青の教室 蒼真の15 第6章 走れない日
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第6章 走れない日
九月の終わり。
夕方の風は、夏の名残をほんの少しだけ抱えながら、
それでも確かに秋へ向かっていた。
蒼真は、クラブチームの練習場で立ち尽くしていた。
(……なんでだよ)
足が、動かない。
頭では分かっているのに、
身体がついてこない。
監督の声が飛ぶ。
「蒼真! もっと前に出ろ!
お前なら行けるやろ!」
(行けないんだよ……)
蓮は、軽やかに走っていた。
ボールを受け、
一瞬で相手をかわし、
ゴールへ向かう。
(なんで……あいつは迷わないんだ)
蒼真は、
胸の奥がぎゅっと縮むのを感じた。
(俺だって……ずっとやってきたのに)
小学生の頃から、
蓮と同じチームで走ってきた。
でも、
蓮はいつも一歩先を走っていた。
(追いつけない……)
その事実が、
胸の奥に重く沈んだ。
***
練習後。
蒼真は、ベンチに座り込んでいた。
汗が冷え、
身体が重い。
蓮が近づいてきた。
「蒼真、今日どうしたん?
なんか動き固かったで」
「……別に」
「別にって顔ちゃうやん」
蓮は、
蒼真の“影”を見抜いていた。
「お前、最近英語も伸びてきたし、
サッカーも絶対上がるって」
「……蓮には分からんよ」
その言葉は、
思っていたより強く出てしまった。
蓮は少し驚いた顔をしたが、
すぐに静かにうなずいた。
「そっか。
まあ……無理に話さんでええけど」
蓮はそれ以上何も言わず、
静かに離れていった。
(……悪いこと言ったな)
でも、
謝る気力もなかった。
***
家に帰ると、
母が待っていた。
「今日の練習、どうだったの?」
「……普通」
「普通って何よ。
蓮くんは関学を目指してがんばってるのに、
あなたは――」
「蓮の話すんなよ!」
声が、
勝手に大きくなった。
母は驚き、
そして眉をひそめた。
「どうしてそんな言い方するの。
あなたのためを思って言ってるのに」
(俺のため……?)
胸の奥が、
ぎゅっと痛んだ。
「……もういい」
蒼真は、
自分の部屋に閉じこもった。
(なんで……全部うまくいかないんだよ)
英語は少し伸びた。
でも、サッカーは落ちている。
蓮は順調に進んでいる。
母は相変わらず重い。
(俺……何してんだろ)
胸の奥の影が、
静かに濃くなっていった。
***
翌日。
青の教室に入ると、
紗月がすぐに気づいた。
「蒼真くん……今日、ちょっと苦しそう」
「……別に」
「ううん。
“走れない日”の顔してる」
蒼真は、
胸の奥がふっと揺れるのを感じた。
(走れない日……)
紗月は、
蒼真の影を“責めずに”見ていた。
「ねえ、少し外に出ない?」
紗月は、
教室の外のベンチへ蒼真を連れ出した。
風が、
静かに吹いていた。
「蒼真くん。
走れない日ってね……
悪い日じゃないんだよ」
「……悪いだろ」
「ううん。
走れない日があるから、
走れる日が分かるんだよ」
蒼真は、
胸の奥がじんわり温かくなるのを感じた。
「昨日ね、
蒼真くん、蓮くんにちょっと強く言ったでしょ?」
「……見てたの?」
「うん。
でもね、
あれは“弱さ”じゃなくて、
“揺れ”なんだよ」
「揺れ……?」
「うん。
揺れるってことは、
ちゃんと進んでるってこと」
紗月の声は、
秋の風みたいに静かだった。
「蒼真くんは、
蒼真くんの速さで走ればいいんだよ」
その言葉は、
胸の奥にすっと落ちた。
(俺の……速さ)
蓮の速さじゃない。
母の期待の速さでもない。
自分の速さ。
(そんなもの……あったのかな)
でも、
紗月の言葉は嘘じゃない気がした。
***
教室に戻ると、
友彦が静かに言った。
「蒼真。
今日は英語じゃなくて……
“心の整理”をしようか」
「……心の整理?」
「うん。
走れない日には、
走れない理由があるからね」
蒼真は、
胸の奥がふっと軽くなるのを感じた。
(走れない理由……)
それを知ることが、
“走り出す準備”なのかもしれない。
***
帰り道。
夕暮れの空は、
淡い紫色に染まっていた。
紗月が、
少し後ろを歩いていた。
「蒼真くん」
呼ばれて振り返ると、
紗月は静かに微笑んだ。
「今日は……
ちゃんと“止まれた”ね」
「止まれた……?」
「うん。
止まれる人は、
また走れるよ」
蒼真は、
胸の奥がじんわり温かくなるのを感じた。
(止まる……走る……
俺にも、できるのかな)
風が頬を撫でた。
(俺の15歳……
まだ終わってない)
夕暮れの空が、
静かにひらいていくように見えた。