願いを叶える神様に会ったのは、小学生のころだった。正確には、あれが「神様」だったのかどうかも、今となってはあやしい。
けれど、あの夜のことだけは、今でも夢で見ている。静かな屋上、風のない夜、月がやけに青かった。
そして、白いシャツの袖をふわりと揺らした女の人——名前は、たしか「千弦」と言った。
彼女はたしかに笑って、こう言った。
「願いごと、あるんでしょ?」
あの夜のことを、誰にも話したことはない。
子どもの嘘だって思われるのが怖かったし、そもそも自分でも -あれが夢だったのか現実だったのか、いまだに判然としない。
でも、ふと思い出す瞬間がある。たとえば、夜道を一人で歩いているとき。星がやけに近く感じる日。誰かに本当の気持ちを伝えられなかった帰り道。
千弦。
君はあれから、どこで何をしていたんだろう。まだ、空のどこかで、誰かの願いを聞いているのかな。
1
「この席、いいですか?」
それが、優紀さんとちゃんと話した最初だった。
彼女は少し驚いたように顔を上げて、それから、ふっと笑った。
「うん、大丈夫だよ。どうぞ」
その笑顔を見て、何度もシミュレーションした言葉の全部が飛んでいった。
……実際には、何度も彼女の近くを通ってタイミングをうかがっていた。
いつも忙しそうで、いつも誰かに気を配っていて。
でも今日は珍しく、彼女はひとりでスープを飲んでいた。目の下には少しだけ影。ちょっと、疲れてるように見えた。
「佐久間くん、だよね」
「……はい、あ、悠です。佐久間悠」
「知ってるよ。仕事、丁寧だよね。メールもいつもきちんとしてるし」
そう言われて、ちょっと背筋が伸びた。食堂のざわめきの中で、あの時間だけは少しだけ静かだった。彼女の横顔を見ながら、思った。
この人のことをもっと知りたい。たぶんそれが、恋だった。
2
「スープ、好きなんですか?」
とっさに出た言葉に、自分でも(なんて間抜けな質問だ)と思った。優紀さんはスプーンを置いて、小さく笑った。
「うん、好き。っていうか……これしか食べる気力なかっただけ、かも」
「……疲れてるんですか?」
口に出してから、しまったと思った。そんなこと、軽々しく聞いていい相手じゃない。でも、優紀さんは少しだけ間を置いて、苦笑した。
「うん、まぁ……ちょっとだけ。バレてる?」
「はい。あ、いや、すみません、バレてるっていうか……」
「ふふ、冗談だよ。気づいてくれてありがとう、悠くん」
“悠くん”って呼ばれたのは初めてで、その音が胸に妙に残った。
「……なんか、あれですね」
「ん?」
「いつも優紀さん、誰かに声かけられてばっかりだから。静かに食べてるの、珍しいなって」
優紀さんは、少し目を細めた。
「あー……うん、そうかもね。誰かと一緒にいると、余計なこと考えなくて済むから」
「……余計なこと?」
「……って、やばい、やだ、重いこと言っちゃったかも」
「いえ……大丈夫です」
嘘じゃなかった。彼女の言葉に、ちょっとだけ自分を重ねていた。たぶん、どこか似てるのかもしれない。そう思ったら、少しだけ嬉しかった。
次の日もその次の日も彼女はスープを飲んでいる。
「それ、またスープですか?」
「うん、なんか最近、これがいちばん落ち着くんだよね」
食堂の隅のテーブルで、優紀さんは笑った。あれから数日。ふたりで昼をとるのは、これで三度目だった。こんなに自然に話せるようになるとは、正直思っていなかった。
「元々スープが好きなんですか?」
「あー、ううん。もともとはそうでもなかったかな。むしろ、ずっとコーヒーで済ませる派だった」
「へぇ」
「……でもさ。ある子が言ってたの、“スープは心に効く”って」
「へぇ……その子、優しいんですね」
「優しいっていうか、変わってたよ。ちょっと不思議な子だった」
「へぇ、どんな子だったんですか?」
「んー……白っぽい髪で、やけに大きいイヤリングつけてて、いつもどこ見てるかわかんないの。何考えてるのかも、たぶん誰も知らない。でも、気がつくと近くにいるんだよね。そういう子だった」
悠の手が、わずかに止まった。
「……名前、なんて言うんですか?」
「千弦。変な名前でしょ? 本名じゃないと思う」
スプーンの金属音が、ほんの少し大きく響いた気がした。
千弦——。
心臓が、ゆっくりと波打つ。あの夜の風景が、急に鮮明になる。願いごと。星の目。「君、まだ迷ってるね」って笑った声。
「悠くん?」
「……あ、いえ、なんでも」
呼吸を整えるふりをして、そっと天井を見上げた。空の向こうで、誰かがこちらを見ている気がした。
「……変わってたけど、優しかったよ。あの子」
優紀さんは、カップを持ち上げたまま、遠くを見るように言った。
「ただ、なんて言えばいいんだろうな……あの子の言葉って、たまに怖かったんだ」
悠は黙って聞いていた。
「“未来はね、ちょっと先にある”とか、“願いは叶えたら形が変わるよ”とか。……そんなことを、何でもない顔して言うの。まるで、本当にぜんぶ見えてるみたいに」
「……本当に、全部見えてたんじゃないですか?」
「——そうかもね」
そう言った優紀さんの目が、少しだけ寂しそうだった。
「あの子は、何かをくれるんだけど、その代わりに何かを持っていく気がしたの。たとえば、気持ちとか、言葉とか、忘れたくなかった思い出とか……。そういうのを、そっとどこかに隠していくみたいな」
その言葉に、悠の中でなにかが静かに軋んだ。
今、確信した。
あの夜、自分が会った“神様”と、優紀さんの話している“千弦”は、同じ存在だ。千弦は、ふたりの記憶の中で生きている。
だけど——それだけじゃない。あの目は、いまも空のどこかでこちらを見ている気がしてならない。
4
その日、仕事は早く終わった。
曇り空、蒸し暑い夏の夜。ビルの隙間を抜けて、ゆっくり歩く。風はない。
優紀さんの言葉が、何度も頭の中を回っていた。
「千弦」
忘れていたはずの名前だった。子どもの頃、星空の下で願いを訊かれた、あの人……神様なんて、あれきり見ていない。
でも、
優紀さんが話していた“白いシャツの不思議な子”が、千弦である確信はもう、疑いようがなかった。
「願いごと、あるんでしょ?」
幼い日の記憶の中の声が、今も耳の奥に残っている。そのときだった。
「悠」
静かな、でもどこか懐かしい声が、背後から届いた。心臓がひとつ跳ねた。
振り向くと、そこには——
白いシャツの女の子が立っていた。
シャツの袖はゆるく、指先には大ぶりな指輪。靴は少しだけ汚れたスニーカー。髪は銀色に近く、風もないのに揺れていた。
「久しぶり」
彼女は確かに笑った。名前を告げることなく、まるで時間がそのまま繋がっていたかのように。
「わたしのこと、覚えてたんだね」
悠は、言葉を失って立ち尽くしていた。
「……なんで」
「なにを訊きたいの? わたしが神様だってこと? それとも、どうして今、現れたのか?」
「……千弦」
名前を呼ぶと、千弦は少し目を細めた。
「ああ、それ。ずっと忘れないんだね。嬉しい」
空気がゆっくりと、音を失っていく。
「ずっと、様子見てたんだよ。あなたの、願いがどうなるのか」
「……願いなんて、もう——」
「そう言うと思った。でも、まだ残ってたよ」
千弦は、夜空のない曇り空を見上げた。
「それに、あの子にも会ったでしょ。優紀。……あの子が、呼んだんだよ、わたしを」
悠の心臓が、またひとつ、強く打った。
千弦はその音が聞こえているかのように、そっと笑った。
「……あの子が呼んだ、って……どういう意味だよ」
悠は気づかないふりをしていた心の動きを、もう誤魔化せなかった。
千弦は一歩、近づく。でも、音もなく。
「願いっていうのはね、口に出さなくても、こぼれるんだよ」
「……」
「誰にも見せたくない気持ちとか、言葉にできない寂しさとか。そういうの、わたしたちは見つけることができる」
悠は息をのんだ。
「優紀の中にはね、消えきらない“祈り”があった。誰にも言ってないのに、強くて、痛くて、きれいなやつ」
千弦の声は、風の代わりに鳴っていた。
「でも——」
「それは俺じゃ、届かなかったってことか」
思わず出た言葉に、千弦はふと表情をゆるめた。
「……違うよ。あなたの手が届くまでに、少し時間がかかってるだけ」
「じゃあ、お前はなんで来た」
「あなたにも、忘れてない願いがあったから」
悠は返せなかった。
願い。もう大人になった。
神様の存在なんて、ずっと“あれは夢だった”って決めつけていた。なのに、 今こうして目の前に千弦が立っている。
願いなんて、もう無い。そう思ってた。
でも。
「あのとき、あなたは“あの人が笑ってくれたら”って言ったんだよ」
悠の喉が鳴った。
「……」
「たぶん、今も変わってない。誰かの笑顔を、守りたいんでしょ?」
千弦の目は静かだった。人間の目じゃない。でも、確かに“悠”という人間を、まっすぐ見ていた。
「わたしは、神様だから」
「本当に?」
「——たまに嘘もつくけど」
その瞬間だけ、千弦は本当に“普通の女の子”みたいに笑った。悠はその笑顔が、思っていたよりもずっと懐かしかったことに気づいてしまった。
5
その夜、悠は眠れなかった。
優紀の笑顔と、千弦の言葉が、交互に胸の中で揺れ続けていた。
「あの子には、消えきらない祈りがあった」
それがどういう意味なのか、千弦は詳しくは言わなかった。
でも、その声は優しくて、悲しそうだった。
——優紀さんは、何を願ったんだ。
そして、千弦と、どんな時間を過ごしていたんだ。
「佐久間くん、今日……このあと、少しだけ散歩しない?」
仕事帰り、ふと優紀がそう言った。
空は薄く暮れて、街の灯りがにじみはじめていた。
「はい、いいですよ」
並んで歩く道。ふたりの足音がリズムを刻む。会話はゆっくりで、沈黙も自然だった。
しばらくして、ふと優紀がつぶやく。
「……わたし、千弦に助けられたことがあるの」
悠の足がわずかに止まる。
「それって……」
「昔の話。ほんとに誰にも言ったことない。……でも、いま、佐久間くんならいいかなって思った」
優紀の声は、どこか遠い場所にあるようだった。
「あのとき、どうしようもなくて。全部が嫌になって、誰にも言えなくて……」
「ひとりでいた場所に、千弦が現れたの」
「笑って、“ここはいい風が吹くね”なんて言ってさ。……そのとき、わたし、ちゃんと呼吸できたんだよ」
悠は、ただ黙って聞いていた。
優紀の横顔はとても静かで、どこか儚かった。
「だからね、きっとあの子は“神様”なんかじゃないの。……でも、わたしにとっては、あのときだけ、ほんとに救いだったんだ」
その言葉は、祈りというよりも、告白だった。
夜、再び千弦が現れる。
「あの子の中にある願いはね、まだ自分でも気づいてないんだよ」
「どういうことだ」
「痛い記憶とか、消したいものってね、奥に押し込めるでしょ。……でもそれ、ぜんぶ残ってる」
「優紀の中には、“もう一度信じたい”って気持ちがあるの」
「でもそれを叶えるには、何かを手放さなきゃいけない。……それが、今の彼女にはまだ難しい」
悠は黙った。
千弦は、ふっと笑った。
「あなたが、引っ張ってあげられるかもしれない。願いじゃなくて、“歩く力”でね」
6
仕事帰り、ふたりで立ち寄った小さな公園。 自販機で買った温かいココアを手に、優紀はぽつりとつぶやいた。
「ねえ、悠くん」
「はい」
「もし、誰かの痛みを自分が代われるなら……代わってあげたいって、思ったことある?」
「……あります」
答えは、即だった。
「そっか……」
優紀は少しだけ、笑った。
「わたし、ずっとそう思ってた。誰かの痛みを、自分が引き受けられたらいいのに、って」
「でも、できないよね。ほんとは」
彼女の声は、どこか壊れそうだった。
「助けられなかった友達がいたの。昔。……あのとき、もっと早く気づけてたら、何かできたのかなって、今でも考える」
悠は言葉をなくした。優紀の“優しさ”の根っこが、 その過去に繋がっていたことを初めて知った。
「……忘れられないんだ」
「うん。だから……もし神様がいるなら、って思ったの。
“その子の分までちゃんと笑えるようにして”って。 わたし、それが願いだったのかもしれない」
そう言って、優紀は空を見上げた。そこには星も月もなくて、ただ曇り空が広がっていた。
7
悠がひとり家路につく途中、ビルの影に千弦が立っていた。
「聞いたんだね、あの子の願い」
「あれが……本物か?」
「うん。でも、あれは“祈り”じゃなくて、“罰”のように抱えてる。
本当は、もう少しだけ楽になりたいのにね」
悠は静かに言う。
「……願いを叶える代わりに、代償があるって、本当なのか」
千弦はふと目を伏せ、そして静かに言った。
「そう。“心の重さ”を軽くするには、何か別の重さと引き換えになる」
「優紀の“罪悪感”を消すには、代わりに“ある記憶”を消さなきゃいけない」
「記憶……?」
「彼女にとって、とても大切な記憶。……たぶん、あなたとのものも含まれる」
悠の胸が、ぐっと締め付けられる。
「それって……そんなの、願いじゃない」
「じゃあ、どうする?」
千弦の声はやわらかかった。
「叶えないまま、彼女に苦しませるの? それとも、あなたが代わりに何か差し出す?」
悠は答えられなかった。千弦は小さく息をつき、続けた。
「……もうすぐ、彼女の“願い”は溢れちゃう。そうなったら、わたしは“選ばなきゃ”いけない」
「選ぶ?」
「うん。彼女の記憶か、それとも……」
千弦は悠の目をじっと見た。
「あなた自身、かもしれないね」
優紀の笑顔が、頭から離れなかった。ささやかなもの。細くて、少しぎこちなくて、それでも必死に“優しさ”を灯そうとする笑顔だった。
8
悠は千弦に会いに行った。前と同じ場所、街外れの小さな橋の上。夜風が吹いて、川面が静かにゆれていた。
千弦は、すでにそこにいた。まるで、来ることを知っていたみたいに。
「決めたの?」
「……あの人の願い、叶えてやってくれ」
千弦は微かに目を細めた。
「代わりに?」
「……俺を、差し出す」
その言葉は、すごく静かだった。風も、遠くの車の音も、何もかもが止まった気がした。千弦はしばらく黙っていた。そして、ぽつりと言う。
「優しいね、あなたは」
悠は俯いたまま、声をしぼり出す。
「優しいんじゃない。怖いだけだ。あの人が、あのままずっと、自分を責め続けるのが」
「だから、自分が消えてもいいの?」
「……俺が消えるんじゃない。記憶から、少しだけ、薄れるだけだろ。
それで、優紀さんが楽になるなら……それでいい」
「ほんとにそう思ってるの?」
「……」
千弦は一歩、悠に近づいた。そして、じっと目を見つめた。
「じゃあ訊くね。 あなたが差し出す“その時間”の中に、あなたが幸せだった瞬間はなかった?」
悠は、息をのんだ。思い浮かぶのは、 食堂で笑い合った日。飴を渡して、ありがとうと返された声、 公園で手渡された温かいココア。
たしかに、あった。幸せだった。
「……あるよ」
「なら、それを奪われる覚悟、本当にある?」
「……」
「あの人のために自分を差し出すことで、“自分も失う”ってこと、わたしは何度も見てきた。 願いを叶える代わりに、大事なものを落としていく人を。
——本当に、それでいいの?」
千弦の声は、ほんのすこしだけ、震えていた。
9
悠は返事ができなかった。頭ではもう決めたはずだった。
「あの人の笑顔を守りたい」
それは、本当に本心だ。でも、自分が見た笑顔は、自分の記憶じゃないと、残らない。その矛盾が、胸を刺す。
「……優紀さんの、あの笑顔を、誰が覚えてくれるんだ」
小さく、絞り出すように、そうつぶやいた。千弦は黙った。そして静かに、目を伏せた。
「答えは……急がなくていいよ」
「でも、あの子の願いは、もうすぐあふれる」
「止められるのは、たぶん——あなたしかいない」
10
雨が降っていた。 遅い時間に優紀の姿が見当たらず、連絡もつかない。不安が、胸を叩いた。そして、何かに導かれるように悠が向かったのは、彼女が「千弦に救われた」と語っていた、小さな河原の裏道だった。
傘をたたんで、濡れながら走る。薄暗い街灯の下、ベンチに座る影が見えた。
「……優紀さん!」
振り向いた彼女の頬に、雨と涙の区別はなかった。
11
「佐久間くん……ごめんね。こんなとこまで」
「いえ……連絡なかったから、心配で」
優紀は、少し笑った。
「優しいね。……やっぱり、千弦と似てる」
その名前を聞いた瞬間、悠の中で何かがきしんだ。優紀の目が伏せられる。
「わたし……あのとき、助けられて……。それでも、何もできなかった。 友達は、わたしが気づかないうちに、壊れてて。 本当はずっと、わたしを呼んでたのに」
声が震える。
「わたしが、その子だったらよかったのに。そしたら、苦しまずに済んだのにって、何度も思った」
「……そんなこと、ないです」
「……あるよ。だから、もう消してほしいんだ。ぜんぶ——わたしの、罪悪感も、記憶も」
悠の手が、わずかに震えた。
彼女の言葉が“願い”のかたちをとって、千弦を呼び出そうとしているのがわかった。
空気が、変わった。風もないのに、雨が一瞬止まったような感覚。悠は、彼女の肩に手を置いた。
「待ってください」
優紀は目を見開いた。
「願っちゃいけません。……あなたの中にあるその記憶、後悔も悲しみも、
ぜんぶ、あなたが生きてきた証なんです」
「それが、苦しいの」
「じゃあ俺が、支えます。あなたが苦しいときは、何度だって言ってください。 消さなくていいんです。俺が、一緒に持ちますから」
雨音が、ふたたび世界を包んだ。優紀は、堰を切ったように泣いた。悠のシャツはびしょ濡れだったけど、彼はそのまま、彼女の肩をそっと抱いた。
12
雨の影に立って、千弦はその光景を見ていた。笑っていた。けれどその笑みは、どこかさびしげだった。
「……叶わなかったね。願い」
でも、それでよかったのかもしれない。
人が、誰かと“生きて”寄り添うことが、願いの答えになるのなら——
わたしはもう、
“奇跡”じゃなくて、ただの見届け人でいい。
夏がゆっくりと終わりかけていた。あの雨の日から数週間。
優紀と悠は、ふつうに出勤し、ふつうに言葉を交わし、でも“ふつうじゃない何か”が確かに心の奥に灯っていた。
あの日のことを、お互いに深くは語らなかった。 けれど、雨音の記憶と、静かに交わした言葉は、どんな会話よりも強く残っていた。
「あのとき、傘を忘れてよかったかもしれないね」
優紀がふとそう言って笑うと、悠もつられて少し笑った。
二人で帰り道を歩いていた途中、いつもは通らない道を選んだ。
公園の奥、古い噴水。子どもたちの遊ぶ声が遠くに残って、空は茜に染まりかけていた。
そのとき、ふと——悠が立ち止まる。ベンチの端、見慣れた後ろ姿が見えた気がした。白いシャツ。少し風にゆれる、銀に近い髪。
けれど、まばたきした瞬間、その姿はもうなかった。優紀も気づいていたのか、そっとつぶやいた。
「……ねえ、悠くん」
「はい」
「千弦って、本当に神様だったのかな」
悠は少しだけ笑って言った。
「さあ……。ただ、“誰かの願い”に耳を傾けてくれる、不思議な人だったんじゃないですかね」
「……そうかもね」
月の出ていない夜。静かな丘の上で、ひとりの少女が座っていた。シャツの袖をまくって、星のない空を見上げながらつぶやく。
「叶わなかった願いは、きっとどこかで、形を変えて残っていくんだよわたしがいなくても、ちゃんと人は進んでいけるって、今日は証明されたから——
……だからもう少し、違う理由でここにいたいな。願いを叶えるんじゃなくて、ただ、そばにいるために」
微笑みながら立ち上がる。その足元には、折りたたんだような時間の隙間。
一歩踏み出せば、きっとまた、誰かの人生と交わる場所がある。
——星が見えなくても、あの夜、願いは確かにここにあった。