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日露戦争と特定秘密保護法 <前編>

日露戦争はご存じの通り、陸軍では奉天会戦の勝利、海軍では日本海海戦の大勝利など多くの戦果を挙げ、ポーツマス講和条約において日本は勝ちました。条約締結の頃、政府の中枢・軍の幹部たちは、日本の戦力がすでに尽きかけていることを承知し、講和が結ばれることを願わないものはいませんでした。 いっぽう日本軍の「連戦連勝」は、内地の国民たちを有頂天の高みに押し上げていました。 はたして、賠償金や領土割譲のない講和条約が伝わると、新聞は筆を揃えて政府を弾劾し、外務大臣で首席全権の小村寿太郎を罵りました。 例えば『大阪朝日』は、「天皇陛下に和議の破棄を命じたまわんことを請い奉る」という長文の社説を載せます。(写真) 『大朝』はかさねて「満州軍は実戦を以て和約を破棄すべし」と、前線を焚きつけました。 日露戦争全局を眺めて、日本海海戦はともかく、陸戦においては、つねに日本軍の物量、兵力量は劣勢でした。そのハンディを将兵たちは「日本が滅びる」という悲壮な危機感、責任感から、屍山血河の犠牲をかさねて、ようやく敵を向こうに押しやった。それが「連戦連勝」の真相でした。 にもかかわらず、内地の日本人は、「大国ロシアを破った」「日本は優秀最高だ」という誇大妄想の虜になっていました。 その感情を、いやがうえにも新聞が煽り、無責任なインテリ、愚昧な民衆の不満に火をつけます。 その結果が「日比谷焼打ち事件」です。(後編にて写真掲載)と、このように見ると、ただ国民やメディアが愚かであったように映りますよね。 しかし、最初に少しだけ触れましたが、政府の中枢・軍の幹部たちと、国民やメディアとの間にあった、「情報格差」にも原因
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日露戦争と特定秘密保護法 <後編>

前編から続いてのお話となります。 この日露戦争の薄氷を踏むような勝利は、現在でいうところの「特定秘密」のように、一般国民が知る機会はありませんでした。 国民が知ったのは、戦後になってからのことです。1968年から新聞連載された司馬遼太郎の「坂の上の雲」によって、多くの国民の知るところとなりました。 戦前の国民は、学校の教科書で日露戦争にまつわる話を学びました。 広瀬中佐、乃木将軍、橘中佐などが活躍したエピソードが有名で、当時の国民ならば誰もが知っている名前でした。 一方で、イギリスやアメリカの投資家から多額の融資を受けたことや、バルチック艦隊の動向を逐一知らせるなど日英同盟による様々な便宜、当時においては珍しいほどの知日派であったセオドア・ルーズベルト大統領の講和仲介など、日露戦争中は国民に共有されていた事実も、教育やメディアには取り上げられなくなっていったように思います。 薄氷の勝利という特定秘密が、「戦争に勝ち、外交(講和条約)に負けた」という報道や批判を生んだことは間違いないと思います。 そして、メディア報道だけでなく教育にも影響を与えてしまい、次世代を含む社会全体の認知の歪みとなったのではないでしょうか。 このように、講和条約締結においては必要な「特定秘密」であっても、民意を無視できない仕組み(議会・選挙・世論など)をもった近現代国家では、その情報格差が問題を引き起こしうるということが具体的に学べます。戦前の歴史の怖いところは、その政治的な仕組みが現在とあまり変わらないことにあると私は思います。 軍国主義などの暗いイメージをお持ちの方も多いかと思いますが、大正モダンの明
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日本近代史の教訓とは

私は近代史を学ぶときに、当時の人々の氣持ちや考えを知ろうと意識します。太平洋戦争を経験した多くの国民は、負け戦の悲惨さと平和な暮らしの尊さを強く実感し、それが戦争の教訓として今日まで語り継がれてきました。しかし、私は思うのです。その教訓は、古今東西の人々の普遍的な思い。例えば、戦国時代を経験した人々も同じような思いを教訓として得ていたのではないだろうかと。では、日本近代史ならではの、それまでの歴史では得られないような教訓はないのでしょうか?私は、「西洋人による植民地支配と人種差別を拒絶した日本人が、アジア諸国民に対して差別意識を持ち、植民地支配にまで及んだ」ということが、教訓として筆頭に上がるものと思います。日本人が、中国人・朝鮮人・東南アジア人をそれぞれ、チャンコロ・チョン・土人と呼ぶことがあったこと。植民地における食料配給でも、日本人家庭には赤身肉を多く、台湾人家庭には脂身肉を多くしていたなど、その差別意識を表す沢山の記録があります。第一次世界大戦の観戦で総力戦を知った職業軍人らは、満州での植民地経営の必要性を強く認識しました。列強がそれぞれの勢力圏を争う、厳しい時代であったことは事実です。しかし、生き抜くために差別意識が必要だったでしょうか?いいえ。その差別意識は、戦争に勝っても負けても抗日精神を育て、日本人の安心安全を危うくするだけだったでしょう。
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「こころの近代史」から

前回のブログにてご案内させていただきました、「こころの近代史」から一部を抜粋させていただきます。‥ここで序文に書きましたように、お互いの国民感情について、歴史を振りかえってみたいと思います。 わが国は古来より朝鮮・中国との深い交流があり、民衆にも寺子屋で学ぶ論語にはじまる、自然な親しみがあったことでしょう。しかし、江戸時代の鎖国の影響もあり、欧米との交流は一部の知識人をのぞいて、幕末の黒船来航にはじまりました。「泰平の 眠りをさます 上喜撰 たった四杯で 夜も寝られず」それは、不安と驚きをもっての出会いでありました。そして、アメリカ・アフリカ大陸・インド太平洋の国々を次々と征服・植民地化し、人びとを殺戮・奴隷としてきた白人への恐怖。鉄道や蒸汽船、海の向こうの世界への好奇心と憧れ。義和団事件の頃は、「関税自主権・領事裁判権」等の不平等条約の改定途中で、まだ完全に対等な立場にはありませんでした。不平等条約とは欧米各国の権益確保だけではなく、彼らの価値観の表れでもあると思います。 当時は「白人至上主義」であり、「キリスト教=文明」という価値観の時代でした。 キリスト教を知らない・信仰しない人は、未開人・野蛮人であって非文明的である。だから、彼らにキリスト教を教え導くことは正しいことでありました。もちろん、それは大義名分としての側面もありますけれども。彼らは本当にそう思っていたのでしょう。 欧米の民衆にとって、日本が近代国家として認識されたのは、日清戦争が最初だと思います。 そもそも鎖国時代、伊万里焼・有田焼などがオランダ船で海をわたり、王侯貴族の館で大切に飾られていました。
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