こんにちは、泉恵舟です。
「肚が整うと、人生が整う」
そう信じて、古心術をお伝えしています。
今日は、禅の「只管打坐(しかんたざ)」という言葉についてお話ししたいと思います。
只管打坐。
読み方は「しかんたざ」。
意味は、ただ坐ること。それだけ。
鎌倉時代の禅僧、道元(どうげん)が大切にした言葉です。
「ただ坐るだけ?それで何になるの?」
そう思う方もいるかもしれません。
でも、この「ただ坐る」の中に、とても深いことが込められています。
只管打坐は、何かを得るために坐るのではありません。悟りを目指して坐るのでもありません。
ただ坐ることが、すでに修行の完成だという教えです。
私たちは普段、何かをするとき、必ず目的を持ちます。
運動するのは、健康のため。
瞑想するのは、ストレス解消のため。
勉強するのは、成長するため。
引き寄せを実践するのも、願いを叶えるためです。
すべての行為に、「〜のため」がついています。
でも只管打坐は、その「〜のため」を手放すことを教えています。
ただ坐る。ただ在る。
その状態そのものが、すでに完成しているのだと。
これは、怠けることとは違います。
「〜のため」を手放すのは、目標を持つなということではありません。
今この瞬間の行為に、ただ完全に在るということです。
坐っているとき、坐ることだけに在る。
息を吐くとき、吐くことだけに在る。
誰かと話すとき、その人との会話だけに在る。
「今ここ」にただ在ること。
それが、只管打坐の本義です。
現代人は、「ただ在る」ことが本当に苦手です。
食事をしながらスマホを見ます。
歩きながらイヤホンで音楽を聴きます。
誰かと話しながら、次に自分が言うことを考えます。
常に、今ここから意識が浮いています。
この「浮き」が、じわじわと疲れを生んでいます。
肚が据わっていない状態とは、まさにこの「浮き」のことです。
古心術の密息も、只管打坐と同じ感覚を持っています。
息を吐くとき、吐くことだけを感じます。
息を吸うとき、吸うことだけを感じます。
お腹の張り出しを、ただ感じ続けます。
「上手く呼吸しよう」とする必要はありません。
「何かを変えよう」とする必要もありません。
ただ、今この呼吸に在るだけ。
それだけで、肚は少しずつ整っていきます。
今日、一度だけ試してみてください。
椅子に座ったままでも構いません。
ただ、1分間だけ。
何も考えようとしなくていいのです。
何も変えようとしなくていいのです。
お腹を軽く張り出したまま、ゆっくりと息を吐く。
吐いたら、静かに止まる。
鼻から一気に吸う。
ただそれだけを、繰り返してみてください。
只管打坐ならぬ、只管密息(しかんみっそく)です。
坐ることに、何かを期待しなくていいのです。
ただ在ることが、すでに完成しています。
泉恵舟@人生の調律師