青の教室/陽子/風 5

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第5章 母と陽子の夜

その夜、陽子は夕食のあと、
 自分の部屋でしばらく机に向かっていた。

宿題をしているわけでもない。
 ただ、ノートを開いて、
 青の教室で書いた“春の光”の文章を眺めていた。

――午後の光が、机の上に落ちる時間。

その一行が、胸のざわめきを少しだけ整えてくれる。

(……話したいな)

ふいに、そんな気持ちが浮かんだ。

母の沈黙の奥にある影を、
 昨日の電話の声を、
 胸のざわめきの理由を。

全部じゃなくていい。
 少しだけでも、言葉にしてみたい。

陽子は、そっと部屋を出た。


***

リビングには、母がいた。
 テレビはついているけれど、
 母は画面を見ていない。

ただ、ぼんやりと、
 湯気の消えたマグカップを両手で包んでいた。

「……ママ」

陽子が声をかけると、
 母はゆっくり顔を上げた。

「どうしたの?」

その声は、いつもの静けさの中に、
 少しだけ疲れが混ざっていた。

陽子は、母の隣に座った。
 少し距離を空けて。
 でも、逃げない距離で。

「ねえ、ママ。
  昨日……電話してたよね」

母の肩が、ほんの少しだけ揺れた。

「聞こえてたの?」

「うん。
  ……謝ってた」

母は、マグカップを見つめたまま、
 しばらく何も言わなかった。

その沈黙は、昨日までの“壊れそうな沈黙”とは違った。
 どこか、言葉を探している沈黙だった。

「……仕事でね、ちょっと、うまくいってなくて」

母は、ゆっくり話し始めた。

「わたし、完璧じゃないのに、
  完璧に見せようとしてたのかもしれない。
  でも最近、それができなくなってきて……
  謝ることが増えちゃって」

陽子は、胸のざわめきが静かに揺れるのを感じた。

(ママも……ざわざわしてたんだ)

母は続けた。

「陽子には、強いところだけ見せたかったの。
  でも、昨日は……ちょっと、無理だった」

その言葉は、
 陽子の胸の奥に、そっと落ちた。

「ママ」

陽子は、勇気を出して言った。

「わたしもね、最近ずっと胸がざわざわしてたの。
  理由が分からなくて……
  でも、昨日のママの声聞いたら、
  なんか、胸がぎゅってなって」

母は驚いたように陽子を見た。

「……心配、させちゃったね」

「ううん。
  心配っていうより……
  なんか、ママの気持ちが、
  わたしの胸に入ってきたみたいで」

母は、少しだけ目を細めた。

「陽子、優しいね」

「優しいとかじゃなくて……
  勝手に、感じちゃっただけ」

陽子は照れくさくて、視線を落とした。

母は、ゆっくり息を吐いた。

「わたしね、陽子に弱いところ見せたら、
  嫌われるんじゃないかって思ってた」

「えっ、なんで?」

「だって、親なんだから、
  ちゃんとしてなきゃって思ってたから」

陽子は首を振った。

「ママが弱いところ見せても、
  わたし、嫌いにならないよ。
  むしろ……
  なんか、ちょっと安心する」

「安心?」

「うん。
  ママも人間なんだって思えるから」

母は、ふっと笑った。
 その笑顔は、久しぶりに見る“本物の笑顔”だった。

「ありがとう、陽子」

「……うん」

二人の間に、
 やわらかい風が通った気がした。

沈黙はまだある。
 影もまだある。

でも、その影の形が、
 少しだけ変わった。

母の影と陽子の影が、
 重なるのではなく、
 並んで立っているような感覚。

陽子は胸に手を当てた。

ざわめきはまだある。
 でも、それはもう痛みではなく、
 “風の底の音”のように思えた。


***

その夜、陽子は布団に入ると、
 胸のざわめきが静かに揺れた。

(大丈夫。
  わたしも、ママも、ちゃんと風の中にいる)

そう思うと、
 胸の奥がじんわり温かくなった。

春の風が、
 窓の外でそっと鳴っていた。

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