第1章 風の底のざわめき
陽子は、その朝、なぜか胸の奥がふわふわしていた。
重い、というより、
――ちょっとだけ浮いている。
そんな、不思議な感覚だった。
「なんだろ、これ」
布団の中でつぶやくと、天井の白がやわらかく揺れたように見えた。
昨日の夜は特に何もなかった。
母と衝突したわけでもない。
怒られたわけでもない。
なのに、胸の奥がそわそわしている。
(春のせいかな)
そう思うと、少しだけ気が楽になった。
三月の空気は、まだ冷たいのに、どこか甘い。
風の底に、見えない花粉みたいな気配が漂っている。
陽子は布団から起き上がり、制服に袖を通した。
青の教室へ行く日だ。
いつもなら、少しだけ背筋が伸びる朝。
今日は――なんだか、胸の奥のざわめきが先に立つ。
***
「おはよう」
キッチンに入ると、母がコーヒーを飲んでいた。
湯気が細く立ちのぼり、母の横顔をやわらかく包んでいる。
「おはよう」
陽子も返す。
母は、いつもの静かな声で言った。
「今日は暖かくなるみたいよ。上着、薄いのでいいかもね」
それだけ。
怒ってもいないし、急所を刺すような言葉もない。
なのに、陽子は胸のざわめきが少し強くなるのを感じた。
(なんでだろ)
母の静けさが、今日はやけに遠く感じる。
まるで、母の心の奥に“別の風”が吹いているような。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
短い会話。
でも、陽子はその背中に、言葉にならない“重さ”を感じた。
***
外に出ると、風がやわらかかった。
春の手前の、まだ透明な風。
歩きながら、陽子は胸のざわめきの正体を探した。
(不安……なのかな)
でも、怖いわけじゃない。
むしろ、何かが始まる前の、あの独特の空気に似ている。
入学式の前日とか、
新しい靴を初めて履く朝とか、
知らない道を歩くときの、あの感じ。
(なんか、変だな)
青の教室の看板が見えてくる。
その瞬間、胸のざわめきがふっと軽くなった。
まるで、風が陽子の背中を押したみたいに。
***
教室のドアを開けると、
いつもの空気が、そこにあった。
静かで、明るくて、
どこか懐かしい匂いのする空間。
先生が、陽子に気づいて軽く会釈する。
その仕草が、胸のざわめきをさらに薄くした。
(あ、なんか……大丈夫かも)
陽子は席に座り、深呼吸をした。
胸の奥のふわふわは、まだ残っている。
でも、それはもう不安ではなく、
“風の底にある何か”のように思えた。
今日の陽子は、まだ知らない。
このざわめきが、
母の沈黙の奥にある影とつながっていることを。
ただ、春の風の中で、
自分の輪郭が少しずつ変わり始めていることだけは、
なんとなく感じていた。