『やさしさ迷惑15/100』

記事
学び
第15話
「自分で自分を認めろ、だけでは足りない」

前話:優作は、いつも笑っている桐谷の本音を初めて聞いた。近くにいる人ほど、分かったつもりになっている。その痛みを知った翌日、佐伯から“会社を辞めたいかもしれない”という話を聞くことになる。

翌朝。

佐伯は、いつもより早く来ていた。

でも、仕事をしているようには見えなかった。

PCは開いている。
資料も並んでいる。
なのに、佐伯の目は画面を通り越して、どこか遠くを見ていた。

優作は席に荷物を置いて、少しだけ様子を見る。

声をかけるべきか。
そっとしておくべきか。

昨日の桐谷の言葉が頭に残っていた。

“笑ってる人ほど、ちゃんと聞かれていない”

佐伯は笑っていない。
でも、聞かれていない顔をしていた。

優作は席を立った。

「佐伯」

佐伯の肩が小さく揺れる。

「……はい」

「少し話す?」

佐伯は一瞬、迷った。

それから、小さくうなずいた。

会議室に入っても、佐伯はすぐには話さなかった。

優作も急かさなかった。

沈黙がある。
でも、今日はそれを埋めないようにした。

しばらくして、佐伯がぽつりと言った。

「中村さん」

「うん」

「自分、この仕事、向いてないかもしれないです」

優作は息を止めた。

佐伯は、机の端を見つめたまま続ける。

「昨日も、その前も、結局みんなに助けてもらって。
任せてもらったのにズレて。
確認したつもりでも足りなくて。
自分が入ると、余計に手間を増やしてる気がします」

「佐伯」

「辞めたい、っていうか……」

そこで声が少し詰まった。

「ここにいていい理由が、よく分からなくなってます」

その言葉は、重かった。

辞めたい。
向いてない。
迷惑をかけている。

それは単なる弱音ではなかった。

自分の居場所が、静かに崩れていく音だった。

優作はすぐに励ましそうになった。

そんなことない。
佐伯は頑張ってる。
成長してる。
大丈夫。

でも、その全部が、今は薄い気がした。

言えば言うほど、佐伯の孤独を軽く扱ってしまう気がした。

優作は、ゆっくり聞いた。

「佐伯は、何が一番しんどい?」

佐伯は少しだけ黙った。

「ミスすることも、もちろんしんどいです」

「うん」

「でも、それより……」

佐伯は、初めて優作の方を見た。

「自分が役に立ってる感じがしないことです」

優作は、何も言えなかった。

佐伯は続ける。

「“頑張ってるね”って言われても、正直あんまり入ってこないんです。
頑張ってるだけで、役に立ってないなら意味ない気がして」

胸の奥が、ぎゅっと縮んだ。

これは、かなり深いところの話だ。

仕事のミスじゃない。
やり方の問題でもない。

佐伯の中の、心のコップがほとんど空になっている。

しかも本人は、それを「能力不足」だと思っている。

人は、失敗が続くと“やり方”より先に、“自分の存在”を疑い始める。
本当に苦しいのは、仕事ができないことじゃない。
ここにいていいと思えなくなることだ。

優作は、その痛みを見逃してはいけないと思った。

「佐伯」

「はい」

「自分で自分を認めるのって、大事だと思う」

佐伯は、少しだけうなずく。

「でも、それだけだと、たぶん足りない」

佐伯が顔を上げる。

優作は、言葉を選びながら続けた。

「自分で自分に“頑張った”って言えるのは大事。
でも、それで満たせるのって、たぶん心のコップの三割くらいなんだと思う」

「三割……」

「残りは、人からもらわないと埋まらないことがある」

佐伯は黙って聞いている。

「助かった。
いてくれてよかった。
あの時の対応、意味があった。
そういう言葉を、誰かから受け取って、やっと満ちる部分がある」

優作は、自分で言いながら、美月の言葉を思い出していた。

“今日はちゃんと、見てもらえた気がした”

あの時、自分がどれだけ救われたか。

自分で自分を認めるだけでは、届かなかった場所があった。

「佐伯が今しんどいのは、自己肯定感が低いからだけじゃないと思う」

「じゃあ……何ですか」

「ちゃんと見られた実感が足りてないんだと思う」

佐伯の目が、わずかに揺れた。

その時、会議室のドアが少しだけ開いた。

美月だった。

「すみません。少しだけ、いいですか」

優作は驚いた。

「相沢さん」

「佐伯くんの件、桐谷さんから少し聞きました」

佐伯が慌てて顔を上げる。

「すみません、そんな大げさな話じゃ——」

「大げさかどうかは、佐伯くんが決めなくていいです」

その言葉で、佐伯は口を閉じた。

美月は向かいではなく、佐伯の少し斜めに座った。

責める位置ではなく、逃げ道を残す位置だった。

「佐伯くん」

「……はい」

「昨日の田辺さん対応、私は助かりました」

佐伯は固まる。

「え?」

「中村さんが全部受け持つ流れに戻さずに済みました。
佐伯くんが一次対応してくれたから、こちらは次の準備に時間を使えました」

佐伯の顔が、少しだけ変わった。

美月は続ける。

「それと、想定外の質問で“今この場で言い切ると危ないです”と言えたのは、よかったです」

佐伯は目を伏せた。

「でも、そのあとズレました」

「はい。ズレました」

美月はごまかさなかった。

「でも、全部がダメだったわけではありません。
ズレたところと、できていたところは分けた方がいいです」

佐伯は何も言わない。

でも、呼吸が少しだけ深くなった。

美月はさらに続けた。

「佐伯くんがいて助かった場面は、ちゃんとあります」

その一言に、佐伯の表情が崩れかけた。

本人がどれだけ欲しかった言葉だったのか、優作にも分かった。

“頑張ってるね”では足りない。
“成長してるよ”でも届かない。

佐伯が欲しかったのは、
自分の存在が、誰かの助けになったという事実だった。

人は“頑張れ”より、
“あなたがいて助かった”で立ち上がれる時がある。
努力を褒められるより、存在が役に立ったと知る方が、心の奥まで届くことがある。

佐伯は、何度か瞬きをした。

「……それ、初めて聞きました」

美月は少しだけ目を伏せた。

「言っていませんでしたから」

その返しは、静かだった。
でも、少しだけ申し訳なさも混ざっていた。

優作は、そこに気づいた。

佐伯だけが悪いわけではない。

周りもまた、見えていたはずの“助かった”を、言葉にして渡していなかった。

会議室に、短い沈黙が落ちた。

佐伯は小さく言った。

「自分で、自分を認めなきゃって思ってました」

「うん」

優作が頷く。

「でも、自分だけで認めようとしても、なんか空っぽで」

「分かる」

優作は言った。

「自分で満たせる分もある。
でも全部は無理なんだと思う」

美月も静かに言う。

「人は、誰かの中に自分の意味を見つける時があります」

佐伯は、その言葉を受け止めるように黙った。

優作は言う。

「だから、佐伯が今やることは、“自分なんてダメだ”を証明することじゃない」

「……はい」

「まず、受け取ることだと思う」

「受け取る?」

「助かったって言葉を。
できていた部分を。
ここにいていい理由を」

佐伯は、唇を少し噛んだ。

「受け取るの、苦手です」

「だろうな」

優作は少しだけ笑った。

「俺も苦手」

美月が横から言う。

「中村さんは、かなり苦手です」

「今それ言います?」

「必要なので」

佐伯が、少しだけ笑った。

本当に少しだけ。
でも、さっきまでの佐伯とは違った。

その日の午後。

佐伯は、辞める話を一旦保留にした。

解決したわけではない。
急に前向きになったわけでもない。

でも、席に戻った佐伯は、午前中より少しだけ画面を見ていた。

それだけで十分だった。

真壁が近くに来て、小声で言う。

「佐伯くん、大丈夫そう?」

優作は少し考えて言った。

「大丈夫、とは言えないです」

真壁が黙る。

「でも、戻ってきました」

「そっか」

「真壁さん」

「ん?」

「佐伯が助かった場面、ちゃんと言った方がいいです」

真壁は少し目を丸くした。

「俺が?」

「はい」

「なんか照れるな」

「照れてる場合じゃないです」

真壁は苦笑した。

でも少しして、佐伯の席に行った。

「佐伯くん」

「はい」

「昨日の田辺さんの一次対応、正直助かった。
俺だったらたぶん、もっと雑に受けてた」

佐伯は驚いた顔をした。

「……ありがとうございます」

真壁は照れくさそうに頭をかく。

「あと、次の確認項目、一緒に見せて。俺もそこ雑だから」

佐伯は少しだけ笑った。

「はい」

そのやり取りを見て、優作は思った。

承認って、きれいな言葉じゃなくていい。
ちゃんと見ていた事実を、ちゃんと渡すことなんだ。

夕方。

優作のチャットに、美月からメッセージが届いた。

今日の中村さん、佐伯くんにちゃんと言葉を渡していましたね

優作は少し迷って返信する。

自分だけでは満たせない部分があるんだなと思いました

すぐに既読がつく。

あります
だから人は、面倒でも人と関わるんだと思います

優作は、その一文をしばらく見つめた。

面倒でも、人と関わる。

たしかにそうだ。

言葉で傷つく。
期待して落ち込む。
分かってもらえなくて苦しくなる。
それでも、人からもらう言葉でしか満たせない場所がある。

心のコップは、自分の手でも少しは満たせる。
でもあふれるほど満ちる瞬間は、たいてい誰かの言葉が注がれた時だ。

優作は静かに息を吐いた。

帰り際。

佐伯が優作の席に来た。

「中村さん」

「ん?」

「今日、ありがとうございました」

「うん」

「まだ、すぐに大丈夫ですとは言えないです」

「言わなくていい」

佐伯は小さくうなずいた。

「でも、少しだけ……辞める以外もあるかもしれないって思いました」

優作は、胸の奥が少し熱くなった。

「それで十分だと思う」

佐伯は、ほんの少しだけ笑った。

その笑顔は、朝よりもずっと弱い。
でも、ちゃんと自分のものだった。

オフィスを出ると、廊下で桐谷が待っていた。

「優作」

「何?」

「今日、佐伯に何したんだよ」

「何もしてない」

「嘘つけ。あいつ、ちょっと戻ってたぞ」

優作は少し考えて言った。

「言葉を渡しただけ」

桐谷は一瞬黙って、それから笑った。

「なんか最近、言うことが先生っぽくて腹立つな」

「うるさい」

「でも、まあ」

桐谷は前を向いたまま言った。

「俺も昨日、ちょっと助かった」

優作は足を止めそうになった。

「……それ、今言う?」

「今しか言わない」

桐谷は歩き出す。

優作はその背中を見ながら、少し笑った。

不器用な承認でも、受け取ればちゃんと残る。

そう思った。

その夜。

優作のスマホに、美月からもう一通届いた。

佐伯くん、明日も来るそうです

優作は画面を見て、肩の力が抜けた。

よかったです

少し間があって、返信が来る。

はい
でも、まだこれからです

優作はその通りだと思った。

心のコップは、一度満たせば終わりじゃない。
毎日少しずつ減っていく。

だから人は、見られたい。
認められたい。
役に立っていると感じたい。

それは甘えではない。
人が人として働き続けるための、燃料なのかもしれない。

翌日。

優作は、思いがけない形でそのことをもう一度思い知る。

今度は、佐伯ではない。

いつも強く、正しく、揺れないように見えていた——
美月の心のコップが、静かに空になっていることに気づくのだった。

第16話へ続く。
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