青の教室/陽子 第8話(3月19日) ――合格の朝、影が少し揺れた――
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第8話(3月19日)
――合格の朝、影が少し揺れた――
10時過ぎ。青の教室の電話が鳴った。
今日はあおいとりょうとよしみの合格発表の日だ。
その一音が鳴った瞬間、
友彦には“合格”だと分かった。
不合格なら、この時間にはかけてこない。
子どもたちは、そういうときだけ妙に正直だ。
受話器を取る。
「はい、青の教室です」
少し息の上ずった声が飛び込んできた。
「先生。
グローバルの方に合格しました!」
中村りょうだった。
「お!」
短い声だったが、
そこに、この1年の全部が詰まっていた。
「ありがとうございました……!」
りょうの声は震えていた。
グローバル――
箕面高校でも上位のクラス。
りょうがずっと目指してきた場所だ。
喜びの会話のあと、
友彦は、ふっと声を落とした。
「りょう。覚えてるか?
3年5月の模試。英語も数学も……38だったの」
「……はい」
偏差値38。
あのときのりょうは、
自分の未来を信じられずにいた。
「よかったなあ、りょう。
自分でやったからだぞ」
「……判ります」
二人の声は、どちらも上ずっていた。
その上ずりが、なんだか可笑しくて、
そして、とても美しかった。
***
10時15分。
遅い。
あおいの家から連絡がない。
友彦は、しびれを切らして
佐伯あおいの母の携帯に電話をかけた。
「もしもし!」
出たのは、あおい本人だった。
「合格しました!」
声が、いつもの2オクターブは高い。
「ウェブがなかなかつながらなくて……
今、出たところです!」
「先生、見てたんですか?
ドンピシャ。ほんとに今出たところなんです!」
喜びの声が、
電話越しに弾けていた。
ひとしきり喜び合ったあと、
友彦は言った。
「あおい。
桜塚は夏、E判定だったの覚えてるか?」
「……覚えてます!」
声が震えていた。
あの夏、あおいは泣きながら帰った。
でも、次の日にはまた来た。
***
青木よしみも合格した。
これで今年は、全員合格だ。
友彦は、しばらく教室の真ん中に立ち、
静かに息をついた。
――今年も、子どもたちが自分の色を取り戻した。
そのことが、何より嬉しかった。
***
昼過ぎ。
陽子が青の教室にやってきた。
「こんにちは」
その声は、昨日より少しだけ軽かった。
「りょうも、あおいも、よしみも……
全員、合格したよ」
陽子は、ぱっと顔を明るくした。
「ほんとに!?
……すごい。
すごいなあ……!」
陽子は、青の教室に通い始めたときから、
3年生たちの姿をずっと見てきた。
休む日もあった。
落ち込む日もあった。
でも、次の日にはまた来て、
自分のペースで積み重ねていく姿を。
“やらされて”ではなく、
“やりたい”で動いている背中を。
だからこそ、
心の底から喜べた。
そして――
ふっと、胸の奥に小さな風が吹いた。
「……私も、できるかなあ。
もしかしたら……できるかも」
陽子は、照れくさそうに笑って言った。
「だって私……
昼寝できるようになったんだから」
友彦は、少し笑って言った。
「うん。
陽子なら、できるよ」
陽子は、
その言葉を胸の奥でそっと受け止めた。
そして、
それ以上何も言わずに席へ向かった。
友彦も、
それ以上何も言わなかった。
――短い会話。
でも、その“短さ”が、
陽子の胸に深く残った。
まるで、
静かな水面に落ちた小石のように。
***
陽子は席に座ると、
カバンの中から、
母・美咲が作った課題表をそっと取り出した。
色ペンで丁寧に書かれた文字。
「相談しながら決めようね」と添えられた小さなメモ。
陽子は、その紙を
まるで宝物のように両手で持ち、
じっと見つめた。
――お母さん、こんなの作ってくれたんだ。
胸の奥が、
じんわりと温かくなる。
陽子は、課題表を机の上に置き、
真剣な目で読み込んだ。
ページをめくる音の代わりに、
紙の端をそっとなぞる音が
青の教室に静かに響いた。
――私にも、できるかもしれない。
その思いは、
まだ小さくて、
影に揺れそうだったけれど。
確かに、そこにあった。