青の教室/陽子 第12話(3月25日) ――一回りの陽子――
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学び
第12話(3月25日)
――一回りの陽子――
青の教室の午後は、
春の光がやわらかく差し込んでいた。
陽子は扉を開けると、
「こんにちは」とだけ言い、
すぐに自分の席へ向かった。
その短さは、
胸の奥に“やりたい”がある証でもあり、
同時に、
胸の奥に“揺れ”がある証でもあった。
カバンから、
昨日も大切に扱っていた課題表を取り出す。
(今日は……ここをやろう)
そう思って鉛筆を持つ。
けれど、ページを開いた瞬間、
胸の奥で影がふっと揺れた。
(……できるかな)
陽子は小さく息を吸い、
鉛筆を動かし始めた。
最初の数分は進む。
でも、
ふとした瞬間に手が止まる。
(あれ……なんで止まったんだろう)
理由がわからないまま、
胸の奥が少しだけ重くなる。
陽子は、
自分を責めないようにしながら、
もう一度鉛筆を動かした。
それでも、
また止まる。
(……自分で決めて、やるんだよね)
小さく、誰にも聞こえない声でつぶやく。
その言葉は、
陽子自身をそっと支えるための
細い糸のようだった。
***
しばらくして、
友彦が静かに声をかけた。
「陽子。がんばったね」
陽子は顔を上げる。
その一言が、
胸の奥にすっと染みた。
「今日はこれでいいから、景色を変えてごらん」
「……景色?」
「そう。他のことをやってみるのがいい。
お散歩でも、昼寝でも、絵を描くでも」
その言葉で、陽子は思い出した。
(女の子をかこう……)
胸の奥で、
小さな灯りがふっとともる。
***
陽子はスケッチブックを開き、
女の子のイラストを描き始めた。
描き始めた瞬間、
陽子の表情が変わる。
線が軽くなる。
呼吸が深くなる。
迷いが消える。
まるで水を得た魚のように、
陽子は自由に、のびのびと描き進めた。
影は、
この時間だけは近づけなかった。
描き終えるころには、
胸の奥の重さがすっと薄くなっていた。
陽子はタイマーを手に取り、
20分の休憩をセットした。
休憩のあと、
今度は“自分勉強”のノートを開く。
ときどき友彦と短く言葉を交わしながら、
陽子は自分のリズムで進んでいく。
影がちらりとする瞬間もある。
でも陽子は、
そのたびに
“自分の場所”へ戻ることができるようになっていた。
***
ひと通り終えた陽子に、
友彦が静かに言った。
「一回りの感じ。
一回りできたね、陽子」
陽子はタイマーを手に取り、
胸の奥でそっと思う。
(少し休んでから……
もう一回りしてみよう)
その思いは、
昨日よりも確かで、
昨日よりも軽かった。
影はまだある。
でも、
影の向こうに
小さな光がひとつ見えた。
***
青の教室の別の席では、
陽翔とひかりが並んでいた。
陽翔は算数のプリントを
「よし、もう一枚やる!」と笑いながら進め、
ひかりは横で
「じゃあわたしも!」と元気に続く。
二人のまわりには、
影の気配がまったくなかった。
その光は、
陽子の席までほんの少しだけ届いていた。
***
友彦はふと、
昨夜の美咲からの電話を思い出した。
美咲は言った。
「陽子の時間を奪ってはいけないと思うようになりました。
陽子のリズムを乱してはいけない。
陽子の色を濁らせてもいけない。
……私のやり方、これでいいでしょうか」
友彦は静かに答えた。
「お母さん、考え方はそれでいいです。
陽子自身が試行錯誤しながら時間を積み重ねる過程が必要です。
粘土のかたまりからビー球を取り出すようには……
そういうふうにはいかないんです」
美咲は短く「はい」と答えた。
そして美咲は言った。
「陽翔と、ひかりちゃんには……影がないんです。
あの子たちは、ただ前に進むだけで……」
友彦はその言葉を胸にしまった。
陽子の影。
陽翔とひかりの光。
同じ青の教室にいても、
それぞれの色はまったく違う。
***
陽子は、
自分のペースで、
自分の思いで、
一回りを終えた。
そして今日、
陽子の色は――
昨日より少しだけ、
自分の形を持ち始めていた。
影と光のあいだで、
陽子は確かに前へ進んでいた。