青の教室/陽子 第9話(3月20日) ――課題表と“思い”のあいだで――
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学び
第9話(3月20日)
――課題表と“思い”のゆれ――
青の教室の午後は、
いつものように静かで、
でもどこか春の匂いが混ざっていた。
陽子は席に座ると、
カバンの中からそっと一枚の紙を取り出した。
美咲が作ってくれた課題表。
昨日から、胸の奥でずっと気になっていたものだ。
色ペンで書かれた文字。
「相談しながら決めようね」というメモ。
紙の端が、ほんの少し丸くなっている。
陽子は、指先でその紙をなぞった。
――大事にしよう。
ちゃんとやろう。
そう思うと、胸の奥が少しだけきゅっとした。
***
最初の1時間は、
課題表の通りに進んだ。
英語のページを開き、
数学の問題を解き、
漢字の練習をして。
でも、2時間目に入るころ、
陽子の手は止まった。
(……あれ?)
チェック欄は、まだ空白のまま。
ページは進んでいるのに、
“できている”感じがしない。
胸の奥が、すうっと冷たくなった。
(どうしよう……
お母さん、せっかく作ってくれたのに……
私、ちゃんとできてない……)
気づけば、
課題表を握る手に力が入りすぎて、
紙が少し折れてしまっていた。
陽子は、机に突っ伏した。
その瞬間、
ふっと昨日のリズムが頭に浮かんだ。
タッタタタッタ。
ひかりの「タタタッタタンタ」。
陽斗の「タタンぽんぽん」。
あの自由な音。
そして、
あおいやりょうの、
あの“光っていた背中”。
――あの子たち、
課題表なんて持ってなかったのに。
その思いが胸に浮かんだ瞬間、
陽子の影が、すっと揺れた。
***
少し離れた席で、
友彦はパソコンを触りながら
陽子の様子を見ていた。
突っ伏した肩。
握りしめた課題表。
動かない鉛筆。
友彦は、そっと席を立ち、
陽子の机の横にしゃがんだ。
「陽子」
陽子は顔を上げられなかった。
「……できてないの」
その声は、
紙よりも薄く、弱かった。
友彦は、課題表を指で軽く叩いた。
「これね。
“全部やるための紙”じゃないよ」
陽子は、ゆっくり顔を上げた。
「……え?」
「陽子が“選ぶための紙”なんだよ。
どれをやるか、どれをやらないか。
それを決めるのは陽子だよ」
陽子は、目を瞬いた。
「でも……お母さんが……」
「うん。
お母さんは“相談しながら”って書いてる」
友彦は、課題表の端を指さした。
「陽子が全部やる必要はない。
陽子が“やりたい”と思ったところだけでいいんだよ」
陽子の胸の奥が、
ふっと軽くなった。
(……私が、決めていいんだ)
友彦は続けた。
「課題表のお勉強と、
陽子の“自分勉強”は、
別のものなんだよ」
「……別のもの?」
「うん。
課題表は“道しるべ”。
自分勉強は“陽子のリズム”。
両方あっていいし、
どっちを先にしてもいい」
その言葉を聞いた瞬間、
陽子の頭にまたリズムが浮かんだ。
タッタタタッタ。
――続きが自由なら、
始まりだって自由。
陽子は、課題表を見つめた。
さっきまで重く見えていた紙が、
少しだけ軽く見えた。
「……じゃあ、
今日は……ここだけやろうかな」
陽子は、課題表の一行を指さした。
「それでいいよ」
友彦は、にこりと笑った。
「陽子が決めたなら、それが正しい」
短い会話だった。
でも、その短さが、
陽子の“思い”をそっと揺らした。
***
陽子は背を伸ばして、
課題表の一行だけに印をつけた。
そして、
自分勉強のノートを開いた。
――メリハリ。
私が決めていい。
陽子は、
自分の“思い”の輪郭が
ほんの少しだけはっきりするのを感じた。
影はまだある。
でも、
その影の向こうに、
小さな光が確かにあった。