前回のブログにてご案内させていただきました、「こころの近代史」から一部を抜粋させていただきます。
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ここで序文に書きましたように、お互いの国民感情について、歴史を振りかえってみたいと思います。
わが国は古来より朝鮮・中国との深い交流があり、民衆にも寺子屋で学ぶ論語にはじまる、自然な親しみがあったことでしょう。
しかし、江戸時代の鎖国の影響もあり、欧米との交流は一部の知識人をのぞいて、幕末の黒船来航にはじまりました。
「泰平の 眠りをさます 上喜撰 たった四杯で 夜も寝られず」
それは、不安と驚きをもっての出会いでありました。
そして、アメリカ・アフリカ大陸・インド太平洋の国々を次々と征服・植民地化し、人びとを殺戮・奴隷としてきた白人への恐怖。
鉄道や蒸汽船、海の向こうの世界への好奇心と憧れ。
義和団事件の頃は、「関税自主権・領事裁判権」等の不平等条約の改定途中で、まだ完全に対等な立場にはありませんでした。
不平等条約とは欧米各国の権益確保だけではなく、彼らの価値観の表れでもあると思います。
当時は「白人至上主義」であり、「キリスト教=文明」という価値観の時代でした。
キリスト教を知らない・信仰しない人は、未開人・野蛮人であって非文明的である。だから、彼らにキリスト教を教え導くことは正しいことでありました。
もちろん、それは大義名分としての側面もありますけれども。彼らは本当にそう思っていたのでしょう。
欧米の民衆にとって、日本が近代国家として認識されたのは、日清戦争が最初だと思います。
そもそも鎖国時代、伊万里焼・有田焼などがオランダ船で海をわたり、王侯貴族の館で大切に飾られていました。それを通じて、一般市民にも「東の果てに、お利口で器用な小動物のような民がいる」という、ある種のおとぎ話的な認識があったようです。
1867年パリ万博に、幕府と薩摩藩と肥前(佐賀)藩が出展をします。
浮世絵や工芸品だけでなく、数寄屋造りの茶室がしつらえられて、柳橋芸者がお茶や味醂酒を振る舞いました。
こうして一氣に浸透した日本のイメージは、その体格の小ささ・所作(礼儀)の丁寧さ・細密で高度な工芸があいまって、「おもちゃの国」と表現される感嘆と蔑視の入り混じったものでした。
次は、義和団事件の北京籠城戦がその後どうなったのか、欧米人たちの記録を選んで、「守城の人」より引用します。
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