第2章 横文字の壁
冬休みの三日目。
空は薄い青に変わり、
冷たい風が頬を刺すように吹いていた。
蒼真は、青の教室へ向かう道を歩きながら、
胸の奥に小さなざわめきを感じていた。
(今日は……英語、やるんだよな)
昨日、友彦が作ってくれた“英語アレルギー用プリント”は、
思ったよりも読みやすかった。
でも、あれは“最初の一歩”にすぎない。
次の一歩を踏み出すのが、
怖かった。
(また、頭が真っ白になったらどうしよう)
そんな不安が、
胸の奥で静かに渦を巻いていた。
***
青の教室のドアを開けると、
暖かい空気と、
紙の匂いが迎えてくれた。
「おはよう、蒼真」
友彦が、
いつもの静かな声で言った。
その声を聞くと、
胸のざわめきが少しだけ落ち着く。
「おはようございます」
席に座ると、
紗月がすでにノートを開いていた。
「蒼真くん、今日も来たんだね」
紗月は、
昨日より少しだけ柔らかい笑顔を見せた。
「うん……まあ、ね」
蒼真は、
照れくさくて視線をそらした。
紗月は、
蒼真の“揺れ”を見抜いているようだった。
***
数学のプリントを終えると、
友彦が静かに言った。
「じゃあ、英語に行こうか」
その瞬間、
胸の奥がぎゅっと縮んだ。
(来た……)
逃げたい気持ちと、
向き合いたい気持ちが、
胸の中でぶつかり合う。
友彦は、
蒼真の表情を見て、
少しだけ目を細めた。
「大丈夫。
今日は“読む”じゃなくて、
“感じる”ところから始めよう」
「……感じる?」
「うん。
英語はね、
“音”から入ると楽になることがあるんだ」
友彦は、
机の上に新しいプリントを置いた。
昨日よりもさらに短い。
単語が三つだけ。
sun
run
one
「これ、読める?」
蒼真は、
胸の奥がざわつくのを感じながら、
ゆっくり口を開いた。
「……さん、らん、わん……?」
「そう。
正解」
友彦は、
大げさに褒めるわけでもなく、
ただ静かにうなずいた。
そのうなずきが、
蒼真の胸にすっと染み込んだ。
(読めた……)
たった三つの単語。
でも、
蒼真にとっては大きな一歩だった。
***
「じゃあ、次はこれ」
友彦が差し出したのは、
短い英文だった。
The sun is blue.
蒼真は、
胸の奥がざわつくのを感じた。
(……無理かも)
でも、
友彦は急かさなかった。
「ゆっくりでいいよ。
“読む”じゃなくて、
“音を感じる”だけでいい」
蒼真は、
深呼吸をしてから、
ゆっくり声に出した。
「……ざ、さん、いず、ぶるー……?」
「うん。
いいね」
友彦は、
静かに笑った。
「意味は分からなくていい。
“読めた”っていう経験が大事なんだ」
蒼真は、
胸の奥がじんわり温かくなるのを感じた。
(読めた……)
意味は分からない。
でも、
読めた。
それだけで、
胸の奥のざわめきが少しだけ静かになった。
***
休憩時間。
蒼真は、
机に突っ伏して息を整えていた。
(疲れた……)
英語を読むだけで、
こんなに疲れるとは思わなかった。
そのとき、
隣から小さな声がした。
「蒼真くん、がんばってるね」
紗月だった。
「……見てたの?」
「うん。
なんか、
“怖いけど進んでる”って感じがした」
蒼真は、
胸の奥がふっと揺れるのを感じた。
(怖いけど……進んでる)
紗月は、
蒼真の心の中を
そのまま言葉にしたようだった。
「わたしね、
蒼真くんの英語の声、
好きだよ」
「えっ……?」
「なんか、
“がんばってる音”がするから」
蒼真は、
顔が熱くなるのを感じた。
(がんばってる音……)
そんなふうに言われたのは、
初めてだった。
***
帰り道。
空は薄いオレンジ色に染まっていた。
蒼真は、
胸の奥のざわめきを感じながら歩いた。
(英語……少しだけ、できるかもしれない)
まだ怖い。
まだ苦しい。
でも、
“できるかもしれない”という感覚が、
胸の奥に小さく灯っていた。
その灯りは、
冬の夕暮れの空よりも、
ずっと温かかった。