第1章 冬休みの入口
中学二年の冬休みの初日、
蒼真(そうま)は、吐く息の白さを見つめながら歩いていた。
空は薄い灰色で、
雪が降るか降らないかの境目のような、
静かな冷たさを含んでいる。
(……行きたくない)
青の教室へ向かう足は、
重く、ゆっくりだった。
母に背中を押されるようにして申し込んだ冬期講習。
「受験生になるんだから、冬休みから始めないと」
そう言われたとき、胸の奥がぎゅっと縮んだ。
勉強が嫌いなわけではない。
数学はむしろ好きだった。
数字が並ぶと、頭の中で静かに形が浮かぶ。
解けたときの“カチッ”という感覚が気持ちよかった。
でも――英語だけは、どうしても無理だった。
アルファベットが並ぶと、
胸の奥がざわざわして、
息が浅くなる。
(なんで、こんなに嫌なんだろう)
自分でも分からない。
ただ、英語の教科書を開くと、
頭の中が真っ白になる。
そんな自分を、母は許さなかった。
「英語ができないと高校に行けないでしょ」
「サッカーばっかりしてるからよ」
「蓮くんはちゃんと両立してるじゃない」
蓮――
同じクラブチームの仲間で、
小学生の頃からずっと中心選手だった。
勉強も、そこそこできる。
サッカーは言うまでもない。
走れば速いし、蹴れば強い。
試合になれば、自然とボールが集まる。
(蓮には……勝てない)
その事実が、
蒼真の胸にずっと刺さっていた。
***
青の教室のドアを開けると、
暖房の温かさと、
どこか懐かしい紙の匂いが混ざった空気が流れてきた。
「こんにちは、蒼真」
友彦が、
静かに、しかし確かに微笑んだ。
その笑顔は、
学校の先生とも、
クラブチームの監督とも違う。
“見ている”というより、
“受け止めている”ような目。
蒼真は、少しだけ肩の力が抜けた。
「……こんにちは」
声は小さかったが、
友彦はそれで十分だと言うようにうなずいた。
「今日は、数学から始めようか。
英語は……後でいい」
その言葉に、
蒼真の胸がふっと軽くなった。
(後でいい……)
母なら絶対に言わない言葉。
「はい」
席に座ると、
机の木目がやけに落ち着く。
冬休みの初日なのに、
教室にはもう一人、
静かにノートを開いている子がいた。
紗月(さつき)。
一つ年下の女の子。
小柄で、
髪は肩にかかるくらいの長さ。
目は大きく、
いつも静かに周りを見ている。
蒼真が入ってきたとき、
紗月はほんの少しだけ顔を上げ、
小さく会釈した。
(……知ってる子だ)
学校でも何度か見かけたことがある。
クラブチームの試合を見に来ていたこともあった。
でも、話したことはない。
紗月は、
蒼真のことを“観察するように”見ていた。
その視線は、
嫌な感じではなく、
むしろ“気づいている”ような優しさがあった。
***
数学のプリントは、
思ったよりもスラスラ解けた。
「いいね。
蒼真は、考えるスピードが速い」
友彦が、
静かに言った。
褒められたというより、
“事実を確認された”ような声。
蒼真は、
胸の奥がじんわり温かくなるのを感じた。
(数学は……好きだ)
でも、
その温かさは長く続かなかった。
「じゃあ、英語は……これをやってみようか」
友彦が差し出したのは、
見たことのないプリントだった。
アルファベットが並んでいる。
でも、
教科書よりもずっと少ない。
短い。
読みやすい。
「これは、蒼真専用。
“英語アレルギー用プリント”だよ」
友彦が冗談めかして言うと、
紗月が小さく笑った。
蒼真は、
胸の奥が少しだけ軽くなるのを感じた。
(……やってみよう)
プリントを開くと、
一番上にこう書かれていた。
英語は、読む前に“息”をする。
蒼真は、
思わず息を吸った。
(息……)
プリントの下には、
短い単語が三つだけ並んでいた。
cat
run
blue
(……読める)
胸の奥のざわざわが、
少しだけ静かになった。
「できるよ、蒼真」
友彦の声は、
冬の空気を溶かすように柔らかかった。
***
帰り道、
蒼真は空を見上げた。
灰色の空は、
相変わらず重かった。
でも、
胸の奥の重さは、
少しだけ軽くなっていた。
(……やれるかもしれない)
英語も。
受験も。
自分の未来も。
そんな気が、
ほんの少しだけした。
紗月が、
少し後ろを歩いていた。
「蒼真くん」
呼ばれて振り返ると、
紗月は、
冬の空の下で静かに微笑んだ。
「今日、がんばってたね」
その言葉は、
胸の奥にすっと染み込んだ。
(……見てたんだ)
蒼真は、
小さくうなずいた。
「ありがとう」
その一言が、
冬休みの空に静かに溶けていった。