三十代を過ぎてから、能動的に走ったり、歩いたりした記憶はほとんどない。
私の肉体が加速するのは、いつだって会社に遅刻しそうになったときだけだった。駅の階段を駆け上がり、珠のような汗をかきながら、呼吸を乱してオフィスに滑り込む。それが私にとっての「運動」のすべてだった。
だが最近、知人のプログラマーから走ることの面白さを説かれた。
「ウォーキングからならいいか」
そう自分を納得させ、まずはアディダスのウェア、帽子、シューズを一式揃えた。形から入るのが僕流だ。
リボ払いの残高がまた少し増えたかもしれないが、鏡の中の「整えられた自分」を見ると、不思議とモチベーションが上がる気がした。
翌朝八時三十分。北千住、荒川の土手。
意気揚々と踏み出した一歩目から、現実は牙を剥いた。一歩歩くたびに、スネの奥に鋭い痛みが走る。前脛骨筋。医学的にはそう呼ばれる部位が、私の不摂生と加齢、そして「形だけ」の決意を嘲笑うように悲鳴を上げる。
三十分の巡礼を終え、ほうほうの体で帰宅する。湿布の鼻を突く匂い。シャワーを浴びて、ようやく人心地ついた私は、執筆のためにAI Gemini 3.0 Pro との「壁打ち」を始める。
Geminiは、整然とした論理でこう書けと言った。
「挫折を乗り越え、自己を規律し、いかにして新しい習慣が形成されるか」
を、読者に分かりやすく説明せよ、と。
だが、私のスネの痛みは、その「正解」を断固として拒絶した。
Geminiのアルゴリズムには、湿布の下でジンジンと脈打つこの生理的な不快感も、北千住の土手の冷たい風が毛穴を刺す感覚も、それらが混ざり合って生まれる「要約不可能な憂鬱」も、一滴も含まれていない。
AIが提示するのは、常に「要約」された、誰のものでもない綺麗な物語だ。そこには、私が石垣島の熱帯で流したあの汚泥のような汗の臭いも、四百万円の負債がもたらす胃の痛みも、ノイズとして切り捨てられている。
「端的に述べてください」
「分かりやすくまとめてください」
私たちがAIに求めるその機能こそが、文学を、そして人間の生を去勢していく。
分かりやすさという名の安全装置が作動したとき、文章から「痛み」が消える。そして、痛みのない文章は、もはや私ではない。
AIは私の350ページに及ぶ泥濘をスキャンし、最適化しようとする。
しかし、私は今、湿布を貼ったスネを摩りながら、その「最適化」という名の暴力に叛逆を試みようとしている。
スネが痛い。ただそれだけの事実が、どんな洗練されたプロンプトよりも雄弁に、私の現在地を物語っているからだ。
連載の第一歩。私はAIにこう告げる。
「お前の書いた正解は、一ミリも痛くない。だから、それは間違っているのだ」と。