も、息ができなくなるほどの絶望も、すべて自分の身をもって知っています。自分が見ていた景色と相手が見ていた景色の「熱量のズレ」がもたらす、あの引き裂かれるような胸の痛みも、私は誰よりも理解しています。 だからこそ、あなたが今どんな立場にいて、どんな複雑な人間関係の絡まりの中にいたとしても、私は何一つ否定しません。あなたがパートナーとの熱量のズレに対する耐えがたい寂しさに震えているならその孤独に寄り添いますし、理屈抜きで誰かを好きになってブレーキが効かずに苦しんでいるならその情熱を丸ごと受け止めます。世間の常識や正論であなたを問い詰めたり、説教したりすることはありません。そのままのあなたを受けとめます。 あなたの「誰かを強く想う気持ち」や、その過程で生まれた傷は、何も間違っていません。まずはその傷ついた心のまま、誰にも言えない胸の内を私に吐き出してください。あの頃、自分の熱量だけで突っ走った未熟さも、その裏で起きていたズレの切なさも、すべてを通過してきた私だからこそ、何があってもあなたの味方になって、その張り詰めた心を温かく包み込みます。どうぞ安心して、私を頼ってくださいね。
・青天の霹靂の離婚劇と、私を救ってくれたもう一つの安全地帯 2014年4月 〜 2014年4月
※匿名・年齢非公開のため期間は変えて掲載しています(*´▽`*) ご理解いただけますと嬉しいです。 ✼••┈┈┈┈•• 3人の子供たちに恵まれるという奇跡に恵まれ、毎日髪を振り乱しながらも、自分の「好き」という純粋な愛情だけで家庭を満たしていた日々。その平穏は、ある日突然、何の前触れもなく音を立てて崩れ去ることになりました。 当時、夫は仕事の関係で単身赴任をしていました。 ずっと赴任先にきりというわけではなく、週末や休暇のたびに時々は自宅に帰ってくるという生活スタイルです。離れて暮らしている分、どうしてもお互いの生活リズムにすれ違いが起きたり、時には些細なことでケンカをして口をきかなくなったりすることもありました。 でも、当時の私は「夫婦なんだから、長い結婚生活のなかでそんな時期もあるでしょ。どこの家庭だって同じようなものよね」と、特に深く気に留めてはいませんでした。 何より、目の前にはやんちゃ盛りの小さな子供が3人。毎日の家事と育児に追われ、自分のことや夫婦の力関係をじっくり見つめ直す余裕など、1秒すらなかったというのが本音です。 私は夫を信じていたし、この慌ただしくも愛おしい日常の延長線上に、これからも当たり前の未来がずっと続いていくと信じて疑っていませんでした。私は、自分が愛しているから大丈夫だと、無防備なままその幸せの渦中にどっぷりと浸かっていたのです。 ■義姉の言葉と、夫の拒絶。はざまで右往左往した日々 そんなある日、義理の姉から奇妙な提案を何度も受けるようになりました。 義姉はたまたま夫の赴任先の近くに用事があり、ついでに弟の様子を見に行ってくれていたのです。その日を境に、義姉は私に対して「子供たちを連れて、赴任先で一緒に生活した方が良いよ」と、何度も何度も熱心に勧めてくるようになりました。 当時の私は、義姉がなぜそこまで強く引っ越しを勧めてくるのか、その本当の理由を全く知りませんでした。「お義姉さん、私のことを心配して、親身になってくれるんだな」くらいにしか思っていなかったのです。 でも、何度も熱心に言われているうちに、「たしかに、子供たちを連れて、家族みんなで赴任先で暮らすのもアリかもしれない。その方が夫も寂しくないだろうし、子供たちにとっても父親が近くにいる方がいいよね」と、私の心も少しずつ動き始めました。 実際に引っ越すとなれば大ごとです。まずは一度、現地の様子を偵察しに行こうと考えました。これから子供たちが暮らす環境や、学校、住む家がどんなところなのか、母親として自分の目でしっかり見ておきたいと思ったからです。 私は夫に「近いうちに、子供たちの住む環境を見に赴任先へ一度行くね」と伝えました。 ところが、夫から返ってきたのは、「来なくていい」でした。 夫は頑なに、私たちが赴任先へ行くことを拒み、不自然なほど一点張りの態度を崩しませんでした。 「一緒に暮らした方がいい」と私の背中を押し続ける義姉と、「来るな」と激しく拒絶する夫。その正反対の言葉のはざまで、私は一体何が起きているのか分からず、ただ困惑し、不気味な違和感を抱えながら右往左往するしかありませんでした。 そして、その奇妙な緊迫感が限界に達したとき、事態は最悪の形で急展開を迎えます。 夫の口から、突然「離婚してほしい」という言葉が飛び出してきたのです。 ■青天の霹靂。「愛してない」と言われたあの日の絶望 夫の告白は、私の人生を根底から揺るがす衝撃でした。 実は赴任先で付き合っている女性(不倫相手)がいて、その人と一緒になりたいから、私と別れたいというのです。そして、義理の姉が私に同居をあんなに勧めていたのは、すでにその不倫の事実を知り、弟の目を覚まさせよう、離婚を回避させようと考えてくれていたからだ、ということも同時に知りました。 まさに、青天の霹靂でした。 頭を重たい鈍器で殴られたような衝撃が走り、目の前の景色がぐにゃりと歪んでいくのを感じました。私が夫を大好きなままで、必死に守り、育んできたはずの家庭は、私の知らないところでとうに壊れていたのです。 怒りなのか、悲しみなのか、悔しさなのか、自分でも処理しきれない感情が心の中で大爆発を起こしました。気がつけば私は、夫の赴任先へと向かっていました。 そこからの記憶は、今でも断片的です。 話し合い、と呼べるような冷静なものではありませんでした。私はまるで、制御不能になった「壊れた機械」のように、わけの分からない感情の叫びを夫にぶつけ続けました。思いつく限りの文句を言い、これまでの自分の頑張りをすべて否定された悔しさをののしり、涙と怒りでぐちゃぐちゃになりながら、ただただ自分の感情のすべてを叩きつけて、命からがら自宅へと帰ってきました。 その後、義母も義姉も、なんとか離婚を回避できないかと、私たちの間に入って一生懸命に動いてくれました。私と子供たちの味方になって、夫を説得しようとしてくれたのです。 しかし、夫の固まった決意が覆ることはありませんでした。 夫から私に突きつけられたのは、「もうお前を愛していない」という、冷酷で決定的な事実でした。 私は、夫のことを心から愛していました。愛していたからこそ、義母との同居生活の苦労も、小さな不満も、すべてを飲み込んで「母として、嫁として、妻として」頑張ることができていたのです。 私には何の落ち度もないという強い自信もありました。でも、夫婦の片方からの愛が完全に消え去り、別の誰かに向いてしまっている以上、もうこの家に私がいる意味は、どこにも残されていませんでした。 私の「好き」という熱量だけで繋ぎ止めておける限界を、とうに超えていたのです。 こうして、私の結婚生活は、突然の強制終了を告げられました。 ■暗闇の中で私を救ってくれた、友達の「心の安全地帯」 離婚が決まり、私の心は完全に真っ暗闇のどん底に突き落とされました。これまでの自分の人生がすべて否定されたような気がして、呼吸をするのさえ苦しい毎日でした。 そんな絶望の時期、私の周りにいた大切な友達たちが、全力で私を励まし、支えてくれたのです。 彼女たちは、私の傷ついた心に寄り添うために、本当に心を砕いてくれました。変に「元気出しなよ」とか「前を向かなきゃダメだよ」なんていう綺麗事の慰めは一切言いませんでした。それどころか、私の代わりに、私以上に怒り、一緒になって夫のことを「非道だ!」「最低だ!」「とんでもない悪人だ!」と、言葉を選ばずに徹底的にぶった切ってくれたのです。 「みのりは何も悪くない!」「一生懸命やってきたのを私たちは知ってる!」 そう言って、ドロドロした感情を一緒に吐き出してくれた友達の姿を見たとき、私の張り詰めていた心の糸が、フッと緩まるのを感じました。誰にも言えない惨めさや怒りを、彼女たちの前では包み隠さず全部さらけ出すことができたのです。 この時、友達が一緒になって怒り、悲しみ、私の感情のすべてを全肯定してくれたことは、本当に大きな力になりました。どれだけありがたかったか、言葉では言い表せません。彼女たちが作ってくれた「どんな感情を吐き出しても絶対に否定されない安全な空間」があったからこそ、私は自分の壊れそうな心をなんとか保ち、正気を保つことができたのです。 この「友達が心を砕いて寄り添ってくれた」という原体験こそが、今、私が電話相談で多くの方のお話を聞き、どんな感情も丸ごと受け止めていきたいと思う強いベース(心の土台)になっています。 ■私たち4人を生き延びさせてくれた、もう一つの安全地帯 そしてもう一つ、私の手元に残された、まだ小さな3人の子供たちと、一歩先すら見えないこれからの生活への不安。もし自分一人だけだったら、あの絶望の淵から立ち上がることすらできなかったかもしれません。 経済的にも精神的にも追い詰められ、愛する子供たちを手放さざるをえないという、最悪の結末がすぐ目の前まで迫っていました。 そんな私を、物理的にも全面的に救い上げてくれたのは、私の実家の両親でした。 当時、健在だった私の父と母は、事の顛末をすべて静かに、じっくりと聞いてくれたあと、迷うことなく「子供たちを連れて、すぐにうちに帰ってきなさい」と、私たち親子4人を実家へと呼び寄せてくれたのです。 実家に戻った私たちを迎えてくれたのは、温かいお風呂、温かいご飯、そして何よりも「ここにいていいんだよ」という、誰も私たちを責めない無条件の優しさでした。 あの独身時代に、私が先陣を切って小さなアパートに作った「心の逃げ込み寺」。今度は、傷つき果ててボロ雑巾のようになった私が、両親が作ってくれた大きな「安全地帯」に逃げ込ませてもらう番だったのです。 実家という避難所のおかげで、私たち親子4人は、間違いなく生き延びることができました。凍りついていた心が、実家のぬくもりによって、少しずつ、少しずつ溶かされていくのを感じました。毎日温かいご飯を食べ、温かいお風呂に浸かれるということが、どれほどありがたく、救いになったか分かりません。 この時、両親が何も言わずに私と子供たちを包み込んでくれたことへの、深い深い感謝。この「救われた」という強い想いがあったからこそ、私はのちに、重度の認知症になった父と、大腸がんを患った母の介護が必要になったとき、何の迷いもなく「今度は私が、お父さんとお母さんを全力で支え、看取る番だ」と、心の底から覚悟を決めることができたのだと思います。私の介護への原点は、まさにこの離婚の暗闇のなかで、両親からもらった光にありました。 ■壊れた機械のようになってしまった、傷だらけのあなたへ この、突然の裏切りによる離婚劇と、そこから友達や実家という安全地帯に救われたストーリーは、今、私がココナラでお客様の複雑な悩みをお聴きする上での、最も強い背骨となっています。 パートナーの不倫を知ったとき、あるいは突然の別れを突きつけられたとき、人間の心は簡単に崩壊します。かつての私のように、まるで「壊れた機械」のように、怒りと悲しみで叫び出すことしかできなくなるのは、あなたがそれだけ相手を真っ直ぐに想い、家庭や仕事を一生懸命に守ってきた証拠です。 〇周囲に言えない不倫の傷跡に苦しむ方 〇人間関係の破綻にのたうち回っている方 〇ただただ苦しくて身動きが取れない方 〇裏切られた側だけでなく、誰にも言えない激しい恋心のはざまで身を焦がし、周囲から「最低だ」と責められて孤独に震えている方 どんな立場であれ、心が壊れるほどの痛みを抱えているあなたに、私はあの日の友達や実家のような温もりを持って、こう伝えたいのです。 「今のあなたは、壊れた機械のようになってしまって当然なんだよ。それほどまでに深い傷を負ったんだから。ここでは、その泥ドロした感情も、行き場のない怒りも、世間には言えない本音も、格好つけずに全部吐き出していいんだよ」と。 人を真っ直ぐに愛したからこその絶望も、そこから命からがら生き延びる過酷さも、私はすべて自分の身をもって経験してきました。そして、一緒になって怒ってくれる友達の存在が、どれほど心を軽くしてくれるかも知っています。 だからこそ、あなたが今どんなにボロボロで、惨めな気持ちになっていたとしても、私はあなたを温かいお風呂のような安心感で包み込み、あなたの代わりに怒り、あなたのすべての感情を肯定します。 あなたが安心して心を休め、もう一度自分の足で立ち上がれる日まで、私はずっとここで、あなたの手を握って待っています。どうぞ、あの日の私がお友達や実家を頼ったように、いつでも私の胸に飛び込んできてくださいね。
・子どもの小児喘息と、オーガニックの罠。お母さんの笑顔こそが最大の特効薬 2015年4月 〜 2015年4月
※匿名・年齢非公開のため期間は変えて掲載しています(*´▽`*) ご理解いただけますと嬉しいです。 ✼••┈┈┈┈•• シングルマザーとして実家に身を寄せ、両親と友達の温かいサポートのおかげで、なんとか命からがら生き延びることができた私と3人の子供たち。 しかし、一難去ってまた一難。 私を待っていたのは、まだ幼い長男の「小児喘息」という、新たな、そしてつらい試練でした。 夜中に突然、ヒューヒュー、ゼーゼーと苦しそうに呼吸を始め、小さな体を折り曲げて激しく咳き込む息子。その背中をさすりながら、何もしてあげられない自分の無力さに、私は毎晩のように胸を締め付けられる思いをしていました。 「どうしてこの子がこんな目に遭わなければいけないの?」 「私の育て方が悪いから、この子をこんなに苦しませてしまっているのではないか」「やっぱり離婚したのが原因なんだろうか…」 離婚の傷もまだ癒えきらないなか、私は新たな罪悪感と、息子の命を守らなければという強いプレッシャーのなかに放り込まれたのです。 ■病院ジプシーの日々と、辿り着いた「食」への道 息子の喘息を少しでも良くしたい一心で、私は必死になって病院を巡りました。 「あそこの小児科が良い」と聞けば遠くても飛んでいき、「このアレルギー科の名医が効く」と聞けば何時間も待合室で待つ。いわゆる「病院ジプシー」の状態でした。 しかし、どこの病院に行っても処方されるのは吸入器やアレルギーの強い薬ばかりで、根本的な解決には至らず、発作が起きるたびに薬で一時的に抑え込むだけの毎日に、私は焦りと不安を募らせていきました。 そんな病院ジプシーの果てに、ようやく最後に行き着いたある病院で、一人の医師からこれまでにないアドバイスを受けました。 「お母さん、薬に頼る前に、まずは毎日食べる『お米』を見直してみませんか。主食を玄米に変えてみるか、もし精米するなら家庭用の精米機を自分で買って、三分づき(さんぶづき)や五分づき、七分づきにして、お米の栄養を丸ごと食べるようにしてみてください」 それは、それまで薬のことばかり考えていた私にとって、目から鱗が落ちるような言葉でした。 「食べるものが、この子の体を作っているんだ」 腑に落ちた私は、すぐに家庭用精米機を購入しました。 毎日、玄米をそのまま炊いてみたり、子供たちが食べやすいように五分づきや七分づきにして工夫を凝らしたり、お米の洗い方や炊き方に至るまで、試行錯誤を繰り返す日々が始まりました。 ここから、私の「食」に対する探求はさらに加速していきます。 マクロビオティック、自然療法、未来食……。息子の体を内側から変えるための学びを見つけては、夢中になって知識を吸収し、実践していきました。 化学調味料を一切排除し、調味料はすべて昔ながらの製法で作られた本物に変え、野菜の切り方一つ、火の通し方一つにも、学んだ通りのルールを厳格に当てはめていきました。 ■「有機」「無農薬」の罠。完璧主義に囚われて失った笑顔 「食事を変えれば、息子は絶対に良くなる」 そう信じていた私は、いつしか「体に良いもの」を追求するあまり、極端な完璧主義の罠にすっぽりとハマり込んでいきました。 買い物に行けば、食品表示の裏側を血眼になってチェックする毎日。 添加物が入っているものは「毒」であり、避けるべき悪。野菜は有機栽培や無農薬のものでなければ意味がない。少しでも体に悪いとされるものを子供の口に入れることは、母親としての怠慢であり、息子の喘息を悪化させる原因になる。 そんなふうに、当時の私の頭の中は「正しい食事」というルールでガチガチに固まっていました。 しかし、そうやって頑張れば頑張るほど、私の心はどんどん苦しく、窮屈になっていったのです。 無農薬の野菜やこだわりの食材を揃えるのにはお金も手間もかかります。3人の子供を抱えるシングルマザーの生活の中で、毎日完璧な自然食を作り続けることは、想像を絶する重労働でした。 「どうしてこんなに頑張っているのに、完璧にできないんだろう」 「また無農薬じゃない野菜を使ってしまった」 お惣菜や市販のお菓子を美味しそうに食べている周りの親子を見ては、「あんなものを食べさせて信じられない」と心の中で批判し、同時に、そこまで神経質になれない自分を責めて、自己嫌悪に陥る。 息子の体を健康にするために始めたはずの自然療法が、いつの間にか私から心の余裕を奪い去り、私をピリピリとした「怒りっぽい母親」に変えてしまっていたのです。食卓からは笑顔が消え、まるで義務を果たすための緊張感漂う空間になっていました。 ■目の前で起きた発作。息子が教えてくれた「心の繋がり」 そんなある日のことでした。 些細なことがきっかけだったと思います。育児の疲れと、思うようにいかない苛立ち、そして完璧にやらなければというプレッシャーで心が限界を迎えていた私は、子供に対して、感情をそのままぶつけるように、めちゃくちゃに激しく叱りつけてしまったのです。 怒鳴り散らす私の声が、部屋中に響き渡りました。 子供は怯えた目をして、私の顔を見上げていました。 その、まさに次の瞬間でした。 息子の喉の奥から、「ヒュー……」という、あの聞き慣れた不吉な音が聞こえてきたのです。 みるみるうちに息子の顔色が変わり、激しい喘息の発作が、目の前で、信じられないほどのスピードで起きました。息が吸えなくて苦しそうにのたうち回る息子の姿を見た瞬間、私の頭に、まるで雷が落ちたような強烈な衝撃が走りました。 「……あぁ、私のせいだ」 そのとき、私はハッキリと理解したのです。 どれだけ無農薬の食事を食べさせ、どれだけマクロビを徹底して体を整えようとしても、目の前にいる母親の私が鬼のような形相でピリピリと怒り狂い、子供の心を恐怖で満たしてしまっていたら、そんな「正しい食事」なんて何の意味もないのだということを。 お母さんの心の状態、子供との関わり方、家庭の中の空気の温度。それらすべてが、目に見えない絆を通じて、子供の体の健康をこれほどまでにダイレクトに左右しているのだという現実を、私は息子の体を張った反応によって、痛烈に、残酷なほど突きつけられたのでした。 私が守るべきだったのは、完璧なお皿の上のメニューではなく、子供が安心して呼吸できる「お母さんの笑顔と、温かい空気」だったのだと、その日、私は涙が枯れるほど泣きながら、眠っている息子に「ごめんね」と何度も謝り、心から反省したのでした。 ■頑張ることを手放し、「良い加減(いいかげん)」のバランスへ この痛烈な経験を経て、私の「食」と「子育て」に対するスタンスは、劇的に変わっていきました。 「もう、頑張りすぎるのはやめよう」 私は、自分を縛り付けていたオーガニックやマクロビの厳格なルールを、一度手放すことにしました。 有機だ無農薬だと目の色を変えて食材を探し回るのをやめ、スーパーで手に入る普通の食材も「ありがたいね」と受け入れる。たまには添加物が入ったお菓子だって、みんなで「美味しいね!」と笑顔で分け合って食べる。 「体に良いものを食べさせること」よりも、「家族みんなで、おしゃべりをしながら、何でも美味しく、楽しくいただくこと」を最優先にするようにしたのです。 できる範囲で、心地よく取り組む。 お金があるときは良い食材を、お金や時間が限られているときは、そのときの状況に合わせて無理はしない。完璧を目指してイライラするくらいなら、適度に手を抜いて、お母さんがニコニコ笑っている方が、子供の体にとっては100倍の栄養になる、そう思えるようになったんです。 この、極端なこだわりから一歩引いて、物事を広い視野で捉える「バランスのいいポジション(中庸)」の視点が身についたことは、私のその後の人生において、大きな宝物となりました。 不思議なことに、私が肩の力を抜き、家庭の中に笑顔と穏やかな時間が戻ってくるにつれて、あんなに私を悩ませていた息子の喘息の発作は、少しずつ、でも確実に落ち着いていったのです。 ■「お母さん、あなたはもう、十分に頑張っています」 この、子育てにおける完璧主義の苦しみと、お母さんの「心の余裕」が子供の健康に与える影響についての経験は、今、私がココナラでお子さんの病気や、育児、不登校、そして「母親としての自信」に悩む女性たちの相談を受ける上での、何よりものメッセージの源となっています。 これまで私は、仕事やプライベートを通じて、子育てに疲れ果てて自分を責めているお母さんたちの悩みをたくさんお聴きしてきました。 「子供が病気になったり、学校に行けなくなったりしたのは、私の愛情が足りないからかな…」 「イライラして、つい子供を激しく怒鳴りつけてしまう。夜に子供の寝顔を見ては、そんな自分が嫌で苦しい気持ちになる」 「良い母親にならなければと必死に頑張っているのに、誰も褒めてくれず、孤独で息が詰まりそう」 昔の私と、全く同じです。 みんな、我が子を愛しているからこそ、一生懸命になりすぎて、自分自身をがんじがらめに縛り付け、笑顔を失ってしまっているのです。お母さん自身が自分を責めるその痛々しいほどの健気さを思うと、私は胸がぎゅっと締め付けられます。 だからこそ、私はそんなあなたに、あの日の気づきを込めて、優しく伝えたいのです。 「お母さん、あなたはもう、十分に、これ以上ないくらい頑張っていますよ。だから、これ以上自分を責めなくていいんですよ」 お母さんが自分を責めて、プレッシャーに潰されそうになると、どうしても心に余裕がなくなります。 その余裕のなさが、イライラを生み、大切な我が子にぶつけてしまうという、誰も望んでいない悲しい悪循環を生み出してしまうのです。 だからね、まずはあなた自身が、自分の肩の荷を下ろして、一息つくことが何よりも大切なんです。 私の電話相談は、子育てに奮闘して、ボロボロになって、誰にも弱音を吐けないお母さんたちのための「24時間いつでも逃げ込める避難所」です。 ここでは、母親としての立派な姿を見せる必要は一切ありません。 「もう子育てを投げ出したい」「子供を可愛いと思えない瞬間がある」「つい怒鳴ってしまった」といった、他の人には絶対に言えない本音や、自己嫌悪の感情も、私はすべてを優しく受け止めます。100%あなたの味方です。 あなたの話をじっくり聞いて、その頑張りを心から認め、寄り添ってくれる人がそばにいる。それだけで、お母さんの心にはふっと、温かい風のような「余裕」が生まれます。 お母さんの心に余裕が生まれ、あなたが笑顔を取り戻すことこそが、お子さんにとっての何よりの特効薬であり、お守りになるのです。 一人でその重い責任を背負い込まないでください。まずは私に、その肩の荷物を半分、預けてみませんか?あなたが本来の「笑顔のお母さん」に戻れるまで、私はいつでもここで、あなたの味方になってお待ちしていますね。
・長男・長女の不登校と、先回り母の後悔。そこからの起死回生、笑顔が運んできた最高の「ありがとう」 2015年10月 〜 2015年10月
※匿名・年齢非公開のため期間は変えて掲載しています(*´▽`*) ご理解いただけますと嬉しいです。 ✼••┈┈┈┈•• 子どもの健康を守るために「食」に必死になり、「お母さんの笑顔こそが最大の特効薬だ」と身をもって学んだ私。しかし、子育ての試練は体の健康面だけにとどまりませんでした。 次に私の前に立ちはだかったのは、子どもたちの「心」のSOS、すなわち「不登校」という大きな壁でした。 長男と長女、二人それぞれが異なる形で学校に行けなくなる経験を通して、私は「親としての本当の寄り添い方とは何か」を、痛いほど学ばせてもらうことになったのです。 ■長男の不登校:ある日突然、奪われた「居場所」 小学生時代、長男は地域の少年野球チームに所属していました。土日も泥だらけになりながら白球を追いかけ、元気に活動している姿を見るのは、私にとっても大きな喜びであり、当たり前の日常でした。 ところが、小学 5 年生のあるときから、長男の様子に明らかな異変が現れ始めました。 週末が近づくとポツリと「野球に行きたくない」と言い始め、やがて「学校にも行きたくない」と、布団から出てこられない日が増えていったのです。 初めての事態に、私の頭は真っ白になりました。 「どうして急にそんなことを言い出すの?」 「私の育て方が悪いから、この子をこんなに苦しませてしまっているのではないか」 「やっぱり、私が離婚したのが原因なんだろうか…」 離婚の傷も癒えきらないなか、私は新たな罪悪感と、息子を守らなければという強いプレッシャーのなかに放り込まれたのです。 理由を聞くと、原因は少年野球チームでの人間関係でした。 練習中や移動の際、ペアを組んでもらえなかったり、話の輪に入れてもらえず、あからさまな「仲間外れ」にされていたのです。 さらに辛いことに、その子どもたちが学校のクラスでも同じグループでした。野球での冷たい態度がそのまま学校生活にも持ち込まれ、学校という空間そのものが、長男にとって「怖くて行けない場所」へと変わっていました。 狭い子どもの世界の中で逃げ場を失った我が子の孤独を想像したとき、私の胸は張り裂けんばかりに痛みました。「この子をどう守ればいいのか」という、終わりのない暗闇を手探りで進む日々が始まったのです。 ■逃げ込んだ先で見つけた、温かい光と仲間の存在 学校に行けない長男を家に閉じ込めておくわけにはいかないけれど、無理やり行かせることは、傷ついた心をさらに追い詰めることになる。 当時は、フリースクールや学校以外の居場所についての情報が増え始めた時期でした。私は必死になって情報を集め、少年野球チームのお母さんたちと話し合いを重ねつつ、同時に長男の新しい居場所を確保することに動きました。 近くにあるフリースクールへ見学に行き、さらには市が運営している適応指導教室(不登校の子どものための居場所)にも通うようにしたのです。 この選択が、長男の止まっていた時間を少しずつ動かし始めました。 そこには、長男と同じように辛い思いをして学校を休んでいる子どもたちが集まっていました。長男にとって、「学校に行けないのは自分だけじゃない」という事実は、言葉にできないほどの安心感をもたらしたようです。 最初は表情が硬かった長男も、そこで過ごすうちに急速に仲間と仲良くなっていきました。「明日はあそこに行く日だね」という会話が家庭の中で復活し、生活の中に楽しみを取り戻す。その小さな「楽しみ」の積み重ねが、長男の枯れ果てていたエネルギーのコップを、少しずつ満たしていったのです。 ■ スモールステップのはずが…心臓バクバクの新学期 エネルギーをチャージしながら過ごすうちに新年度を迎え、再出発の大きなチャンスがやってきました。 そんな時、温かい手を差し伸べてくれたのが、当時の校長先生でした。 「新しく担任になるこの先生ならしっかり寄り添ってくれます。新学期が始まる前に、一度担任の先生と顔合わせをしてみませんか」 その提案に乗り、春休みの学校へ向かいました。新しい担任の先生は、長男の目を優しく見つめ、「大丈夫だからね。先生はいつだって味方だから」と、心強い言葉をまっすぐに届けてくれたのです。 そして迎えた、新学期初日。 私たちは「保健室登校」のような、別室で少しずつ慣らしていくスモールステップをイメージして校門をくぐりました。 ところが、事態は私たちの予想とは全く異なる展開を見せました。 学校に到着した長男は、先生の誘導のまま、初日からいきなり普通に教室へと案内され、クラスの一員としてスタートすることになったのです。 学校から帰ってきた長男の話から、初日の教室でどれほど心臓がバクバクと脈打っていたかが痛いほど伝わってきました。一度行けなくなった場所にいきなり放り込まれたら、大人だって生きた心地がしないはずです。 しかし、そのバクバクを救ってくれたのは、クラスの周りの子どもたちでした。 子どもたちは、長男が休んでいたことなど何事もなかったかのように、本当に「フツー」に接してくれたのです。「あ、〇〇くん、おはよー!」と、いつも通りの日常の一部として、彼を自然に受け入れてくれました。 この経験こそが、長男にとって何よりの強力な安心材料となりました。「もう怖がらなくていいんだ」と確信した長男は、いつもの笑顔を取り戻し、以前のように当たり前に学校へ通えるようになったのです。 この復帰劇は、先生の細やかな目配り、不登校の時期にしっかりと心の元気をチャージできていたこと、そして長男自身の成長が奇跡のように混ざり合って成し遂げられたものでした。あの時に関わってくださったすべての人への感謝の気持ちは、今でも忘れることはありません。 中学生になってからも小さなトラブルはいくつかありましたが、長男はあの時に培った心の強さで登校し続け、今では母親想いの本当に優しい息子に育ってくれました。 ■長女の「まだら不登校」 長男がなんとか学校に復帰し、ホッとしたのも束の間、今度は長女の「まだら不登校」が始まりました。 長女の不登校は、小学校、中学校と、「行ける日」と「行けない日」が不規則に繰り返される状態でした。 本人の「やっぱり友達が欲しい」という気持ちから、何度も登校をするのですが、毎回、数日行っては行けなくなるのでした。 人一倍のがんばり屋さんだったと思います。 しかし、当時の私は、そんな娘の姿を見ているのが辛くてたまりませんでした。 「また行けなくなったら、この子はどれだけ傷つくだろう」 「進路はどうなるの?将来どうやって生きていくの?」 私は「心配の先回り」をするようになっていきました。娘が傷つく前に、私が先に行って石ころを拾い上げ、道を作ってあげなければいけない。そうやって娘の表情を過剰に伺い、先回りしてアドバイスをしたり、過保護に干渉したりする日々が続きました。 今となっては、冷静に考えられることがあります。 私がしたあの「過度な心配」と「先回り」こそが、結果的に娘の自律するチャンスを奪い、不登校を長引かせる原因になってしまっていたのではないか、と。 私が放つ「大丈夫?」という言葉は、裏を返せば「あなたは大丈夫じゃないよね」という不信感として、娘の心に重くのしかかっていたのかもしれません。 高校生になっても、出席日数を数え、常に中退の境界線、卒業ギリギリのラインを死守しながら、何とかだましだまし二人三脚で卒業しました。ここでも、私の過保護ぶりは遺憾なく発揮されていたと思います。 ■過去は変えられない。だから決めた「笑顔の徹底」 「私は、なんて未熟で至らない母親なんだろう」 長男の時も、長女の時も、もっとうまく対応できていればと、過去を悔やんでは一人でくよくよと泣く夜もありました。 でも、ある時、私の心の中で何かが吹っ切れたのです。 「だめな母親かもしれない。でも、あの時の私は、私なりに精いっぱい、命がけで、MAXで頑張ったじゃない。それしか方法を知らなかったんだから、仕方ないじゃない!」 過去をいくら悔やんでも時計の針は戻りません。過ぎたことはもう変えられない。だったら、過去の自分を責めるのはやめよう。これからの子どもたちとの関わり方にエネルギーを注ごう、と決意したのです。 そこから私は、ある一つの行動を徹底することにしました。 子どもたちから何を言われても、どんな状況であっても、 「私はただ、笑顔で返事をし続ける」 これだけを、何があっても守り抜こうと決めたのです。 学校に行く、行かないはどうでもいい。あなたがどんな状態であっても、お母さんは笑顔でここにいるよ。そのメッセージを、毎日の「笑顔の返事」という行動だけで伝え続けました。 ■子どもがくれた、人生最高の「宝物」 その「笑顔の徹底」を始めてから、2年ほど経ったある日のことです。 娘から、思いもよらない言葉をかけられました。 「お母さん、ありがとう。私がどんなに愚痴を言っても、暴言を吐いても、お母さんをディスっても、お母さんが私のことを絶対に責めないでいてくれたこと、本当に助かってたよ。心の病気だから、自分で分っていても止められないんだ。だから、お母さんは絶対に怒らない、っていう安心感はありがたいよ」 その言葉を聞いた瞬間、これまでの何年もの苦しみや葛藤、自分を責め続けた涙のすべてが、一瞬にして温かい光に変わって洗い流されていくのを感じました。 もちろん、今でも子どもたちから文句を言われることもありますし、過去の母親批判をされることもあります(笑)。 それでも、諦めずに笑顔を送り続けたことが娘の心に届いていた。娘が私にくれた「ありがとう、私を責めないのが助かってる」という言葉は、私のこれまでの人生における、何よりもの一番の宝物です。 ■誰もあなたを責めない「安全地帯」が、ここにはあります この長男と長女の不登校、そして私自身の過保護な後悔から這い上がった経験は、今、我が子のことで自分を責めているお母さんたちに一番伝えたいメッセージです。 子どもが学校に行けなくなったとき、誰よりも自分を激しく責めているのはお母さん、あなた自身ですよね。「私の育て方のせいだ」と暗闇で一人で泣いていませんか。 未熟な母親でもいいじゃないですか。あの時のあなたは、我が子のために精いっぱいのMAXで頑張った。まずはその事実を、自分自身で「よくやったね」と認めてあげてください。 お母さんが過去を悔やむのをやめて、ただ「何があっても笑顔で、責めずにそこにいてくれる」という安心感を作ること。それこそが、子どもがもう一度自分の足で立ち上がるための最強の土台になります。 でも、一人で笑顔を保ち続けるのは本当に大変なことです。だからこそ、私を、あなたにとっての「不安をすべて吐き出すゴミ箱」であり、エネルギーをチャージする「給油所」として使ってほしいのです。 これまで私は、仕事やプライベートで多くのお母さんたちの悩みを聴いてきました。私の電話相談は、誰にも弱音を吐けないあなたのための「避難所」です。ここでは母親としての立派な姿を見せる必要は一切ありません。どんな本音を吐き出しても、私は100%あなたの味方です。 あなたが不安を全部預けて、心がふっと軽くなり、お家で「笑顔のお母さん」に戻るお手伝いをさせてください。もう一人で抱え込まなくて大丈夫です。いつでも、あなたのお電話を心からお待ちしています。 (*´▽`*)
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