第18話
大丈夫、が怖くなる日
前話:優作は、真壁の“名前の残らない仕事”に気づいた。成果の裏にある調整や焦りを見えるようにしたことで、真壁は少しだけ救われた。そして優作は、承認が人の心のコップに水を注ぐことを知り始めていた。
翌朝。
オフィスの空気は、少しだけ明るかった。
田辺案件は大きく崩れずに進んでいる。
美月に集中していた仕事も、少しずつ分散されている。
真壁の依頼も、前より言葉が具体的になってきた。
そして佐伯は、昨日より少しだけ背筋が伸びていた。
優作は、その様子を見て少しほっとした。
佐伯は最近、本当によく踏ん張っている。
田辺さんへの一次対応。
資料の粒度確認。
想定外の質問への返し。
ミスの戻し方。
一つ一つは小さい。
でも、少し前の佐伯なら止まっていた場面で、ちゃんと動いている。
その時、真壁が佐伯の席に来た。
「佐伯くん、昨日の確認項目、よかったよ」
佐伯が顔を上げる。
「ありがとうございます」
「もう田辺さん対応、佐伯くんでもいけるんじゃない?」
真壁は軽く言った。
悪気はない。
むしろ褒めている。
桐谷も横から乗る。
「たしかに。佐伯、最近かなり仕上がってきたな」
佐伯は少しだけ笑った。
「いや、まだ全然です」
「またまた」
真壁が笑う。
「中村くんもそう思うだろ?」
優作は佐伯を見る。
佐伯の表情は、少し照れているように見えた。
だから優作も、自然に言った。
「うん。佐伯なら大丈夫だと思います」
その瞬間、佐伯の笑顔がほんの少しだけ固まった。
ほんの少し。
たぶん、誰も気づかないくらい。
でも、美月だけが顔を上げた。
午前中。
佐伯は、田辺への返信文を作っていた。
いつもなら一度、優作に見せにくる。
でも今日は来ない。
優作は気になりながらも、あえて待った。
任せることも大事だ。
佐伯なら大丈夫。
そう思ったから。
けれど、十一時を過ぎても返信は送られていなかった。
真壁が声をかける。
「佐伯くん、田辺さんへの返事、出せそう?」
「……はい。もう少しで」
佐伯の声は硬かった。
優作は少しだけ眉を寄せる。
美月も、画面から視線だけを上げた。
十一時半。
まだ送られていない。
優作は佐伯の席に行った。
「佐伯」
「はい」
「返信文、見てもいい?」
佐伯は一瞬、画面を隠すように手を動かした。
「いえ、もう少しで大丈夫です」
その言い方に、優作は違和感を覚えた。
大丈夫。
最近、この言葉は少し怖い。
「今、何で止まってる?」
「止まってないです」
すぐに返ってきた。
早すぎる返事だった。
優作は黙る。
佐伯は画面を見つめたまま、続けた。
「もう任せてもらってるので。
自分でちゃんとやらないと」
その一言で、優作の胸が少しざわついた。
昼前。
田辺から催促のメールが来た。
本日午前中に一度ご返信いただける認識でしたが、状況いかがでしょうか。
佐伯の顔が青くなる。
「すみません」
声が小さかった。
「まだ送れてなくて」
真壁が少し驚く。
「え、まだだったの?」
桐谷が空気を読んで黙る。
美月は、すぐには何も言わない。
優作は佐伯の画面を見た。
そこには、返信文が何パターンも並んでいた。
言い回しを変えたもの。
確認項目を増やしたもの。
逆に削ったもの。
どれも途中で止まっている。
「佐伯、これ……」
佐伯は、うつむいた。
「すみません。考えすぎて動けなくなってました」
その声は、追い詰められていた。
「さっき、皆さんが言ってくれたのは嬉しかったです。
でも……」
言葉が詰まる。
「“佐伯なら大丈夫”って言われたら、もう失敗できない気がして」
優作は、息を止めた。
佐伯は続けた。
「また聞いたら、“まだ一人でできないのか”って思われる気がして。
でも自分でやろうとすると、どれが正解か分からなくなって」
佐伯の手が、膝の上で握られている。
「期待してもらったのに、また失敗したらどうしようって思ったら、送れなくなりました」
オフィスの空気が重くなる。
優作は、自分の言葉を思い出した。
佐伯なら大丈夫だと思います。
あれは、励ましのつもりだった。
承認のつもりだった。
でも佐伯には、違う形で届いていた。
承認は、人を立ち上がらせる。
でも“次もできるよね”に変わった瞬間、
その言葉は期待という重荷になる。
優作は、喉の奥が詰まった。
「佐伯」
優作は、ゆっくり言った。
「俺、さっき“佐伯なら大丈夫”って言った」
佐伯は小さくうなずく。
「はい」
「あれ、重かったよな」
佐伯はすぐには答えなかった。
でも、その沈黙が答えだった。
やがて、小さく言う。
「……少し」
優作は頷いた。
「ごめん。言い直す」
佐伯が顔を上げる。
優作は、今度こそ言葉を選んだ。
「佐伯は、前より確実にできるようになってる。
それは本当」
佐伯の目が少しだけ揺れる。
「でも、迷ったら聞いていい。
止まったら見せていい。
失敗しても、戻し方を一緒に考える」
優作は少しだけ息を吸う。
「そこまで含めて、任せたい」
佐伯の表情が、静かに変わった。
褒められた顔ではない。
少し、息が戻った顔だった。
美月が静かに言う。
「今のは、いい承認だと思います」
優作は思わず美月を見る。
美月は続けた。
「持ち上げるだけじゃなくて、戻れる場所も残していたので」
その言葉に、優作も少し救われた。
人を育てる承認は、結果を持ち上げることじゃない。
次に失敗しても戻れる場所を、一緒に残すことだ。
佐伯は、画面を見た。
「……見てもらってもいいですか」
優作は頷く。
「もちろん」
佐伯の返信文は、悪くなかった。
ただ、考えすぎて焦点がぼやけていた。
美月が言う。
「確認項目は三つで十分です」
真壁が画面をのぞく。
「これ、田辺さんが知りたいのは、結局“次回までに何を持ってくるか”だよな」
桐谷が続ける。
「だったら、説明より先に結論でいいんじゃない?」
佐伯は少しずつ頷きながら、文面を整えていく。
優作は横で見ていた。
前なら、すぐに代わりに書いていたかもしれない。
でも今日は違う。
佐伯が書く。
周りは、戻れる場所を作る。
それでいい。
佐伯は修正した文面を読み上げた。
「本日午前中のご返信が遅れ、申し訳ありません。
次回までに弊社で整理する内容は、以下三点で認識しております。
一、役員説明用の要点整理。
二、想定リスクと対応案。
三、次回判断いただきたい事項。
認識に差異があれば、本日中に修正いたします」
美月が頷く。
「いいと思います」
優作も言う。
「送ろう」
佐伯は深く息を吸って、送信した。
数分後。
田辺から返信が来た。
ご連絡ありがとうございます。
その三点で問題ありません。次回資料をお待ちしています。
佐伯は画面を見たまま、しばらく動けなかった。
「……通りました」
「うん」
優作は言った。
「通った」
真壁が少し照れくさそうに頭をかく。
「佐伯くん、ごめんな。俺、軽く言いすぎたかも」
佐伯は首を振る。
「いえ。嬉しかったです。
ただ、勝手に背負いすぎました」
桐谷が言う。
「褒めるのも難しいな」
美月が静かに返す。
「褒めることが悪いわけではありません。
ただ、相手が次に戻れる場所まで一緒に渡さないと、期待だけが残ることがあります」
真壁がうなずく。
「なるほどな……」
優作は、その言葉を胸に刻んだ。
褒めればいいわけじゃない。
認めればいいわけでもない。
受け取る相手の心の状態によって、言葉は形を変える。
褒め言葉は、受け取る人の心が疲れていると、
“認められた”ではなく“もう失敗できない”に変わることがある。
午後。
佐伯は、もう一度自分から優作の席に来た。
「中村さん」
「ん?」
「次の資料、まず自分で作ります。
でも、最初の確認項目だけ見てもらっていいですか」
優作は少しだけ笑った。
「もちろん」
佐伯は、今度は少しだけ自然に笑った。
それは、15話の時のような壊れそうな笑顔ではなかった。
まだ不安はある。
でも、戻れる場所があることを知った人の顔だった。
真壁が横から言う。
「佐伯くん、次も頼むな。
ただ、迷ったら早めに言って。俺も一緒に見るから」
佐伯が頷く。
「はい」
桐谷がぼそっと言う。
「成長したな、真壁さん」
「うるさい」
そのやり取りに、少しだけ笑いが戻った。
夕方。
優作のチャットに、美月からメッセージが来た。
自己重要感編、少し見えてきましたね
優作は画面を見て、苦笑した。
編って何ですか
すぐに既読がつく。
言葉の流れです
美月らしい返しだった。
優作は少し考えて、返信する。
承認って、難しいですね
すぐに返ってくる。
難しいです
足りないと枯れるし、重すぎると潰れます
優作は、その一文をしばらく見つめた。
足りないと枯れる。
重すぎると潰れる。
その通りだった。
佐伯は、承認が足りなくて折れかけた。
美月は、頼られすぎて空になった。
真壁は、名前が残らず焦っていた。
そして今日、佐伯は承認が期待になって止まった。
どれも、心のコップの話だった。
水がなければ枯れる。
でも一気に注ぎすぎても、うまく受け取れない。
必要なのは、相手の今の状態を見ることだった。
終業間際。
優作は、佐伯にもう一度声をかけた。
「佐伯」
「はい」
「今日の返信、助かった」
佐伯は少しだけ驚く。
優作は続ける。
「あと、止まってるって言ってくれて助かった。
黙ったままだと、こっちも気づけなかった」
佐伯は、少しだけ目を伏せた。
「それも、助かったに入るんですか」
「入る」
「……そうなんですね」
「うん。止まってるって言えるのも、仕事だと思う」
佐伯は小さくうなずいた。
「覚えておきます」
その返事は、前より少しだけ軽かった。
会社を出る時、優作は美月と少しだけ並んだ。
「相沢さん」
「はい」
「今日、自己重要感編は完結ですか」
美月は少しだけ眉を上げる。
「何ですか、それ」
「言葉の流れです」
美月は一瞬だけ黙って、それからほんの少し笑った。
「使い方、雑です」
「すみません」
「でも」
美月は前を向いたまま言う。
「少しは分かったんじゃないですか」
優作は考える。
佐伯。
美月。
真壁。
そして今日の佐伯。
みんな、違う形で“認められたい”を抱えていた。
それは弱さではない。
人が働くための燃料だった。
でも、燃料は入れ方を間違えると燃えすぎる。
「はい」
優作は答えた。
「承認って、相手をよく見て渡さないと、届き方が変わるんだなって」
美月は静かに頷いた。
「それで十分です」
その一言で、優作は少しだけ胸が軽くなった。
翌朝。
ようやく一段落し、エンゲージが上がってきたチームに、
新しい人物が加わることになる。
名前は、黒川恒一郎。
別部署のエース。
数字に強く、判断が速く、過去の大型案件を何度も通してきた男。
彼は、優作たちの資料を一通り見たあと、静かに言った。
「かなり丁寧ですね」
優作は、一瞬だけ安心しかけた。
しかし、黒川は続けた。
「ただ、これだと遅いです」
会議室の空気が、少しだけ変わった。
そして黒川は、優作を見た。
「中村さんの進め方は、優しいですね」
褒め言葉ではない。
それは、すぐに分かった。
「でも、優しさで成果が出るなら、誰も苦労しませんよ」
佐伯がうつむく。
真壁が黙る。
桐谷の表情から笑いが消える。
美月の目が、静かに細くなる。
ここまで積み上げてきたものが、
たった一言で、少しずつ音を立て始めた気がした。
第19話へ続く。