3話:書類の向こうに子どもはいるか

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夏が始まるころ。
園の空気は熱と湿気と“やること”で重たくなっていた。

朝、玄関を開けた瞬間から、空気が肌にまとわりつく。

子どもたちは汗をかきながら走り回り、
保育者たちはタオルを肩にかけたまま動き続ける。

廊下には、濡れたサンダル。
プールバッグ。
名前を書いた水筒。

夏特有の少し湿ったにおいが園全体に広がっていた。

プールが始まる。
夏祭りの準備も動き出す。
制作。
遠足の計画。
行事の打ち合わせ。
写真販売の調整。

そこに重なるように“監査”。

タブレットに入力する作業もある。
なのになぜか、
最終的には紙に転記してファイルに綴じて保管。

ICTは“一部だけ”入っていた。

出席確認。
写真共有。
一部の連絡機能。

確かに便利にはなっているが、
流れの中心は、結局アナログに戻っていく。

みき先生はタブレットをタップしながら、横の分厚いバインダーを見た。
ページの端には何度も開いた跡がついている。

(……)

同じ内容。
違う様式。

“配慮事項”
“健康面の注意”
“活動時の留意点”

言葉が違うだけで書いていることはほとんど同じだった。

午前中。
プール対応。

濡れた床を拭きながら、人数確認。
「いち、に、さん……」

子どもたちは水しぶきを上げながら笑っている。
でも保育者側は、楽しむ余裕なんてほとんどない。

転倒しないか。
顔色は悪くないか。
押し合っていないか。
水温は問題ないか。

目と神経を常に張り続ける。

プールが終われば今度は着替え。

濡れたラッシュガードが脱げずに泣く子。
タオルをなくした子。
疲れている子。
それでも、手を止めることなく、

その後すぐに給食を食べる誘導をする。

お昼寝の時間になっても休めない。

午睡チェック。
呼吸確認。
連絡帳記入。
制作準備。

そのまま短いミーティング。

午後。

子どもを起こし、
おやつへ誘導。
自由遊び。
保護者対応。

「今日、ちょっと咳してて…」

「昨日、夜泣きがすごくて」

「遠足の持ち物って…」

一人ひとりに必要なやり取り。

大事にしたい時間を
少しでも書類を消化するために、保育から抜けることもしばしばあった。

気づけば。
子どもと向き合っている時間より、
ペンやタブレットを持っている時間の方が長い気がする。

夕方の職員室は、
エアコンはついているのに、部屋は妙に暑かった。

プリンターの熱。
人の疲労。
積み上がった空気。

その全部が混ざっている。

そこへ本社の担当者と園長が入ってきた。
机の上に遠足の企画書と新しい様式の書類が広げられる。
紙の擦れる音だけが響いた。

「来月の遠足ですが」

本社担当者が資料をめくる。

「保護者満足度の観点で、振り返りレポートを強化したいと思っていますので」

にこやかな営業用の笑顔。

「個別のフィードバックを、もう少し丁寧に」
さらに続ける。

「加えて、個別の子どもの様子を“写真付きで”共有できると、より良いですね」
誰もすぐには返事をしなかった。

職員室の空気が少しだけ重く沈む。

みき先生の視界にさっきまで書いていた紙が入る。

遠足の事前計画書。
同じ子どもの名前。
同じ内容。
三つの様式。

“配慮事項”
“健康面の注意”
“活動時の留意点”
ほとんど同じ。

その瞬間だった。

みき先生の中で何かが切れた。

「……現場を知らないくせに」
低い声だった。
でも、職員室の全員に、はっきり聞こえた。

園長が顔を上げる。

担当者の笑顔が止まる。

みき先生は立ち上がった。
椅子が床を擦る音が、やけに大きく響く。

「……これ、見てもらっていいですか」
ファイルを持ち上げる。
そして。
机にバンと置いた。

ページをめくる。

同じ名前。
同じ注意事項。
同じ配慮。

「これ、二回も三回も同じようなことを書いてるんです」
指で強くなぞる。

「ここにも、ここにも、ここにも」
声が少しずつ上がっていく。

担当者が口を開きかける。
「様式の違いがありまして――」

みき先生はかぶせた。
「その様式の違いで子どもを見る時間が減ってるんです」

空気が一気に張り詰める。

「午睡中で終わる量じゃない。5分おきに午睡チェックして
給食やおやつのアレルギー確認、
数名の連絡帳、月案、週案、振り返り、遠足の計画書、行動計画書、ヒヤリハット、一人一人の個別成長記録、保育だより、避難訓練計画書、それでも足りないですか」

一歩、前に出る。

「そこにまた、似たような書類」
机に両手をつく。

「これ以上、何を増やすんですか」
息が荒くなっている。でも、止まらない。

「今でも回ってないんですよ
子どもを見る時間
削ってまで書類やってるんです」

誰も動かない。
エアコンの風だけが紙をわずかに揺らしていた。

「子ども見れてない時間がもっと増えます」

担当者の表情が硬くなる。

「現場の安全を担保するための――」
「じゃあ聞きます」

みき先生の声が一段低くなる。
「あなたたちは本当に子どものこと可愛いと思ってますか?」

一瞬、時間が止まった。

誰かがペンを落とした音だけが小さく響く。

「可愛いと思ってますか?」
もう一度。
今度はさらに強く。

「可愛いと思ってたら、こんなに“子どもから離れる時間”増やしますか」

言い切ったあと。
みき先生自身も分かった。

(やらかした)

職員室の空気が完全に凍った。

担当者はゆっくり息を整える。
感情を抑え込むように。

「会社の方針に合わない場合は――」

一拍置く。

「別の環境をご検討いただいても結構です」

静まり返ってはいるが、先生たちの表情は困惑と動揺が見られる。
それはそうだ。ただでさえ人手不足の中また一人、職員が退職してしまうのではないかと思うとその負担は誰が。

園長が小さく息を吐いた。

その吐息には疲労と諦めと止めきれなかった現実が、
全部混ざっていた。

その夜。

みき先生は駅前の居酒屋のカウンター席に座っていた。

店の奥では、サラリーマンたちの笑い声が重なっている。
焼き鳥の煙。
油のはねる音。
冷房の効いた店内に外の蒸し暑さが少しだけ混ざっていた。

カウンターの上のジョッキにはまだ泡が残っている。

みき先生はその泡を指先でぼんやりなぞった。
指先についた水滴がゆっくり流れる。

向かいには保育プランナーのヨルが座っていた。

スーツ姿。
ネクタイは少しだけ緩められている。

仕事帰りなのが分かる疲れた顔なのに不思議と目だけは冷静だった。

「言いすぎました」
みき先生が苦笑する。

「でも、止まらなかったです」
ジョッキを少し持ち上げる。
「完全にアウトです」

ヨルはすぐには答えなかった。
ビールを口に運ぶ。
グビ、と一口飲んでから、静かに言った。

「現場の声…ですね」
短い一言だった。
“感情論”で片づけていない言い方だった。

みき先生は肩を落とす。
カウンターの木目を見ながら言う。

「ICTも、入ってるには入ってるんですけど」
指を折って数える。

「午睡の入力
連絡帳
写真共有ツール」

ジョッキの泡がなくなっていくよう様子を見つめ、

「でもね、ヨルさん。それ以上に書類の類が多くて、たとえ全てがデジタル化したから良いってことじゃないんです。子どもを見る時間を書類に当てなきゃ追いつかないってことが…」

ヨルがうなずく。

「監査対応も、企業としての書類もありますからね」

「そうです」
みき先生は即答した。

「今は“紙で残す”前提だから、デジタルが増えるだけで、減らない」
苦笑する。
「二重じゃなくて、二倍です」

「そこにさらに行事も増える……」

夏祭り。
遠足。
発表会準備。
お誕生日会。

“子どものため”と言われるものが積み重なっていく。

みき先生は、小さく笑みを浮かべた。
その笑顔はどこか寂しかった。

「子どもと関わりたくて、この仕事してるんですけどね」

その会話を、少し離れた席で聞いていた二人がいた。ハルさんとアキくんだった。

ハルさんは静かに飲んでいた。

グラスを置く音も小さい。

ハルさんの後輩のアキくんは感情が顔に出やすかった。

髪は明るい金色。
丸いメガネ。
少しラフなシャツ姿。

介護職として働いていて、現在、妊娠中の妻と二人暮らし。
“もうすぐ父親になる”
その実感と不安が最近の彼の中には常にあった。
だから子育てのことをよくハルさんに相談していた。

アキくんが小声で言う。

「……先生の本音か」

ハルさんは黙ったまま、グラスを置いた。
ちらっと視線を向ける。

(あ……)その瞬間、気づく。
以前、ふみさんが見せてくれた園の写真。

行事の集合写真。
そこに写っていた先生。

“ひと口チャレンジ”のときの先生だ。

でも今回は違う。
ハルさんは、少し険しい表情のまま席を立つ。

「すみません」
軽く頭を下げる。

「保護者なんですけど」

みき先生とヨルが顔を上げる。

「あの、話、聞こえてしまって」

アキくんも慌ててグラスを持って移動する。
「す、すみません」

ヨルが席を少し詰めた。
「どうぞ」

ハルさんが座る。
アキくんも隣に腰を下ろした。

「先生って、大変なんですね」

正直な声だった。
「そんなにだと思ってなかったです」
少し苦笑する。

「保育園の先生って、“子どもと遊んでる仕事”っていう認識しかなくて」

みき先生が苦笑した。

責める感じではない。

“よく言われる”という顔だ。

アキくんが前のめりになる。

「書類、手書き多いんですか?」

「一部はデジタルです」
みき先生が答える。

「手書きもそうですけど、同じような書類の往復で」

アキくんが大きくうなず木、少し考えてから言う。

「でも、なんでこの時代でデジタル使わないんですかね」

その言葉でハルさんの頭の中に“構造”が浮かび始めていた。

(なんで二重なんだ。なんで、一回で済まない)

そして。

”そのせいで、子どもを見る時間が減ってる”
それは保護者として無視できない問題だった。

ハルさんはスマホを取り出す。

「どのデータが“監査で必要”で」
画面にメモを打ちながら言う。
「どれが“現場の記録”なのかで分けられないんですか?」

みき先生が少し驚いた顔をする。

「監査用はテンプレ化して、一発出力」
「現場記録は、音声入力+AI要約」
みき先生が顔を上げた。

「音声入力?」

はいとハルさんはうなずく。

「例えば、子どもの様子をその場で話すだけでテキスト化する」
スマホを操作しながら続ける。

「“今日は砂場で○○ちゃんと遊んで、途中で転んだけど…”って話すと」
「AIが、連絡帳用の文章に整える」
アキくんも乗ってくる。

「で、その内容を他の書類にも自動展開」

「二回書かない」
ハルさんが言う。

「一回で全部に反映」

みき先生の頭の中に、今までの“書いていた時間”が浮かぶ。

ヨルが静かに補足する。

「導入するにしても、いきなり全体は無理ですね」
「それに、企業や行政側が現状を認識して、改善を図らないと難しいですね」

ハルさんが。指でテーブルを軽く叩く。

「まずは一クラスで連絡帳と日誌だけテストしてみて、その利便性と実用性を見てもらうことはできないんですか」

さらに続けて。

「無料ツールでも試せますし、最初は“半自動”でも。スマホの音声入力と文章生成だけでも、かなり変わると思います」

ハルさんが熱を入れて話す姿を見てアキくんが笑う。
「でた。先輩の熱弁」
アキくんは二人を見ながら
「先輩。IT系だから、AIとか ICTとか効率化とかになるとすごく熱が入るんです」
みき先生とヨルが二人して笑った。

「……もしそれで、書類が減ったら」
小さく言う。

「子どもとちゃんと向き合える時間、増えますよね」
ハルさんは、はっきりうなずいた。

「そこが本来の仕事ですよね。ですが、そこが疎かで“子どものため”って言われても…
それにしてもなんでそんなに手書きが増えるんですかね」

少し間を置きみき先生が。
「昔からこうだからとか、行政がこうだから。ですかね」

誰もすぐには返さなかった。

店の奥では、誰かが笑っている。

ジョッキがぶつかる音。
焼き鳥の煙。
そんな日常の音の中で、
このテーブルだけが少し違う熱を持っていた。

ヨルが静かにグラスを持ち上げる。

「現場の怒りや現状を社会や保育者に知ってもらて、改善の起点になれれば、意味があります」

カチンとグラスの音が鳴った。
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