さわ子が初めてリバティの教室に来たのは、小学六年の春だった。
友だちのよしみに誘われて、少し緊張した顔でドアを開けた。
そのときのさわ子は、まだ自分の力を信じきれずにいた。
算数が苦手だった。
特に分数。
教わっても教わっても、翌日には手の中からこぼれ落ちていく。
「わかったつもり」が、いつも裏切る。
ノートの上で数字が踊り、線がゆがみ、答えは遠ざかる。
でも、さわ子は不思議とくじけなかった。
悔しさはあった。
涙がにじむ夜もあった。
それでも、机に向かう背中は折れなかった。
木村センセは、そんなさわ子を急かさなかった。
「今日はここだけやってみよか」
そう言って、たった一問を示す日もあった。
その一問が、さわ子にとっては大きな山だった。
けれど、登れた。
時間はかかったけれど、登れた。
その小さな成功が、さわ子の胸の奥に静かに積み重なっていった。
中学三年の秋。
受験の空気が学校中に満ち始めたころ、
さわ子は自分の進路を決めた。
「私、保育コースに行きたいねん」
その声は、驚くほどまっすぐだった。
誰かに言わされているのではなく、
自分の中から自然に湧き上がってきた言葉だった。
将来の夢ができた。
その瞬間から、さわ子のお勉強は変わった。
相変わらず、できない日はある。
分数でつまずくこともある。
英語の単語が覚えられず、ため息をつく夜もある。
でも、机に向かう姿勢が違った。
ノートの文字が変わった。
線がまっすぐになり、書き直しの跡が増え、
ページの端がすり減るほど練習した。
「保育コースは安全圏やな」
木村センセはそう言った。
その言葉は、ただの合格可能性の話ではなかった。
“さわ子は自分の未来をつかみに行ける子や”
という信頼の響きがあった。
さわ子は、その信頼を胸の奥でそっと抱きしめた。
冬のある日、リバティの教室で、
さわ子は分数のプリントを前にしていた。
昔なら、見ただけで心が折れそうになった問題だ。
でも今は違う。
「……できるまでやる」
小さくつぶやいて、鉛筆を走らせた。
間違えた。
消した。
また間違えた。
また消した。
それでも、手は止まらなかった。
やがて、正しい答えがノートに浮かび上がった。
その瞬間、さわ子は静かに笑った。
誰に見せるでもない、
自分だけが知っている、小さな勝利の笑顔だった。
その笑顔には、
小学六年の頃にはなかった“根っこ”があった。
自分で立つ力。
自分で選ぶ力。
自分で未来をつかみに行く力。
それらが、ゆっくりと、確かに育っていた。
受験まであと少し。
不安はある。
緊張もある。
でも、さわ子はもう逃げない。
自分の未来を、
自分の手でつくり始めたからだ。
その未来の最初の一歩が、
リバティの机の上で、今日も静かに刻まれている。