純文学短編「ドラえもんを返した日」

純文学短編「ドラえもんを返した日」

記事
小説
1
 十五年前、私は日比野リョウに恋をしていた。
 そして、彼からもらった贈り物が、今も部屋に眠っている。
 日比野リョウは、クラスメイトの磯貝くんを死に追いやった黒幕だった。クラスメイトほぼ全員に手を回し、無視やもの隠し、聞こえるように悪口などを言い、磯貝くんを何ヶ月も追い詰めた。クラスメイトはじゃれ合いながら磯貝くんのノートを回し読みし、最後は日比野リョウがビリビリに破く。その姿は罪悪感の欠片も感じられず、皆、いじめを楽しんでいるようだった。
 私はどうにかいじめを止めたかった。磯貝くんはただの一クラスメイトで、言葉を交わしたことも数えるほどらしかなかったけれど、磯貝くんがいじめられるのをとめたいというよりは――日比野リョウがいじめをするのをとめたかった。
「磯貝くん、いじめられているみたいです」って、先生との連絡ノートに書いた。しかし返ってきたコメントは、先生のシャチハタと、隣に走り書きで一言、「磯貝くんに聞いてみます」のみ。
 担任じゃ駄目だと分かり、磯貝くんがいじめられていることを書いて、学校の意見箱に投函した。明日になれば、何かが変わっているかもしれないと一抹の期待をした。
 しかし、次の日もいつもと同じ日常が過ぎ去っただけだった。
 私がしたいくつかのことは、どれもいじめを止める手だてにはならなかった。逆に、本人が告げ口したのではないかといじめの火種を増やしただけだった。「言いつけ魔」と悪口を書かれた教科書をゴミ箱から拾う彼の後ろ姿に、私のせいでごめんなさいと心の中で懺悔した。「冤罪だよ、ふざけんな」と苦々しく呟く彼の声が、今でもリアルに蘇ってくる。
 磯貝くんは死んだ。コンクリートに彼の身体は叩きつけられた。音を聞いたものは誰もいなくて、発見まで時間がかかったらしい、と噂に聞いた。連日そぼ降る冬の雨に、彼から溢れ出た血はすぐに洗い流され、落下の痕跡はすぐに分からなくなった。
 磯貝くんが自殺してから、やっといじめは明るみになり、大きな問題として扱われた。誰が扇動していじめていたのか、いじめに加わっていた人が口を揃えて「日比野リョウ」の名前を挙げた。自分たちにも非があるって、本当は皆も自覚していたと思う。けれど、他人に罪を擦り付けてしまう方が、精神的に楽だということを皆は分かっていた。私だって、そうだった。でも私はいじめには加担してないし、磯貝くんを救おうと行動に移していたし、罪としては軽い方なのかもしれない。
 けれど私が告げ口をしたことで磯貝くんが余計に苦しんだのも事実だ。私のしたことは何の救いにもならなかった。逆に彼を苦しませるのに加勢してしまったのかもしれないと思うと、今も消えない後悔が、私の胸には眠っている。
 日比野くんは、彼が悪いと口を揃えるクラスメイトたちに反論することなく、そのまま転校してしまった。その後の彼のことは、私の周りの人は誰も知らなかった。

 2
 日比野くんとは、中学一年生のときに付き合っていた。
 日比野くんと付き合っていたのはほんの半年くらいだったけど、中学生にとっての半年は、すごく長く感じた。日比野くんは私に沢山のプレゼントをしてくれた。記念日でもないのに、オススメの漫画本やちょっとしたもの(栞や入浴剤、ポストカードなど)を、「結花が好きそうだから」と言って、渡してれた。
 しかし、どんなに仲がよくても恋の終わりは訪れる。
 部活や勉強、他の友達と遊ぶのに忙しくてすれ違い始め、寂しくなって「もう無理。こんなんじゃ付き合ってる意味、ないと思う」と私が告げた。日比野くんもそう感じていたのだろう、「そうだな」と言い、キス止まりの幼い恋に呆気なく幕が下りた。勿論別れて数週間は泣いたり寂しくなったり、もっとこうしていればと、あのときこう言っていれば、などと後悔もした。
 学校ではお互い口をきくことを避け、中学二年になっても同じクラスになってしまったときは、居心地悪い思いをまた一年することになるのか、と落胆した。
 そして、日比野くんは磯貝くんにちょっかいを出し始めた。磯貝くんには友達がいなかった。その癖クラスメイトを時々無言でじっと見つめ、「何?」と言われると「俺、見てないよ。自意識過剰」と毒を吐くような、痛々しい強さのある人だった。だから、遅かれ早かれ誰かの標的にはなっていたのだと思う。
 日比野くんが磯貝くんをからか始めたとき、別れたことを後悔した。付き合ったままだったら、今ここで間に入って「やめなよ、リョウくん」って言えたのに。日比野くんは、根っからの悪ではないと信じたかった。
 あれから長い時が経ち、やめなよと言ったところで何も変わらなかったかもしれないというのは今になって思う。いじめを止めるのに、一人の女子生徒の力じゃどうにもならないことを、当時は知らなかったのだ。だからこそ、私は必死に足掻いた。その日を境に、日比野くんを中心に磯貝くんへのからかいがヒートアップしていくのを、何度も止めようとした。
 けれど私は無力だった。日比野くんと取り巻きが磯貝くんの悪口を言っているのを耳にすると、そっと距離を置き、悪口が聞こえてこないところまで移動した。
 いじめがクラス全体で盛り上がっていき、勢いが留まらないのを見て、日比野くんは段々加害するときに躊躇いの表情を浮かべるようになった。磯貝くんの高そうなウインドパーカーをハサミで破こうぜ!と周りが扇動したときも、日比野くんは「いや、それはやめとかね?」と渋った。それでも外野は煽るのをやめず、彼は押し黙ったままウインドパーカーの端にハサミで数本の切れ目を入れた。少しでも被害を小さくしようとしたのが分かり、私はトイレに駆け込み、頭を抱えて唇をぎゅっと噛んだ。
 磯貝くんはそのウインドパーカーを次の日も着てきた。ところどころに見える粗い縫い目が、嫌でも視界に入ってきた。
 ある日、日比野くんは聞こえるように悪口を言ったあと、
「……でも、自殺とかはすんなよな。そういうの、マジ勘弁だから」
 と真顔で呟いた。多分、彼の本心だったのだと思う。
「……うざ」
 磯貝くんは小声で吐き捨てた。ぷいっと横を向き、目を伏せる。その目の下に深いクマがあるのに気付き、心臓を鷲掴みにされたような息苦しさを感じた。どうか、日比野くんがいじめないで済む世界にしてくださいと願った。
 今思えば、磯貝くんがああ言われてあんな一言で終わらせるのはおかしかった。彼には強さがあったから、ゴミが机の中に入れられても、「ふざけんな。マジ死ねよ」と独り言を言いながら、大きな音を立てて椅子を引き、乱暴に座って机に突っ伏すような人だった。彼の強さが日に日にしぼんでいくのを、何となく気付いていたからこそ、残された時間は少ないかもしれないと分かっていた。
 そして翌日、磯貝くんは自殺した。
 磯貝くんが自殺してから、日比野くんの元気はあからさまになくなった。「……俺、自殺はすんなって言ったのに」と掠れた声で呟き、周りの生徒を戸惑わせた。肩の落ちた後ろ姿に、声をかけてあげたい気持ちが何度も湧いたけれど、何と言えばいいのか思いつくことはなかった。
 だから、日比野くんが転校したときはちょっとほっとした。元気のない横顔を目で追う必要も、日比野くんを悪く言う言葉に耳をそばだてる必要もなくなったから。

  3
 それからの彼のことを知ろうとしたことはなかった。磯貝くんのことも、日比野くんのことも、まとめて忘れてしまいたかった。
 けれど、日比野くんから十五年前にもらった漫画本は今も私の本棚に並んだままだ。色褪せたタイトル『ドラえもん』。
「ドラえもんって原作を一度は読むべきだよ。小一のときにドラえもんが未来に帰る話読んで、俺初めて漫画読んで泣いたもん」
 そう言って渡された、ドラえもんの第六巻が本棚の一番端にひっそりと眠っている。私は中一の時、ドラえもん第六巻を読んだ。確かにエモーショナルな話だったけど、私は泣けなかった。「リョウくんピュアだねーっ」ってからかい、顔を赤くした彼の横顔は、今もはっきり思い出すことが出来る。
 別れる時に返そうと思ってたのに、「それは結花にあげたものだから。俺んちにはドラえもん全巻あるし。結花にあげたのは布教用」と言って受け取ってくれなかった。そのうち捨てようと思ってたけれど、彼が転校してしまったことで、捨てられなくなってしまった。彼がいた痕跡が、何も残らなくなってしまうのが怖かった。卒業アルバムにも載らず、過去の写真も載ってたから写ってるはずなのに不自然に消され、日比野くんの話をするものは誰もいなくなった。
 日比野くんがしたことは酷いことだけれど、半年間は私にとって一番大事な人だった。忘れるなんて、出来なかった。
 でも、このままずっと本棚に並べておくのはよくないとずっと思っていた。私はあれから好きな人と付き合っても、半年以上続いたことがない。日比野くんと付き合った月日を越えることが出来ないでいた。
 今、私には好きな人がいる。多分、付き合うことが出来る。今度こそは、半年以上付き合いを続けたい。
 だから――私は、彼からもらったドラえもんをこの部屋から取り除いた方がいいのかもしれない。
 私はスマホで日比野リョウの名前を検索した。一つのSNSアカウントがヒットした。プロフィール写真は、笑みを浮かべる成人男性。――泣きぼくろが、中学生の日比野くんと同じ位置にあった。私は思わず「リョウくん」と呼びそうになり、咄嗟に口を手で押さえて名前を呑み込んだ。
 そこから、彼の住所を調べるのはそんなに難しくなかった。今の時代、名前から住所を検索出来るサイトがいくつか存在する。SNSで住んでる市町村が分かったこともあり、私は日比野リョウの住所を特定した。

 4
 漫画本を梱包し、住所を記入する。手紙か何か入れようか一瞬迷ったが、送り主の名前だけで充分だと思った。私は前へ進みたいのだから、余計なメッセージはいらない。
 郵便局で送ってきた帰り道、何度も後ろ髪を引かれた。これで、よかったのだろうか。十五年の時を経て、無言で返された漫画を見て、日比野くんはどう思うだろうか。私だったら、きっと嫌な気持ちになる。今更って思うし、一言もなく何だよって思う。勝手に住所調べて、連絡もなく送ってきて……昔の彼女のことを思い出して、モヤモヤするだろう。
 荷物が届いたであろう時期から半月後。飾りのない封筒が、ポストに入っていた。胸がざわつき、恐る恐る差出人を見た。
 日比野、リョウ。
 それは反則でしょ……。重い足を引きずりながら、部屋に戻り封を開けた。
 日比野くんの文字とは全然違う、小さく尖った文字が、十行ほど几帳面に並んでいた。
『浅井結花様
 突然のお手紙、ごめんなさい。
 リョウの母です。久しぶりです。
 漫画本、ありがとう。リョウの物ですよね。あの子は昔からドラえもんが好きでした。
 リョウは、今入院しています。
 もう、長くないと思います。
 わがままなのは分かっていますが、もしよかったら、リョウに会ってやってください』
 便箋が、カサッと音を鳴らす。
 私は手紙を持ったまま、立ち尽くした。全身の力が、ゆるやかに抜けていくようだった。周りの景色が遠ざかる感覚に襲われ、世界がぼやける。ジオラマのような、作り物のように見えてくる。現実感が失われていく。
 嘘、でしょ――?
 私はもう一度最初から文を目で追った。日比野くんの字じゃないのは、明らかだ。鉛筆の下書きがうっすら残り、消し跡がいたるところにあった。
 その場に座り込む。ぺたんと床にお尻をつく。周りの景色が、水彩画のように滲んでいる。耳の奥で、キーンと高い音がなっていた。
「――どうして」
 やっと出せた言葉は、宛先のない問いだった。
 病気になるのに、理由はない。
 死んでしまうのに――理由なんて、ない。
 私は、本棚に目をやった。ドラえもんが眠っていた場所が、一冊分隙間が空いている。あそこに他の本を収納する気は起きなかった。きっと、これからもあそこはぽかりと空いたままだろう。
 私は、どうするべきなのだろうか。どうしたい、のだろうか。
 おもむろに、机の上を見る。もう机は必要ないが、処分が面倒臭くて今も私の部屋には置かれていた。仕事の書類や外したアクセサリーが乱雑に置かれた、その陰に、一つの小瓶がや並んでいた。
 親指くらいの、透明な小瓶。忘れ去られていたように、机の奥、座らないと見えない場所にあった。
 私はふらふらと立ち上がり、小瓶を手に取る。懐かしい、冷たさとなめらかな手触り。ほこりが被り、薄汚れていた。けれど、中に入った青い砂はきらきらと輝きを失っていなかった。青い砂にまばらに混ざった星型の砂――。
 日比野くんからもらった、星の砂のオブジェだった。
 私は、星の砂のオブジェを両手でそっと抱きしめた。日比野くん、私はあなたに何て言葉をかけたらいいのか分からないけれど――。
 最後に、会いたい。

 5

 手紙に書かれていた病院の住所をナビに打ち込み、車を走らせる。冷たい指先でハンドルを切り、見えてきた大きな建物をじっと見つめる。県内でも有名な大学病院。その事実が、日比野くんの病状の重さを物語るようで――私は車のドアポケットからキシリトールガムを取り出し、口に投げ入れた。口の中いっぱいに広がるすっきりした味が、重く沈んだ心を幾らか紛らわしてくれる。
 病院に着き、受付で日比野リョウの名を告げる。
 ご関係は、と言われて、一瞬うろたえた。数秒考えたのち、「友達です」と伝えた。
 そして、エレベーターを上がって病室へ向かう。大学病院へお見舞いに来たことは初体験だったので、廊下を歩いていても、看護師が私を見ているような気がして落ち着かなかった。
 日比野くんの病室は個室だった。扉をノックしようと拳を握ったが、そこから動けなくなる。ノックしてしまったら、もう逃げられない。
 でも、ここまで来たのに逃げても仕方がない。私はゆっくりと扉を叩いた。
「はい」
 低い男性の、声。声だけでは、日比野くんと分からない。私は扉をそろそろと開いた。
 ベッドに、横たわる男の人。青白くこけた頬、布団を握る小枝のような腕――私の知らない人が、そこにいた。
 その人は、ベッドの上で上半身を起こしていた。そして、私を頭から足の先まで視線を這わせて、ふっと笑った。
「……今更ドラえもん送り返すとか、冷たくない?」
 彼が見せた八重歯が、すごく懐かしかった。
 日比野くん、なんだ――。
 私は返す言葉が見つからず、やせ細った日比野くんから視線を逸らした。年季の入った床を睨み、こんなのズルい、と思った。こんなオチは、誰も幸せにならないじゃないか。いじめっ子の末路なんて、社会に出て上手くいかないとか、会社に入って逆にいじめられるようになるとか、その程度のオチがセオリーじゃないの? もうすぐ死んでしまうなんて、程がある。
「……とりあえず、椅子、座りなよ」
 日比野くんの言葉遣いが、十五年前より角が取れていると感じた。
 大きな変化を遂げるくらい、十五年は、長い年月だった。
 私は「うん」と小さく返事をし、椅子に座った。日比野くんとの、距離が近くなる。私は彼の布団を見つめた。
「声、変わらないね」
 ふわっとした柔らかな響きに、私は顔を上げた。日比野くんが、まっすぐ私を見ている。身体の中が熱くなっていく。
「……日比野くんは、声低くなったね」
 私の声は緊張のせいで硬い響きになってしまう。
「声変わり。俺、遅かったんだよね。……転校したあとだったから」
 転校。その言葉に、昔の記憶が蘇ってくる。磯貝くんの暗い瞳。先生が自殺を告げたときの胃の重さ。日比野くんの、苦しそうな横顔。色々なシーンが脳裏にぐるぐる浮かんできて、みぞおちが痛み出す。
「俺……本当に酷いことをしたと思う。最初はからかいのつもりだった。……でも、磯貝は言い返すから、俺もイライラして。幼稚だったと思う。恥ずかしいよ」
 日比野くんは目を伏せ、布団のシーツを両手で強く握った。爪がくい込んで痛いんじゃないかと思うほどの力に見えた。震える腕は、拳を握っているせいなのか、それとも――。私は横顔を盗み見る。よく見ると、日比野くんの面影が微かに残っている気がした。
「死んでほしいなんて思ってなかった。そこまでしてほしくなかった。でも、磯貝が死んだのは俺のせいだ。……転校先では、いじめをしていたことはバレなかった。でも、俺は上手くやれなかった」
 そこで言葉を切り、私と目を合わせ、目を細めて微笑んだ。人が、こんなに哀しい笑い方をしたのを私は初めて見た。
「――磯貝をいじめていたのは、俺に欠陥があったからだと、今なら分かるよ――。罰なのかもしれないよ。俺が病気になったのも」
「リョウくんっ……」
 咄嗟に下の名前を呼んでしまった。十五年ぶりに、口にした日比野くんの名前。日比野――リョウくんは、目を大きく見開き私を凝視した。瞳の奥の、懐かしい色。やっぱり、リョウくんだ――。
「結花。……やば、名前久しぶりに呼んだな。ご本人との関係、友達って言われてびっくりしたじゃん。『ご友人の浅井結花様』って……まあ、すぐ分かったけど。そこ、元カノとか言ったらウケ狙えたのに」
 そう言って、くくっと笑い声を上げた。私が、リョウくんに言いたいこと……多分、分かった気がする。
「……リョウくん。私、ずっとしこりが残ってた。リョウくんがどうしてるのか、気になってた。幸せに生きててほしいとも、罰が当たっててほしいとも思ってはなかったけど――生きてて、ほしかったよ」
 口にしてみたら、胸が苦しくなった。肋骨に手を当て、溢れ出してしまいそうな想いをせき止める。
「俺も、生きたかったよ」
 そう呟いた日比野くんの顔は、私と同い年なのにシワが刻まれ、今までの生活や病気で身体も心もすり減ってしまったのだろうと思った。
「もう、磯貝には謝れないけど……結花になら、まだ、謝れる。――ごめん。苦しませて」
 少し開いた窓から冷たい風が吹き込み、サイドの髪が風にさらわれ、一瞬前が見えなくなった。
 再び前が見えるようになったとき、リョウくんは泣いていた。見てはいけないものを見ている気がした。けれど、私は目を逸らしてはいけないと思った。
「……私に謝られても、磯貝くんは戻らないよ」
 髪を耳にかけながら、続ける。
「あと、リョウくんも……もう、戻れない」
 そう言うと、彼はまたすごく哀しそうな微笑みを浮かべた。その顔が見たくなくて、私ははるか昔の記憶を辿った。
「……ドラえもん、六巻で帰ったけど、次の巻で帰ってくるんじゃん。泣き損だったよ」
 私の言葉に、リョウくんは一瞬面食らったような顔をしたが、やがて昔のような無邪気な顔に変わった。
「それでも感動することに違いはないでしょ。てか、七巻読んだの?」
「だって、気になって。買ったよ」
「思惑通りぃ〜」
 二人で笑い合うと、吹き込んでいた風がやんだ。遠くの空が赤く染まり始めている。
「なあ」
 リョウくんの声が、静かな部屋に響き渡る。
「俺、もうすぐ死ぬけどさ。磯貝のこと、忘れないでほしい。俺はもう、磯貝のことを思い出すことが出来なくなるから」
 私は窓を見つめ、空に舞うカラスの群れを目で追いながら、
「忘れられるわけないじゃん」
 ときっぱり言った。そして先ほどの風で乱れた前髪を撫で付けて、同じくらい大切なことを伝えた。
「日比野リョウのことも、忘れないから――」
 日比野リョウは微笑んだ。漫画本と一緒に、星の砂をコトリと置いて「やるよ。俺の好きなもの」と言ったときの微笑みに、とても似ていた。
「――リョウくんも、変わらないよ。その、八重歯と目」
 そう言うと、リョウくんは再び八重歯を見せた。昔のような真っ白な八重歯とは違い、病のせいか黒ずみ、歯茎が痩せている。
 それでも、私を見つめる瞳の優しい色は十五年前と変わらなかった。

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