最悪という言葉を使うとき

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コラム
「最悪は」と言うときは、「こんなことは起こらない」と思っている。
起きたとしても、「自分には振りかからない」と思っている。
だから、誰もが極端なことを言って書く。

そして「今のこんな世の中はおかしい」と思い、「最悪」が起きることを、説明できないすべてが終わることを心のどこかで願っている。
でもその時ですら自分が天からその「最悪」を眺める姿を想像している。
自分は、その「最悪」の中にはいないと思っている。 

でも、「最悪」は、音もなく静かに近づいてくる。
静寂の中で気になる音が、雑音の中では薄れていく。
「慣れ」という言葉で心も身体も麻痺していく。

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こんなことを考えているといろいろな言葉が集まってくる。

「戦争が最初から戦争の顔をしているとは限らない
ある時までは、平和の顔をしているかもしれない」
(作者不明)

「ナチスが共産主義者を攻撃し始めたとき、私は手をあげなかった。なぜなら私は共産主義者ではなかったから。次に社会民主主義者が投獄されたとき、私はやはり抗議しなかった。なぜなら私は社会民主主義者でなかったから。労働組合員たちが攻撃されたときも、私は沈黙していた。だって労働組合員ではなかったから。そして彼らが私を攻撃したとき、私のために声をあげる人は一人もいなかった」
(ドイツの牧師 マルティン・ニーメラー)

「天使のように大胆に。悪魔のように繊細に」
(黒澤明 著書タイトル 一部改訂)


コロナ渦の中で、様々な数字だけが流れている。
感染者数の増殖にも慣れてしまった。その陰で倒産件数など負の数字も右から左へ速やかに処理されていく。

それぞれの段階は常に「最悪」と比較され、まだ大丈夫と誤魔化される。
だから「最悪」に達したときにも、さらに上の「最悪」を想像し認めない。

社会を長く支えていたその骨組みについても、同じことが言える。
雇用や就労条件も、企業の倫理も、生存のセーフティネットも地域の共栄も、官僚の矜持も、司法の独立も、水面下でじつは深く切り崩されていてその一角が表面化したときはすでに手遅れと言うことはないか。

今が「最悪」と思い、流れを止めるしかない。
社会にもそうしたなし崩しを押し止める堰が必要だ。
悪魔は足音もなく近づいている。

(10/10 中日新聞 鷲田清一氏の「コロナの時間」 参照)

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