第3章 母の沈黙の理由
家の前まで来ると、陽子は一度だけ深呼吸をした。
青の教室の帰り道で軽くなった胸のざわめきが、
家の玄関を前にすると、また少しだけ形を変える。
(ただいまって言うだけなのに)
でも、家の空気は学校とも青の教室とも違う。
そこには、母の沈黙がある。
陽子は玄関のドアを開けた。
「ただいま」
声は思ったより普通に出た。
「おかえり」
母の声も、いつも通りだった。
けれど、その“いつも通り”が、今日はどこか薄い。
まるで、母の声の奥にある何かが、
少しだけ欠けているような。
***
夕食の時間。
テーブルには、母の作った煮物と味噌汁が並んでいる。
「いただきます」
二人の声が重なる。
それだけで、家の中に小さな音が生まれる。
けれど、そこから先が続かない。
母は黙々と食べている。
陽子も、箸を動かしながら、
母の横顔をちらりと見る。
(なんか……疲れてる?)
母の目の下に、薄い影があった。
いつもは気づかないような小さな影。
「今日、仕事どうだったの?」
陽子は勇気を出して聞いてみた。
母は一瞬だけ箸を止めた。
「……まあ、いろいろね」
それだけ。
笑顔もつけない。
説明もしない。
でも、その“いろいろ”の中に、
母の心の重さがぎゅっと詰まっている気がした。
(いろいろって、どんな“いろいろ”?)
聞きたいけれど、聞けない。
母の沈黙は、触れると壊れてしまいそうなガラスみたいだ。
***
夕食のあと、陽子は自分の部屋に戻った。
机に向かっても、胸のざわめきが落ち着かない。
(なんか、今日のママ……変だった)
怒っているわけじゃない。
冷たいわけでもない。
ただ、母の沈黙の奥に、
“言えない何か”が渦を巻いているような気がした。
陽子はベッドに寝転び、天井を見つめた。
(わたし、何かした?)
そう思うと、胸のざわめきが少しだけ重くなる。
でも、青の教室で書いた“春の光”の言葉が、
ふっと胸の中に浮かんだ。
――午後の光が、机の上に落ちる時間。
その言葉を思い出すと、
ざわめきが少しだけ柔らかくなる。
(大丈夫、大丈夫……)
自分に言い聞かせるように、
陽子は目を閉じた。
***
その夜。
陽子は、廊下を通りかかったとき、
母の部屋から小さな声が聞こえた。
電話の声だ。
「……はい、すみません。
ええ、わかっています。
でも、今の状況では……」
母の声は、昼間よりずっと弱かった。
「……はい。
はい……すみません」
“すみません”を繰り返す母の声が、
陽子の胸に静かに落ちていく。
(ママ……)
母が誰に謝っているのか、
何に追い詰められているのか、
陽子には分からない。
でも、母の沈黙の奥にある影が、
今日の母の疲れた横顔とつながっていく。
陽子は、そっと自分の胸に手を当てた。
胸のざわめきが、
母の影と同じリズムで揺れている気がした。
(ママも……ざわざわしてるのかな)
そう思った瞬間、
陽子の胸のざわめきは、
少しだけ“痛み”に近づいた。
でも、その痛みは、
どこか温かかった。
まるで、
母と同じ風の中に立っているような気がしたから。