あさひとヨルが保育の話をしている最中だった
コン、コン。
静かなオフィスに控えめなノック音が響く。
その直後、ドアが開いた。
夜の少し冷たい空気が部屋の中へ流れ込む。
「お疲れ様です」
低く、落ち着いた声。
入ってきたのは、ワインレッドの上下のスーツを着た男性だった。
細身のシルエット。
ネクタイは少し緩められている。
長い一日を終えた空気をまとっていた。
片手には黒いタブレットケース。
ヨルが少し笑う。
「お疲れ様です」
あさひも立ち上がり、挨拶をして給湯スペースへ向かう。
紙コップにコーヒーを注ぎながら、「ブラックで大丈夫ですか?」と聞く。
「ありがとうございます」
男性は軽く頭を下げた。
コーヒーを受け取ると、肩を回しながら椅子へ腰を下ろす。
首を軽く鳴らした。
「園を回ってきたんです」
疲れたように息を吐く。
「どこも、人手不足ですね」
その一言に、あさひとヨルが一瞬黙った。
“知っている現実”を改めて言葉にされた感覚だった。
あさひが口を開く。
「今、ちょうどそんな話してました」
ICT化とか
行事とか
“子どもと向き合う時間”の話
男性は小さく笑った。
「大事ですね」
コーヒーを一口飲み、少し間を置く。
「そもそも、“配置基準”自体が、今の現場に見合ってない」
空気が変わる。
“現場の苦しさ”のさらに根っこの話。
男性は指を一本立てた。
「知っての通り、1歳児6人に対して保育者1人」
「制度上は成立してます」
そのまま続ける。
「でも、実際は成立してないじゃないですか」
机の上にタブレットケースを置く。
鈍い音がした。
「食事介助してる横で別の子が転ぶ」
「おむつ替えしてる間に噛みつきが起きる」
「何かをしている時の誰かはいないんですよね。それは保育者がプロだからってかなりの過大評価をしているんですかね。それとも1歳児を大人に見てるんですかね。大人が何かしている時は静かにしていなきゃって。1歳児はそんなに静かに待ってませんよ」
一つひとつが“現場の日常”だった。
「それに今は“安全管理”のレベルも昔より上がってる」
午睡チェック。
アレルギー対応。
不審者対策。
虐待チェック。
感染症対応。
「今って、“命を守りながら、発達支援して、保護者支援して、記録も残す”んですよ」
少し笑う。でも、その笑いには疲労が混じっていた。
「やってる仕事、もう別物です」
あさひが静かにうなずく。
「それなのに、人数の考え方は昔のまま」
男性は椅子にもたれ、天井を見上げた。
蛍光灯の白い光が、少しだけ目に刺さる。
「だから現場が、“気合い”で埋めてる」
ヨルが苦笑した。
「日本の悪い癖」
そして続ける。
「しかも企業側も、“配置ギリギリ”で回した方が利益出る」
あさひが視線を落とした。
その現実は、知っている。
でも、簡単には口にできない種類のものだった。
男性はすぐ補足する。
「もちろん、全部の会社じゃないですよ」
「でも、“人を増やす”って、一番コストかかるから」
だから代わりに、
行事を増やす。
特色を出す。
追加プログラムを入れる。
「現場の人数は増えない」
ヨルが静かに言った。
「堂々巡りみたいだ」
男性はうなずく。
「だから、“保育の質を上げよう”が」
「“保育者の負担を上げよう”になってる気がするんです」
一度、言葉を切る。
「で、今は限界きたら、“AIで効率化しましょう”って流れになってる」
「間違ってはないけどね」
あさひが返す。
男性はすぐにうなずいた。
「ええ。でも、順番がおかしいんですよ」
声は穏やかなのに芯が強かった。
「本来は“子どもを見るために人を増やす”が先なんです」
部屋が静かになる。
窓の外では、電車の音が遠くを走っていった。
男性は指で机を軽く叩く。
「AIもICTも“補助”なんです」
「人の代わりじゃない」
「でも今は“足りない人を埋める道具”になりかけてる」
その言葉にあさひの表情が少し曇った。
まさに、今現場で起き始めていることだった。
ヨルが窓の外を見ながら言う。
「結局さ」
「“子どもの最善の利益”って言葉、みんな使うんだよね」
“会社も”
“行政も”
“園も”
少し間を置く。
「でも、“誰の利益”が優先されてるかで、中身が変わる」
部屋の空気が、さらに静かになる。
男性はコーヒーを机に置いた。
「本当に子どものこと考えるなら」
少しだけ視線を落とす。
「“保育者が余裕を持てる環境”を作らないと無理なんだよ」
その言葉が、静かに部屋へ落ちた。
二人は目を瞑り、すぐには返さない。
遠くで、また電車の音が聞こえる。
あさひは窓に映る自分たちをぼんやり見ていた。
保育を守るって“頑張らせること”じゃない。
“ちゃんと余裕を作ること”。
しばらくして。
男性がふっと表情を変えた。
「ただ」
「私たち、これから新しいことにチャレンジしようと思ってるんです」
あさひが顔を上げる。
さっきまでとは少し違う目だった。
「なんですか?」
少しワクワクしたような表情で聞く。
男性は、少し笑った。
「それは――」
その瞬間。
ブブッ――。
机の上のスマホが震えた。
画面を見る。
男性の表情が少しだけ変わる。
「……すみません」
立ち上がる。
「また今度、ちゃんと話します」
タブレットケースを持ち上げる。
ドアを開けると夜の空気がまた少しだけ入り込んだ。
「お疲れ様でした」
静かに頭を下げ、そのままオフィスを後にする。
閉まったドアを見つめながら、
あさひは小さくつぶやいた。
「……なんだったんだろ」
ヨルは少しだけ笑う。
「多分」
コーヒーを一口飲む。
「面白いこと、始まるよ」