第2章 青の教室の午後
青の教室の午後は、いつも少しだけ時間の流れが違う。
学校のチャイムのようにきっちりしていないし、
家のように生活の音が混ざっているわけでもない。
もっと、こう……
春の川の流れみたいに、ゆるやかで、
気づくと自分の心が少し軽くなっているような、そんな場所。
陽子は席に座ると、机の木目を指でなぞった。
この机の感触が好きだった。
つるつるでもなく、ざらざらでもなく、
ちょうどいい“呼吸”がある。
(なんか、落ち着く)
胸のざわめきは、まだ完全には消えていない。
けれど、ここにいると、ざわめきが“音”にならずに済む。
先生がホワイトボードに文字を書き始める。
その背中の動きが、妙に静かで、陽子は少し笑いそうになった。
(先生って、なんであんなに静かに動けるんだろ)
青の教室の先生は、怒鳴らない。
急かさない。
必要以上に褒めもしない。
ただ、そこにいて、
陽子たちの“揺れ”を見逃さない。
今日も、陽子の胸の奥のふわふわに気づいたのか、
先生は一瞬だけ目を合わせ、
「大丈夫だよ」というように、ほんの少しだけ目尻をゆるめた。
それだけで、陽子の胸のざわめきは、
春の風に溶けるみたいに薄くなった。
***
授業が始まると、教室の空気がゆっくり動き出す。
「じゃあ、今日は“自分の好きな時間”について書いてみようか」
先生の声は、午後の光みたいに柔らかい。
陽子はペンを持ち、ノートを開いた。
(好きな時間……)
すぐには思いつかない。
でも、焦りはなかった。
青の教室では、答えを急がなくていい。
隣の席の美咲が、こっそり陽子のノートを覗き込んでくる。
「陽子、書けた?」
「まだ」
「わたしも。なんか眠い」
美咲はあくびをしながら笑った。
その笑顔が、陽子の胸のざわめきをさらに軽くする。
(あ、こういうの、好きかも)
“好きな時間”はまだ書けないけれど、
“好きな空気”なら、今ここにある。
陽子は、ノートにゆっくりと書き始めた。
――午後の光が、机の上に落ちる時間。
書いてみると、それは思ったよりもきれいな言葉になった。
(あ、なんかいいかも)
胸のざわめきが、少しだけ形を変える。
不安のざわめきではなく、
“何かが動き出す前のざわめき”に近い。
***
授業が終わるころ、
陽子は自分のノートを見返して、少しだけ誇らしい気持ちになった。
「いいね、その表現」
先生が陽子のノートを見て言った。
「午後の光って、季節によって色が違うんだよ。
陽子が書いたのは、たぶん“春の光”だね」
「春の……光」
陽子はつぶやいた。
胸の奥のざわめきが、
その言葉にそっと触れた気がした。
(春の光……そうか。今日のふわふわって、春のせいなのかな)
そう思うと、胸のざわめきが少しだけ愛おしくなった。
***
帰り道、陽子は空を見上げた。
薄い雲が、ゆっくり流れている。
風は冷たいけれど、どこか甘い。
(なんか、今日の空、きれいだな)
胸のざわめきは、まだ残っている。
でも、それはもう“嫌なざわめき”ではなかった。
むしろ、
――これから何かが変わるかもしれない。
そんな予感のように思えた。
陽子は、少しだけ早足になった。
家に帰れば、母がいる。
その母の沈黙の奥に、
陽子はまだ気づいていない“影”がある。
でも今は、春の風が背中を押してくれていた。