「正解」の過食、インプットの罠

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インプットの海で、自分の「声」を拾い上げる


最近、ふと立ち止まると、かつての自分は、自覚できないほどに頭の中が「よその言葉」でパンパンになっていたことに気づきます。

本を読んだり、誰かの発信を追いかけたり。「これを学べば」「今度はあれを身につければ」と、次に進むためのチケットを必死に買い集めているような感覚。

でも、チケットが増えれば増えるほど、肝心の「自分がどこへ行きたいのか」が霞んでいく。

そんな、妙に乾いた疲れを感じていたと思います。

これって、インプットの量が多いせいじゃなくて、「外側の正解」を当てに行くことに慣れすぎていたせいなのかもしれません。

「正解」という名の、心地よい麻酔


思えば、外側の正解を探している間は、どこか安心していられました。

フレームワークとか大好きでしたから、めちゃくちゃ集めてましたね…笑

「正しいやり方」に従っている限り、失敗しても「そのやり方が自分に合わなかっただけ」と言い訳ができる。

でも、それは自分を守るための鎧というより、自分の心にかけた「麻酔」だったのだと思います。

「本気でやっているつもり」なのに、どこか空回りしているとき。

それは、全力を出していないのではなく、「自分の内側を掘り下げること」から、無意識に逃げていただけだった。 

失敗して、自分という人間の底が見えてしまうのが怖くて、情報の薄皮を何枚も重ねて、自分を覆い隠していただけなんじゃないか……。

そう気づいた時、少しだけ背筋が寒くなりました。

「出す」ことでしか、自分には出会えない


インプットで頭が重たいとき、それは脳が「未処理のタスク」でゴミ屋敷になっている状態です。

 「正しく理解しなきゃ」「価値のあることを言わなきゃ」という完璧主義が、出口を塞いでいる。

でも、本当の自分に気づくためのアウトプットって、もっと不格好で、まとまりのないもののはずなんですよね。

誰の役にも立たない、独り言。

論理もクソもない、今の気分。

加工する前の、生の「モヤモヤ」。

そういうものをそのまま外に吐き出す訓練をしないと、自分のセンサーはどんどん錆びついていく。

他人の言葉をいくら積み上げても、それは自分の血肉にはならないのだと、疲れ切った心に言い聞かせています。

「次は、今度は」を、一度手放す


「次はこれを知らなきゃ」と焦る気持ちが湧いてきたら、あえてシャッターを下ろしてみる。

 新しいものを入れる前に、今ある不格好な自分を、そのまま紙に書き出してみる。

「正解」という鎧を脱ぎ捨てて、ただの自分に戻る時間。 

そこには、誰にも評価されない、でも確かな「自分の声」が残っているはずです。



PS.今日、子供の付き添いで病院で読んだ以下の本が本日のテーマとなりました。

「自分だけの答え」が見つかる13歳からのアート思考

冒頭に絵が書かれているんですが、著者の読み通り全く集中して見てないんですよ。それを本の中で指摘されるという導入。

今でも、まだまだインプット中毒なんだな〜、と実感した1日であります泣


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