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みのり|笑顔と癒しのほっとカフェ✿
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心を軽くするプロ♡心が晴れる時間♪
女性
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  • 機密保持契約(NDA)
  • インボイス発行事業者 未登録
  • 販売実績 35
  • 評価 4.9
  • フォロワー 179
納品ごとの予算目安
  • 悩み相談・カウンセリング

    雑談から深い悩みまで幅広い共感が得意です

    ■認知症介護、病気介護、介護ストレス

    ■人間関係(家族、職場、地域、親戚)

    ■ 子育て、不登校、引きこもり

    ■不倫、恋愛

    ■夫婦、離婚、別居、

    ■吃音症、家族の病気

    ■将来の不安、悩み、焦り

    ■愚痴、不平不満、ストレスお悩み相談

    心を軽くする。元気サポート。習慣サポート

スケジュール

8 月 25 日 (火) 20 ~ 24 時...

誰にも言えないモヤモヤまるっと受け止めます。一人で悩む夜はもう終わり。あなたの心に寄り添います✿

人生の波乱万丈を 味わってきたからこそ解る。 離婚、子育て、介護を経験した みのりに何でも話して下さい♪ ✼•┈┈•✼ 離婚して1人で 3人の子育てをしていたとき 小児喘息を患っていた 長男を何とかしたくて 病院ジプシーと 食事療法にのめり込んだ 時期がありました。 目を吊り上げて あれもダメこれもダメと イライラカリカリ 心に余裕がなくなって ある日しかりつけの声が ヒートアップ 目の前でみるみる 喘息の発作を起こしたことが ありました。 その夜、寝ている子供に 泣いて謝りました。 今でも忘れられない 苦い思い出です。 また、夫に お前は、俺には必要ない と言われて深く傷つき 心が固まり動けなくなった こともありました。 そんなとき家族や友達が ・みのりはみのりでいいんだよ ・絶対に良くなるよ、と 寄り添ってくれたことで 私は私でいいんだ、と 前を向けるようになったんです。 ✼•┈┈•✼ 他にも こんな経験を してきました 夫の不倫 辛い恋愛 不登校 引きこもり 父親の認知症介護 母親の大腸がん介護 両親の看取り 仕事のストレスからの吃音症 どんな時でも 話を聞いてもらうことが 乗り越えるための 私の心の支えでした。 人に話を聞いてもらう 誰かにそばにいてもらえる それが生きる力になるんだ ということを身をもって 体験してきたんですよね。 だから、今度は自分が 誰かのお力になりたい 前を向くお手伝いを させてもらいたい そう思うようになったんです。 どんなお話でもしっかり聞いて 一緒に考えることで 誰かの力になれる 私はそう信じています。 ✼•┈┈•✼ これまで、このような思いに 寄り添ってきました ✿いい歳だけど好きな人ができた。でも、話せる人がいない ✿子供が引きこもって、将来が不安 ✿大切な人を亡くして心が押しつぶされそう ✿夜になると、親に言った暴言を思い出して眠れない どんな問題でも、いちど脇に置いて 心の余白や小さな安心をつくるサポートが得意です。 私たちの毎日って 解決しない問題だらけですよね 介護も人間関係も何をどうしたって 明日も明後日も続いていく… もし、心の荷物をいったん脇に置いて ひと息つけたら、少しラクになると思うんです。 その、ちょっとしたスキマに 笑顔や、元気や、安心が スッと入ってくる 何かをするパワーや 新しい視点も そのスキマにやって来る。 これは私も実体験済みです(^^) あなたのどんな話でも受けとめます。 泣いてしまっても黙ってしまっても大丈夫。  あなたのペースでお話し下さいね。 心が晴れるまで隣にいます♪ 全力であなたに寄り添います♡ ✿秘密厳守します ✿匿名で評価できます ✿あなたの笑顔が輝きますように♪

出品サービス(14件)

ポートフォリオ

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職種・スキル

経験職種

ビジネス・クリエイティブツール

  • Google ドキュメント 経験年数 : 3年

  • Word 経験年数 : 2年

  • ChatGPT 経験年数 : 2年

  • Canva 経験年数 : 3年

  • ペライチ 経験年数 : 2年

その他ツール

  • 介護職で磨いた寄り添い力 経験年数:20年

得意分野

  • ・雑談から深い悩みまで幅広い共感が得意です

    ▶今日、こんなことがあったよ(嬉しいことも、嫌なことも) ▶ストレスMAX、イライラ爆発、おさまらない気持ち ▶将来のことを考えると眠れない ▶スキマ時間に、ちょっとだけ話したい ▶一人でちょっと寂しいから誰かと繋がりたい ▶他人だからこそ遠慮なく話せる話 ▶こんなこと、言ってもいいのかな… ▶クーポン利用もお気軽に なんでもお話しください。圧倒的包容力でスタンバイ中(^o^)

    ・■認知症介護、病気介護、介護ストレス

    ▶軽度認知症から重度認知症まで悩みに寄り添います ▶つらく当たったり、力任せに介護して、後から後悔がでるとき ▶介護ストレス、誰にも話せない、理解してもらえない ▶罪悪感や孤独感、いつまで続くのかという不安 介護職20年(ケアマネ3年)両親の介護と看取りを経験しました。 家族目線とプロ目線でお話しお聞きします。 どんな気持ちもあなたの優しさが根っこにあるから。 安心しに来てください。

    ・■人間関係(家族、職場、地域、親戚)

    ミドル女性は母、娘、妻、嫁など 役割が多くて、その分人間関係が多岐に渡ります。 職場の人間関係につまずいて吃音症になったことや、 夫の不倫が原因で離婚したことで心が病んだ経験もあります。 でもそのおかげで、対人スキルが高くなりました(笑)。 人間関係に悩まれている方は繊細な方が多いです。 私の人生経験の全てを使って、あなたの心を軽くします。 心を軽くして人生も軽くしましょう♪

    ・■ 子育て、不登校、引きこもり

    3人の子供を育ててきました。 いじめられていることにに気づかなかった、 心配し過ぎて子どものつらさを長引かせた、 などいろんな失敗をしてきました(^_^;)。 でもその分、あなたのお役に立てると思っています。 心配のし過ぎは良くないものの 母親なら心配するのも仕方ないと思うんです。 母としての苦痛や葛藤、頭では分かっていてもできない苦しみ。 そんな感情や気分転換に寄り添います。

    ・■不倫、恋愛

    夫の不倫からの離婚を経験しました。 不倫してる側、された側の 両方の痛みを受け止めます。 どんな想いも否定しません。 否定されて自己肯定感が低いときは 優しくされると心が揺れますよね。 そんな揺れるあなたに寄り添います。 言葉にすることで見えてくる気持ち。 そんな気持ちを自分で肯定できるよう 精一杯お手伝いします♪ あなたはあなたのままでいいんです(´▽`*)

    ・■夫婦、離婚、別居、

    私自身は子供が小さいころに 離婚していますが、 日々悩み苦しんできたことを生かして あなたの悩みに寄り添います。 ▶結婚〇十年。会話がない ▶お互いの不満。言えないままチリが積もって心が限界 ▶今さら離婚しても…どうすればいい? 状況はお一人お一人違うもの。 あなたの応援団長になって100%味方になります。 どんな選択でも自信を持って人生を送れるようにエールを送ります!

    ・■吃音症、家族の病気

    一時的ではありましたが、人間関係につまずいて強いストレスから吃音症になった経験があります。また、母親の大腸がん。子どもの境界性パーソナリティー障害。家族の病気もまるで自分のことのように苦しんで、空回りしたことも。そんな辛さも失敗も私の人生の宝です。その経験であなたの今の苦しい気持ちに寄り添います。否定されない安心安全の居場所を用意して待っています(*´▽`*) まずは、ほっとしに来てくださいね♪

    ・■将来の不安、悩み、焦り

    将来のことは分からないからこそモヤモヤするんですよね。 言葉にして、吐き出すことで整理できます。 ▶何にモヤモヤしているか ▶何に取り組むか ▶何を手放すか 分かると安心できます。 一緒に探します ▶何かしたいけど、やりたいことが無い ▶やりたいことが分からない ▶気になっているけど誰にも言えない そんなあなたの心に寄り添って 変わるための小さな一歩をお手伝いします。

    ・■愚痴、不平不満、ストレスお悩み相談

    どんな感情もどんな思考も、宝物。 ダメだ、イヤだと否定しないで、 じっくり向き合ってみませんか? そのままにしないで言葉にすること、 吐き出すことで、離れて 冷静に 見ることができるようになります。 そこから、 本当はどう感じていたのか、 どうしたいのかが見えてきます。 「納得」と「安心」が感じられたら それがあなたの答えです(^-^) スッキリしに来て下さいネ!

    ・心を軽くする。元気サポート。習慣サポート

    どんな悩みも一度言葉にすることで離れられて軽く感じるようになります。心の余白作りを大切にしています。その余白に、安心や元気やパワーが生まれてきます。新しい発想も行動のヒントもやってきます。一緒に心の余白を作るお手伝いをします。よく、話していると元気になると言われます。私が多くの方からいただいた元気をあなたにバトンで渡せるのを楽しみにしています。習慣化したい方のご依頼も大歓迎です。サポート承り中!

    • 介護
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    • 人間関係
    • 離婚
    • 不倫
    • kindle出版
    • 電話相談
    • 浮気
    • 夫婦
    • 悩み相談

資格・検定

  • 介護福祉士 取得年:2015年

  • ケアマネジャー(介護支援専門員) 取得年:2015年

  • ホームヘルパー2級 取得年:2009年

経歴

職歴

  • みのり|みちのく✿癒しのほっとカフェ 2008年6月 2022年4月

    ・誕生から結婚するまでの独身時代 2008年6月 2008年6月

    ※匿名・年齢非公開のため期間は変えて掲載しています(*´▽`*) ご理解いただけますと嬉しいです。 はじめまして、みのりです。 人生の試練や壁は、ほとんが離婚をしてからなんですが、 話し相手としての芽は色々な年代にありました。 ここでは、生まれた時からのことを思い出しながら書いていますので 昭和の景色や温度感をお楽しみいただけたら嬉しいです♪ そして、私の性格や人となりを知っていただけたらありがたいです、 更に、仲良くしていただけたらとてもとても嬉しいですヾ(≧▽≦)ノ ┄▸◂┄▹◃┄▸◂┄▹◃┄┄▸◂┄ 私は家族の中では記憶が少ないほうなんです。 兄妹から「そんなことも覚えていないの?」と笑われることもありますが、それでも思い返してみると、心に残っている風景がやっぱり出てくるものですね。 夕方、自転車の後ろに乗って保育園から帰った道。どこからともなく漂ってくる夕飯の匂い。冬の寒い日に買ってくれた温かい肉まんを母の背中を見ながら食べた優しい記憶。そして家族みんなで過ごした何気ない毎日。 幼い頃は当たり前だったその景色が、大人になった今では、どれも大切な宝物のように感じられます。 私は東北地方のある町で生まれました。 共働きの両親、三歳年上の兄、父方の祖父母と一緒に暮らす六人家族です。その後、妹が生まれ、七人家族になりました。 祖父は定年退職後も仕事を続け、父と母も毎日仕事へ出かけていました。祖母は家を守り、家族の食事や家事を担っていました。 今では核家族が増えましたが、当時は三世代同居が珍しくない時代だったんですね。近所にも同じような家庭が多かったです。 幼い頃は家の周りに田んぼや畑がたくさん広がっていました。私が小学生になる頃には少しずつ埋め立てが始まり、住宅が建ち並ぶようになっていきました。 今ではすっかり住宅地になっていますが、私が幼い頃はまだ工事の途中で、積み上げられた土の山に登って遊んだり、重ねられた土管で遊んだことも楽しい思い出です。 子どもにとっては工事現場さえも遊び場だった、そんな時代です。 近所同士のつながりも今よりずっと濃く、町内の子どもたちの名前や顔は、ほとんどの大人が知っていました。 子どもの頃と大人になってから、大きな地震を二度経験しました。 当時の家は今ほど耐震性が高くなく、壁が崩れたり、ブロック塀が倒れたりする様子を目の当たりにしました。何が起きたのか分からなくても、大人たちが慌ただしく動く姿だけは今でも覚えています。 ┄▸◂┄▹◃┄▸◂┄▹◃┄┄▸◂┄ 父は、とても穏やかな人で、思い返してみても、本気で怒られた記憶がほとんどありません。 兄妹げんかをした時に一度だけお尻を叩かれたことがありますが、それ以外は記憶にないんですよね。 ありがたかったと大人になってから思いました。 なんせ、私は子どもに怒ってばかりでしたので…(^_^;) 母親が間に入る分、父親は怒ることをしないで済むのかもしれないですね。 それはそれでズルいかも(笑)。 何でも器用にこなす父は、少年野球の監督をしたり、ソフトボールを楽しんだり、卓球を教えてくれたり、ボウリングにも連れて行ってくれました。 地域活動にも積極的で、小学校のPTA活動にも参加し、近所の人からも頼りにされる存在でした。 子どもだった私は、それが特別なことだとは思っていませんでしたが、今振り返ると、仕事をしながら地域活動にも関わり、子どもとの時間も大切にしてくれたということは、本当に忙しかっただろうなーと思います。 そんな父との思い出の一つが、お風呂です。 父の職場には家族も利用できる大きなお風呂があり、連れて行ってもらうことが度々ありました。 兄や妹と一緒に広い湯船へ入り、家のお風呂とは違う開放感にわくわくしたことを今でも覚えています。 また、近所にあったたこ焼き屋さんやホルモン焼き屋さんへ「今日、食べに行こうか」と父が連れて行ってくれることもありました。それほど高価な外食ではありません。 でも子どもにとっては特別なイベントだったんです。 兄妹で今でも話題になるくらい、大切な思い出です。 ┄▸◂┄▹◃┄▸◂┄▹◃┄┄▸◂┄ 母は父とはまた違う魅力を持った人でした。 とにかく明るく、歌が上手で、行動力があり、「やってみたい」と思ったことには迷わず挑戦する人でした。 その姿を見ながら育った私は、気づけば母によく似た性格に(笑)。 新しいことに興味を持ち、まずは挑戦してみる。失敗してもまたやってみる。 そんな考え方は、きっと母から受け継いだものなのだと思います。 何よりも印象に残っているのは、母はいつでも私を応援してくれたことです。 周りから「やめておいた方がいいんじゃない?」と言われるようなことでも、母だけは「頑張ってみたらいいよ」と背中を押してくれました。 私からの願い事を断られた記憶もほとんどありません。 否定されることなく、「応援しているよ」と言ってもらえたことは、子供時代の私にとって何よりの安心感でした。 これが、今の私が、目の前の人を否定しない、全力で応援する、という気持ちを大切にしている原点の気がしています。 ┄▸◂┄▹◃┄▸◂┄▹◃┄┄▸◂┄ 祖父との思い出は、決して派手なものではありません。 でも、一緒に暮らしているというだけで安心感があり、家にはいつも祖父の存在がありました。 私は現在、介護の仕事に携わっています。 体力的には大変な仕事ですが、不思議と「向いていない」と思ったことは一度もありません。 むしろ、お年寄りと話をすることが好きで、昔話を聞いたり、笑顔になってもらえたりすると、とても嬉しい気持ちになります。 なぜこんなにも高齢者と接することが好きなのだろうと考えた時、自然と思い浮かぶのが祖父との時間です。 一緒に暮らし、お年寄りが身近にいる生活が当たり前だったからこそ、年齢を重ねた方への抵抗感が全くありませんでした。 祖父が年を重ねてからは、当時まだ高校生だった私も自然と身の回りのお世話をしていました。 その頃は「介護」という言葉は今ほど一般的ではなく、「お世話をする」という感覚でしたが、その経験が今の仕事につながっているのだと思います。 一方で、祖母との関係は少し違いました。 祖母はいわゆる「厳しい人」で、母は嫁姑関係にとても苦労していました。 当時は今以上に嫁姑の関係が複雑だった時代です。 近所でも有名な「意地悪ばあさん」で、子どもだった私にも、母が毎日つらい思いをしていることは伝わってきました。 私自身も祖母に特別甘えた記憶はなく、いつも母の味方をしていたからように思います。 幼いながらに「お母さんがかわいそう」という気持ちが強く、家族みんなで母を支えていたような記憶があります。 戦争で両親を亡くしていた母には帰る実家がなく、どんなに辛くても、そこにいる以外の選択肢はなかったのです。それを知っているから、娘としても母の盾になるべく祖母と喧嘩ばかりしていた気がします。 でも不思議なことに、大人になって振り返ると、その経験が家族の絆をより強くしてくれたようにも感じています。 祖母という存在がいたからこそ、家族が一致団結できた部分もあったのかもしれません。 ラスボスが強いほど、みんなの団結を強めて戦っていく、そんなゲームありますよね?(^^♪ そのラスボスばあさんの話も、今では「あの頃はいろいろあったね」と笑いながら話せる思い出になっています。 もし今、嫁姑関係で悩んでいる方がいたら、「一人で抱え込まなくていいよ」と伝えたくなります。 誰かに話すだけでも、心は少し軽くなるものです。 兄妹との関係も、年齢とともに少しずつ変わっていきました。 三歳年上の兄とは、小さい頃から一緒に遊ぶことが多く、自然と兄と過ごす時間が長くなりました。 一方で妹とは年齢が離れていたため、本当に仲が深まったのは大人になってからです。 お互いに結婚し、子どもが生まれてからは、姉妹として話す時間も増えました。 同じように子育てを経験したからこそ分かり合えることも多く、今ではとても心強い存在です。 私自身も三人の子どもを育てましたが、娘からは「女きょうだいが欲しかった」と言われることが何度もあります。その気持ちもよく分かります。 私自身、妹がいることで助けられたことがたくさんあるからです。でも、兄弟の数や女か男かというのは大人の事情もあるし、どうにも出来ない事でもあるから、子供に何と言われようと仕方ないですよね(^_^;) さて、幼い頃の思い出として、一番心に残っている場所は保育園です。 両親が共働きだったため、兄妹三人とも保育園で育ちました。 兄と一緒に通った時期もあれば、一人で通った時期もあります。 雨の日以外は、母の自転車の後ろに乗って帰ることが多くありました。 夕方になると、住宅街のあちこちから夕飯を作る匂いが漂ってきます。 「今日はカレーかな。」 「お魚の匂いがするね。」 そんな何気ない会話を母と交わしながら帰る時間が、とても好きでした。 冬になると、母が肉まんを買ってくれることもありました。 冷え切った手を温めながら食べる肉まんは、子どもの私にとって何よりのごちそうでした。 今でも冬になると、その頃のことを思い出します。 保育園で特に嬉しかった思い出があります。 それは、お昼寝の時間に迎えが来る日です。 みんなが眠っている中、先生が小さな声で「お母さんがお迎えに来たよ」と教えてくれます。 そっと荷物を持って教室を出る、あの特別感。 子どもながらに「今日は特別な日だ!」という気持ちで胸がいっぱいになりました。 今でも思い出すと、自然と笑顔になります。 家では兄と並んで寝ていました。 寝る前になると、二人だけの空想遊びが始まります。 枕の下には秘密の冷蔵庫があるという設定です。 「今日はケーキが入ってるよ。」 「私はアイスを見つけた。」 「交換しよう。」 もちろん本当の冷蔵庫ではありません。 全部、子どもらしい想像の世界です。 それでも、その時間は本当に楽しく、何十年経った今でも忘れられない思い出になっています。 おやつも今ほど種類が豊富な時代ではありませんでした。 祖母が買ってきてくれるお菓子は、おせんべいやかりんとう、落雁など、どちらかというと昔ながらのものばかり。 七人家族だったので、一人でたくさん食べられるわけではありません。 子どもの頃の私の小さな夢は、「いつかおせんべいを一袋全部一人で食べてみたい。」ということでした。 今思えば、とてもかわいらしい願いです。 そんな何気ない毎日を積み重ねながら、私は育ってきました。 幼い頃には気づきませんでしたが、大人になり、親になり、介護の仕事に就いた今だからこそ分かることがあります。 両親が共働きを続けながら子どもを育ててくれたこと。 母が十五年間、子どもたちを保育園へ送り迎えしていたこと。 父が忙しい中でも家族との時間を大切にしてくれていたこと。 祖父母と暮らしたからこそ、お年寄りが身近な存在になったこと。 そして、家族にはさまざまな出来事があっても、お互いを思いやる気持ちが私の土台になっていること。 幼い頃の記憶は決して多くありません。 それでも心に残っている温かな景色は、今の私をつくる大切な原点です。 これからも、人の話に耳を傾け、誰かの気持ちに寄り添える人でありたい。 そう思えるのは、あの頃の家族との日々があったからなのだと思います。

    ・周りに抜かされる挫折をまだ知らないイケイケ小学生時代から大人になるまで 2009年4月 2009年4月

    ※匿名・年齢非公開のため期間は変えて掲載しています(*´▽`*) ご理解いただけますと嬉しいです。 ✼••┈┈┈┈•• 私の小学校時代は体格もまあまあ良くて、 中学高校で、どんどん周りの生徒に 運動能力を超えられていく挫折をまだ知らない(笑)、 自信たっぷりの小学生でした。 小学生時代は、身長と体重の1年の差は大きく、 学年で早い時期の誕生日の子どもは、 早生まれ(1,2,3月)の子どもより 大きいことがよくありますよね。 私もまさしくそれでした。 6月生まれだったので 体はわりと大きい方だったんです。 運動会での徒競走。 テストの点数。 音楽会での物覚えの速さ。 先生に褒められることも多く、 人生を謳歌していたかも?ヾ(≧▽≦)ノ と思えるような小学生時代でした。 縄跳び授業では家での猛練習の甲斐もあって 全児童の前でお披露目したこともあったんですよ(ピース) そんなわけでしたから、 中学高校で、運動音痴が表に顔を出し始めるのですが 小学生のころは、そんな時代が来るなんて 夢にも思わなかったですね(^_^;) 今では小学校のまわりはほとんど住宅になっていますが、 当時はまだまだ田んぼが多くありました。 バッタを取ったり、トンボをとったり。 カエルやおたまじゃくしも、よく見ました。 怖くて捕まえることはしなかったものの、 カマキリも田んぼではよく見かけました。 夏休みには小学校の校庭で盆踊りや花火大会がありました。 町内会ごとに出店を出して賑やかにやっていたんですよ。 時代だと思いますが、おそらくその当時 協賛金がそこそこ集まったんでしょうね。 毎年夏まつりには打ち上げ花火を景気よく上げていましたね。 「私も子どもの頃そんな感じだったよ~」という方! きっと私と同じ年代です(笑)。 ✼••┈┈┈┈•• 自営業の家だといろんなエピソードがあるかもしれませんが 我が家は地方公務員の家庭。 フツーの家庭でフツーに生活してきました。 そんな「フツーで、ちょっと自信満々」だった私の前に、 最初の大きな壁が立ちはだかったのが、中学校への進学でした。 昭和のエネルギーがまだ満ちていたあの頃。 制服に身を包み、少し大人に近づいたような 誇らしい気持ちで通い始めた中学校でしたが、 そこで待っていたのは、 小学生時代の「生まれ月貯金」が全く通用しない「厳しい現実」でした。 まず直面したのが、あんなに自信のあった運動能力の崩壊です。 中学校に入ると、周りの友達の成長スピードは凄まじいものでした。 早生まれだった子がグングン背を伸ばし、 体格も体力も、あっという間に追い抜かれていく。 小学校の頃は体格の良さでカバーできていたものの、 だんだんと自分の「運動音痴」な部分が隠せなくなってきました。 体育の時間、周りの友達がスマートにこなしていく中で、 自分の体は思うように動かない。 「あれ? おかしいな」と思っているうちに、 走るのも球技をするのも、すっかりクラスの後方グループが定位置になっていきました。 そんな自覚もあり、中学校では運動部ではなく文化部を選びました。 昭和の部活動といえば、運動部が学校のヒエラルキーの中心にいて、 夕方のグラウンドや体育館から響く大きな掛け声が主役だった時代です。 そんな熱気あふれる運動部の友達をどこか眩しく、 遠い存在のように眺めながら、文化部の静かな教室で過ごしていた私。 徒競走でいつも真ん中より後ろを走るようになった時や、 華やかな運動部の輪に入れない自分を意識した時、 「ああ、私は特別でも何でもない、ただのフツーの人間なんだ」と、 胸がチクッと痛むような切ない挫折感を味わいました。 勉強の面でも同じでした。 小学校の頃は授業を聞いているだけでそれなりの点数が取れていたのに、 中学校の定期テストが始まると、範囲の広さと難しさに圧倒されました。 教室の後ろに張り出される成績の順位。 トップ層の華やかな顔ぶれを遠くから眺めながら、 「私は何をやってもフツー、いや、フツー以下かもしれない……」と、 それまで持っていた根拠のない自信は、見る影もなくパサパサに崩れ去っていきました。 あのイケイケだった小学生時代の私はどこへ行ってしまったんだろう。 学校の帰り道、夕日に照らされる自分の影を見つめながら、 何とも言えない劣等感と焦りに押しつぶされそうになっていたのを覚えています。 しかし、この「学校の主役になれない」という挫折が、 後々、私の人生に新しい視点をくれるきっかけになりました。 ✼••┈┈┈┈•• 高校生になる頃には、私はすっかり「目立たない、フツーの生徒」 としての立ち位置を受け入れるようになっていました。 私が覚えている当時の雰囲気は華やか組と地味組の線引き。 さらには運動部と文化部の線引きが暗黙の了解であったことです。 もちろん、私は最初は地味組確定でした。 そんな中で、中学校では文化部だった私が、高校では何をトチ狂ったのか(笑)、 あんなに苦手意識のあった「運動部」に飛び込んだのです。 理由はあるスポーツ漫画に感動を受けたから。単純です(^_^;) 運動音痴なのに。 当然、周りは経験者や運動神経の良い子ばかり。 私は最初から最後まで、ずーっと「下手くそで、びりっけつ」でした。 後から聞いた話ですが、先輩たちの間では 「あの子が一番先に辞めるよね」と噂されていたそうです。 それくらい、私の運動音痴ぶりは目立っていましたし、 周りの経験者のスピードについていくのが精一杯でした。 指の関節を骨折したり、足が疲労骨折になりながらも、 事あるごとに漫画をよんでは自分を励ましていました。 もちろん今でもその漫画本は大切に取ってありますヾ(≧▽≦)ノ ホント、不思議と辞めなかったんですよね。 正直、なぜあんなに辛くて下手くそだったのに続けられたのか、 明確な理由は今でも覚えていません。 意地だったのか、それとも不器用なりにその場所が好きだったのか……。 ただ、びりっけつでも、笑われても、「自分で決めたことを途中で投げ出す」 ということだけはしたくなかったのかもしれません。 華やかな主役として活躍することは一度もありませんでした。 でも、この「下手くそでも諦めずに最後までやり抜いた」という経験が、 私の中にひとつの太い芯を作ってくれました。 そしてこの部活動の時間が、私の人生に新しい視点をくれるきっかけになります。 激しい練習の合間や、部活帰りの暗くなった駐輪場で、 友達とぽつりぽつりと悩みを打ち明け合う時間がありました。 進路のこと、親との衝突、友達関係の小さなすれ違い、そして部活内での焦り。 十代の多感な時期、誰もが心の中に「言葉にできないモヤモヤ」を抱えていました。 私はただ、「うん、うん」と静かに話を聞いていました。 気の利いたアドバイスなんてできません。 でも、自分自身がびりっけつで苦労していたからこそ、 相手の「上手くいかない悔しさ」や「焦る気持ち」を否定せず、 ただその子の気持ちが少しでも軽くなればいいなと思って、そばにいて耳を傾け続けました。 話し終えた友達が、 「なんか、みのりに話したらスッキリした。聞いてくれてありがとうね」と、 少し晴れやかな笑顔を見せてくれたとき、私の胸の奥がじんわりと温かくなりました。 その時、ハッと気づいたのです。 「主役になれなくても、びりっけつの痛みが分かる私だからこそ、 誰かの話をじっくり聞いて、その人の心をそっと支える側になれるかもしれない」 それからというもの、なぜか私の周りには、 ポツリポツリと悩みを打ち明けにくる友達が集まるようになりました。 お弁当を食べながら、あるいは部活帰りの暗くなった駐輪場で、 色んな子の「誰にも言えない本音」を預かりました。 みんな、クラスの前では明るく振る舞っているけれど、 一歩裏に入れば傷ついたり悩んだりしている。 そんなみんなの素の表情に触れるたび、 私は「人間って不思議だな、面白いな」と感じるようになっていったのです。 華やかなスポットライトは当たらないけれど、 放課後の静かな教室や、夕暮れの帰り道という私の「小さな居場所」が、 とても心地よく、誇らしく思えました。 一番になれなかった挫折や、 文化部で周りをじっくり観察していた時間があったからこそ、 私は「完璧じゃなくて、不器用にもがいている人の気持ち」に、 誰よりも敏感に寄り添えるようになっていたんだと今思うのです。 イケイケだった小学生時代。 現実を知って足元がグラグラ揺れた中学校の挫折と、文化部での静かな時間。 そして、誰かの聞き役としての自分の価値を見出していった高校時代。 この多感な時期の経験が、今の私の大きな土台になっています。 もし私が、あのまま何でも器用にこなせる「イケイケ」のままで大人になっていたら、 きっと今、悩んでいる方の痛みを本当の意味で理解することはできなかったと思います。 自分がフツーであることの苦しさや、周りと比べて焦る気持ちを、 身をもって知ったからこそ、私は今、あなたの前に立てているのだと感じています。 人生は、思い通りにいかないことの連続です。 でも、スポットライトが当たる場所だけが人生ではありません。 今、周りと比べて「自分なんてフツーだ」「何をやってもうまくいかない」と孤独を感じているあなたへ。 あの頃、放課後の教室で友達の言葉をただ静かに受け止めていた時のように、 私はいつでもここで、あなたの味方になってお話を聞く準備をしています

    ・短大時代/どんな人とも心が通い合う楽しさと、誰からも信頼される接客の原点 2010年4月 2010年4月

    ※匿名・年齢非公開のため期間は変えて掲載しています(*´▽`*) ご理解いただけますと嬉しいです。 ✼••┈┈┈┈•• 短大への進学は、私の世界をぐっと広げてくれました。 それまでの狭い学校という世界、決められた通学路から飛び出し、社会という大きな海に片足を踏み入れたような、そんなワクワクした高揚感と少しの緊張感で満ちていた時代です。 高校時代は運動部で「びりっけつでも諦めずに最後までやり抜く」という粘り強さを身につけ、同時に人の心に寄り添うことの大切さを少しずつ学び始めていた私でしたが、 この短大時代に経験したアルバイトこそが、現在私が営んでいる「人と関わり、心に寄り添う仕事」の明確な原点となりました。 社会に出て、全く見知らぬ人たちと関わる中で、私は自分の中に眠っていた「ある強み」に気づいていくことになります。 ■活気あふれる洋食屋さんでの日々 私が最初にアルバイトとして働き始めたのは、地元で古くから愛されている、とても活気のある洋食屋さんでした。 そのお店は、お昼時ともなれば近所のサラリーマンやOLさん、休日に訪れる家族連れでごった返す、地域の一番店のような場所でした。 厨房からは、ジューというお肉の焼ける小気味よい音や、香ばしいデミグラスソースの匂い、甘酸っぱいケチャップの香りが常に漂ってきます。 メニューは、常連さんがこぞって頼むボリューム満点のピラフや、鉄板に乗ったアツアツのスパゲッティ、サクサクの衣をまとった大きなエビフライなど、どれも懐かしくてホッとする美味しさのものばかり。特にランチタイムは大人気だったため、店内は戦場のような忙しさでした。 さらに、そのお店は店内での飲食だけでなく、近所への「出前」も盛んに行っていました。 まだ今のように便利なフードデリバリーのサービスなどない時代です。お店の電話がリンリンと鳴り響くと、注文をメモして厨房へ伝え、出来上がった料理を大きなお皿にラップをピシッと張って、配達をします。 「みのりちゃん、これ〇〇会社に届けて!」と声がかかれば、「はい!」と元気よく返事をして、ラップに包んだ大きなお皿を抱えて運んでいきました。 夏の暑い日も、冬の凍えるような風が吹く日も、重いお皿を抱えて歩くのはなかなかの重労働でしたが、高校時代の運動部で培ったタフさがあったおかげで、へこたれることなく元気に働くことができました。 ■老若男女、どんなお客様とも心が通い合う瞬間 この洋食屋さんでの毎日は、私に「老若男女、どんな人とでも笑顔で心が通い合う楽しさ」を教えてくれる、学びの場となりました。 お店のドアが開くたびに、「いらっしゃいませ!」と声をかけるのですが、そこに来られるお客様の背景は本当に様々です。 短い休憩時間の中で急いで食事を済ませようとバタバタしているビジネスパーソン、小さなお子さんの手を引きながら少し慌ただしくスプーンを動かしているお母さん、そして、いつも決まった席に座って静かにコーヒーを飲む、少し気難しそうな表情のご年配の常連さん。 高校時代に「一歩引いた場所から周りをじっくり観察する力」を身につけていた私は、自然に目の前の人の状態を五感で察知して、自然と体が動くようになっていたのです。 例えば、時間に追われている様子のサラリーマンの方には、お水や伝票を渡すタイミングをワンテンポ早くしてテキパキと対応する。小さなお子さん連れの方には、「取り皿は使われますか?」と先回りして声をかけ、少しでも落ち着いて食べられるような空気を作る。 そして、いつも少し難しい顔をして入ってくるご年配のお客様には、意識的に笑顔を出してゆっくりとお茶を差し出す。 そんな風に、一人ひとりの「その瞬間の気持ち」にアンテナを立てて丁寧な関わりを続けていると、 最初は声をかけても無表情だったおじいちゃんが、ある日、帰り際に私の顔を見てフッと優しい笑顔を見せてくれるようになったり、「いつも、ありがとうね」と、出前の先で温かい言葉をかけてもらえるようになったり。 年齢や立場、その時の機嫌に関係なく、こちらが目の前の相手を一人の大切な人間として尊重し、心を込めて接すれば、必ず相手からも温かい気持ちが返ってくる。 この時に得た強い実感と成功体験が、私の中に「私は接客業が好きだし、もしかしたら得意かもしれない」という、人生における確固たる自信を育ててくれたのです。 どんな相手であっても物怖じせず、その人の懐に入っていけるコミュニケーションの素地は、間違いなくこのお店のカウンター越しや、出前先での短い会話の中で育まれました。 ■厨房の奥で輝いていた、大人のシェフへの秘めた恋 そして実は、この活気あふれる洋食屋さんでの思い出には、私の「大人になってからの、切なくも美しい片思い(笑)」の記憶が重なっています。 子供時代の恋といえば、小学校や中学校の頃、クラスの人気の男の子を指して、同じ人を好きな友達同士で「あの子かっこいいよね!」「今日目が合っちゃった!」などと、陰できゃいきゃいと騒ぎ合うような、無邪気で可愛らしいものがすべてでした。 しかし、この短大という大人と子供の境界線のような時期に私が経験したのは、誰にも言わず、胸の奥にそっとしまっていた恋でした。 お相手は、お店の厨房の奥で、黙々とフライパンを振り、美味しい料理を作り出していた大人のシェフでした。 世間一般で言うような、誰もが振り返るような華やかなイケメンというわけでは決してありませんでしたが(笑)、でも、とにかく自分の仕事に対してどこまでも誠実で、妥協がなく、そして何より周りのスタッフへの気配りが本当に細やかで、芯から優しい人だったのです。 ランチタイムのピーク時、オーダーが滝のように押し寄せて、ホールも厨房もパニックになりそうな時、私が忙しさに追われてミスをしそうになったり、焦って顔をこわばらせていたりすると、彼は絶妙なタイミングで私の様子に気づいてくれました。 怒鳴ったり責めたりするようなことは一切せず、「みのりちゃん、落ち着いてな。無理すんなよ」と、低く温かい声でそっと言葉をかけてくれるのです。 その調理場の熱気の中で響く優しい声や、忙しい中でも絶やさない周囲への配慮の眼差しに、私は気づけば惹かれていました。純粋な短大生でこのシチュエーション。絵にかいたようなベタなストーリーかもしれませんけれど(^_^;)。 もちろん、その方はすでに家庭を持たれている既婚者でしたから、完全な片思いでした。初めから展開無しが確定の想いでしたが、 その気持ちが仕事を頑張るモチベーションでもありました。 実ることは絶対にないと最初から分かっているからこそ、胸の奥の引き出しにそっと仕舞い込んでいた秘めた恋。切なくて、少し苦しい瞬間もありましたが、でも、その人を想う温かい気持ちがあったからこそ、毎日の大変な仕事も、出前の重いお皿も、足の痛みも、不思議とずっと満面の笑顔で乗り越えられたのだと思います。 今振り返っても、あの厨房のオレンジ色のライトの光とともに思い出すその記憶は、私の独身時代を彩る、切なくもどこか愛おしい特別な1ページです。 ■母親の口から聞いた、店長さんからの最高の勲章 そんな風に、恋も仕事も、自分の持てるエネルギーのすべてを注ぎ込んで駆け抜けた短大時代でしたが、卒業という人生の節目とともに、当然そのお店を去る時が訪れました。 どうしても外せない個人的な事情が重なってしまい、最後のひと月の給料を、私の代わりに母親がお店へ出向き、店長さんから最後の給料を受け取ってきてくれることになりました。お給料の手渡しなんて、今では考えられないですよね(笑)。時代がバレそうです(^_^;)。 「迷惑をかけていないだろうか」「気まずい別れ方になってしまっていないだろうか」と、心配し得ていましたが、家に帰ってきた母が、カバンから給料袋を取り出しながら、どこか誇らしげな笑顔を浮かべて私にこう言いました。 「みのり、今日お店に行ってきたよ。そしたらね、店長さんがわざわざお母さんのところに来てくれてね、『みのりちゃんは卒業だから、お店を辞めていくのは時期として仕方がないことなんだけど……。本当を言うとね、僕は辞めないで欲しかったんです。出来ればこのまま、うちの店でずっと長く続けて欲しいと思っていたんですよ』って。すごく残念そうに、みのりのことを惜しんでくれていたよ」 もし店長さんが、私に直接「辞めないでくれ」と言っていたとしたら、それは単なる人手不足のための引き止めだったかもしれません。でも、私がいない場所で、わざわざ私の母親に対して、そこまで熱を込めて「本当は残って欲しかった」「続けて欲しかった」と伝えてくれた。 それは、店長さんが本心から私の毎日の働きぶりを認め、一人の人間として、そして仕事の戦力として、信頼を寄せてくれていたことの何よりの証拠でした。 ただ指示された作業をこなすだけのアルバイトなら、代わりはいくらでもいます。でも、お店のため、そして何より目の前のお客様の笑顔のために、高校時代のびりっけつ根性と、お母さんから譲り受けた全肯定の精神で心を込めて動き続けていた私の姿勢を、店長さんはちゃんと見ていてくれたのです。 直接お礼を言えなかった心残りは、この言葉によって最高の思い出へと昇華されました。この「強く引き止められ、心から必要とされた」という客観的な経験は、その後の私の人生において、どんな壁にぶつかっても「私は大丈夫、私には人を笑顔にする力がある」と思える、本当に大きな自己肯定感の土台(勲章)となったのです。 ■独身時代の財産を、今あなたのために 短大時代から独身時代にかけて培った、「どんな年齢、どんな立場の方とも分け隔てなくお話しし、心を通わせることができる素地」。そして、「どんな場所に行っても周囲から深く信頼され、必要とされる接客と対話の力」。 これらの経験は、単なる過去の思い出ではありません。今、私がいるココナラの電話相談にそのまま大きな財産として脈々と受け継がれています。 インターネットを通じたお悩み相談の場では、本当に多様な人生の背景を持った方々が扉を叩いてくださいます。 年齢も違えば、抱えている問題の重さも、心の傷の深さも違います。 誰にも言えない苦しみに押しつぶされそうになりながら、藁をも掴む思いでメッセージをくださる方も少なくありません。 あなたが今、どんな年齢で、どんな状況にあって、社会のどんな荒波に揉まれていたとしても、私はあの活気ある洋食屋さんのカウンターで、あるいは出前先の会社の玄関前で、一人ひとりのお客様と真っ直ぐに向き合っていたあの頃と、全く変わらない眼差しであなたを迎えます。 あなたの言葉を途中で遮ることはしません。あなたの生き方や悩みを否定することも絶対にしません。 お母さんが私を全肯定してくれたように、お父さんが穏やかに包み込んでくれたように、そして私が洋食屋さんで出会った多くの人たちと心を交わしてきたように、あなたという存在のすべてを全力で大切にします。 「この人なら、どんなに格好悪い自分を見せても、安心してすべてを委ねられる」 「みのりさんに話したら、心の荷物がフッと軽くなった」 そう思っていただける、世界で一番温かい心の居場所を用意して、私はいつでも、あなたの「誰にも言えない本音」をお聞きする準備をしています。どうぞ安心して、その胸の内を私に預けてみてくださいね。

    ・母の涙を隠れて見た日と、私の心に宿った「闘う優しさ」の原点 2011年4月 2011年4月

    ※匿名・年齢非公開のため期間は変えて掲載しています(*´▽`*) ご理解いただけますと嬉しいです。 ✼••┈┈┈┈•• 私の人生を振り返る上で、切っても切り離せない「娘としての記憶」があります。 それは、私の人格や物事の捉え方に強い影響を与え、そして現在の活動の原動力の一つとなっている、我が家の「嫁姑問題」です。 今でこそ、世間にはさまざまな家族の形があり、辛いことがあれば実家に帰るなど距離を置く選択肢も一般的になりました。 しかし、昭和という時代において、三世代同居の家の中で起きる嫁姑の確執は、外からは見えにくい密室の苦しみそのものでした。 この家庭内の過酷な現実は、幼い私に「誰かを守るために闘う強さ」と、「傷ついた女性の痛みを我がことのように感じる共感力」を植え付けることになります。 ■近所でも有名だった、厳しすぎる祖母 我が家の祖母は、言葉を選ばずに言えば、近所でも有名な「意地悪ばあさん」でした。 昔ながらの古い価値観を絶対とし、家の中では絶対的な権力を持とうとする人だったのです。その矛先は、常に我が家へ嫁いできた私の母親へと向かっていました。 祖母の母に対する態度は、一時的な感情の爆発ではありませんでした。毎日、朝から晩まで、日常のありとあらゆる隙間を狙っては、チクチク、ネチネチ、ガミガミと、終わりのない小言や嫌がらせが続くのです。 掃除の仕方が気に入らない、料理の味付けがどうこう、子育てのやり方が甘い……。何をどうしても否定され、認められることのない日々。子供だった私の目から見ても、おばあちゃんが母に向ける言葉の鋭さは、まるで冷たい刃物のようでした。たとえ父が決めたことでも、気に入らないことは全て母が手をまわしたからと決めつけました。 その激しさは、家の中だけにとどまりませんでした。近所の人たちとのお付き合いの中でも、祖母は陰で色々と周囲の悪口を言ったり、当然母の悪口も言い続けていたため、地域の大人たちもおばあちゃんの性格をよく分かっていました。 だからこそ、近所の大人たちはみんな、私の母のことを「あそこのお嫁さんは本当に偉いわね」「毎日大変よね」と、陰ながらねぎらい、同情の目を向けてくれていたのです。それほどまでに、母の置かれた環境の過酷さは、誰の目にも明らかなものでした。 でも、だからといって、そのねぎらいは一時的に嬉しくはあっても、母を楽にしてくれるほど甘くはないのが現実でした。 ■逃げ場がなく部屋の片隅で、声を殺して泣く母の姿 そんな過酷な環境の中で、母はいつも毅然と振る舞おうとしていました。子供たちの前では明るい笑顔を見せ、父や祖父の前でも不満を大声でぶつけるようなことはしませんでした。 しかし、どんなに強い人であっても、毎日の理不尽な攻撃に心が削られないわけがありません。 私は小さい頃から、家の中の薄暗い部屋の片隅や、誰もいない台所の奥で、母が一人で静かに泣いている姿を何度も、何度も目撃してきました。 わあわあと声を上げて泣くのではありません。祖母に気づかれないように、そして子供たちに心配をかけないように、肩を小さく震わせながら、必死に声を殺して涙を流しているのです。 その母の背中を見たときの胸が締め付けられるような感覚は、何十年経った今でも忘れることができません。 当時の母には、本当に「どこにも逃げ場」がありませんでした。 母は戦争によって幼くして両親を亡くしていました。そのため、父方の祖父母(私にとっての曾祖父母)に育てられたという境遇を持っていたのです。 私が小学校、中学校に上がる頃には、その育ての親であるおじいちゃんもすでに他界しており、おばあちゃんも高齢のために施設に入っていました。 今の時代であれば、「もう限界だから、ちょっと1週間実家に帰って羽を伸ばしてくるね」と、実家の両親の元へ避難して心を休めることもできるでしょう。しかし、私の母には、辛い時に温かく迎え入れてくれる「帰るべき実家」が、この世のどこにも存在しなかったのです。 四面楚歌の家の中で、たった一人で耐え続けるしかない母。 声を殺して泣く母の後ろ姿を見つめながら、私は子供ながらに、まるで自分の心が直接切り刻まれているような、強烈な痛みを自分の中に抱え込んでいました。私はお母さん本人ではないけれど、お母さんの流している涙の辛さが、そのまま自分の体の中に流れ込んでくるような感覚でした。 そして、私の心の中に、ひとつの強烈な決意が芽生えたのです。 「私が、お母さんを守らなくてはいけない」 ■姉妹で一致団結し、おばあちゃんと戦った日々 我が家には、もうひとつ独特の家族の構図がありました。 昔の人だった祖母は、強烈な「長男至上主義」の考えを持っていました。我が家において、私の父親は長男であり、祖母にとって息子である父は目に入れても痛くない存在。そして、私には3歳年上の兄がいたのですが、祖母はその「長男の孫」である兄に対しても、とにかく甘々でした。 一方で、女の子供である私と妹に対しては、明らかに態度が違っていました。 父や祖父、そして兄は、家庭内の女性同士のドロドロとした戦いにどう介入することなく、どこか見て見ぬふりをするようなところがありました。頼りになる男性陣が誰も味方をしてくれない中、母の側に寄り添い、母の痛みを本気で共有していたのは、私たち姉妹だけだったのです。 こうして、「私と妹で母を守り、おばあちゃんと戦う」という、我が家の明確な戦闘構図が出来上がりました。 兄は、祖母が亡くなって以降、私と妹から話を聞いて、そんなことがあったんだ、と初めて知ったことも多かったくらいです。 子供の私は、理不尽にお母さんをチクチクと責め立てる祖母に対して、怯むことなく正面からぶつかっていきました。 「お母さんは悪くない!」「なんでそんな酷いことを言うの!」と、子供の拙い言葉でありながらも、精一杯の怒りを込めて祖母に反論しました。妹と二人で母の前に立ちはだかり、祖母の鋭い言葉を遮るように盾になったことも一度や二度ではありません。 祖母との言い合いは、子供心にとてもエネルギーのいることでしたし、家の中の空気がピリピリと張り詰めるのは恐ろしいことでもありました。でも、「私が黙ったら、お母さんが壊れてしまう」という恐怖の方が、何倍も大きかったのです。 この時に培われた、理不尽なものに対してNOと言える強さ、そして自分がボロボロになってでも大切な人を守り抜くという「闘う根性」は、私の性格の深い土台となりました。 大人になってから振り返ると、当時は本当に苦しくて重い毎日でした。 しかし不思議なことに、この過酷な嫁姑問題という嵐があったからこそ、私たち家族(特に母と私たち姉妹)の絆は、誰よりも強く、深く結ばれることになったのです。 お互いを思いやり、支え合わなければ生きていけない環境だったからこそ、私たちは一致団結することができました。今では「あの頃は本当に色々あったよね」と、笑いながら思い出話として語り合えるようになったことが、何よりの救いです。 ■大変な「ミドル女性」の力になりたいという、私の使命 この幼少期から少女時代にかけて、母の涙を側で見続け、共に戦ってきた記憶。これこそが、現在私が話し相手として活動する中での、最も深い「女性の味方」のベースになっています。 世の中の多くの女性たちは、人生のステージが進むにつれて、本当に多くの「役割」を背負うことになります。 誰かの「娘」であり、誰かの「妻」となり、家を守る「嫁」という立場になり、そして子供を育てる「母」となる。 特に50代を中心としたミドル世代の女性たちは、これら全ての役割が一気に押し寄せ、自分のキャパシティを超えてしまうほどの重圧に晒されがちです。子育ての悩み、夫婦関係の冷え込み、押し寄せる親の介護、そして自分自身の体調や心の変化。 それなのに、かつての私の母がそうであったように、周りに心配をかけまいと「大丈夫なフリ」をして、部屋の片隅で声を殺して一人で泣いている方が、本当にたくさんいらっしゃるのです。 「私が我慢すれば、波風が立たないから」 「みんな大変なんだから、これくらいで弱音を吐いちゃいけない」 そうやって自分を後回しにし、逃げ場のない孤独の中で限界まで耐えている女性たちの姿を見ると、私はどうしても、あの頃の母の背中を思い出さずにはいられません。そして、私の胸の奥にある「守りたい、力になりたい」という熱い想いが、静かに燃え上がるのです。 私が今、ココナラで電話相談の活動をしているのは、かつての私の母のような「逃げ場のない女性たち」にとっての、絶対的なシェルターになりたいからです。 実家に帰るような安心感で、心置きなく涙を流せる場所。 誰にも言えない愚痴や、ドロドロとした感情を、そのまま吐き出せる場所。 そして、あなたが理不尽な環境で苦しんでいるなら、私はあの頃とおなじように、全力であなたの味方になって一緒に闘う覚悟を持っています。 あなたは、一人で声を殺して泣く必要はありません。嫁として、妻として、母として、娘として、一生懸命に頑張ってきたあなたの苦しみを、私は誰よりも理解し、我がことのように受け止めます。 心が限界を迎える前に、どうぞ私を頼ってください。あの頃、母を守り抜いたその温かさと強さで、私は今度は、あなたという大切な存在を全力で包み込みます。 いつでもあなたが来ても大丈夫なように両手を広げて待っています♪

    ・私が先陣を切って作った「心の避難所」と、家族を救った安全地帯のぬくもり 2012年4月 2012年4月

    ※匿名・年齢非公開のため期間は変えて掲載しています(*´▽`*) ご理解いただけますと嬉しいです。 ✼••┈┈┈┈•• 前項でお話しした通り、我が家には祖母を中心とした非常に重苦しい嫁姑問題の嵐が吹き荒れていました。 子供の頃からその理不尽な現実を特等席で見つめ、時には妹と盾になって母を守ってきた私でしたが、短大を卒業する年齢を迎えた時、私の中に一つの明確な決意が固まっていました。 「このままこの家に縛られていたら、自分自身の人生も、母を守る力も、すべて擦り切れてしまう。まずは私が、この家から外の世界へ飛び出そう」 と言えればカッコいいですが、とにかく逃げたかったというのが本音。でも、まずは私が出なければ、という気持ちももちろんありました。 祖母という絶対的な権力から物理的な距離を置き、自分自身の呼吸ができる聖域を確保するための、いわば「決死の脱出作戦」だったのです。 こうして短大卒業と同時に、私の実家からの独立ストーリーが始まりました。 ■親友と寄り添い合った、1年限定のスタートライン そうは言っても、生まれてからずっと過ごした地元を離れ、いきなり見知らぬ土地で完全な一人暮らしを始めるというのは、当時の私にとって想像以上に心細く、勇気の要ることでした。 そこで私は、無謀に一人で飛び出すのではなく、短大時代に苦楽を共にした大切な親友に声をかけることにしたのです。「最初の1年間だけ、一緒に暮らしてみない?」と。 なぜその親友に声をかけたかというと、私と似たような事情があったからです。 彼女は父親が厳しくて、私が祖母に抱いていた思いとほぼ同じ思いを父親に持っていて、長年心に傷を抱えていました。家を出て父親から離れたい、その願いを彼女の母親は理解してくれていました。それが私たちを近づけたんです。 お互いに社会人としての第一歩を踏み出す不安な時期です。私たちは「期間は1年間だけ」という明確なルールをあらかじめ決めて、二人暮らしのスタートを切りました。これが結果的に、本当に素晴らしい選択となりました。 私たちは適度な距離感を保ちながら、仕事で疲れて帰ってきた時には「おかえり」「今日こんなことがあってさ」と言い合える、温かい空間を作ることができました。 完全に孤独になってしまう寂しさを紛らわせつつ、社会人としての生活リズムを整え、家事のノウハウを身につける。この「1年限定の二人暮らし」があったからこそ、私は実家の重苦しい記憶を引きずることなく、健全に大人の階段を上り始めることができたのです。 親には言えない話や行動も打ち明け合いながら、親友と過ごしたあの穏やかな時間は、私が「誰かと心地よい距離感で寄り添い合う」という人間関係のバランス感覚を養うための、貴重なステップとなりました。 ■2年目の本当の自立と、妹の緊急避難 約束の1年がアッという間に過ぎ去り、親友との同居を解消した2年目から、いよいよ私の「本当の一人暮らし」が始まりました。 小さなアパートの一室。自分の好きなモノを置き、自分の好きな時間に眠り、自分の好きな味付けで料理を作る。実家にいた頃には考えられなかった「誰のことも気にしなくていい自由」がそこにはありました。 朝起きたときに、家の中にピリピリとした緊張感が漂っていないというだけで、これほどまでに心が軽いのかと、深い感動を覚えたものです。 しかし、私がその自由をようやく満喫し始めた頃、実家では新たな限界が近づいていました。私のすぐ後ろを歩んでいた妹が、高校の卒業を控えていたのです。 妹も姉である私と同じように、長年祖母の理不尽な態度に耐え、母を守るために闘い続けてきた戦友でした。 高校卒業という人生の節目を迎えた妹の心の中は、「一刻も早く、あの家から、あの祖母から逃げ出したい」という悲痛な思いでいっぱいだったのです。 妹のSOSを察知した私は、迷うことなく言いました。「私のところにきていいよ」と。 こうして高校を卒業したばかりの妹が、私の小さなアパートに転がり込んでくる形で、今度は「姉妹での二人暮らし」がスタートしたのです。 引っ越してきたばかりの妹は、どこか張り詰めていた糸が切れたような、ホッとした表情をしていました。私は姉として、「本当によく頑張ってここまで持ちこたえたね。もう大丈夫だよ」と、妹を心から温かく迎え入れました。 実家という戦場から逃れてきた妹にとって、私のアパートのドアを開けた瞬間は、心の救いになったと思います。 二人で狭い部屋に肩を寄せ合いながら、お互いの仕事を応援し、時には実家の愚痴を言い合い、時にはこれからの未来について語り合う。あの頃の私たち姉妹は、単なる家族という枠を超えて、同じ痛みを分け合ってきた本当の意味での「ソウルメイト」になっていました。 ■小さなアパートが、母の「逃げ込み寺」になった日 そして、私と妹が作ったこの小さな安全地帯は、ついに最大の救済必須者であった「母」をも救い出すことになります。 娘二人が実家を出て独立し、自分たちの力で生活の基盤を作っている。その事実そのものが、実家で一人耐え続けていた母にとって、どれほど大きな精神的支えになっていたかは計り知れません。 「子供たちが立派に自分の足で立っている」という安心感が、母の折れそうな心を繋ぎ止めていたのです。 兄もすでに家を出て仕事をしていましたが、祖母からすると、子供たちを家から出すなんてとんでもないことで、そんなんだから〇〇(母)はダメな母親なんだ、と何度も何度も家を出た子供たちを許した母を攻め続けたのでした。 家を出ることを許したのは母だけでなく、父も賛同してのことなのに、母がそそのかした、というのが祖母の意見でした。 やがて、母も実家の四面楚歌の状況から少しだけ息を抜くために、私たち姉妹が暮らすアパートへ、時々「避難」して来ることができるようになりました。 祖母の目を盗んで、片道数十分の距離を移動し、私たちの部屋のインターホンを鳴らす母。ドアを開けて部屋に入ってきた瞬間の母の顔は、実家で見せていたあの「声を殺して泣く切ない背中」とはまるで別人のようでした。 「あぁ、ここは本当に落ち着くわね」 そう言って、狭いアパートの畳の上に座り、私たち姉妹が淹れたお茶を飲む母。その時の母の安らいだ笑顔、心の底からホッとしたような深い溜め息を、私は今でも鮮明に覚えています。 その部屋にいる時間だけは、母は「理不尽に責め立てられる哀れなお嫁さん」である必要はありませんでした。ただの「愛しい娘たちのお母さん」に戻り、何気ない世間話をしたり、テレビを見て声を上げて笑ったり、短大時代の洋食屋さんの思い出話に花を咲かせたりすることができたのです。 母と、私と、妹。女3人が狭いアパートの6畳間に集まって過ごすその時間は、世間から見ればなんてことのない、ごく普通の光景だったかもしれません。しかし、私たちにとっては、嵐の海を泳ぎ切った後にようやくたどり着いた、聖なる「安全地帯」そのものでした。 私が勇気を出して先陣を切り、実家を飛び出して作った小さな拠点が、妹を救い、ついには母をも救う「心の逃げ込み寺」になった。 この独身時代の経験は、私の中に「人間には、どんなに苦しい現実があっても、一時的に避難して心を休められる安全な場所が絶対に絶対に必要なんだ」という、確信を植え付けることになったのです。 母の避難に慣れてきた、ある時、母が泊まり込みに来たことがありました。 知ってるのは私たち3人だけ。父にも黙っての決行でした。母にしてみれば、何もしない父に反旗を翻した行動です。 最終的には私たち姉妹と父親とで話し合いをして母のことを訴えて、味方になるように説得して母が戻りましたが、良かったのは最初だけで、結局は母が辛い思いをするという構図は最後までかわることはありませんでした。 とはいえ、母にとって逃げ場がある、というのか心の支えになっていたのは確かなようでした。本当に母の苦労は並大抵ではなかったと思うのです。 今の時代、このようなことはあまりないかもしれませんが、何がどれくらいつらいか、なんて人それぞれ違うんです。 世間一般には大変じゃないと思われることでも本人にとっては死活問題と言えるくらい辛いことだって十分ありえます。 世間の物差しに関係なく目の前の人の物差しを大事にしたい、そんな想いが刻まれた私の人生の1ページです。 ■今、逃げ場のない孤独の中で耐えているあなたへ この短大卒業から独身時代にかけての「実家からの独立」と「心の避難所作り」のストーリーは、今、私がココナラで提供している電話相談室のあり方に、深く、真っ直ぐに繋がっています。 私の元へ相談に来てくださるお客様の多くは、かつての私の家族と同じように、「逃げ場のない環境」で苦しんでいます。 理不尽な家族関係、モヤモヤする職場環境、誰にも弱音を吐けない孤独。 「自分が我慢すればいい」と自分を追いつめ、心の中で声を殺して泣いている。そんなあなたに、私は一番に伝えたいのです。 「苦しい場所から、一時的に逃げることは悪いことじゃないんだよ。それは自分を守るための、優しくて正しい防衛なんだよ」と。 私が今、用意している電話相談の空間は、まさにあの独身時代に私が先陣を切って作った「小さなアパートの6畳間」そのものです。 実家や祖母という現実の嵐から離れ、妹や母がドアを開けて「あぁ、助かった」と崩れ落ちるように座り込んだ、あの温かい部屋。誰もあなたを責めない、誰もあなたを否定しない、ただただ温かいお茶を飲んで、フッと肩の荷を下ろせる安全地帯。 あなたが今、どんな年齢で、どんな複雑な人間関係の絡まりの中にいたとしても、私はあの頃と全く同じ「絶対にあなたを守る」という強い覚悟で、あなたをこの部屋に迎え入れます。 外の世界では「しっかり者」として頑張っているあなたも、私の前ではただの「一人の傷ついた人間」に戻ってください。弱音を吐いてもいい、涙を流してもいい、ドロドロした感情をぶちまけてもいいんです。 あの小さなアパートで、母娘3人が寄り添い合って笑顔を取り戻したように、今度は私とあなたの二人で、その張り詰めた心をそっと解きほぐしていきましょう。 どうぞ安心して、私のアパートのドアをトントンと叩くような気持ちで、いつでも逃げ込んできてくださいね。私はいつでも、両手を広げてあなたを待っています。

    ・自分を見失った暗闇の数年間と、勝手に作った心のペナルティが溶けた日。 2013年4月 2013年4月

    ※匿名・年齢非公開のため期間は変えて掲載しています(*´▽`*) ご理解いただけますと嬉しいです。 ✼••┈┈┈┈•• 短大を卒業し、先陣を切って実家を飛び出し、妹や母のための「心の避難所」を作った独身時代。 一見すると、自分の力で人生を切り開いているように見えた私でしたが、大人の社会という荒波は、そう甘いものではありませんでした。 人生には、どれだけ抗おうとしても、どうしても光が見えなくなる時期があります。 私にとってのそれは、新卒で入社した会社を、自己都合で退職した後に訪れた数年間でした。 あの輝いていた短大時代のエネルギーが嘘のように、私は人生の深い、深い暗闇のトンネルへと迷い込んでいくことになります。 目標を見失い、アルバイトを転々とする日々。 会社を辞めた後の私には、「これからどうしていきたいか」という明確な目標が、これっぽっちも見えなくなっていました。 とりあえず生活のためにと、いくつかのアルバイトを始めましたが、何をやっても長続きせず、どこに行っても「これじゃない」「上手くいかない」という空回りばかり。一つの仕事に馴染めず、履歴書の行数だけが増えていく毎日は、自分のプライドを少しずつ、でも確実に削り取っていきました。 「私は一体、何がやりたいんだろう」 「どうして周りの人のように、普通に、器用に生きられないんだろう」 気がつけば、自分という存在を完全に見失っていました。 朝起きて、中身の伴わない頼りない体を引きずるようにしてバイト先へ向かい、夜は狭い部屋で自分の不甲斐なさにただ頭を抱える。何をやっても上手くいかない、何を選んでも間違っているような気がする。 そんな辛くて苦しい日々が、数年間にわたって、まるで出口のない深い霧のように私の行く手を阻み続けました。 妹との二人暮らしを卒業して一人暮らしを始めた私に訪れた試練でした。 ■眩しすぎる仲間たちと、自分に課した「ペナルティ」 その暗闇にいた時期、私の心を最も苦しめたのは、高校時代の友人たちの存在でした。 例の、運動音痴の私が何をトチ狂ったのか飛び込んで、びりっけつになりながらも最後までやり抜いた、あの思い出の運動部の仲間たちです。 彼女たちは定期的に集まり、お互いの近況を報告し合っていました。 でも、私はその集まりに、どうしても顔を出すことができませんでした。いや、「顔を出さなかった」というより、情けなくて、惨めで、「顔を出せなかった」のです。 私の想像の中の仲間たちは、みんな本当に眩しい存在でした。 「みんなはきっと、ちゃんとした会社で普通に働いて、普通に恋をして、普通に休日をエンジョイしているんだろうな」 それに比べて、今の自分はどうだろう。 定職にも就けず、目標も見えず、アルバイトを転々として、その日暮らしのような生活をしている。 高校時代、あんなに「びりっけつでも最後までやり抜いたんだから」と胸を張っていたあの根性はどこへ行ってしまったのか。今の自分を見られたら、なんて思われるだろう。憐れみの目を向けられるくらいなら、最初からいない方がいい。 みんなが楽しそうに笑っている空間に、こんなボロボロの自分が混ざる資格なんてない。そうやって私は、自分で自分を勝手に「落第生」に認定し、心の扉をガチガチに閉ざしてしまいました。 仲間たちが優しければ優しいほど、その眩しさが今の自分を責め立てているような気がして、私は定期的に届く連絡からも、そっと距離を置くようになっていきました。 私が勝手に作った「まともな社会人になれていない私は、みんなに会ってはいけない」という心のペナルティは、私をどんどん深い孤独へと追い込んでいったのです。 ■トンネルの終わりと、怯えながら開けたドア しかし、どんなに長くて暗いトンネルであっても、歩みを止めなければ、いつかは必ず一筋の光が見えてくるものです。 あんなに真っ暗だった日々から、本当に少しずつ、少しずつではありましたが、私は暗闇のトンネルを抜け出すことができるようになっていきました。 何がきっかけだったのか、劇的なドラマがあったわけではありません。ただ、目の前の小さなことを一つずつ受け入れ、不器用ながらも必死に生きているうちに、霧が晴れるように「あぁ、やっと本来の自分を取り戻せたな」と感じられる瞬間が、数年ぶりに訪れたのです。 心が少しずつ元気を取り戻したとき、私の脳裏に真っ先に浮かんだのは、やはりあの高校時代の仲間たちの顔でした。 「みんな、まだ集まっているのかな。……久しぶりに、勇気を出して顔を出してみようか」 そう思ったものの、実際に連絡を取り、集まりの場所に向かうまでの足取りは重く、心は緊張で一杯でした。 私の頭の中は、ありとあらゆる最悪のシミュレーション(不安)でいっぱいだったのです。 「なんで今まで、ずっと来なかったの?」って責められたらどうしよう。 「今まで何してたの?」って聞かれたら、アルバイトを転々としてどん底にいたなんて、絶対に言いたくない。嘘をつくのも嫌だし、かといって本当のことも言いたくない……。 聞かれたくない、言いたくない。もしそんな質問攻めにあったら、私はまたあの暗闇に逆戻りしてしまうかもしれない。 そんな張り詰めた緊張感と恐怖を抱えながら、私は久しぶりに、仲間たちが集まる部屋のドアを開けました。 ■溶けていったペナルティと、今も胸にある安堵感 ところが、実際に部屋に入った私を待っていたのは、想像していたものとは全く違う現実でした。 「あ、みのり!久しぶりー!」 みんなは、私が数年間ずっと行方をくらましていたことなんて全く気にしていない様子。まるで昨日も会っていたかのような、ごく自然な笑顔で私を迎えてくれたのです。 そして驚いたことに、私が何年も怯え、恐れていた質問――「なんで来なかったの?」「今まで何してたの?」という言葉は、誰の口からも、ただの一言も、発せられることはありませんでした。 誰も何も聞かない。誰も私を責めない。ただそこにいる私を、そのまま受け入れて、今この瞬間の楽しい会話の中に、当たり前のように混ぜてくれたのです。 そのとき、私の胸の中に、言葉では言い表せないほどの巨大な「安堵感」が押し寄せました。張り詰めていた心のトゲが、温かいお湯に溶かされるように、一瞬ですーっと消えていったのです。 席に座り、みんなの笑い声を聞きながら、私は心の底から思いました。 「あぁ、休んでいたことに対するペナルティなんて、この世界のどこにもなかったんだ。みんなの心の中にも、最初からそんなものは存在していなかった。それは全部、私が自分の頭の中、心の中で勝手に作り上げて、自分を苦しめていただけの、幻のペナルティだったんだ」 数年間、勝手に怯えて、勝手に壁を作って、一人で惨めになっていた自分が、なんだか少し可笑しくもあり、それ以上に、何も言わずにただ迎えてくれた仲間たちの優しさが、心の底からありがたくて、愛おしくて堪りませんでした。 この時に味わった「何も言わずに、ただそのままを受け入れてもらえる」という圧倒的な安堵感は、何年、何十年が経った今でも、私の胸の奥に温かいお守りのように残り続けています。 ■あなたが自分に課したペナルティも、私が全部溶かします この、人生の暗闇を経験し、そして「心のペナルティ」から解放されたエピソードは、今、ココナラで電話相談の活動をする私にとって、非常に大切な心の指針となっています。 私の元へ相談に来てくださる方の中には、かつての私と全く同じように、自分で自分に厳しい「ペナルティ」を課して苦しんでいる方が本当にたくさんいらっしゃいます。 「こんな年齢なのに、まともな仕事に就けていない自分はダメだ」 「普通の人ができている結婚や子育てが上手くいかない私は、失格だ」 「みんな楽しそうなのに、自分だけが立ち止まっていて情けない」 周りの人がみんな眩しく見えて、自分の現状が恥ずかしくて、誰にも相談できず、一人で殻に閉じこもってしまう。その苦しみは、あの数年間、トンネルの中で自分を見失っていた私だからこそ、痛いほどよく分かります。 でもね、そんなあなたに、私はあの日の安堵感を込めて、真っ直ぐに伝えたいのです。 「あなたが勝手に作り上げてしまった心のペナルティなんて、この相談室にはどこにもないんだよ。あなたが今までどれだけ立ち止まっていても、アルバイトを転々としていても、何もかも上手くいかなくて引きこもっていても、私はそれを責めることも、問い詰めることも絶対にしないからね」 私の電話相談室は、あの高校時代の仲間たちが私を温かく迎えてくれた、あの部屋と同じです。 「なんで今まで相談しなかったの?」なんて聞きません。「今まで何をしていたの?」なんて、あなたが言いたくないことは、一つも話さなくていいんです。ただ、その傷ついた心のまま、この部屋のドアを叩いてみてください。 私は、あなたが今どんなにボロボロであっても、「よく来たね、待ってたよ」と、ただそれだけの、ありのままのあなたを全力で受け入れます。 一人で抱えているその情けなさも、惨めさも、私の前では隠す必要はありません。 あなたが自分を責めるその「心のペナルティ」を、今度は私が、あの温かい安堵感で全部きれいに溶かします。どうぞ安心して、本来のあなたを取り戻す一歩を踏み出しにきてください(*´▽`*)

    ・私の「好き」で満ちていた幸福な日々と、今だから分かる熱量のズレ 2014年4月 2014年4月

    ※匿名・年齢非公開のため期間は変えて掲載しています(*´▽`*) ご理解いただけますと嬉しいです。 ✼••┈┈┈┈•• 人生の暗闇のトンネルを抜け、高校時代の仲間たちとの再会によって「心のペナルティ」から解放された私は、本来の自分らしいポジティブなエネルギーを完全に引き戻していました。 そんな20代の後半、私の中にそれまでとは全く違う、新しい心の変化が訪れます。 それまでは「結婚なんてまだまだ先の話、今は自分の力で自由に生きていくのが楽しい」と、独身の自由を謳歌していました。仕事をして、友達と遊び、旅行を楽しみ、自分のアパートで自由に暮らす。 その日々に不満はありませんでした。しかしある時、自分の中でふと「やりたいことはやり尽くしたかな」という、不思議なほど大きな満足感が芽生えたのです。 自分自身の独身時代に対して、何ともいえない満たされた感覚。やりたいことをやりきったという達成感。それが強力なスイッチとなり、私の心の中に突然、ものすごい熱量で「結婚したい!よし、結婚しよう!」という強い思いが湧き上がってきました。 一度決めたら先陣を切って猛スピードで突っ走るのが私の性分です(笑)。そこからの私は、ブレーキなんて一切かけずに動き出しました。 友達に「誰かいい人いない?」と片っ端から声をかけ、家族にも「私、結婚するから!」と宣言し、「お見合いもするから、話があったら断らないで」とアピール。いわゆる「婚活」をエネルギー全開でスタートさせたのです。 そしてしばらくして、友人の紹介で出会った一人の男性と、私は結婚することになりました。 ■私の「好き」という圧倒的な熱量で突っ走った結婚生活 出会った当時、どちらかと言えば私の方が彼に一目惚れに近い状態でした。彼のどこが具体的に良かったのか、何を魅力に感じたのか、そんな細かい理屈や条件は後付けに過ぎません。私の心の中に湧き上がった「この人と一緒に生きていくんだ」「この人が好きだ」という直感と、恋心の熱量のままに、私は恋に落ち、周囲の状況など目に入らないほどの勢いで結婚へと突き進んでいきました。 友達にも親にも「結婚」を前提に声をかけていたし、年齢的にいっても親としても「さっさと結婚して欲しい」という気持ちがあったはず。 それに相手も結婚したいから結婚したい女性を探していたわけで。 だから、出会って結婚を進めるのに障害はなかったんです。逆に障害がなさ過ぎて、相手が私のことをどれくらい好きなのか、相手の熱量がどれくらいなのかを推し量るよりも先に、私の「好き」という気持ちだけで結婚に進められた、進めることができてしまったんです。 やがて私たち夫婦は、3人の子供たちに恵まれることになります。 子供が3人いる暮らしというのは、本当に慌ただしく、目まぐるしい毎日です。それまでの自由な独身生活とは180度変わり、24時間365日、自分の時間など1分もないような怒涛の生活が始まりました。 朝はまだ暗いうちから起き出して朝食とお弁当の準備をし、子供たちを起こして服を着せ、ご飯を食べさせるだけで一戦争。オムツを日に何度も替え、山のような洗濯物を回し、泣き叫ぶ声を抱っこであやしながら、片手で掃除機をかける。夜になれば子供たちをお風呂に入れ、寝かしつけをし、深夜の夜泣きに対応する。毎日自分の髪を振り乱し、化粧をする暇もなく、文字通り怒涛のような子育ての渦に巻き込まれていました。 しかし、そんな激しい忙しさの中にあっても、当時の私は間違いなく「普通に、とても幸せ」でした。 なぜなら、私は相変わらず夫のことが大好きだったからです。 「向こうが私のことをどう思っているか」とか、「夫の愛の大きさはどれくらいか」なんていうことは、当時の私にとってはこれっぽっちも大した問題ではありませんでした。 ただ、私が夫を好きで、私がこの人と結婚して、私がこの可愛い3人の子供たちを必死に育てて、毎日賑やかな家庭を営んでいる。その私自身の愛情の満たされ感だけで、我が家という空間は十分に幸福な世界として成立していると、疑いもなく信じ切っていたのです。 世間一般で言われるような、お互いに四六時中愛を囁き合うような熱烈な夫婦の形ではなかったかもしれません。夫はどちらかと言えば静かな人だったし、私は子育てで常にバタバタしていました。 でも、私が夫を好きなままで、子供たちの成長を共に見守り、日々の平穏な暮らしが続いていく。その「普通」の風景の中に、私は確かな温もりと幸せを感じていました。忙しさに追われながらも、私の心は夫と子供たちへの愛で満タンだったのです。 ■今振り返るからこそ分かる、「気にしなさすぎた」という心のズレ しかし、人生というものは、自分が見ている景色が「世界のすべて」ではないということを、時に残酷な形で教えてくれます。 当時は子育ての忙しさの真っ只中にいて、自分の「好き」という一方通行かもしれない情熱だけで満足していた私でしたが、のちに夫婦関係の破綻という人生最大の強制終了を経験するとは、このときはこれっぽっちも予測できませんでした。 あの幸福だった日々を全く違う視点から、冷静に客観的に振り返ることができるようになるには時間が必要でした。 「あの時の私は、相手が私をどれくらい好きなのかということを、あまりにも『気にしなさすぎた』のかもしれない」 「〇〇(夫)が浮気してるかも?とか疑ったことなかったの?」とは離婚の話になったときの妹からの言葉。 無かった。考えもしなかった。でも、そう言われれば、怪しいことがいくつか思い当たりました。 ピンときて、何か行動していたら、結果は違っていたかもしれない。とは思いましたが、小さい子供を3人育て、同居もし、母として嫁として妻として頑張っていた私には、そこに意識を持っていくことはほぼ不可能でした。私には何の落ち度もないと今でも自信を持っています。 不倫をして離婚を向こうから切り出してきたんですからね。姑も義理の姉も私と子供たちの味方でした。 ただ、これは結果ですが、そのプロセスとしては、 ・ 私が「夫を好きで、普通に幸せ」と満足していたあの空間で、夫の心の温度が本当はどれくらいだったのか。 ・夫が私に対して、そして家庭に対してどんな熱量を持っていたのか。 ・私は自分の溢れるようなエネルギーと愛情で目の前の現実を強引に満たしていたために、夫の側の微細な心の変化や、夫婦の間に生じていたかもしれない「熱量のズレ」に対して、無意識のうちに目を向けないようにしていた、あるいは本当に気づかないほど「気にしなさすぎた」 というのがあったのかもしれません。今さらどうにもならないことですけれど、何年もたって、心の傷がなんとか癒えたころ、そんな思いが”ふと”浮かびました。 相手の気持ちを気にしすぎて振り回されるのも辛いことですが、当時の私はその真逆でした。自分が好きだからそれで満足してしまい、相手の心のケアや、相手が抱えていたかもしれない寂しさや不満という「別の物差し」に、全く気がついていませんでした。 夫婦生活が目に見えて冷え切っていたわけでも、毎日激しい喧嘩を繰り返していたわけでもありません。私は相変わらず夫を好きなままだったし、家庭はしっかりと回っていました。 しかし、私が見ていた「普通に幸せな景色」の裏側で、夫が見ていた景色との間には、少しずつ、でも確実に、決定的なズレが生じていたのかもしれません。 当時はそれに気づく由もありませんでした。3人の子育てに必死で、夫を信じ切り、自分の愛の熱量のままに生きていた私の前に、やがて人生を根底から覆すような、突然の「旦那の不倫」と「一方的な関係の切断」という、青天の霹靂の大事件が待ち受けているとは、当時の私は夢にも思っていなかったのです。 私は自分が愛しているから大丈夫だと、無防備なままその幸せの渦中にどっぷりと浸かっていました。 ■人を好きになる熱量と、心のズレに悩むあなたへ この、自分の「好き」という気持ちだけで突っ走った結婚生活と、今振り返るからこそ分かる「相手の熱量を気にしなさすぎた」という切ない教訓。 この経験は、私の共感の土台となっています。様々な立場で、自分の思いに振り回されて苦しんでいる方に寄り添う原動力になっています。 「私は普通に幸せだと思っていたのに、パートナーから突然裏切られて絶望している」 「子育てに必死で相手のことを信じていたのに、ある日突然、関係を拒絶された」 「私はこんなに相手のことが好きなのに、相手からの熱量が同じように返ってこなくて寂しくて堪らない」 「一度火がついた恋心が止められなくて、周囲が見えなくなるほど突っ走ってしまい、自分をコントロールできない」 世間というものは、人間関係でトラブルが起きたり、複雑な恋愛に身を投じたりしている女性に対して、「もっと冷静になりなさい」「相手の気持ちを考えなさい」「自業自得だ」などと、冷たい正論や道徳をぶつけて裁こうとすることがあります。でも、私はそんな世間の物差しであなたを責めることは絶対にしません。 だって、人を好きになって周りが見えなくなるほどの激しい情熱を持つことも、自分の「好き」という純粋な気持ちのままに必死に突き進んでしまうことも、人間の抑えきれない本能であり、それほどまでに誰かを強く想えるということは、本来とても愛おしいことだからです。 その熱量も、盲目になってしまうほどの必死さも、私には痛いほどよく分かります。なぜなら私自身が、その熱量だけで結婚生活を駆け抜けた人間だからです。 そして同時に、自分が好きなままで幸せだと信じていたからこそ、そこから突然一方的に関係を切られたときの「信じられないショック」も、息ができなくなるほどの絶望も、すべて自分の身をもって知っています。自分が見ていた景色と相手が見ていた景色の「熱量のズレ」がもたらす、あの引き裂かれるような胸の痛みも、私は誰よりも理解しています。 だからこそ、あなたが今どんな立場にいて、どんな複雑な人間関係の絡まりの中にいたとしても、私は何一つ否定しません。あなたがパートナーとの熱量のズレに対する耐えがたい寂しさに震えているならその孤独に寄り添いますし、理屈抜きで誰かを好きになってブレーキが効かずに苦しんでいるならその情熱を丸ごと受け止めます。世間の常識や正論であなたを問い詰めたり、説教したりすることはありません。そのままのあなたを受けとめます。 あなたの「誰かを強く想う気持ち」や、その過程で生まれた傷は、何も間違っていません。まずはその傷ついた心のまま、誰にも言えない胸の内を私に吐き出してください。あの頃、自分の熱量だけで突っ走った未熟さも、その裏で起きていたズレの切なさも、すべてを通過してきた私だからこそ、何があってもあなたの味方になって、その張り詰めた心を温かく包み込みます。どうぞ安心して、私を頼ってくださいね。

    ・青天の霹靂の離婚劇と、私を救ってくれたもう一つの安全地帯 2014年4月 2014年4月

    ※匿名・年齢非公開のため期間は変えて掲載しています(*´▽`*) ご理解いただけますと嬉しいです。 ✼••┈┈┈┈•• 3人の子供たちに恵まれるという奇跡に恵まれ、毎日髪を振り乱しながらも、自分の「好き」という純粋な愛情だけで家庭を満たしていた日々。その平穏は、ある日突然、何の前触れもなく音を立てて崩れ去ることになりました。 当時、夫は仕事の関係で単身赴任をしていました。 ずっと赴任先にきりというわけではなく、週末や休暇のたびに時々は自宅に帰ってくるという生活スタイルです。離れて暮らしている分、どうしてもお互いの生活リズムにすれ違いが起きたり、時には些細なことでケンカをして口をきかなくなったりすることもありました。 でも、当時の私は「夫婦なんだから、長い結婚生活のなかでそんな時期もあるでしょ。どこの家庭だって同じようなものよね」と、特に深く気に留めてはいませんでした。 何より、目の前にはやんちゃ盛りの小さな子供が3人。毎日の家事と育児に追われ、自分のことや夫婦の力関係をじっくり見つめ直す余裕など、1秒すらなかったというのが本音です。 私は夫を信じていたし、この慌ただしくも愛おしい日常の延長線上に、これからも当たり前の未来がずっと続いていくと信じて疑っていませんでした。私は、自分が愛しているから大丈夫だと、無防備なままその幸せの渦中にどっぷりと浸かっていたのです。 ■義姉の言葉と、夫の拒絶。はざまで右往左往した日々 そんなある日、義理の姉から奇妙な提案を何度も受けるようになりました。 義姉はたまたま夫の赴任先の近くに用事があり、ついでに弟の様子を見に行ってくれていたのです。その日を境に、義姉は私に対して「子供たちを連れて、赴任先で一緒に生活した方が良いよ」と、何度も何度も熱心に勧めてくるようになりました。 当時の私は、義姉がなぜそこまで強く引っ越しを勧めてくるのか、その本当の理由を全く知りませんでした。「お義姉さん、私のことを心配して、親身になってくれるんだな」くらいにしか思っていなかったのです。 でも、何度も熱心に言われているうちに、「たしかに、子供たちを連れて、家族みんなで赴任先で暮らすのもアリかもしれない。その方が夫も寂しくないだろうし、子供たちにとっても父親が近くにいる方がいいよね」と、私の心も少しずつ動き始めました。 実際に引っ越すとなれば大ごとです。まずは一度、現地の様子を偵察しに行こうと考えました。これから子供たちが暮らす環境や、学校、住む家がどんなところなのか、母親として自分の目でしっかり見ておきたいと思ったからです。 私は夫に「近いうちに、子供たちの住む環境を見に赴任先へ一度行くね」と伝えました。 ところが、夫から返ってきたのは、「来なくていい」でした。 夫は頑なに、私たちが赴任先へ行くことを拒み、不自然なほど一点張りの態度を崩しませんでした。 「一緒に暮らした方がいい」と私の背中を押し続ける義姉と、「来るな」と激しく拒絶する夫。その正反対の言葉のはざまで、私は一体何が起きているのか分からず、ただ困惑し、不気味な違和感を抱えながら右往左往するしかありませんでした。 そして、その奇妙な緊迫感が限界に達したとき、事態は最悪の形で急展開を迎えます。 夫の口から、突然「離婚してほしい」という言葉が飛び出してきたのです。 ■青天の霹靂。「愛してない」と言われたあの日の絶望 夫の告白は、私の人生を根底から揺るがす衝撃でした。 実は赴任先で付き合っている女性(不倫相手)がいて、その人と一緒になりたいから、私と別れたいというのです。そして、義理の姉が私に同居をあんなに勧めていたのは、すでにその不倫の事実を知り、弟の目を覚まさせよう、離婚を回避させようと考えてくれていたからだ、ということも同時に知りました。 まさに、青天の霹靂でした。 頭を重たい鈍器で殴られたような衝撃が走り、目の前の景色がぐにゃりと歪んでいくのを感じました。私が夫を大好きなままで、必死に守り、育んできたはずの家庭は、私の知らないところでとうに壊れていたのです。 怒りなのか、悲しみなのか、悔しさなのか、自分でも処理しきれない感情が心の中で大爆発を起こしました。気がつけば私は、夫の赴任先へと向かっていました。 そこからの記憶は、今でも断片的です。 話し合い、と呼べるような冷静なものではありませんでした。私はまるで、制御不能になった「壊れた機械」のように、わけの分からない感情の叫びを夫にぶつけ続けました。思いつく限りの文句を言い、これまでの自分の頑張りをすべて否定された悔しさをののしり、涙と怒りでぐちゃぐちゃになりながら、ただただ自分の感情のすべてを叩きつけて、命からがら自宅へと帰ってきました。 その後、義母も義姉も、なんとか離婚を回避できないかと、私たちの間に入って一生懸命に動いてくれました。私と子供たちの味方になって、夫を説得しようとしてくれたのです。 しかし、夫の固まった決意が覆ることはありませんでした。 夫から私に突きつけられたのは、「もうお前を愛していない」という、冷酷で決定的な事実でした。 私は、夫のことを心から愛していました。愛していたからこそ、義母との同居生活の苦労も、小さな不満も、すべてを飲み込んで「母として、嫁として、妻として」頑張ることができていたのです。 私には何の落ち度もないという強い自信もありました。でも、夫婦の片方からの愛が完全に消え去り、別の誰かに向いてしまっている以上、もうこの家に私がいる意味は、どこにも残されていませんでした。 私の「好き」という熱量だけで繋ぎ止めておける限界を、とうに超えていたのです。 こうして、私の結婚生活は、突然の強制終了を告げられました。 ■暗闇の中で私を救ってくれた、友達の「心の安全地帯」 離婚が決まり、私の心は完全に真っ暗闇のどん底に突き落とされました。これまでの自分の人生がすべて否定されたような気がして、呼吸をするのさえ苦しい毎日でした。 そんな絶望の時期、私の周りにいた大切な友達たちが、全力で私を励まし、支えてくれたのです。 彼女たちは、私の傷ついた心に寄り添うために、本当に心を砕いてくれました。変に「元気出しなよ」とか「前を向かなきゃダメだよ」なんていう綺麗事の慰めは一切言いませんでした。それどころか、私の代わりに、私以上に怒り、一緒になって夫のことを「非道だ!」「最低だ!」「とんでもない悪人だ!」と、言葉を選ばずに徹底的にぶった切ってくれたのです。 「みのりは何も悪くない!」「一生懸命やってきたのを私たちは知ってる!」 そう言って、ドロドロした感情を一緒に吐き出してくれた友達の姿を見たとき、私の張り詰めていた心の糸が、フッと緩まるのを感じました。誰にも言えない惨めさや怒りを、彼女たちの前では包み隠さず全部さらけ出すことができたのです。 この時、友達が一緒になって怒り、悲しみ、私の感情のすべてを全肯定してくれたことは、本当に大きな力になりました。どれだけありがたかったか、言葉では言い表せません。彼女たちが作ってくれた「どんな感情を吐き出しても絶対に否定されない安全な空間」があったからこそ、私は自分の壊れそうな心をなんとか保ち、正気を保つことができたのです。 この「友達が心を砕いて寄り添ってくれた」という原体験こそが、今、私が電話相談で多くの方のお話を聞き、どんな感情も丸ごと受け止めていきたいと思う強いベース(心の土台)になっています。 ■私たち4人を生き延びさせてくれた、もう一つの安全地帯 そしてもう一つ、私の手元に残された、まだ小さな3人の子供たちと、一歩先すら見えないこれからの生活への不安。もし自分一人だけだったら、あの絶望の淵から立ち上がることすらできなかったかもしれません。 経済的にも精神的にも追い詰められ、愛する子供たちを手放さざるをえないという、最悪の結末がすぐ目の前まで迫っていました。 そんな私を、物理的にも全面的に救い上げてくれたのは、私の実家の両親でした。 当時、健在だった私の父と母は、事の顛末をすべて静かに、じっくりと聞いてくれたあと、迷うことなく「子供たちを連れて、すぐにうちに帰ってきなさい」と、私たち親子4人を実家へと呼び寄せてくれたのです。 実家に戻った私たちを迎えてくれたのは、温かいお風呂、温かいご飯、そして何よりも「ここにいていいんだよ」という、誰も私たちを責めない無条件の優しさでした。 あの独身時代に、私が先陣を切って小さなアパートに作った「心の逃げ込み寺」。今度は、傷つき果ててボロ雑巾のようになった私が、両親が作ってくれた大きな「安全地帯」に逃げ込ませてもらう番だったのです。 実家という避難所のおかげで、私たち親子4人は、間違いなく生き延びることができました。凍りついていた心が、実家のぬくもりによって、少しずつ、少しずつ溶かされていくのを感じました。毎日温かいご飯を食べ、温かいお風呂に浸かれるということが、どれほどありがたく、救いになったか分かりません。 この時、両親が何も言わずに私と子供たちを包み込んでくれたことへの、深い深い感謝。この「救われた」という強い想いがあったからこそ、私はのちに、重度の認知症になった父と、大腸がんを患った母の介護が必要になったとき、何の迷いもなく「今度は私が、お父さんとお母さんを全力で支え、看取る番だ」と、心の底から覚悟を決めることができたのだと思います。私の介護への原点は、まさにこの離婚の暗闇のなかで、両親からもらった光にありました。 ■壊れた機械のようになってしまった、傷だらけのあなたへ この、突然の裏切りによる離婚劇と、そこから友達や実家という安全地帯に救われたストーリーは、今、私がココナラでお客様の複雑な悩みをお聴きする上での、最も強い背骨となっています。 パートナーの不倫を知ったとき、あるいは突然の別れを突きつけられたとき、人間の心は簡単に崩壊します。かつての私のように、まるで「壊れた機械」のように、怒りと悲しみで叫び出すことしかできなくなるのは、あなたがそれだけ相手を真っ直ぐに想い、家庭や仕事を一生懸命に守ってきた証拠です。 〇周囲に言えない不倫の傷跡に苦しむ方 〇人間関係の破綻にのたうち回っている方 〇ただただ苦しくて身動きが取れない方 〇裏切られた側だけでなく、誰にも言えない激しい恋心のはざまで身を焦がし、周囲から「最低だ」と責められて孤独に震えている方 どんな立場であれ、心が壊れるほどの痛みを抱えているあなたに、私はあの日の友達や実家のような温もりを持って、こう伝えたいのです。 「今のあなたは、壊れた機械のようになってしまって当然なんだよ。それほどまでに深い傷を負ったんだから。ここでは、その泥ドロした感情も、行き場のない怒りも、世間には言えない本音も、格好つけずに全部吐き出していいんだよ」と。 人を真っ直ぐに愛したからこその絶望も、そこから命からがら生き延びる過酷さも、私はすべて自分の身をもって経験してきました。そして、一緒になって怒ってくれる友達の存在が、どれほど心を軽くしてくれるかも知っています。 だからこそ、あなたが今どんなにボロボロで、惨めな気持ちになっていたとしても、私はあなたを温かいお風呂のような安心感で包み込み、あなたの代わりに怒り、あなたのすべての感情を肯定します。 あなたが安心して心を休め、もう一度自分の足で立ち上がれる日まで、私はずっとここで、あなたの手を握って待っています。どうぞ、あの日の私がお友達や実家を頼ったように、いつでも私の胸に飛び込んできてくださいね。

    ・子どもの小児喘息と、オーガニックの罠。お母さんの笑顔こそが最大の特効薬 2015年4月 2015年4月

    ※匿名・年齢非公開のため期間は変えて掲載しています(*´▽`*) ご理解いただけますと嬉しいです。 ✼••┈┈┈┈•• シングルマザーとして実家に身を寄せ、両親と友達の温かいサポートのおかげで、なんとか命からがら生き延びることができた私と3人の子供たち。 しかし、一難去ってまた一難。 私を待っていたのは、まだ幼い長男の「小児喘息」という、新たな、そしてつらい試練でした。 夜中に突然、ヒューヒュー、ゼーゼーと苦しそうに呼吸を始め、小さな体を折り曲げて激しく咳き込む息子。その背中をさすりながら、何もしてあげられない自分の無力さに、私は毎晩のように胸を締め付けられる思いをしていました。 「どうしてこの子がこんな目に遭わなければいけないの?」 「私の育て方が悪いから、この子をこんなに苦しませてしまっているのではないか」「やっぱり離婚したのが原因なんだろうか…」 離婚の傷もまだ癒えきらないなか、私は新たな罪悪感と、息子の命を守らなければという強いプレッシャーのなかに放り込まれたのです。 ■病院ジプシーの日々と、辿り着いた「食」への道 息子の喘息を少しでも良くしたい一心で、私は必死になって病院を巡りました。 「あそこの小児科が良い」と聞けば遠くても飛んでいき、「このアレルギー科の名医が効く」と聞けば何時間も待合室で待つ。いわゆる「病院ジプシー」の状態でした。 しかし、どこの病院に行っても処方されるのは吸入器やアレルギーの強い薬ばかりで、根本的な解決には至らず、発作が起きるたびに薬で一時的に抑え込むだけの毎日に、私は焦りと不安を募らせていきました。 そんな病院ジプシーの果てに、ようやく最後に行き着いたある病院で、一人の医師からこれまでにないアドバイスを受けました。 「お母さん、薬に頼る前に、まずは毎日食べる『お米』を見直してみませんか。主食を玄米に変えてみるか、もし精米するなら家庭用の精米機を自分で買って、三分づき(さんぶづき)や五分づき、七分づきにして、お米の栄養を丸ごと食べるようにしてみてください」 それは、それまで薬のことばかり考えていた私にとって、目から鱗が落ちるような言葉でした。 「食べるものが、この子の体を作っているんだ」 腑に落ちた私は、すぐに家庭用精米機を購入しました。 毎日、玄米をそのまま炊いてみたり、子供たちが食べやすいように五分づきや七分づきにして工夫を凝らしたり、お米の洗い方や炊き方に至るまで、試行錯誤を繰り返す日々が始まりました。 ここから、私の「食」に対する探求はさらに加速していきます。 マクロビオティック、自然療法、未来食……。息子の体を内側から変えるための学びを見つけては、夢中になって知識を吸収し、実践していきました。 化学調味料を一切排除し、調味料はすべて昔ながらの製法で作られた本物に変え、野菜の切り方一つ、火の通し方一つにも、学んだ通りのルールを厳格に当てはめていきました。 ■「有機」「無農薬」の罠。完璧主義に囚われて失った笑顔 「食事を変えれば、息子は絶対に良くなる」 そう信じていた私は、いつしか「体に良いもの」を追求するあまり、極端な完璧主義の罠にすっぽりとハマり込んでいきました。 買い物に行けば、食品表示の裏側を血眼になってチェックする毎日。 添加物が入っているものは「毒」であり、避けるべき悪。野菜は有機栽培や無農薬のものでなければ意味がない。少しでも体に悪いとされるものを子供の口に入れることは、母親としての怠慢であり、息子の喘息を悪化させる原因になる。 そんなふうに、当時の私の頭の中は「正しい食事」というルールでガチガチに固まっていました。 しかし、そうやって頑張れば頑張るほど、私の心はどんどん苦しく、窮屈になっていったのです。 無農薬の野菜やこだわりの食材を揃えるのにはお金も手間もかかります。3人の子供を抱えるシングルマザーの生活の中で、毎日完璧な自然食を作り続けることは、想像を絶する重労働でした。 「どうしてこんなに頑張っているのに、完璧にできないんだろう」 「また無農薬じゃない野菜を使ってしまった」 お惣菜や市販のお菓子を美味しそうに食べている周りの親子を見ては、「あんなものを食べさせて信じられない」と心の中で批判し、同時に、そこまで神経質になれない自分を責めて、自己嫌悪に陥る。 息子の体を健康にするために始めたはずの自然療法が、いつの間にか私から心の余裕を奪い去り、私をピリピリとした「怒りっぽい母親」に変えてしまっていたのです。食卓からは笑顔が消え、まるで義務を果たすための緊張感漂う空間になっていました。 ■目の前で起きた発作。息子が教えてくれた「心の繋がり」 そんなある日のことでした。 些細なことがきっかけだったと思います。育児の疲れと、思うようにいかない苛立ち、そして完璧にやらなければというプレッシャーで心が限界を迎えていた私は、子供に対して、感情をそのままぶつけるように、めちゃくちゃに激しく叱りつけてしまったのです。 怒鳴り散らす私の声が、部屋中に響き渡りました。 子供は怯えた目をして、私の顔を見上げていました。 その、まさに次の瞬間でした。 息子の喉の奥から、「ヒュー……」という、あの聞き慣れた不吉な音が聞こえてきたのです。 みるみるうちに息子の顔色が変わり、激しい喘息の発作が、目の前で、信じられないほどのスピードで起きました。息が吸えなくて苦しそうにのたうち回る息子の姿を見た瞬間、私の頭に、まるで雷が落ちたような強烈な衝撃が走りました。 「……あぁ、私のせいだ」 そのとき、私はハッキリと理解したのです。 どれだけ無農薬の食事を食べさせ、どれだけマクロビを徹底して体を整えようとしても、目の前にいる母親の私が鬼のような形相でピリピリと怒り狂い、子供の心を恐怖で満たしてしまっていたら、そんな「正しい食事」なんて何の意味もないのだということを。 お母さんの心の状態、子供との関わり方、家庭の中の空気の温度。それらすべてが、目に見えない絆を通じて、子供の体の健康をこれほどまでにダイレクトに左右しているのだという現実を、私は息子の体を張った反応によって、痛烈に、残酷なほど突きつけられたのでした。 私が守るべきだったのは、完璧なお皿の上のメニューではなく、子供が安心して呼吸できる「お母さんの笑顔と、温かい空気」だったのだと、その日、私は涙が枯れるほど泣きながら、眠っている息子に「ごめんね」と何度も謝り、心から反省したのでした。 ■頑張ることを手放し、「良い加減(いいかげん)」のバランスへ この痛烈な経験を経て、私の「食」と「子育て」に対するスタンスは、劇的に変わっていきました。 「もう、頑張りすぎるのはやめよう」 私は、自分を縛り付けていたオーガニックやマクロビの厳格なルールを、一度手放すことにしました。 有機だ無農薬だと目の色を変えて食材を探し回るのをやめ、スーパーで手に入る普通の食材も「ありがたいね」と受け入れる。たまには添加物が入ったお菓子だって、みんなで「美味しいね!」と笑顔で分け合って食べる。 「体に良いものを食べさせること」よりも、「家族みんなで、おしゃべりをしながら、何でも美味しく、楽しくいただくこと」を最優先にするようにしたのです。 できる範囲で、心地よく取り組む。 お金があるときは良い食材を、お金や時間が限られているときは、そのときの状況に合わせて無理はしない。完璧を目指してイライラするくらいなら、適度に手を抜いて、お母さんがニコニコ笑っている方が、子供の体にとっては100倍の栄養になる、そう思えるようになったんです。 この、極端なこだわりから一歩引いて、物事を広い視野で捉える「バランスのいいポジション(中庸)」の視点が身についたことは、私のその後の人生において、大きな宝物となりました。 不思議なことに、私が肩の力を抜き、家庭の中に笑顔と穏やかな時間が戻ってくるにつれて、あんなに私を悩ませていた息子の喘息の発作は、少しずつ、でも確実に落ち着いていったのです。 ■「お母さん、あなたはもう、十分に頑張っています」 この、子育てにおける完璧主義の苦しみと、お母さんの「心の余裕」が子供の健康に与える影響についての経験は、今、私がココナラでお子さんの病気や、育児、不登校、そして「母親としての自信」に悩む女性たちの相談を受ける上での、何よりものメッセージの源となっています。 これまで私は、仕事やプライベートを通じて、子育てに疲れ果てて自分を責めているお母さんたちの悩みをたくさんお聴きしてきました。 「子供が病気になったり、学校に行けなくなったりしたのは、私の愛情が足りないからかな…」 「イライラして、つい子供を激しく怒鳴りつけてしまう。夜に子供の寝顔を見ては、そんな自分が嫌で苦しい気持ちになる」 「良い母親にならなければと必死に頑張っているのに、誰も褒めてくれず、孤独で息が詰まりそう」 昔の私と、全く同じです。 みんな、我が子を愛しているからこそ、一生懸命になりすぎて、自分自身をがんじがらめに縛り付け、笑顔を失ってしまっているのです。お母さん自身が自分を責めるその痛々しいほどの健気さを思うと、私は胸がぎゅっと締め付けられます。 だからこそ、私はそんなあなたに、あの日の気づきを込めて、優しく伝えたいのです。 「お母さん、あなたはもう、十分に、これ以上ないくらい頑張っていますよ。だから、これ以上自分を責めなくていいんですよ」 お母さんが自分を責めて、プレッシャーに潰されそうになると、どうしても心に余裕がなくなります。 その余裕のなさが、イライラを生み、大切な我が子にぶつけてしまうという、誰も望んでいない悲しい悪循環を生み出してしまうのです。 だからね、まずはあなた自身が、自分の肩の荷を下ろして、一息つくことが何よりも大切なんです。 私の電話相談は、子育てに奮闘して、ボロボロになって、誰にも弱音を吐けないお母さんたちのための「24時間いつでも逃げ込める避難所」です。 ここでは、母親としての立派な姿を見せる必要は一切ありません。 「もう子育てを投げ出したい」「子供を可愛いと思えない瞬間がある」「つい怒鳴ってしまった」といった、他の人には絶対に言えない本音や、自己嫌悪の感情も、私はすべてを優しく受け止めます。100%あなたの味方です。 あなたの話をじっくり聞いて、その頑張りを心から認め、寄り添ってくれる人がそばにいる。それだけで、お母さんの心にはふっと、温かい風のような「余裕」が生まれます。 お母さんの心に余裕が生まれ、あなたが笑顔を取り戻すことこそが、お子さんにとっての何よりの特効薬であり、お守りになるのです。 一人でその重い責任を背負い込まないでください。まずは私に、その肩の荷物を半分、預けてみませんか?あなたが本来の「笑顔のお母さん」に戻れるまで、私はいつでもここで、あなたの味方になってお待ちしていますね。

    ・長男・長女の不登校と、先回り母の後悔。そこからの起死回生、笑顔が運んできた最高の「ありがとう」 2015年10月 2015年10月

    ※匿名・年齢非公開のため期間は変えて掲載しています(*´▽`*) ご理解いただけますと嬉しいです。 ✼••┈┈┈┈•• 子どもの健康を守るために「食」に必死になり、「お母さんの笑顔こそが最大の特効薬だ」と身をもって学んだ私。しかし、子育ての試練は体の健康面だけにとどまりませんでした。 次に私の前に立ちはだかったのは、子どもたちの「心」のSOS、すなわち「不登校」という大きな壁でした。 長男と長女、二人それぞれが異なる形で学校に行けなくなる経験を通して、私は「親としての本当の寄り添い方とは何か」を、痛いほど学ばせてもらうことになったのです。 ■長男の不登校:ある日突然、奪われた「居場所」 小学生時代、長男は地域の少年野球チームに所属していました。土日も泥だらけになりながら白球を追いかけ、元気に活動している姿を見るのは、私にとっても大きな喜びであり、当たり前の日常でした。 ところが、小学 5 年生のあるときから、長男の様子に明らかな異変が現れ始めました。 週末が近づくとポツリと「野球に行きたくない」と言い始め、やがて「学校にも行きたくない」と、布団から出てこられない日が増えていったのです。 初めての事態に、私の頭は真っ白になりました。 「どうして急にそんなことを言い出すの?」 「私の育て方が悪いから、この子をこんなに苦しませてしまっているのではないか」 「やっぱり、私が離婚したのが原因なんだろうか…」 離婚の傷も癒えきらないなか、私は新たな罪悪感と、息子を守らなければという強いプレッシャーのなかに放り込まれたのです。 理由を聞くと、原因は少年野球チームでの人間関係でした。 練習中や移動の際、ペアを組んでもらえなかったり、話の輪に入れてもらえず、あからさまな「仲間外れ」にされていたのです。 さらに辛いことに、その子どもたちが学校のクラスでも同じグループでした。野球での冷たい態度がそのまま学校生活にも持ち込まれ、学校という空間そのものが、長男にとって「怖くて行けない場所」へと変わっていました。 狭い子どもの世界の中で逃げ場を失った我が子の孤独を想像したとき、私の胸は張り裂けんばかりに痛みました。「この子をどう守ればいいのか」という、終わりのない暗闇を手探りで進む日々が始まったのです。 ■逃げ込んだ先で見つけた、温かい光と仲間の存在 学校に行けない長男を家に閉じ込めておくわけにはいかないけれど、無理やり行かせることは、傷ついた心をさらに追い詰めることになる。 当時は、フリースクールや学校以外の居場所についての情報が増え始めた時期でした。私は必死になって情報を集め、少年野球チームのお母さんたちと話し合いを重ねつつ、同時に長男の新しい居場所を確保することに動きました。 近くにあるフリースクールへ見学に行き、さらには市が運営している適応指導教室(不登校の子どものための居場所)にも通うようにしたのです。 この選択が、長男の止まっていた時間を少しずつ動かし始めました。 そこには、長男と同じように辛い思いをして学校を休んでいる子どもたちが集まっていました。長男にとって、「学校に行けないのは自分だけじゃない」という事実は、言葉にできないほどの安心感をもたらしたようです。 最初は表情が硬かった長男も、そこで過ごすうちに急速に仲間と仲良くなっていきました。「明日はあそこに行く日だね」という会話が家庭の中で復活し、生活の中に楽しみを取り戻す。その小さな「楽しみ」の積み重ねが、長男の枯れ果てていたエネルギーのコップを、少しずつ満たしていったのです。 ■ スモールステップのはずが…心臓バクバクの新学期 エネルギーをチャージしながら過ごすうちに新年度を迎え、再出発の大きなチャンスがやってきました。 そんな時、温かい手を差し伸べてくれたのが、当時の校長先生でした。 「新しく担任になるこの先生ならしっかり寄り添ってくれます。新学期が始まる前に、一度担任の先生と顔合わせをしてみませんか」 その提案に乗り、春休みの学校へ向かいました。新しい担任の先生は、長男の目を優しく見つめ、「大丈夫だからね。先生はいつだって味方だから」と、心強い言葉をまっすぐに届けてくれたのです。 そして迎えた、新学期初日。 私たちは「保健室登校」のような、別室で少しずつ慣らしていくスモールステップをイメージして校門をくぐりました。 ところが、事態は私たちの予想とは全く異なる展開を見せました。 学校に到着した長男は、先生の誘導のまま、初日からいきなり普通に教室へと案内され、クラスの一員としてスタートすることになったのです。 学校から帰ってきた長男の話から、初日の教室でどれほど心臓がバクバクと脈打っていたかが痛いほど伝わってきました。一度行けなくなった場所にいきなり放り込まれたら、大人だって生きた心地がしないはずです。 しかし、そのバクバクを救ってくれたのは、クラスの周りの子どもたちでした。 子どもたちは、長男が休んでいたことなど何事もなかったかのように、本当に「フツー」に接してくれたのです。「あ、〇〇くん、おはよー!」と、いつも通りの日常の一部として、彼を自然に受け入れてくれました。 この経験こそが、長男にとって何よりの強力な安心材料となりました。「もう怖がらなくていいんだ」と確信した長男は、いつもの笑顔を取り戻し、以前のように当たり前に学校へ通えるようになったのです。 この復帰劇は、先生の細やかな目配り、不登校の時期にしっかりと心の元気をチャージできていたこと、そして長男自身の成長が奇跡のように混ざり合って成し遂げられたものでした。あの時に関わってくださったすべての人への感謝の気持ちは、今でも忘れることはありません。 中学生になってからも小さなトラブルはいくつかありましたが、長男はあの時に培った心の強さで登校し続け、今では母親想いの本当に優しい息子に育ってくれました。 ■長女の「まだら不登校」 長男がなんとか学校に復帰し、ホッとしたのも束の間、今度は長女の「まだら不登校」が始まりました。 長女の不登校は、小学校、中学校と、「行ける日」と「行けない日」が不規則に繰り返される状態でした。 本人の「やっぱり友達が欲しい」という気持ちから、何度も登校をするのですが、毎回、数日行っては行けなくなるのでした。 人一倍のがんばり屋さんだったと思います。 しかし、当時の私は、そんな娘の姿を見ているのが辛くてたまりませんでした。 「また行けなくなったら、この子はどれだけ傷つくだろう」 「進路はどうなるの?将来どうやって生きていくの?」 私は「心配の先回り」をするようになっていきました。娘が傷つく前に、私が先に行って石ころを拾い上げ、道を作ってあげなければいけない。そうやって娘の表情を過剰に伺い、先回りしてアドバイスをしたり、過保護に干渉したりする日々が続きました。 今となっては、冷静に考えられることがあります。 私がしたあの「過度な心配」と「先回り」こそが、結果的に娘の自律するチャンスを奪い、不登校を長引かせる原因になってしまっていたのではないか、と。 私が放つ「大丈夫?」という言葉は、裏を返せば「あなたは大丈夫じゃないよね」という不信感として、娘の心に重くのしかかっていたのかもしれません。 高校生になっても、出席日数を数え、常に中退の境界線、卒業ギリギリのラインを死守しながら、何とかだましだまし二人三脚で卒業しました。ここでも、私の過保護ぶりは遺憾なく発揮されていたと思います。 ■過去は変えられない。だから決めた「笑顔の徹底」 「私は、なんて未熟で至らない母親なんだろう」 長男の時も、長女の時も、もっとうまく対応できていればと、過去を悔やんでは一人でくよくよと泣く夜もありました。 でも、ある時、私の心の中で何かが吹っ切れたのです。 「だめな母親かもしれない。でも、あの時の私は、私なりに精いっぱい、命がけで、MAXで頑張ったじゃない。それしか方法を知らなかったんだから、仕方ないじゃない!」 過去をいくら悔やんでも時計の針は戻りません。過ぎたことはもう変えられない。だったら、過去の自分を責めるのはやめよう。これからの子どもたちとの関わり方にエネルギーを注ごう、と決意したのです。 そこから私は、ある一つの行動を徹底することにしました。 子どもたちから何を言われても、どんな状況であっても、 「私はただ、笑顔で返事をし続ける」 これだけを、何があっても守り抜こうと決めたのです。 学校に行く、行かないはどうでもいい。あなたがどんな状態であっても、お母さんは笑顔でここにいるよ。そのメッセージを、毎日の「笑顔の返事」という行動だけで伝え続けました。 ■子どもがくれた、人生最高の「宝物」 その「笑顔の徹底」を始めてから、2年ほど経ったある日のことです。 娘から、思いもよらない言葉をかけられました。 「お母さん、ありがとう。私がどんなに愚痴を言っても、暴言を吐いても、お母さんをディスっても、お母さんが私のことを絶対に責めないでいてくれたこと、本当に助かってたよ。心の病気だから、自分で分っていても止められないんだ。だから、お母さんは絶対に怒らない、っていう安心感はありがたいよ」 その言葉を聞いた瞬間、これまでの何年もの苦しみや葛藤、自分を責め続けた涙のすべてが、一瞬にして温かい光に変わって洗い流されていくのを感じました。 もちろん、今でも子どもたちから文句を言われることもありますし、過去の母親批判をされることもあります(笑)。 それでも、諦めずに笑顔を送り続けたことが娘の心に届いていた。娘が私にくれた「ありがとう、私を責めないのが助かってる」という言葉は、私のこれまでの人生における、何よりもの一番の宝物です。 ■誰もあなたを責めない「安全地帯」が、ここにはあります この長男と長女の不登校、そして私自身の過保護な後悔から這い上がった経験は、今、我が子のことで自分を責めているお母さんたちに一番伝えたいメッセージです。 子どもが学校に行けなくなったとき、誰よりも自分を激しく責めているのはお母さん、あなた自身ですよね。「私の育て方のせいだ」と暗闇で一人で泣いていませんか。 未熟な母親でもいいじゃないですか。あの時のあなたは、我が子のために精いっぱいのMAXで頑張った。まずはその事実を、自分自身で「よくやったね」と認めてあげてください。 お母さんが過去を悔やむのをやめて、ただ「何があっても笑顔で、責めずにそこにいてくれる」という安心感を作ること。それこそが、子どもがもう一度自分の足で立ち上がるための最強の土台になります。 でも、一人で笑顔を保ち続けるのは本当に大変なことです。だからこそ、私を、あなたにとっての「不安をすべて吐き出すゴミ箱」であり、エネルギーをチャージする「給油所」として使ってほしいのです。 これまで私は、仕事やプライベートで多くのお母さんたちの悩みを聴いてきました。私の電話相談は、誰にも弱音を吐けないあなたのための「避難所」です。ここでは母親としての立派な姿を見せる必要は一切ありません。どんな本音を吐き出しても、私は100%あなたの味方です。 あなたが不安を全部預けて、心がふっと軽くなり、お家で「笑顔のお母さん」に戻るお手伝いをさせてください。もう一人で抱え込まなくて大丈夫です。いつでも、あなたのお電話を心からお待ちしています。 (*´▽`*)

    ・シングルマザーの決意。ヘルパー2級から始まった、私の介護人生 2016年4月 2016年4月

    ※匿名・年齢非公開のため期間は変えて掲載しています(*´▽`*) ご理解いただけますと嬉しいです。 ✼••┈••✼ 子どもの不登校や行き渋りに悩み、 たくさんの失敗や後悔の末に「笑顔の徹底」という母としての境地にたどり着いた私。 私の人生を振り返ると、子育てと介護は切っても切れない関係にありました。 今こうして18年以上介護の仕事をしているのは、「ヘルパー2級」という情報を持ってきてくれた人がいたからです。 ◆「食べていかなければならない」シングルマザーの現実 離婚した当時の私は、これからの生活に対する大きな不安のなかにいました。。当時は近場で短時間のアルバイトをしていましたが、毎月の家計のやりくりを考えると、到底それだけでやっていけるほど甘い世界ではありません。 「やっぱり、シングルマザーとして子育てをしていくためには、もっと腰を据えて、しっかりとした仕事をしなければならない」 焦りと不安で胸がいっぱいになっていた私を、親や親戚、母の友人などが一緒になって心配してくれ、いろんな情報を持ってきてくれました。そんな時、ある方が私に、アドバイスをくれたのです。 「今はヘルパー2級がいいらしいよ。あの資格を持っていると、求人もたくさんあるみたいだから、仕事には困らないらしいよ」 当時は、今のように介護資格の制度が細かく複雑に分かれている時代ではなく、「ヘルパー2級」が最もメジャーで、介護の世界への登竜門とされていた時代でした。 「そうか、ヘルパー2級があれば、私でもしっかりと働ける場所が見つかるかもしれない」 私は、すぐにその言葉を聞いて調べてみることにしました。 ◆授業と実技、6万円で掴んだ「最初の一歩」 調べてみると、その資格は通信教育での座学と、いくつかのスクーリング(対面授業)、そして実技の講習を受けるだけで取得できることが分かりました。 当時の受講費用は、確か5万〜6万円ほどだったと記憶しています。 講座の最後に出されるテストも、落とすためのものではなく、しっかりとカリキュラムに出席して真面目に受ければ、誰でも修了証がもらえるという性質のものでした。 現代の介護業界は、介護職員初任者研修から始まり、実務者研修、介護福祉士と、ステップアップのために膨大な勉強と複雑な要件が必要ですが、当時は本当に「ヘルパー2級さえあれば、介護の仕事はどこにでも行ける」という、おおらかな時代でした。 こうして私は、人生で初めて「介護」という未知の世界の切符を手に入れたのです。 ◆命の重さに足がすくんだ、初めての訪問介護 資格取得の最終段階として、近所での「訪問ヘルパー」と「介護施設」の2箇所での実務研修がありました。無事に研修を終えたとき、研修先の担当の方から温かい声をかけていただきました。 「みのりさん、もしよかったら、まずはうちのホームヘルパーに登録して、仕事を始めてみない?」 その一言が嬉しくて、私は迷わずその訪問介護事業所にヘルパーとして登録し、プロとしての第一歩を踏み出すことになりました。そこで約1年間、私は訪問ヘルパーとしての経験を積むことになります。 訪問ヘルパーの仕事は、お一人おひとりのお宅に伺い、その方の生活のペースに合わせてケアを行う。色々なお客様との出会いがありましたが、私の記憶に今でも最も強烈に焼き付いているのは、ある「ALS(筋萎縮性側索硬化症)」の患者さんのご自宅へ通った日々のことです。 ヘルパーの仕事は料理や入浴など生活中心の介助と、病気を抱えていて医療的なサポートが必要な介助があって、医療度合いが高い方が、時給が高いのです。 少しでも時給が高い方が良かったので、声をかけられたとき、迷わず医療度合いの高い方のヘルパーを引き受けました。 ALSは、意識や五感ははっきりしているにもかかわらず、全身の筋肉が徐々に動かなくなっていく非常に過酷な難病です。 そのお客様のケアは、それまで学校の授業で習ったような一般的な生活援助とは全く異なり、医療的なケアが多く含まれていました。 もちろん、最初のうちは同行してもらい、何回かは見てるだけ。メモを取って質問をして覚えていきます。その後、自分で介助するところを見てもらって合格できたら独り立ち、となるわけです。 24時間体制で介助のスケジュールが組まれており、訪問看護師が1日に何回か来るので、それまでの間を介護員が見守って介助していました。ご利用者様の病状が進んでいくのに合わせて介助の内容も変化するので、チームワークが本当に大切だな、と感じながら介護に当たっていました。 「もし、私の手元が少しでも狂ったら、この方の命に関わるかもしれない」 毎回、そのお客様のお宅の呼び鈴を鳴らすときは、緊張感に包まれていました。 シングルマザーの生活のために始めた仕事でしたが、そこは文字通り、一瞬の油断も許されない「命の最前線」だったのです。 ◆災害の恐怖と、自分の未熟さを認めた決断 そんな張り詰めた緊張感のなかでなんとか1年ほど頑張っていたある日、私たちの地域を大きな災害が襲いました。 激しい揺れや混乱のなかで、私はハッとあのお客様の顔を思い浮かべました。自分の身体を1ミリも動かすことができず、医療機器やヘルパーの助けがなければ息をすることすらままならない、あのお客様。 数日して、病院に受け入れてもらって元気に過ごされていることを聞いて安心しましたが、 「もし、私がケアをしている時に災害が起きたとき、私一人の力で、この重篤な状態の方の命を背負って守りきることができるだろうか……」 想像しただけで、恐ろしいと感じていました。私にはまだ、一人でそこまで重い責任と命の重さを支えきるだけの技術も、心の強さも備わっていない。まだ「ヘルパー2級」を取って1年。気軽に引き受けた重度の方の介護。自分の知識と経験の浅さを突きつけらたのでした。 恐怖と不安がどんどん大きくなり、私はこれ以上、この方の介護をするのは難しいと思い、変えていただけないか聞きに行きました。 私は正直に自分の限界を事業所に伝えました。すると事業所は私の気持ちを汲み取り、「それなら、同じ法人がやっているデイサービス(通所介護)の方に切り替えて働いてみない?」と提案してくれたのです。 これが、私とデイサービスとの、最初の出会いでした。 ◆ デイサービスで知った、介護の「楽しさ」と「賑やかさ」 1対1で、静まり返った部屋の中で命と向き合っていた訪問ヘルパーとは異なり、新しく異動したデイサービスの世界は、賑やかで活気に満ちあふれていました。 大勢のスタッフがいて、大勢のお客様をみんなで協力しながら介助する。 入浴介助、食事介助、排泄介助といった基本的な身体介護はもちろん毎日ありましたが、リハビリやレクレーションも毎日行われて、楽しんでくださるご利用者様もたくさんいました。 「介護の現場って、こんなに明るくて、楽しい場所でもあったんだ……!」 たまたま私が配属されたのが規模の大きなデイサービスだったこともあり、毎日賑やかでした。スタッフ同士で声を掛け合い、「次はお風呂行きますね!」「はーい、よろしくお願いします!」とチームワークで動く心地よさ。お客様たちが笑顔で「今日も楽しかったよ、ありがとう」と言って送迎車に乗り込んでいく姿。 訪問ヘルパーの時に感じていた「孤独なプレッシャー」から解放され、私はこの場所で、介護の仕事の本当の「楽しさ」と「奥深さ」を吸収しながら、生き生きと働くことができるようになっていきました。 人に勧められて始めた仕事でしたが、いつの間にか、このデイサービスの賑やかな日常が、自分の居場所のようにも感じられるようになっていたのです。 ◆ 「経験」という武器を手に、資格を目指す デイサービスでの毎日は忙しくも充実しており、気がつけばカレンダーのページが何枚もめくられ、私の介護職としての実務経験日数は着実に積み重なっていきました。 そして、介護の世界に入って数年が経った頃、私の中にひとつの大きな転機が訪れます。 プロの資格である「介護福祉士」、そして介護保険の司令塔である「ケアマネジャー(介護支援専門員)」の試験を受けるための、実務経験の要件を満たす時期がやってきたのです。 今でこそ、ケアマネジャーの受験資格は「特定の国家資格を持って5年以上実務を行う」など、非常に厳格で狭き門になっていますが、当時はまだ要件が緩く、規定の日数以上働いていれば、私のようなヘルパー2級からスタートした人間でも挑戦できる時代でした。 「よし、ケアマネの資格を取ろう!」 私はそう心に決めました。 なぜなら、いつまでもデイサービスの現場で夜勤や重い身体介助を続けるには、体力的にもいつか限界が来るかもしれない。もしデスクワークが中心の「ケアマネジャー」の資格を取ることができれば、体力的にも少しは楽になり、もっと長く、安定して働けるのではないか。 そんな、未来への期待と希望を胸に膨らませ、私は日々の過酷な仕事を終えたあと、夜遅くに机に向かい、猛烈に受験勉強を始めました。仕事と子育て、そして勉強のトリプルパンチでしたが、あの時の集中力は今思い出しても凄まじいものがあったと思います。 結果は、見事に合格。 「やった……!これで私も、ケアマネジャーとして新しいスタートが切れる!」 手元に届いた合格通知を握りしめ、私の胸はこれからの新しいキャリアへの期待でパンパンに膨らんでいました。 介護の現場で学んだ楽しさと、資格取得の喜び。それらを引っ提げて、いよいよ私は「ケアマネジャー」という相談専門職の世界へと足を踏み入れることになるのです。 しかし、その先に人生の挫折が待ち受けているとは、この時の私はまだ、知る由もありませんでした。 ◆あなたの一歩も、ここから始まります 私の介護人生のスタートは、決して高尚な理想や志から始まったわけではありません。 「シングルマザーとして食べていかなければならない」という切実な現実と、周りの人の「ヘルパー2級がいいよ」というアドバイスから始まった、本当に地味で必死な一歩でした。 最初に訪問ヘルパーで自分の未熟さに怯え、逃げるようにデイサービスに移ったことも、当時の私にとっては「挫折」のように思えて情けなかった記憶があります。 でも、今なら分かります。その時々で、自分の限界を認め、自分に合った環境を選びながら一歩ずつ進んできたからこそ、私の18年のキャリアの土台が作られたのだ、って。 今、ココナラの私の相談室に繋がってくださる女性の中には、「今の仕事を続けるのが辛い」「新しい一歩を踏み出したいけれど、自分の未熟さが怖くて動けない」「生活のために必死だけど、将来が見えない」と、当時の私と同じような不安で足がすくんでいる方がいらっしゃいます。 私は、そんなあなたに寄り添い、声を大にして伝えたいのです。 「完璧なスタートじゃなくていいんです。怖くなったら、途中で道を変えたっていい。大事なのは、あなたの生活と、あなたの心を最優先に守ること。あの時、未熟でビビりだった私でも、一歩ずつ進んだらケアマネになれたんだから、あなただって絶対に大丈夫ですよ」 私の電話相談では、仕事の悩みやキャリアの迷い、生活の不安など、誰にも言えない心のザワザワをすべて受け止めます。あなたが自分の「未熟さ」を責めて苦しんでいるなら、まずは私がそれを「それでいいんだよ」と包み込みます。 一人で暗闇の中で悩むのは終わりにして、私にその不安を分けてください。 自分を受け入れたところから見えてくる景色を一緒に見つけていきませんか。

    ・(恋愛・パートナーシップ特化):私の想い 2016年10月 2016年10月

    ※匿名・年齢非公開のため期間は変えて掲載しています(*´▽`*) ご理解いただけますと嬉しいです。 ✼••┈••✼ ここまで自分の歴史を振り返りながら書いてきて、ふと恋愛に関する自分の想いを書きたくなりました。プロフィールには文字数の関係で書く場所がなく、ここでお伝えするのもありかと思ったんです。 この項目だけ私の恋愛に関する想いにお付き合いくださいね。 +:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-+ (恋愛・パートナーシップ特化):どんな立場でも、どんな想いでも。あなたが抱いたその気持ちは、絶対に間違いじゃない。 +:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-+ 子育てや介護、そして私自身の離婚やその後の様々な出会いと別れを通して、私は本当にたくさんの「人の想い」に触れてきました。 世の中には、いろいろな立場があり、いろいろな恋の形があります。 周りから素直に祝福される誇らしい恋もあれば、誰にも言えず、たった一人で暗闇の中で胸を痛める恋もあります。 そして、自分自身でさえ「こんな想いを抱いちゃダメだ」「どうして私はこんなに愚かなんだろう」と、自分の気持ちを罰するように責めてしまう夜もあるかもしれません。 でもね、私はずっと感じてきたことがあります。 どんな立場であっても、どんな状況であっても、世間からどう見られようとも――あなたが心の中で感じているその想いは、あなたにとって絶対に嘘偽りのない「本物」だということです。 1. 抑えきれない想いは、あなたが「一生懸命生きている証拠」 頭では、重々分かっているんですよね。 「もう諦めた方がいい」 「こんな関係、早く終わらせなきゃいけない」 「この年齢でこんなに胸を焦がすなんて恥ずかしい」 「相手の迷惑になるから、連絡なんてしちゃいけない」 世間の正論や、自分の中の理性が「ダメだ」と何度も警告を鳴らしている。それでも、どうしても湧き上がってきてしまう情熱や、抑えようとすればするほど溢れてしまう切ない想い、そして夜中に押し寄せる猛烈な寂しさ。 それってね、決してあなたが未熟だからでも、心が弱いからでも、愚かだからでもありません。 あなたが今日という日を、自分の人生を、それだけ一生懸命に生きてきたからこそ出てきた、愛おしい感情なんです。 少し立ち止まって、考えてみてほしいのです。 もし、あなたが自分の人生や、目の前のお相手に対して完全に「無関心」だったら、どうでしょうか? そんな風に夜も眠れないほど胸を痛めたり、スマホを握りしめて涙を流したりすることなんて、絶対にあり得ないはずです。 「どうでもいい相手」なら、心は1ミリも揺れません。 苦しくて、切なくて、心が千切れそうになっていること自体が、あなたが自分の心に嘘をつかずに、人と真剣に向き合い、必死で生きている何よりの証拠なのです。 それなのに、世間の「正論」という鋭いナイフを自分に突き刺して、「こんな私なんてダメだ」とせっかく芽生えた自分の大切な感情を否定したり、無かったことにしたりして傷つけるなんて、あまりにも悲しすぎます。 自分を本当の意味で受け入れ、大切にできるのは、世界中で自分しかいません。 だからこそ、私はあなたに伝えたいのです。 「どんな想いであっても、まずはあなた自身が『私は今、こう感じているんだね。それだけ真剣なんだね』と、その気持ちを大切に抱きしめてあげていいんだよ」って。 2. 感情は流れる水と同じ。だからこそ「今」の自分を肯定する 人の気持ちや感情というのは、川の流れや空の天気と同じで、常に変化していくものです。 永遠に同じ場所で止まっている感情なんて、この世には一つもありません。 今、あなたを苦しめているその猛烈な執着や、胸を締め付けるような切なさが、この先ずっと一生そのまま続くとは限らないのです。もちろん、長く続くかもしれないけれど、ふとしたきっかけで明日には全く違う優しい風が吹くかもしれない。 それなのに、私たちはどうしても「これから先、どうなっちゃうんだろう」と先の見えない未来を不安がって「今すぐどうにかしなきゃ」と焦ったり、過去の選択を振り返って「あの時こうしていれば」と終わったことを悔やんで自分を責めたりしてしまいます。 でも、未来も過去も、今の私たちが触れることはできません。 大切なのは、過去でも未来でもなく、「今、この瞬間の自分の気持ち」を、ただ丸ごと否定せずに受け止めてあげることです。 「ああ、私は今、あの人のことがこんなにも好きなんだな」 「本当は、喉から手が出るほど寂しかったんだな」 「愛されたくて、自分を見てほしくて、必死だったんだな」 そうやって、まずは一度、自分のどんなドロドロした本音であっても、100%肯定してあげる。 「これでいいんだ」 「私は今、こう思っているんだ」と、 自分の感情に自分自身で『マル』を出してあげた瞬間に、ピンと張り詰めていた心の緊張がふっと緩みます。 そして、相手や世間に振り回されてグラグラに揺れていたあなたの軸が、スーッと元の「自分の中心」へと静かに戻ってくるのです。 すべての問題の解決や、状況の好転は、この「今の自分をまずは一旦、フラット(ニュートラル)に受け入れること」から始まると私は思っています。 でも簡単にそれができれば誰も苦労はしませんよね(^_^;)。 3. 「人の恋愛」のように、自分の恋を客観的に見つめ直す よく「友達の恋愛ならすごく冷酷なくらい冷静に良いアドバイスができるのに、自分の恋愛になると途端に冷静さを失って、暴走したり自爆したりしてしまう」というお話を聞きますよね。 実はこれ、心理学的にも当然のことなんです。 自分の恋愛となると、感情の嵐の渦中にどっぷりと浸かってしまうため、どうしても視野が狭くなります。 「彼がすべて」「この恋を失ったら私の人生は終わり」と極限まで追い詰められ、お相手のちょっとした言動やLINEの返信速度一つに一喜一喜一憂して、振り回されてしまうのです。 当事者として渦中にいる時に「冷静になれ」と言われても、それは無理というもの。 だからこそ、私の電話相談という場を、上手く「心の安全地帯」として使ってほしいのです。 電話越しに、胸の中に溜まっているぐちゃぐちゃした想いを、思いつくままに一つひとつ言葉にして吐き出していく。誰かに話すという行為(アウトプット)を通して、人は自分の感情を頭の外に連れ出すことができます。 すると不思議なことに、まるで映画のスクリーンで他人のドラマを見るように、自分の恋愛を少し離れた高い場所から「客観的」に見つめ直すことができるようになるのです。 感情の渦から一歩抜け出して、一旦フラットな視点に立つことができたとき、あなたの中に劇的な変化が起こります。 「あれ?私、彼に猛烈に怒っていたけれど、本当はただ寂しくて悲しかっただけなんだ」 「なんだ、彼に執着していたんじゃなくて、『私を認めてほしい』っていう自分の承認欲求に縛られていただけなんだ」 「こうやって視点を変えてみたら、何も今すぐ答えを出さなくても、他にもっと自分を楽にする選択肢があるじゃない」 今まで狭い暗闇の中で「これしかない」「もう終わりだ」と思い詰めていた景色がガラリと変わり、新しい発想や、思いもよらなかった次の一歩がふっと見えてくることもあります。 冷ややかに冷静になるのではなく、温かい目で自分の恋愛を「人の恋愛」のように俯瞰して見つめ直す。これができると、恋愛の苦しみは驚くほど軽くなります。 それがきっかけになって、彼へのアプローチが変わることも十分ありえます。 悩みのど真ん中にいる時には考えもしなかったことが浮かんでくるかもしれません。 彼への想いにも変化がこ起こるかもしれません。心は生き物。未来の自分の心は誰にも自分でさえも分からないのです。 分かっているのは、自分の心を軽くすれば、湧き上がる想いや感情も影響を受けて変わってくるということ。だって、心も想いも感情も繋がっていますから。影響し合っています。 4. 誰にも言えない秘密も、世間の正論で傷ついた心も、丸ごと包み込む 世間はいつだって正論を突きつけてきます。 「不倫なんてダメに決まっている」 「そんな歳で恋愛に夢中になるなんて」 「早く忘れて次の人を探しなさい」 でも、そんな正論で解決できるくらいなら、あなたは最初からこんなに苦しんでいませんよね。正論を聞かされるたびに、「やっぱり私が悪いんだ」とさらに自分を追い詰め、誰にも相談できなくなってしまうだけです。 私は、世間の正論を振りかざしてあなたを裁くようなことはしません。 世間一般からしたら否定されるような関係であっても、人には絶対に言えないようなドロドロした感情であっても、私はあなたの気持ちを絶対に否定しません。「そんな風に思っちゃダメだよ」なんて、100%言いません。 なぜなら、最初にお話しした通り、どんな状況であれ「あなたがそう感じた」という事実そのものが、何よりも尊い本物のあなただけの気持ちだからです。 私の相談室は、あなたが心に秘めている「人に対する黒い本音」や「誰にも言えない秘密を」吐き出しても安全な「心の避難所」です。 一人で暗闇の中で携帯を握りしめ、既読がつかない画面を見つめて涙を流すのは、もう今日で終わりにしませんか? まずは私に、あなたの胸のザワザワや、やり場のない想いをそのまま預けてください。 一度フラットな状態になって、心をすっきり軽やかにした上で、「じゃあ、これからどんな素敵な未来を作っていこうか?」と、私と一緒に新しい景色を探しに行きませんか。 あなたの中にある大切な想いを、私にも一緒に大切にさせてくださいね。 いつでも、あなたからのお電話を心からお待ちしています。

    ・「愛する家族が壊れていく恐怖」と、介護共倒れを防ぐための心の保ち方 2017年4月 2017年4月

    ※匿名・年齢非公開のため期間は変えて掲載しています(*´▽`*) ご理解いただけますと嬉しいです。 ✼••┈••✼ 「愛する家族が壊れていく恐怖」と、介護共倒れを防ぐための心の保ち方 親の介護というのは、ある日突然、前触れもなく私たちの日常に飛び込んできます。 「昨日まで当たり前にできていたことが、今日はできなくなっている」 「大好きだったはずの親が、まるで別人のような言動をとる」 そんな親の姿を前にして、多くのご家族がショックを受け、絶望し、「どうしてこんなことになってしまったのだろう」と涙を流します。 そして、終わりが見えない介護の渦の中で、心も体も擦り減らし、共倒れ寸前まで追い詰められてしまうのです。 今回は、私自身が経験した「父親の重度認知症の介護」と、突然訪れた最期の瞬間、そして介護で心が折れそうになっているあなたに一番伝えたい「心の保ち方」についてお話しします。 1. 違和感から始まった、父の「水頭症」と認知症 父の認知症の発端は、「水頭症(すいとうしょう)」という病気からでした。 ある時、同居していた母が父の様子を見ていて、ふと異変に気づいたのです。 「なんだか最近、お父さんの歩き方がおかしいのよ。小股でひょこたん、ひょこたんって歩くの」 そして決定打となったのが、ある日の昼食でした。 父がカップ焼きそばを食べようとしていた時のことです。 通常なら、お湯を入れて数分待った後、湯切り口からお湯をしっかりと捨ててからソースを混ぜますよね。ところが父は、たっぷりとお湯が入ったままの容器の中に、躊躇なくソースをダバダバと投入し、そのまま食べようとしたのです。 それを見た母は、「これはもう絶対におかしい!」と確信し、すぐに父を連れて病院へ向かいました。 病院での診断結果は「水頭症」。脳の中に髄液という液体が溜まり、それが脳を圧迫することで、歩行障害や認知症によく似た症状を引き起こす病気でした。 一般的には、脳から髄液を抜き取る手術をすれば、脳の圧迫が取れて認知症状も改善することが多いとされています。父もすぐに髄液を抜く手術を受けました。 手術後のレントゲン写真を確かめると、溜まっていた髄液は綺麗になくなり、脳の圧迫もなくなっていました。 「これでまた、元の父に戻ってくれる」――誰もがそう期待しました。 しかし、現実はそう甘くはありませんでした。 脳の圧迫は取れたものの、父の認知症状が改善することはなく、むしろそこからゆっくりと、着実に進行していくというパターンを辿ったのです。 おそらく、レントゲン写真には写らないような深い部分で、髄液が溜まっていた時に脳にダメージが残ってしまっていたのだと思います。 こうして、我が家の「父の認知症介護」の日々が、静かに幕を開けました。 2. 「知っている」ことが、私と母を救ってくれた 徐々に進行していく父の認知症。 しかし、ここで私にとって大きな強みとなったのは、私自身が介護の仕事をしていて、認知症のたどるプロセスを実際に見て、経験しているいうことでした。 認知症の初期症状から中期症状、そして最終的に「重度認知症」になると人間の身体と心がどう変化していくのか。私は仕事を通して、何十人、数百人という大勢の高齢者の方々を見つめてきていました。 「認知症というのは、脳の病気であり、こういう経過を辿るものだ」 その「構造」と「未来の予測」が頭の中に完全に頭に入っていたため、私は父の認知症が進行していく経過を見ても、激しいショックを受けたり、取り乱したりすることはありませんでした。 「あ、今は中期段階に入ったな」 「次はこういう行動が出てくるかもしれないな」 と、客観的に(ニュートラルに)父の状況を捉えることができたのです。 そして何より大きかったのは、同居して一緒に介護をしていた母の存在です。 介護の知識がない母にとってみれば、愛する夫がどんどん変わっていく姿は恐怖でしかなかったはずです。 でも、私が横にいて、 「お母さん、今の父さんのあの行動はね、意地悪でやってるんじゃないんだよ。脳のここが原因なんだよ」 「次はこういうサービスを使って、お母さんも少し休もうね」 とその都度、認知症のメカニズムを解説し、一緒に考え、先手を打って介護体制を整えることができました。 結果として、我が家の介護は悲壮感に包まれることなく、家族がパニックを起こすこともなく、とても穏やかに、スムーズに進んでいきました。 一般的に、家族の介護で最も精神を削られるのは、「今までできていたこと(家族の機能や思い出)が、目の前でどんどん失われていくことに対する絶望、悲しみ、ショック」です。 そして、「これからどうなってしまうんだろう」という未知の恐怖です。 私は介護員だったからこそ、その「絶望」や「パニック」の段階を飛び越えて、最初から落ち着いて父に向き合うことができました。もし、そうでなければ、きっと心配で不安で辛いだろうと思うのです。 仕事とプライベートの両方で介護を経験してきたからこそ、突然の介護生活、未知の介護に直面して「もう無理だ」と心細い思いでいるご家族の気持ちが、理解できるのです。 3. 重度認知症のリアルと、チームで乗り越えた日々 父の認知症は最終的に「重度」へと進んでいきました。 一般的に「重度認知症」と聞くと、寝たきりで何も分からなくなっている姿をイメージされるかもしれません。しかし、実際の重度認知症というのは、体の機能や筋肉自体には全く問題がない場合が多いのです。 では何が起きるかというと、「自分の意思で身体をどう動かせばいいのか、脳からの指令が出せなくなる」のです。 「立ってね」と声をかけても立たない。「座って」と言っても座らない。 歩けるだけの筋力はあるのに、どうやって足を前に出せばいいのかが分からなくなってしまう。 そのため、食事、排泄、着替え、移動……ありとあらゆる生活の動作において、完全な介助が必要になります。 我が家では、私と母だけで抱え込むことはせず、介護サービスをフル活用しました。 デイサービス(通所介護)に通い、ショートステイ(短期入所)で施設に泊まってもらい、さらには「お泊まりデイサービス」なども利用しながら、プロの手を借りて父の生活を支え、母の介護負担を減らす工夫を重ねました。 ケアマネジャーとしての知識も活かしながら、使える制度はすべて使い、家族の笑顔を守る。 それが、我が家の介護スタイルでした。 4. 突然訪れた最期――介護に「絶対」はないからこそ そんな風にして、デイサービスやショートステイを利用しながら穏やかな介護生活を続けていたある日のことです。 父は持病に糖尿病を抱えていたため、定期的に主治医の元へ通い、血液検査や全身のチェックを受けていました。 その日の検査結果も、先生から太鼓判を押されるほど良好でした。 「お母さん、お父さんの検査結果、今日もバッチリだよ!認知症の経過も落ち着いているし、数値も完璧。本当に優等生だね!」 主治医の先生からそう言われたと、母から聞きました。「よかったね、お父さん」と安心し、て夜を迎えたのでした。 しかし、その「優等生だね」と笑顔で言われた、まさにその翌日のことです。 父は、突然の「心筋梗塞」で、あっけなく息を引き引き取りました。 本当に、昨日まで主治医と笑って話していた父が、次の日にはいなくなってしまったのです。 介護の世界に、「絶対」はありません。 「この介護はあと何年続くんだろう」と途方に暮れることもあれば、昨日まで元気に笑っていた人が、脳卒中や心筋梗塞など高齢者特有の急激なリスクによって、ある日突然、最期を迎えることもあります。 デイサービスや施設でも、「昨日元気だったのに?」というなくなり方をする方はいらっしゃいます。 でも、終わりが見えない、これも事実です。 介護というのは、どれだけ準備をしていても、どれだけ知識があっても、「いつ何が起こるか分からない」という予測不能な連続なのです。 ◆介護に悩むあなたへ。一人で抱え込まないで 父を見送った今、私が改めて強く思うことがあります。 私が父の介護を大きな負担と感じず、最後まで穏やかに向き合うことができたのは、私が特別な人間だったからでも、父が特別な人だったからでもありません。 ただ単に、「介護の知識があり、次に何が起こるかを知っていたから」です。 家を出て徘徊する時は玄関にセンサーを置いてみたり、突っ張り棒で出られないようにしたり、椅子からどうしてもずり落ちる時は家にあるものを色々試してしっかり座っていられるように工夫したり。それができたもの、やっぱり前もって知っていたからだと思っています。 知っていることで慌てず、冷静に対応できたというのは介護員だったから、と言うのは間違いありません。 もし私が介護の素人で、一人で父の異変に怯え、認知症の症状に振り回されていたとしたら……きっと私も、世の中の多くの介護者と同じように、怒りと悲しみに打ちひしがれ、母と一緒に共倒れしていたかもしれません。 介護で心が折れてしまう一番の原因は、体力の限界だけではありません。 「どうしてこんなことをするの?」「いつまで続くの?」という、出口の見えない孤立感とパニックです。 今、この記事を読んでくださっているあなたも、親御さんの介護や突然の環境の変化に戸惑い、夜も眠れないほどの不安を抱えていませんか? 「怒ってはいけないと分かっているのに、つい強く当たってしまう」 「自分の人生が、介護のために潰されていくのが怖い」 「もう、投げ出して逃げ出したい」 そうやって自分を責める必要は、1ミリもありません。 知識もないまま、相談できる人もいないまま、大切な家族の介護を背負わされているのですから、パニックになって当然なのです。 一人で暗闇の中で抱え込まないでくださいね。 私の電話相談では、18年の介護員・ケアマネジャーとしての経験と、実の父親を看取った当事者としての経験の両方から、あなたの胸の苦しみを受け止めます。 ・「なぜそんな行動をとるのか」という、長年の現場経験から見えてくるご本人の心の紐解き ・プロとして、そして家族として経験したからこそ分かる、共倒れしないための「心の抜きどころ」 ・世間の正論や「良い介護者でいなきゃ」という罪悪感に振り回されず、あなたの心と生活を一番に守るための「マインドの保ち方」 制度の詳しい解説は市役所や事業所にお任せします。ここでは、誰にも言えない愚痴や「もう嫌だ」という本音を受け止めて、あなたの擦り減った心をフワッと軽やかにすることを心がけています。 介護の愚痴でも、やり場のない怒りでも、誰にも言えない弱音でも構いません。 心が破裂しそうになる前に、まずは私にその重いお荷物を半分、預けてみませんか? あなたが笑顔を取り戻せる道筋を、一緒に探していきましょう。いつでもお電話をお待ちしています。

    ・「介護の専門知識」と「娘としての葛藤」の間で揺れ動いたリアルな体験と、そこから得た寄り添いの心 2018年4月 2018年4月

    ※匿名・年齢非公開のため期間は変えて掲載しています(*´▽`*) ご理解いただけますと嬉しいです。 ✼••┈••✼ 私がこれまで歩んできたケアマネジャーと介護職員としての20年以上のキャリアの中で、最も深く、そして自分の人生観やカウンセリングへの姿勢を根本から変えた出来事があります。 それは、実の母の大腸がん再発、そして約2か月半にわたる「在宅療養と看取り」の体験でした。 介護のプロとして、これまで数え切れないほどの利用者様やそのご家族に関わらせていただき、「高齢者の心身の変化」や「医療・介護の仕組み」については知識としても現場経験としても深く理解していたつもりでした。 しかし、いざ「自分自身が患者の家族(娘)」という立場に立ったとき、私が直面したのは、教科書やマニュアルには一切書かれていない「激しい感情の揺れ」と「言葉にできない罪悪感・葛藤」でした。 その原因の一つに、母には認知症状がなかった、といことがありました。 介護の仕事では認知症状のある方の利用がほとんどなので、ご本人が「心を痛める」ということに対して、それほど問題になりません。伝え方を工夫することで、納得していただけることがほとんどでした。 でも、認知症状が全くない母には言い方の工夫も何も通じなかったのです。すべての流れを理解し、自分の体の変化を感じ、周りの私たちの様子を観察するのですから。 それが、母の苦痛の種でもあり、私たち家族の心の葛藤の根っこでもありました。 毎日の療養生活の中で 「プロとしてはこれが正解だと分かっている。でも、娘としては母の嫌がることをしたくない」 「本人の希望を尊重してあげたい。けれど、支える側の自分の心と身体が限界を迎えてしまう」 「医師や看護師の前では冷静を装っているけれど、一人になると涙が止まらない」 という想いを抱えながらサポートしてきました。 だから、もし今現在、ご家族の介護や看取り、病気のサポートに直面し、誰にも言えない孤独や罪悪感を抱えていらっしゃる方がいらしたら。 あるいは、人生の大きな壁にぶつかり、「正論だけでは救われない苦しみ」の中にいる方がいらしたら。 私が母を見送る中で経験した「失敗」も「悔い」も「絆」も、すべてありのままにお話しすることが、いま苦しんでいるあなたの心を少しでも軽やかにし、自分を責める気持ちをゆるめ、、自分は自分でいいんだ、と感じていただけるきっかけになればと思い、「母のこと」と「私のこと」を書いてみたいと思います。お付き合いいただけたら嬉しいです。 ■突然の再発告知と「在宅医療」という選択 母に大腸がんの再発が告げられたのは、手術から1年ほど経ったある日の定期健診でのことでした。それを聞いたとき、母は81歳だったので、私は「まさか」という気持ちと、高齢なんだからゆっくり進むでしょう、大丈夫だろう、とどこか冷静な気持ちが入り混じった状態で私は受け止めていたのです。 ところが実際には、高齢者とは思えないスピードで病状が進行していきました。 当初は総合病院に通院していましたが、夜中の救急受診や休日受診のたびに繰り返される造影剤を使ったCT検査やレントゲン検査、そして定期健診で主治医からあけすけに告げられる腫瘍マーカーの数値悪化の言葉に、私の心は確実にすり減っていました。 「毎回数値が悪くなっていくのを聞くのは、私だけでなくお母さんだって辛いはず……」 「痛みを我慢して救急車を呼んだり、造影剤を使った検査を繰り返したくない」 そう考えた私は、家族(兄・妹)に「往診専門のクリニックによる在宅医療」への切り替えを提案しました。 表向きの理由は「無理な通院を減らし、自宅で穏やかに過ごすため」。 そして裏の理由は「悪化していく検査数値の現実を母に直接突きつけるのではなく、家族と医療陣で見守りながら、母には一日一日を穏やかに過ごしてほしいから」でした。 こうして、我が家での「在宅療養生活」がスタートしました。母は何も言いませんでしたが、数値に傷ついていかもしれないと考えることもあって、何度も自分を責めていました。 24時間365日いつでも医師や看護師と連絡が取れる安心感を得た一方で、ここから私たちは「がんの痛みとの凄絶な闘い」と「日々の選択に対する迷い」の渦中へと巻き込まれていくことになります。 ■「痛みコントロール」の難しさと、家族としての私情 在宅医療が始まって痛感したのは、「がんの痛みをコントロールすることの難しさ」でした。 主治医は癌は痛みが出る人と出ない人がいると言っていましたが、母は痛みが出るタイプだったようで最後の最後まで痛みに苦労しました。 最初はカロナールという一般的な痛み止めからスタートしましたが、病状の進行とともに薬の量は増え、1日最大許容量を服用しても痛みが収まらない日が増えていきました。 効かなくなると、より強い薬を選択していくことになります。 薬が強くなればなるほど、痛みは和らぐ代わりに「強烈なだるさ」「食欲不振」「意識の混濁」といった副作用が襲いかかります。 医師や看護師は、何千人もの患者を診てきた「プロ」として客観的なアドバイスをくれます。 「痛みを取るか、だるさを取るかですね」 「痛みをゼロにするために、一段階強い麻薬(フェントステープや舌下錠)を使いましょう」 医療の正解としては、それが正しいのです。しかし、家族は100%「私情」です。 何千人の一人ではなく目の前のたった一人だけです。 新しい強い薬を使った途端、さっきまで笑顔で話していた母が急速にぐったりし、息も絶え絶えになって別人(あるいは認知症)のようになってしまう姿を目の当たりにしたとき、私は強いショックを受けました。 「痛みと引き換えにするものが、多すぎるんじゃないか……?」 「薬を強めたのは、私の判断ミスのせいじゃないか……?」 薬を飲むのも地獄、飲まないで痛みに耐えるのも地獄。 母の隣で24時間過ごしながら、私は毎回のように「どの薬を、どのタイミングで使えばいいのか」という選択に胸を締め付けられました。主治医は指示を抱いてはくれますが、それを選択するのは私の仕事でした。 本人と相談できるうちは良かったのですが、強くなるにつれて、私に葛藤が出てくるようになり、恐怖と不安で押し潰されそうになる日々でした。 ■ 「日によって激変する症状」と、振り回される家族の心 在宅療養が始まってから、私たち兄妹を一番悩ませたのは「昨日元気だった母が、今日は別人のようにぐったりする」という、まさにジェットコースターのような症状の激しい波でした。 ある日は、痛みが治まって表情も柔らかくなり、車椅子に乗って近所を散歩したり「外でオムツライスが食べたい!」と言って出かけたりするほどの回復を見せます。 そんな姿を見ると、私たちは「奇跡が起きているのかもしれない」「このまま良い方向に向かってくれるんじゃないか」と、胸躍るような希望を抱くのです。 しかし、その翌日には一転して熱が38.8度まで跳ね上がり、激しい痛みと吐き気でベッドから起き上がることもできなくなります。 「昨日はあんなに元気だったのに、なんで……」 天国と地獄を一日で行き来するような毎日に、私の心は休まる暇がありませんでした。少しでも母の表情が冴えないと不安で胸が押し潰されそうになり、夜中に母の静かな寝息を聞きながら、「どうか神様、お父さん、まだお母さんを呼ばないで」と必死に祈り続ける日々でした。(父は4年前に他界) また、薬の調整も一筋縄ではいきませんでした。 痛み止めのカロナールは1日8錠が限界量でしたが、病状が進むと錠剤を飲むことが厳しくなってきました。 医師の指示で粉薬に変えてみたものの、例えようのない凄まじい苦さに母が更に体調を崩したり、貧血用のシロップがあまりにも甘すぎて吐いてしまったりと、薬を一つ試すたびに新たなトラブルが発生しました。 「病気そのものよりも、薬の副作用や試行錯誤で母に辛い思いをさせてしまっているのではないか」 目の前で苦しむ母を見るたび、私の胸には刃物で刺されたような痛みが走りました。いくら知識で知っていても、自分の最愛の母がそのプロセスを辿り、苦しんでいる姿を見るのはあまりにも残酷な現実でした。 ■お彼岸の夜に起きた不思議な出来事と「覚悟」 なくなる前のお彼岸の時期には、今でも忘れられない不思議な出来事もありました。 突然、母が別人のように饒舌になり、普段の奥ゆかしい母とは全く違うトーンで肉を食べたがったり、ハイテンションで動き回ったりし始めたのです。喋り方や表情があまりにも生前の叔母にそっくりで、「お彼岸だから、叔母さんが精神が弱っている母の身体を借りて会いに来たのかな」と兄妹で話し合ったほどでした。 丸二日間、ハイテンションで活動した母でしたが、お彼岸が明けると嘘のようにテンションが下がり、そのままぐったりとベッドから離れられなくなってしまいました。エネルギーをすべて使い果たしてしまったかのような急激な落ち込みようでした。 この「お彼岸事件」をきっかけに、母の身体は急速に寝たきりへと向かっていきました。 1週間前までは自分の足で歩いてシャワーを浴びていた母が、あっという間に声も出せなくなり、手振りや表情でしか意思表示ができなくなっていく──。 目にも留まらぬスピードで変化していく母の姿に、私たち兄妹は頭も心も全く追いつきませんでした。 けれど、東京にいる兄、隣町に住む妹とLINEで毎日のように母の様子を共有し、「今日という一日を大切に生きよう」「痛くない時間が1分でも長ければ、それで万々歳だよね」と泣きながら励まし合いました。 「生死はいつも隣り合わせで、それが真実。死をしっかりと見つめて生きることが、人を優しく、正しくする。だからお母さんの死を恐れるのではなく、今生きていることに感謝しよう」 そうでも思わないと心が崩壊しそうだったという面もありますが、兄がLINEで送ってくれたこの言葉は、不安で押し潰されそうだった私の心を強く支えてくれました。 母が命をかけて見せてくれている姿は、私たち家族に「生きることのありがたさ」と「覚悟」を教えてくれる、人生最大のメッセージだったのだと今は感じています。【つづく】

    ・【後編】 プロとしての知識と、娘としての葛藤が激突した日 2018年10月 2018年10月

    ※匿名・年齢非公開のため期間は変えて掲載しています(*´▽`*) ご理解いただけますと嬉しいです。 ✼••┈••✼ 母の看取りの中で、私が今でも忘れられない、そして最も涙した出来事があります。 病状が進み、母は一人でトイレに立つことも難しくなっていきました。トイレに行こうと起き上がるだけで息が上がり、強い吐き気と痛みに襲われる状態でした。 ベッドの隣にポータブルトイレを置いていましたが、トイレに座るために起き上がり、立とうとするだけで痛みと吐き気が出ていたのです。 往診の先生から、こう提案されました。 「おしっこで起き上がるのは本人の身体に大きな負担がかかります。起きるたびに嘔吐するくらいなら、尿管カテーテルを入れるか、オムツに切り替えた方がいいでしょう」 元ケアマネジャーの私には、その提案が「医学的に100%正しい」ことが痛いほど分かっていました。体力を温存し、痛みを減らすためにはカテーテルを入れるのが最善の選択です。 しかし、母にその話を打診したとき、母は静かに、けれどはっきりと首を横に振って拒否しました。 80歳を超えても自分のことは自分でやり、プライドを持って生きてきた母にとって、「自分でおしっこができなくなること」「管を通されること」は、自分の尊厳を奪われるような悲しいことだったのです。 認知症があれば、このような葛藤は起きないのですが、母は頭はしっかりしていて、自分の気持ち、考えをしっかり維持していたのです。 母のプライドや切ない気持ちが、痛いほど分かりました。できれば母の意思を尊重してあげたかった。 でも、24時間ノンストップで介護を行い、疲弊しきっていた私の体力も限界に達していました。夜中に何度も起こされ、苦しむ母を支える中で、「これ以上は私ひとりの対応では限界がある」という現実が突きつけられていたのです。 母にとっても最大級の難所でした。ベッドの隣のポータブルトイレで用を足したいというささやかな欲求にもかかわらず、起き上がるのも立ち上がるのも1,2歩足を動かすのも、全てが苦しそうで辛そうで痛そうで見ているのもいたたまれないくらいの身体状況でもあったのです。 私は最終的に、母の拒否を押し切る形で、先生に依頼して看護師に尿管カテーテルを入れてもらいました。 処置が終わった後、母は何も言わず、ただ静かにそれを受け入れてくれました。諦めたような、寂しそうなその表情を見た瞬間、私の心は決壊しました。 「お母さん、ごめんなさい……ごめんなさい……」 「自分の体力が限界だからって、お母さんのプライドを奪ってしまったんじゃないか」 「ケアマネの資格もあるのに、もっと良い方法を見つけてあげられなかったのか」 部屋の隅で、私は声を殺して泣きました。知識があることと、家族としての葛藤を乗り越えられることは全く別物でした。正論だけではどうしても割り切れない「罪悪感」と「切なさ」が、そこには確かに存在していたのです。6年経った今でも思い出せば涙が出てくる辛い現実でした。 ■最後の願い:「愛」で一致団結した家族の絆 大変な闘病生活ではありましたが、母の命と向き合う日々は、私たち家族に何物にも代えがたい「宝物」を残してくれました。 病状が急速に悪化し、ほぼ寝たきり状態になっていたある日の夜。すでに声も出せず、筆談もできなくなっていた母が、ノートにミミズがのたくるような読めない字を一生懸命に書き始めました。 「ご飯が食べたいの?」「お水が飲みたいの?」 私が思いつく問いかけを何十回も繰り返し、母が「違う」と首を振る中で、ようやく判明した母の本当の願い。 それは、「家族みんなで思い出のお寺に行きたい」というものでした。車で約1時間の場所で、家族で何回も出かけている馴染みのお寺でした。 1週間前まで車椅子でドライブできていた母が、今では酸素吸入を行い、口には水分さえもなめるのがやっと、点滴も打てないほど弱っている状態です。ジェットコースターのような症状の変化に母も家族も何が何だか分からず、目の前のことに対応することがやっとでした。 後から思うと、母の気持ちをもっと考える余裕があったらと、悔やまれることもありましたが、その時は精一杯で余裕がまったくなかったのです。 母の願いを知って、今から出かけるなんて無謀かもしれない、途中で何が起きるか分からないという不安が頭をよぎりました。 しかし、東京にいる兄、となりの町に住む妹、そして私。3人兄妹の意見は瞬時に一致しました。 「何が何でも、お母さんの最後の願いを叶えよう!」 介護タクシーを手配し、救急救命士のドライバーさんにお願いし、リクライニング車椅子を準備して、万全の体制で思い出のお寺への「大旅行」を実行しました。 正味1時間ほどの滞在でしたが、現地では孫たちも駆けつけ、母は言葉が出ない代わりに手を合わせ、目線と表情で全身の感謝を伝えてくれました。 何十年も生きていると、兄弟・家族の間でも意見の食い違いや気まずさがあるものです。けれど、母の命を前にしたとき、すべてのわだかまりがリセットされ、「お母さんのために」という強い想いもとで心が一つになりました。 母は亡くなる直前、私たちに「本当に大切なものは何か」「家族の絆とは何か」という最高の置き土産を残してくれたのです。 ■この体験から得た、私のカウンセリングへの「絶対的な軸」 母を見送り、長い時間が経った今でも、あの約2か月半の日々は私の心に深く刻まれています。 この体験を通じて、私は話し相手として非常に重要ないくつかの「軸」を得ることができました。 ①「正論」で人を追い詰めない 世の中には「こうするべきだ」「これが正しい選択だ」という正論があふれています。しかし、当事者やそのご家族が求めているのは、正しいノウハウやアドバイスだけではありません。 「正しいと分かっていても、気持ちが追いつかない」「冷たい人間だと思われるとしても、投げ出したくなる」という揺れ動く感情に寄り添うことこそが、寄り添いの本質であると痛感しています。 ② 言葉にならない「罪悪感・葛藤」を丸ごと受け止める 「自分の選択は間違っていたのではないか」「もっと自分に出来ることがあったのではないか」──何か大きな出来事に直面したとき、人は自分を責めてしまいがちです。 私自身が母の看取りで強い罪悪感を抱いたからこそ、あなたが抱える「綺麗事だけではないドロドロした感情」や「自分責め」を、否定することなく丸ごと受け止めます。 ③ 1日1日を大切に生きる「今ここ」の視点 ひすいこたろうさんの著書『あした死ぬかもよ』にあるように、私たちはいつ人生の最後を迎えるか分かりません。母との闘病を通じ、私は「今日という一日、目の前にある時間をいかに大切に、後悔なく生きるか」というマインドを身体で学びました。 ■いままさに悩んでいるあなたへ。一人で抱え込まず、私に胸の内を聴かせてください 最後までお読みいただき、本当にありがとうございます。 いま、この欄を読まれているあなたは、どのようなお悩みを抱えていらっしゃるでしょうか。 ご家族の介護や看取りに直面し、限界を感じている方 家族や親戚関係の揉めごと、や理解してもらえない孤独感にさいなまれている方 「自分がどうしたいのか分からない」と、感情の迷子になっている方 誰にも言えない弱音や、自分の中の冷たい感情に罪悪感を感じている方 介護の現場でも、個人の人生でも、「完璧な人」など一人もいません。プロである私ですら、自分の母の前では迷い、失敗し、涙を流す一人の人間でした。 だからこそ、私はあなたに対して上から目線でアドバイスをしたり、説教をしたりすることは絶対にありません。 まとまっていなくても構いません。うまく話そうとしなくても大丈夫です。 あなたがこれまで一人で抱え込んできた重い荷物を、少しだけ私に預けてみませんか? 電話相談というプライベートで安心できる空間で、あなたの「言葉にならない想い」を、心を込めてお聴きいたします。 あなたとお話しできる日を、心よりお待ちしております。

    ・職場での挫折と三重苦の真っただ中。そして私が「電話相談」に込める想い 2019年4月 2019年4月

    ※匿名・年齢非公開のため期間は変えて掲載しています(*´▽`*) ご理解いただけますと嬉しいです。 ✼••┈••✼ 職場での挫折と三重苦の出来事。 言葉を失ったあの日のことは、何年たった今も思い出す旅に苦しくなる人生の1ページです。 私たちが生きる社会では、真面目に、誠実に生きようとすればするほど、時に理不尽な壁にぶつかり、自分の心が置き去りになってしまうことがあります。 「もっと上手に立ち回らなければならない」 「ここで弱音を吐いたら、自分の負けだ」 「みんな我慢しているんだから、私だって耐えなければいけない」 そうやって自分を追い込み、気づいた時には笑顔が消え、心だけでなく身体や「言葉」にまで不調が表れてしまう……。 そのような人は少なくないと思うのです。 ケアマネジャーの資格を取得し、事業所を変えて新しい職場で1から奮闘していた頃の私もまさにそうでした。 人間関係のプレッシャーから「吃音(きつおん)」を発症し、自分の意思とは裏腹に、特定の上司の前では声が出せなくなってしまったのです。 今回は、私が経験した「職場の人間関係の挫折」「吃音症の発症」、そして母の大腸がんや子どもの不登校が重なった「人生の三重苦」、そこから救い出された転機、そしてそのすべての経験が、いま私が「電話相談」という場所であなたに寄り添う原動力になっている理由について、お話しします。 ■初めてのケアマネ職と、静かに追い詰められていった日々 介護の仕事に身を置いて、努力の末にケアマネジャーの資格を取得した私は、大きな希望と少しの不安を胸に、新しいケアマネの職場へと飛び込みました。 しかし、現実はそう甘くありませんでした。 その職場にはすでに4人の先輩ケアマネジャーが在籍しており、組織の輪の中に、私自身がなかなかうまく馴染めずにいたのです。 右も左も分からない新米の私に対して、先輩や上司からの指導が入ります。しかし、その指導に則った成果がなかなか出せず、自分の力不足に焦る日々が続きました。 すると、プレッシャーは次第に「監視」のような形へと変わっていきました。 私の一挙手一投足がチェックされるようになり、ある日、上司からこう言われたのです。 「さっき、介護員と話していたよね? 介護員も忙しいんだから、勤務中に私語をしてはダメだよ」 その言葉を聞いたとき、私は大きな違和感と理不尽さを覚えました。 「そうは言っても、他のベテランのケアマネさんたちは日常的に介護員さんと楽しくおしゃべりをしているのに……なぜ私だけが?」 私の行動のすべてが否定され、重箱の隅をつつくようなチェックが日増しに増えていく中で、私の心は少しずつ、確実にすり減っていきました。 「次に怒られたらどうしよう」 「また何か粗探しをされるのではないか」 そう怯えるうちに、私の身体に異変が起き始めました。 言いたいことが頭にあるのに、喉のところで言葉が引っかかり、どうしても声に出せなくなってしまったのです。 またある時は、頭が真っ白になって、何を言うべきか考えられなくて上司の前で話し始めるまで黙って立っていることも。 特に、私を監視しプレッシャーをかけ続けるその上司の前に立つと、まるで呪縛にかけられたかのように、完全に最初の一声が出にくくなっていました。 最初の一音がどもって、上手く話せないことが多くなってきたときに、ようやく「自分は吃音症なのかもしれない」と気づいたのでした。 「うまく話せない」「挨拶すらまともにできない」 自分が自分でなくなっていくような恐れとショックの中で、私は心も身体も限界を迎えていました。 ■ 重なる試練:母の病気と、子どもの不登校という「三重苦」 職場で吃音に悩み、精神的に追い詰められていた私に、さらに辛い出来事が追い打ちをかけるように重なりました。 それは、母の大腸がんの再発、高校生だった子どもの不登校でした。 職場ではプレッシャーと吃音に耐えながら働き、家に帰れば不登校で心を閉ざす我が子を気にかけ、そして病と闘う母の姿がある。 まさに「仕事」「家庭・子育て」「親の介護」のすべてが同時に襲ってきて、人生最大の「三重苦」のなかに私は立っていました。 当時の私は、「ここで仕事を辞めたら無責任だ」「吃音ごときで弱音を吐いてはいけない」「私が踏ん張らなければ家族が崩壊してしまう」と、ガチガチに自分の心を縛りつけていました。 逃げ出すことは許されない、そう思い込み、心も身体もボロボロになりながら、毎朝満身創痍で会社へ通い続けていたのです。 出口のない暗闇の中で、「私はいつまでこの苦しみに耐え続ければいいのだろう」と、絶望感で眠れない夜が何度もありました。 ■ 母の一言に救われ、すべてを手放した瞬間 そんな限界の淵にいた私を救い出したのは、病と闘っていた母の言葉でした。 母は自身の病気が進行していく中で、私の様子を見てこう言ったのです。 「私自身ががんになって、心に余裕がない。家に孫(娘)がいても、今の私には面倒を見てあげられないし、何にもしてあげられない。そして気持ちもそれが負担になるの。だから、あなたが介護の仕事を一旦辞めて、自宅にいて、娘の不登校のケアも、私の病気のサポートもしてほしい」 その母の言葉を聞いた瞬間、私の心の中で、張り詰めていた糸がプツリと音を立てて切れたのを覚えています。 「……仕事を、辞めてもいいんだ」 「仕事を無理して続けなくても、いいんだ」「母がそれを望んでくれて、私を必要としてくれているんだ」 それは、私にとってまるで天からの救いの声のようでした。 「会社を辞められないない、辞めてはいけない」という呪縛に縛られていた私の肩から、何十キロもある重荷がスッと下りたような感覚でした。 私はその言葉に背中を押され、思い切って仕事を退職する決意をしました。 そして、仕事を辞め、自宅で娘の不登校に向き合い、母の在宅療養をサポートする生活へとシフトしたのです。 不思議なことに、仕事を辞めて職場という「理不尽なストレスの温床」から離れた途端、あんなに私を苦しめ、声が出なくなるほど追い詰めていた「吃音症の症状」が、いつのまにか自然にスーッと解消されていきました。 私の身体と心は、病気だったのではなく、環境のプレッシャーによって悲鳴を上げていただけだったのだと、その時初めて気づいたのです。 ■この経験があるからこそ、今の「電話相談」であなたに寄り添える 母のがんは進行が早く、1年と少しで最期を迎えました。 その間の在宅療養のサポートと、子どもの不登校のケア、そして自身の仕事の挫折と吃音の克服。 この一連の出来事を経験したからこそ、今の私には、電話相談、話し相手として大切にしている想いがあります。 それは、「理不尽な環境や人間関係で心を病んでいる人を、絶対に否定しない」ということです。 世間では「嫌なら辞めればいい」「もっと強くならなきゃダメだ」と言われがちです。しかし、当事者にとって「辞めること」「環境を変えること」は、恐怖を伴う大きな決断です。 特に真面目な人ほど、「自分が悪いのではないか」「まだ頑張れるはずだ」と、ギリギリまで自分を削ってしまいます。 ・職場の人間関係や上司のプレッシャーで、言いたいことが言えなくなっている方 ・仕事も家庭も板挟みになり、心も身体も限界を迎えている方 ・「逃げたい」と思っているのに、責任感から身動きが取れなくなっている方 かつて職場で言葉を失い、三重苦の中で絶望していた私だからこそ、あなたのその「言葉にならない苦しさ」「胸のつかえ」が、痛いほどよく分かります。 一人で抱え込まず、その胸の内を聴かせてください。 ■長文を最後までお読みいただき、本当にありがとうございます。 いま、このプロフィールを読まれているあなたは、どのような「終わらないトンネル」の中にいらっしゃるでしょうか。 「もう誰にも本音が言えない」 「自分の気持ちを言葉にするのが怖い、あるいは上手く話せない」 そんな状態であっても、全く心配いりません。 ココナラの電話相談というプライベートで安心できる空間は、あなたがどんな言葉をつかっても、どんなにまとまらない愚痴や弱音をこぼしても、すべてを100%の肯定と温かさで受け止める場所です。 かつて母の言葉に救われた私が、今度はあなたの「心のリセットボタン」になり、あなたがあなたを取り戻すための時間を一緒に作ります。 上手く話せなくても大丈夫です。その緊張した声のままで、泣きながらでも構いません。 どうか一人で抱え込まず、あなたのその重荷を、少しだけ私に預けてみませんか? あなたとお話しできる日を、心よりお待ちしております。

    ・『完璧じゃなくていい』― 葛藤の果てに見つけた「心の余白」と、あなたに届けたい安心感 2020年4月 2020年4月

    ※匿名・年齢非公開のため期間は変えて掲載しています(*´▽`*) ご理解いただけますと嬉しいです。 ✼••┈••✼ 『完璧じゃなくていい』― 葛藤の果てに見つけた「心の余白」と、あなたに届けたい安心感 ■繰り返される試練の渦中で 人生には、時に「なぜ自分ばかりにこんなことが起きるのだろう」と思わずにはいられない瞬間があります。私の人生もまた、幾度となく押し寄せる大きな試練の波との戦いでした。 ・夫の不倫と、突然訪れた離婚 言葉にできないほどの裏切りとショック。これまで信じてきた家庭という基盤が足元から崩れ去るような感覚でした。激しい怒り、悲しみ、孤独感、そして「自分の何が悪かったのだろう」という自分責め。出口の見えない暗闇の中で、息をするのも苦しい日々を過ごしました。 ・子供の不登校 離婚の痛みが癒え切らない中で向き合うことになった、子供の不登校。「学校に行けない」「いかない」という現実に直面した時、親としての不甲斐なさや未来への強い不安が押し寄せました。周りの目、世間の「普通」という基準に追われ、どうすれば子供を正しさへと導けるのかと、一人で頭を抱え続ける日々でした。 ・仕事ストレスからの吃音症(きつおんしょう) 思い通りに言葉が出てこないもどかしさ、伝えたいのに口がすくんでしまう恐怖。自分の意思とは関係なく生じる身体の反応に、職場にいるのが辛い毎日でした。上司に対してのストレスで、その上司がいる事務所でだけの吃音症状だったんです。「うまく話さなければならない」と思えば思うほど、言葉は喉に詰まり、自分を責める材料になっていきました。 ・両親の介護と病 さらに、父親の認知症と、母親の大腸がん。かつて頼りがいがあった親が少しずつ変わっていく姿を受け入れる切なさ、そして病と闘う母を支える介護の日々は、精神的にも肉体的にも私を追い詰めていきました。 どれも渦中にいた時には、本当に苦しく、心が押し潰されそうな日々でした。 「なぜ私だけが」「いつになればこの苦しみから抜け出せるのか」と、心が悲鳴を上げていたのです。 ■答えを求めて奔走した「心の探求」 このあまりにも重い現実と、胸を締め付ける辛い気持ちをどうにかしたくて、私は必死で「救い」を求め始めました。 書店に足を運び、心理学や心のメカニズムを解説した本、自分自身と向き合うための内観の本、古来からの知恵が詰まった仏教や神道の書籍、そしてスピリチュアルな思想の書物まで、ありとあらゆる本をむさぼるように読み漁りました。 「この本の中に、私を救ってくれる答えがあるはずだ」 そう信じて、何冊もの本を読み進め、自分の心との対話を何度も何度も重ねていきました。 ■「ポジティブ思考」という新たな罠 本を読む中で最初にはまったのが、「ネガティブはダメだ、ポジティブにならなければ幸福になれない」という強い思い込みでした。 「嫌なことがあっても感謝しよう」 「常に明るく、前向きな思考を持とう」 「怒りや悲しみの感情は引き寄せるから捨てよう」 そう自分に言い聞かせ、必死にポジティブになろうと頑張りました。しかし、どれだけ前向きな言葉を口にしても、心の中にあるドロドロとした怒りや悲しみ、不安が消えるわけではありません。 むしろ、「またネガティブなことを考えてしまった」「前向きになれない自分は駄目だ」と、「ポジティブになれない自分」をさらに責めるという二重の苦しみを生み出していたのです。 救いを求めて始めたはずの学びが、いつしか自分を締め付ける新しい「鎖」になっていました。 ●目を吊り上げていた「正しい食」の記憶 この「正しさに囚われて自分を追い詰める」という構図は、実は過去の子育てでも全く同じように繰り返されていました。 子供が小児喘息(ぜんそく)を患った時のことです。親として「この子を何としても健康にしてあげたい」「辛い思いをさせたくない」という一心から、私は体に良いとされるもの、食の安全に異常なほど執着するようになりました。 ●「有機・無農薬・無添加」への執着 スーパーに行けば裏面の原材料表示を真剣な目でチェックし、添加物が入っているものは徹底的に排除。無農薬野菜や有機栽培の食材を取り寄せ、食事はすべて手作りで完璧に整えようとしました。 しかし、その時の私の表情は、決して穏やかなものではありませんでした。 「これは体に悪い」「添加物は敵だ!」と、まるで敵と戦うかのように目を吊り上げ、カリカリと余裕をなくしていたのです。 食事の時間は楽しむものではなく、まるで「正解をチェックする作業」のようになっていました。 ●大切なものを見失っていたことに気づく 確かにお米や野菜、無添加の食事は素晴らしく、子供を思う親心としても間違っていませんでした。しかし、一番大切だったはずの「家族で囲むあたたかい食卓」や「お母さんの笑顔」は、そこにはありませんでした。 正しい食事を出しているけれど、お母さんはピリピリしていて余裕がない。 これはまさに、後の私が陥った「ポジティブにならなきゃいけない」と自分を追い詰めていた姿と、全く同じだったのです。 ●正しさという「鎧」を着込んでいた日々 振り返ってみれば、私が「食」や「思考」の正しさに必死にしがみついていたのは、これ以上傷つかないための防御反応だったのかもしれません。 夫の不倫による離婚、子供の不登校、職場ストレスからの吃音症、そして親の病気。次から次へと予期せぬ困難が襲いかかってきた時、私の心は常に恐怖と不安でいっぱいでした。 「なぜ私ばかりこんな目に遭うのか」「私が間違っているからこんな悪いことが起きるのではないか」――そんな恐怖から逃れるために、私は「絶対的な正解」を求めていたのです。 「体に良い無農薬野菜を選んでいれば、完璧な母親でいられる」 「いつでもポジティブな思考でいれば、二度と嫌な出来事は起きない」 そう信じ込むことで、崩れそうな自分の心を必死で支えようとしていました。正しさという硬い鎧(よろい)を着込むことで、無意識のうちに自分自身をガードしていたのです。 しかし、その鎧はあまりにも重く、私をどんどん息苦しくさせていきました。 スーパーで添加物が入った食品を見つけるたびに「これは体に害を与える悪だ」と決めつけ、ネガティブな感情が湧くたびに「こんな考えを持つ自分はダメだ」と自分を切り捨てる。 正しさを求めれば求めるほど、私の世界は「正解」と「不正解」の二色だけに塗りつぶされ、私の心から寛容さや温かみが失われていきました。 一番守りたかったはずの子供の前で、私は「正しさ」を振りかざしてピリピリとした空気を出していたのです。子供が欲しかったのは、無添加の完璧な料理ではなく、失敗しても笑って包み込んでくれるお母さんの大らかな笑顔だったのに、当時の私はそれに気づく余裕すらありませんでした。 「正しくあること」と「幸せであること」は、決して同じではありません。 どんなに正しい知識を持っていても、それによって自分や大切な人を追い詰めてしまっては本末転倒です。私が本当に欲しかったのは、完璧な正解ではなく、ただ「どんな自分でも大丈夫」と思える安心感でした。 この「鎧を脱ぐ」という体験があったからこそ、私は自分の失敗も、弱さも、ネガティブな感情も、すべて「これが今の私なんだ」と受け入れる第一歩を踏み出せるようになったのです。 ■たどり着いた「どっちもいい」という境地 数々の苦難、本での学び、そして食事や思考での失敗を経験する中で、私はある日、大きな気づきを得ました。 「有機野菜も無添加も素晴らしい。ポジティブな思考も素晴らしい。けれど、そうじゃない自分や環境を責める必要なんて、どこにもなかったんだ」 白か黒かではなく、グラデーションでいい 私たちはつい、「正しいか・間違いか」「ポジティブか・ネガティブか」「無添加か・添加物か」という極端な二者選択で物事を捉えてしまいがちです。しかし、人間は完璧ではありません。 落ち込む日があってもいい。 怒りたくなる日があってもいい。 たまにはジャンクフードを食べて「美味しいね」と笑う日があってもいい。 頑張れない自分も、余裕のない自分も、全部「今の私」なんだ。 「どっちでもいいんだ」「どっちの自分もいていいんだ」と思えた瞬間、ずっと肩に力が入っていた自分の体から、ふっと余計な緊張が抜けていくのを感じました。 一番大事なのは「ラクで、楽しくて、安心できること」 本当に大切なのは、完璧な正しさを証明することではなく、「自分がラクで、楽しくて、美味しくて、ゆったりして、安心できていること」でした。 正しさを追求してイライラ生きるよりも、ちょっと適当でも笑顔でゆったり生きるほうが、自分にとっても周りにとっても、ずっと幸せなことだったのです。 この「どっちもいいんだ」という受容の感覚を得てから、私の人生は格段に生きやすくなりました。目の前の問題が魔法のように全て消えてなくなったわけではありません。けれど、心に「余白」ができたことで、どんな出来事が起きてもしなやかに受け止められるようになったのです。 ■電話を通して、あなたに届けたいこと 私がこれまで経験してきた数々の苦難――離婚、不登校、吃音、親の介護や病。そして「正しさ」に囚われて自分を苦しめてしまった遠回り。 そのすべての経験は、今、同じように苦しんでいる誰かの心に寄り添うための大切な財産となりました。 ●100%完璧を目指さなくていい 今、お悩みを抱えてこの記事を読んでいるあなたも、もしかしたら「もっと頑張らなきゃ」「正しくいなきゃ」「ネガティブになっちゃダメだ」と、自分自身を追い詰めてはいませんか? 家族のために必死で頑張っているのに、報われないと感じる時 人の目や世間の基準に縛られて、動けなくなっている時 自分の弱さやネガティブな感情を捨てきれずに、自分を責めてしまう時 どうか、自分に「もう十分頑張っているよ」と言ってあげてください。完璧を目指す必要はありません。投げ出したい自分も、泣きたい自分も、そのまま包み込んであげてほしいのです。 ■お電話(ご相談)でお伝えしたい「心の余白」 私が電話相談という場でお届けしたいのは、単なるノウハウや「こうすべき」というアドバイスではありません。 お電話を通じて、あなたがずっと張り詰めてきた心の糸をふっと緩め、「すこしでもラクに、軽く、心の中にじんわりと余白を感じてもらえること」。それを一番大切にしています。 誰にも言えなかった本音、整理のつかない感情、ネガティブな思い、どんな内容でも大丈夫です。 あなたのそのままの言葉を、そのまま受け止めます。 「どっちでも大丈夫。」 「今のあなたのままで、ちゃんと価値があるんですよ。」 私の声と言葉を通して、あなたの心に温かい安心感と、明日を少しラクに生きるための「心の余白」が生まれることを、心から願っています。

    ・特定の人の前で言葉が詰まる――身体が教えてくれた限界のサインと、自分を守る選択の話 2021年4月 2021年4月

    ※匿名・年齢非公開のため期間は変えて掲載しています(*´▽`*) ご理解いただけますと嬉しいです。 ✼••┈••✼ ■特定の人の前で言葉が詰まるー理由のわからない「言葉のフリーズ」 「なぜか、あの人の前に行くと、頭が真っ白になって、言葉がうまく出てこない――」 私の人生の中で体験した「吃音(きつおん)」のような症状。それは、職場の特定の人の前、特定の人間関係や強い緊張を強いられる場面でだけ、ピンポイントで現れる非常に不思議で、かつとても苦しい症状でした。 普段通りに楽しく話せる相手もいれば、同僚と冗談を言い合って笑える時間もある。私が苦労していたその上司に対して、同じように悩んでいた同僚とは、辛さや苦しさなどの心の内を、それこそスムーズに、打ち明けあえていました。 業務上の一般的な報告や連絡だって、相手を選べば滞りなくこなすことができる。それなのに、その「決まった人物」が目の前に立ったり、その人の目の届く場所から不意に声をかけられたりすると、私の中で何かが一瞬で硬直してしまうのです。 まるで全身の血の気が引き、心がキュッと凍りついて頭の中が真っ白になるような感覚。胸が圧迫されて呼吸が浅くなり、「何か正しく返さなきゃ」「変に思われないように、失礼のないように喋らなければ」と一瞬で頭の中のチャンネルが変わってしまうのでした。焦れば焦るほど、言葉の最初の一音が喉の奥にへばりついて離れなくなります。 「あの、あの、あの……」と口唇は動いているのに、肝心の声が出てこない。 沈黙の数秒間が、まるで永遠のように長く感じられる。相手の視線が自分の口元に注がれているのを感じるたび、冷や汗が背中を吹き出し、心臓が破裂しそうなほど早打ちする。 「早く喋らなきゃ」と自分自身を内側から必死に叩き起こそうとすればするほど、喉の締めつけは強くなり、ついに言葉は完全に詰まってしまうのでした。 一度この状態に陥ると、その日一日中、自分が惨めでたまりませんでした。たった数行のやり取りすら満足にできない自分。相手から「どうしたの?」「しっかりしてよ」と言いたげな視線を向けられるたびに、自分の存在価値がグラグラと揺らいでいくのを感じていました。 ■自分を責め続けた暗闇の日々 当時の私は、この現象の原因をすべて「自分自身の精神的な弱さ」のせいにして、激しく自分を責め立てていました。 「どうして私は、大人なのに普通に受け答えすらできないんだろう」 「周りの同僚たちは、あの人とも平然と会話してうまくやっているのに、なぜ私だけがこんなに不器用で情けないんだろう」 「 毎日のように自分に対して反省会を開き、自分がどれほどダメな人間かを数え上げました。 言葉がスムーズに出ないもどかしさと恥ずかしさ、そして「うまく喋れない自分」への強い情けなさ。 当時は、布団に入っても「明日はちゃんと話せるだろうか」「またうまく話せなかったらどうしよう」という不安が頭をぐるぐると駆け巡り、夜中に何度も目が覚めるようになっていました。 朝、起きた瞬間から胸の奥が重く沈み込み、仕事に向かう途中は1ミリも楽しみを持てない毎日でした。 「私がもっと強くなれば解決する」 そう信じ込んでいた私は、自分の喉が鳴らす悲鳴を「メンタルの弱さ」という一言で片付け、さらに自分を奮い立たせようと必死になっていました。自分が壊れかけていることにも気づかず、重い足取りで職場へ通い続けていたのです。 ■突然訪れた「強制終了」と物理的な離脱 けれど、その苦しい悩みは、全く思いもよらないかたちで終わりを迎えることになりました。 私自身の努力によって解決したわけでも、メンタルが強くなったわけでもありませんでした。家庭の中で、同時に大きな問題が持ち上がったところからの訪れでした。 母親の病気(大腸がん)の再発、そして子供の不登校。母に、自分の病気で手いっぱいだから、孫(子供)の面倒は今までのようにはみることができない、と言われて、私は目の前の家庭の問題と向き合うことになりました。母は、家にいて、不登校の子供に寄り添い、自分の病気のサポートもして欲しいから仕事辞めてもいいんじゃない?と提案してくれたのです。 私の辛さや苦しさ、吃音症のことを話してはいませんでしたが、きっと見ていて何となく感じるものがあったんだと思います。そして、実際問題、母にも子供にも問題が発生して、どうにもならない、どうにかしないといけない状況だったのは確かでした。 結果として、母親からの一言で、その職場を退職することにしたのです。 子供のため、母親のため、それを自分への、社会への免罪符として逃げるように辞めましたが、その時の私の気持ちは「神様からのプレゼント」だと思うほど救われた気持ちになりました。 それだけ、自分では気づかないほど追いつめられていて限界だったのだと気づきました。 家庭の事情とはいえ、職場を去り、あの「特定の人」が存在する空間から完全に物理的な距離が置かれた時、吃音症状は消えていました。 病院に通って言語療法を受けたわけではありません。 メンタルトレーニングや話し方の講座に通ったわけでもありません。 ただ「その環境」から離れ、「その人」と顔を合わせる必要がなくなっただけで、私の吃音症は改善できていました。 ■身体が命がけで出していた「SOS」の正体 この体験を通して、私はそれまでの自分の価値観が変わるような、大きな気づきを得ました。 あの決まった人の前でだけ起きていた「言葉の詰まり」は、私のメンタルが弱かったからでも、人間の器が小さかったからでもありませんでした。 あれは、私自身の心と体が、 「この環境はあなたに合っていないよ」 「この人間関係はあなたのエネルギーを削り削ぐもので、これ以上いたら危険だよ」 と出していた、精一杯のSOS(限界のシグナル)だったと思ったのです。 言葉が出なくなるという身体症状は、私を苦しめるための呪いというよりは、むしろ「これ以上、自分を殺してまでその場所に留まらないで!」と教えてくれる、身体の必死の防衛本能だったのかもしれません。 心が「限界だ」と叫んでも、真面目な頭(思考)が「頑張らなきゃ」「私が悪いんだ」と無視してしまうため、身体が物理的に言葉を止めることで、これ以上のダメージを防ごうとしてくれていたのです。 私たちは日常生活の中で、つい「どんな環境でも耐え抜くのが立派な大人だ」「どんな人とも上手くやっていくのが社会人のマナーだ」と自分に厳しく考えてしまいがちではないでしょうか。 特に真面目で責任感が強く、優しい人ほど、違和感や苦しみを感じていても「自分が至らないからだ」「もっと私が大人になればいいんだ」と自分を責め、身体からの危険信号を「弱音」として切り捨ててしまいます。 けれど、本当はそう決めつけることはできないと思うんです。 特定の場所に行くだけで動悸がする、決まった人の前だと声が出なくなる、胃が痛む、眠れなくなる――そういった身体の反応は、あなたがダメだから起きるのではありません。単に「その環境や人間関係が、今のあなたにとって著しくエネルギーを奪う、相性の悪いもの」という事実にすぎないのです。 私の自分の選択が本当に正しかったかどうかはもちろん、分かりません。でも、私の心が楽になって、体が悲鳴をあげるのを止め、リラックスできたのは「私にとっての正解」だったんだと思うようになりました。 ■「逃げる」のではなく「自分を守る」という選択 「逃げることはよくない」 「途中で投げ出すのは忍耐力がない証拠だ」 世間ではそんな言葉を聞くこともありますが、自分を壊してまで耐え続ける必要なんてないんだ、と今は思っています。 母の病気や子供の不登校という出来事は、渦中にいた時は「なぜこんな試練ばかりが重なるのか」と天を仰ぎたくなるほど重いものでした。けれど今振り返ると、あれらの出来事は、自分では「辞めます」と言えなかった私を、苦しみの環境から無理やりにでも引っ張り出し、自分を守るための選択(退職)をさせてくれた、必然の救いだったのだと感じています。 自分が自然体で、ラクにいられる環境を選ぶこと。 自分を削り、追い詰めてくる人間関係からは、静かに距離を置いたり適切な境界線を引いたりすること。 それは決して甘えでも、逃げでも、社会人としての敗北でもありません。 「自分という、たった一つの大切な命と心を全力で守るための、極めて健全で勇気ある決断」なのです。 植物だって、日当たりの悪い場所や水が合わない土壌に植えられれば、芽を伸ばせずに枯れそうになってしまいます。それと同じように、人間にも「咲ける場所」と「どうしても枯れてしまう場所」があります。 枯れそうな場所で「なぜ上手く咲けないんだろう」と自分を責める必要は全くなかったのです。ただ、自分に合う土壌へと植え替えをしてあげればよかっただけなのですから。 ■今、苦しんでいるあなたへ――「心の余白」を取り戻すために もし今、あなたが特定の場所や、特定の誰かの前で息が詰まるような苦しさを抱えていたり、「うまく振る舞えない自分」「弱くて耐えられない自分」を激しく責めてしまっているのなら、どうか立ち止まってみてください。 あなたが苦しくなっているのは、あなたが弱いからでも、努力が足りないからでもありません。 あなたの心と体が必死に、「もう十分頑張ったよ」「そこはあなたが無理をしてまで居続ける場所じゃないよ」と命がけで教えてくれているのかもしれないのです。 どうか、自分を責めるのを今すぐやめてあげてください。私の場合は吃音症状でしたが、人により症状は様々だと思います。 どんな自分も、そのまま抱きしめてあげてください。 そして、自分自身にこう許可を出してあげてほしいのです。 「合わない場所から離れてもいいんだ」 「誰よりも、まず自分の心と体を優先して守っていいんだ」と。 世間の正しさや誰かの期待に応えるために、あなたの大切な心を犠牲にする必要はありません。嫌な場所から一歩引くこと、境界線を引くこと、時にはその環境を手放すことは、あなたの人生をより豊かで穏やかなものにするための「大切な権利」です。 環境を変え、自分を縛っていた「こうあるべき」を手放したとき、あなたの胸には久しぶりに深々と息が吸えるような、あたたかく優しい「心の余白」が広がっていくはずです。 でも、それは一つの側面であることも十分わかっています。 今回の私の話は、辞めた場合でしたが、続けることももちろん素晴らしい事ですし、辞められない、やりたいことだから続けたい、という方もいると思います。 そんなときは体を整え、心を整え、「暖簾に腕押し(のれんにうでおし)」ではありませんが、なんとかやりすごす「したたかさ」や「消しゴム」のようなリセット力を貯めていけたらいいですよね。 「どっちでも大丈夫」 「正解は一人一人違っていい」 「選んだ道をゆっくり自分に優しく進んでいく」 そんなお手伝いができればと思っています。 いかに心の負担を取り除きながら、工夫して乗り切るか、そんな道も選択肢の一つとして大切にしていきたいですよね。 正解は一人一人違うもの。あなたが自分を一番に大切にし、心がすーっとラクになる道を選べるよう、私はいつでも応援しています。一番の味方、一番の応援団長としてそばにいます。

    ・おわりに 2022年4月 2022年4月

    ※匿名・年齢非公開のため期間は変えて掲載しています(*´▽`*) ご理解いただけますと嬉しいです。 ✼••┈••✼ ここまで読んだいただき本当にありがとうございます。 かなりのボリュームになりました。 心から感謝申し上げます。 私自身、産まれた日からを振り返る機会になり 自分でも忘れていたことをたくさん思い出しました。 電話相談をする私の思いの土台は 大人になって苦労を乗り越えてからの自分が元になっていると 思っていました。 でも、違うんですね。 子供の頃からの体験のいろんな場面、出来事にも 自分の根っこになるところがたくさんありました。 今回、こちらに綴らせていただくことで 見えてきたことがたくさんありました。 さいごに、ココナラの電話相談への私の思いを書かせていただいて 締めくくりたいと思います。 +:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-+ ■「話す」ことは「放す」こと —— 吐き出すことがもたらす奇跡的な効果 心が押し潰されそうになっているとき、 私達は無意識のうちに息をキュッと止めてしまっています。 自分の感情に蓋をして、 「自分が我慢すればいいんだ」 「弱音なんて吐いちゃだめだ」と、 溢れ出しそうな想いを必死で心の中に押し込めようとします。 でも、パンパンに膨らんだ風船にむりやり空気を入れると割れるのと同じで、心もまた、溜め込みすぎるといつか限界を迎えてパンッと割れてしまいますよね。 心理学の世界では、感情を言葉にして外に出すことを「カタルシス(浄化)」と呼ぶのですけれど、日本語の「話す」という言葉には、本当に美しい響きと意味が隠されています。 「話す」は、自分を縛り付けている重荷を「放す(手放す)」こと。 「話す」は、固まっていた感情を自分の心から「離す(切り離す)」こと。 「話す」は、本来の自分という存在を美しく「華す(開花させる)」こと。 誰かに自分の想いを打ち明ける作業は、単なるおしゃべりではありません。 それは、心の中に溜まった毒素を外に排出して、本来のあなたを取り戻すための、とても健康で愛に満ちたプロセスなんです。 ■誰かに話を聞いてもらうことには、こんなにも素晴らしい効果があるんですよ。 1. 心の中の「未処理の感情」に居場所を与えてあげられる 言葉にできないモヤモヤや怒り、悲しみは、心の中で迷子になった小さな子どものようなものです。 それらを言葉にして外に出してあげることで、初めて 「ああ、私、こんなにも傷ついていたんだな」 「本当はすごく悔しかったんだね」と、 自分自身の本当の感情を認めて撫でてあげることができます。 2. 絡まった毛糸が解けるように、思考が自然と整理される 人の思考って、頭の中だけでぐるぐると巡らせていると、どうしてもネガティブなループに陥りがちです。 でも、誰かに話すために「言葉を選ぶ」という作業を通すと、不思議と頭の中の整理が進んでいきます。 「私って何に対して不安だったんだろう」 「何が一番嫌だったのかな」 が目に見える形になり、客観的に自分を見つめ直すきっかけが生まれます。 3. 「孤独」という一番重たい荷物を下ろせる 「世界中で、自分だけがこんな苦しみを抱えているんじゃないか」という孤独感は、人の心を深くむしばんでしまいます。 けれど、誰かが「うん、うん」と温かく真剣に頷きながら話を聞いてくれたとき、 「私は一人じゃないんだ」 「この苦しみを分かち合ってくれる人がいる」 という圧倒的な安心感が生まれます。 孤独の影が消えるだけでも、心は驚くほど軽くなるんですよ。 ■まとまらない言葉、支離滅裂な感情をそのまま差し出していい理由 電話相談に来てくださるとき、みなさん、こんなふうにおっしゃいます。 「話がまとまっていなくて、本当にすみません……」 「何から話せばいいのか自分でも分からなくて……」 「うまく説明できない自分がもどかしいです」 このように申し訳なさそうに言われるたびに、私は「どうかそんなに自分を責めないでくださいね」と心からお伝えしたくなるんです。 なぜなら、「話がまとまらない」ことこそが、あなたの心が限界を迎えて、切実に助けを求めている何よりの証拠だからです。 心が本当に限界を迎えているとき、私たちの頭の中は、複雑に絡まり合った毛糸玉のようになっています。 悲しみ、悔しさ、焦り、怒り、諦め、そしてほんの少しの希望……あらゆる感情が整理されないまま、渦を巻いているのが当たり前なんです。 それを「分かりやすく綺麗にまとめよう」とする作業は、怪我をして血を流している人に「まず傷口の理由を論理的にまとめて提出してください」と言っているようなもの。 そんな無理をする必要は、どこにもありません。 文章として支離滅裂であっても、全く構いません。 主語と述語がバラバラになってしまっても、構いません。 「とにかく辛い」「なんでこうなるの」「もう嫌だ」という、たった一言の叫びであってもいいんです。 整った綺麗な言葉よりも、そのグチャグチャとした「生の感情の塊」をそのまま外に出すプロセスこそが、あなたの心に一番深い癒やしをもたらしてくれます。 頭でひねり出した綺麗な説明はただの「思考」に過ぎないけれど、口から思わず漏れ出た脈絡のない言葉の中にこそ、あなたの「魂のリアルな声」が宿っているからです。 電話相談では、賢くあろうとする必要も、筋道を立てて話す必要も1ミリもありません。 「何が嫌なのか自分でもサッパリ分からないけれど、とにかく涙が止まらない」 「あっちの話をしたかと思えば、急に昔の嫌な思い出に飛んでしまう」 「怒っていたはずなのに、急に自分が情けなくなって惨めになる」 そんな風に、目まぐるしく変化するあなたの感情のグラデーションを、私はそのまま丸ごと受け止めます。 散らかったお部屋を片付けるときだって、まずは部屋の中にあるものを一旦すべて床に引っ張り出しますよね。会話も全く同じです。 まずは頭や心の中にあるモヤモヤを、支離滅裂なままでいいから外に「出し切る」こと。 床に散らかった言葉をひとつひとつ一緒に並べてみて、初めて 「ああ、私ってこんなことに傷ついていたんだな」 「ここが一番悲しかったんだね」と、 ご自身の本音と優しく対面できるようになります。 あなたの言葉がどれほどとっ散らかっていても、私はそれを見苦しいなんて絶対に思いません。 むしろ、あなたが勇気を出して心を開き、泥のついた生の感情をそのまま差し出してくれたことに、深い感謝とを抱きます。 まとまらない言葉のままで、どうぞいらしてくださいね。 その散らかった糸を、一緒にゆっくりと、優しく解いていきましょう。 +:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-+ さいごに これまで私の長い長い人生歴をお読みいただき、本当にありがとうございました。 私自身、これまで決して平坦とは言えない、数々の「山」と「谷」を歩んできました。泣いた夜も、途方に暮れた季節も、たくさんありました。 だからこそ、いま心から言えることがあります。 人生に山があり、谷があるのは、特別なことではなく「当たり前」のこと。 冷たい雨に打たれる谷底にいるときは、「どうして私だけ」と惨めに思えるかもしれないけれど、その谷底で踏みしめた土の温かさや、そこからしか見えない星空の美しさが、あなたの心をどこまでも深く、優しく育んでくれています。 そして、「ちゃんとした大人」として周りに気を遣い、一人で仮面をかぶって頑張ってきたあなた。 そんなあなたが、溢れ出しそうな想いを抱えて静かな孤独の中にいることを、私は知っています。 もう、一人で頑張らなくて大丈夫ですよ。 言葉がうまくまとまらなくても、支離滅裂でもいいんです。「話す」ことは、心の重荷を「放す」こと。散らかった感情のままで、どうぞ私のもとへいらしてください。 私は裁判官のようにあなたを裁いたりしません。あなたの歩んできた素晴らしい人生の歴史に深い敬意を払い、どんな暗闇の中でも、あなたのとなりに一緒に座り続けます。 私のこれまでの人生も、決して綺麗事ばかりではありませんでした。遠回りをして、たくさん傷ついてきた私だからこそ、いま、あなたの痛みにそっと寄り添うことができます。 ここが、あなたがふっと息を吐き、素顔に戻れる場所。 いつでも、どんなあなたであっても、温かい両手を広げて待っていますね。 あなたの心が、今日より少しでも穏やかで、温かい光に包まれますように。 ココナラで、ずっとあなたを待っています♡みのり

受賞歴・執筆歴・講演歴

  • 執筆

    今ここを呼ぶ幸せマインド 2024年8月

  • 執筆

    心を整えるセルフケア 2024年8月

  • 執筆

    天国の母からの贈り物 2024年6月

評価

by 女性

2日前

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8日前

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みのり|笑顔と癒しのほっとカフェ✿
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by 女性

15日前

悩み相談・カウンセリング > 話し相手・愚痴聞き相談

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