第6章 風の底を歩く
数日後の朝、陽子は目を覚ました瞬間、
胸のざわめきが、前よりも静かになっていることに気づいた。
(……あれ?)
完全に消えたわけではない。
でも、ざわめきの“音”が変わっていた。
前は、胸の奥で小さな波が立っているような、
落ち着かない揺れだった。
今は、
――風が草を撫でるみたいな、
やわらかい揺れ。
(なんか、歩けそう)
陽子は布団から起き上がり、制服に袖を通した。
***
朝食のテーブルには、
母が焼いたトーストの匂いが漂っていた。
「おはよう」
「おはよう、陽子」
母の声は、以前より少しだけ軽かった。
沈黙はまだあるけれど、
その沈黙の中に“呼吸”が戻っていた。
「今日、青の教室?」
「うん」
「……いってらっしゃい」
その言葉は、
昨日までより少しだけ温度が高かった。
陽子は、胸の奥がふわっと温かくなるのを感じた。
(ママも、歩いてるんだ)
***
青の教室へ向かう道。
春の風が、制服の袖を揺らす。
陽子は、胸のざわめきにそっと触れた。
(大丈夫。
このざわめきは、わたしの風)
そう思うと、
胸の奥がすっと軽くなった。
青の教室のドアを開けると、
先生がいつもの静かな笑顔で迎えてくれた。
「おはよう、陽子」
「おはようございます」
陽子は席に座り、
机の木目を指でなぞった。
(ここに来ると、風が整う)
そんな気がした。
***
授業が始まる前、
先生が陽子の席に近づいた。
「この前の話、よかったよ」
「……え?」
「胸のざわめきのこと。
ちゃんと感じて、ちゃんと話せた。
それって、すごく大事なことなんだ」
陽子は少し照れた。
「でも、まだざわざわします」
「うん。
ざわざわは、すぐには消えないよ。
でもね――」
先生は窓の外の風を見た。
「ざわざわを抱えたまま歩けるようになると、
それはもう“怖いざわざわ”じゃなくなる」
陽子は胸に手を当てた。
(……歩ける)
昨日の夜、母と話したとき、
胸のざわめきが“痛み”から“風”に変わった。
その風は、まだ名前がない。
でも、確かに自分の中を流れている。
「陽子は、もう歩き始めてるよ」
先生の言葉は、
春の光みたいに静かに胸に落ちた。
***
授業が終わり、
陽子はノートを閉じて立ち上がった。
外に出ると、
風が頬を撫でた。
(あ……この風、好きだな)
胸のざわめきが、
風と同じリズムで揺れる。
ざわざわは、まだある。
でも、それはもう“問題”ではなかった。
むしろ、
――自分が生きている証拠みたいに思えた。
陽子は、ゆっくり歩き出した。
風の底を、
自分の足で。
胸のざわめきを抱えたまま、
でも確かに前へ。
春の光が、
その背中をそっと押していた。