青の教室/陽子  第1話(3月10日) ――影の痛みは、静かに腫れる――

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第1話(3月10日)
――影の痛みは、静かに腫れる――

陽子は、朝から胸の奥がずっと重かった。
 重い、といっても、泣き出したくなるような痛みではない。
 もっと、こう……足首をひねった翌日の、じんわりした腫れのような。
 触れられると痛いのに、外からはほとんど分からない、あの感じ。

「今日は……行けない」

布団の中で、陽子は小さくつぶやいた。
 青の教室に行く日は、いつもなら目覚ましが鳴る前に起きてしまうのに。
 今日は、身体が布団に沈んだまま動かない。

理由は分かっている。
 昨夜の母との衝突だ。


***

「なんであなたは、言われたことができないの」
「どうして、そんなにだらしないの」
「中2になるんでしょう。自覚を持ちなさい」

母の声は、怒鳴り声ではない。
 むしろ静かで、冷たくて、正確に急所を刺してくる。
 陽子は、あの声がいちばん苦手だった。

怒鳴られる方がまだいい。
 怒鳴り声は、外側に向かって爆発しているだけだから。
 でも母の声は、陽子の内側に入り込んで、
 「あなたはダメ」
 と、静かに刻みつけてくる。

陽子は、母の言葉を跳ね返す力をまだ持っていない。
 思春期の自我が芽を出し始めているのに、
 その芽は、母の影に押しつぶされそうになっている。

昨夜もそうだった。

「青の教室に行ってるからって、勉強した気にならないでよ」

その一言が、陽子の胸に深く刺さった。

青の教室は、陽子にとって唯一、呼吸ができる場所だ。
 友彦の声、あの静かな空気、
 そして、のびのびと自分のペースで勉強している佐伯あおいと中村りょうの姿。
 あそこにいると、陽子は「自分でいていい」と思える。

でも母は、その価値を理解しない。
 理解しようともしない。

「……行きたくない」

陽子は布団の中で、もう一度つぶやいた。


***

あおいとりょうは、今日は府立高校の入試だ。
 青の教室は、いつもより静かだろう。
 友彦は、きっと二人の健闘を祈りながら、
 いつも通りの穏やかな空気を保っているはずだ。

陽子は、ふと想像した。
 もし今日、青の教室に行ったら、
 友彦はどんな顔をするだろう。

――陽子、今日はしんどいんだね。

そんなふうに、言葉にしなくても分かってくれる気がする。
 友彦は、陽子の“影”の存在を知っている。
 それを無理に消そうとしない。
 ただ、陽子が自分で扱えるようになるまで、
 そばにいてくれる。

でも今日は、その優しさに触れるのがつらかった。
 優しさに触れると、
 自分の弱さがいっそう浮き彫りになる気がして。

「今日は……休もう」

陽子は、布団から出ずに決めた。


***

昼過ぎ。
 母は仕事に出ていて、家には陽子ひとり。
 静かすぎるリビングで、陽子はソファに座り、
 スマホを握ったまま動けなかった。

青の教室のグループLINEには、
 あおいとりょうの「行ってきます!」のスタンプが並んでいる。
 二人とも、ここ一年で見違えるほど変わった。

佐伯あおい。
 もともと明るいが、どこか自信がなかった。
 でも青の教室で「自分勉強」を続けるうちに、
 自分の根源を見つけ、
 成績も心も、ぐんと伸びた。

中村りょう。
 無口で、何を考えているか分からないタイプだったが、
 青の教室での時間が、彼の内側をゆっくり開いた。
 自分のペースを守りながら、
 驚くほどの集中力で勉強を積み重ね、
 今では府立トップ校を狙えるほどになった。

二人は、青の教室でよく昼寝をする。
 タイマーをセットして、机に突っ伏して寝る。
 散歩にも行くし、ゲームもする。
 でも、すべてが“自分の管理”の中にある。

陽子は、そんな二人に憧れていた。
 自分も、あんなふうに自由で、
 自分の根源に触れられるようになりたい。

でも――
 母の影が、陽子の行動を止める。

「どうせ、あなたには無理よ」

母の声が、頭の中で響く。

陽子は、スマホをぎゅっと握りしめた。


***

午後3時。
 友彦から、短いメッセージが届いた。

――陽子、今日はお休みだね。
――また明日、待ってるよ。

それだけ。
 責める言葉も、理由を聞く言葉もない。

陽子は、胸の奥がじんわり熱くなるのを感じた。
 涙が出るほどではない。
 でも、腫れた足首にそっと手を当てられたような、
 そんな温かさ。

「……明日、行けるかな」

陽子は、つぶやいた。
 答えはまだ出ない。
 でも、明日弟の陽斗が体験に来ることを思い出した。

陽斗は、小学2年生。
 明るくて、素直で、まだ“影”に触れていない。
 陽斗の友だちの水野ひかりは、さらに明るい。
 家庭も自由で、きらきらしている。

陽斗はひかりといると、よく笑う。
 その笑顔を見ると、陽子は少しだけ救われる。

――陽斗が来るなら、行った方がいいのかな。

陽子は、ソファに沈みながら、
 ゆっくりと目を閉じた。

明日、青の教室に行くかどうかは、
 明日の陽子が決めればいい。

今日は、ただ休む。
 影が腫れている日は、
 無理に歩かなくていい。

陽子は、そう思いながら、
 静かな午後の中で、
 自分の呼吸を確かめるように過ごした。


***

夕方、母が帰ってきた。
 玄関の音がした瞬間、
 陽子の身体はびくっと固まった。

影は、まだそこにある。
 でも、今日はもう戦わない。

陽子は、そっと自分の部屋に戻り、
 ドアを閉めた。

明日は、青の教室がある。
 友彦がいる。
 あおいとりょうは明日も入試でいないけれど、
 陽斗とひかりが来る。

陽子の影は、まだ腫れている。
 でも、青の教室の空気が、
 その腫れを少しだけ引かせてくれるかもしれない。

そんな予感を、
 陽子は胸の奥に、ほんの少しだけ抱いた。

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