人の未来を視るということは救えるということ
未来視聞こえがいいようなフレーズですが、私はこれに長年に渡って悩まされてきました。視たくないときに視えたり知りたくないときに知ったりするからです未来視には色々種類があるそうですが、私は1つだけ”危険視”という力が物心付いた頃から何故かあるようです。時は遡って私が生まれる前のこと。前世でもなくて来世でもない丁度真ん中のあたりでしょうか。私は何かに対して恐れ、恐怖し、全力で逃げていて、ふと気づいた時には暗い湖のそこに足をすくわれ落ちていました。暗い暗い水の底例えるなら、真っ暗な海の中で息が出来ずになすすべもなく、それでも必死に足掻いているようなそんな感覚でした。それでももがいて必死に何とか脱出しようと手を伸ばしたとき、小さな光が差し込んで、そこから救いの手を差し伸べられたのです。今でも鮮明に覚えています。それが、私が生まれた瞬間の出来事でした。それからの記憶はさすがに曖昧で覚えていることは少ないですが、子供なのに妙に大人ぶったり、なんでそんな言葉を知ってるの?というような妙なことを口走っていたりしたそうです。歳は3つか4つの頃からでしょうか。夜になり、家族が寝静まるかという時間帯によく、異常なまでに泣き出す習慣が起こるようになりました。それは今でも覚えている恐怖の体験です。夜、寝ようと両親が部屋の明かりを消す。するとどこからかともなく声が聞こえてくるのです。「何故お前は生きている」「死ね」「くそ野郎が」「泣き叫べ、くたばっちまえ」怖い、汚い大人の憎悪罵声が頭の中を駆け巡っていたのです。小さな子供にとってはそれはそれは恐ろしい体験で、頭を抱えながら異常なまでの表情で泣いていたと、母か
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