だけど最近、ふと気づいたことがある。
「信じている」という言葉に、嫌悪感や恐怖、命令や支配、悲しさ、惨めさ、懇願……。あらゆるネガティブを感じていたのは、私自身の心のフィルターのせいだったのかもしれない。
その反対側にあるはずの、純粋な「尊敬」や「愛」、そして「尊重」としての『信じている』を、私はすっかり忘れてしまっていた。
いや……忘れていたというより、見ないようにしていたのかもしれない。
カウンセラーという仕事は、相手を尊重して、信じて待つ姿勢が何より大切だ。
そんなことは、百も承知のつもりだった。
だけど、本当の意味でそれができていただろうか?
私の持つ「信じる=支配する・される」という古い観念が、どこかで邪魔をしていなかっただろうか?
「相手を尊重したい、信じたい」と思いつつも、もしかしたら、心の深いところではできていなかったのかもしれない。そんな風に思い始めた。
そして、その実、一番「信じること」に恐怖を感じていた私は、自分自身のことを、誰よりも信じてあげられていなかったのかもしれない。
だってさ、「自分を信じる」って、もの凄く自己肯定感が高くて、自分軸がしっかりできていて、いつも自分に100点満点のOKを出せている状態のことでしょ? なんて。
――出た出た、自分スパルタ教育。
……そう思い込んで、私は自分自身に対しても、「完璧でいろ、信じさせてみろ」って脅迫していたのかもしれない。
かと言って、今でもやっぱり「信じてる」って言葉は、手放しで好きにはなれない。
だけど、今の私はこう思う。
どんな自分でも、どんな相手でも。
たとえ、信じられないような失敗をしちゃったとしても。
「それでも、あなたはそれでも大丈夫だよ」
私が本当に伝えたかったのは「信じてるよ」っていう言葉じゃなくて。
「信じられないようなことをしちゃったかもしれないけれど、それでもあなたも私も大丈夫だよ」
って、そんな気持ち、言葉なんだと思った。
ね、大丈夫だよ。
あなたも私も。
きっと大丈夫。