青の教室/陽子 第7話(3月18日) ――静かに動き出す“自分のリズム”――
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第7話(3月18日)
――静かに動き出す“自分のリズム”――
朝の空気は、昨日よりも少しだけ軽かった。
陽子は、その軽さに背中を押されるようにして、
スッと青の教室のドアを開けた。
「おはようございます」
その声は、ほんの少しだけ明るかった。
友彦は、少し離れた席から
そっと目を上げて陽子を見た。
――今日は、いい入り方だ。
陽子は席に座ると、
カバンの中から自然と数学のワークを取り出した。
「今日はこれからやろう」
誰に言うでもなく、
自分に向けてつぶやくように。
その姿に、友彦は何も言わなかった。
言葉をかけるより、
この“自分で始めた”という事実を
そっと守る方がいい。
陽子は、黙々と数学を進めた。
ページをめくる音だけが、
静かな教室に小さく響く。
気づけば、2時間が経っていた。
「……つかれた」
陽子は、机に突っ伏した。
でも、その疲れは
“やらされて”感じる疲れではなかった。
(そうか。こういうときは……
タイマーをかけて、自分で休憩すればいいんだ)
昨日の“タッタタタッタ”の授業が、
ふっと頭に浮かんだ。
――続きが自由なら、
始まりだって自由。
休むタイミングだって、
自分で決めていい。
陽子は、そっとタイマーをセットした。
***
その頃、友彦は自分の机で
パソコンを触っていた。
ポン、と軽い音が鳴った。
LINEの通知だ。
画面には、美咲からのメッセージ。
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こんにちは。
陽子の勉強のことで、思うことがありまして。
私、ちょっと陽子に課題を出してみようと思うんです。
もちろん陽子と相談しながら。
その課題を青の教室でしていただくわけにはいきませんか?
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友彦は、メッセージを読み終えると
すぐにイメージが浮かんだ。
――美咲さん、変わってきている。
以前の美咲なら、
“課題”は管理の道具だった。
でも今は違う。
陽子と相談しながら、と書いてある。
これは、
“陽子のリズムを尊重する”という意味だ。
友彦は、すぐに返信した。
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ご連絡ありがとうございます。
お母様が陽子さんを「占領」するおつもりがないという点だけ、
そのお気持ちだけ確認させてください。
むしろ「課題」を私が応援の立場に回ることで、
陽子さんの「影」を解消する手立てになる可能性があります。
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送信ボタンを押したあと、
友彦はふっと息をついた。
机の上で突っ伏している陽子が見える。
――いい流れが来そうだな。
陽子の“はじまり”と、
美咲の“変化”が、
ゆっくりと同じ方向へ動き始めている。
***
夜。
陽子が帰ったあと、
友彦は美咲に電話をかけた。
「こんばんは。
LINE、拝見しました」
美咲の声は、少し緊張していた。
「……あの、課題のことなんですが」
友彦は、ゆっくりと言葉を選んだ。
「お母さん。
陽子さんに“課題”を出すこと自体は、
とても良いと思います」
「……そう、なんですか?」
「はい。
ただし、“管理”ではなく、
陽子さんの“はじまり”を支えるための課題なら、です」
電話の向こうで、
美咲が息をのむ気配がした。
「陽子さんは、
自分で始めたことを続ける力を持っています。
今日も、数学を2時間、自分で進めていました」
「……そんなに」
「ええ。
だから、課題は“押しつける”のではなく、
陽子さんが“自分で選べる形”にしてあげてください。
私は、その選んだ課題を応援します」
美咲は、しばらく黙っていた。
その沈黙は、昨日までのものとは違った。
やがて、
震えるような、でも温かい声が返ってきた。
「……先生。
私、やっと分かった気がします。
こうすればよかったんですね」
友彦は、静かにうなずいた。
「はい。
陽子さんのリズムを、
陽子さん自身に返してあげるんです」
美咲は、深く息を吸った。
「青の教室を……
先生を……
信じてみようと思います」
その声は、
まるで胸の奥に光が差し込んだように
明るかった。
***
電話を切ったあと、
友彦は窓の外を見た。
夜の空気は冷たいのに、
胸の奥は不思議と温かかった。
陽子の“はじまり”。
美咲の“変化”。
二つのリズムが、
静かに、しかし確実に
同じ方向へ進み始めていた。